「自分の先祖や宗旨は何処に?」と、四代前の先祖の戸籍謄本に記された「海東郡宇治村」出身の記載を頼りに、自身の先祖探しをしてみえる名古屋の大鹿さんの訪問を受け、「故郷」である津島市宇治町を訪ね歩く一日となった。
四代前とは言え、記された宇治村が明治17年までの呼び名であり、江戸時代の年号までさかのぼるような先祖探しだけに、訪れた家々からは「私ではわからんわー」との言葉しか返ってこなかったのである。
さて、津島市に多い大鹿姓であるが、今から千五百年前の天皇家と縁続きとなる「伊勢の古族・大鹿氏」とのゆかりが記されている下切町の大鹿家が存在し、宇治町が隣町に位置する事から、その関係から探せば何とかなると考え、関係する浄土宗の寺院に確認すると、「宇治町に大鹿の檀家は一軒も無い」との返答が返ってきた。
前記した下切町の大鹿家も浄土宗で、その親族や周りの大鹿姓の家々(我家も)も浄土宗であるが、今回の訪問で隣村でありながら宇治町の大鹿一族は浄土真宗であり、お寺もまちまちである事と、かつては名古屋の寺の檀家であった事が判明し、過去には浄土宗であった可能性まで伝わってきた。
「市役所に聞いたら判らないの?」の声も出たが、何度も確認されたものの四代前の宇治村だけでは探し様もなく、本日の訪問で「おばあさんから聞いた様な気がするが、何処の家かは…」の言葉は返ってきたものの、判らない現実を思い知らされた訪問になったのかもしれない。
ただし、訪れた氏神様の鳥居や石碑に、名前こそ違うものの「名古屋 大鹿○○○」の記録が複数残されており、家紋も一致する事から、間違いなく大鹿さんのルーツが宇治町にある事は確信されたものと思っている。
私の先祖探しは、平成5年に父親が医師より死の宣告を受けた事を契機に、お寺の過去帳を調べなおして三百年前までの系図が出来上がったが、昭和47年にグアム島から横井庄一が発見され、我家が母親の在所であった事と、横井庄一が生まれた直後より小学校5年生まで「大鹿庄一」として我家で生活していた事から、当時の市役所から明治までさかのぼる戸籍謄本が届けられていた事が大いに役に立ったのである。
この過去の戸籍謄本については、人が亡くなって80年経過すると破棄されると言い、原本は家族にも貰えないとの事から、家族の家宝として引渡しを希望する意見もある。しかし、今回訪問を受けた名古屋の大鹿さんも、今から30年も前であれば古老から何らかの手掛かりがあったのではないか。
私が起業した昭和52年には「宇治町はあんたの親戚ばかり」とか、「私はあんたの新家の御婆さんと従兄弟」など、私の知らない親戚廻りを教えて下さった宇治町の人が存在した事から、時間の経過が口惜しく思う訪問でもあった。
一週間前の一言に、全く偶然であったが、私の父親と生き別れた父親(私の祖父)の在所の知り合いの人が横井庄一記念館を訪問され、あとを継ぐ人へ我家の存在を伝えていただいた。http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/25547245.html
ホームページを開設し四年が経過し、今回の大鹿さんのほかに、四国の大鹿さんや神奈川の大鹿さんから問い合わせがあった。それぞれのルーツ探しから先祖を偲び、後世に書き残しておきたいと改めて実感した日曜日となった。
9月30日の一言
四代前とは言え、記された宇治村が明治17年までの呼び名であり、江戸時代の年号までさかのぼるような先祖探しだけに、訪れた家々からは「私ではわからんわー」との言葉しか返ってこなかったのである。
さて、津島市に多い大鹿姓であるが、今から千五百年前の天皇家と縁続きとなる「伊勢の古族・大鹿氏」とのゆかりが記されている下切町の大鹿家が存在し、宇治町が隣町に位置する事から、その関係から探せば何とかなると考え、関係する浄土宗の寺院に確認すると、「宇治町に大鹿の檀家は一軒も無い」との返答が返ってきた。
前記した下切町の大鹿家も浄土宗で、その親族や周りの大鹿姓の家々(我家も)も浄土宗であるが、今回の訪問で隣村でありながら宇治町の大鹿一族は浄土真宗であり、お寺もまちまちである事と、かつては名古屋の寺の檀家であった事が判明し、過去には浄土宗であった可能性まで伝わってきた。
「市役所に聞いたら判らないの?」の声も出たが、何度も確認されたものの四代前の宇治村だけでは探し様もなく、本日の訪問で「おばあさんから聞いた様な気がするが、何処の家かは…」の言葉は返ってきたものの、判らない現実を思い知らされた訪問になったのかもしれない。
ただし、訪れた氏神様の鳥居や石碑に、名前こそ違うものの「名古屋 大鹿○○○」の記録が複数残されており、家紋も一致する事から、間違いなく大鹿さんのルーツが宇治町にある事は確信されたものと思っている。
私の先祖探しは、平成5年に父親が医師より死の宣告を受けた事を契機に、お寺の過去帳を調べなおして三百年前までの系図が出来上がったが、昭和47年にグアム島から横井庄一が発見され、我家が母親の在所であった事と、横井庄一が生まれた直後より小学校5年生まで「大鹿庄一」として我家で生活していた事から、当時の市役所から明治までさかのぼる戸籍謄本が届けられていた事が大いに役に立ったのである。
この過去の戸籍謄本については、人が亡くなって80年経過すると破棄されると言い、原本は家族にも貰えないとの事から、家族の家宝として引渡しを希望する意見もある。しかし、今回訪問を受けた名古屋の大鹿さんも、今から30年も前であれば古老から何らかの手掛かりがあったのではないか。
私が起業した昭和52年には「宇治町はあんたの親戚ばかり」とか、「私はあんたの新家の御婆さんと従兄弟」など、私の知らない親戚廻りを教えて下さった宇治町の人が存在した事から、時間の経過が口惜しく思う訪問でもあった。
一週間前の一言に、全く偶然であったが、私の父親と生き別れた父親(私の祖父)の在所の知り合いの人が横井庄一記念館を訪問され、あとを継ぐ人へ我家の存在を伝えていただいた。http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/25547245.html
ホームページを開設し四年が経過し、今回の大鹿さんのほかに、四国の大鹿さんや神奈川の大鹿さんから問い合わせがあった。それぞれのルーツ探しから先祖を偲び、後世に書き残しておきたいと改めて実感した日曜日となった。
9月30日の一言