大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

2008年03月

引き際を考える年度末の一日

 3月も本日が最後で、明日から(まもなくですが)新年度の4月に突入するが、ほとんどの人には関心もない年度のかわりが、行政や教育現場では大きな変化とともに、多くの人々の引退も伴い、新たな環境に緊張を隠せない人も存在する。

 我が母校である神守中学校の教頭先生として、母校の卒業生で私と同級生のS先生が転任してくる事となった。私にとっては意外な人事で、転出していく前任者から挨拶をされながら、私の問いかけに後任者を知りながら頑として何も言われなかったのは、職務の守秘義務だけではなかったのかもしれない。

 私はかねてから同級生のS先生を地元の校長先生に迎えたいと希望していた事から、できることなら校長で転任して欲しかったのであるが、一足飛びにはいかない事から、今回の人事異動は同級生としては喜ぶべきかも知れないが、このことから悩まされる問題にも苦しめられる事となった。

 私は平成9年から母校の同窓会長の任にあるが、数年前から自らの降板も真剣に考えており、2年前の総会の席で後任も未定でありながら引退発言をして、勤務歴18年の恩師T先生に苦言をもらったが、欠席者ばかりの役員会では光明も見えてこない。

 早急の後任探しは学校関係者や周りに伝えてはあるが、同級生の教頭誕生に「これを機会に辞めてしまおう」と同級生役員の切実な声を聞くと同時に、「おい、S教頭を同級生で支えてやってくれよッ」と言われた恩師の言葉の狭間で過去の記憶が蘇ってきた。

 「あんたが会長になって良かった」の言葉に続き、「今まで地元の義理で辞められなかった」と言って同窓会報のスポンサー広告を私が会長になったと同時に辞めた同級生があった。同級生なら逆じゃないかと思いながら、新たなスポンサーを探して声をかけた苦い経験があった。

 同窓会長にある事と議員である事から批判の声も存在するが、同窓会長の仕事の大部分は会報発行と総会開催の資金となるスポンサー廻りと集金であり、不景気から撤退するスポンサーの補充も大変になりつつある。こんなことから役員の合言葉が、「もう辞めよう」となり、溜息が先にでるのでもある。

 教員生活も終盤を迎えた同級生の教頭登場に、恩師に言われるまでもなく過去にないバックアップをしたいと思うものの、周りの役員の苦労も考えると最後の花を咲かせるとともに、S先生の校長昇格を見届けての引退を果たしたいと思う年度末となった。
                            3月31日の一言

永代経回向に参詣して

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 本日は愛西市佐折町にある長福寺説教所(叔父の家)にて、先祖代々回向と永代経回向がひらかれたので参拝いたしました。昨日まで恩師の通夜と葬儀に続き、本日も線香の匂いが染み付く一日となりましたが、明後日の夜には四国遍路に出向き、帰宅した翌日の5日には隣の尼寺の永代経が実施され、受付に座る事から毎日が線香の香りの一週間となりそうです。

 写真は庭先に残されていた石塔から確認された子孫の方々のご先祖様たちを供養するため屋外に出て読経されている様子です。

 さて、昨日と本日は四国霊場会からいただいた輪袈裟をかけて参詣いたしました。なかなか首にかける機会と度胸がなかったが、昨日の恩師の葬儀にかけて見送りました。遍路では念珠とともに重要とされており、輪袈裟をかけたままで手洗い所に入ることは厳禁とされている。

 慣れないため違和感を感じるものの、気持を切り替える意味では神聖なものを感じ、袈裟をかけると気持が引き締まり、お大師様の恥にならぬようにと思えます。

 四国遍路では金剛杖も神聖なもので、弘法大師の象徴と言われ、その日の巡拝が終わって宿についた時には、杖の先を洗って床の間に置いて、尊像として礼拝すると教えられている。
 「まだ杖の力を借りる歳ではない」と、過去の巡礼では金剛杖を持たずに参拝していましたが、先達用の杖をいただいたので、そのまま使うのも恐れ多いために杖先にゴムを被せて今回は持参する事にしています。

 これまでは白衣や袈裟、すげ笠、杖などの姿形には無関心で巡拝を続けてきた。「車で巡拝するのにすげ笠は必要ないでしょう」が世間の常識と思います。しかし、こうした気持が参拝に対する心の準備もなく、霊場の聖域に足を踏み入れるとの気持が希薄になっていたとおもいます。

 本日の参拝で姿の見あたらない人が1月に亡くなられている事を聞かされ、この人もお世話になった人だっただけに、改めて恩師をはじめ多くの人々の冥福を祈りたいと思います。明後日からの四国巡拝では、今までとは違った気持で姿形から整えるとともに、心新たな気持で参拝したいと考えています。
                         3月30日の一言

恩師を回顧する一日に…

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 本日、平成20年3月29日は、私の恩師「長谷川丈夫」先生の顔を見られる最後の日となりました。

 私にとっての恩師は、中学時代の教頭と生徒の関係でしたが、素行も悪く、何度も注意される事が多く、どの教員も信用できずに職員室で座らされる私にとって唯一信用できる先生で、「おい、今度は何をやって叱られとるんだ」との恩師の一言で何度も無罪放免とされてきた。

 この関係は落第して非行に走る高校時代になっても続き、恩師が校長になられ、教育界の重鎮になっても続き、私みたいな若輩者とも無礼講で酒を酌み交わす人柄に惹かれ、恩師と付き合っていくために横道に逸れぬようになり、「長谷川先生の教え子」と地域の人々から認知されだした事から、現在の自分があるように思えてならないのである。

 この関係は平成6年秋より、我家の2階にて書道会「神守丈友会」の指導者として迎え、毎週火曜日に恩師の自宅へ迎えに走り、帰り道には「おいッ、ちよっと寄っていこうか」と居酒屋に立ち寄り、自宅に上がって深夜まで酒をよばれて、先に逝かれた奥さまより一緒に叱られた事もありました。

 先生が舌ガンの手術を控えた国立病院へ見舞いに出かけた際には、私は既に見舞っていた事から知人に「ヘアークリームとブラシ」を見舞品に持たせ、本気で怒られた事もあった。こんな頃まではトンチや冗談も笑って済ませられる豪快さも見られましたが、奥さまを亡くされてからは物忘れが激しくなり、最後の施設での生活は私は見に行かない事に決めていた事から、本日が最後の別れになってしまいました。

 思い出してもキリの無い思い出や、残された写真や書についても、これから整理しようと思っていましたが、出棺前の葬儀会場に展示されてあった恩師の思い出の写真の中に、私が恩師の講演の際に印刷したガリ版刷りで茶色に変色した16ページの冊子があり、何度も読まれた形跡から改めて恩師と教え子、親分と子分の絆を実感して帰宅しました。

 写真上は、書道会2年目の忘年会で会場の和食の辰巳の主人(彼も教え子)と一緒の集合写真。真ん中の写真は、恩師と書道の後を引き継ぎ指導中の「後藤毅」先生と二人の写真で、下の集合写真と同じく、平成9年2月11日に書道展を開催した時の写真です。

 一番下の写真は、私が初めて選挙で当選した平成11年4月の写真で、立候補者に教え子が多くどこにも行かないとの話でしたが、深夜まで私の当選を祝ってダルマに恩師自ら墨を入れた直後の乾杯の写真です。本人が当選人のようだったと言われましたが、喜んでいただけたとの思いと、改めて恩師の恩に感謝したいと思っています。
                                 3月29日の一言

恩師の書

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 祭壇の横にかけてあった恩師の書です。

矢合観音への散歩

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 本日は久しぶりに矢合観音へ出かけ、小玉食堂にも寄ってきました。平日のため閑散としており、観音さまの真ん前にある門前屋もお休みしていました。(上・小玉屋から見る参道、中・ご本尊様、下・観音様の霊水)

 さて、矢合観音は尾張地方では有名な観音様になっていますが、観音様はお寺ではなく一般のお宅に鎮座しておられ、当主も僧侶ではありませんが、参拝者が揃うと般若心経をあげていただけます。ただし、とても乱暴な読経で、自分で真剣に手を合わせた方がよさそうです。

 ここでは地下から汲み上げる井戸水にご利益があり、ガンなどに効くとの話ですが、最近では医学の発展から水への関心が減り、参拝だけで帰られる人も増えたように思います。

 冒頭に閑散としていると記しましたが、さすがに矢合観音と言えば「小玉食堂」と言うだけ(私だけですが)あって、多くのお客さんが店内におられました。
                                 3月28日の一言

携帯の写りが悪いので、他のブログ(下記)で小玉食堂をご覧下さい。
矢合観音 http://blogs.yahoo.co.jp/mochio106/23269753.html

一番の理解者であった恩師の訃報

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 私の中学時代の教頭で、私にとっては一番の理解者であり、オヤジのような存在であった長谷川丈夫先生が本日亡くなられたとの訃報が届けられた。

 中学時代に担任ではなく教頭であったが、叱られる私を唯一救ってくれた恩師で、高校で落第し不良と化した私に、顔を背けてすれ違う恩師ばかりの中で、駅前にあった「みゆき食堂」で声をかけて下さったのが長谷川先生であった。

 「おい、君は大鹿君じゃないか」、「…はァ、そうです…」、「やっぱり、いっぱちだったか(笑)」、「こいつはよォー、わしの神守中学の時の教え子で…」と、一見して不良と判る私を愛知県の幹部(当時の教育次長ら)に紹介し、懐かしそうに私の思い出話を人々に語られた。

 その後、恩師は校長として各校を転任され、昭和60年に天王中を最後に退職されたが、最後は海部津島小中学校の校長会長を務められ、平成8年には勲五等双光旭日章を受賞されている。

 恩師との関係は高校から大学、社会人と続き、私がPTA連合会の会長を引退した平成6年に恩師のお宅に書道の指導をお願いに伺った。

 「おいッ(笑)、あらたまって何だ、まあー座って、おい、かあさん、おい」
 「40過ぎの大人として、せめて恥ずかしくない書が書けるように教えて下さい」
 「そっちにも多くの書家がおられる中で、小遣い稼ぎみたいな事はしたくない」と頑固に断る恩師に

 「先生、多くの書家があってもタダで教えてくれる人はおりませんよ」
 「何ッ?どういう事だ?」、「だからタダで教えてもらえるのは先生しかないから」
 「なにー?、タダだとッ」、「そうですよ、何も金を払ってとは言ってないでしょ」
 「うーん…」、「そうかッ、それじゃオレは今後一銭の金も受け取れんぞッ」

 こんな顛末で平成6年秋から書道会『神守丈友会』が始まり、後を後輩の後藤先生に引き継がれたものの、現在まで恩師の『丈』の字を旗印にして書道会が続いている。

 長谷川先生は奥様を亡くされた数年前から認知症がすすみ、施設で晩年を過ごされたが、それまでは書道会のために毎週火曜日に迎えに走り、帰りは一緒に居酒屋で一杯を繰り返してきた。

 写りの悪い写真ですが、一番上の写真は我家の玄関にかけられている恩師の書(文字不明横書き)で、事務所にも「意欲にまさる人生の知恵はない」の木片(縦書き)がかけられている。

 私が発行していた『ふるさとアサヒ』にも10回にわたり「身勝手な回想の日々」を連載してもらい、多くの教え子がいる中で、私の初当選となった時には深夜まで待ってダルマに墨を入れ、真中で万歳をしてもらった写真が残されている。想いは尽きないが、明日の通夜と明後日の本葬まで思い出に浸ってみたい。
                            3月27日の一言

何か人に誇れるものはありませんか

 「何か明るく誇れる事が考えられないものだろうか」とは、市内の不動産会社の社長さんから聞いた本日の一言であった。

 地元の企業の倒産や撤退が続き、医師不足で市民病院の不評から財政状況の厳しさなど、暗い話題が続き、明るい話題や人をひきつける魅力に乏しい津島市のイメージは、地元で看板をあげて頑張る企業や商店の営業にもマイナスとなっている様子である。

 昨日届いた手紙で「津島市を出ていきたい」との言葉や、知人の苦言を昨日の一言に記したが、翌日の今日になっても「津島市には住めない」ような言葉を聞かされるとは思っていなかった。

 地域の土地や建物を生業としている不動産会社にとっては、地域のイメージの善し悪しが仕事の成果にも直結し、「2、3年後には倒産するのではないか」と言われて悪いイメージばかりが浸透すると、人々は津島市を敬遠し、「何か明るい話題は?」と言いたいのは当然であろう。

 さて、明るい話題は何もないのか。情けない話であるが、人々に誇れる話題は何も語れず、悪く言われた言葉ばかりが人々の印象に残り続け、それらを打破すべき妙案が思い浮かばない。
 朝から市内を走り回り、市役所へは何度も出入りし、事務所で人と待ち合わせ、前出の社長さんが帰られたとき時計は11時を廻っていた。

 自転車の全国大会から帰り、食あたりと体調不調を訴える三男に「正露丸を飲めば治る」と言ったが、夜になっても息子の体調は戻らず、夜間診療のため市外の医療機関まで走る事となり、「正露丸では治らない」と言われてきた。

 私の経験では正露丸と百草丸で胃腸の不調は何でも治してきたが、胃腸内の細菌を退治しないと治らないらしい。市民病院で診てもらえなかった事は相変わらずだが、市外でも近くに適切な医療機関がある事から、この中途半端な距離が津島市の大きなキーワードとカベになっているのかもしれない。
                             3月26日の一言

本日届けられた手紙

 「津島市に来て10年ぐらいになります。住み易さへの改善は何ひとつありません。このまま高い税金(市民税、県民税等)を払い住んでいる価値がない。出来ることなら他地区へ転居したい気持ちです」

 本日届いた「大鹿一八」宛ての手紙に記された内容であるが、住みにくく、他地区へ転居したいとの言葉はこの地区で市議会議員を務める立場としては、非常にショックとなる一言でもあった。そして下記の言葉が続けられていた。

 「しかし、今すぐ転居するのはむつかしい問題もありますので、少しでも町がよくなる様にと思っており、安心安全の町作りをモットーに身近な問題から手をつけてもらいたいと思います」
 
1、市民病院の充実
2、空き巣が多い…(巡回員を警察OBか一般からも再雇用してはどうか)
3、消防の充実…(火事でも消防車の到着に時間がかかる)
4、交通の便をよくしてほしい…(公共交通・巡回バスを増やして欲しい)
5、青塚駅にトイレをつけて欲しい
6、道路整備…(内容は歩道・歩道を全部つける)
 ※6項目に記された具体的内容はカットしました。

 「まだまだいろいろありますが、身近な問題が解決改善される事を願っています」と記され、行政のムダや人や人件費を減らすなど、私への期待が記載されていました。これに応えていくのが議員の使命であり、今一度真剣な対応が必要と思います。

 夕方には町内会の理不尽な運営に対する相談があり、明日の午後に市役所の担当窓口に同行する約束をした。夜に開かれた書道会の後で、メンバーのMさんより「〇△さんが、娘が新築する家を近所で探したいが、津島では何もないもんねッ」と、行政サービスの悪さを指摘する言葉が続いた。

 今週は議会終了後の休養としてスケジュールを空けていたが、空いていたから次々と予定が入り、明日からは議会中より忙しい一日となる。
                             3月25日の一言

日本中で起こってくる事件に

 本日は議会最終日となったが、帰宅後のテレビニュースから殺人事件の報道が続き、身近の名古屋市や三重県でも同様の事件があった事と、愛知県長久手町のたてこもり事件の初公判の報から全国で殺人事件が起こっているような錯覚を持つ一日となった。

 23日午後9時ごろ、三重県亀山市野村4丁目のマンション駐車場で男に刺された、と男性から119番通報があった。通報した男性は病院へ運ばれたが、意識はあるという。現金が奪われており、亀山署は強盗傷害事件として捜査、男の行方を追っている。
 同署の調べや関係者の話によると、男性は朝日新聞販売所「ASA亀山」の村中義孝店長(47)。現場近くのマンションで集金を終えて階段を下り、駐車場の車に向かおうとしたところ、背後からいきなり左脇腹を1カ所刺され、集金かばんの中に入っていた現金が奪われたという。
 2月21日夜にも、同市阿野田町の鈴鹿川にかかる県道の橋の上で、1人で歩いていた兵庫県尼崎市の20代の女性が後ろから来た男に背中を刃物で刺され、現金入りのバッグを奪われる事件が起きていた。

 24日午前3時15分ごろ、名古屋市中区新栄1丁目の市道で「通り魔みたいな人に背中を刺された」と女性から119番通報があった。女性は背中に果物ナイフのような物を刺され、病院に搬送されたが重傷。愛知県警は殺人未遂事件とみて男の行方を追っている。
 中署によると、刺されたのは同市緑区有松町桶狭間、飲食店員中谷康子さん(36)。中谷さんは仕事を終えた後、友人宅を訪れていたが、そこから100メートルほど離れた駐車場の自分の車に忘れ物を取りに向かう途中、後ろから刃渡り約9.5センチのナイフで刺された。男は帽子をかぶっていたといい、自転車で逃げたという。

 全国ニュースでは茨城県土浦市の通行人8人が殺傷される事件が大々的に報道されているが、私たちの住む地域でも同様の事件が起こっており、三重県は現金目的で事件が繰り返され、名古屋市は目的の判らぬ通り魔だけに、明日は我が身の心境にもなってくる。

 千葉県でも男性が刺されてバックを奪われる事件が報じられているが、最近では事件の報道に鈍感になっており、地域ぐるみで事件の再発を防ぐ意識が低下してはいないかとの反省も必要である。

 数年前の話となったが、我家も家内がスーパーの店頭で引ったくりの被害に遭い、バイクに2人乗りの若者にバックを奪われ翌日の新聞記事となった事があるが、警察の取調べは3時間ほどかかったものの、犯人が捕まるどころか捜査したとは思えないのである。

 目前で事件を目撃した人々は多かったが、誰一人として声をかけるでなく、警察も目撃者の声も聞くこともなく、事件後に再発防止の看板も立てずに、日々が経過し、後に問い合わせた家内に「こういう事件は中々犯人は捕まらない」と警察が告げたのである。

 医師不足と同様で、警察の人員にも限界がある事は当然だが、少なくとも本気で捜査すればバイクの2人組みは見つかったのではないか。これだけの情報化社会にあって、地域ぐるみで事件を再発させない意識があれば、地域の人々の情報によって事件の防止と犯人情報も考えられそうである。

 一方で地域で葬儀があっても、かつては地域総出で見送った習慣が、最近では隣が葬式でも何事もなく生活する時代となっており、住民と行政の連携や協働が叫ばれる中で、地域住民の連携や協働を行政の仕掛けをなくして実践できない現状がある。

 事件が新聞やテレビから流れてくる話題ではなく、我が身に迫り来る身近な問題としての危機感を持ち、地域の微罪を撲滅させることから人命に関わる凶悪事件を減らすことが急務でもある。
                           3月24日の一言

本日の横井庄一記念館から

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 午後一時半、床の間にかけてある掛け軸『竹』を眺め続けながら携帯電話での一枚。今年はこの掛け軸がかけてあります。

 本日の話題は何と言っても大相撲の千秋楽での優勝がかかった横綱朝青龍と白鵬との一戦ではなかったか。記念館の終了時間が午後4時半だが、来場者を送り出してからボランティアのTさんを自宅に送り、何とか千秋楽の結びの一番に間に合いました。

 2場所連続で横綱どうしが千秋楽に優勝を争う展開だが、絶好調と思われた朝青龍が終盤に連敗し、4場所連続優勝を狙う白鵬の余裕漂う中で、緊張感すら感じさせる朝青龍だったが、すばやい勝負勘から一方的に白鵬を土俵外に投げ捨てて優勝を決めた。

 不祥事による出場停止もあり、しばらく優勝から遠ざかっていたが、逆風の中で足首を痛めながらも見事な優勝を飾り、優勝インタビューでは涙もにじませたが、連敗した2日間を除いた取り組みは、相手に相撲を取らせぬ一方的な内容に、久々の朝青龍の笑顔を見てストレスも吹っ飛んでいった。

 ことあるごとに発言や行動が問題とされるが、私は自分の気持を正直に発言する朝青龍が、いまだに20代の若者である事と、私の子供達と同じ年齢である事を考えると、マスコミや評論家が求める横綱の品格よりも、はみ出しても正直に行動する姿を応援したい心境にある。

 「この相撲でくやしい思いを晴らしたかった」との言葉に、朝青龍の半年間の苦渋の心境を垣間見たが、情けないのは負けても悔しさを感じさせない日本人力士にある。

 それにしても相撲界の外国人力士達は相撲界に順応するだけでなく、来日して間もないものの日本人と変わらぬ言葉使いで応対し、英語や母国語しか話さない野球選手やサッカー選手より、心掛けが立派である事を我々は評価すべきではないだろうか。

 さて、朝青龍の優勝回数は22回となり、一代年寄りとなった貴乃花親方の優勝回数と並んだが、27才の年齢を考えるとまだまだ優勝回数を重ねる可能性も高く、マスコミや評論家にも自分の子供達の親不孝な言動を思い出し、相撲本来の可能性に脚光をあててもらいたい。
                              3月23日の一言

パンが届けられました

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 たった今の事ですが、市内で趣味の「マイ・パン教室」を開いてみえるSさんよりパンが届けられ、開封したところ事務所中がパンやケーキの甘い香りにつつまれています。
 携帯電話の画質が悪く、ビニールに入ったままなので、写りが悪く申し訳ありませんが、食パンとチーズパンとプレーンのシフォンケーキです。

 マイ・パン教室のブログ http://blog.goo.ne.jp/sugiura57

 同封された手紙によれば、食パンには一切の塩は含まれておらず、天然酵母と三温糖、水、フランス製マーガリンによって作られており、トーストすれば何も付けなくとも味があるとの事で、体の弱い人でもかゆみのでない安心できるパンとの事です。

 手前の丸いパンがチーズパンで、オランダ製のチーズが使ってあり、シフォンケーキは白い箱に入って届けられました。こうして見ている手紙自体にもパンの香りが漂い、食欲がそそります。
 本日は長女が帰宅しており、家内と買い物に行っていますが、何も言わずに隠して置いておいても香りからすぐに発見され、喜ぶことが確実でしょう。

 さて、こんな歳になって記すと笑われるかもしれませんが、半年ほど前にブログを通して20代の女性に電子レンジで簡単にできる「ういろう」を教わり、作ったところ感動の作品ができました。家内に頼んで材料の小麦粉と砂糖を買い込んで作ってきましたが、管理栄養士さんに私の食生活を注意されました。

 私は自分で作った「ういろう」を作った当日から無くなるまで連日口にしていましたが、好物とは言え砂糖が半分を占めている「ういろう」は体に悪く、美味しいと自己満足しても、家族は私が作ったことから、元々独り占めする性格から自分で食べるしかなかったのです。
 (教えてくれた千のゆるりさんが悪いのではなく、私の食生活と性格が悪いので念のため)

 「ウワ-、いいにおい」、「何ッ、何ー、パンじゃない」、「あーッ、裕ちゃん(三男)がいたらなー」などと、帰って来た家内と長女の声が事務所から聞こえ、私の存在を忘れたようにパンの入った小包が持ってこられ、勝手に食べる算段が始まっています。

 本当にありがとうございました。体に良いとの事ですので、自己満足の「ういろう」から、機会があればパン教室に誘っていただき、喜んでもらえるパン作りにも挑戦してみたい(と言うより勝手に家族から期待されています)と思います。

 「本当にもったいないなー」、「これいつまでもつのかナー」と、家内は三男が帰ってくる24日までシフォンケーキをもたせたい様子です。ブログを通した環境が悪用される社会の中で、ブログを通したあたたかい出会いがあり、人の生きていく支えになることを部屋に漂うパンやケーキの香りから実感させられる一日となりました。
                            3月22日の一言

公金を搾取した人物を許すな(新銀行東京事件)…

 石原都知事の発言に注目が集まっている『新銀行東京』について、借り手の企業のうちの35社は融資を申請した時から返済する意思もなく、不正な財務データを提出して借りた金を搾取するつもりだった事が報じられている。

 銀行関係者が貸出先の企業を訪問した時に、業務そのものの形跡もなかった事もあったと聞くと、明らかな詐欺事件であり、この時点で事実を公表して相手を訴えるとともに、事件として対策を講ずるのが当り前と思われるが、それもされずに無責任というより他人事のような結果でもある。

 一方で、一般の信用金庫の融資条件を満たさない企業を新銀行東京が信用金庫に保証するかわりに、企業が返済できない場合には融資額の8割を肩代わりして返済する仕組みでも、本年1月末に65億円分の弁済額にのぼっているとも報じられている。

 (心中には)反省が全くないとは思わないが、行きがかり上でも経営者の責任として自己の責任を否定し続ける石原都知事も問題だが、それ以上に都民の税金や公金を搾取する目的で借金をした企業や当事者を特定し、全国に指名手配してでも絶対に逃げ得を許さない厳しい措置が必要ではないか。

 このことについては法律の見直しも重要で、借金を踏み倒して逃げ続ける人物を警察は追跡してくれず、逃げた人物の連帯保証人が当事者に代わって返済したり、逃げた債務者の代わりに債権者から請求され家族が離散している事例もある。

 さて、本当におかしな時代になったものである。何でも簡単にカードで決済でき、何でも簡単にローンが組める社会になっているが、支払いが不能になってもそのまま放置されている事例も多い。携帯電話の使用料が支払えないのに何台も携帯電話を所持する若者もいる。

 最近では生活にかかる支払いのほとんどが口座振替となり、税金や公的負担までもが口座振替が当り前と思っている行政マンもいるが、支払わないままでも放置される例も存在する一方で、高齢者の税金や公的負担が公的年金から事前に差っ引かれる時勢となっている。

 これなどは国民が信用されていない典型的な実例と思うが、税金や公的負担だけでなく、借金や支払うべき代金を踏み倒しても保険で補填されたり、逃げ得が許されている事に問題もあり、今一度「黙ってニコニコ現金払い」の原点に立ち返る必要もありそうである。
                           3月21日の一言

初めての湯治の旅を企画して

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 本日は岐阜県の東濃地区の岩寿(いわす)温泉へ、マイクロバスによる22人のメンバーで湯治の旅に出かけました。

 午前8時に津島市を出発し、多治見市の虎渓山永保寺、カトリック多治見神言修道院、多治見オリベストリート(市街地)を散策し、午後1時に蛭川村にある岩寿温泉に到着。
 昼食後に温泉に入り、午後4時から土岐市にある「どんぶり会館」に立ち寄ってから帰宅。午後7時に津島市へ到着。

 暖かくはなったものの昨日より雨が降り、午前中は雨の中の散策となったが、最初に訪問した永保寺にはすでに多くの観光客が車をとめ、散策中には大型観光バスの団体客も入ってきたが、名古屋からわざわざ観光バスで出向かない事から意外な観光スポットになっているのかもしれない。

 永保寺を後にしてカトリック修道院を訪れ、その後に多治見の旧市街地を訪れたが、マイクロバスを駐車できる場所がなく、たじみ創造館に寄っただけでオリベロードを散策するまでには至らなかった。
 もっとも、多治見市から目的地である岩寿温泉のある蛭川村までは距離もあり、湯治目的の企画だっただけに早々の退散が賢明だったのかもしれません。

 岩寿温泉旅館岩寿荘は、効能に注目が集まる中津川の「ローソク温泉」の泉質にちかいラドン含有の温泉で、千百円以上の食事をとれば日帰り入浴も可能であり、宿泊も手ごろな価格で送迎用のバスを多く揃えている事と、静かな環境はお勧めの宿でもある。今回の企画は入浴代と昼食付きで4千600円。

 さて、帰路には天候も回復し、残雪の残る恵那山や恵那峡を見ながら、土岐市の「どんぶり会館」に立ち寄った後の帰宅となった。
 朝日旅行友の会としては初めての湯治目的の企画だったため、湯治が多治見見物で半減し、昼食が遅れるなど反省点も多かったが、高齢化したメンバー(私も含めて)には疲れのとれる効能があり、次につながる旅程となったのではないか。

 次は4月1日の夜出発する四国遍路(2泊3日)となり、来週にも目的地が決まる4月29日の日帰りバス旅行を案内し、5月の四国遍路で満願と高野山を終え、直後に残雪を求めた会員募集でマイクロバスを走らせたいと考えると、心は既に初夏に近づいている事を実感させられる。
                            3月20日の一言

このままでは選挙違反ですよ…

 本日は県下の小学校で卒業式があり、地元の母校に出向きました。もっとも、昨日の夕方まで卒業式を忘れており、午後には愛知県庁に出向く所用があり、ついでに後援会の政治資金収支報告書も済ませようとこれは知人に託して、津島市から出向している幹部職員と暫しの珈琲タイムとしていた。

 「もう、書類は通りましたかな」、「おい、あのまま提出すると選挙違反になるらしいぞッ」、「えっ、何故?」、「とにかく戻ってきてくれ」、「どこにいるのっ?」、「車の中」、「いつから待っているの?」、「ずっと…」、「…」

 津島市から受け取った書類を届けて1時間ほど珈琲タイムにしていたとは言えず、雨中の道路を走って戻ると、「書き直して郵送してくれと言われた」との話に、「選挙の事前運動は一切していないのに、何故選挙違反なのだ」、「そんなこと相手に言ってくれ」とのやりとりから、再度出向くこととなった。

 選挙管理委員会の担当者に尋ねると、私から後援会へ寄附をしたと記した日付が、昨年は統一地方選挙があった事から直前の寄附行為は法律に触れるとの話であった。

 「日付は適当に書き入れただけだが」、「そんなこと知りません」、「寄付金と言っても、実際は自分の金を使っただけで、寄附した意識もない」、「このままでも結構ですが、選挙違反になりますよ」、「じゃー、どうしたら良いの?」、「自分で考えて下さい」、「日付を書き変えれば良いんでしょッ」、「何も言えません」、「それでは判りませんが」、「…」と沈黙の中で出てきたのが電卓でした。

 会計責任者の書き入れた書類だが、第三者からの寄付金は一切無いことと、政治活動としての会報にしても選挙費用についても、すべてが私の懐から出た金で金額も小額だが、日付そのものが私しか判らず、肝心の私自身すら意識しておらず、出費から逆算した日付が記されていたのであった。

 後援会についても、会員募集や選挙対策費を一切出費していないことや、後援会とは名前ばかりで役員についても会長も不在同然であり、私の個人商店同様の実態だけに、法律からはみ出す活動があるはずもない。
 会報「津島の風」の発行についても、後援会と記してはあるものの、現実は私の議会報告だけに、これが後援会活動と呼べるのかも疑問となってくる。

 さて、この後が大変である。明日人々と出かけるためのマイクロバスを引き取りに一宮市まで走る事となったが、朝から連れまわした知人から「休憩してコーヒーくらいは飲ませてくれ」と言われ、「さっきまで飲んでいた」とも言えずに夕暮れの珈琲タイムに。

 「今どこにおられますか?」とは、名鉄観光の担当者で、こちらは一宮市から津島市の我家に走っており、約束の時間までに戻って打ち合わせると、7時に約束した人の訪問が続き、夕食についたのは午後10時を廻っていた。
 小学校から市役所に走り、午後には名古屋の県庁に出向いてから、夕方一宮市に走り、事務所を閉める夜10時まで雨と汗で履き続けた靴はムレムレとなっていた。さあ、明日は雨中の旅立ちとなりそうで、明後日からも地獄のスケジュールが続く…
                              3月19日の一言

書けば書くほど魅力のない書に

 本日は今年度(20年3月31日まで)末までに、済ませなければならない仕事の後始末に市役所に走り、退職を控えた幹部職員とは「もう会えない」と思うと、ついつい長話となり市役所の終了時間まで居座ってしまっていた。

 明日は午前中に人と約束し、午後には市役所からの報告書を持って愛知県庁に走る予定を立てていたが、夕方になって知人より「明日は小学校の卒業式があるんじゃないの」との言葉から、約束した予定を延期する連絡を入れ、仕事が夜に延期にもなった。

 さて、本日は四月に発表する書道展の作品を仕上げる必要があり、明後日の旅行の集合場所や時間の連絡も必要なことから、開始前に数枚の作品を書き込んだが、恩師の選んだ作品は練習用に一枚目に書き入れた作品が良いと選定され、何のための練習か清書か判らず、改めて書き込む必要に迫られた。

 真面目に書けば書くほど魅力が無いようで、書体がまとまればまとまるほど、自分では満足しても他人に与える魅力が減り、自分に芸術的センスが不足していることを自覚させられる。
 今回の作品展には、「南無大師遍照金剛」と「般若心経」を提出する予定ですが、四国や真言宗の寺院の参道に立つ幟で見慣れた言葉ゆえに、イメージを書道展用に変えられないでいる。

 仕事が遅れて綱渡りの中で、何とか消化した余裕から新たな仕事や約束を次々と作り、早々と手帳に書き込んであった予定表を忘れてしまう可能性も多く、明日の卒業式への来賓としての出席も完全に忘れられており、偶然でも娘が卒業式を迎える市職員の言葉に救われた形でもあった。

 「惜しかったなァ、忘れたままだと良かったのにー」とは、津島市議会一番の若手である上野議員の冗談だったが、彼も市民から難しい宿題を次々と求められ、連日市役所で勉強の繰返しであるが、若い議員の存在に教えるばかりではなく、教えられることも多く新鮮な気持ももらっている。
                               3月18日の一言

今日は一日便利屋となり…

 「ワン、ワン、ワン」と我家の愛犬の鳴き声は止むことを忘れたかのように続く。本日は最後の会報配布(今回発行分)となったが、早朝より起きており仮眠を取っていると、目覚まし時計より早く犬が目覚まし役となった。

 犬の異様な泣き声に事務所を偲び足で覗くと人の気配がする。とりあえず異様な雰囲気に開けた扉を閉めて戻ろうとすると「ちょっと、ちょっと!」と、訪問者が追いかけるように走ってきた。逃げたい心境ではあったが、扉を開けると親族の夫婦の姿があった。

 「おい、カギ屋を知らないか?」、「えっ?カギヤって?」、「カギを開けるカギ屋」、「何で、カギ屋なのッ」と、我家にカギ屋を聞きにくる理由が判らない。見れば勝手に電話帳を持ち出して必死に探していた様子である。

 「どうして?」の質問に、「コーヒー屋に行って帰ってくると玄関のカギが壊れて家に入れなくなった」の言葉が返ってきた。一年前なら知人のガラス屋である原さんが居たが…。
 「この際、いくらかかっても良いから」の言葉だが、カギを開けるくらいで何万円もとられては適わない。

 サッシ屋に勤める次男ならと電話すると「今は日進市にいる」との話たが、我々でも何とかなりそうである。「今から行くから」とボランティアのWさんと出動する事となった。しかし、肝心のカギは何ともならず、風呂の出窓を外して侵入することとなった。

 ただし、ここからが大変である。外からの侵入を防ぐためのサッシの柵が邪魔をしており、ネジも裏側から取り付けてあり、脚立に上っての仕事は日頃ナマカワを続ける私には苦痛となり、作業が終わってしばらくすると腕や指がしびれて感覚が失せていた。

 何でも依頼されるが、こんな技術を要する仕事を自分で処理した経験はなく、自己満足に浸っていると次男からの電話で簡単にドアが開く方法が告げられてきた。餅屋は餅屋で、素人の苦労が馬鹿みたいな事だが、これを教えてしまったら仕事にならないばかりか泥棒に知恵をつける事にもなる。

 さて、こんなことに走って事務所を不在にしたことから、不在票を入れられた郵便物や、何度も連絡の入った市役所職員の仕事を後回しにしてしまい、午後は後始末に追われる一日となったが、こんな苦労が家族には何も理解されず、一日中ブラブラしていたように語られるのでもあった。
                             3月17日の一言

茜屋寄席

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 本日は津島市西愛宕町の茜屋(あかねや)にて、茜屋寄席が開かれたので観賞してきました。

 茜屋寄席は珈琲屋の茜屋をホームグランドにしていた故・『浪漫亭砂九』と仲間により、平成10年より毎年開催されており、平成18年に砂九さんが交通事故で他界した後も、盟友の竜宮亭無眠さんをリーダーとして、落語仲間の出演により続けられ今年で11回目の落語会となりました。

(携帯の写真が見づらいですが、上から会場の様子と、中・無眠さん、下・本日のチケットと、5月5日に開催される6時間耐久マラソン落語会の案内です)

 本日の出演は、若鯱亭夢輔さん、若鯱亭笑天さん、南遊亭栄歌さんと、最後のトリが竜宮亭無眠さんの4人でしたが、浪漫亭砂九さんを思い出す悲しみを払拭する見事な笑いを全員が演じてくれ、改めて砂九さんの存在感を実感して帰宅しました。

 本日は多くを語らず、18年11月でストップしたまま(掲示板は書き入れがあります)の砂九さんのホームページと、無眠さんのホームページを添付して、砂九さんの私設マネージャーとしての思い出に浸ります。

浪漫亭砂九出現 http://www.clovernet.ne.jp/~sunamaru/
竜宮亭無眠・落語の会 http://homepage2.nifty.com/fred/top.html

変わっていく偉人のイメージに…

 今週は議会の一般質問や、常任委員会によって忙しい毎日であったが、久しぶりの土曜日に休養を決め込んでいたところ、迷惑ではないものの午前中より来客が続き、夕方は同級生と約束があった事から楽しくはあったが身体の休養にはならなかった。

 ただし、明日は津島市内で私の盟友であった落語家・故浪漫亭砂九さんがレールをひいた『あかね寄席』が開催され、砂九さんの落語仲間であった竜宮亭夢眠さんらが駆けつけることから、久しぶりの落語鑑賞となる。

 これも亡くなった砂九さんを偲ぶと辛いものがあるが、砂九さんの築いた灯を守る仲間の登場を暖かく支援し、津島市に砂九さんが根付かせた落語が街角に広まることを願いたい。

 さて、フランスのナポレオンのように国民的人気のある織田信長が尾張の出身であることから、豊臣秀吉、徳川家康を含めてテレビで取り上げられる機会が多いが、新しい配役で登場するたびに三英傑のイメージが変わっていく。

 現在放映されている徳川家康と三人の女においても、新しい視点で脚本が描かれているとはいえ、あまりにも歴史とのイメージがかけ離れていく事と、三人の出身となる愛知県の三河とか尾張との言葉が発せられる度に、実際の史実に忠実なドラマの再現を望みたい。

 ドラマの主題とするテーマが違うとはいえ、当の本人が目にしたら名誉毀損で訴えたいと思うのではないか。同じ故郷の先人を描く番組ゆえに気になるばかりか、言葉の使い分けにも愛知県や名古屋弁が番組から軽視されていることを実感する。

 番組の主人公松平健が愛知県の出身ゆえに、愛知県民としての勝手な期待も抱いていたが、これは暴れん坊将軍のイメージチェンジだけに終わりそうでもある。たかがテレビのドラマ番組のことではあるが、名古屋発信の全国ドラマでなく、何でも東京版の発信ゆえに当り前とされている東京感覚を実感する。

 今から五百年前と言えば、長寿から話題になった名古屋のキンさんとギンさんが5人バトンタッチすれば届く歴史だけに、史実を大切に伝えていくことの重要性も訴えていきたい。
                                3月15日の一言

饒舌な時は要注意でもある

 本日は常任委員会最後の総務文教委員会が開催され、今回は午後4時に終了したものの仕事を終えて帰宅したのは5時半となり、名古屋市で参加予定の交通問題勉強会が6時半から始まるため、休むことなく車を走らせなから残した用件は携帯電話で済ませたのであった。

 本日の勉強会では、大府市や瀬戸市、日進市などの公共交通やコミュニティーバスの現状や課題を聞くとともに、津島市の現状も報告し、愛知県内で廃止されるバス路線の現状報告を聞きながら、地域の足の確保と公共交通の現状維持のために議論を深める勉強会となった。

 私の住む津島市は名古屋から30分の距離にありながら、道路が整備され自家用車の利用率が高く、公共交通機関の利用者の減少が続き、特にバス路線については名古屋との路線を除き、総てが路線廃止となり、唯一残された名古屋行きも便数が減らされ続けている。

 平成13年秋からスタートした津島市の巡回バスも、利用者がなく空気を運んでいる皮肉から「エアバス」と揶揄され、市民から廃止せよとの厳しい批判が相次ぐ中で、市民を公募した検討委員会が立ち上げられ存続を決めるとともに、利用者拡大への議論により最近では利用者が増大しつつある。

 一方では、巡回バスが盛況になる中で、名鉄バスの定期路線の便数が減らされていく危機感も現実のものとなり、今では高齢者の貴重な足となっている巡回バスも、車輌の老朽化により買い換えが必要となると、新たな車輌を購入してまで続けられるかは疑問となる。

 さて、最近では市民公募により、市民の声と協働を前提に進める行政の施策も多くなったが、この市民と言うのがミソで、公募といっても市民全体の声の代弁とはならず、多くは行政への協働や参画を名誉職と勘違いする市民も多く、行政の描いたレールが敷かれている場合も多い。

 新たな施策についても、市民参画の旗印が議員の厳しい審査を後退させ、資料を見せられて考える時間もなく即断を求められても判断するのは難しく、市民に伝わるときには動かしがたい決定事項となっているのである。

 半月ほど前から体調も良く、闘争心も旺盛で、議会は勿論委員会や勉強会でも舌が饒舌に回りつづけている。「大鹿さん、話が長すぎるわー」とは、津島市議会一番の若手であり、同じ会派の上野議員の委員会終了直後の一言であった。こんな時には口が災いの基になりやすく、注意が必要であるのも過去の失敗例から忘れてはならないとの自戒も重要だ。
                             3月14日の一言
追伸
交通問題勉強会は、桜花学園大学森田教授を中心とした勉強会で、誰でも参加が可能です。

農家の限界が迫っている

 平成11年に議員となって9年が経過しているが、昨日の厚生病院委員会に引き続き夜の6時を過ぎる委員会が続いたのは初めてのことで、本日開催された建設経済委員会が終了したとき、時計の針は7時5分前を指していた。

 昨日の夕方も約束した用件があり、本日も市役所で終わらせる仕事が複数あったが、員外の傍聴席とはいえ委員会室に缶詰となり、明日は自分の所属する総務文教委員会である事から、積み残した仕事は来週に先送りとなりそうである。

 本日の委員会では今後の市政を占ううえで多くの矛盾点が噴出した。
 最近では市内のほとんどの農家が悲鳴をあげており、名古屋から30分の距離にありながら、所有する農地には家が建てられない規制から売ることもできず、農業を続ける後継者も不在で、農地がありながら人に任せて米を買って食べている農家が多く存在する。

 地主が土地を貸した相手からもらう小作料より、行政から請求される税金の方が高く、広い土地を所有することから健康保険税は最高額になり、水田に引く水に料金がかかり、排出する悪水にも請求があり、生活廃水にも下水代が必要とされる。

 私の知人の実体験だが、経済的に苦しい農家の畑の購入を地元農協より依頼され、農協の貸してくれたお金で購入したものの、自身の会社経営が厳しくなり、返済ができない事から結果的に担保とした農地ではなく、保証人になっていた父親の自宅を競売にかけられ、現在市外に移っていった同級生が現存する。

 苦しい農家を救うために農協に頼まれ、農協が借してくれたお金で隣の農地を買い、借金が支払えなくなったことから親の実家の宅地を農協に取られて競売にかけられたのである。もっとも返せず逃げ回るように放置した知人の責任も大きいが、組合員の農家の宅地を取り上げる農協は金融屋に変質していたのである。

 さて、我が町内では、過去に農協の職員が市役所の職員を引き連れ、土地の提供を求めた集団営農を勧める集会が開かれている。「反対者がなくなるまでやる」と発言する関係者もおり、ここには農地が先祖代々引き継がれてきた個人の財産との認識は皆無である。
 ただし、農地とはいえ名古屋から30分の距離にある土地が、坪1万円の売値で売買されている現実を皆さんは何と思われるか。
                              3月13日の一言

退職後の夕張市派遣も名案と思うが

 本日は厚生病院委員会が開催されたが、20年度予算案の中に4月から新たに導入される後期高齢者の健康保険や、厳しい財政状況の中での制度の見直しもあり、午後6時を過ぎるまで委員会が続き(私は傍聴で発言もなしですが)、久々に熱気を感じる委員会となった。

 明日も(と言うより数時間後には)建設経済委員会が開催されるが、長時間になる可能性が高く、いつもだと一番時間がかかる明後日の総務文教委員会が一番短くなるのかもしれません(私の勝手な推測ですが)が、厳しい財政状況が続くだけに責任を感ずる議会にもなっている。

 さて、今年は議会の理事者側に座る部長級の職員が5人も退職し、議場に座る次長も数人が退職し姿を消すが、来年度(4月から)の人員配置の難しさを実感し、特にトップ2人が退職する市民病院の人事には、経営の危機的状況下にあるだけに気になるだけでなく、真剣に考えさせられてしまう。

 本日の委員会にも市民病院があり、午後から職員7名が隣室で待機していたものの、出番は午後5時近くまでずれ込み、出番までの1時間を抜け出して隣室で雑談する中でやっと身体が動いてきた。員外の傍聴で無言(発言も可能)で座り続けるのは苦痛でもある。

 この雑談の中でも退職する幹部に伝えたが、私は退職する経験豊富な職員の中から経営破綻した北海道の夕張市に出向き、厳しい財政の再建と人手不足解消にボランティア感覚で参画する事が、夕張市のためになるばかりか、厳しい財政運営が続く津島市の学習機会にもなると思っている。

 若い市役所職員を派遣した自治体も存在するが、高い報酬を支払ってタダ働きに出向させることは、市民の合意が前提とされなければ税金のムダ使いともなるが、退職してまだまだ働ける経験豊富な職員の派遣は相手の迷惑にもならず、経験が後輩に生かせるのではないか。

 「そんなのムリ無理」と、手と首が振られたが、私の思いつきとはいえ退職の迫る職員には是非真剣に考えてもらいたいものである。
 もっとも議会中にも連日約束した仕事や会合が続いており、自分の身に置き換えれば総てを振り捨てて夕張市に出向くのは旅行以外は至難の業なのかもしれない。

 夕方しばしの雑談でも私が元気になったのは議会終了後に出向く『四国遍路』が話題になったからであり、退職する職員にもしばらくは仕事を忘れたいのが本音であろう。もったいないが、ご苦労さんと言うとともに、夕張だけでなく四国遍路を薦めてみたい。
                              3月12日の一言

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夕張に派遣して活かしたい行政経験

 本日は議会の一般質問が終了し、明日からは常任委員会が開催される。この一般質問についても、自分以外の質問内容については、右から左へ聞き流していることが多く、答弁は記憶していても質問する議員の発言は問われても記憶がないことが多い。

 本日の一般質問の中に、今年度で定年退職を迎え今月退職する部長5名に対する、市役所職員としての思い出と仕事に対する総括を求める質問があり、中には過去の思い出と反省から涙まじりの発言があり、見事な答弁に対して議員側から拍手がおこる一幕があった。

 さて、議会では中々口が堅く、答弁もれも度々経験してきたが、多くの職員の中から部長に昇進した職員だけに、行政経験から蓄積した経験と知識は捨てがたく、退職後もその経験をムダにせずボランティア精神で市政に残ってもらいたいが、去っていくから言える言葉だったのかもしれない。

 今年は管理職の退職も多く、厳しい台所の中心となる市民病院については、局長と次長のトップ二人が退職することから、後任の人選の難しさを実感するが、かつては定年後の再任用を希望する管理職が多かったにもかかわらず、今年は夕張の二の舞を意識してかどうかはわからないが、そんな声も聞こえてこない。

 最近の不景気な世情と、民間企業に勤める人々の厳しい労働条件から公務員の退職金にも厳しい視線が向けられるが、首長の退職金の減額や返上と比較するのは的違いか。最高で三千万円とも言われる市職員の退職金が高額になっているのは事実で、厳しい財政状況の中で夕張のような破綻も視野に考えると、自治体の財政状況にあわせた見直しも必要と思われる。

 夕張市のような顛末は予測したくないが、夕張のような事態を想定すれば、職員の報酬を3割削減しても赤字再建団体への転落を阻止すべきと思うが、職員も住宅ローンや子供の学費を抱えている者もあり、倒産するまで危機感は感じないのかもしれない。

 最近の不景気と公的負担の増加は政治の責任との指摘もあるが、国の流れに対する地方議員の声は無力に近く、我々議員も報酬削減が続く中で、税金や公的負担の増加に悲鳴をあげている。
 いまさら後戻りは出来ないかもしれないが、二大政党への流れは国政に国民の声が届かず、無党派層が大部分を占めながら自民と民主の選択しかできないことに無理がある。国会議員と国家公務員が率先して身を切る具体策を示すべきである。
                                 3月11日の一言

久々に満足する議会質問を終えて…

 本日は市議会一般質問が開催され、7会派の代表者による代表質問が終わり、明日11日は6議員の一般質問が開催される。

 議員にとっては議会が一番重要であり、議員全員が質問に登壇するのが理想かもしれないが、全員が質問に立てば2日間では日程が消化できず、毎回10人から13人の質問が続いていることから2日間の日程で消化されている。

 「今回は質問を止めようかな」との声を議員から聞いた事もあるが、私は議員になってから必ず質問に立ち、一回の議会に3項目の質問をする事と決めている。「そんなにやると、いつか品切れになるぞッ」との声を耳にした事もあるが、3ヶ月ごとの議会に科せられた課題として続けている。
 ※3月議会の質問内容 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/archive/2008/3/5

 本日の質問項目にいれた薬害によるC型肝炎については、平成13年から6回目の質問となり、国の対応が質問の時期ごとに変化しており、その流れを熟知し過去の答弁の変遷も知りながら、新しい部長に答弁を求めていくと、これこそ行政に対応を迫っていく心境を実感できる。

 議会で発言するだけが議員活動ではなく、日頃の活動が重要である事は当然だが、本日質問項目とした図書館の年中無休化については、3年がかりで図書館に訴え続けて現場から「無休化」の方向性を引き出しての質問だけに、市長から「早期に実現する」との答弁となった。

 「おい、今日の質問は良かったぞッ」とは、帰宅後に届いた知人の一言である。次の質問者の時間を気にして言い残した感は残るものの、今回の質問は久々に満足のいく内容となった。答弁はさておき、質問の目的に迷いがなく、自分の蓄積した活動から原稿なしの質問が可能となった。

 さて、議会中であっても市民生活はいつもどおりに進行しており、留守中にも事務所に電話が入り、携帯電話に転送されたものもあり、配布中の会報に添付した封筒から3通の手紙も返信されていた。電話や手紙の多くは市制に対する不満や正当な意見がほとんどだが、中には「ゴミなんか入れるな」と、会報配布への批判の電話も届けられる。

 「会報を見て」と届けられる電話の中に、「助かります」の言葉をもらうと議員の責任を実感させられるが、NPO法人の活動も待ったなしの対応が求められている。
                             3月10日の一言

それぞれの一日に

 横井庄一記念館の一日であったが、本日は午前3時に起きて会報を配布しており、睡眠不足の中で明日の議会一般質問の準備も考えていると、横井家の親類が訪問し「四月に法要があるから」との話から、親類の様子や過去の顛末が昼過ぎまで続いた。

 横井庄一さんの本家には、横井庄一戦死の報によって、我家の親類から養子で入っており、その当主の三回忌の法要がが四月に行なわれるのであるが、あいにくその日は20年前から毎年観光バスで出かける日程になっていたのである。

 こんな話から親族や家族の話が延々と昼過ぎまで続き、4月から5月のスケジュールや予定表への書き入れとなったが、5月にはグアム島から夫人が記念碑の序幕式に招待されており、留守中の開館と留守番について、最近の無用心な世情から議論となった。

 「せっかくの話題だからホームページで紹介すべき」とする私に、「そんなことしたら、留守中と判ってしまうから」との話で、記念館に置く事になっているパソコンについても、私のために置くとしたら無用の長物となり、私が発信するだけなら我家で事足りるのでもある。

 さて、本日は名古屋で国際女子マラソンが行なわれており、注目の高橋尚子は期待に反して結果を残せなかったようだが、私の三男も犬山で自転車レースに参加しており、「1位で帰ってくる」と言っていただけに気になったものの、こちらも簡単ではなかったようだ。

 2キロ15周のコースで、どうやら一周前をゴールと勘違いして必死で飛び出し、ゴール前で両手を上げようとしていると残り一周の鐘が鳴ったようで、素人考えではここからこのまま逃げ切ればと思うものの、先頭逃げ切りは無理のようでもある。

 「それでも1位で入ってきた時は良かったよ」と家内は話すが、本人は勘違いの飛び出しが悔しくてしようがなく、「1位で帰ってくるんじゃなかったか」の言葉は禁物の様子である。今月は全国大会出場も迫っており、数日前に名古屋競輪場で落車している事から、無事の帰宅と優勝を狙えるレベルにある事の実感で大満足であるが「もったいない」の一言が本音ともなった。
                             3月9日の一言

スポーツ関係ブログ

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筋書きのない格闘技を体感し…

 久々にボクシングのタイトルマッチを見た気がする。世界ボクシング評議会フライ級チャンピオン内藤大助と前王者のポンサクレック(タイ)の試合であるが、亀田との泥試合のイメージが残る内藤選手が最強の挑戦者を迎えた試合は、最後まで手抜きのない熱戦となり、引き分けに終わったものの両者の熱戦後の表情はさわやかだった。

 挑戦者は過去17回もチャンピオンとして防衛を果たしており、内藤は勝ってチャンピオンになったものの挑戦者には二度も負け続けており、正統派の挑戦者に対して守りに入らず、最後まで挑戦者と対等に攻め続けた試合展開に久々の好試合を見せられた気がする。

 ボクシングの醍醐味は勝利に対する戦法やポイントの獲得によって勝つことよりも、パンチの応酬によって汗が吹き飛び、倒れるか倒されるかの試合展開に魅力がある。
 かつてのボクサーは寡黙だった。名を残す名ボクサーと言われる選手達も、現役時代は興奮する試合内容と結果で名を残してきた。

 輪島功一やガッツ石松にしても引退後の珍問答によってタレントとしても人気があるが、現役時代は身体を鍛え、試合で結果を残しており、体力の限界まで現役として闘い続けている。最後が不完全燃焼で終わっている感が残る辰吉丈一郎にしてもタレントではなく、リングで闘うボクサーだった。

 亀田親子の登場によってテレビもボクシングを歌謡ショーのように扱うようになり、観戦するボクシングファンにとってはテレビのショーに付きあわされ、始まらない試合までの1時間以上もストレスをため続けてきたが、今回の試合を契機に本物のボクシングを志向して欲しい。

 さて、亀田親子との舌戦により人気者になった内藤選手だが、最強の挑戦者(30才)に33才の年齢にもかかわらず休むことなく最終回までパンチを出し続けた闘魂は立派としか言い様がない。又、チャンピオンや地元有利と思われる採点も皆無で、最後まで結果の判らない試合展開と、もう一度の再戦を見てみたい心境を残した久々の好試合となった。
                              3月8日の一言

我家で知らぬは私だけ

 本日は朝3時に起きて会報配布に走り、午前中に依頼された仕事を処理し、昼に20日の日帰り旅行の募集チラシを印刷して午後から配布に走り、市役所に残された税金を有り金から支払って帰宅する前から、期待した旅行の申し込みに混じって相談事の電話が続いた。

 「今から訪ねても良いですか?」の言葉を受け、事務所で相談事を聞いていると、我家への集金も相次ぎ、有り金を市役所に届けてきたことから、10円が足らず支払いができず、訪問者に借りることも情けなく、10円玉を必死に探してもみつからず、再度の訪問をお願いした次第であった。

 「オバサンは見えませんか?」と、暗くなってから飛び込んできたのは娘の同級生で、「どうしたの?」と聞くと、単車が故障したので預かって欲しいとの事で、状況を聞くとオイル切れのままに乗り続けたためにエンジンが焼き付いたと思われ、単車屋に電話したところ走ってきてくれる事になった。

 「おじさん、世の中は厳しいものですね」、「えっ?」と一瞬顔を見直した。事務所で20代の娘さんと二人きりで、私は彼女がどんな仕事をしているかも知らないのに、私より達観したかのような職場の苦労話が笑顔で続き、最近は私の娘とも会っていないとの話となった。

 「僕も最近は会っていないんだ」、「えっ、本当?」、「実は、どこに勤めているかも何をしているのかも知らないんだ」、「事務職と言っていたけど」、「最近、娘が結婚すると言ってきたけど」、「〇△さんでしょ?」、「知ってるの?」、「はい、アパートに泊めてもらった事もあるけど」、「…」

 知らぬのは私だけで、彼女の弟と私の次男も幼馴染で、私の知らない娘や次男の話に興味深々で聞き耳を立てていると単車屋が到着した。
 「修理にはいくら位かかるの?」と「お金が無い」という彼女に代わって色々聞いていると、家内が帰宅し「オバサン」と走って事情を話している姿から、私は何だったのかと淋しさを実感する。

 それにしても自分の娘の勤め先や場所すら知らないのは情けないとて電話すると、「〇〇ちゃんは金持ちだよッ」との娘の話である。仕事先を聞く私に「何故ッ?」と言う娘に、それぐらいは知らないと情けないと話していると「何時まで話しているのッ」と家内の声が…

 実は、知らぬは私だけで、勤め先の名刺も置いてあり、集金に来られても金の置き場を知らないのは私だけのようである。多くの人々から行政や家庭生活の相談事を受け付けているが、我家の金の置き場も娘のことも何も知らない私…。

 「おい、アパートの場所くらいは教えろ?」、「うん、そのうちなッ」と勝手に出て行った次男の居場所すら知らない現実に、無関心すぎる私と家族から浮いた存在になっている現実を実感させられる。突然の若い娘さんの訪問に、忙しい中でも新鮮な風が吹いたのは事実である。

 深夜の11時を過ぎてから知人の息子さんから携帯電話の着信音。やり過ごしたものの、「何か一大事かも?」と電話すると、「もうすぐ大鹿さんの近くに引っ越します」との返事が…。一大事との身体のアドレナリンが一瞬にして引いていった。
                             3月7日の一言

真面目な卒業式の陰で…

 本日は中学校の卒業式があり、私は地元である母校の卒業式に出席した。我家は末子の三男が高校生になっており、保護者として出席することは今後もないが、平成6年にPTA会長として出席し、平成9年からは同窓会長として本年まで出席してきたが、この中では今年が一番落ち着いた卒業式ではなかったか。

 平成11年に議員になってから荒れた卒業式も目にしたが、落ち着いた中でも学校を不登校の生徒が依然と多く存在し、高校進学後に退学する生徒も増えていると聞こえてくることから、落ち着いて見えるだけかもしれないが、別れから涙を流す女子生徒も多く存在した。

 今年の卒業生は240人(女子118名)で、母校の卒業者数は昭和50年から200人を超え、60年に300人台に入り、62年の352人を最高に、平成1年からは200人台の卒業生で推移しており、我が地域では少子化の波を新たな人の流入がカバーしているものと思われる。

 さて、自分が卒業した昭和44年とは比べ様がないが、この十数年の間にも卒業式は様変わりし、来賓の数は増えたものの、卒業式の簡素化により緊張感も希薄となり、見た目は華やかになっているものの、出席する保護者の姿も様々(目を疑う様相)となっている。

 都市化の影響かどうかは判らないが、他人のことには我関せずなのか、学校の卒業式が卒業する生徒の家庭や保護者だけの問題となり、地域の行事として話題にされることもなく、「えっ、今日が卒業式だったの」とか、ラジオで聞いたとの話は、地域の関心事から学校や子供達の話題が確実に減っている。

 地域の人々と学校の距離は確実に隔てられ、学校長の名前は勿論だが、学校の先生の顔が地域でまったく見られないことも都市化の影響か、時代の流れなのか…
 私は伝わってこない生徒の動向と、卒業した生徒と学校をつなぐ糸が完全に切れ、卒業したら縁切りのような薄情な現状から、横道にそれていく少年の存在に淋しさも実感する。

 病気から非行に走り、退学必死だった私には「絶対に高校を辞めてはいかん」と言い続けてくれた恩師が存在し、高校5年生を経験した事から、地域から乖離した学校に淋しさを感じるだけでなく、静かに進行した卒業式の陰にスポットを(3月議会中にも)当ててみたい…。
                            3月6日の一言

私の3月議会での一般質問と要旨

 本日は来週10日と11日に開催される市議会一般質問の通告に出向き、午後からは質問内容を行政に伝えるヒィアリングが予定されていたが、午前中に箱物行政に対する厳しい指摘と批判の電話が入るとともに来客もあり、通告期限の午前12時が間近となるハプニングにも見舞われました。

 さて、4年間の習慣は恐ろしく、市役所からの帰宅にわざわざ遠回りの新日光橋に車のハンドルを向けており、暫らくはこういった勘違いもありそうだが、橋の開通により市役所への到着時間の短縮にはビックリとする体感がある。

 3月議会の一般質問で、私の登壇は10日の6番目(午後3時頃となりそうです)と決まりましたが、本日は私の一般質問の内容と要旨について記しておきます。

 一件目 薬害肝炎に対する津島市の対応について
   要旨 国から患者への謝罪と厚生労働省から対象となる医療機関の公表を受けて
 血液製剤フィブリノゲンの投与によってC型肝炎から重い肝硬変や肝ガンとなった人々の訴訟に対して、国は福田首相自ら全面的謝罪し、厚生労働省は全国の新聞に折り込み広告を入れて、対象となる医療機関を公表した。
 私はこの問題について、平成13年12月議会から、14年3月、14年12月、16年3月、16年6月、17年3月の各議会に質問をして、訴訟には加わっていないが、対象となる津島市民と、厚生労働省の公表した医療機関名をあげて対応を求めてきた。
 国の問題とする津島市の答弁が続いてきたが、市民の生命に関する重要な問題であるために、B型肝炎も含めた行政の対応と、過去にフィブリノゲンを使用していた津島市民病院の対象者の特定と対応について質問します。

 二件目 津島市の教育行政について
   要旨 名古屋市で問題となり、大々的に新聞報道もされた生徒の越境通学について、津島市の現状と、学区外通学や区域外就学の許可基準を質問し、全国の都市部で導入されつつある学校選択性についても今後の方針と考えを教育長に質問します。
 又、義務教育終了後の生徒の追跡調査と、学業の遅れが原因で高校進学後に退学する生徒が存在する事実から、中学在学時に学業の贈れを取り戻す補習の実施についても質問します。

 三件目 市立図書館の開館日拡大(年中無休化)について
   要旨 この問題については、昨年から導入された指定管理者制度にNPO法人を選定する時から、年中無休化を提案し、昨年秋に実施された図書館協議会で図書館長から「閉館日の月曜日も開館したい」の発言を導いていたが、行政が障壁となり実施が遅れてきたことから質問し、早期の年中無休化実現に向けて質問したいと考えています。

 ※津島市立図書館の年中無休化の実現については、指定管理者でも対応を協議して無休化の方向への合意ができており、行政も無休化については異論が無いことから、実施時期だけの問題と思われることから質問し、無休化の早期実現を訴えたいと考えています。 

過去最高の忙しさを実感する

 本日より市議会が開会したが周りには議会の開会が理解されておらず、開会前の早朝に「本日から議会が始まりますので…」と前置きした電話の市民も、時間にかまわず話が終わらず、暗くなって帰宅すると、母親から「何所に行っていたのか」と言われる始末である。

 学校の先生にとっては12月が師走と言って忙しいイメージがあるが、議員にとっては3月も年度末であり、議会だけでなく小中学校の卒業式や式典も多く、4月から始まる新年度を前に忙しい日々が続くのであるが、議会が開かれている事すら市民に忘れられているようにも感じられる。

 「明日からは議会がありますので…」、「じゃー、昼ごろには帰ってみえるの?」、「いえ、いえ、一日中かかりますので」、「えっ?、議会って一日中もやってるのッ」なんて電話での会話が昨日もあり、「途中で少し時間は取れないの?」と、完全に自分のペースで語られていた。

 月初めにして手帳のスケジュール表はぎっしりと埋まっており、この中で今月末と来月29日の旅行友の会の目的地を決め、四国遍路の日程も決断し、議会報告の会報と旅行友の会の会報を同時に発行し、政治団体の収支報告書や政務調査費の報告も迫ってくる。

 1月に開催した地域セミナーについても、運営費について個人的に立て替えており、報告書と請求書を今月中旬までには愛知県に提出する必要があり、NPO法人の行政との手続きも残されており、私一人の肩に多くの仕事が積み残され、ずしりとプレッシャーを感じる日々となってきた。

 昨年4月より指定管理者が運営している市立図書館も、閉館日の月曜日も開館して年中無休とする話を温めていたが、年末には市長と副市長の前で紹介もしておきながら、後ろ向きの行政によって進捗しておらず、この事も私の忙しさによって遅らせてしまったと反省し、今回の議会で急遽発言する事を決め、図書館長に面会したことから、私の帰りを待つ人々は明日に先延ばしとなった。

 さて、毎週火曜日の夜は我家で書道教室があり、四月に作品展の開催も決まっていることから、今月の20日までには作品を完成させる目安となっている。帰宅して座るひまもなく恩師を迎えに走ったが、頭の右側面に異常な痛みが…。

 さて、散会後にはとりあえずコタツで横になったものの、一瞬の仮眠後に復活してここに記し、明日提出する一般質問通告書をまとめると新聞配達がやってくる。私の不在中にもボランティアによる会報配布は続いており、これは3月議会前のものであるから、今週中には終わらせたい(と言うよりも、終わらないと次がない)…
                              3月4日の一言

四国遍路に学ぶ心

 昨日の午後に開通した日光橋だが、迂回路であった新日光橋を通る習慣が4年に及び、午前中のテープカットと3世代家族による渡り初めの現場に立ち、カメラで写真に収めていたものの、夕方には迂回路へ車を走らせており、4年間とはいえ習慣の恐ろしさと、元に戻ったことによる交差点信号の変化に、暫らくは注意が必要と実感させられた。

 明日からは議会が開会されるが、我家からはまっすぐ一本道で市役所に到着することから、若干は便利になるものの、元々存在した日光橋の架け替えだけに、開通を心待ちにしていたのは沿道の商店主と思われ、4年間のマイナス面を取り返して欲しいと願う反面で、迂回路に面した商店には試練ともなる開通でもあった。

 さて、毎月届けられる『四国八十八ヵ所霊場会』の情報誌「へんろ」が本日郵送されてきた。この情報誌の一面には、東京都の施主による愛媛県の遍路路の整備と落石防止壁が完成したとの記事が掲載されていた。

 記事によれば、取り付けて間もない手摺と看板が落石によって破損している現場を修復する際に、「落石はこの後も起きる。遍路(人)が被害に遭わぬとも限らない。この場所に来合わせたのはお大師さまに呼ばれたという事かもしれない」と、その場で防護壁も発注し、完成に至ったとある。

 「へんろ」そのものが路をテーマにしているだけに、歩き遍路のために有志の浄財で完成した休憩所「ヘンロ小屋」や、世話になった「おセッタイ」の宿など、人々の善意によって遍路路が維持されている事を実感させられる。

 都会では道路は行政が修復するのが当り前と思われているが、自分達の生活に利用する生活道路については自分達でもできる事があるのではないか。そうして考えてみると、私の子供時代には村の農道については村の住民が総出で修復していた記憶が蘇ってきた。

 四国遍路を参考にすれば、地域の生活道路に手づくりのベンチやイスを置くだけでも、高齢社会では地域住民の役にたち、心休まる交流の機会ともなる。個人の限界はあるが、こんな気持ちが都会には不足している事も実感する一日となった。
                              3月3日の一言

日光橋(津島市)の開通

イメージ 1

 平成16年8月より架け替え工事が続けられていた日光橋が完成し、本日午後2時より開通しました。添付した写真は、午前中に実施されたテープカットと、三世代家族を先導してお払いをしながら渡る神主と、初渡りする車両の様子です。

 平成12年の東海豪雨の際に、川の水位が上がり、日光橋の倒壊と同時に橋の位置だけが堤防高より低い事から、橋周辺からの氾濫の危険性が指摘されたために、昭和9年に架け替えられた橋の架け替えが早まり、4年(予定よりは1年短縮)の歳月をかけて本日の開通となりました。

 地域住民にとっては不都合な工事であり、仮設の歩道橋はあるものの車には大きな迂回が必要となり、橋の工事だけが原因とはいえないものの、倒産や廃業した商店もあり橋周辺の人々には大きな迷惑となったが、今回の開通は地域住民だけでなく、通行するバスの通行時間も短縮(元通りになるだけですが)となる。

 さて、治水や災害の防止とはいえ、橋のある日光町は橋と道路の拡幅により、先祖伝来の土地を手放して移転した人も多く、新しく転居した土地で大変な思いをされている例もあり、そういった人々の存在と犠牲も伴って橋が完成したことを忘れてはならない。

 このような事業が進められる際には、関係者全体と十分な協議をして、少なくとも商売を営む人々には計画的な街づくりを提案すべきで、今回の工事においても協議よりも移転への同意を優先し、一軒ずつなし崩し的に町並みが変わっていってしまった。

 商店の移転はその当事者だけの損得ではなく、買い物客にとっても不便となり、医療機関の移転も患者にとっての不便を強いられる事となっている。かつては日光湊(港)として、橋の周辺や堤防に問屋や商店街を形成していた面影は皆無となった。

 机上で白地図への線引きは簡単だが、その地図の上には居住する住民が存在し、農地と言えども先祖伝来の土地との感覚と意識は行政には皆無である。我家も県道沿いに建っているが、県道沿いに建てられたのではなく、新たな道路が裏庭の土地を削って建設され、その後も歩道の拡幅で玄関先が下敷きになった経験を持つ。

 県道沿いの固定資産税の高さを嘆くと、「県道の一等地は人の住む土地ではない」との不見識な言葉も行政職員から聞こえてくる。晴れやかなテープカットに集まった多くの人々の影で、先祖伝来の地を去った人々の存在を記憶しておきたい。
                              3月2日の一言

金婚夫婦を祝う会に出席し

 本日は市制施行61周年記念津島市表彰式と金婚夫婦を祝う記念式典が文化会館で開催された。

 毎年の行事ではあるが、表彰される基準について紹介しておきたい。
〇津島市市政功労者
〇堋垢箸靴藤暁以上在職した者 副市長として8年以上在職した者 収入役として8年以上在職した者 せ垉腸餤聴?箸靴藤隠嫁以上在職した者
〇特別表彰
仝?による同一の公職に20年以上在職した者 ∋垉腸颪竜跳莠磴靴は同意等を必要とする同一の公職に20年以上在職した者 市の小中学校の教職員として30年以上在職し成績優秀な者 せ堋垢特に表彰の必要があると認めた者
〇永年表彰
仝?による同一の公職に10年以上在職した者 ∋垉腸颪竜跳莠磴靴は同意等を必要とする同一の公職に10年以上在職した者 嘱託員として15年以上在職し功績が顕著な者 こ銅鐫賃里烹横闇以上勤続しその功績が顕著な者 セ堋垢特に表彰の必要があると認めた者
〇一般表彰
|亙?治の進展に貢献し、その功績が顕著な者 教育、学術、技芸、その他文化及び体育の向上に尽くしその功績が顕著な者 産業、経済の発展に寄与しその功績が顕著な者 ぬ雲犬琉堕蟲擇喙匆駟〇禹?箸某圓しその功績が顕著な者 ナ欸魃卆源?箸某圓しその功績が顕著な者 Ω鯆粍汰粥⊆0属飮?擇喊絏从劼遼標遒帽弩イ靴修慮傔咾顕著な者 П人◆交通、通信の発展に貢献しその功績が顕著な者 ┫超美化及び緑化の推進に尽くしその功績が顕著な者 自己の危険を顧みず、人命の救助又は公共物の保護にあたりその功績が顕著な者 青少年の善導、非行防止等その指導育成に貢献しその功績が顕著な者 社会奉仕活動その他の善行により、市民の福利を増進しその功績が顕著な者 公益のため、100万円以上の私財を寄附した者 奇特篤行者で、特に市民の模範となる者 市長が特に表彰の必要があると認めた者

 以上が津島市表彰条例の抜粋であるが、金婚夫婦を祝う記念式典については結婚して50年を夫婦ともに健在でなければ出席できない事から、是非ともあやかりたいものである。ちなみに私の両親は父親が亡くなっており、金婚式が迎えられませんでした。
                            3月1日の一言 

短い月末の思い出

 2月もついに最終日になり、日時の経過の速さを実感していたが、それでも今年は1日多く29日まであるものの、月末になると大変な業種も多い。

 昭和52年に創業した新聞販売店を思い起こすと、1月に創した時には連日の雪に悩まされやっと配達体制は落ち着いたものの、2月には月末が短いために資金が全くなく借金でスタートした学生経営者だけに、本社への月末納金(新聞社への支払い)のために必死で走り回った事があった。

 「君は経営者だからしっかりと座っているだけで良いよ」と言われ、大学の講義を優先すれば良いとの話で仕事は始まったものの、突然に仕事を休む人があれば自分で走るしかなく、本社から人の応援はあったものの、積雪があれば応援もあてにできず、大学に行けない日もあった。

 新聞配達だけでなく、単車に乗ったことすらほとんどなかったのに、片手に順路帳(読者の名簿)をもって、開業直後に一度も配達したことのない地域を地図と懐中電灯片手に雪道を走った事もあった。この時は本社から人の応援があり、いずれ私に追いついてくれるとの安心感はあったものの、自分の責任を現場で実感させられた。

 そんな仕事も落ち着き、大学も春休みを控えてのんびりできそうな気分を一新したのが2月の月末納金であった。
 「大鹿君、2月は月末が短いから頑張ってよ」、「はい、はいッ、もうすぐ冬休みだから」、「月末納金の事、判ってるねッ」、「はいッ、えっ?エッ?」

 月末までに本社に納金することは聞かされていたが、「月末納金が出来なければ辞めてもらう」ぐらいの厳しい言葉が、それまで寛容であった本社担当員から告げられ、一週間ある月末の集金が2月には4日しかない厳しい現実に緊張した事が懐かしく思いおこされてきた。

 もっとも月末に納金できなくとも店を辞めさせられる事はないが、月末納金は販売店の信用とともに、本社から補助金が出ており、当時はこれが結構な金額だったことから、毎月集金した現金を握って本社に走るのを日課としていた。
                              2月29日の一言
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 月末納金について読み直し補足すると、当時は月末納金の完納奨励金が多く、その後に25日納金は更に多くの奨励金が出ることから、銀行から資金を借り25日納金(名古屋本社管内で2店だけでした)にしました。
 月末納金どころか、5日納金や、その後にも納金できない同業者もおり、小切手で実際の支払いを遅らせる店もありましたが、そういった店は経営者に問題があり廃業となっています。(そんな店から借金を申し込まれ、返してもらえるかハラハラした事も多い)
 もっとも完納奨励金が減額されてほとんど見返りがなくなった事から、私は本社への不満を本社納金を遅らせるという戦法に使うようになり、不良店主の仲間入りになっていきました(笑)
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