大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

2007年02月

ハシゴを外された怒りが湧く一日

 「大鹿さん、議員をなされていますが、もしかして4月が選挙ではありませんか」との電話が昨晩届けられてきた。電話の主はNHKBS放送で「横井庄一」関係の取材を依頼されていた制作会社の職員であった。

 「はい、4月が選挙ですよ」、「そうですか、そうなると出演が難しいかも知れません」、「えっ、どういう事ですか」、「NHKの内部規定で議員の出演は…」などと、当初から3月議会と重なり、忙しいからとの断りを入れていた私に出演依頼をしておきながらの断りであった。
 私の出演が選挙結果に影響する可能性(と言うよりも指摘があっては困るからであろうが)から、3月7日に予定されていた俳優中村獅童から私へのインタビューは幻に終わったのである。

 「それで、大鹿さんの代わりが必要なんですが」、「はあッ」、「誰か、大鹿さんの親族で代わって話せる人はありませんか」、「私しかいないと夫人に言われて私に依頼されたのではないですか」、「はい、そうですが、誰かおられませんか?」、「親戚はあっても、血縁者は限られているし」、「それで、47年当時に横井さんが書かれた書をお借りしたいので…」とまったく勝手な話でもあった。

 「47年秋」と記名された書は、すでに先週の日曜日に記念館に届け、私の証言がなければ何ともならない話でもあり、戦地から横井庄一が我家に差し出した手紙も提供しようと考えていたが、他人に貸すつもりも失せてきた。
 
 マスコミの身勝手で、取材に協力してもまったく放映されなかった人や、横井庄一発見当時に我家からマスコミが借りていった写真や資料の多くが返っておらず、こんな繰り返しから取材拒否の人もあり、関係者もほとんど亡くなっている。「親戚といってもあなたの代わりに話せる人は無いのにねェ」と、本日横井夫人から連絡があり、苦肉の策で代わりの人選が行なわれた。

 私は議員でもあるが、横井庄一にとっては、自分が幼少期を大鹿庄一として育った在所の跡取であり、私と横井庄一の関係に割り込める人はいない。せっかくの3時間番組(横井分は約20分)が、間に合わせの撮影では情けない事と、無理矢理依頼しておいてハシゴを外された怒りが湧く一日となった。もっとも、半年前からNHKとは受信拒否、受信料不払い宣言中でもあり、議会中の忙しい合間の撮影だっただけに、冷静に本来の仕事に没頭したいと思っている。
                                  2月28日の一言

企画と配役は最高でも…

 3月11日に開催予定の「人にやさしい街づくり」地域セミナーin津島が近づき、基調講演とパネラーを依頼してある岡本先生を訪ねて名古屋市八事にある中京大学を訪問した。

 愛知県が主催し、津島市が共催となっているものの、テーマ選定と講師やパネラー依頼は私の思い入れで決めてあり、本来は私が説明すべきところであるが、頭の回転が元々鈍いところに表現も下手なために、当日のコーディネーターを依頼した街づくりのスペシャリスト浅野さんに連れられての訪問でもあった。

 「住み続けたい街 安心して住み続けるために」のテーマで、病気や事故で障害をおったり、高齢になっても安心して生活を続けるための街づくりと仕組みを考える事を目標にしている。

 当日は医療現場の立場として、患者の立場を尊重し、在宅医療を実践推進されている市民病院外科部長の神谷先生と、在宅でのリハビリを指導し、各地で講師をつとめる福祉住環境コーディネーターで理学療法士の銭田先生を迎え、市内在住で交通事故によりノドと足に障害を残しながら、障がい者の相談相手となりボランティア活動で活躍する高尾さんの話などを、学者として居住福祉を専門とする岡本教授を交えて、街づくりの専門家である浅野さんがコーディネートするという、私の考えでは最高の組み合わせとなるセミナーでもある。

 ただし、配役は最高でも視聴率が低いテレビ番組のように、肝心の参加者が集まりにくい企画でもあり、「動員やヤラセは一切お断り」と勇ましく宣言しているために、当日の参加人数が気になるところでもある。このセミナーは第一弾であり、こんな企画を継続させ、誰もが住みたい街づくりを目標に「人にやさしい街づくり」の名前を定着させたいものである。こんな顛末から近隣の方々には是非の参加を呼びかけるものでもある。
                                  2月27日の一言

息子達の友人関係に乾杯

 三男が貸した自転車で大騒動の夜となった。自転車は長男が東京の大学時代に購入して持ち帰った物だが、車に乗って行動する事から、なくなっている事も忘れられた存在であった。
 「ところで、あの自転車はどうなったのか」と数日前に私が呟いても反応はなく、家族にも忘れられていたが、「あっ、〇×に貸した」との三男の一言から、「何時貸したの?」「半年くらい前かな?」などの会話から昨晩返してもらう事になっていたのである。

 しかし、今日になっても自転車はなく、三男が連絡すると「返してきた」との返事が返ってきたのである。家内が、私も、長男も家の周りを見回ってみても自転車がない事から、「いったい、どうなっているのだッ」と三男に非難の集中砲火である。
 三男は昨晩から風邪をひいており、高熱を出し学校を休んでいたが、長男から相手の家に行ってこいと言われ、相手の友達も「どんな奴だ!」と言われて、必死でメール打ち込み連絡するも、相手は何度も「家の門のところに返してきた」と必死でメールを返信してくるのである。

 「そもそも、借りて半年もほかっていくとは何だ!」「お前の友達はとんでもない奴ばかり」などと言われ放題の三男であったが、詳しく状況を聞くと、昨晩返しにきた友達から「家の前にいる」とのメールをもらっており、風邪で熱があった事から「そのあたりに置いておいてッ」とやり取りをしている事から「どうやら盗まれたらしい」との結論となったのである。どちらにしても、三男も友人も悪者扱いである。

 それからしばらくすると家の外から「チリン、チリン」とベルの音とともに、家内が自転車を持ち帰ってきた。「隣の家の門の中に置いてあった」との事で、どうやら三男の友達は、隣の豪邸が我家と勘違いしていたようでもあった。それなら我家は何と思われていたのか。一緒に遊んでいる友人だけに、家にも来ているが、どうやら道路沿いの我家に置いていくと盗まれるのを心配して、ウラ隣の門も我家と勘違いして置いていったようである。

 最近の若者は無責任のように思われがちであるが、大人の判断で16才の友情を引き裂く可能性もあった。「本当に良い友達で良かったな」「ウン」「大事にしろよ」と解決したが、夕食時にあたふたする一日となった。
                                  2月26日の一言
 

抜き足ならぬ政治日程に

 今日は横井庄一記念館の当番日であったが、抜き足ならぬ所用があり一時退出するも、閉館後も相談の案件を寄せられ、帰宅は遅くなり、折り返しの電話を約束した主に「いつまで出かけているんだ」と叱られる(笑)顛末であった。

 明日から議会運営委員会が開催され、3月議会は2日から開会となる。連日議会の日程が続く中で、11日には自分が主として企画に関わる愛知県と津島市が主催する「人にやさしい街づくり」の地域セミナーが予定されており、私の都合を聞いていては事がすすまない状況である。

 NHKのBS放送が4月に放送する昭和47年を記録する3時間番組に、横井庄一が20分程度取り上げられ、発見当時の状況や、新婚生活に至る事情に詳しい人々の多くが他界している事から、親族の私も出演する事になり、7日に撮影が行なわれるスケジュールがメールで届けられてきた。
 インタビューを受ける相手は、昭和47年生まれの中村〇×と言う歌舞伎俳優との事である。「えっ、そんなら私もついて行きたい」と家内。「お父さん、サインもらってきてくれ」と次男。肝心な私がどんな俳優かまったく知らない時代音痴。「そんなに有名な俳優か」と問うと、昨年の大河ドラマに出演し、ワイドショーでも有名との事である。
 ただし、7日は中学校の卒業式で午後から時間が空いていたが、前日までは議会の一般質問の通告や職員とのヒヤリングがあり、8日と9日は市議会の一般質問がある中での撮影である。となると、11日の地域セミナーが迫り、まったく余裕のない日々が明日から連続する事になる。

 「大鹿さん、皆さん廻ってこられるが大丈夫?」とか、自宅に配布されてきた他候補の選挙用パンフレットを事務所に届けられているが、今だに私の後援会の会合すら1回も開催されていないのである。こんな事で選挙が戦えるのと問いかけたいスケジュールが続く。
 「選挙のための事前運動はやりません」と、以前の会報に記した事があるが、議会が終了する3月22日まではびっしりと日程がつまっており、その後に議会報告の会報を発行していると、公約どおりにまったく選挙の事前運動はできなくなるのである。選挙の事前運動や、戸別訪問は公職選挙法によって禁止されており、法を犯す心配はないものの、人の動きが気になる月末となりそうでもある。
                                   2月25日の一言

子供との会話に

 4人の子供がありながら、3人は成人しており、子供達の成長期には忙しさ(自分勝手)から聞く耳を持ち合わせず、私にとっては唯一最後に手の届く高校一年生の三男が、最近は親離れで細かい話をしなくなってきた。当然といえば自分の過去を振り返っても当り前の成長であろうが、最後の子供だけに少し淋しい気持ちにさせられる。

 息子は高校の自転車競技部に所属し、毎日片道20キロを自転車で通学して、名古屋競輪場を中心に練習しながら、時には瀬戸や豊田市まで走ってから自宅まで帰ってくる。時々は気まぐれに自転車の話をする事があるが、それは部品の購入とか大会会場までの送迎などで、細かい話は判らないから会話も続かないのである。
 一方で、自転車を通じて津島市の大人との交流もあり、〇×道場とかプロの選手との交流や、春休みにはスケート日本代表選手に誘われて自転車の合宿をする予定などを耳にしながら、子供がどんな所に出向き、どんな生活をしているのかカヤの外になっているのである。

 さて、そんな状況のダメ親父が、「ホイール14500円」、「リムはマビック」、「シマノ105」などと、交流する知人のブログに記された自転車部品の単語を口ずさんだところ、「それ、どうしたの?」と返事が返ってきた。
 どうしたのと問われてもそれ以上は答えようがない。「そうだ、おまえ、露橋スポーツセンターの近くの自転車屋を知っているか?」、「それがどうしたの?」と会話中に、「いつも行ってる自転車屋さんじゃないの」と隣から家内の一言が返ってきた。

 知らぬのは自分一人だったのである。「そうだ、その店は何と言うんだ?」と店名を聞き出し、いそいで知人のブログに記された店名を確認してから、情報を補充して会話を続けたのである。考えてみると、子供達の情報を何も知らず(調べようともせず)に「どうしたんだ」と色々聞かれ、文句でも言われれば話さないのが当然である。知人のブログに感謝するとともに、今まで口うるさいだけの親父であった事を反省する一日となった。
                                  2月24日の一言

企業責任より自己防衛を

 久し振りに再開された『ほっこり庵の独り言』に、ガス暖房機を使って屋外から簡単に殺人ができる推理小説の仕組みが記されてきた。考えてみれば、ガス暖房機を使っている家の外からガスのコックによって一旦ガスを止め、再度ガスを流せばガスが充満して一酸化中毒で簡単に殺人事件が起こせるのである。
  
 パロマ工業に続きリンナイのガス湯沸かし器の事故が大きな問題となっていたが、今度は松下電器産業の製品でも48人が死亡していたとの発表があった。こうなると会社や製品に関係なく、ガス機器すべてが危険との認識にたった対策が急務でもある。
 拡大解釈をすれば、建物の機密性が向上しており、ガスに限らず石油ストーブによる二酸化炭素中毒も同様に、適度の換気は当然の危険回避でもあった。

 今から20年ほど前の話であるが、店舗の新築のため解体された部分の、風呂場の外にあった灯油釜からのびた煙突が、建物の壁にもたし掛けられており、先から噴出した火の粉が壁を焦がし続けて燃えはじめており、発見が遅れれば我家は全焼となる事件が発生した。
 幸いに家族総出の消化で火は鎮火したが、この時のあわやの反省から、風呂の湯は屋外の給湯器に交換し、火を使うストーブを控え、エアコンを使うように切り替えたのであった。
 しかし、年月の経過によって危機意識は希薄になり、給湯器の故障から安価な湯沸かし器となり、電気代節約のために石油ストーブにもどってしまっているのである。

 ちょっとの油断が家を燃やし、ガス中毒で死亡する危険性もある。ただし、我家は築40年の古家ですきま風が吹いているのでガス中毒は大丈夫かもしれないが、火事だけは20年前にびっくりした記憶が完全に忘れ去られている。
 一連のガス事故報道を我が事とした確認が求められ、企業の製造責任だけでなく、自己責任としての対策と注意を喚起させたい。
                                    2月23日の一言

国際結婚、昨晩のつづき…

 「大鹿さん、息子さんの彼女ですか?」、「ハイ、近々結婚の予定ですのでよろしく」、「それはそれは、おめでとうございます」、「一緒になってからが大変だと思いますけど」、「今はそんな時代ではないから大丈夫ですよ」との会話は、向かいの焼肉店での昨晩のやりとりである。

 国際結婚が増加したと言っても、町内で外国人のお嫁さんを迎えた家はなく、本人達だけでなく、子供でもできれば学校でのイジメも心配になってくる。
 「ウチの娘達は大変でしたよ」、「えっ?」、「学校でイジメられたり、通学中に朝鮮人と言って石を投げつけられたり」と焼肉店の娘さん達の学校時代の話となった。隣に住んでいても、当事者しか判らない事件が起こっていたのである。

 顔や姿に違いがない在日の子供でさえ、そんなイジメを受けていたと聞くと、白人とのハーフとなる私の未来の孫達はどうなるのか余計に心配となってくる。「今はいくらでも外国人がいるから大丈夫ですよ」と言われても、この点だけが心配の尽きない問題で、市内でも環境に馴染めず転居していった前例も多い。

 そんな心配の多い国際結婚であるが、長男が学生時代から付き合ってきた相手であり、大学留学後には長男を頼って名古屋に就職していた経緯があり、昨日も一人で飛行機に乗りロサンゼルスからやって来たのである。幸いに家内も母親にも、もちろん偏屈な私にも違和感のない出会いとなり、暗い話題が続いた我家に新しい風をもたらしてくれた感があった。

 さて、来日予定の4月までに、近所にアパートを見つけなければならない。私は同居でよいし、本人も我家で良いと言ってくれているようだが、家内も母親も「最初はアパートで」と頑固である。後々「うまくいかなかったから出ていった」と言われるより、最初は別々で後で一緒になった方が良いと言う。私は逆に「最初から一緒に出来ないのに後では出来ない」と思うのである。

 日本人の子供達でも両親と同居しない世情の中で、我家の10年後、20年後はどうなっているのだろうか。長男の買ってきたアパート情報誌を見ている次男の姿をみつけ、「アパートに行くよりタダの我家の方が良いぞ」との言葉をかけずにはいられなかった。
                                   2月22日の一言

息子の婚約者と初対面となり

 早朝3時から会報を配布しており、最近は8時から10時頃まで仮眠の時間にあてて(新聞販売店の従業員の生活パターン)いるが、本日は早朝より電話が鳴りつづけ、10時から開催された『図書館協議会』に出席し、市役所で所用を済ませ、県庁との地域セミナーの情報交換の後に帰宅すると、ボランティアのWさんが私のために汗をかいていたのである。
 「ちょっと、昼寝をしたいから」と非情に送り出したものの、深刻な相談事から来客があり、市役所と連絡していると次の来客で、結局眠れないままに夕方を迎えたのであった。ボランティアのWさんが帰宅して一人で事務所に居ると、入れ替わりに長男の車が入ってきた。緊張の一瞬であった。

 息子の帰宅に緊張とは可笑しい話と思われるであろう。しかし、車のドア-は閉まったままで、息子は入ってはこず、益々そわそわと緊張が重なってくるのであった。実は長男が婚約者を連れてきていたのである。ただし、婚約者は日本人ではなくアメリカ人で、息子が空港まで出迎えに行っていたのである。

 交際は息子の大学時代から数年に及ぶものの、本日が初めての対面でもあった。息子から「ワガママ」とか「キツイ」と聞いており、どの程度言葉が話せるかも判らずアレコレ考えていると「こんにちわ」と握手を求めてくるではないか。こんな恥ずかしい瞬間は久し振りで、息子の顔も見られぬような照れ笑いで顔がゆがんでいる。
 「とにかく座って」と対面していると、息子が私の母親を呼びに行ったのである。緊張する当方をしり目に母親が「〇×ちゃんと呼べば良いの?」、「ハイそうです」なんて会話が始ったのである。そうか、名前も知らないのは自分だけなのである。
 やっと帰宅してきた家内に「おい、コーヒーでも入れろ」と言うと、コーヒーよりコーラが好みと言う。「おい、コーラを買って来い」と息子に言うと、手回し良く既に冷蔵庫に入れてあった。ここでも一人だけ空回りである。

 昨晩にロサンゼルスを発って、今日の夜に帰ると言う。「ご飯くらい一緒したかったのに」と言い、「何が好きなの?」と問うと、「ヤキニク」との返事が返ってきた。我家はむかえが焼肉屋なのである。一緒に会食する事となり、両親の事や趣味などの話をするが、一人娘でお父さんは手放したくないとの話である。「本当に大丈夫」と父親に同情だが、「ハイ、大丈夫」と笑顔が返ってきた。予定では4月中旬には我家の一員となりそうだが、とても「お父さん」のイメージではなく「変なオジサン」のままの別れとなったのでもあった。
                                    2月21日の一言
 

医療ミスの報道を他山の石に

 岐阜県の大垣市民病院で医療ミスが相次いで報道されている。本日の新聞朝刊の報道によれば、99年に行なった帝王切開手術で体内にガーゼを置き忘れ、これがもとで昨年女性の子宮と左右の卵巣を摘出し、被害者と損害賠償として550万円支払う事で合意したとある。
 そして夕刊では、昨年10月の手術において、看護士が点滴の接続を誤り、患者は翌日から容体が悪化し、意識がもどらないままに今月17日に死亡したと報じられてきた。
 一つの病院で、一日に朝夕と報じられた医療ミスだが、女性にとっては出産ができない体になり、死亡した男性は61才で人生に終止符がうたれてしまった事になる。こうなると、まだまだ続きそうな気持ちになってしまうが、大垣市民病院は医療専門誌でも総合的に評価の高い病院であり、2件とも初歩的なミスである事から、どこの病院でも起こりうる可能性があり、改めての確認と対策を求めたいものである。

 さて、一昨日津島市民病院を退院した〇×のマスターによれば、「津島市民病院の宣伝マンになった」と言うほど4ヶ月にわたる入院で看護士さんや医師への評価が高く、「あんな病院は…」と悪評を語る知人に「世話になっている病院に何て事言うの」と叱ってやったとの言葉が返ってきた。
 人それぞれに感覚も違い、現実に薬を誤って手渡したとの報道も過去にあったが、市民病院で診察や治療を受けた事が全くない人の病院批判は問題だが、最近の医療は本人の意志をかなり優先して考えている医師もある事から、医師と患者の納得する説明と質問が繰り返される事を期待したい。

 とは言っても、現実に医師の感覚も大きく違い、説明不足どころか、患者に全く触診しないままに薬を処方したり治療を始める医師もある事から、自分の身体は自分で守る気概を持って、信頼できないと思った医師ならば、信頼できる医師に代えてもらう勇気も必要である。こんな一言は、言うのは簡単だが、多くの人が分かっていても中々できない事でもある。
 他都市で発生した医療ミスであるが、他人事とは思わず、気がついた事や改善すべき点は発言し、医療ミスの発生を防ぎたいものである。市民が堂々と発言できるのも公立病院の利点である事をあらためて確認しておきたい。
                                  2月20日の一言
 

嬉しさと悲しみが混在する一日

 本日は早朝より綱渡りの一日であった。会報配布から帰ると「もしもし、どちらさんでした」と、発信者からの問いかけである。「大鹿です」、「おおしかさん?」、「はい、大鹿です」、「大鹿さんて何ですか?」、「市議会議員の大鹿です」、「あー?何でした?」と、電話をかけてきた相手に問われるおかしな展開である。
 数日前に電話で娘さんの生活保護の相談を受けていた人であったが、名前だけで生活を何とかしてくれと言われ、住所を聞いても判らないとの話で、「住所ぐらいは調べてかけ直して下さい」と言ったまま連絡もなかったために、昨日に相手の携帯電話にかけたがつながらず、着信履歴を残していた事からかかってきた電話でもあった。
 「今すぐ行っても良いですか」、「明日からの生活ができない」、「今日娘が市役所に行く事になっているから連れ添ってくれ」と続く電話に、当方から「行く時間だけでも教えて下さい」と言ったまま音信不通であり、訪問予定だった市役所にも訪れてはいないのである。ただし、実際に生活状況は自己が招いた結果とはいえ限界となっており、親族や行政との計画的話し合いが急務でもある。

 週末から寄せられた案件を処理して事務所に帰ると、「〇×のマスターが昨日退院したぞ」との連絡があった。入院から4ヶ月あまり経過する長期の入院でもあった。共通の知人である落語家の『浪漫亭砂九』さんが11月に亡くなるなど、入院中にも様々な悲しい事件も起こったが、マスターの退院という言葉から一度にもやもやしたうっぷんが吹き飛ばされ、直行となった。
 マスターと話をするために行く数少ない珈琲屋でもある。浪漫亭砂九が兄貴分と慕い、砂九さんと私を引き合わせたマスターの退院は、待ちに待ちこがれたものでもあった。ただし、退院祝いと言って配られた菓子は私だけが無し。マスターから「あんたはダメ」と減量中の私への厳しい言葉が本日は嬉しく感じられた。

 さて、自宅に戻ると親族から訃報である。「〇×の16才の一人息子が亡くなった」との内容であった。直接の親族ではないものの、少年時代にその家の祖父に入院先でリハビリの世話を受け、母親は現在通う開業医の看護士である。
 人の不幸は何所にあるか判らない。一人息子を亡くした両親や祖父母の顔を想像すると、苦しいと思っていた自分の痛みが痛みとは言えない心境だが、ストレスから鈍痛がする胃袋は不快感から痛みへと悪化していきそうな夜を迎えたのである。
                                   2月19日の一言
 

久々の長嶋監督の姿に涙

 雨で早朝の会報配布ができないために、本日は午前中にとっていた仮眠の時間が久々のテレビ視聴の時間となり、スポーツから国際情勢までまったく情報音痴となっていた自分を自覚させられたのである。

 市民の皆さんから返信されてくるアンケートの苦情に、ずいぶんと減ったものの「市役所の職員がヒマそうに新聞を読んでいる」との指摘がある。市役所の仕事中に新聞を読む事は絶対に禁止されなければならないが、茶の間でテレビやインターネットを通じて次々と最新ニュースが入ってくる現代社会の中では、出勤前に新聞やニュースを耳にしていなければ、休憩時間や昼休みでも新聞やテレビニュースなどで世間で起こっている事件を知っておく事も行政マンとして必須でもある。
 以前のことであるが、近隣の都市で起こっている事件について、市役所の担当職員が把握していない事があった。「こんなに大きく報道されているのに?」の疑問に、「勤務中テレビを見る機会がない」との情報不足が当然となる返事が返ってきた。
 市役所に限らず、民間の職場では尚更の事に、仕事の忙しさによって新聞テレビと無縁な生活が続く事もある。自己反省でもあるが、忙しさにまみれて社会の幅広い情報が不足すると、物事を考える視点が偏ってしまうので、注意が必要である。

 さて、桑田真澄投手や仁志選手の情けもない放出劇や、清原、元木といった看板選手を情もなく捨てた読売巨人軍に対して、昨年の一言に巨人ファンを辞める宣言をした。辞めても好きな球団もなく、野球そのものの魅力も感じなくなっていたが、宮崎キャンプを訪れた長嶋茂雄終身監督の姿が放映され、それを見ていると涙がこぼれそうになってきた。
 周りに家族がおり、涙を必死に堪えていたが、「ナガシマー!」と飛び交うファンの大声や、同行した張本氏から「泣いていた老夫婦がいた」と聞き、溢れ出す涙が自分一人ではないことを知らされた。
 この自然に溢れ出す涙の原因は自分でも判らない。脳梗塞から長い闘病生活とリハビリを経て、元気な姿を見せた姿に感動したのか、かつての懐かしさと父親に再会したような気持ちかは判らないが、この映像を思い浮かべるだけでも涙が溢れてくるのである。
                                    2月18日の一言

現場百回の言葉を実感して

 津島市の中央を流れる日光川の東側が、我々の住む旧神守村の市部であるが、本日の早朝にこの地域全戸への会報配布が終了し、明日からは西側の配布に専念する事となるが、天候は極めて悪そうで雨脚がとどまる事はなさそうである。

 仮眠中に来客があり、携帯電話の番号が残されていた。来客は旧知の人であり、電話すると「これは環境問題として訴えるべきか、簡単に済む事か」との内容に、とりあえず直接話を聞く事となった。
 環境問題と聞くと、一歩身構えて考えてしまいそうだが、「どこに訴えるべきか」と問われると益々事を大げさに考えてしまいがちとなる。

 問題とされる工場は、地域との環境問題で昨年11月に地域住民に対する環境設備の公開と説明会を実施し、問題発生事の対応についても意見交換しており、問題があれば改善も要望は可能であり、11月の時点では地域住民の心配はあるものの、基準をクリアしており訴えるにしても訴える根拠が見当たらないと思われた。
 「気持ちは判るがかなり難しいと思いますよ」との私の一言が、市民の感情を逆なでし、顔色が変わった。旧知の間柄の私から否定的な言葉が出るとは想像されていなかったようである。

 「じゃー、どうするのー?」、「(私)まず町内会長に伝えて」、「オレは誰が会長か知らない」、「(私)じゃー、市役所の担当窓口に直接…」、「新聞記事に書くとかはできんのか?」、「(私)そんな事ぐらいで書きませんよ」、「環境が汚染されても良いのか」、「(私)そうじゃないけど…」、「こりゃー県にでも国にでも訴えなきゃーいかんな」、「(私)そもそもそこは農業団体の水路で」、「じゃー、そこに行けば良いのか」、「(私)まぁ、直接現地を見てから」、「そうだ、証拠写真を撮らなきゃーな」等の顛末から現地へ出向いたのであった。

 環境汚染とか環境問題の言葉が一人歩きして、私の頭の中で事を重大にしていたのである。現地には、汚泥が積み込まれた箱が置かれ、溢れた汚泥を従業員が水で洗い流すために、溢れた汚水が用水に流れ込んでいたのであった。要は、担当者が溢れた汚泥を水で流さずに処理すれば、簡単に解決できそうな案件である。

 「(私)こんな事なら、工場長に直接言えば済みそうだ」、「そっ、そうだろう」、「(私)来週早々に市役所にも…」と別れたが、訴えるとか環境汚染、新聞社、県や国などの言葉から、明らかに工場と対決する姿勢が感じられ、現場を見ずに「難しい」の一言が、市民の感情に火をつけたのでもあった。刑事ドラマに使われる『現場百回』の言葉が、議員にもあてはまる一言として実感した。
                                     2月17日の一言


間違いだらけの一日が経過して

 自分の仕事が予定量を超えて精一杯の状態が続くと、新聞2紙を隅々まで読んでいる時とは違い、世間で起こっている事件どころか、日時や曜日も間違えて錯覚で人々との約束までするのである。
 早朝(午前3時半)から順調に会報を配布していると、途中から会報が折り込まれていない物(未完成)も持参している事が発覚した。完成した会報(8ページ)の処に折り込み前の会報(4ページ)が置かれていたためだが、貴重な早朝に往復30分のムダが発生したのである。さて、この後どうするかが問題であったが、天候不順と限られた日程から6時から再度の出発となったのである。
 昨日の深夜には、本日(16日)午後の予定が重複している事が発覚し、時計は11時を廻っていたものの、幸いに相手が深夜族で、いつもそれ以降の時間にも電話で話している相手だった事から、覚悟を決めて電話を入れ(こんな時間に電話する事は無いので念のため)来週へ延期を依頼する顛末であった。
 こんな延期が曲者で、悪いとの意識から確認もせず簡単に応じていると、再度の重複になりやすく、過去には失敗談もあるのである。

 さて、さて、本日の夜10時になり携帯電話がけたたましく(私の設定ですが)鳴り響く。3月11日に津島市文化会館で開催する『人にやさしい街づくり地域セミナー』のディスカッションのコーディネーターを依頼しているAさんからで、講師を依頼してあるO教授への連絡を済ませて、当方の企画するにあたっての想いまでまとめてO先生に伝えたメールをいただいており、夜には連絡しようと思っていた相手でもあった。
 「本当に申し訳ないですねぇ」とは言ったものの、予定した行事が連続しており、現地のボランティアスタッフへの連絡も単発で、一同の会合が遅れているのでもあった。会合前に印刷所から案内チラシが届いて新聞に折り込まれるのと同時期の会合(こんな事ではいけないが)となりそう(と言うよりもなるのである)では問題でもある。
 出先では、セミナー当日の要約筆記を依頼してある関係者から電話をもらい、手話通訳の関係者や市役所、愛知県への連絡を明日にはすると予定して帰宅していたのでもあった。
 ???Aさんの電話を切ってからの顛末である。実は、曜日を一日間違えており、明日を金曜日と錯覚しており、人々との約束も、明日が金曜日との錯覚で進めており、今になって明日が土曜日で行政の市役所や愛知県庁も休日である事が発覚した。こうなると来週も地獄巡りの一週間は確実である。こんな生活からは、選挙違反の事前運動をやる余裕もない(時間があっても私はやりませんが)のであります(笑)
                                     2月16日の一言
 


久し振りの飲み会

 久し振りの飲み会に参加した。私の町内に住む市役所職員や学校の教員で会食する機会を定例的に設営し、街づくりから市政や地域の慣習などを話題に無礼講で集まってきた。
 本年は定年まで一年残して退職する職員もあり、町内の冠婚葬祭や農作業の苦労など、遠慮のない会話が続いたのである。一番うれしい事は、この場には議員の特権は存在しない事で、年齢差も無視した活発な意見が展開される事でもある。
 
 「おい、定年後は後援会長をやるから、それまで頑張れよッ」の一言は、幼馴染の同級生の一声であった。退職する人もあるが、我々はまだ7年を残しており、それまで議員で頑張ろうとすればかなりのプレッシャーとなり、かなりのストレスが溜まることが理解されているだろうか。
 あそこと、〇×と、何々と何処何所と、4月の選挙立候補予定者の人名も話題となる。語るのがすべて地元の人間であるから、他の地域の人では判らない話ばかりかもしれないが、あれはこれとか、それはこうなるなど議員の私より詳しい情報も多く、議員の私の存在にはまったく無視した会話が続く。

 さて、昨晩から親族の心配事で眠れぬ一夜を過ごしていた。あってはならない事が起きれば、台所は火が消えたようになり、ため息交じりの一日となる。
 ただし、『幸せ』とは言えないものの、不幸な出来事によって、家族の結束が深まり、親子間での正直な本音での会話が始まるのである。苦しくとも、多人数(我家は8人家族)であれば、家族の協力で苦難にも立ち向かえるのである。前向きな姿勢に転化できるのも大家族の利点なのかもしれない。

 そう言えば、午前中は会報折り込み作業のTさんが頑張り、午後は会報配布のWさんがカバンをぶら下げて出かけていった。帰宅後の事務所に、ただ一人だけ座り、一日の人の入れ替わりに想いを巡らせていると、春一番が吹いたとは言え冬の厳しさが足元を襲ってくるのである。
                                   2月15日の一言

下請け会社に記者魂を見た

 読売新聞に1月27日に掲載された富山県の記事を、朝日新聞社の記者が盗用(朝日新聞には1月31日に掲載)した事件が発覚している。
 その後も新聞各社に飛び火して色々と騒がれているが、最近の新聞記者の勉強不足と事前調査の不足、取材不足は、過去と比較してみると明らかに低下していると思われる。かつては、地域の情報は新聞記者の取材した記事が発端となってテレビのワイドショーにも引用されていたが、最近は情報の多くが市民からインターネットを通じて発信される事も多く、情報がパソコンから容易に取り出せる事から、今回のような盗作が安易に行なわれたのではないだろうか。

 昨日、NHKのBS2「日めくりタイムトラベル」という番組が、4月7日に放映する昭和47年を紹介する3時間番組の中で、その年に発見された「横井庄一」についての事前取材を横井庄一記念館に訪問し、横井夫人に行なっていた。
 この番組は、NHKとは別の番組制作会社が担当しているが、担当者が手にする資料のコピーは3センチほどの厚さがあり、しかも、それを手にするだけでなく、その内容をほとんど頭の中に記憶した上で質問を繰り返していた。最近の取材では珍しく輝いて見えた。
 かつては、テレビキャスターに転進した江森陽弘さんをはじめ、朝日新聞社の記者達は横井庄一さんの生活に関わる情報まで他社を圧倒し、横井家へ生活情報も提供し、逝去の一報も他社を出し抜くトクダネ(朝日販売店の私が通報者ではあるが)となった。

 さて、その朝日新聞が、昨年6月の記念館開館については、事前の報道はあったものの、開館当日の夕刊には新聞各社が報道する中で、1社のみ記事の掲載がなく、翌日の朝刊では細かい事であるが開館時間にも間違いがあったのである。明らかに取材の手落ちであり、開館当日の記念館には朝日の記者がいなかったのであった。
 最近のテレビ番組は、外部のテレビ制作会社に制作を委託するものも多く、それらの担当者は、次の番組も仕事を請負うためにテレビ局の社員よりも真剣な眼差しと質問を寄せる事も多い。
 出たとこ勝負で事前調査もせず、現場第一主義で取材する記者も多い中で、下請けである担当者達の事前の連絡や撮影前の事前取材を眺めながら、新聞やテレビ局の記者の怠慢を感じずにはいられない。今回の盗作事件についても、そんな背景を想像してしまったのである。                                              
                                     2月14日の一言

夫婦二人の大きな勘違い…

 「お父さん、今日は大変だよーッ」と、帰宅直後の家内の一言。本日は久し振りの市議会総務委員会が開催され、そのまま各地を廻り、夜まで外出する一日となった。

 大変な事とは、本日返信されてきたアンケート調査の封筒が51通あった事であった。三連休のために一日の返信としては過去最高の数となった。ただし、家内が大変と言った意味と、私が大変と聞いて思った感想とは全く違う意味である事が、この時には判らなかったのである(笑)。
 とにかく私が配布したアンケート用紙と封筒には違いないが、51通を開封する作業も大変である。簡単にテープでとめてあるものから、頑丈に糊付けされたものにハサミを入れ、記名されたものを書き写す作業だけでも大変である。(ちなみに51通のうち11通に記名あり)
 早速中身を読みたいものの、火曜日の夜は平成6年から続く書道教室があり、ガンとの闘病中となった恩師の送迎も日課となり、終了後の夜9時になってから手紙を確認する作業を始めたのである。
 51通の中身を集計はしないものの(集計は1ヵ月後にまとめて)、記されている文章だけは読み漏らしたくないので、流し読みとは言え、老眼に鞭打っての作業にも延々と1時間はかかったのである。

 「びっくりだねぇー」と家内の声に、「大変だーッ」と呟くと、「いったいいくらの請求になるんだろう」との言葉が続いてきた。「えっ、何ーッ?」、「今日だけで5千円だったよ」(正確には95円×51通の4845円)と、家内は返信されてきた郵便の受取人払いの請求書を心配して「大変」と言っていたのであった。
 確かに2月に入って本日で208通(1月は2日間で18通)の返信があり、このまま返信が続くと1ヶ月4万円ほどの郵送料に膨れ上がる勘定となる。予測どおり7百通が返ってくると請求書が気にもなろう。
 ただし、私の頭では、中身の書き写しはもちろんだが、最後の集計が大変な作業となる事から、次の会報でボランティアを募集しようかと考えていた事から、フトコロを心配する家内と大きな心配の違いに気づき、改めて自分のズサンな性格を思い知らされたのでもあった。
                                     2月13日の一言

 

渡邉誠毅氏の死を悼み

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 朝日新聞社の元社長で、日本新聞協会会長や大相撲の横綱審議委員会委員長などを歴任した渡邉誠毅(わたなべせいき)氏が11日に亡くなったとの報が記されてきた。
 私は遠くから数回お会いしただけだが、私にとっては学生時代に朝日新聞販売店を開業した当時の社長であり、もっとも印象に残こっている朝日新聞社の社長でもあった。新聞記事の経歴をみると、77年から84年にかけて社長を勤められている。私が開業したのが昭和52年(77年)であり、ちょうど同じ年から13年間社長として執務をとられていた事になる。
 東京の有楽町にあった東京本社を現在の築地に移転(80年)させ、コンピューターによる新聞制作システム(ネルソン)とオフセット輪転機の全面稼動を実施するなど、朝日新聞社の技術革新に務めるとともに、82年から84年にかけては日本新聞協会の会長も歴任しておられる。
 朝日新聞の創刊100周年が開業2年後の昭和54年(79年)にあり、その年の1月17日に大阪フェスティバルホールで第6回朝日会全国大会が開催され、後半の第2部には『宝塚歌劇団』によるグランドショー「朝日のひかり」が開演しているが、主役は『鳳蘭』である事から時代を感じずにはいられない。

 ちなみに、朝日新聞社では、学生や独身者の経営を認めていないため、私は実務者として当時は名鉄に勤務していた父親の名前を借りて開業したのであった。この学生による経営実務者そのものも珍しく、当時の幹部から可愛がられ、新聞社を訪問される著名人に会わせていただける事も多かった。
 皮肉にも、平成11年2月に廃業する事となったのは、朝日新聞社では店主と議員の併職が禁止されていた事による。廃業後の貧乏生活に、「なんとか、上手に(カミさんや息子の名前で)できなかったか」との声もあったが、今にして思えば、休みもなく厳しい仕事である新聞販売業と、二足のワラジでは政治活動が何も出来なかったと思っている。

 掲載した色紙は、創刊100年を記念した渡邉誠毅氏の書であるが、「人は石垣、人は城」の言葉は、戦国の世だけでなく、仕事としていた新聞販売にも通じるものがあり、現在の政治の世界にも通じる言葉でもある。
                                     2月12日の一言


家族団欒をぶち壊した「ウルサイ」の一言

 本日は日曜日で、しかも連休という事から、夕食には娘を除いて家族全員が揃っていたが、次男の冗談に「ウルサイ!」と私が怒鳴った事によって束の間の団欒となってしまったのである。
 本日は朝から『横井庄一記念館』の一日となったが、2日にみのもんたの『おもいッきりテレビ』(日本テレビ)で横井庄一の日本への帰国が放映された事から、久し振りに昨年の開館当時のように訪問者が終日連続する一日となったのである。
 しかも、昨晩(と言うよりも、今日)にこのパソコンを離れたのが午前1時半であり、およそ一時間後の3時10分に起床し6時まで会報配布に出かけ、帰宅後に風呂に入って寝たものの午前8時半に起床しており、仮眠だけでの一日は帰宅後に『目が回る』状態となり、コタツで一瞬の睡魔に酔いしれていた時に聞いた次男の冗談が、冗談として受け止められない体の限界でもあった。

 数日前に「幸せな家庭」とのコメントをいただいたが、現実は幸せとは程遠く、子供達は仕事や学校が優先し、私自身が身勝手なスケジュールで行動しており、想い起してみると、家族団欒とか家族全員でどこかに出かけるなどの行為は8年前に議員になってからは一度もないのである。
 私のたった一言「ウルサイ」によって、久し振りの団欒が一瞬にして泡となってしまったのである。何かあれば「ウルサイ!」、「黙っとれ!」と簡単に発してきたが、子供達もすでに大人になっており、子供扱いしかできない自分と、中年のオヤジとして冗談を言うようになってきた子供達との確執が始まっているのかもしれない。(事の発端は、テレビのサザエさんの父親波平さんと私を同じオヤジとして息子がからかった一言が原因。今にして思えばバカらしいような話だが、サザエさんの父親はオヤジではなくトンチのきいたお爺さんだから比較された時は大人げなく「ウルサイ」と怒鳴っていた次第です)

 反省すべきは、オヤジとして私の成長が必要なのであろうが、それは『初老』を認めたようでもあり、いまだにオートバイを知人へ修理に出し、仲間とツーリングに出ようと考えている自分との大きなギャップがありすぎるのでもある。
 ただし、数年前から旅の趣向が変化し、『四国遍路』や巡礼を自分のこだわりとしているように、確実に中年から初老を迎える環境になっており、子供が結婚して孫でも誕生していれば完全な『お爺さん』になっていくとは思うのであるが…。
                                   2月11日の一言

硬式野球チームの練習場探しに

 横井庄一記念館は、毎週日曜日のみ開館しているが、一週間交代でボランティアが入れ替わり、明日が津島市(私)の人々の責任となっており、朝から晩まで記念館の一日となる。
 会報の配布によって届けられるアンケートや手紙もそうだが、直接相談を受けた案件に津島市内を廻っていると、旧知の人々とも顔を合わせ、必要以外の話にも発展する。
 そんな中で気になるのは、まったく根拠や裏付けのないウワサ話がひじょうに多い事である。主役とされる当事者がまったく知らないデマがまことしやかにささやかれ、我々議員のもとに伝わってくると、既に決定したかのように錯覚する事となってしまう。

 本日はウワサが先行する土地の関係者を直接訪問し、世間のウワサとはまったく違う、実際のスケジュールを耳にした。こんな実際とは違うウワサ話でも、ウワサを信じて何らかの相談をする人は、挨拶に手土産を持参している可能性が高い。(政治家への寄付や手土産は、公職選挙法で禁止されており、私の事務所では一切の受け取りを禁じていますので念のため、相談は無償で受け付けています)

 さて、人のやらない(やれない)事に手をつけた人は、人に判らない苦労をしているのである。津島市でも3年前から、硬式野球のボーイズチームができており、卒業生は高校に進学し、高校野球でも活躍をはじめているとの事である。
 ただし、練習するグランドの確保に苦慮しており、来季の練習場探しに指導者は四苦八苦している事から、知人に伴われて我家を訪問されたのである。恥ずかしい話だが、かつては高校野球(夏の高校野球が朝日新聞社の主催のため)との縁も深く、そのような情報も耳にしていたが、最近では全くの情報音痴であった。過去に硬式チームの設立を望みながら、名古屋や近隣都市へ子どもを送迎し続ける保護者の姿を見ていただけに、立ち上げた指導者に喝采を送り協力を惜しまないが、練習には広い敷地を必要とする事から、微力ながら歩きだした次第である。

 「土地ならいくらでもあるでしょう」と言われても、対象が『たんぼ』では笑い話となってしまう。「どんな荒地でも土を入れ、雑草を刈り取り整地する」との話ですので、情報があればお知らせ下さいと、PRして本日の一言としたい。
                                   2月10日の一言
追伸 津島市だけでなく海部郡から稲沢市、名古屋市までを対象に探しています。

機械の進歩とスピードに驚嘆

 昨夜からの雨によって、本日早朝の会報配布は前日から休みと決めていた。『恵みの雨』という言葉を耳にする事も多いが、迷惑な雨も畑や農作物だけでなく、人間の体にも有難い休息を与える事を実感した。ただし、雨で休息が取れる事が恵まれており、新聞配達などは雪や台風など大変な状況でも休息が許されないのである。
 本日は早朝よりボランティアのTさんと会報の折り込み作業に専念していたが、同時に配布しているアンケート用紙も底をつきかけている事が発覚した。慌てても印刷機の回転は決まっており、急いで雑に速度を速めれば空刷りとなり、紙が詰まって機械がストップする。
 
 さて、何度も印刷機の買い替えを勧められていた地元文具店の展示会が、今日と明日、津島勤労福祉会館で開催されており、電話まで入ったために本日のボランティアも含め4人で向学のため見学(と言えばカッコ良いが一人では断り辛くなるから)に訪れた。
 印刷機もカラーの時代であり、我家の印刷機のように回転する機械音すら感じないパソコンと直結したオフィス機器である。しかも、二色刷りの印刷機でも我家が10年前に購入した価格より安いのである。
 我家の印刷機から時々聞こえてくる悲鳴を苦にして、苦労しているのがバカバカしいような輝かしい機械だが、自営業時代と違って入ってくる報酬は限られており、これでも高値の花なのである。

 隣に展示されていた紙折り機が5年リースで月額7千245円と記されていた。「オレの仕事は月額7千円か」と、会報の紙折り専門ボランティアTさんが呟いた。「これは1分間に160枚の折込ができます」との説明に、「10分で1千6百枚か。オレは一日かかっても3千枚だもんなァ」と機械のスピードに苦笑である。
 「それでもオレが死んでからにしてやァ」との言葉に、まだまだやれるとの力強い心意気を感じた。Tさん昭和4年生まれ78才の一言である。政治(私)の裏舞台は『高齢者』によって支えられている。本日の同行者は一人は私と同年であるが、もう一人は69才である。
                                    2月9日の一言


 

来客から元気をもらいながら

 昨晩は夜11時40分まで来客があり、本日は夕方から午後10時頃まで来客があった。朝は9時から会報折り込みのボランティアTさんと、直後からは会報を配布するボランティアWさんがおり、一日中人に接する一日となったのである。
 連日返信されてくるアンケートの封筒を開け、内容を確かめる事がしばらくの日課となっているが、家族以外の人の存在が心強く思えてならず、気力が維持される事から、その場で電話連絡に発展する。これほど来客の存在が有難く思えたのは久し振りの事であった。連日届けられるアンケートの中身に少し気力がへこんでおり、人との会話で救われている感がする。

 一方で、昨晩も今夜の来客も私への協力依頼であり、これも困難ではあるが前に進める話であり、無責任には受け答えはできないものの、将来を楽しみにできる希望の持てる話である事から、責任はあるものの意欲をもたらされたような気持ちとなった。
 又、受信したメールの受信箱にも新たな展開が記されており、訪問や電話が続く原因は、配布して10日ほど経過した会報の影響であろう。

 さて、明日は受信料未払い宣言をしているNHKのBS放送の撮影打ち合わせの予定が入っている。昭和47年を記録する「日めくりタイムトラベル 昭和47年」(2007年4月7日午後8時~11時放送予定)という3時間番組の取材である。
 もちろん主題は私にあらず、この年に発見された『横井庄一』であるが、当時の落第生で不良の一人から抜け出そうとしていた苦い少年時代を振り返ると、年月の経過によって思い出がカラーでは思い出せず白黒の記憶となっている事と、当時の父親の立場に自分がなっている現実に驚かされる。
 その父親も、もちろん主人公の横井庄一も今は物言わぬ世界にあり、歴史を語れる人がいなくなっている現実に年月の経過を実感するのである。
                                   2月8日の一言

一年前のやりっ放しのツケで…

 「一年以上前に、貴方あてに市民病院での不満について、封書で意見を出したけれど、何の音沙汰もないので、非常に残念に思っています。このアンケートも、記入してどのように活用され、回答者に還元されるのか疑問あり」との一文が、本日返却されてきたアンケート調査の私への不満の欄に記されてきた。

 一瞬にして、一日の疲労とストレスが極限に達する返信である。私に届いた手紙で、何も手付かずのままで放置されている案件があったとの事である。
 はたして送信されてきた人は誰か?と想いを巡らすが、無記名の手紙の送り主を特定しようとしても、判る筈がなく、考える方が無理な話でもあり、後で冷静に考えていると、私に届けられたきた手紙は総てホームページに『一八への手紙』として公開されている事が直に思い出せなかったのである。
 又、市民病院の不満や苦情の案件で、一年くらい前に何があったかと思い巡らせていると、数点の案件に絞り込まれてきた。そして、やっとの事で『一八への手紙』の存在に気づいたのであった。

 返信された市民の方はしっかりと記憶されていても、次々と届く手紙の中身について、1年も経過した案件はどうしたのか思い出せないのである。しかし、手紙は総て記載して公開されており、探すのには手間どる事はなく、それらしき手紙はすぐに見つかったが、今度は、今回の返信に住所氏名が記されていない事から、その手紙の差出人と今回の差出人が一緒かどうかが判断できないのである。
 この一通を巡り、夕食ものどを通らない。「たかが一通」と思って忘れようとしても、前記した一文が気になり仕事が出来ないのである。

 とりあえず、1年前の手紙の差出人に問い合わせようとしていると、当時の顛末がナダレを切ったように思い出されてきた。そうだ、1年前に差出人の電話番号が電話帳に記載されておらず、自宅を訪問したものの留守で会えなかったのであった。そして、手紙を持って病院関係者に直接直訴してあったのである。
 反省すべきは、せっかく住所氏名を明記して返信されても、こっちの都合でホームページに記入し、当局に訴えて終わったと思っている事であった。せめて、電話なり訪問して、確実に受け取って処理(結果は別として)した事を伝えないと、相手には無責任に放置されたままと思われているのである。
 こんな苦い思いは明日に持ち越したくない。一目散で訪問し、差出人が不在のため家族から電話番号を聞きだして本日中に連絡が終わった次第であるが、不手際から一度に慌ただしい夜になってしまったのであった。
                                2月7日の一言

選挙の基本を次男に知らされ

 本日が休暇となった次男に、「ところで、県知事選挙は誰を入れてきたんだ?」と聞いたところ、自分の感覚とは全く違う答えが返ってきた事から、新鮮な響きとして印象に残ったのであった。
 私には高校生の三男を含めて4人の子供があるが、投票に行った長男は出身大学が現職と同じ事から、大学関係者から応援を依頼する手紙が届けられていた。それでも、一応は親が議員である事を配慮して自身の投票する人物をほのめかして投票所に向かったのであった。
 一方で、「えっ、選挙だったっけ?」と語っていた長女は、無関心で誰でも良い事から、「お父さん、誰を書いてくれば良いの?」と尋ねてから出かけていった。

 曲者は、23歳になる次男である。「おい、投票に行かなきゃダメだぞ!」と伝えたものの、残業の連続と前日からの遊び疲れで無視して眠っているのである。
 家族全員(我家は7票)が投票を済ませ、私と次男の二人だけとなった午後には、「メンドクサイから行きたくない」と家内に言ったと聞き、自分の選挙に投票を依頼する立場から、「棄権だけは絶対するな」と忠告したものの無言であった。
 「おい」と言って、言葉をつぐんだのは、次男は廻りに色々言われると「ウットウシー」と余計にヘソを曲げかねないからであった。とにかく、びっくりしたのは、「明日から仕事に行くから、大学の退学届けを出しといて」と言い残して、親に相談もなく勝手に大学を辞めた経歴がある。
 「今から一緒に行こうか」の声も馬の耳に念仏である。そうして締め切り間際であったが、やっと投票所に出かけていったのであった。

 そんな次男の口から、「なぜ、こんなに絶好調な愛知県を、他所の国会議員に言われて変えなきゃいかんのか」の一言が返ってきたのであった。短いやりとりではあったが、挑戦者の応援団から国のモノサシや、国政や4月の総選挙、夏の参議院選挙のために語られ、愛知県の問題点を示さぬ現職批判にうんざりした様子でもあった。
 嫌々投票所に行ったと思っていた次男から、こんな言葉が返って感激しているのは親バカかもしれないが、親の都合を聞いて投票所に行った長女や長男より頼もしく新鮮に思えると同時に、他人の影響ではなく自分の判断で投票する選挙の基本を知らされた気がする。
                                    2月6日の一言

頑張って不信感は嫌だが…

 会報を配布し始めて一週間が経過し、1月31日からは同時に配布しているアンケート調査の返信が連日届き、本日は40通の返信が返ってきた。(5日現在合計90通の返信)
 さて、内容は様々で、住所氏名を記したものから、調査用紙にびっしりと提言や意見が書かれたものや、切抜きや資料等を添付した封筒も存在する一方で、会報とアンケート用紙がそのまま返送(受け取り拒否)されたものも3通あり、せっかく返信してもらっても参考にならない悪意の返信も存在する。
 わずかとは言え、真剣に開けてストレスを溜める回答もあるが、真剣に地域や本音が記されている回答には結果で応えなければ済まない心境になってくる。

 さて、私は定例議会後に年4回の会報を発行してきた。現在の30号は議員生活8年目の積み重ねであるが、毎回配布されている地域では年4回と言えるが、毎回配布されている地域は市内の40パーセント程度であり、1年に1回とか、一度も配布していない地域の人々にとっては、『選挙の時だけ一生懸命』との批判の対象になるのである。
 昨秋呼ばれた会合で、「自分の地域の事しかしない議員ばかり」との指摘を受けた。「自分はそうではない」と言っても、一度も会報を配布した事もなく、地域行事に参加した事もない地域の人々から見れば、私も一部地域の利益代表でしかないのである。

 そんな事を考えて戻ってきたアンケート用紙を読んでいるが、本日のように一度に40通の返信は熟読に大変手間取り、頭の整理まで至らない嬉しい悲鳴である。雪や小雨と、体調不良で早朝の配布が止まっているが、明日からは全開での配布となる。会報未配布地域を減らしたいと頑張ると、「選挙前だけ頑張っている」と不信感を招くかもしれないが…
                              2月5日の一言

体調不良の極限になり…

 早朝の会報配布に出かけるため、午前3時の起床を続けているが、本日の空模様は小雨ではあったがミゾレ交じりの天候のため再び眠る事となった。
 「お父さん、今日は行かなかったの?」と言われ、「雨では行けないだろー」と答えたが、人々が起きてくる頃は快晴でも、深夜や早朝の雨も多い。雨の中での配布は会報が濡れてしまう事も理由ではあるが、本日は体調も不完全なために配布に出る気力にも欠けていたのである。ただし、家を出なかったものの、一旦起きた事から体は起きてしまうのである。
 けたたましく鳴り響く携帯電話を手に取ると、「何やってた?」との電話である。「寝ていました」、「あっ、そうー」との要件の無い会話だが、相手には早朝に起きている事が分からないため仕方ないが、早朝の配布中は朝は仮眠を取る事にしているのである。
 「おはようございます」と事務所で声がする。家族は全員が投票に行き、喫茶店に寄っているため事務所も不在である。こうなると不完全な体調が悲鳴をあげてくる。

 配布した会報の追加印刷も必要になり、本日より老朽化した印刷機も悲鳴をあげないように回転をはじめている。歌手の円広志(ひろし)さんが午前中のテレビ番組で、自身がかかった『パニック障害』についての闘病生活を話していたが、自分にも迫り来る行事やイベント前には同じような感覚が襲ってくる事があり、彼が私と同年生まれである事を知った事から、不調な体調の完全復活には一日中じっくりとした完全休養の必要性を痛感した。

 午後の来客は頭痛薬を飲んでの応対となる。夕方は、気心の知れた人の訪問を受け、悲しかった記憶から昔話をしていると涙目となり、頭痛薬だけでなく風邪薬も飲んで話に熱中する。投票所の立会人に元中学校同窓会長の姿をみつけ、苦悩する同窓会の運営を相談していると、頭はハリキッていても体は極度の疲労と苦痛が襲ってきた。熱い風呂に入って熟睡する一日としたい。
                                        
                          2月4日の一言

県民不在の政党対決選挙か

 明日は(と言うよりも本日に近い)愛知県知事選挙の投票日であるが、本日は明日出勤となる妹が不在者投票に行ってきた。我家には高校生の三男を除いて7人の有権者があり、議員の立場にあるために家族から「誰に入れてきたら良いの」と問われるが、今回は自由投票で、長女に至っては投票するように連絡すると、「選挙だったっけ?」との言葉が返ってきたのである。
 自分も選挙では投票してもらう立場にあり、家族が投票に行かないでは済まされないが、国政の審議もそっちのけで、柳沢厚生労働相の「女性を子どもを産む機械や装置」に例えた発言や、国政での対立を愛知県に持ち込み、愛知県の問題が語られぬ現状には不満を持っている。
 本日の夕刊の報道でも、『訴え最後まで』の見出しは大きく印刷されているが、「そう悪そうな人ではない」とか、「私を選べばおつりがくる」、「女性支持あっての私」など、候補者各自のコメントからは愛知県民への必死さが伝わってこないようにも感じてしまう。「選挙だったっけ?」の娘の返事は問題だが、「じゃー、誰を?」と問われると返す言葉に詰まってしまう。

 以前にもこの一言欄に記したが、個人的には多少の縁もあり、積極的に応援したい人はあったが、政党に属さない立場にある事と、県知事選挙に便乗して「4月の市議会議員選挙には〇×候補をお願いします」と県知事候補者より長いPR電話が入った事から、政党の主導する選挙には嫌悪感を感じるようになっている。
 さて、宮崎県の『そのまんま東』こと、東国原知事の鮮烈なデビューが報道される中で、愛知県知事選挙においては、我々の生活が主題にされていないように思えてならない。増税や公的負担が増加している中で、この選挙によって我々の生活がどのように変化するのか見えてこない。

 一方で、本日の夕刊には『投票率アップ作戦』なる記事も社会面に掲載されているが、約30人のアルバイトまで使い、揃いのジャンパーまで用意し、名古屋市の中心部の通行人にポケットティッシュを配布したようだが、その前に何かやるべき対策があるのではないか。
 前回の投票率は38.91パーセントとなっているが、県内には入院はもちろんだが、一般家庭の中にも投票に行けない障がい者や高齢者が確実に増加しているのである。そういった所にも目を向けた対策や発言が不足しているのも気にかかる選挙戦であった。
                                    2月3日の一言
 追伸 「皆さん、選挙の棄権をせず、一票を有効にするために投票に行って下さいヨ」

「川向こう」の議員として…

 地域では様々な出来事が起きている事を実感する。「こんな話を突然に話しても…」と、本当に突然に地域で起こっている出来事が電話で知らされてきた。
 地元に何人かの議員がいる事から、連絡を躊躇されていたようだが、バス一台を借りてまで行政窓口へ抗議と陳情に訪問しても、市役所と県庁の連携も悪く、肝心の地元議員の姿もない事から、「川向こう」の議員と言われる私に一市民から電話があったのである。
 恥ずかしい話であるが、それだけ問題になっていても、何一つ知らずに議員活動をしている自分が情けなく思えたが、現地を通ってもそんな問題がある事も知らなかったため、問題の現地を訪問して地元の町内会長に事情をうかがってきた。

 「ゴミ焼却炉絶対反対、みんなで守ろう町民の安全と環境ゴミ焼反対」の横断幕が、問題の施設横の道路に張り出されている。横断幕は最近の事との話であったが、10年ほど前から地域住民を悩ませていた問題でもあった。
 開口一番に、「議員の力ではダメだ」のキツイ一言が返ってきた。確かに言われるように、地元住民の団結が一番であるが「地元の議員には相談しましたか?」と問うと、「地元の議員達はダメダメ!」との更にキツイ一言が返ってきたのである。しかし、よくよく聞いていくと、縁故のある議員が一人会合に顔をだしており、明らかに地元議員への連絡が後回しにされたような格好に思えた。
 連絡の後先や、議員の縄張りを問題にする気はないが、せっかく住民が頑張っているのに地元議員達の立場がない。「そんな事、解っている筈だ」とは言われても、身勝手に顔を出すと「選挙目当て」と言われかねないし、顔を出している議員の邪魔をしたいとは思わないであろう。もっとも、私自身でも地元住民の葬儀さえ知らない現実があり、やはり幅広い呼び掛けは重要である。

 そんな連携の悪さを感じながら、「近々、国の環境大臣に直訴する」との言葉を耳にした。行政はダメ、議員はダメ、県会議員もダメだと言われると、議員の存在する意味が聞きたくなってくる。住民にもそれぞれの支持する議員はあるだろうが、法令をクリアしている案件を改善させる事は至難の業であり、議員は勿論だが、幅広く多くの人々に呼びかける事が最重要と思われる。難題だけに声をかけられても期待に応える事は難しいが、最初から「ダメダメ」と言われるのも淋しいものがある。議員の無力感を味わったが、連絡をくれた住民もあり、せめて期待感を持たされて帰して欲しかったと思う。
                                   2月2日の一言

返ってこない若い世代の声に

 街から子供たちの遊ぶ姿が消えた。3日前から返信されてくるアンケート調査の中身を見ていると、返信していただく人々の年齢層が高いために、どうしても高齢者の意見が多くなり、時々記載されてくる子供の安心して遊べる場所や、子供に対する対策を求める声にハッとさせられる。
 かつては当り前としていた町内を走り回る子供達の姿がいつの間にか消えてしまったのである。我々の子供時代にも「学校の帰り道でミチクサをしないように」と言われていたが、今やミチクサをしようにもする場所がなくなり、子供達は学校と自宅との間の歩道のアスファルトを見つめて歩いていくのみである。
 何が変わってしまったのか。思いつく事を個々に語り合う事はあっても、子供達の遊ぶ『居場所』もなくなり、子供達を街づくりの主題にした真剣な議論がされた事があったであろうか。真剣な反省が必要でもある。

 「高齢者が安心して生活できる」事は、地域にとっては絶対に不可欠な事には違いないが、子供達が友達と安心して自由活発に遊べる場所や、事故の危険をなくしていかないと、将来の地域の担い手となるべき子供達にとっては、古里(故郷)としての思い出も魅力も感じずに、家庭よりも仕事を優先し、住みやすい地域に転出していってしまうのである。実は、すでにそうなっているのである。

 財政的破綻によって『赤字再建団体』となる北海道夕張市が話題に上る機会が増えた。市民は公的負担が増え、住民サービスが低下する夕張市を捨て、新天地への移住先を求めているとの報道もある。実は、我々の住む地域でも理屈は同じであり、人々はより快適な住まいを求めて簡単に地域を捨てていっているのである。
 一方で、北海道伊達市は「高齢者に住みやすい」との情報から、全国各地からシニア世代の人々が移住しているとの報が伝わってくるが、本当に誰にとっても最高の地域かと言うと、そうでもないとの証言もある。経済的に余裕があり、夫婦二人が健康な時には快適だが、連れ合いが亡くなり独居老人になった時には「やはり幼馴染の多い古里(故郷)が一番良い」そうである。

 今の現代社会の中で育った子供達は、大人に成長した時に、現在の地域を古里(故郷)と感じるであろうか。返信されてくるアンケートは60才代から70代、80代までの年代が圧倒的に多いが、幼い子供をもつ若い母親からの返信は数こそ少ないものの、地域や家庭を第一に考える時には、将来の地域社会を考える上での貴重な意見である事をキモに命じたい。
                                  2月1日の一言
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