大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

2007年08月

ボランティアの難しさを議題に…

イメージ 1

 愛知県から届けられた「特定非営利活動法人ひとまち生活ネット津島」の設立認証書である。28日に手にした事から、9月11日までに法務局へ登記が必要になっている。

 さて、見づらいかもしれませんが、団体は目的と目標があって設立されており、書類を届ける事よりも、実際に目的とされる活動が伴わないと設立の意味もありません。本日は、理事に集まってもらい、具体的な仕事と利用料金についても議論が展開され、明日の9月よりは具体的行動に移す事が可能となった。

 しかし、ボランティアとしてサービスの対象となる相手の事を考えると、実際にボランティアとしてサービスを提供する人々の引き受けてが困難となり、ボランティアの側から考えると、誰からも仕事の注文がありそうにもなく、考えても次々と難問が出てくることから、当面は規則にこだわらず会員の拡大のためにPRに務め、正式の認可後に改めて検討する事として散会となった。

 今月まて実際にサービスを提供した人から、さかんに利用料金の問い合わせを問われてきたが、今までは無料でサービスを提供しておる事から、無料では利用者が次に頼みづらい一面もあり、金儲けとならず、利用者の負担も軽減する料金設定を決めることの難しさを噛み締めながら料金を設定した次第である。

 問題はボランティアの存在である。現状は利用者の拡大が先決であるが、先進地の例から利用者が増加した際にどこまで対応できるかという事である。病院への送迎と一口に言っても、予約時間は決まっていても診察の終了する時間はその日になってみないと判らない。先日は15分の送迎に2時間の待ち時間が加わった。簡単に思えるが、30分のボランティアに3時間の時間が必要とされ拘束される事から、単純に考えるとバカらしくもなってくる。

 思えば、介助にあたる家族はこれを当り前にしているのである。「誰もが安心して生活できる社会」を目指して、明日からの日々が始まるが、登記の最終日が議会の一般質問と重なっており、両方が満足できる成果は望めない現実がある事を、本日の役員会でも認識されていない事に厳しさがにじんでくる。
                                 8月31日の一言

追伸、ここ半月の間、ネズミの被害に悩まされており、昨晩3匹目を捕まえたことから一安心であるが、この3匹目の尻尾が切れていた事から、半年前に逃げられたネズミと思われ、そう思うと可哀想になり逃がしてやりたい心境で眠れぬ夜を送ったのであった。ネズミに情けは無用であるが、こんな時女性は強く、淡々と処理したようである。
 しかし、ネズミの台頭には、南の古屋に住み込んだ求職中のOさんが原因とされ、新たな話題にされておる事から、ネズミに代わって早期の就職が新たな課題となってきたのでもある。
                             

去りゆく夏と共に去りぬ…

 朝日新聞夕刊「素粒子」に、去りゆく夏と共に去りぬ―と題して、ヾ嬰,ら首相のお友だち ∧得権から次々とブッシュ大統領の側近たち 小池2ヶ月限り防衛相。「アイ シャル リターン」だと す餡颪撚?竑議の現実味 ゼ鹽垠?療杜篭ゝ詆坩臓´ζ鐱槊上選手陣への期待 北海道の白い恋人 朝青龍、故郷モンゴルへなどと記されてあった。

 淋しい内容ばかりであるが、個人的には夏休みで数日前まで上高地にいた事から、一度に秋が近づいたような淋しさも実感させられると同時に、「去りゆく夏」に記された半分が政治関係の皮肉だけに余計に淋しさよりも悲しみを覚えるものである。

 最近のテレビのワイドショーでは、モンゴルに帰った朝青龍と並び、民主党参議院議員となった「よこみね議員」のスキャンダルがさかんに報じられている。愛人の存在と賭けゴルフを報じた週刊誌に対して、当初は記事を肯定して謝罪する様子が報じられていたが、最近では弁護士同伴で愛人を告訴するとともに、質問には「裁判で…」と口を濁し、「男の子供を産んでくれ」と語った愛人を悪者扱いである。

 「選挙に当選したらオレの秘書をやれ」とまで言った愛人に対して、何故に裁判所に告訴まで?と思うが、週刊誌に報道された直後に「議員を辞めなきゃいかんのかい」と関係者に語っており、法に反する賭けゴルフを否定して、参議院議員のイスにしがみつくための対応としか思われない。

 テレビに映された顔はまさに「悪役」の顔であり、賭けゴルフだけでなく、愛人の存在とその会話内容だけでも国政を担う国会議員の資質には程遠く、今までのキャラクターを捨ててまで、参議院のイスにこだわると、過去の努力や信用をすべて無くしてしまうのではないだろうか。

 むしろ、参議院のイスに固執して悪役を続けるよりも、「世間を騒がせて申し訳ありませんでした」と反省の弁を述べて、次の成り行き任せにした方が得策ではないだろうか。罪は償えば済む問題であり、元々のキャラクターのままで再起も図れる筈と思われるが、それが出来ない理由が知りたいところでもある。こんな話ばかりが続くと、政治や議員の信頼は著しく低下する事から、こんな話は夏と共に終わりにして欲しい内容でもある。
                                8月30日の一言

NPO法人のまさに誕生を迎えて…

 9月議会が9月4日から開会する事から、いつまでも夏休みの上高地の余韻に浸ってばかりはおられないが、郵便局に留め置かれた不在票の手紙は、愛知県へ6月に申請してあった『特定非営利活動法人』の認証決定通知書であった。

 「えーッ、大変だよォー」とは、NPO法人の申請をした事を話した愛知県幹部の一言であったが、送られてきた認証書を受理してから2週間以内に法務局に登記の手続きが必要となっている。
 書類には、「登記に関する詳細については、法務局の窓口にお問合せください」と、いとも簡単に記されており、受領した28日に出向いてきたが、登記の申請についても素人が簡単にはできそうもなく、何度も足を運ぶ必要がありそうである。

 この登記が済み次第愛知県に提出する書類も、\瀘登記完了届出書 登記簿謄本 E亠簿謄本の写し つ蟯勝´ダ瀘当初の財産目録など多義にわたり、その後に県税事務所や市町村役場にも法人設立届出書を提出する必要がある。

 さらに、毎年年度末には愛知県に対して 〇?畔鷙霆顱´∈盪彩槝拭´B濕畋仂班宗´ぜ?拱鷙霆顱´ヌ魄?よび報酬を受けた役員の名簿 社員名簿を提出し、定款の変更があれば、定款 認証に関する書類の写し 登記に関する書類の写しなども求められてくる。

 金儲けではなく、ボランティアを旗印に進めてきた団体であるが、これだけの書類名を聞くだけで大変な気持ちとなり、個人事業主として会社をスタートさせるよりも難しい現実を実感している。非営利のために税金の恩典があるとは言うものの、企業でも利益が出なければ税金を求められ事はなく、届け出書類についても「必要なら取りに来い」の横着もまかり通るが、特定非営利活動法人については「上記の届け出を怠った場合」として、20万円以下の過料に処すとか、法人の設立認証を取り消すことがあると記されており、真面目に考えるとまさに「大変な事」である。

 さて、進めているNPO法人は『ひとまち生活ネット津島』と言い、地域の家庭で必要とされるボランティア活動を推進するための団体であるが、金儲けではないがタダ働きとは違う有償ボランティアを目標としており、地域に理解され浸透させる事も難しい現実があり、無報酬ゆえに進捗の難しさも実感させられている。
                                  8月29日の一言

以下が愛知県に提出した法人の目的と仕事です。参照されご理解とご協力を求めます。
 この法人は、市民活動の豊かで健全な発展と地域住民をはじめ広汎な市民各層の参加による市民主体のひとにやさしいまちづくりを推進するため、介護保険や支援費の対象とならない高齢者や障がい者の自立した生活、核家族の子育てなどを支える為に、優しさと思いやりの心のある、ごく普通の家庭の主婦や退職した元気な男性がボランティア活動として、清掃・洗濯・買い物・留守番・お話し相手・乳幼児のお世話・子守り、自力での移動が難しい高齢者や障がい者等の病院への通院などの移送サービス等、地域や家庭で必要とされ求められるサービス全般を提供する。市民、行政、企業が参画しそれぞれの責任を果たす市民社会の実現と市民公益に寄与することを目的とする。

(特定非営利活動の種類)
この法人は、前条の目的を達成するため、次に掲げる種類の特定非営利活動を行う。
 (1)保健、医療又は福祉の増進を図る活動 (2)まちづくりの推進を図る活動 (3)地域安全活動 (4)子どもの健全育成を図る活動
 当面は、高齢者や障がい者の通院や買物などへの移送サービスからスタートとなります。

 

上高地・光と影…

イメージ 1

 24日から27日までを上高地で過ごし、涼しい日中から夜も例年より温かく快適な4日間の恩恵を感じて帰宅したが、同時期に同世代の愛知県民が北アルプスで命を落としていた。

北アルプスの岩下降中に落下 2007年08月27日 朝日新聞
 
26日午後3時半ごろ、北アルプスの屏風(びょう・ぶ)岩で「岩登りをしていた人が墜落した」と上高地の横尾山荘から松本署に通報があった。
 調べでは、同日午後2時10分ごろ、愛知県豊田市井上町9丁目、会社員作田俊裕さん(56)が、屏風岩をロープで懸垂下降中に、ロープの支点のピンが抜け、約200メートル落下した。作田さんは、県警のヘリコプターで松本市内の病院に運ばれたが、全身を強く打っており、死亡が確認された。
 作田さんは25日に登山仲間の男性と2人で上高地に入り、26日、屏風岩を登って、横尾山荘近くのテント場に帰る途中だった。登山仲間と交代で懸垂下降をしていた。近くの岩場にいた別のパーティーが事故を目撃し、横尾山荘に連絡した。原因を調べている。

 さて、記事によると作田さんは25日に上高地に入り、翌日の午後に事故が発生しているが、私も25日に屏風岩に近い徳沢から新村橋まで足を延ばしており、同じ頃に同じような方向に歩いていた事と、26日午後に上高地の上空を轟音をたてて旋回する2機のヘリコプターから異常事態とは思っていたものの、帰宅後に新聞を開いてはじめて事故を知った次第である。

 さて、25日に作田さんが梓川の右岸を進んだか左岸を歩いたか進路が判らないが、写真上の新村橋(25日午後左岸から撮影)を眺めるか直接渡って横尾山荘の近くにテントを張った事は間違いがない。写真では見づらいが、橋を渡ってくる登山者(下山中)は確実にこの直前に作田さんとすれ違っているはずである。

 騒々しく河童橋を往来する観光客や、私のように避暑地として上高地を訪ねる者とは別に、上高地は登山者にとって重要な登山基地ともなっている。早朝の真っ暗な上高地から穂高連峰の頂きに光る登山者のライトはきれいに輝くが、登山者は重い足を進め、苦痛に顔をしかめている可能性も高い。

 今年の上高地は熊の出没情報(写真下)により、夕方や早朝の外出に注意が促されパトロールも実施されていたが、今回の事故からも上高地の光と影を見る想いでもある。帰宅後に積まれた4日分の新聞を読み、いとも簡単に人の命が奪われている事件と重ね併せ、事件や事故で亡くなられた人々に合掌したい。
                              8月28日の一言

上高地での四日間を終えて…

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

 上高地の朝・私の指定席で(写真一番上) 私の指定席は、梓川沿いにあります。

 日中の上高地は人、人、人で河童橋周辺は都会のよう(2枚目と3枚目)になりますが、私の行動時間はあたりが真っ暗な午前4時から7時までが中心で、真っ暗な河童橋に一番乗りを果たし、一目散に指定席に向かいます。真っ暗な闇が徐々に輝きだし、遠くに焼岳がうっすらと姿を現すと、目前の北アルプスの嶺々にも光が届き、私は一時退散となります。

 下3枚は秋の色が出始めた梓川の河原と、自然のまま保存された原生林、小川のせせらぎを掲載しました。私の日中は気まぐれで、この環境下で、誰にも干渉されない一日を過ごす事に上高地の魅力を感じています。あくまで、大鹿流上高地ですので、真の魅力は今後随時紹介していきます。
                               8月27日の一言

上高地・三日目

イメージ 1

本日は、朝四時に起き、河童橋の一番乗りを果たし、朝の指定席で写真撮影です。
さて、午後も一人でカメラと一緒に、梓川の川原で瞑想の一日でした。
明日が最後の一日となりました。

上高地・三日目

イメージ 1

朝の北アルプス

上高地・二日目

イメージ 1

今日は一日こんな中でした。

上高地・二日目

イメージ 1

本日は午後から、明神から徳沢へ足をのばしました。
さらに横尾へ進み、新村橋から梓川を渡り、明神池まで戻り、穂高神社に参拝し、河童橋に戻りました。12時出発ー河童橋着17時半。本日は朝四時半から写真、家族は大正池まで行き温泉に入って部屋へ。
自分は一人で写真のみの一日でした。

上高地一日目・河童橋から

イメージ 1

藪原から沢渡へ、茶嵐駐車場からタクシーで上高地へ。
河童橋から望む北アルプス

上高地一日目・御嶽山霊神場へ

イメージ 1

一宮インターから中津川へ、国道十九号、木曽福島、御嶽山霊神場、祖父の石碑へ参拝しました。

上高地

 8月24日(金)より27日(月)まで、夏休みで上高地(長野県)に居ます(「毎日が夏休みだろう」とは言わないで下さい (  ̄ー ̄)*)。

 本日より3日間は携帯電話からの書き込みです。携帯カメラの感度が悪いので、帰宅後にまとめて写真で紹介します。

「一緒に行くかい」とは言えず…

イメージ 1

 明日から4日間上高地に出向く予定を立てているが、我々の準備する姿から明日以降を想定し、淋しそうに見ているのが愛犬『モモ』である。

 顔は黒いがれっきとした女性である。モモは二代目であり、一代目のモモは平成13年3月3日の生まれだった事から、桃の節句にちなんでモモと命名され我家に貰われてきた。このモモが同年7月に宅配便の運転手の開けた事務所の扉から道路に飛び出し車に轢かれて死亡した。白馬へ旅行に出かけた日で、次男の腕の中で命をおえた。

 悲しみが癒えない事から、同じ両親から生まれた同じような子犬を貰う約束をして、やっと一年後に生まれたのが掲載した二代目のモモである。真っ黒の体毛に残された白い模様や斑点も一代目と全く同じで生まれ変わりとしか言いようがない。買主は生まれた時から我家の犬と直感したと言う。

 さて、問題は4日間のモモの世話である。一代目のモモは、家中を走り放題の自由にしてあったが、交通事故の反省から現在のモモには、5キロの鉄のバーベルがつながれてある。日中の留守番は依頼してあるものの犬の世話までは頼めず、朝の食事とシモの世話は息子達が頼りとなるが、三男は試合に出かけ、長男は仕事で日中が不在となる。

 また、我々があまり可愛がりすぎて、人が外出することが悲しくてしようがなく、最近は少し慣れてきたようだが、家族の不在時(特に家内)は一日中元気がなく、ふてくされていると私が呼んでも寝たふりとなる。そんな犬を連れた旅行を楽しみたいが、上高地はペットの連れ込みが禁止されている。

 時々、定めを破って犬を同伴する人を見つけると、私だけが釜トンネルから歩いて、犬と一緒にテントで寝起きしようかと思った事もあるが、決め事まで破る事は許されず、毎年の厳しい別れ(4日間だけだが…)がやってきた。
 鉄アレイの横から我々を見あげる瞳は毎年同じである。「どうせ自分は置いていかれるんだから…」と言いながら、「一緒に行くかい?」の一言を期待して聞き耳を立てており、マバタキもしないのである。

 さあ、明日の朝が大変である。いかに判らないように出かけるかが問題である。幸いにも明日は三男が居る事と、土・日曜日は長男が居る事が救いであるが、犬が外につなぎっ放しだった過去とは違い、我家では犬も完全に家族の一員となっている事を実感する旅立ちである。
                                8月23日の一言

NPO法人認証を控えて…

 今週末の金曜日から4日間を夏休みとして、家族4人(子供3人は仕事・三男は試合のため、家内と母と妹)で上高地に行く予定を立てているが、6月に申請してあったNPO法人の認証書が来週早々に送付されるとの事から、4日間の空白はその後の議会日程を絡めて厳しい日々を想定することとなりそうである。

 愛知県が発行する『特定非営利活動法人の手引き』を参考にすると、提出した設立認証申請書が愛知県公報で2ヶ月間公告・縦覧され、審査結果の決定通知は申請後4ヶ月以内と記されている。6月7日に提出した事から、9月中旬の認証を想定して9月議会後の手続きを予定していたが、法務局への法人登記が認証後2週間以内とされている事から、まさに9月議会と並行した手続きが求められてくる。

 議会の質問内容の選定も済ませていないが、議会後には会報の発行と同時に、新たな四国遍路も予定されており、考えると週末の夏休みが本当に最後の休みとなりそうである。予定より早い法人の認証だが、今まで提出した書類の訂正や書き換えが結構難しかった事から、登記にも苦労しそうな気配濃厚である。

 さて、NPO法人の設立は、今まで以上にボランティア精神を求められる。この精神を新たな店舗や会社の起業に振り向けるのと同じパワーを必要とし、なおかつ金儲けとき違う奉仕の延長とすることに一抹の不安が現存する。そもそも、50代のはじめに貯蓄や金儲けを否定して、ボランティアに徹する事ができるだろうか。

 設立中の法人名は『ひとまち生活ネット津島』と言い、無償ではありませんが有償であっても金儲けとはせず、地域で求められるボランティア活動を推進していく予定です。当面は、高齢者や障がい者が病院や医者に行く移送サービスや、買物の代行や付き添いからはじめ、清掃や洗濯など家庭内の手伝いなどに発展させていきたいと考えています。

 定款に記載された目的は下記のとおりです。
この法人は、市民活動の豊かで健全な発展と地域住民をはじめ広汎な市民各層の参加による市民主体のひとにやさしいまちづくりを推進するため、介護保険や支援費の対象とならない高齢者や障がい者の自立した生活、核家族の子育てなどを支える為に、優しさと思いやりの心のある、ごく普通の家庭の主婦や退職した元気な男性がボランティア活動として、清掃・洗濯・買い物・留守番・お話し相手・乳幼児のお世話・子守り、自力での移動が難しい高齢者や障がい者等の病院への通院などの移送サービス等、地域や家庭で必要とされ求められるサービス全般を提供する。市民、行政、企業が参画しそれぞれの責任を果たす市民社会の実現と市民公益に寄与することを目的とする。

 とにかく早急な役員会開催も必要となり、議会だけでなく新たな仕事が増える中で、「いつかは旅行社がやってみたい」とか「喫茶店もやりたかった」などと、今まで語っていた思いとはまったく違う方向に展開する人生に、多少の違和感が無いといったらウソになるが…
                                 8月22日の一言

探し物は出ず事務所は満杯に…

イメージ 1

 6月に愛知県に申請書が出してあったNPO法人の認証が、今週末には発送されるとの連絡が愛知県の担当課よりあったが、6月に提出して受理された書類の不備も2点あったとの話に、その後に提出する法務局への登記なども考えると、夏休みとは言ってはおれない現実がある。

 高校野球も明日が最終の決勝戦となり、敗れ去ったものの静岡代表の常葉菊川の最後まで試合を捨てない見事な試合運びに熱くなった一日でもあった。高校野球との出会いは高校時代の応援団長(上の写真)から始まり、8年前までは朝日新聞販売店主として球場設営やPRにかかわってきた。

 昨日常葉菊川に敗れ去った大垣日大の阪口監督をテレビ画面から眺めてきた。かつて愛知県の東邦高校の監督で「鬼の阪口」として、私の地元である津島市営球場でも奈良・天理高校との練習試合や、公式戦でもイチローの3年時や選抜日本一に輝いた年も津島市営球場から勝ち進んで甲子園出場を果たしている。当時を思い出すと年月の経過を実感するものの、「仏の阪口」と言われるようになった今でも、かつての阪口監督と同じ情熱溢れる采配に若さが欠乏する自分が恥ずかしく思えてきた。

 さて、阪口監督とのツーショット写真が我家には何枚か存在しているはずだが、探せども見つからず、かつて自分が撮影した写真が乱雑に放り出されて事務所は足の踏み場も無くなってしまった。それでも深夜まで探せども見つからず、撮りっ放しの反省と、今となっては整理どころか日時の特定もできない事から懐かしく写真を眺めるのみとなるが、時間までは当時にさかのぼれない。

 鬼と呼ばれた東邦阪口監督の写真を探し(3時間かかりましたが発見できず)ながら、今となっては歴史(とまでは言えないが)となりそうな写真が次々と発見されてきた。一方では、私の写した写真の中には、今は亡き多くの物故者の姿も残されている。所蔵する写真だけでも十分に個展ができると自惚れるものの、まったく残されていない日時等の記録にうんざりする一日ともなった。
                                  8月21日の一言

突然持ち出した日本酒に…

イメージ 1

 「やっぱり…、頼んでおけば良かった…、京都に行くんだったら買ってきて欲しかった」と、言われても後のまつりである。

 買ってきて欲しかった物は、大徳寺門前で売られている日本酒『雪紫』の事であった。添付した写真の雪紫は16日に訪問した際に店主から勧められた、夏季限定販売の純米吟醸生貯蔵原酒『ききょう』であるが、電話の主は雪紫の最高級の純米大吟醸が欲しかったのであった。

 私の性格というか、悪癖として、買ってきた物を『後生大事にしまっていく』性癖がある。特に自分が好きで買ってきた物は、最後まで置いたままにするために、日本酒についても勧めた知人から「おい、これッ酢になっているぞッ」と言われた事(実際には違いますが)があった。

 三日前の事であるが、6月に買ってきた『甘納豆』の賞味期限が7月末で切れており、密封した中身がベタベタに濡れており、安心しては食べられない事件が起こっていた。まさか、密封された甘納豆に賞味期限とは考えた事もなかったが、猛暑の時期だけに中身の水分により乾燥剤も濡れていた。

 そんな事から、本日の晩には十分に冷やした『ききょう』を飲むことに決めた。ただし、こんなときに何を持ち出してきても、それが何時に買ってきた物かが判らないので、自分勝手に出かけた京都行きが話題にもならないところが、私の悪癖の利点と言えば利点かもしれない。そうして考えて見ると、何所かに出かけて買ってきた物が、賞味期限がある事から人に差し上げる機会が無いままに詰み置かれている。

 さて、省みると、昨日の同窓会総会の昼食会場は寿司屋の座敷が借りてあったが、例年なら「飲み物は何にしましょうか?」と問われ、時節柄飲める人だけでもビールが注がれていたが、昨日は問われる事もなく、座卓には冷やしたウーロン茶がでんと置かれ、一同何も考える事なくウーロン茶を注ぎあって乾杯としていたのであった。

 かつては、酒があって当り前と思われていた料理が、何の違和感もなくウーロン茶で済まされている現実に時代の変化を感じずにはいられない。しかし、やはり食べ物には食するタイミングも重要である。突然持ち出した冷酒であるが、肝心の酒の肴が用意されずカレーライスではかみ合わない。
                                 8月20日の一言

恩師に案内を忘れた同窓会では…

 本日は1年に一度の中学校の同窓会総会が開催されましたが、昨晩から私の心の中に一抹の不安があり、それが早朝より現実となってはじめて、会長としての責任を痛感する事となりました。

 昨晩、戦後になって新制中学が創立されてから十数年勤務された最古参の先生に、出迎える車の配車時間を連絡したところ、毎年楽しみにしてみえる総会について認識されておらず、「理髪店に行く時間もないなァ」とつぶやかれたのであった。
 車を配車する時間を約束はしたものの、昨日開かれた元教育長の葬儀会場で出会った恩師から、総会の時間を確認されたことから、案内となる同窓会報が届いていない可能性も危惧していたのであった。

 それでも90歳に手が届く恩師の話ゆえに、忘れられたものと解釈し、車で二人の恩師を迎えて学校に到着すると、例年であれば早々と到着して校庭を眺めてみえる恩師達の姿はなく、玄関の受付にも記帳された様子もないため、教頭先生に確認すると「どこまで案内して良いか判らず、してありません」との言葉が返ってきたのであった。

 やはり、昨晩の一抹の不安が的中し、案内がなければ出席の可能性もない事から、私の迎えに行った恩師と昨日確認された恩師の3人のみとなったのである。例年であれば10名近い恩師の姿があり、「先生の同窓会」と皮肉まじりに語られた総会に、恩師への案内が忘れてあったのである。

 「今からでも連絡したら」との声もあったが、もう後のまつりである。昨年の総会で、「そろそろ、会長を辞めたい」と発言した私に、「後は大丈夫か」と厳しく言われた恩師の姿もなく、役員会のような総会になってしまったのである。
 ただし、卒業生の物故者法要は真剣である。お寺の住職が卒業生であり、先代住職は中学創立当初からの恩師である事から、二人がかりの読経と、先代の法話は物故者となった教え子を偲んで年々重みを増してくる。

 さて、本来であれば「どうなっているんだッ」とグチも言いたいところだが、引退を意識すれば自分自身にも確認を怠り、学校任せにしていた責任は重大である。昨日の桑田選手への激ではないが、このままでは終われない。引退を前提ではあるが「来年はこうしたらどう?」と適切なアドバイスを頂いたのは、十数年前に私がPTA会長を務めた時の校長先生であった。引退するから責任放棄では済まされない事を実感する一日となった。
                                  8月19日の一言

桑田選手の再起に今尚期待して…

 本日の夕刊には、元巨人軍のピッチャーで、大リーグに渡っていた桑田真澄選手が、大リーグパイレーツから戦力外通告をうけた事から、退団して帰国する事が記されてきた。

 私にとってはPL学園高校の一年生で甲子園に出場した時から応援してきた選手だけに、甲子園球場で熱戦が繰り広げられている最中の帰国に淋しさを隠し切れないでいる。多くの人々が39才の大リーグ挑戦を、パフォーマンスのように思っておられるかも知れないが、桑田の大リーグ挑戦により再起を目指しているPL同期の清原選手共々に、私は最後のエールを送って(本人達には届かないものの)期待を捨てきれずにいるのである。

 「これからについては、日本に帰って考えたい。まだ8月だし、今年はかなり無理をしたので、まずは体を休ませたい」と話し、「僕は何らかの形で野球にかかわっていくと思う。体と相談して、どうするか決めたい」とも語っている。
 シーズンの初めにケガをして、足の痛みが完治したプレーであったとは思えないが、人々の桑田を見る視線は厳しく、いまだに悪役のイメージを引きずっており、厳しい声も聞こえてくる。

 本日の高校野球の第4試合(下記参照)で、序盤から圧倒的リードを許した聖光学園だったが、ピッチャーの球を受ける捕手は、制球の定まらぬピッチャーにも最後まで嫌な顔や苦しい表情を見せずリードに徹していた。桑田や清原は高校野球の当時とは身体も風貌も変わってはいるものの、私は野球に対する情熱は変わっていないと信じている。

朝日新聞ニュースから
第89回全国高校野球選手権大会(朝日新聞社、日本高校野球連盟主催)第11日の18日、第4試合(3回戦)は広陵(広島)が聖光学院(福島)を8―2で下し、5年ぶりに8強入りした。

 聖光学院は2年生の左腕・佐藤が先発。広陵はエースの右腕・野村が先発した。2回表、広陵は先頭打者の林、山下の連打に続き、野村の右越え適時二塁打で2点先制。ここで聖光学院は佐藤をあきらめ、エースの鈴木健に投手交代したが、広陵は櫟浦が適時右前安打を放ち、3点目を挙げた。
 さらに広陵は3回表、2死からの4連続長短打で一気に3点を加えた。 聖光学院は、広陵・野村の速球と低めに決まるスライダーを打ちあぐね、6回まで3安打に抑えられた。7回途中、野村に代わって2年生の前田がマウンドに上がった。
 聖光学院は8点差で迎えた9回裏、広陵の三番手・森宗の代わりばなを攻め、渡辺が四球で出塁、続く末永の右越え適時三塁打でまず1点。さらに黒羽の犠飛で2点目を入れた。

 さて、桑田が活躍した高校時代には、私も朝日新聞販売店主として地元津島市営球場を愛知大会の会場誘致へと関わった事から高校野球に関係し、PLの桑田達と戦った中京の野中選手や、後には選抜日本一に輝いた東邦の山田選手達と接した事がある。

 本日の新聞報道から、「桑田は元々ダメだ」とか「清原なんか中田(高校球児)に比べれば」などと、子供達が身勝手に評論する言葉を聞かされ、自分の源まで消耗するような気持ちから、二人の奮起を身勝手に期待するものである。さて、さて、二人の結末は如何になろうか…
                                 8月18日の一言

届かなかった健康保険証に…

 記録的な猛暑が続き、岐阜県多治見市では74年ぶりに最高気温の記録を更新し、連日40度以上の気温が続いており、全国で昨日だけで12人が熱中症で死亡との報も流れている。

 昨日はそんな環境下で京都に出かけたが、送り火観賞で病院に搬送された人も複数目撃し、自分自身も辛い一日を実感していたが、本日は同級生の父親が昨晩倒れて亡くなったとの連絡があった。戦死した伯父と同級生であるから今年84歳を迎える年齢ではあるが、脳幹梗塞との話から外気温の暑さも影響した可能性もあり、一日も早く平生の環境に戻るよう熱望する。

 さて、以前の一言に、我家に転がり込んだ同居人Oさんが、住所地番の世帯主である私や家族の確認もないままに、他市からの転入届を市役所が受け付けた事を記した事があった。
ズサンな行政の対応に(8月1日) http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/23398648.html

 7月31日で解雇されたOさんは、職安に失業保険の申請に出かけたが、会社からの離職票が発行されてからの受け付けとされ、住所を我家にして求職中である。昨日は、健康保険証の発行を求めて市役所に出向いたところ、「郵送するから明日には届く」と言われて戻ってきたが、本日一日待っていても届かなかったのである。明日は土曜日で、月曜日まで行政の窓口は休みとなる事から仕切り直しである。

 ところが、夜に玄関のポストを確認すると、届けられた通販のカタログとともに、ポストの外側の地面に『郵便物お預かりのお知らせ』が落ちていたのである。差出人は市役所で、受取人はOさんではなく「大鹿様」と記されている。Oさんの話から健康保険証の預かり証と思われるが、受取人がOさんになっておらず、保管されている郵便物の種類は『配達記録』と記されている。

 中身についてはOさん宛か我家の誰かも全く判らないが、日頃身分証明書の明示を求める郵便局の配達担当者名も空白となっており、夜のために確認も明日に持ち越しである。本人が出向いても保険証を渡さず、郵送にて届けるのは確実な本人確認かもしれないが、前記のような受取人が特定できない郵便局の『預かり証』や、肝心の預かり証が門外のポストの下に落ちていたのでは、あまりにもズサンなお役所仕事と言われても弁解とはならないのである。

 落ちていた原因も宅配業者か郵便局かも特定できないし、市役所から「それは郵便局の対応が…」の言葉が返ってくるのかもしれないが、少なくとも窓口に出向いた市民への対応としては落第である。今回の選挙において、他人に成りすまして投票した選挙違反が市内で発覚したが、郵送された投票所への入場券が落ちている現場を目撃した事もある。

 今回の件にしても、Oさんは猛暑の中で体調を崩しても、保険証がない事から病院にも行けない可能性も起こりうる。このあたりの配慮が民間とは大きく違い、サービスと言うより配慮に欠けた行政の姿を、Oさんの失業による居候から見物させてもらえるのも勉強といえるのか…。
                                  8月17日の一言

京都へ(大文字五山送り火)

イメージ 1

 大徳寺に来ています。夕食後に船岡山で送り火観賞です。

 本日の午後になってから、「今なにやってるの?」と知人に京都行きを誘うために電話をした。あらかじめの予感はあったであろうが、まるでコーヒー屋に誘われるがごとくのやりとりで、知人と3人で車による京都行きが決定しました。

 いかにも突然のようではあるが、私にとっては平成3年以降毎年続けている年中行事で、17回目の送り火鑑賞になりました。京都は私のこだわりも多く、成人式も京都の知恩院に出向き、家内との新婚旅行にも京都を選んだくらいで、年末年始から春夏秋冬機会があるごとに訪れてきました。

 「おい、京都のどこにいくの?」と、車中でさかんに知人が問いかける。しかし、ここで行き先を話すと「なんだー、またそこかッ」と言われるので、私は無言のままで雑談していると京都に到着である。 

 送り火の鑑賞は市内各地に名所があるが、私は船岡山からの送り火が一番のお勧めである。もちろん自分一人であれば、加茂川の川原や高野橋など思いつきで考えるが、他人と行く場合には迷子の心配なく一番安心して鑑賞できる事と、嵯峨野の鳥居形を除いてすべての送り火が一ヶ所で見られるからでもある。

 「おーッ」、8時に東山から大文字のともし火が輝いた。「おッ、おッ」、次に『妙』と『法』が正面に輝く。そして、『船形』が左手に輝く。「おいッ、後ろ、後ろッ」と、左大文字がひときわ大きく輝いた。
 山の右側から正面へ。そして最後は後ろ向きに。人々は先を争って送り火の方向に移動する。しかし、ほとんどの観光客が30分もすれば下山をはじめる事から、人々の後を歩けば余裕の鑑賞となる。

 ただし、デジタルカメラの普及はカメラを身近な存在にはしたが、祭りにおいては大変な迷惑な存在となっている事を実感する。夜の真っ暗な背景ゆえに幻想的であった『送り火』が、前方の人々が高々と差し上げるデジタルカメラや携帯電話の明かりによって、送り火が遮られるばかりか、後方のご婦人は「前の人のカメラに映っていたから」と、見えないままに下山していったのである。

 さて、いつもなら人々が下山する最後まで居座るのであるが、本日は知人を残して急いで下山である。ここでも毎年の繰り返しで、私流のこだわりがある。
 船岡山から歩き、大徳寺門前の『細見酒店』を訪ねると閉店の段取り中ではないか。「今日はもう閉店ですか」、「えッ、えー」、「こんばんわ」、「おいッ、先生やッ。おい、先生がッ」と家族総出である。私のこだわりである日本酒の『雪紫』はここにある。
 山国屋細見酒店 http://www6.ocn.ne.jp/~kitaru/syouhin/index.html

 この店を訪れるようになって何年になるのだろうか。「私は雪紫しか飲まない」と宣言してからも数年が経っている。年末と本日は必ず訪問する事に決めているが、相手にもその事は伝わっており、相手から私への商売抜きの対応に「困るからそれだけは」と固辞しないと行く度に損をさせる事となる。「来年はうちの屋上から観て下さい」の言葉を土産に、買い求めた雪紫2本と京都を後にして岐路についた。(到着は0時30分)
                          8月16日の一言

そうだ、京都に行ってこよう

 今から京都に行ってきます。「あッ、そうだ。京都に行こう!」の感覚で、毎年の行事『五山の送り火』を見てきます。 午後1時40分、行ってきます~


62年目の終戦記念日に…

 太平洋戦争が終わって、本日で62年の歳月が経過したが、新聞やマスコミの報道スペースも目減りした感は否めない。日本の全国各地で、戦没者の追悼や平和式典が開催されているが、ここでは、日本の身勝手な侵略戦争による近隣諸国の多くの犠牲者に対する哀悼と、人々に与えた苦痛を反省する一日としたい。(関係する映像をゆっくりご覧下さい)

太平洋戦争へ(アメリカ) http://jp.youtube.com/watch?v=fMQTFEMUlTw
太平洋戦争開戦ラジオ放送(日本昭和16年12月6日) 
               http://jp.youtube.com/watch?v=r4xKhHfLB0s
南京大虐殺 http://jp.youtube.com/watch?v=FMKZzZREqh8
        http://jp.youtube.com/watch?v=RdGcvly2B54

学徒出陣(昭和18年) http://jp.youtube.com/watch?v=4eATXw4QxYE
南太平洋戦線 http://jp.youtube.com/watch?v=a32BOVCQGD4

山本五十六連合艦隊指令長官戦死 http://jp.youtube.com/watch?v=BfJw6qlFGbg
沖縄地上戦 http://jp.youtube.com/watch?v=pbo1fyeaZ9s
本土空襲 http://jp.youtube.com/watch?v=BfJw6qlFGbg

神風特別攻撃隊 http://jp.youtube.com/watch?v=07Qq8R3f-94 
         http://jp.youtube.com/watch?v=QsGJ1ZCxpAQ
東京大空襲(昭和20年3月) http://jp.youtube.com/watch?v=5yJLhZescY8
広島物語 http://jp.youtube.com/watch?v=swGpI48F6xU

 人間が一人殺害されても大事件として報道される現代において、過去の事とは言え、多くの人間が虫けらのように殺され、街ぐるみで焼かれた太平洋戦争の歴史を二度と繰り返さないためにも、戦争を体験していない我々が後世に伝える責任を痛感する。

 広島、長崎、東京と、自国の被害については被害者のように訴えて平和が叫ばれるが、日本の侵略戦争によって家族や肉親を殺戮された中国や朝鮮の人々への謝罪が十分とは思われない。膨大な資料の限られた一部分ではあるが、我が身に置き換えて考えてみたい。
                          8月15日の一言

お盆

イメージ 1

 本日はお寺の施餓鬼法要が行われましたが、来客によって予定より一時間遅れの参拝となりました。先祖の逆鱗に触れたのか、我家の墓はフライパンのように熱くなっていました。
                             合掌

高速道路の死亡事故が繰り返され…

 12日に岡崎市の東名高速下り線で、盆休みの帰省によって渋滞中の車列に大型バスが追突し、最後尾の車から母子が亡くなり、30人を超える負傷者が出る大事故が発生している。

 高速道路の事故は死亡事故に至る大事故が繰り返されており、その都度問題点の指摘と調査が行なわれているものの、事故が減るどころか、事故が日常化し、特に大型営業車による事故により一瞬にして多くの犠牲者が発生する。
 今回の事故でも、大型観光バスはほとんどブレーキもかけないままに乗用車に追突しており、被害車輌の中には運転手が迫り来るバスを見ながら、どうする事もできないままに被害に遭遇しており、大型車輌によるうっかりミスの防止は、高速走行時代には欠かせない至上課題でもあろう。

 最近の高速道路を80キロで走行する車は珍しく、逆に安全なスピード確保が渋滞を招き事故を誘発する可能性もあり、スピードアップの安全対策として車間距離を確保すれば、次々と車が割り込んでくる。おまけに大型トラックが車間距離を開けずに10メートル間隔で走行したり、登坂車線から追い抜いていく車も珍しい事ではない。

 まったく前方の道路状況が判らず、10メートル前のトラックのカベしか見えない車では、一瞬のミスが事故に直結し、避けようもない事は判りきっている筈だが、それが当り前として続けられている。大型車にはエンジンへの規制も実施されたが、相変わらず車線規制は守られず、乗用車と同じ感覚で運転されているとしか思えない。

 せっかくの親元への帰省や、家族の行楽が一瞬にして暗転する。これは誰にも例外のない現実であり、自分の後ろから追突してくる車までは防ぎようもない。これだけ、大事故が続く中で、運転手に責任があるのは当然であるが、車間距離の確保や安全スピードへの自動制御は自動車メーカーの技術力で対応が可能な現状にあり、対応を急いでもらいたい。

 一方で、人間の限界がある。私も最近、高速道路で居眠り運転をした車の助手席にいた経験がある。一度居眠り運転を経験した運転手は必ず繰り返すとの話である。カーブを曲がろうとしない車にビックリし、ハンドルを引っ張ると運転手が「ハッ、ビックリした」と居眠りが発覚した。こんな経験をすると乗せてもらうのも怖くなる。
 しかし、自分の運転にも限界があり、再度運転を代わってもらい、眠さを堪えていると、「あーッ!」との叫び声と、『ガリガリ、ガ-』とガードレールに接触する音でハッとした。自分の眠りと運転手も一緒に居眠りをもよおしていたのであった。

 幸いにして車の片側の全損であったが、「お大師様のお陰」と言って走行が可能(帰宅後即廃車)で帰宅できたが、それ以来助手席にあっても眠ることができず、私の長距離行きにも家族が心配する事から、事故そのものも封印されてきた。この事からも、助手席に座る者の責任も感じずにはいられない。
                             8月14日の一言
 

50年前に想いを巡らせた盆行…

 本日は盆の初日にあたり、我家では地域の檀家を盆参り中の僧侶二人(一人が叔父)が待ち合わせて昼食をとるシキタリとなっているが、「おばあさんが楽しみに待っていてくれて…」との叔父の言葉で、50年前の我が家の様子を垣間見た気がする一日となった。

 多くの檀家がある中で、我家で昼食をとるシキタリは、幼少の頃にお寺に預けられた叔父の関係から、兄弟弟子の現住職と叔父が我家で待ち合わせて昼食となり、休憩後に午後の檀家廻りに出かけてきたのである。
 最近は叔父の体調不良(高齢)によって、他の若い二人の僧侶と4人で檀家廻りがなされており、住職と叔父以外の僧侶は昼食のために帰宅されており、「他の坊さん達はどうしたら…」と家族の議論にもなっているのである。

 50数年前の時代背景を考えると、炎天下を自転車で帰るのも一苦労であり、我家での昼食と休憩が歴史として続けられてきたと思うが、最近は車社会で簡単に自宅に戻られる事を考えると、迎える当方の苦労よりも他人の家で昼食を取る気苦労もあるのかも知れない。

 昭和初期に話を戻すと、交通事故によって突然働き手の両親を失った我家では、幼少の叔父を『小僧』として旦那寺に預ける事となった。いわゆる生活のための『口減らし』であった。この事について、平成5年に他界した私の父親は、「弟には苦労をかけた」と語り、預けられた寺から逃げ帰ってくる幼少の叔父の様子と、叔父を連れて寺の近くの橋まで送って行った祖母や兄弟の様子を聞かされてきた。

 このまま家に迎え入れたい気持ちを殺し、祖母は生活の為に戻ってきた叔父を、何事もなかったかのように寺に連れ返していたのである。当時では我家から歩いて30分ほどかかる距離まで付き添い、叔父が寺に入っていくのを皆で確認後に、祖母は泣きながら孫の父親たちと帰宅してくるのであった。突然の事故によって、60を過ぎた祖母一人に4人の孫を抱える一家の生活が圧し掛かっていたのである。

 「お寺に行けば、きれいな着物が着せてもらえるぞ」などと、叔父は言い含められて寺に行ったのである。「おい、絶対にお寺には連れて行かれるなよ」とは、戦死した伯父が私の父親に放った言葉である。小さな手のかかる子供より、年上の父親が第一候補になっていたらしく、戦死した兄からの入れ知恵でもあった。「苦労をかけた」との父親の一言は、このあたりの身代わりにした後ろめたさがあったのではないか(これは私の推測)

 「そんな事はない。兄貴も次に他のお寺に貰われて行くはずだった」と、父の他界後に叔父から聞いたことがある。しかし、これも作り話らしく、そういうことにして幼い叔父を納得させたのであった。このあたりは戦死した伯父の『悪知恵』が大いに発揮された様子でもある。(戦死した伯父については先進的エピソードもあるが。これは後日に…)

 そんな幼少期の苦労から、最高学府まで出してもらい僧侶として一人前になった叔父を『盆の昼食』で迎えるのを、私の父親や祖母(私にとっては大祖母)は楽しみとしていたのではないか。そして、このことを知りうる私は、我家の歴史と伝統としてこれを続けていく価値観も実感している。

 さて、人生は分からない。知恵の働く伯父は無言の戦死をし、14才で満州鉄道に渡った私の父親は苦労の末に65歳で他界し、「足腰が悪い」とは言いながらも叔父は80歳に手が届くところまできている。そして、自分の孫を寺に送り出した祖母の47回忌が今年10月に迫っている。そして、「戦死していない」と言い張っていた横井庄一の母親(我家の祖母の妹)は今年50回忌を済ませ、庄一(敬称略はちょっと無礼か)は今年の9月に死後10年目を迎えようとしているのである。我家はあの世の方が賑やかしそうでもある。
                                 8月13日の一言

追伸
深夜の仏壇の中から、私に「真実とは違うゾッ」と批難轟々かも知れません。「何でお前に庄一と呼び捨てにされないかんのー」、「会った事もないのに悪知恵とはなんだ!」等など、現実には聞こえてこない先祖の声が聞いてみたい心境です。

日帰り強行遍路より一日が経って…

 昨晩に四国松山から帰って、まだ一日が経過していないが、無計画で何も考えずに突っ走った結果を冷静に考えさせられる一日となった。

 前日(9日)の夜九時に愛知県を発ち、(10日)朝七時に松山市の太山寺に参拝し、四国を縦断してから帰宅したのが昨晩の十一時であった。帰宅後にブログに書き加えようとパソコンの前に座ると、四国から携帯メールで送った写真に対して既にコメントが寄せられていた。

 一晩眠らなかった割には、昨晩も本日も変わることなく生活しているのは、日頃から不摂生な生活を続けている証とも言えるが、よくよく考えてみると、出発前に家内に言われた一言が的を得ており、無計画な思い込みこそ本当にムダでもったいない結果を招くのである。

 「お父さん、いいかげんにしてよ!突然何を言い出すの!!」、「突然だが、オレにはこうするしかないのだ!」、「行くのは勝手でも、いくらかかると思っているの?」、「うるさい!!オレには日にちがない!」、「いくらでもあるじゃないの?」、「今年は今日しかないのだ!!」と、無理やり家内を納得させた松山行きでもあった。

 夜行日帰りに要した費用はカード決済のため来月の支払いになるものの、一日で四万円ほど使った事になる。本日パソコンに座り、私のHP『朝日旅行友の会』http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage101.htmを眺め、長距離バスの案内を見ていると、夜行で出かけて夜行で帰ってくれば二万円もかからない事と、一睡もしない苦痛と家族の心配もない事から、「こんな事なら、家族と一緒に出かければ良かった」と思われてきた。

 時すでに遅しであるが、冷静に考えればそんな事と思われるが、日程が詰まると冷静な判断もできなくなるのであろう。こんな事なら、意固地になって買わないと決めたデジタルカメラが買えたじゃないか。
 他人のブログ(千のゆるりさん)http://blogs.yahoo.co.jp/thanks_always/34893292.htmlを読み、四国遍路で夫婦ゲンカをする二人のマンガにコメントを寄せている場合じゃない。共通するのは『男はなんとバカなのか』ということである。

 さて、四国行きも、長距離バスが名古屋から徳島、高松、高知、松山と各地を結んでいる。そんな事を考えると、歩き遍路も自転車による遍路もと、また余分な発想が頭をよぎってくるが、一日で走行距離一千と31キロ走ってきたのが信じられない今がある。
                          8月11日の一言

善通寺ー五百羅漢

 これから帰途につきます。

 四国に来て、弘法大師の出生の地『善通寺』に参拝せず帰るのは失礼です。金堂と御影堂に参拝し、昨晩から一睡もしていないので、横になる場所を探しましたが、真夏日であり、ベンチには風もなく、聖天堂の陰で横になっていると、目の前の遍照閣では「お砂踏み」が開催されていました。

 帰途は、善通寺インターから瀬戸中央大橋を渡り、与島パーキングエリアで休憩後、龍野西SA、大津SAで夕食(夜食)後に関が原から午後11時に帰宅。帰りの通行料は1万円と6百円。ガソリンが3ヶ所で、1万1千359円(プラス3千円位がタンクの減り分)、善通寺駐車券2百円、食費3千円位でした。
 ただし、通行料とガソリンはカード決済ですので、来月になってからの家内の顔が今から心配です(笑)が…。ここまでして強行した四国行きですが、12月の公認先達講習会の日に、12月議会の日程が空白になる可能性は極めて低く、仮に空白ができたとしても、今回より厳しい、徹夜で走り、翌日一日講習後の夜帰り、翌日は議会なんて事になりそうで…
                                 8月10日の一言

第七十五番 五岳山(ごがくざん) 善通寺(ぜんつうじ) 誕生院(たんじょういん)
http://www.nbn.ne.jp/~club88/0175.htm

弘法水

 西条市の弘法水を見つけました。

 四国の「ことししさんのブログ」http://blogs.yahoo.co.jp/romorin_tomo/archive/2007/07/17 を読んだ予備知識で、伊予西条市の弘法水を尋ねました。
 「あった!」道路で道しるべを見つけ感動です。そして、ついでに、石鎚山本宮を参拝し、御神水も飲んできました。久し振りに西条市でゆっくりし、お遍路でもこんなゆったりとした時間はなかった事を実感しました。ついでの寄り道は香川県まで続けました。
                                つづく、

四国遍路

 本日は愛媛県の松山市の太山寺を訪問し、このまま愛知県に帰ります。

 旅立ちは昨晩の9時の事であった。8月の日程を眺めていると、空いた日程がほとんどなく、盆過ぎの16日は京都の送り火に出かけ、月末は家族の夏休みで上高地行きが決まっており、9月議会の議会運営委員会の日程も既に入っており、その他の公的行事や約束事で埋め尽くされている事から、盆前の昨晩と本日しか空いた日が無かったのであります。

 「8月までにはお邪魔します」と、6月に太山寺を参拝した折にご住職に伝えてあり、私のような者を四国八十八ヶ所霊場会の公認先達に推薦していただけるご厚意を無にするわけにはいかず、「突然、何を考えてるの?」と怒り心頭の家内から、何とかではありますが、「気をつけて行ってよ」と送り出されての訪問ゆえに、皆さんご心配なく。(早朝、長女から心配のメールも入ってきました)

 (少しでも経費を浮かすため)関が原のインターから入り、大津、龍野で休憩し、(瀬戸中央大橋経由)、豊浜SAで讃岐うどんを食し、松山市には午前4時半に到着。太山寺の近くのジョイフルで朝食。
 7時半にお寺に参拝し、ご住職と話を済ませて、そのまま愛知県へとんぼ帰りである。しかし、高速道路と瀬戸大橋の通行料だけで、片道1万2千750円もかかっておる事から、気になる所に足を延ばす事としました。
                                   つづく
第五十二番 瀧雲山(りゅううんざん) 太山寺(たいさんじ)
http://www.nbn.ne.jp/~club88/0152.htm

それぞれの戦後に…

 本日は長崎に原爆が落ちて62年目となり、現地では犠牲者の慰霊と平和祈念式典が開催された。広島と並ぶ原子爆弾の被災地であるが、久間発言に対する抗議は強いものの、逆に久間発言によってマスコミの扱いが多いのも、皮肉のように思われてくる。

 「久間さんの発言は許せないが、あれで原爆の脅威がもう一度、国民に思い出された意味は大きい」との発言は、長崎県被爆者手帳友愛会の会長を務める松本七郎さん(75才)の言葉である。原爆の悲惨さは言うまでもないが、あまりヒステリックに叫ばれると、「空襲で焼け死んだ人々の悲惨さも同じ」との反発を感ずるが、松本会長の発言は当事者だけに説得力があり、「戦後生まれの議員が増えた。核武装や憲法改正と簡単に言うが、原爆や戦争についてどれだけ認識しているのか」の言葉に、戦後生まれの一人として真摯に耳を傾けたい。

 私が戦争そのものを意識したのは、昭和47年1月にグアム島から横井庄一が発見された時にさかのぼる。当時は不良の部類に入る高校生だったが、横井庄一の親族だった事から、関係して発行される本や雑誌から、戦争を見る事になった。ただし、当時の横井庄一は時の人であり、その後においても生き残って発見された事から、戦争の悲惨さは感じてはいなかった。

 しばらくして、私の生涯において信奉する「鶴田浩二」の唄のファンから、世の中にビデオが普及しはじめたことにより、鶴田浩二の映画を見るようになり、彼が海軍の生き残りで、機会がある度に戦争の悲惨さを訴え、映画で演じるとともに自前で遺骨収集をしている事を知る事となった。しかし、これも悲惨さよりも鶴田浩二の魅力に酔いしれていただけであった。

 平成5年7月2日、私の父親が65才の生涯を閉じた。父は戦争中に中国の満州鉄道に勤務しており、その関係から満鉄の吉林会(ちいりんかい)に入っており、亡くなった後にも仲間から連絡が届き、中国で世話になっていた現地人と手紙を交換し、ラジオ等を送っていた事も知る事となった。中国残留孤児の住所が自分のいた場所に近いことから、厚生省に連絡し、中国語で彼らと話したり、退職後は中国の現地にも渡っていた。

 親が亡くなって初めて親の過去を調べ、その関係から戦死した親の兄の存在と、戦死した伯父が戦地から我家に送ってきた20通の手紙を見る事となった。横井庄一が我家に送った2通と併せて読み直すと、戦死したことになっている伯父は死ぬつもりもなく、生きて還るつもりで手紙を出している。又、満鉄職員から少年兵へ志願したい私の父に、「絶対に志願するな」と手紙を出した事や、自分の弟となる私の叔父や叔母の心配まで綴られている。

 私にとって仏壇に飾られた遺影として、声も聞いた事がない伯父の存在であったが、父親の志願を止まらせた事が我家の現在につながっている事を実感した。前にも記した事があるが、伯父は昭和19年6月21日時刻不明沖縄本島小渡で戦死している。しかし、沖縄県に問い合わせても地名すら特定できず、連絡すら皆無である。

 グアム島から横井庄一が発見された時、「うちの兄貴も何所かで生きている」と私の父は話していたが、本当に生きていると信じていた様子でもあり、それまでは私を戦死した兄の生まれ変わりと思っていたフシもあり、そう考えると横井庄一記念館で留守番をする度に、伯父の戦死した場所に立ちたいと思うようになってきた。ただ、私の自己満足だけでは伯父もうかばれない。戦後生まれの私に何ができるのだろうか…。
                               8月9日の一言

地方議員の存在が無視された議論に…

 本日市役所で親しい市職員に、政治資金規正法に対する国会での与野党の発言を巡り、無党派無所属の地方議員の立場で異論を述べてきたが、この件で本日の朝日新聞夕刊ナゴヤマルにも市民の投稿があった。

 大垣市の65才の男性からの投稿だが、政治資金規正法改正の議論に、自民党の一部から反対論が出ている事を批判し、「切符や慶弔費は領収書がとれないと言うが、切符は旅行社か駅でとれるはず。慶弔費以外の支出はすべてとれる。こんな常識的なことも分からず議論している国会議員は情けない」と結ばれている。

 私はこの人に対して逆に異論を返したい。下に添付したが、政治資金規正法の目的を考える時に、全国すべての政治団体がその対象になっているが、地方議員の多くは政党からの助成金もなく、政治資金パーティーを開く事もなく、寄附すら全く無い議員がほとんどである現実である。

 国会では領収書の金額を5万円から1円以上にする事が議論となっており、一般市民の常識も税務署への申告が1円単位である事から、それが当り前と思われているが、自分の報酬だけで政治活動をする者にとっては、すべてが自分の生活費を切り詰めているだけで、電車の自動券売機が当り前の時代に、領収書をもらう必要があるのだろうか。自営業者の税務署への申告は1円でも経費として認められるが、地方議員には経費として控除されるものは何一つ無い現実が理解されていない。

 ただし、政治資金規正法では、第25条で「次の各号の一に該当する者は、5年以下の禁錮又は100万円以下の罰金に処する。」として1.第12条又は第17条の規定に違反して報告書又はこれに併せて提出すべき書面の提出をしなかつた者など、23条から28条まで細部にわたって多くの罰則規定が定められている。

 さて、今月に入って私の政治活動として、2日には津島市から岐阜県の恵那市まで明知鉄道の現地勉強会に参加したが、無人駅で自動券売機と自動改札を通り、JR名古屋駅も自動券売機である現実から、すべてに領収書が必要とは現実的とは思われない。4日は名古屋市で開催されている県主催の講座に参加したが、車で出かけて確実に経費はかかっているが、経費の正確な算定は難しい。

 議員年金についても、この政治資金規正法についても、国会での議論とはまったく違う地方議員の存在が一般市民にはあまりにも理解されていない。法の目的と主旨は重要だが、自分の報酬から支払う活動費まで1円単位の領収書を地方議員にまで求めるのは異常としか思えない。

 最後に、地方議員の身分は『無職』である。住民の要請を受け、市役所職員と一緒に現地に出向き、車に跳ねられて死亡しても職員には市役所から退職までの金銭的保障があるが、議員には自分で積み立てている共済会(公的補助はあります)の一時金しか支払われないし、労災保険もありません。

 閣僚や国会議員の失言や過ちから、熱心な議論を展開するのは勝手であるが、国の税金を不正に流用して過ちも認めない閣僚や、与野党逆転の政局の中で議論が展開され、自己資金で政治活動を続けている地方議員の存在が忘れられている事は淋しい現実でもある。
                                8月8日の一言

政治資金規正法について・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
政治団体に対して設立の届出と政治資金収支報告書の提出義務を課して政治資金の流れを明らかにするするとともに、政治活動に関する寄附(政治献金)や政治資金パーティーの制限、株式などによる投機的運用の禁止など政治資金の取り扱いを直接的に規制し、違反した場合には罰則なども課せられる。 なお、報道などでは政治活動に関する寄附のことを政治献金と呼ぶことがあるが、これは法律に定められている用語ではない。また、寄附だけでなく政治資金パーティーのパーティー券の購入をあわせて政治献金と言い表す場合もある。

尾張天王川祭りに対する苦情が殺到し…

 本日の朝日新聞夕刊の投稿欄ナゴヤマルに、「祭りぶち壊した若者の無粋な行動」と題して、津島市の天王川宵祭りについての苦言が掲載されてきた。

 文面からポスターや写真と違い、実際の本物は本当にすばらしかったとあるが、巻わら舟が近づいた時、舟に乗っている若者達が携帯電話をかけたり、ペットボトルを飲み始め、カメラやビデオを撮っている人々の前でのふるまいに、盛り上がっていた気分が一気に冷めてしまったと記されていた。

 投稿者は名古屋市中村区の女性であるが、せっかく遠方から来られた観光客の目前での醜態に、多くの観光客にも同様の気持ちを与えていた事は間違いがないらしい。
 又、一方で、毎年私は記しているが、発表では22万人の人出と発表されている見物人についても疑問の声が多く、特に今年は県道名古屋津島線を通る車の量やバスの乗客が昨年より確実に少なく(毎年減少の一途)、この事は複数の指摘もある事から、人出の減少を減らすためには正直な議論も必要と思われる。

 もちろん、津島神社の神事である事や、祭りの運営にかかわる当事者の問題であるかもしれないが、津島市の厳しい財政状況下からも支出を要する事から、本日の投稿者や人々の声を真摯に受け止め、真剣な改善を求めたいものでもある。
 下記の書き込みは東海掲示板津島総合に投稿された内容の転載である。

24 名前: 東海子 投稿日: 2007/07/29(日) 11:41:13 ID:Kb86peT. [ 125x103x0x217.ap125.ftth.ucom.ne.jp ]
天王祭の朝祭りを始めて見た感想を1つ。
船に乗っている人がジーンズ、ズック、半纏も着ていない、人形がマネキン
これが文化財で、税金を使って維持している伝統行事なのか
津島の祭りに対する意気込みと役所の認識の低さ、甘さにびっくり仰天
こんな祭りを織田信長が見た、といって、はずかしくないのかです。ポスターの出来はとてもいいのにね。

28 名前: 東海子 投稿日: 2007/07/29(日) 16:30:52 ID:yP.2IwzA [ user060135.clovernet.ne.jp ]
服装の件は市江の船だけじゃない?
津島の船はそんな人いなかったよ。
市江は津島市ではないからいろいろあるんじゃない?
また、人形は船によってマネキンだったりわらで作ってあったりしてたね。
これはマネキン廃止するべきでしょう。
ちなみに文化財といっても無形文化財ですよ。
残念なことも多々ありますが、これだけ宗教問題にうるさい地域でいまだに
これだけの規模の祭りが残っているだけでもすごいことでしょう。
不満があるなら市民をあげて盛り上げていきましょうよ。

31 名前: 東海子 投稿日: 2007/07/31(火) 00:28:13 ID:tMOK8i56 [ eaoska269071.adsl.ppp.infoweb.ne.jp ]
人形がマネキンなのは違和感がありますね。遠方から来た観光客はそう思うでしょう。
500年以上前から続いているこの神事にふさわしいものとは思えません。それと船の幕にかけてあるヘルメットもいただけません。船の組み立てが終わったら見えない所へ片付けるべきでしょう。
祭に参加している氏子の人はどう思っているのでしょうか。神事ですから、部外者の私が言っても関係ないと言われればそれまでですが。

「津島の人が川祭りに行かんでどうするのー」と言われた人もあるが、津島市民であっても満足に座る場所もなく、我家から歩いて行ける距離でもない。そして、上記の地元の人々の投稿や、他都市からの観光客の投稿を見るかぎり、少なくとも「来てください」と言えるようなもてなしの心は皆無ではないか。津島市の市政全般を映しているようにも思われ、確実な改善を必要としている事は確実であろう。
                                8月7日の一言

3年も見過ごされていた間違いに…

 夏休み気分ではないが、議会開催月でない8月は、必要な窓口に出向く事はあるが、市役所へ出向く足が少ない事を実感する。

 本日の窓口でも、用件を持って市役所に出向いた住民が、担当者や管理職が夏休みをとっている事で、伝えたい想いが伝わらず押問答する場面に遭遇した。私の知る人ではあったが、「おい、あんたとは先輩と後輩の関係だったとなぁー」との話から、私の大学の先輩である事が判り、「じゃー、〇△さんもご存知ですか?」、「知ってるよー」との会話が続き、市役所への用件を私からもお願いして、久し振りのコーヒータイムとしたのであった。

 「オレは問題のある人らしいからなー」と言われるが、70才を越したとは言え、公的資格を有する人であり、まさか自分の大学の先輩との意識もまったくなかったが、選挙中に70代の知らない先輩からも訪問を受けており、自分の知らないところにも多くの縁故者がある事も実感し、心強さの反面で行動の責任も痛感した次第である。

 さて、本当に厳しい財政状況下にあって市役所の職員に危機感はあるのだろうか。いくら認められた制度とは言え、部長も次長も課長も不在とは一般企業の感覚からすれば異常である。本日訪れた窓口も、担当者はいたものの課長も不在であり、用件は伝わったものの、私が議員でなかったらどうなっていたのか…。

 予約が入れてあった歯科医では、診察後に津島市の医療についての議論が続いた。こんな真面目な議論が市民病院の関係者を交えて進められれば有効だが、話が長引けば待合室の患者さんを待たせ続ける事から、受け付けの顔色を見ながらの会話だが、「お待たせしてどうもすいません」と、私が患者さんに謝っての退出となった。

 と、思えば、約束してあった資料がメールに届かない事から、市民病院に電話すると依頼したアドレスではなく、ヤフーメールに届けられており、「ホームページのメールアドレスが間違っていた」との指摘を受ける展開である。私の事務所として表記したメールとは違う、ホームページ『ご意見箱』の宛先が「Yahoo」であるべきところが「Yafoo」となっており、担当者が依頼したメール宛先と違う所に発信した事で、当方のリンク間違いから受信しない事が発覚したのである。

 ホームページを開設して3年以上経過している事から、多くの方々の不信を招いている可能性と、それでも受信箱に届いていることから、皆さんの配慮に感謝した次第でもある。アドレス間違いが発覚した事と同時に、本日は久々に大鹿への手紙が郵便局にも届けられていた。
                               8月6日の一言

続・本日も気持ちは上高地へ…

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 本日は予定どおり横井庄一記念館の一日で日程を終えた。と、思っていたら、夜7時には交通事故の交渉に立ち会う約束があり、久々に「田舎に泊まろう」が見えると思っていたが、またもや来週に持ち越しとなってしまったのであった。

 「オレよー、これが最後になるで、これから来れんでよォー」の一言は、昨年の横井記念館開館以来、何度も訪問されているYさんのつぶやきであった。奥さんが人工透析を受けておられ、Yさんも昭和3年生まれである事から、口癖のように語られる一言のようだが、館長(横井夫人)が昭和2年生まれで、ボランティアのTさんが昭和4年生まれである事から、見送る姿はいつも通りであるが、「また来て下さいよー」の声にも寂しさが感じ取れる。
館長が珍しく玄関から出て、道路まで見送った事が「何か」を感じられずにはいられなかった。何事もなければ幸いであるが…

 さて、これを記しているとゲストブックに美しい上高地の写真のプレゼントが…。私のパソコンの正面にも上高地のカレンダーが貼ってある。写真家の中沢義直氏の撮影したカレンダーは、明神池の穂高神社奥宮の社務所で毎年買い求めてくるが、6年前から保存しており、保存のきっかけは家内が月の変わりにカレンダーを破り捨てた事であった。

 こうなると仕事に身が入らず、上高地ビジターセンターの発行した散策ガイドブックとマガモ新聞にクギ付けとなる。こうなってしまうと記念館を記す気持ちも萎え、頭の中は上高地一色である。「癒しに繋がる事を希望しています」のコメントは十分に伝わりました。

 写真上から、明神橋で出合ったニホンザルの親子(16年8月)。中・明神池で寄ってくるマガモ(18年8月)。下は小梨平で深夜真っ暗の中でゴミを漁るタヌキらしき動物(13年8月)。その他、上高地にはオシドリやキジバト、イワナやカワマスなど(ヘビもいます)動物や昆虫の宝庫です。
                                    8月5日の一言

上高地へのこだわりが突然と湧き…

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 昨日の一言に対するコメントに旅や上高地の名前を見たことより、上の3枚の写真を添付しました。上高地は学生時代の昭和50年夏に家内と二人で岐阜県の西穂山荘より稜線を下って入ったのが始りであった。(ちなみにこの時はテント持参の重装備であった)

 上高地は翌年にも長期で滞在したが、昭和52年に起業してからは日帰りのみで、平成11年に議員となってからは、家族全員で夏休みとして訪れるようになった。3泊4日の日程で、2日目に焼岳に上り、3日目に明神池まで足を延ばすのを定例として続けてきた。

 しかし、最初は一緒だった長女や次男が減り、昨年まで一緒に同行した三男も高校の試合や合宿で本年は来ないことが決まっており、家内と私の妹と、年老いた私の母親の4人では「慰めあい」のような夏休みとなりそうである。
 もっとも、私の上高地へのこだわりと家族の思いとは雲泥の差があり、一人で手紙を書き入れたり、大自然の中での小さな自分を実感したい私と、バーベキューや温泉に喜びを見いだす家族とは大きな違和感があったのである。

 一番上の写真は、平成15年8月21日の早朝、梓川ぞいの小梨平で撮影した写真であるが、明神岳と六百山の谷間から朝日がさし始めた風景で、岸辺に1本だけ大きく育ったカラマツを中心に写したものである。上高地の日の出は山に囲まれていることから遅く、私は真っ暗の早朝に一人歩いてこの地に立つ事にしている。

 北アルプス穂高連峰の山頂に朝日が当たるころの上高地は真っ暗である。私は人々が眠っている上高地で、一人黙々と河童橋を目指し(2枚目の写真は昨年8月22日の誰も渡っていない早朝の河童橋である)、まだ一人も渡っていない夜霧に濡れた河童橋に一人座り、人の気配を感ずると上記のカラマツの場所に移動するのである。穂高連峰が真昼間のように輝く頃、この場所はまだ薄暗く、やがて山から流れ落ちてくる雲や朝霧を朝日がつらぬいて差しかけるのである。この瞬間の美しさと感動は説明のしようがなく、毎年出向いても再現(上の写真どころではない)は難しい。

 人間は一人になると本当に小さな存在で、早朝の穂高連峰の銀嶺から自分をめがけてすべり落ちてくる雲流から冷気だけでなく霊気も感じるのである。家族も誰一人として知らない、私の上高地の行動であるが、若気の至りで北アルプスの木々に残した傷跡が至るところに存在する。30年ぶりに発見した時の感動から、彼らとの再会も目的としている。

 本日は、7月より開催されている愛知県主催の「人にやさしい街づくり連続講座」を覗き、束の間の旧交を温めたことから、「街づくり」について記す予定であったが、コメントを見た瞬間に上高地が思い起こされ、家内との日程まで決めるに至ったのでもある。コメント有難う御座いました。
                                8月4日の一言
 一番下の写真は、大正池に映る北アルプス穂高連峰で平成15年8月22日午前中の風景です。上の2枚が暗いので美しい上高地をイメージしてください。
 

自分だけで旅行に出たい…

 昨日の明智鉄道現地視察の帰りであるが、JR中央線の恵那駅からリュックを持ちハイキング帰りの5人組のご婦人と隣り合わせた。

 私より10歳以上は(確実に)年上の人々であるが、『青春18きっぷ』を使って信州から大阪まで帰る途中である。気が遠くなるような道程であるが、乗り換えの必要があり、途中で地域の利用者が乗り降りする事から、密閉された座席指定の指定席に座ったままの旅行にはない、外気と香りのある旅がうらやましく思われた。

 『青春18きっぷ』は、1枚11,500円で5回分利用ができることから1枚2,300円となり、1回分で一日乗り放題となる事から鉄道ファンには有難い存在である。つまり4泊5日の旅も運賃を気にせず利用でき、5人で日帰り旅行も可能であるし、5回に分けた利用など考えれば使い勝手のよい切符である。

 「そんなもの、途中の乗り換えで遅れたらどうなるの」と、私の話に知人が噛み付いてきた。どうやら知人は観光バスで目的地まで眠っていけば良いのである。「途中で迷子になったどうなるの」と、バスガイドの点呼がないと心配らしい。しかし、そんなことでは旅の楽しみを味わうのではなく、会社や地域の宴会旅行ではないか。

 今年に入ってから『朝日旅行友の会』http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage101.htm が休眠状態になっている。昨年11月と12月に日帰りバス旅行を実施して以来、新たな企画と募集はしていないが、人々からは4月の選挙が理由と思われており、「そろそろ、次の旅行は?」との問い合わせが入るようになってきた。

 しかし、日帰り旅行の限界もあり、新鮮な気持ちも湧いてこないかわりに、東北一周とか、フェリーを利用して宿泊費を節約するなど、今までの旅行とは違うものに挑戦したい意欲は満々である。ただし、これには休暇など時間的に無理があり実現が難しい現実がある。『青春18きっぷ』が利用できる高齢者がうらやましいかぎりでもある。

 趣味は旅行と写真と記してきたが、写真はフイルムが廃り、旅行は「人を連れて行く」ばかりで、自分で楽しむ機会がなくなってきている。愛媛は別として、16日の送り火と、夏休みの上高地は自分の楽しみで考えたいが、「上高地は今年も行くの?」の声も無視できない現実がある。
                                  8月3日の一言

明智鉄道現地見学会に参加して

イメージ 1

 本日は交通問題研究会として、明智鉄道現地見学会に参加してきました。

JR名古屋駅8時7分発、快速中津川行きの先頭車に乗車するか恵那駅で集合。恵那駅9時10分到着
恵那駅9時17分発、明智鉄道で9時45分岩村駅着。
 ・岩村の街並散策
 ・地域住民の声の聞き取り
岩村駅11時59分発、明智鉄道で12時18分明智駅に到着。
 ・明智鉄道本社を訪問し、明智鉄道の現状について説明を受けた後、車庫にあるイベント列車などを見学。
 ・大正村の街並散策
明智駅15時59分発、明智鉄道で16時46分恵那駅に到着。
JR恵那駅16時50分発、快速名古屋行き17時59分名古屋着。

主催 東海自治体問題研究所交通問題勉強会 
参加 事務局長および桜花学園大学森田教授など10名

 詳細については、会報「津島の風」で報告しますが、ひじょうに厳しい経営赤字に苦しみながら、数々の増収活動を実施している事から、津島市についても参考になる可能性を求めて参加してきました。
 津島市の公共交通についても「交通空白地域」が多く、巡回バスについても必ずしも満足な住民の足にはなっていないが、全国各地の現状と比較すると、意外に健闘しているのかもしれないし、明智鉄道で実施している各種の施策を参考にすれば、まだまだ奥の手が考えられそうである事を実感する勉強会となった。

 視察や勉強会と言うと、議員の「ラベンダー畑」などの親睦・観光旅行が思いだされるが、この勉強会は一切の公費補助もないのに、全員が休暇を取って自前で参加していることに(当り前かもしれませんが)感心し、自己の勉強不足も実感して参加している次第です。
                                 8月2日の一言

ズサンな行政の対応に…

 数日前から記してきたが、会社の業務縮小によって7月末で解雇されたOさんが、昨晩から我家のウラの同居人となり、本日は役所の手続きに走りまわってきた。

 しかし、解雇される本人にも問題はあるだろうが、Oさんから扱いを聞く限り、雇用主のまったく身勝手な解雇にもかかわらず、雇われている立場の無力さを痛感させられた。彼はあと6日間勤務すると5年目となり、失業保険が240日支給されたものが、6日不足することから1年から5年未満を対象とする180日の支給になったのである。

 経営者は知っていたのか気にかかるところであるが、どうやら知っていた気配である。先代の会長が今年4月に肺がんで亡くなっており、後を継いだ後継者は事業を縮小するとともに、彼しか住んでいない社宅を取り壊して、不動産を生かした展開を考えている様子で、住み込みのOさんが邪魔になったようでもある。
 こんな突然の解雇にもかかわらず、離職票は半月以上先延ばしとなり、失業保険や職安の手続きも離職票が発行されてからとの話である。

 さて、本日の彼の行動を聞くと、他人事ながら大変な行動で、朝から我家の自転車で前住地である名古屋市のA区役所に出かけて転居届けをだし、その後に職安に立ち寄り、最後に私の住む津島市で転入手続きをしてきたようである。

 だが、それらの役所の窓口一つ一つに『摩訶不思議』なる対応が見てとれる。もちろん、出向いたOさんの対応に不思議なるものがあるためだが、転出届けを出した区役所には自分を照明する身分証がないままに転出届けが受理され、津島市役所についても同様であるが、私の住所番地に新たな住人が増えるのに、世帯主の私か家族に何の確認もされないままに、Oさんが住民として転入届けが受理された点である。

 Oさんの話と行政の対応を見ると、身分証明書もないままに住所の転出や転入ができた事から、他人が勝手に住所の転出や転入の手続きができる可能性があるのである。もちろん健康保険までは手続きが出来なかったようだが、ズサンと思わざるをえない話である。こうなると我家の田んぼに転入届けを出して、受理されるか確かめたい心境になってきた。また、求職のために立ち寄った職安では、身分証明書か連絡する電話がないことから、求職の手続きもできなかった様子でもある。

 なにぶんにもすれ違いざまに、限られた時間に彼の主張を聞かされたため、完全なる裏付けがないが、転入届については他人の住所地番に勝手に届ける事が可能である事をOさんが実証してくれた。(Oさんの我が住所地番への転入については、私や家族も認めているが、本来なら確認が必要ではないか) こんな事から、年金に限らず、問題とされる世帯分離など、行政の不適切な対応が存在することを改めて実感させられた。
                                 8月1日の一言
ギャラリー
  • ようこそ 大鹿一八の納経所へ
  • ようこそ 大鹿一八の納経所へ
  • 令和6年 上高地開山式の様子です
  • 三重県桑名市大福田寺の聖天祭へ
  • 毎年恒例となった我家のアンズジャム作りへ
  • 毎年恒例となった我家のアンズジャム作りへ
  • 本日もボランティアの一日となって
  • 我家のきゅうりとプランターのイチゴです
  • 我家のきゅうりとプランターのイチゴです
アーカイブ
  • ライブドアブログ