本日の写真です。

 私の住む愛知県には、知多新四国八十八ヶ所霊場が存在するため、私の四国遍路についても四国まで行かなくとも知多のお遍路でも信心は一緒ではないかと知人から言われます。

「知多でも一緒なんだから知多にしたら」
       「お遍路は四国だけなんだけど…」
「知多でもお遍路だろう」
       「四国以外はお遍路とは言わないし…」
「テレビで知多もお遍路で歩いているぞ」
       「知多は弘法大師の聖跡ではないし…」
「知多にも弘法大師は来ているぞ」

 挙句には「あんたも愛知県の人間だから知多を廻ったら」とまで言われる始末で、弘法大師が知多半島や愛知県に来たという事実が何もないのに、最近はテレビでも知多半島に弘法大師が来ていたような報道まで存在します。

 四国遍路と西国巡礼、伊勢参り、金比羅参りと記された朝日新聞の記事に、四国遍路についての判りやすい報道があり、ネット上に公開されているものの、時間が経過すると検索できなくため、自分自身の記録のためにも転載しました。著作権なんて言わないで下さいね(笑)

ここからは朝日新聞デジタルからの転載記事です。

「四国遍礼道指南増補大成」

しこく遍路考

 江戸時代は、旅の時代です。「徳川の平和」「泰平(たいへい)の世」と呼ばれる時代に、街道が整備され、参勤交代を行う武士だけでなく、許可を得て多くの庶民が旅に出ました。藩が国であった時代、旅に出る時はパスポートである往来手形が必要でした。庄屋や檀那寺(だんなでら)が身元を保証し、全国の関所や村役人に向けて、関所の通行要請や死亡した場合の取り扱いなどを書きました。

 旅の隆盛とともに、西国巡礼や伊勢参り、金毘羅参りなど様々な案内記が発行され、人々を誘いました。四国遍路初めての案内記は、貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』です。重版を重ね、書名の漢字も僧侶の修行であった「辺地修行」につながる「辺路」から、弘法大師聖跡の巡礼を表す「徧礼(へんろ)」「遍路」に変わっていきます。大坂の荒野聖・真念は、出版動機を「弘法大師850年忌にあたり老若男女の初心者も四国遍路できるように」と記し、歩きやすい道を選んで紹介しました。自身も200基以上の道標を建て、遍路宿を整備して、四国遍路興隆に寄与しました。

 その後元禄2年(1689)、高野山の学僧・寂本の『四国徧礼霊場記』、同3年の真念『四国徧礼功徳記』が刊行され、同4年には歌舞伎『四国辺路』が京都で上演されており、畿内で四国遍路ブームが興っていました。

 四国遍路に来た人々の日記も残っています。現在確認されている江戸時代の遍路日記は51点で、多くは地名・距離・難所が記された単調なものですが、筆者が福岡県立図書館で発見した佐治家の「四国日記」は、最も記述内容が豊かな日記です。

 津屋崎村(福岡県福津市)の豪商佐治家一行は、7人連れで弘化2年(1845)2月22日に出発。小倉や萩、岩国の城下町、宮島を見物しながら、船で三津浜に上陸します。太山寺を打ち初めに四国を北上、55日で一周します。四国に入ると初日から登場するのが接待です。

 集計すると、最も多いのは、香物(漬物)21件と赤飯18件です。続いて、髪結い7件、銭5件、唐豆類5件、煮しめ4件、餅2件、わらじ2件があり、白飯・焼米・ひきわり飯・弁当・はったい粉・トウキビ・薬・茶・豆腐・吸い物が各1件記されています。旅に必要な、自分にできる接待を行っていることが分かります。

 接待主の名前も記されており、他村や他国からも接待に来ていることが分かります。伊予で13件、讃岐で25件(うち備中9件、備前1件)、阿波で11件ある一方で、土佐は0件となっています。藩から接待禁止令が出ていたためです。

 遍路日記は、その時代の巡礼や社会の姿を伝えてくれます。江戸時代から続く接待は、重要な四国の文化なのです。(愛媛大学「四国遍路・世界の巡礼研究センター」センター長・胡光)

                                             朝日新聞の転載です。


 さて、新型コロナの感染拡大がなければ、1月と2月のお遍路で13回目の満願になっていましたが、来月と4月の巡拝で結願を目指すことになります。
 私自身は納経帖の朱印や巡拝回数を増やすことよりも、弘法大師(空海)が今から1200年前に修行した聖跡で、弘法大師と同じ真言を唱えることによる霊響に期待しており、自分の背後から弘法大師の声が共鳴することは非科学的ですがそんな意識で読経しています。

                                 2月23日の一言