大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

2007年01月

道路の足元には先祖の土が…

 本日の朝刊を開くと、2月のカレンダーが折り込まれていた。「えっ、もう1ヶ月経ってしまったのか」と月日の経過にびっくりさせられた。
 自宅前では下水道の本管を埋め込むために、昨日から道路を片側に規制して重機が歩道を掘り起こしているが、老朽化した我家には土台から揺れ動くような振動が伝わってくる。特に本日は爆音と揺れが強く、早朝3時起きのために仮眠を予定していたが、ボランティアのTさんが早朝より会報の折り込み作業中のため、そのまま仕事の終日となったのである。

 「おい、ここの出入り口は狭いからブロックを外したってくれ!」、「勝手には出来ませんょ」、「じゃー、俺から市役所に言っておくから」というようなやりとりで、昨日事務所を訪れた市民の方が市役所に直接交渉したらしく、本日の工事のついでに事務所前の歩道のブロックを1つ取り除いていた。
 工事の責任者から顛末を聞き、議員顔負けの交渉にびっくりするとともに、私自身は何も依頼していないのに、私の名前を出して交渉を済ませた事と、見方によっては私が市民に言わせたようで、座り心地の悪い一日となったのでもあった。
 来客が勝手に狭いと発した言葉ではあるが、道路に面して生活している当方には、本音では車道と歩道を区切るブロックは広めて欲しくはないのである。過去には数人の方がこの道路で命を落とし、我家の猫たちはほとんどが自宅前で轢かれて、最近では猫も飼えない月日をおくっている。ただし、我家の事を思って発せられた言葉だけに、本音は封印しておくのであるが…

 さて、本日の振動と音がすさまじかったのは、40数年前に我家の裏に新しく道路が造られた際のコンクリートの土留めを削岩するためであったようだ。記憶をたどると新しい道路は、我家を除いてすべて田んぼを埋め立てており、我家の裏だけが大きな側溝を築いてあったようでもある。
 そうして眺めていると、掘り起こしている土は、道路の建設にともない道路の下敷きにされた我家の裏庭の土ではないか。忙しく働く人々や重機の迫力によって、シゲシゲと眺める事はできないが、この土の上で我家の先祖たちが生活していたと考えると、大音響と振動が過去からの叫び声のようにも聞こえ、そんな想いも関係なく進められる工事に一抹の淋しさも感じられた。
                                 1月31日の一言

アンケートの返信第一陣が届く

 会報が完成し、配布だけが当面の仕事となり、同時に配布中のアンケートも第一陣の9通が返信されてきた。これからは、配布だけでなく、事務所で郵便物を受け取る留守番も必要になり、中身によっては行政へ走っていく事も必要になる。
 さて、返信の初日であるから今後の結果待ちではあるが、アンケートの中身に間違いがあり、市役所の窓口対応の良し悪しを問う欄に、「悪い」の項目を入れ忘れたのであった。「悪い」の項目があれば、多い事は承知であり、別個に悪い具体例を聞く設問まで設けてあるが、今回のアンケートでは、より具体的な変化を求めて、「良くなった」とか「分からない」と同時に、「行かないから分からない」の項目を増やして、現場を見ない人が「悪い」を選択しないための選択を設定した事から、一番肝心な「悪い」を忘れたのでもあった。
 実際に、窓口の対応が民間のサービス業のようにはいかなくとも、私が議員になって8年間だけを見た場合、明らかに市役所の窓口対応は良くなっており、過去との比較だけでは「悪くなった」とは思えない事から、より細かな中身を求めたアンケートでもある。
 そして、やはり第一陣の9通の中に、「市役所に行かないから分からない」が2通存在した。個人的に対応が悪く、市役所は何でも悪いと言う人は別にして、「悪い」の項目を入れ忘れた事から、過去2回の結果とは違う反応もありそうでもある。
 一方で、「一軒ずつ声をかけて廻らなければ意味が無い」と言って訪れた人があった。「そんな事をやっても一票にもならない」と、留守番の家族を説教して帰られた人があったのである。熱心にご支持いただく方だけに、他の動きが気になってしようがないと思われるが、聞いた家族も心配になってくる。午後になって訪問された方に顛末を話すと「それは大鹿さんらしくないよ」と言われる。
 会報を多く配布し、一軒でも多くの訪問ができれば最高だが、一人の行動には限界があり、前回の選挙でも戸別訪問はできなかったのである。もっとも戸別訪問が選挙違反との認識も皆無の忠告であり、政治活動の評価よりも「お願いします」の訪問が重要とされる現実を聞かされた一日となった。
                                  1月30日の一言

電話も体も待機中

 「ちょっと寄りたいと思っているけど、都合はどうですかー?」、「いつでも良いですよ」、「だって忙しいだろうー?」、「だから、今日は何時でも良いですよ」、「本当かねー」、「ハイ、ハイ」、「じゃー、今からでも良いかねー?」の会話の後15分後に訪問を受けた。
 忙しいと言っても、地方議員であり、小さな津島市の中に居るので、公的行事意外は当日であっても何とか調整は可能である。
 「その節はありがとう」、「えっ?何でしたか」と一瞬考えたが、「いや、いや、こちらこそお世話になった方で」と、11月に参加された旅行会の話と思っていると、半年前に依頼された地域の問題が解決した事の報告であった。
 正直な話が、いつも会っている人から受けた過去の依頼は忘れてしまっているのである。しかも、依頼を受けても総てが解決する訳ではなく、そのままになっている事案も多いのである。

 さて、どんな依頼であっても、受けた依頼は関係する行政や施設などに連絡済みにはなっているが、明日の生活に関わる深刻な問題以外は、そのままになっている事も多く、行政などは予算の関係もあり、遅れに遅れて忘れた頃に実現する事も多く、通りかかったら改善されていた案件も少なくない。
 一方では、真剣な依頼があり、一生懸命努力して結果が出ていても報告もないままに、翌年の町内会でさも事務的に改善されたような報告もあり、時には町内役員の努力で達成したかのような報告も耳にする事もある。
 地方議員であっても、無い知恵を絞って考えた政治力もある。「どういう仕組みでどこに頼めば出来るのか?」と問われる町内会長もある。「10年かかっても出来ない事が、こんな簡単に出来るから。今後のために教えてくれ」と言われ、「それは政治秘密です」と答えた事もある。
 
 何の変化もなく改善も進んでいない事でも、当方が忘れてしまっているような案件でも、担当する行政は動いており、依頼した本人はなおさら忘れていない事を今回の訪問によって実感させられた。改めて届けられた手紙を見直し、記録を確認する一日となった。
                                   1月29日の一言

一夜にして風邪で絶不調に

 「最近は風邪を引かないんだ、かかった記憶が無いナ」と、数日前に訪れた奈良の薬屋に豪語していたが、早朝の一瞬の油断から風邪の仲間入りである。
 前日に「二兎を選べず」の心境を記していたが、連日の昼夜の区別がない生活の中で、疲労が蓄積していたのは確実で、仮眠のつもりでコタツに入っていたが、暑さから体が外にはみ出しており、気がついた時には「ちょっとヤバイかな?」という状態であった。
 おまけに、本日は横井庄一記念館の留守番のために、『身だしなみ』として頭を洗いシャンプーをしたのが油に火を注ぎ、記念館到着直後から鼻水が滴り始めたのである。これが我家なら、薬を飲んだり横になる事も可能だが、ひたすら閉館時間の午後5時まで耐えていたのであった。

 「どうして行かなかったのッ」とは、帰宅直後の家内の厳しい一言である。落語家の『浪漫亭砂九』さんを偲ぶ会に行かなかった、と言うよりも、元々、「行けないと思う」と伝えたスケジュールの中で、行く気力すら湧かないどころか、自宅へ帰る事が限界の体調でもあったのである。

 さて、絶不調であっても明日からは2ヶ月ぶりの3時起きが始まる。とにかく完成した会報を1ヶ月で1万5千世帯へ届けるには、早朝の配布は欠かせない。「朝は人もいないから、昼間に声をかけながら配布した方が良い」との応援団の声もあるが、声をかける事は選挙の事前運動でしかなく、そんな配布では選挙には有効であっても1万5千の家々に会報は届かない。

 「そんな体で大丈夫?」とは今晩最後の家内の一言である。考えてみれば、8年前までは体調に関係なく早朝の仕事を生業にしていたのである。「いつ配布しても良い」との無責任な甘えが、会報の発行を遅らせてきたのでもあり気分を切り替えて会報配布に専念したい。そんな訳で、急いで就寝するため、この席を暫し(と言っても朝までだが)留守にしたい。
                                  1月29日の一言

知事選の名を借りた4月の事前運動

 遅れにおくれた会報が完成した。本日早朝(深夜)の事であるが、予定より1ヶ月遅れた発行となり、早速ボランティアのWさんが配布に出向いてくれた。
 明日は横井庄一記念館の一日となるが、昼には昨年亡くなった落語家『浪漫亭砂九』さんを偲ぶ会の誘いも受けており、途中で抜け出す予定を立てていたところ、「明日は〇田さんの法要に出掛けたいから、少し早く出てきてね」との連絡が館長である横井夫人より入ってきた。
 さて、さて… どうしましょうか?
 明日はもう一人のボランティアも一緒ではあるが、訪問者から親族の事や過去の旧い質問を受けると身内しか判らない事も多く、横井庄一の幼少期については館長でも「それは大鹿さんに…」となっていたのである。ましてや、ボランティア一人の留守番は過去にない事でもある。こうなると成るように成るとの開き直りしかないが、こういった優柔不断なところが自分の欠点でもある。

 4年前のこの時期は、県知事選挙立候補者の応援で、渥美半島や三河地方の掲示板にポスターを張り続けていた。今回は個人的には多少の縁があり応援したい人はあるが、対立候補の関係者に、かすかな縁でも『親戚まわり』となる有力県議がある事から、静かな日々を送っている。
 選挙期間中である事が信じられない日々を送っていたが、「県知事には〇×候補者をよろしく」との電話が本日入ってきた。素直に「頑張って下さい」と言おうとすると、「4月の市議会議員選挙には×〇候補者をよろしくお願いします」との言葉が続いたのである。県知事候補者のPRより詳しく長いPRでもあった。

 これでは県知事選挙を利用した4月の市議会議員選挙の事前運動ではないか。ましてや、家族宛てとは言え、現職議員の家に対立する市議会議員の名前を売り込んでいるのである。こんな汚い選挙は腹立たしいかぎりでもあるし、そのまま得票になる筈であった我家の7票は、完全に相手候補者に流れていく事は必死となったのである。
 県知事とは言え、地元出身の候補者には地縁血縁があり、息子には出身大学から連絡があり、家族の勤める企業からの連絡もあり、やみくもな電話は逆効果にもなる。ただし、思いもしないところから4月に向けた選挙活動が露呈し、「選挙は汚い」と言われる市民感覚を実感させられたのである。
                                  1月27日の一言
 
 

文化会館に走り、少し元気に…

 3月11日(日)に、津島市の文化会館を借りて『人にやさしい街づくり地域セミナー』を開催予定であるが、すべてが私の頭の中と、資料も私のカバンの中に眠っているため、私が事故や病気で入院ともなると大変な事態が予測される事となる。

 鳴り響く携帯電話の相手を見ると『文化会館』とある。一週間前にホール貸し出しの正式契約の依頼を受け、館長に「さっそく月曜日にでもッ」と気持ちよい返事はしたものの、本日はすでに週末になっているのてあった。
 「申し訳ない」と走ったが、最初に話をしたのが昨年の11月だったため、詳細については忘れてしまっており、市役所や社会福祉協議会に確認の電話を入れる事となった。幸いにして、間違いなく書類や予約は済ませてあり、津島市の広報紙への掲載も原稿は渡っており一安心であったが、考えてみるとあと1ヶ月しかないのである。
 案内広告の概要は印刷所に送り、当日のコーディネーターとも来週打ち合わせの予定であるが、企画そのものは私の個人的な想いで進めているものの、あくまで主催者は愛知県であり、当日も私一人では実施できない事から、関係者の打ち合わせも必要となってくる。それよりも講師を依頼した大学教授やパネラーの方々には、すでに心配をかけているのかもしれない。

 今までに『朝日旅行友の会』や、『水郷釣り大会』など、多種多様な行事の企画に関わってきたつもりだったが、個人的な責任で済まされる企画は身勝手も許されるが、公的な行事は久しく関わっておらず、15年ほど前のPTA役員当時の煩わしさを思い出してきた。
 「来たい人が来れば良い」ではなく、「より多くの人に参加してもらいたい」との想いで企画すると、議員生活ですべてお膳立ての整った行事に参加している最近の自分との大きなギャップを感じずにはいられない。

 さて、訪問した文化会館も、昨年から民間の指定管理者が運営しており、一部の市民からは批判の声も耳にしているが、館長を務めるKさんは民間人であり、私とはPTA会長時代の仲間と言うよりも『大先輩』にあたり、いきなり文化会館の有効活用について熱心な議論が始まる事から、私は指定管理者の効果はあるものと確信するとともに、活用させていく議員の責任も痛感した。久々の再会で「みんな頑張っているんだ」とのエネルギーをもらった訪問となった。
                                  1月26日の一言

仕事の新発見も、自己反省が先の話

 一昨日より、本業の会報とアンケートの完成を目指して、昼夜の関係なく原稿を書き、終わった順に印刷し、印刷中に原稿を書く繰り返しで時間が経過している。
 こうなると朝も夜も関係なく、風呂に入っていても体臭が漂ってくる。印刷機も10年以上経過した年代物だけに、悲鳴をあげて回り続けており、私のわずかな睡眠時間と食事、そして来客の時間のみが休憩となる。
 「原理が簡単なので、まだ、しばらくは大丈夫」とメーカーの担当者は言うが、営業の担当者からは複数の熱いエールが送られてくる。現在まで印刷した総枚数は130万9748枚で、この記録がどこまで伸びるのか、心細いが我家の家計に響くのでいたわって寿命を延ばしたい。

 昨年秋まではパソコンに頼らずとも、3台のワープロの連携でもしのいでこれたが、3台ともそれぞれが故障持ちとなり、パソコンへ移行途中であるが、どうしてもワープロが捨てがたい。
 しかし、パソコンとワープロの併用も結構都合の良い事に気がついた。昨日は、我家に先々代から出入りする奈良の薬屋がやってきた。前にも記した事があるが、彼は話し好きで、ワザと我家を最後にしている様子で、私との会話を期待しているフシがあるのである。

 「こんにちはー」、「久しぶりだねぇ」、「忙しいでっか?」、「そうでもないけど…(見れば忙しいのが判るだろう)」、「私も今日はここが最後だから」、「そーう(やっぱり)」、「今年は暖かいから助かりますワァ」、「そうだねー」と、ずるずる会話が続いていたが、目前のワープロも作業中であったため都合よく仕事も並行させていた。すると…
 「それじゃー忙しそうだから」と薬屋が帰り支度を始めたのであった。「えっ(そうか、こんな手もあったのか)」と一瞬は思ったものの、彼の姿を見つめると別れが淋しく思われてきた。
 彼は私と同世代であり、商売とは言え、親の跡を継いで数十年も奈良から我家へやって来ているのである。おまけに事故の後遺症で歩行も日に日に衰えて、ツエをついでいるのである。結局は、たっぷり会話を堪能して別れる時、「養老で温泉でも入っていきますわぁ」の一言が返ってきた。
 「養老?奈良なのにー」、「2時間運転ですよ、温泉ぐらい入らないと堪りませんワッ」と笑顔の別れとなったのであった。(何だったんだ、トホホ)

 しかし、奥にあるパソコンと、入り口にあるワープロ。中間にある印刷機が移動する度に稼動し、今までの遅れがウソのような仕事量ではないか。ただし、これも新発見かもしれないが、自分の信念がない証だったのは確実でもある。
                                 1月25日の一言

肝心な恩師が不在ではなぁ…

 平成6年より毎週火曜日は、我家の事務所2階で趣味で集まった『書道教室』が開催されているが、肝心な指導する恩師より「車に乗れなくなった事と、体調不良のため行けない」との連絡をいただいた。
 恩師は昨年の5月に手術したガンとの闘病中(予防かな?)であるが、通院とはいえ抗がん剤を定期的に投与されているので、時々苦しい日も続き、最近では運転する車を何度もキズつけて走るために、どうやら家族から車も取り上げられた模様(これは私の想像です)である。

「来週からは、自転車で行こうかなァ?」と云われ、
「いや、いや、心配なく。ちゃんと迎えに行きますから」
「本当-ッ?悪いがやァ」
「長谷川先生も迎えに行っていましたから、大丈夫ですよ」
「迷惑なら、この辺りで辞めとこうかナ」
「いえいえ、本当に大丈夫だから。体を治して下さい」と言って電話を切った。

 しかし、永く続いたものである。病気などで辞めた人もあるが、13年目に入っているのである。当初は、私が中学時代に一番世話をかけた恩師が指導者だった。せめて人前で困らないように、何処に行っても毛筆で記帳できるようになりたいと依頼に行った。

 校長会長も歴任し、勲章も受章した恩師だから、
「今さら小遣い稼ぎと云われたくない」と固辞し続けられたのを、
「先生、勘違いしてもらっては困りますよ。小遣いにはなりませんよ」
「なにーッ?」
「先生はタダで教えるんですよ」
「どういう事だッ?」
「ビタ一文払うつもりはありませんよ。だから先生に頼みに来たんじゃないですかッ」
「そッ、そうかッ、そういう事か。じゃーッ、一銭も受け取らんぞッ」
と、信じられないような一言で、中学校の『神守』と、恩師の名前『長谷川丈夫』の丈をとって命名した、書道教室『神守丈友会』がスタートしたのであった。その長谷川先生も奥様に先立たれ、痴呆がすすんで現在は施設の人となっている。

 現在の恩師は2代目となるが、こちらも私の中学時代の恩師である。中学校時代の私の(悪い)素行を知る人々からは信じられない恩師達の入れ込みようであった。実際には、謝礼はないが、会費を積み立てて旅行や食事会を楽しんでおり、13年間の思い出も積み重なっているのである。
 辞めるのは簡単な事である。しかし、闘病中の恩師のためにも続くところまで続けようとの真面目な考えと、「書道旅行会」との安易な考えで続けていけそうでもある。
                                   1月24日の一言
 

 

我家の家宝か珍品か

 文化庁の文化審議会文化財分科会が、ユネスコに推薦する国内の世界文化遺産候補地4件を新たに決定し、すでに推薦が終わっている2件を含む8件がユネスコに推薦される事になったとの報道である。

 今回は「富士山」と「富岡製糸場と絹産業遺産群」、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の4件が加えられた。文化庁は、日本だけではなく周辺地域の歴史や文化を代表している点や、保存や管理に関する考え方が示されていることなどをあげているが、暫定の一覧表には8件が載せてあり、このうち何件が世界文化遺産に選ばれるのか判らないが、関係者にとっては長い道程になりそうでもある。
 一方では、2月1日までにユネスコに提出されたリストの申請は、通常、申請通り認められるため、今年夏のユネスコ世界遺産委員会で正式に認可される見通しとも報じられている。

 さて、一週間前にも世界文化遺産についての苦言を記してあるので、本日は繰り返さないが、我家にも価値のある物が数点は山積みされている。大したものではないが、以前の一言でも記したとおり、他人から見れば『ガラクタ』か『ゴミ』同然にしか見えないのである。

 その中に、「大正天皇 九條家、恩賜三石入り 道重信教大僧正 御書付ヶ添付」なる封書が存在する。書付を読むと、「三石者(は?)、大正天皇相州葉山海濱に於テ拾セ玉ワリ石也、九條鶴殿に参上し節、拙僧頂キタルモノナリ、仂?而〇?に記シ置クモノ也」と記され、大本山増上寺七十九世大僧正信教謹書と書かれている。
 つまり、大正天皇から手渡された三石には違いないが、問題は封筒の中には三石ではなく、石が一つしか入っていないのである。僧侶である叔父が東京の学生時代に持ち帰った物であるが、写真の道具入れに混ざりこんで我家に伝わった物である。

 ただし、以前は確かに三石あったのであるが、途中で二石になり、一石になり、途中で二石に戻ったものの、現在は一石しか残ってはいないのである。珍しさから持ち歩く度に散逸したらしく、家からは出してないので、二石は家のどこか片隅で眠っているのである。これを家宝と思うか、ただの石ころと思うかは人それぞれの価値観でもある。
                                  1月23日の一言

そのまんま東の当選を祝福したい

 宮崎県では、タレント出身の『そのまんま東』氏が、政党が推薦する候補者に7万票の大差をつけて当選し、記者会見では過去の自身の不祥事にも堂々と返答し、今後の県政に対してもタレントではなく新知事として裏付けを持った発言をしていた。
  一方で、政党の推薦する候補者は、前林野庁長官や元経済産業省の課長であったが、宮崎県民は過去の経歴や経験より、地元出身で、高校時代の同級生や知人ら、少人数の応援から選挙運動を始めたそのまんま東氏を選択した。

 まさかと思う結果ではあるが、二度にわたる不祥事を反省し、早稲田大学に入学して政治経済を学び直して、子供の頃から目標としていた政治家になる事を宣言した事から、1年前には家族との離婚まで決断して故郷の宮崎県に戻っており、私は安倍総理の言う『再チャレンジ』の見本であり、今後の県知事としての舵取りに大いに期待したいと思っている。
 当選が決まった記者会見の最中に、前知事の官製談合事件の捜索で知事室の家宅捜査がはじまったのも皮肉のようではあるが、この際内部のウミをすべて洗い出し、県民に対するガラス張り県政を推進していってもらいたい。

 オール野党の県議会や、行政経験の無さを心配する声も報道されてはいるが、タレント色を払拭して臨んだ選挙戦ではあったが、タレント時代の知名度は高く、タレント時代を全て否定せずに、知名度を生かした施策を考えれば、対立した候補者には出来ない魅力ある県政が実現できそうである。
 できる事なら、昨年2月に離婚した女優の『かとうかずこ』との復縁にも期待したい。過去の2度にわたる不祥事に耐え続けてきただけに、今回の当選によって水に流し、親子水入らずの家庭を実現させ、家族とともに宮崎県政に没頭して欲しいと願うものである。
                                   1月22日の一言

伊勢神宮に参拝して

 本日は地元からの伊勢行き日帰りバス旅行に参加してきました。海部津島モラロジ-団体の主催であるが、何と言っても、伊勢神宮内宮での垣内参拝と、御神楽(おかぐら)御饌(みけ)のご祈祷も行程に入っている厳かな企画でもあった。私は町内の伊勢神宮代参による参加である。
 途中にある椿大社を車中で参拝し、まずは外宮に参拝。続いて内宮に参拝し、猿田彦神社、夫婦岩・二見興玉神社に参拝して帰るコースである。

 外宮の祭神は豊受大御神(とようけのおおみかみ)で、御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、神々にたてまつる食物、つまり御饌をつかさどっており、ここから衣食住、農耕、そして産業の神としてまつられています。
 続いて五十鈴川を渡り、内宮を目指す。祭神は天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)で、日本各地に鎮座する神々の総氏神。女性の太陽神であり、日本人の総氏神、皇祖神、高天原の主としてまつられている。皇大神宮は一般には内宮と呼ばれ、日本国民の大御親神(おおみおやがみ)と崇められる皇祖・天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りしています。第11代垂仁天皇の26年(約2000年前)に伊勢の地に御鎮座された。

 内宮の垣内参拝は正装が原則で(飲酒の人も不可)、男性は最低でも背広にネクタイ姿、女性もワンピースぐらいの正装でないと神域ゆえに入場はできないのである。「神の宿る神域ゆえ、正装でない方はご遠慮下さい」との神官の声があったが、団体ゆえに紛れて参拝した人があった事から、「今後は絶対に守ってください」との苦言をいただいた参拝となった。(普段ジャンパー姿の私も今日は正装です)

 さて、参拝といっても、参拝する人は様々で、酒に酔って顔を真っ赤にした人や、神楽殿での御神楽・御饌のご祈祷でもアグラ姿があるのである。正月気分の初詣感覚の人も多いが、神宮と神社の区別もない参拝ではなく、おごそかな参拝に心がけたいと思う。内宮、外宮の正宮のほかに別宮(べつぐう)が14あり、一度はゆっくりと全部を参拝してみたいものである。
                                  1月21日の一言

よみがえる過去の苦い経験

 我家から1キロほどの距離にある隣町で火災があった。こんな時に人々は、誰からか聞きつけて多くの人々が火事場に走っていくのである。
 「火事だー」との知らせで、知人と現場に走った時には、火事は鎮火する寸前であったが、野次馬や見物人で溢れており、車では近づく事もできず、出火された人の安全だけ確認して帰宅する事となった。
 偶然ではあるが、両隣は私が非常に親しくしていただいている家であったが、まったく類焼の危険もないようで、ひとまずは一安心といった気分であった。
 ただし、議員の立場ではそれは許されないのか、帰宅した家内から「火事はどこだったの」と尋ねられた。外出先で聞かれたとの事であったが、こんな時に議員の立場では何ができるのであろうか。過去の苦い経験がよみがえってきた。

 「おい、〇×で火事があったから行ってこい」、「えっ、何処へ」、「町内会長の家に酒を5升持って挨拶して、町内全部を廻るんだ」
 「えーっ、酒なんか持って行ったら公職選挙法違反ですよ」
 「それがシキタリだ。1件1件にタオルと名刺を持って行くんだぞ」、「そんな事も出来ませんょ」、「みんなやっているんだぞ」、「そんな事は火事場の宣伝みたいで出来ませんよ」、「黙って行くんだッ」、「無理ですヨー」、「…」、「〇×」、「…」、「〇×」、「…」
 「火事だけは特別だ」と、電話口で押し問答となったが、議員になったばかりの事であり、強引な電話の主の言いなりで町内会長の家だけは挨拶に訪れた。
 現実に、選挙区内に物を持っていくと寄付行為で法律に反する事から、どこまでも強引な電話の主との妥協として、電話の主からの酒として2升持っていったのだが、実際には罪の意識から手渡す事ができずに、無記名で玄関の外に黙って置いてきたのであった。
 
 火事から半年ほど経ってから、地元の消防団員で活躍する知人から声をかけられた。
 「大鹿さん、ありがとう」、「えっ、何が?」、「お酒、お酒」、「お酒って何?」、「火事の時の差し入れですよ」、「えっ?、さっぱり判らんけど…」、「また、またー」、「???」
 聞けば、火事の直後に町内会長から消防団に、「市会議員の大鹿さんから」と日本酒が手渡されていたのであった。ささいな事のようだが、これもれっきとした選挙違反なのである。

 「お父さん、行かなくても良いの?」とは今晩の家内の一言。苦い経験をした数年後の事だが、火事見舞いとして町内各戸を廻った他の事例を聞いている事から心配した一言ではあった。しかし、挨拶に行ったとしても火事は鎮火しており、宣伝の顔見世としか思えないのである。「何のために?」と、素知らぬふりをしたが、こんな時に議員の役目は何だろうかと自問自答となるのである。
                                   1月20日の一言

天覧相撲に涙して

 本日の大相撲には天皇皇后両陛下が観覧された。横綱朝青龍の結びの一番が終り、弓取り式終了後に両陛下が退席するため席を立たれ、館内の四方に手を振られていたが、庶民的な両陛下の人柄からか、館内の拍手は鳴り止まなかった。
 両陛下は後ろの観客にも振り返って、手を振られ続け会釈して退席されたが、あらためて親しみを込めた皇室の存在を垣間見た気がしてならず、なぜか涙が止まらなかった。

 中年の証かどうか、最近ではなぜか涙もろくなっており、ちょっとした事でも涙腺が緩みっぱなしになるのだが、数日前に香川県出身の大鹿さんから届けられた一通のメールにより、最近では過去に集めた『大鹿一族』の歴史資料を整理中のため、日本の祖としての天皇陛下が一段と輝いて見えたのでもあった。

 『古事記』や『日本書紀』によると、第30代 敏達(びだつ)天皇に関係して『伊勢大鹿首(いせのおほかのおびと)小熊』の名前が登場してきます。その娘の菟名子(ヲクマコ)は、采女として出て同天皇の夫人となり、太姫皇女(桜井皇女)と糠手姫皇女(田村皇女)の二人の皇女を生んだというのです。この糠手姫皇女(ぬかでひめのみこ)は、のちの第34代 舒明(じょめい)天皇の母になります。

 大鹿氏は伊勢国では天皇系譜につながる唯一の古代氏族として歴史研究者にも注目され、その本拠地は現在の鈴鹿市を中心とした伊勢地方にあった事が、「北伊勢地方の主要交通路(東海道)に本貫をおく伊勢大鹿氏は、景行(第12代天皇)朝頃に中央と絆を深め、雄略(第21代天皇)朝には采女(三重の采女)を出し、さらに安閑(第27代天皇)朝に屯倉が設置され、その管理者になった」などと古文書にも残されてています。

 はるか古(いにしえ)の話ではあるが、この大鹿首(おおがのおびと)の関係する三重郡(現在の鈴鹿市)にある『大鹿三宅神社』から、我々の住む津島市に移った経緯を記した古文書が、市内の「大鹿家」に残されているのである。我家とはまったく無関係とは言え、同じ姓を持つ一人として(無理矢理にもこじ付け)誇りに思って生活していきたいと思う。
 ただし、本日の国技館の観客の中には、天皇皇后両陛下退席時にも、座ったままで弁当を食べ続ける人々の姿もテレビに映しだされ、時代の流れとは言え淋しさも覚えたのであった。我が息子には大鹿の姓を名乗る事の『誇り』を伝えたいものの、高校生の三男しか聞く耳を持たない現実に、自己嫌悪を感じるとともに、偉そうな事が記せない現実も実感させられた。
                                  1月19日の一言

みのもんたの図書カード

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 グアム島で28年ぶりに発見された横井庄一は、発見された昭和47年の2月2日に日本の羽田空港から帰国をはたしている。正月になったばかりではあるが、まもなく2月2日が近づくためにテレビ局も準備中のようで、本日横井庄一記念館を取材中の『おもいッきりテレビ』の関係者から、挨拶がわりに図書カードをいただいて帰ってきた。

 帰宅後に事務所の机に置くと、「それ、なにーッ?」と母へ来客中の近所のオバサン(失礼)に問われた。
 「みのもんたのテレホンカードだわッ」、「テレホンカードーッ?」と手にとってシゲシゲと見つめて、
 「なにーッ、これ、図書カードだぎャ-」、「本当ー、テレホンカードと思っていたが」、
 「なにーッ、これ本物ー?」、「そりゃー本物だわッ」、「ふーん、本当に本物ッ?」、「今もらってきたばかりだから」、
 「なんでー?」とキリがなく言葉が続いた。どうやら『みのもんた』に興味があるらしい。
 「これ、欲しいなァー」と顔が語っているのである。
 「みのもんたも名古屋の人だからネッ」と言うと、
 「うっそー、名古屋ーッ?」、「そうだよッ」、「ほんとかなァー」、「そう、そう、本当」とキリがないので適当に退出した。(実際に名古屋弁での会話をお聞かせしたい)

 しかし、みのもんた(さん)のオバサン達への人気を再認識させられた。夜になって子供達がカードを話題にした時に母親が、「それ、なかなかもらえんのだよー」とささやいた。昼間の再現である。どうやら、テレビ局のスタジオや視聴者にも高嶺の花になっているようでもある。

 テレホンカードと思っていただいてきた図書カードであるが、見た目も大きさもまったく違いがなく、見分けもつかないのだが、机の中にしまい込んだテレホンカードの多さには閉口させられる。
 携帯電話が普及してカードを使う機会もほとんど無くなっているが、全国の家庭に眠ったままのテレホンカードはいったいどのくらいの金額になるのだろうか。私の机だけでも百枚近くある事と、しまい込んだままで不明の分や、家族全員の所有するカードは膨大な数になりそうである。発行されて未使用分のカードは全国でどのくらいになるのだろうか…
                                  1月18日の一言 
 

12年前の阪神大震災を懐古して

 6434人が犠牲になった『阪神(淡路)大震災』が発生して、本日で12年の歳月が経過した。見事に復興した現在の神戸市からは、当時の様子をうかがい知る事はなくなったが、大正12年(1923年)に起こった『関東大震災(死者・行方不明14万2千8百名)』と並んで、歴史に残る大災害でもある。(当時の状況は、阪神大震災災害写真画像 http://www.bo-sai.co.jp/sub6.html をご覧ください)
 当時の記憶を風化させないためにも、自分自身の記憶も思いおこしてみたい。

 平成7年(1995年)1月17日(火)、午前5時46分に淡路島北淡町を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生した。早朝の出来事であったが、私はこの時間に津島市白浜町の公衆電話前に立っていたが、地震との認識よりも「脳卒中」の前兆で目が回り、体の均衡がとれなくなったと錯覚した事を覚えている。

 当時は午前3時起きを日課とする、朝日新聞販売店を生業としており、日常的に寝坊の常習犯であった七宝店の従業員〇塚君へ、確認の電話をかけている最中であった。一瞬は体の異常と思ったものの、頭上の電線が縄跳びの紐のように波打っており、周りの建物もゆすっており、受話器を持った電話機と体が前後するような揺れを体感し、電話機で体を支えていた記憶がある。
 愛知県においても震度3以上の地震は何度もあるが、私自身の体感した地震では最高に大きく、印象にも残る地震となっている。

 この年の11月に第8回朝日会全国大会(朝日新聞社主催)が神戸で開催され、宿泊した神戸ポートピアホテルの窓から地震の被害が残る港を直視する事となり、移動するバスの車窓からも地震の被害を見る事ができたが、それからの12年間の復興は見事としか言いようがないし、災害時に助け合うボランティア組織や災害対策は大きく前進した。
 ただし、同じような規模の大地震が我々の地域で起こった時、阪神(淡路)大震災の教訓が生かされるだろうか。現実に我家の地震対策は皆無である。愛知県の防災カレッジを受講し、防災リーダーや防災ボランティアコーディネーターになってはいるが、あくまでも被災後のボランティア活動はできても、大地震の直撃を受ければなすすべが無いのが現状でもある。
                                  1月17日の一言

世界文化遺産の新聞報道を読んで

 日本から世界文化遺産へ推薦する候補地に、全国から24件の応募申請があり、23日に開かれる文化庁の審議会にかけられて選出されるとの記事が掲載されてきた。
 現在日本国内には屋久島や白川郷など、全国13ヶ所の世界文化遺産が登録されているが、これまで文化遺産の候補地は文化庁が直接選定していたものを、今回から現地からの公募制度をとったために、申請とは言え、首を傾げたくなるような候補地も登場している。

 世界文化遺産の看板は、世界各国の状況が解らないのに身勝手に書き記す事は不謹慎かもしれないが、今回申請された内容をみる限り、観光用か地域活性化を意識しているとしか思えないものも多い。
 過去に登録された屋久島や白神山地、知床などの自然遺産については、現状の環境を守る上でも重要と思われるが、すでに登録された文化遺産の中にも、はたして『世界』の名が適正かどうか、疑問となる遺産も存在する。
 
 各地の熱い想いに水を差す気はないので、詳細には記さないが、本当に大切な事が忘れられているような気がしてならない。3年前、世界遺産に登録された『紀伊山地の霊場と参詣道』についても、確実に観光客は増加しているものの、霊場と参詣道の名をつけてはいるが、空海がひらいた真言宗の聖地『高野山』を一例にすると、観光客がつれて歩く犬が、参道にある石柱や墓に小便を引っかけていても平然と歩いていく老夫婦を目にして、過去の一言に記した事もあった。

 私の大好きな『上高地』は、中部山岳国立公園に指定されているが、自然環境を守るために、マイカー規制で乗用車の進入を制限し、環境保全には他の観光地には見られない努力を図っている。
 しかし、最近はツアーの観光客が増加する事によって、持ち込みが禁止されているペットの犬を同伴する(どうやって持ち込むのかは判らないが)人や、野生のサルにエサを与えたり、明神池では岩魚やオシドリにエサを与えている姿を目撃する。
 今回の世界遺産候補地申請についても、各地の熱い想いが、それぞれ本来の魅力に水を差す事のないような配慮と、地球規模での選択を心がけてもらいたい。
                                   1月16日の一言

今年の横井庄一記念館

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 横井庄一記念館は先週から平常どおり開館していますが、本年より床の間の掛け軸が新しい掛け軸に代わり、昨年までの『竹』から、『今日無事』へと、新しく変わりました。
 この掛け軸は、昭和57年か58年頃の作品ですが、本人が著作した本の題名にもなっているように、本人が一番好きな言葉でもありました。(竹は28年間のグアム島生活で、毎日生活する洞穴が竹林の中にあった事から記されていました)
 横井庄一は60才から自宅に窯を持ち、陶芸の作陶をライフワークとして、全国各地で作陶展も開催しており、多くの茶碗や花瓶が残されていますが、多くの『書』も各地に残しています。
 我流ですが、発見された当初(昭和47年発見)の書は力強く荒々しい書体ですが、晩年(平成9年没)はやさしく心に訴える書が多くなっています。
 詳しくは、横井庄一記念館のホームページ『明日への道』 http://if.aft.to/yokoi28/ をご覧下されば幸いです。開館は日曜日のみで、午前10時から午後4時30分(閉館は5時)まで、入場無料ですのでヒマつぶしか、ついでの寄り道、休憩のつもりでお越し下さい。
 
 開館から半年が経過し、訪れる人の数は減っていますが、開館当初の満員で座る事もできず、のんびりとも出来なかった当時と比較すると、のんびりと気ままに見学でき、館長と茶飲み話ができるようになりました。
 案内する方としても、一日を『ヒマつぶし』と言われては適いませんが、今年79歳を迎える館長の横井夫人と我々ボランティアが詰めていますが、館長が元気なうちに訪問され、横井庄一について知っていただく事を願っています。
 昨日まで、正統派(笑)の一言が続きましたので、本日は気休めとなる一言です。
                                  1月14日の一言

掲示板の一通から広がる悠久の歴史

 本日は掲示板を開くと、私と同じ『大鹿姓』の方から投稿があり、兵庫県に在住と記されていた事から、10年頃前まで熱心に調べていた『大鹿』のルーツ調べがよみがえってしまった。
 掲示板を通じた返信やメールから、香川県にも多くの大鹿さんが存在する事が判り、仕事も一時ストップして過去の資料を見直したが、8年前の選挙時に「こんな古い物ばかり邪魔だ、ゴミだ」と言って人々に廃棄された物も多く、当時の資料は発見できなかったのである。

 当時は、と言うよりも数年前までは、大鹿と耳にすると時間に関係なく調べ、昔の古文書は文字そのものが読めないために苦労して徹夜のようになった日もあり、夢枕で千年を超える昔の身勝手な妄想を見たり、大鹿城のあった取手市には何度も電話をして、大鹿氏に関する膨大な資料を送ってもらった事もあった。(どうもそれも散逸している)

 私の予想では、大鹿の一族は三重県を発祥の地として、各地に点在していったと確信(思い込みかもしれないが)している。古文書や歴史書を読む限り、伊勢地方の大鹿一族より古い歴史が残されていないからであるが、私の住む津島市の大鹿で一番歴史があると思われる下切町の『大鹿家』には、その三重県の鈴鹿地方から当地に移ってきた顛末と、その後の家系図が古文書として残されており、専門家の解読の後に家人が確認のため当地を訪れている。

 我家は貧乏百姓である事と、仏壇にある先祖の過去帳も1702年の物故者までしか判らないが、大鹿の姓をもつ一人として興味は尽きないのである。
 私が大鹿姓のルーツに興味を持ったきっかけは、「大鹿は平和町(現稲沢市)の三宅から出て来た」と言う古老の一言であった。「なぜ大鹿姓の少ない平和町か」という疑問は、調べるうちに、口伝えの三宅が原因と判ってきた。

 三宅は屯田の意味があり、全国各地に存在し、『神名帖』という古文書に、伊勢の三重郡に『大鹿三宅神社』があり、その首(おびと・首長)だった大鹿首が記録されていた。この後から眠れぬ日々が続くようになってくる。
 過去に遡ると、次々と関係する系図や系統が続き、最後には宇多源氏として宇多天皇まで遡り、『敏達記』によれば、大鹿首から第30代敏達天皇へ娘が嫁いでおり、その孫が34代舒明天皇であり、結論的には大鹿の祖先は天皇家と関係する「天御中主尊」を祖とすると記されている。

 『天之御中主尊』とまでなれば、伊邪那岐神や伊邪那美神より古い神話の世界である。さすがに『古事記』まではと思いながら、『大日本天皇紀』や『修理固成の論理(古事記の哲学)』など、関係する書物を探し求めて調べていくと、神代の話、神話の世界にまで辿り着くのであった。
 こうなると病気である。関係ないものまで関係するように思えてくる。こんなところまで遡って中断していた大鹿のルーツ探しであり、横道に入りすぎて肝心な資料も散逸したままであるが、一通のメールから香川県の大鹿一族の存在を知り、悠久の歴史を想い起す一日となったのである。
                                  1月13日の一言 

大先輩の葬儀に参列して

 朝日新聞の専売店を廃業して8年が経過しているが、地元の老舗専売店であり、仕事を引き継いだ先輩店主が88歳で亡くなり、本日午前9時半より葬儀が開かれたが、議会の代表者会も9時より開催されており、綱渡りで市内を走り回る事となった。
 津島市の朝日新聞の歴史は古く、亡くなられたNさんは二代目の店主であったが、初代が昭和3年4月に創業された東海地方でも有数の老舗専売店であった。昭和60年6月をもって引退されるまで、名古屋朝日会の会長を務められるなど、関西にも名が知れ渡った名門専売店主でもあった。

 私は大学在学中の昭和52年に起業しており、業界を何も知らないままに自由奔放に行動できたのも、N先輩の影響は大きく、老舗と名門の看板の下地のもとに、私の専売店の普及率はどんどん伸び、3割の普及率を記録し、隣町の専売店まで兼営する事となった。 
 「辞めてから20年も経っており、朝日新聞の関係者には連絡しなかった」と、昨晩の通夜で耳にしたが、息子さんも高校の教師を務めておられ、「親族だけで静かに送りたい」との意向に、一抹の淋しさを感じたものの、連絡しようにも当時の専売店は蟹江町のT先輩しか残っておらず、現実の厳しさも実感する事となった。
 N先輩が引退されて20年が経過し、私が廃業して8年が経過しようとしているが、厳しい読者獲得競争の影響もあってか、最近では津島市の朝日新聞の伝統も錆付き、読者層も大幅に変化しつつある。ミニコミ誌を発行し、朝日旅行友の会や釣り大会等を企画することで、どこにも負けないサービスに心がけ、読者層のレベルの高さを自慢としていた当時が懐かしい。

 葬儀の後でT先輩と話していると、「オレも64才だからな、大鹿君はいくつだ?」と言われ、「53才」と答えると、「いくつで辞めたんだ」との話になった。過去を振り返っても仕方がないが、経験と年齢を考えると、花を咲かせぬままに廃業した後悔もある。
 議員と専売店の兼業が禁止されている事から、無念の廃業になった事に、後悔が無いと言えばウソになるが、天候に関係なく毎日3時に起き、休みも無く働いた当時を思うと、後戻りのできる甘い仕事ではなく、T先輩の薄く白くなった頭を眺めながら、一日も長い健康と、後を引き継ぐ息子さんとの連携を祈らずにはいられなかった。
  
                                  1月12日の一言

茶飲み話にも応えられない現実

 本日は偶然ではあるが、高齢者の茶飲み話を耳にして、当然の事のように語られ、当然の事のように年寄り(失礼)の愚痴話として聞き流される会話に注目したい。

 「足が痛くて出歩けない」
 「病院は?」、「〇×整形に通っているが、湿布と痛み止めのクスリをもらってくるだけで、治療らしい事は何もしてくれない」
 「針灸はどうかなァ?」、「治るとは言われて通っているが、未だに痛みが取れない」、「×田さんが10回で治ると言われて通ったが、いつまでも治らないから聞くと、病院しか治らないと言われたそうよ」
 「△〇病院が良いらしいよ」
 「そこまでバスもないし、どうやって行くの?」
 「接骨院の〇田さんが良いらしいよ」、「×〇治療院はどうか?」、「そこは△♪さんが通っていたがダメだと言っていたよ」
 「大きい病院に行ってみたらどう?」
 「行ったけど、前に治療を受けた病院に行けって言われて」
 「なんでー、診てくれんの?」、「前に手術を受けているから、そこに行けと言われて」、「手術した先生まだいるの?」「20年も前の事だから判らんけど…」「先生はもう居ないだろうねェ」
 「整体はどうかな?」、「そんなとこ高いばかりで続けられないもん」

 会話は延々と続いていたのであるが、高齢者の足や腰が痛むのは『年寄り病』らしく、結論から言えば治らないから辛抱するしかないとの結論であった。
 しかし、一つひとつの言葉を聞いていると、疑問が多く湧いてくる。近くの医者は、治療どころか触診もせずに、痛み止めの薬と湿布薬を投与するのみとの事である。針灸の治療院も10回で治ると言っておきながら、治らないばかりか、病院しか治らないと言うのであれば、それまでの治療は気休めか詐欺と一緒ではないか。
 大病院の医師についても、過去に手術を受けた病院に行きなさいの指示は良しとしても、20年前の手術を担当した医師が転勤している可能性や、カルテが破棄されている事ぐらいは、予想するのが一般常識ではないか。
 とにかく、大病院の医師や近所の医師も、近所の針灸アンマや、骨接ぎや整体と一緒のレベルで話され、治らないまでも年寄りの信頼すら得られていない現状を反省すべきではないか。
 高齢者はこんなバカな話で盛り上がり、結局は何の解決策もなく、愚痴を言って納得するしかないのであろうか。真剣な議論が必要に思う反面で、病院や治療院に行く交通機関が無い地方都市の現実も横たわっており、頼める家族もいない現実をどうすべきか。
                                 1月11日の一言

私のホームページです

 津島の新しい風  http://www.clovernet.ne.jp/~oshika18/ 

 朝日旅行友の会
          http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage101.htm 
 明日への道 (横井庄一記念館) 
          http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage201.htm
 ヤフーブログ 横井庄一記念館 http://blogs.yahoo.co.jp/oshika59

 ひとまち生活ネット津島  http://www.kuronowish.com/~oshika18/

 大鹿一族歴史探訪  http://red.ap.teacup.com/oshika18/

上記は私のホームページです。 ヒマな時にご覧下さい。


関係するブログ

歩き遍路友の会 東海  http://blogs.yahoo.co.jp/s281218_0417

不祥事の続く安倍政権を他山の石に

 国政では閣僚に新たな不祥事が発覚し、正月早々でありながら安倍内閣は厳しい船出を強いられているが、ここまでくると閣僚や政府の要職にあるかないかに関係なく、国会議員はもちろんの事だが、地方の首長から県会議員、市議会議員、町村の議員に至るまで総ての政治家(屋)の会計処理を見直すとともに、絶対に不正の起こらない制度に改革すべきではないか。
 民間の企業や商店主については税務署が目を光らせており、経理をごまかす事は可能でも、法で許される節税以外については、領収書や相手先と預金口座の動きを調査されれば不正が発覚する。
 政治家と金銭の流れについては収支報告書の提出が義務付けられており、後援会や政治団体に収入や支出がない場合でも提出する必要があり、期限内に提出されないと政治資金規正法第25条により「5年以下の禁錮又は100万円以下の罰金」に処せられると記されている。
 現実には我々地方議員の政治資金は多くが自前であり、私は寄付金が1円もない中で会報を発行し、郵送料や通信費を支出している事から、分厚い報告書そのものの提出にも抵抗感があるが、新聞やテレビから伝わってくる閣僚の疑惑内容は、数千万円の単位である事から現状の制度改革は必死でもある。
 以前の一言にも記したが、我々議員が受け取る報酬や手当は国民の税金である事から、個人的生活費としての意味合いはあるものの、手当の不正取得や流用は許される事ではなく、各地で問題となっている政務調査費についても領収書の添付を必要としない自治体そのものに問題がある。

 さて、私の裏番組『ほっこり庵の独り言』 (http://9016.teacup.com/hokkorians/bbs) に、「今年もケチで終始するいやな奴」と題して、(考えてみたら、結局みんなのやっている事にケチをつけて批判しているだけで終始する自分が、ほとほといやになる。)と記されていた。

 市民感覚としたら当然の感想とも思われるが、前記したように国会議員や閣僚でも国民の税金を不正に取得流用している可能性から、市民の厳しい批判や視線は重要であり、政治家がこんな状態では行政の税金に対する感覚にも疑問符がつき、自分の住む自治体に対する市民の厳しい視線と批判や意見は重要と認識してもらいたい。
 津島市にもそんな市民が存在し、「視線を合わさないようにしている」とか「何のために文句を言いに来るのか」などの意見を市職員から耳にした事があるが、私も議員を辞した老後は一市民となる事から、市民が主役との認識を忘れないようにしていきたい。
                                1月10日の一言

若き日のエネルギーを懐古し…

 正月の影響で、完全な夜型人間になっており、目を覚ました時には息子達や家族はそれぞれの仕事や学校にいっており、自分だけが正月休みの延長にあるような気分である。もっとも、正月も何も自分は相手まかせであり、人との対応で動いているために、自分の趣味も何もかも忘れているのかも知れない。

 「夜に岡山へコーヒーでも飲みに行こうか」と言って、20数年前に同級生達を誘ってオートバイの免許をとりに行った。「なぜ、岡山なんだ」との問いに、「気の向くままに生活したい」、「このままオジサンになりたくない」などと、身勝手な理由で友人達を巻き込んだ。
 30才を超える直前であったが、年齢に抵抗し、オジサンのタマゴ達は単車を連ねて大阪や長野にハンドルを向け、時には自然のタケノコやシイタケを失敬(犯罪です。申し訳ありませんでした)し、夜遅くまで走り回っていた。
 真夜中の道路を走るとき、単車のヘッドライトに見えるのは、友人の背中だけで、その背中を追って真っ暗になった道路を家路に向かって走っていた。後ろに続く同級生も岐阜県の山中を「見失うものか」と必死に続いてくる。小学校からの同級生がこんな遠くまで体一つで来ている現実から、『同期の桜』のような気分も味わった。

 40才を超えた頃の夏であったが、友人の単車(単車と言えども大型輸入車である)が盗まれた。「警察に届けたが、探してはいないようだ」の一言が『探偵魂?物好き』に火をつけ、地域を探し回り深夜になって盗まれた単車を見つけ出した。
 「おい、見つかったぞ」と友人宅へ飛び込んだ時は午前様で、「えっ、見つかった」と寝ぼけ眼でびっくりの友人と現場に向かった。当時は携帯電話もなく、何度も公衆電話から警察に電話をしたが肝心のパトカーはやってこない。盗んだ犯人達(少年)がタムロしている深夜に、心細く二人で見張っているのだ。しかし、待てども警察はやってくる気配すらなく、友人が連絡に走るが時間だけが過ぎていく。
 シビレを切らし、「こら!オレを誰だと思っとるんだ!!」と警察に連絡するとパトカーが到着した。単車ゆえに明らかに我々をなめているのてあった。「あそこに犯人がいるから行って来い!」と言っても、警察官は一向に動かず、盗まれた数台のオートバイを黙々と調べているのみである。
 動かぬ警察官に「これは持って行くから」と言うと、「盗難車だからダメだ」と言う。「何を言っとるんだ。探しもせず、犯人も捕まえんくせに!」、「規則だから」と一向に進まぬ処理に、「馬鹿やろう、〇×の大鹿だと署長に言っとけ!!」と、強引に盗まれた単車を奪い返してきた。

 「あんたは偉くなったネ」を繰り返す同級生。「何?」、「警察署長と知り合いだって!?」、「そんな事ウソ、ウソ」と、優等生で『生徒会長』だった同級生と劣等生代表の私が話しながら帰ろうとすると、単車のカギの部分が壊されており、エンジンがかけられない。
 「親爺さんに言ったら来てくれるか?」、「くれない事はないけど…」、「カミさんでは何にもならないしナァ…」時間が時間である。こんな時間に連絡すれば「単車なんか乗るな」と叱られるであろうし、今さら馬鹿にした警察官にも頼めない。
 「じゃー、オレが押していくわ」と言ったものの、自宅まで4キロはあり、二人で汗だくで押して帰ったのであった。真っ暗な友人宅の前で「コーヒーでも飲んでくかネ」とは言われたものの、仕事もあるし、家族も迷惑だし、「このまま帰るわ」となった。
 「この恩は一生忘れんからナ」の言葉を背に、ここから2キロ離れた自宅まで、一人淋しく歩いて帰ってきたのであった。十数年前の出来事であるが、その後「岡山のコーヒー屋」は行かれないままで、私の愛車は車検切れで知人のガレージで再起を待ち続けている。一生の恩人と言われた筈たが、今になって「岡山…」と言ったら彼からどんな返事が返ってくるだろうか。
                                 1月9日の一言

礼節が忘れられた成人式に想う

 成人式を迎え、全国で成人式の話題が報じられてくるが、財政破綻で『赤字再建団体』が決まっている北海道夕張市の涙と感動の成人式もあれば、沖縄県や埼玉県春日部市では成人式を妨害する行為で新成人が逮捕される事件なども発生し、大きな地域格差も実感させられる。
 さて、成人式は毎年の繰り返しであるが、女性の着物姿は別として、男性の着物姿が年々増えており、成人式ビジネスの普及もあるとは思われるものの、軽薄なイベントと化した面も否めない。
 成人式を武家社会の元服式と比較する事は無理としても、男性の赤や青、ピンクの羽織ハカマ姿は非日常的なものであり、こんな事が成人式を茶化しており、事件に走る原因とは言わないものの、久しぶりの同窓会気分しか感じないのではないか。
 成人式に誰もが、どこでも、平等に参加できる一方で、日本人として忘れてはならない礼節がある事が忘れられてはならない。
 式典が始まっても席につかず、来賓が挨拶している最中に、髪を金髪に染めた赤いハカマ姿の男と、きらびやかでケバケバしい女のカップルが、手をつないで入場し最前列に座った。おまけに、周りの知人と大声で談笑し、参加者の視線も一斉に集中していく。
 こんな場面でも、招待された来賓は挨拶を続け、「ちょっと聞いて下さい」と新成人にお願いする姿には礼儀も作法も存在しない。

 書経の周書に出てくる『玩物喪志(がんぶつそうし)』という言葉がある。「人をもてあそべば徳を喪い(失い)、物をもてあそべば志を喪う」という、召公が武王をいさめた言葉である。
 親が子供を叱れない(叱らない)、上司が部下を叱らないのは、「上の人が下の人にやさしくしている姿ではなくて、じつは下の人をもてあそんでいるのではないか」と草柳大蔵氏は記している。私は、そんな年齢になっているが、実は叱り方を知らない人が多いのではないかと反省したい。叱り方を知らないから「叱る」が「怒る」になっており、礼儀も作法も無視されていくのではないか。
 私の選挙やホームページでは『新しい風』をキャッチフレーズにしているが、同じ旗印でも以下のような一文が伝わってきた。『祈り長崎』の松尾竹文氏のブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/ngkmj468/45126741.htmlの一部である。

 一方、昨日、自民党の武部勤・前幹事長が当選1、2回の衆院議員で結成した新グループ「新しい風」の「新生夕張プロジェクトチーム」(団長・杉村太蔵議員)は、視察に夕張に行かれた。しかし、超短時間の視察で、ゆっくり現地の住民の方のお話しを聞かず、要望も聞かずして、風の様に帰られた。なにが視察かと、選挙めあてであるとあきらかに思えるとでよ。これ以上、夕張の方々に悲しい思いをさせてほしくなかとよ。これも、美しい日本と総理などは言うとね。すでに、勉強してきたけん短時間で良かったと言うばってん、なんば言よっとね。

 新成人ばかりでなく、親の年代として自分自身も反省するとともに、政治家が政治屋や政治屋の小僧に成り下がり、成人していない現実を淋しく思わされた。
                                 1月8日の一言

天候不順が続き…

 今年の冬は暖冬とか言われていたが、当地方でも年末には初雪が降り、冬らしい寒さが到来し、本日も早朝より雪の舞う一日となった。
 本日は消防の出初式があり、道路こそ凍結していなかったものの、開式時には横殴りの雪が吹き込み、参加する消防関係者はもちろんだが、来賓席も鎔けた雪でズブヌレ状態となり、表彰式で手渡された賞状は濡れ、初めて表彰される消防団員の表彰は中止されるなど散々の天候となった。
 ただし、火災や自然災害は、天候に関係なく起きる事から、たとえ出初式とか訓練であっても、参加する来賓に配慮するような事があってはならない。出初式については先進地事例が届けられ、慣例に流されず精進する重要性も実感する。
 明日は成人式が予定されているが、早朝より着付けや美容院が予約してある新成人にとっては、気になる空模様でもある。
 さて、我々にとって寒気や降雪は、通勤や通学に影響し、風邪など体調維持にも関係してくるが、スキー場など雪が必要な地域にとっては、雪による観光収入が貴重とされているが、一方で雪国で生活する住民にとっては除雪など多大な経費も必要となる。
 名古屋市から長野県白馬村に引っ越した人の話では、雪の多かった昨年は1ヶ月30万円程度の除雪費がかかったと聞いた。これは、個人が1軒の家を維持するための経費で、道路の除雪など行政が負担する経費を含めると、一晩で数千万の経費が飛んでいくのである。
 最近では高齢化により、屋根の雪下ろしをする人材がなく、雪下ろしや除雪が大きな問題にもなっている。我々からすれば、放かっておけば良いようにも思えるが、雪国の屋根に積もる重量は我々の想像を越え、数日で何百トンにもなるそうで、家の周りに積もった雪の圧力は、四方から家を壊してしまうそうである。
 津島市にも、東北地方の農家から多くの出稼ぎがあり、冬場の貴重な戦力になっているが、雪国では高齢者が残されて苦労している現状も気にかかる。
                                 1月7日の一言

地方議員が語るには恐れ多いが…

 私のウラ番組『ほっこり庵の独り言』では、度々安倍首相に対する厳しいコラムが続いており、新年早々には「安部首相のやり方ならば、おそらく短命内閣だろう」と記されてきた。
 本人の責任も当然だが、安倍政権が発足してずか3か月のうちに、本間政府税調会長に続き佐田行革担当相も辞任するなど不祥事が相次ぎ、最近では松岡利勝農相の秘書が、関係するNPO法人の申請に対して内閣府に口利きをしていたかどうかが問題となっている。
 しかし、この件では松岡利勝農相自身が、出資法違反容疑で捜索を受けた団体からパーティー券100万円分を購入してもらいながら、政治資金収支報告書に記載していなかったことが、政権発足4日目(9月29日)に発覚した事から続いている問題であり、この事に対して事実の報告と国民が納得できる大臣自らの釈明が求められなければならない。
 口利きについては、法人申請状況の照会程度との事であり、この事まで問題とすれば国会議員にとどまらず地方議員まで問題が波及してくるが、政治に関わる者が住民から問われれば当然照会程度はしておる事でもあり、圧力など違法性が無い限り問題とは思わないが、政治資金収支報告書の記載ミスについては言い逃れは許されない問題である。
 伝わる情報では、その他の有力国会議員の金銭にまつわるスキャンダルもあり、和歌山の談合事件では、起訴された被告から中川秀直幹事長と世耕弘成首相補佐官がゴルフ接待されていたことが報道されており、安倍政権になったとたんに問題が噴出し続けている。
 議員に限らず何一つとして弱味のない人間は極めて珍しいと思われるが、道路交通法のスピード違反や駐車違反でも許されるものではないが、仮に議員が交通違反や交通事故を起こしたとしても、不可抗力による事件については国民の理解が得られるものと思われる。
 安倍首相自身の起こした問題ではないが、これだけスキャンダルが続くと、任命した首相としての責任も回避する事が難しくなるばかりか、政治に関係するすべてのイメージを低下させる事から、そういう輩には小泉首相よりも厳しい対応を期待したい。
 それにしても安倍政権での閣僚は、程度がひどすぎる。独善的な小泉首相と違って、情のある安倍首相の性格に付け入り、『内閣ごっこ』の挙句に政権そのものの評価と信頼を低下させ続けている。安倍首相には『ほっこり庵』の予測に抵抗し、北朝鮮をはじめ外交の建て直しと、国民の視線に近い政治により、信頼の回復に努めてほしい(天聖人誤の内容ですが)と所望する。
                                1月6日の一言

消え行く郷土の面影

 携帯電話から本日送った2枚の写真(前のページか下記のアドレスを参照して下さい)は、我家の近くに建っている長野県と大阪を結ぶ送電線の鉄塔である。 
http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/10821171.html
http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/10820438.html

 子供の頃から毎日のように眺めてきた鉄塔だが、昨年末には送電する電線が取り払われ、まわりに建物のない一部の鉄塔は既に解体されている。当初は電線の保守点検と思っていたが、気がついた時には電線が無くなっていた。
 毎日を外で遊んでいた子供時代には、西の山に太陽が沈むのを目安に帰宅していたが、当時は2階建ての家もなく、周りは田んぼばかりのために、この高圧電線の鉄塔が必ず目に映っていた。遊び仲間で何度か肝試しとして高くまで登り、「ビーン」という送電の音に躊躇した記憶がある。
 他の高圧線とは外観が全く違う事から、岐阜県の恵那地方や三重県で見かけると、我が町内からつながる電線に愛着を感じ、「ウチの町内に立つ鉄塔だ!」と叫んできた。
 無くなる現実は認識していたものの、最近の新聞記事によって、建設から80年の歴史と、明治大正時代の実業家『福沢桃介』が手がけた木曽幹線である事、鉄塔はアメリカ製の鋼材が使われている事が掲載されていた。
 新聞記事となるような歴史遺産の認識もなく、人によっては「土地利用の邪魔者」という声も聞かされてきたが、物心がついた子供時代から当たり前に見てきた鉄塔の撤去により、地域の景観が変わる事に一抹の淋しさを感じている。
 撤去を知ってから、「そのうち写真に…」と思っていたが、現実に撤去され始めており、「気がついたら無くなっていた」という結果になりかねず、本日夕方に慌ててカメラのフイルムに収めた次第である。
 掲載した写真は感度の悪い携帯電話のカメラから送信したため見づらい事をお許し下さい。 下記には、最近『中日新聞』に掲載された記事も添付しておりますが、著作権の侵害は見逃してくださいネ。
                                               

                                1月5日の一言


  明治大正期の実業家・福沢桃介が手がけた関西電力の送電線「木曽幹線」が、建設から約80年を経過し、老朽化のため撤去が進められている。長野県・木曽谷と大阪を結ぶ当時としては画期的な長距離送電線で、尾張地方を北東から南東に貫く。撤去区間は、このうちの犬山市-東大阪市間約150キロ。時代の波には勝てず、またひとつ貴重な産業遺産が姿を消そうとしている。

 津島市の日光川堤防から北東を望むと、やや背の低い鉄塔群が連なっているのが見える。電線はすでになく、一昔前のレトロなロボット人形が立ち往生している-そんな雰囲気だ。高さは26メートル前後で、最新の鉄塔の半分しかない。

 関西電力東海支社によると、木曽幹線が建設されたのは1920年代。大同電力や大阪送電(いずれも関西電力の前進)社長だった福沢桃介が、木曽谷で水力発電施設数十カ所を建設。関西方面に電力を送る施設として、長距離送電線を建設したという。

 米国留学の経験を持つ福沢が、電圧を下げないように送る方法や雷対策を施したアメリカ流の送電技術を導入。鉄塔に使用したL字鋼は、アメリカから輸入した。今も脚の部分に、米国カーネギー社製を示す「CARNEGIE USA」という刻印が残る。

 消えゆく鉄塔群を写真に収めている美和町木田木田東、「美和町の歴史を語る会」会員片桐欣也さん(74)は「歴史あるものがなくなるのは残念ですね」と語る。撤去作業は昨年度から始まり、来年度中には610本の鉄塔すべてが姿を消すという。

送電線2

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送電線の続きです

http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/10820438.html

夕暮れの送電線

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送電線

夜中が仕事になっているぞ…

 正月で年末から停止していた行政機能が再開したものの、正月気分の余韻から覚めやらぬ一日を過ごしてしまっている。
 正月休みはなく、12月の続きの日々にすぎないと話していたが、現実には正月気分での訪問や約束があり、何一つ仕事が進展する事無く時間が経過してしまったのである。
 さて、さて…
 何から手をつけたら良いのか。
 「大鹿さん、大丈夫ですか」、「えっ、何ですか」、「皆(みんな)良く廻ってくるわョ」と昨年より皆さんからの選挙の心配の声をいただいている。特に、正月は『選挙運動のチャンス』だそうで、年賀状(年賀状を議員から送付する事も公職選挙法で禁止されていますが)やら、伊勢行きの旅行やらで議員は忙しいらしい。
 議員は正月の年始の挨拶廻りが常識らしく忙しいらしい。そんな指摘を受けながら、、、、

 電話のために席を外していると、時間は午前0時30分になっていた。市民の方からの定期便であるが、何時間もの電話代を心配すると、「わしの趣味だから心配いらん」と言われて、気がつくと周りは真っ暗で我家は静まり返っている。
 こんな熱心な議論は、二人だけでやっているのは勿体無いが、議員だけでなく市役所の職員でも関わりたくない議論ではあろう。
 ただし、戻ったパソコンの前では、何を記していたのかも分らない時差ボケ状態であり、積み残した仕事の進捗の足しには何もなっていない。
 明日はこうでは困る。しかし、議員の人恋しさからか、相談や問いかけに走ってしまい、やるべき仕事が疎かになる。「こんな事ではいかんぞ」とは思うが、4時間の電話はさすがに疲労を残し、この後でメールへの返信を返すと寝るのは…。明日(と言うよりも本日)もつらそうである。
                                  1月4日の一言

身勝手に決めていた訪問

 京都で一番最高の日本酒(私の価値観)を、知人の位牌の前に届けた。日本酒が似合う本人がいなくなって誰が飲むのかは余分な心配だが。
 「息子さんも飲めますね」「いやっ、まだ19才なんで」「奥さんも少しは飲めますね」「えっ、まぁ」「本当は一升瓶で手渡したかったんだけど…」と、しばし、無理矢理な本人の思い出話。
 しかし、話しても、話しても、本人がいなくなった今となっては何ともしがたい話ばかり。こんな話を生前に語っていれば、、、。
 男は自分の性格に正直でない事が多い。一番身近で一番解っている奥さんの言葉に納得であるが、これが留守中の噂話か暴露話であれば救われるが…。あまり話すと奥さんを辛くするに決まっているが、私には11月24日以来、思い出を回顧しない日がないのである。
 「あと5年もすれば…」、息子さんも独り立ちし、「好きな落語一本でやっていく話も…」突然の飲酒運転の車によって。しかも、本人は何も文句も言わずに無言のままで。
 などと考えると、悲しくなる。だから、私は彼が死んだとは思わず『旅に出ている』と思うようにしている。そのために「実は、棺桶の中に入れたものがある」と、彼の『私設マネージャー』と記した私の名刺と、私のこれからのテーマにしている四国遍路の『同行二人の納め札』を入れた事を明かした。

 「私は、主人が一番大切にしていた着物を入れたんだけど…」と奥さん。「実は、かんじんな帯を入れ忘れてしまってネ」の話を聞くと、彼は帯の無いままの着物姿で四国を歩いている事になる。これこそ落語の世界ではないか。
 私は彼の出前落語会を36ヶ所で開催した。私は彼の落語会と思っていたが、「あれは、大鹿さんの座談会だから」と、私を主役にしてあくまで前座になりきって落語を語っていた彼の配慮…。改めて奥さんからもその事を耳にし、こんな素晴らしい友人がいた事を誇りに思うとともに、四国で再会するためにも「頑張ろうか」と少しは気力を貰ってきた。そうやって無理矢理でも思い込み生きていくのである。
                               1月3日の一言

まだ残ったお酒があるから…

 あっという間に新年の2日間が経過したが、冷静に考えてみれば1年は365日しかなく、本日の高速道路では正月休みから帰る車で渋滞になっているという。
 なんとあっけない正月かと思うが、テレビを見ても一年中がイベントやら特集やらで、特別に興味をひく番組もなく、一日の大半が大学駅伝の中継となっていた。
 大晦日にわざわざ京都まで行って、京都しか手に入らぬ日本酒を手にいれて帰ったが、「まだ、残ったお酒があるから、そっちからかたづけて!」と家内の声。昨年もらった酒で、私が飲まないから残ったままになった日本酒があり、料理用に使っている代物である。(ちなみに、議員に物を届けたり、議員から物を貰う事は公職選挙法に違反します。ただし、選挙区・津島市以外は別ですが)
 「オレは京都の酒しか飲まないと言っているだろう」、「じゃー、貰わないでよ」、「オレは貰ってないだろう」、「じゃー、持ってきた人に断れるの?」などと、まるで新年の気分が吹っ飛ぶ会話が続き、こんな気分で口にする日本酒のキレは極めて悪い。
 気分が台無しである。自分で飲む酒は、生のままか、冷やして飲む日本酒しか買わないが、そういう趣向を知った知人から貰った酒は、「もったいないから」と冷蔵庫に入ったままになっており、大嫌いな『熱燗』で飲むしかない贈答用の日本酒が転がっている。
 人の趣向は様々である。一口の酒にも、口に含む気分と理由がある。今年は昨年11月に亡くなった落語家『浪漫亭砂九さん』を偲んで、「元旦は伊勢と決まっており、べろんべろんに飲みましたわぁー」との氏との会話を思い出したい。
 こんな気分を知らない人々が、「3日の新年会はどうなったか?」と問い合わせが続き、「今年は新年会は絶対にやらない」と言ってあるにもかかわらず、家内は訪問者への心配で正月早々掃除をはじめ、「お父さんも手伝ってよ」と叫んでくる。
 今年は正月気分は無しで、3日は『砂九さん』の自宅に日本酒を届ける予定である。「お父さんがいなかったらどうするの」、「そんな事知るか」とは言わないが、何でもかんでも正月がオメデタイ訳ではない。明日は我が身の年代にもなっている。
                                 1月2日の一言

こだわりの多い元旦行事

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 元旦は寝正月と決め込み、新年のこだわりを持たず、昨日の続きの一日と考えていたが、新年早々の訪問を受け話し込むうちに、実は人以上に大きな『こだわり』を持っている事を実感した。
 本日の午前0時に京都の船岡山に登り(と言っても車だが)、建勲神社で新年の一番目に賽銭を差し出し、『拍手』をうつ事に対して、「なぜにそこに?」と問われて、返す言葉が一瞬出てこなかった。
 「どうしてって?」
 毎年の新年の行事だからである。実際には、かなり昔に聞いた事だが、京の都を造営するにあたり、船岡山はきわめて重要な位置をしめると聞いた。

『今より1200年の昔、京都に都が定められる際、船岡山が北の基点となり、この山の真南が、大極殿(だいこくでん)、朱雀大路(すざくおおじ)になった。
 これは陰陽五行思想、風水思想に基づいて、船岡山は大地の気が溢れ出る、玄武の小山であるとされたためである。』以上は由来である。

そして、建勲神社は郷土の生んだ英雄『織田信長』ゆかりの神社であると聞いた事があった。以下に由来を記す。

『戦国時代の応仁の乱の際、この船岡山が西軍の陣地になり、船岡山周辺一帯はその後、西陣(にしじん)の名で呼ばれている。この戦国の世を統一して、太平の世を開いた織田信長が、本能寺の変で没すると、豊臣秀吉は、時の正親町(おおぎまち)天皇の勅許を得て、主君、信長公の御魂を、この船岡山に祀ろうとした。以来、船岡山は、信長公の大切な地として伝えられ、明治2年、明治天皇がここに建勲神社を創建された。』

 そんな事から、元日の午前0時に船岡山の建勲神社に参拝する事が、私の年中行事の第一日目の日課となっている。ただし、元日とは言え、建勲神社の午前0時は真っ暗で、人の気配は全くないのである。大晦日の夜11時30分から拝殿の前に立ち、眼下の京都市内の明りを眺めていると、市内各地の除夜の鐘が木霊し、冷気(霊気)を体中に受けながら、新しい年を迎えるのである。
 こうなると病気である。本当は一人で立っていたいが、想像するだけで異様であろう。同行者2人の雑談が神妙な気持ちを害するが、ひたすら無言で般若心経を称えて年が明けるのを待つ。確実に新年になった事を確認してからの参拝である。本年は珍しい事に、3人の学生の参拝があったが、当方の真剣さが伝わったのか「どうぞ」の一言で一番目の参拝である。

 年賀状の数は極めて少ない。議員になって8年間一通も出さない事から、以前は3百通以上あった年賀状は減少の一途である。「公職選挙法で禁じられているから、私は一通も出しません」「津島市外の人は出しても良いんじゃないの?」「そうしたら出した人と出さない人ができるから」「ああ言えば(じょうゆう)こう言う」である。
 わずかとなった年賀状を眺め、「俺って人気無いんだなぁ」と思う反面で、四国や高山市など旅先で知り合った知人からの手紙は宝物でもある。(本年は電子メールが多く、時代の変化も実感)

 市外からの訪問者は選挙に立候補予定である。選挙の専門家に選挙運動の助言と協力を依頼し、「自分は4年前何をしていたのかなぁ」と問うと、「大鹿さんは選挙運動は何もしてないじゃない」の返答。「何もしないと危ないわナ?」「そうだよ、しかし、それが大鹿流でしょ」「〇△君の方は頼みますよ」心中複雑な年明けとなりました。
                               1月1日の一言

除夜の鐘

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平成18年12月31日、大晦日の京都知恩院での除夜の鐘つき風景です。
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