大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

2008年04月

国民に見透かされた軽薄国会に

 「おい、今日中にガソリンを入れとかないとあかんぞ」と知人に言われ、帰宅後に会報配布用のバイクに使うガソリンタンクを見ると7割ほど入っており、車も5リッターも入るかどうかの状況から、珈琲1杯分の損と諦めて、それよりも車を使わない事を考えていると、来客により時間的余裕がなくなり、車を使わざるを得ない事となった。

 それにしても国会の審議と言うよりも、満足な審議もないままに自民党の思惑どおりにガソリンが値上げとなり、全国の自動車運転者全てに関わる法案がいとも簡単にまかり通ることに、野党で政権交代を叫ぶ民主党から「問責決議案」すら出されないとすれば、国会はやらせと言われても弁解の余地がないのではないか。

 さて、NPO法人の決算年度末が4月となっており、連休後には収支報告や事業報告も提出の準備が必要になるが、満足な仕事には至っておらず、運営資金も個人的持ち出しが先行している事から、税金を支払う心配もないのが現状だが、税務署など関係部署からの手続きが多く、「利益もあげていないのに何故?」の不満がたまっていた。

 元々がボランティアであり、それぞれが仕事を持っていることから、行政の始業時間内に連絡をもらっても判る者がおらず、数ヶ月もそのままにされていた県税事務所の手続きのため本日連絡をとっている時に、「もしや」と思い確認すると電話中の担当者の隣りに私の同級生が座っていることが判明した。

 「どうしたの?」であるが、こうなると心強いもので、何度も書面で催促される冷たい文面とは違い、提出する書類も確認できれば良いとの言葉から、「連休明けに訪問するから」、「あわてなくても良いよ」とのやりとりとなった。
 ただし、本来であれば愛知県に書類を提出して法人の認証を受けており、毎年愛知県へ収支報告書と事業報告書の提出が義務付けられていることから、縦割り行政のスリム化を図ると同時に、県民にも二度手間の報告を求めないように改善を図るべきでもある。

 どちらにしても、昨日の旅行会の赤字(自分の会費設定ミスであるが)を負った事が頭をよぎり、「あーァ」との溜息が漏れる一日となり、「太っ腹で諦めろ」との知人の言葉にも、「あーァ」の返事しか出ない一日となった。

 冒頭で、ガソリンを珈琲一杯分の損と諦めたと記したが、ガソリンタンク(正規の金属製)に入っている分を車に給油して、今すぐ買ってこいとの家内の言葉から、空にしたタンクをぶら下げてスタンドに出向いたところ、「明日からは三十数円値上がりする」との言葉を聞き、国会の議決前から出来上がっている結論に、改めて国会が機能していない事を実感させられた。
                            4月30日の一言

朝日旅行友の会で新緑の小浜市へ

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 本日は若狭の小浜市へ出かけました。4月29日の会員募集は、平成2年の『高遠の桜と史跡めぐり』以来、毎年続けてきましたが、かつての天皇誕生日からみどりの日、そして今年からは昭和の日と祝日の呼び名がかわり、当初からの参加メンバーの年齢もびっくりの高齢化です。(写真は観光船からの蘇洞門めぐり)

 本日の小浜市へは、平成1年の11月23日にも実施し、当時は明通寺と万徳寺に拝観し、日本海へ蘇洞門めぐりを実施し、帰路に三方石観音に参拝しています。昼食場所のドライブイン若狭松風は同じですが、食事には金をかけてきた旅行会が、今では金をかけても食べられない年齢に達しており、当時のカニが一匹ついた内容とは様変わりです。

 本日は敦賀の昆布館で休憩後に小浜市に入りましたが、遅れた行程から蘇洞門めぐりの出港する小浜フィッシャーマンズワーフに直行し、観光船に乗る18名を降ろした後、街歩きをするメンバー22人を拝観する常高寺に配車する予定でしたが、連絡した小浜市の観光ボランティアの言葉から、先に常高寺に直行した事により、旅行がぶち壊しになってしまいました。

 30分の遅れがありましたが、「お寺の住職を待たせてあるから、港は後にしてくれ」との観光ボランティアの強い言葉から、寺で22人を降ろした後に港に直行し、蘇洞門めぐりを楽しんでいると、「市内散策が終わった」との連絡が入った。

 ただし、船は予定の時間まで戻れないし、バスも港に駐車しており、予定より早く終わった街歩きのメンバーは常高寺で待ちぼうけとなったのである。船を下りて合流後に話を聞くと、期待したお寺での法話もなく短い説明で終わっており、ゆっくりと街を廻る予定も、ボランティアの次の予定が入っており、2人のガイドのうち1人は途中でいなくなり、予定時間の半分にも達しない時間で街歩きは終わっていたのである。

 天候に恵まれ、蘇洞門めぐりを堪能したメンバーと合流した街歩きのメンバーの顔は不満の色がにじみ出ており、肩透かしを食ったような不満の声があがってきた。小浜市が朝のテレビ「ちりとてちん」の舞台となった事から、観光ボランティアを依頼して街歩きを企画したのであるが、バスの遅れはあったものの、ガイドの時間切れは予想もしないものであった。

 このボランティアという言葉が曲者で、街歩きのメンバーが予想もしない時間切れにもボランティアゆえに文句も言えず、私が2人のガイドに交通費と昼食代三千円と四百円の切手代を支払ってある事もしらないため、予定の半分も街歩きが消化できないままに足止めでバス待ちとされたのであった。

 朝日旅行友の会では小浜市へ過去4回出かけているが、お寺の住職の案内もあった事から、小浜の国宝めぐりと蘇洞門めぐりを両立させてきたが、観光ボランティアの存在が時間を持て余し、街歩きよりバス待ちの時間を増大させてしまったのでもあった。

 バスの遅れがあったとはいうものの、行程どおりに進めていけば、街歩きのメンバーも待たされる事なくバスに乗車できた事から、ボランティアガイドの存在が行程を壊し、目的の達成感のない小浜行きとしてしまった感はぬぐえない。

 旅行には渋滞によるバスの遅れは当然起こりうるだけに、ボランティアとは言え観光地としての改善を求めたい。街歩きと蘇洞門めぐりを両立させようとした当方の企画は空回りし、その後続けて訪れた施設の試食の旅と化し、帰宅後の会計処理から会費の設定段階から料金不足が発覚し、主催者としての懐にも悲しい新緑の若狭路(これも痛い勉強)となったのである。
                           4月29日の一言
本日の訪問先
昆布館・常高寺・蘇洞門めぐり・ドライブイン若狭松風(昼食)・箸匠せいわ・日本海さかな街・小牧かまぼこ
名古屋観光日急バス(四日市) 運転手   ガイド佐藤 参加者40名 会費・7,300円

国乱れて求められる地域の自律に

 衆議院山口2区補選で民主党候補者が大差で当選し、福田首相の求心力が著しく低下する可能性が指摘されているが、指摘されている後期高齢者の医療制度や年金、ガソリン税の復活など、民主候補へ確実な追い風になったものの、そもそも候補者の擁立時より自民候補に無理があった事が忘れられている。

 今回の補選は、2月に実施された岩国市長選に自民現職が転出した事に伴う空白の議席を争う選挙であったが、民主候補は前回の衆議院選挙で落選したというものの、前回の選挙が小泉ブームで自民が躍進した選挙だった事と、落選とはいえ比例中国ブロックで生き残った現職からの立候補という事から、自民党の擁立した新人で退職間近な官僚候補とは器が違いすぎてはいなかったか。

 いずれにしても、惨敗した自民党については福田首相のダメージだけでなく、首相の最後の権力である衆議院の解散権も持ち出せず、国民の意識とは反する「暫定税率復活」を決め込んでおり、回復する可能性のない不人気のままでの政権運営が続けられていく。

 こんなことを言うと結果論となるが、2月の岩国市長選に現職国会議員を擁立する必要があったのであろうか。確かに国の防衛問題と日米関係を左右する選挙ではあったが、選挙に勝ったことが岩国市民の民意であったとは思えず、仮に国にとって都合の悪い市長が続いても、国政の混乱を招くよりはましだったと思われる。

 政府は日米関係を優先し、政府に都合の良い市長の誕生を画策したのであろうが、国際貢献での自衛隊の海上給油が休止しても日米関係が悪化したとは思えず、岩国問題から生ずる障害が発生したとしても、民主国家であるべきアメリカの理解は得られたのではなかったか。

 国会の衆参のネジレがしばしば問題となるが、国と地方の関係も、国政と国民の関係も、すべての問題が矛盾を含んでおり、今回の暫定税率復活の問題にしても、県や市町村の首長は復活に期待しており、国民の多数が復活に反対している風向きとはネジレが生じている。

 本日は地域の小学校区のコミュニティー組織の設立総会が開催されたが、行政から地域への補助金が削減され続けている事から、「何のために次々と住民組織を創らせるのか」との質問が出た。金がないから何でも住民でやれと思われるような施策も多い。国の借金は、地方への補助金を減らすだけでなく、確実に住民の生活に影響しはじめているのでもある。
                         4月28日の一言

本日も横井庄一記念館へ

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 館長が療養中となり、四月は毎週の記念館勤務が続いていますが、この時期の一週間は変化も多く、訪問するたびにツツジなどの花が咲き誇り、日に日に暖かさを実感させられる半面で、雑草の成長も早く、我家の草取りもしないのに記念館の草取りが大きな仕事となる。
(写真は記念館の裏庭)

 昨日からゴールデンウィークに入っており、記念館までの車の量も多かったが、リュックを背中にした旧東海道を歩いておられる人々も多く、名古屋から桑名を目指す横浜のご夫婦が記念館の看板を見て、寄り道で訪問された。

 若いとはいえ名古屋の熱田の宿から佐屋街道(旧東海道の熱田と桑名間の陸路)を歩くのは大変な道程であるが、本日だけでも何組もの旅人が記念館の前に立ち止まり、記念館の看板を背に記念撮影をされるものの、中まで入ってこられたのは一組だけで、覗かれる視線は感じるものの、有料と勘違いされている可能性が高い。

 さて、本日だけでも旧街道を歩く人々の姿が多く見られたが、残念な事は、次々と新設された道路や環境の変化によって、多くの資料を持って歩いてみても、どうも実際の旧街道とは違う道筋を歩いておられる可能性も高く、単独サイトの資料ではなく、地元発信資料の集大成が必要ではないか。

 私の地元周辺の資料を目にしたが、このままでは現在の道路を歩くだけとなり、詳しく教えようとしたものの、サイトから入手した資料をかたくなに信じておられる様子から、押し売りはしなかったが、地元の資料や史実とは違う資料には修正も必要である。

 さて、さて、「ゴールデンウィークは知人と四国に」と語っていたが、四国を目指す日程の余裕もなく、既にゴールデンウィークに入っている現実は時すでに遅し。
 「あらッ、四国に行っていると思っていたわ」とは、昨晩横井夫人からかかってきた電話の開口一番の一言だったが、記念館だけでなく遅れた仕事も手付かずのままとなっており、記念館の前を歩いていく旅人がうらやましく輝いて見えたのでもあった。
                          4月27日の一言

聖火リレーの逮捕者に同情したい

 本日は早朝よりテレビの報道は長野市の聖火リレー一色であったが、早朝より多くの中国人が集まり、旗をふり大声で叫びつづける姿に違和感と嫌悪感を感じていたが、やはり多くの妨害行為が起こり、五人が逮捕される事件に発展した。

長野市で26日に行われた北京五輪の聖火リレーの観客数は、8万5600人に上ったことが長野県警の集計で分かった。県警はリレーを妨害した男計5人を現行犯逮捕。調べに「チベット問題を訴えたかった」などと供述しているという。
 県警によると、沿道の観客は8万人。ゴールの若里公園が5000人、出発式が行われた県勤労者福祉センター跡地と休憩地点の長野五輪競技施設「エムウエーブ」がそれぞれ300人だった。
 威力業務妨害の現行犯で逮捕されたのは、聖火ランナーが通過する際、車道に飛び出した川崎市多摩区の会社員(30)、台湾籍の建設作業員(42)、東京都中野区の会社員(38)と、卵を投げ付けた世田谷区の無職の男(25)。聖火に向けてトマトを投げ付け、警察官に命中させた愛知県津島市の自営業者(63)が暴行の現行犯で逮捕された。
 川崎市の男は「チベット問題を訴えたかった」、台湾籍の男は「中国人がたくさんいたので興奮した」と供述している。

朝日新聞では→ http://www.asahi.com/national/update/0426/TKY200804260001.html

 新聞報道によれば、リレーの第一走者となった星野仙一氏は「すんなり走れてよかった。気持いい」と話しているが、『ランナーには中国側のスタッフ2人が伴走。透明のプラスチック製の盾を持った警察官数人が囲み、外側左右に約50人ずつ計約100人の警察官が人垣をつくる形で聖火を守った』と報じられる聖火リレーからは正常なコメントとは思えず、タレントの萩本欣一氏のように、「笑顔で走ると決めていたが、だんだん笑顔がなくなって…」のコメントに共感を覚えたのでもあった。

 あれだけ多くの中国人留学生が全国から組織的に集められた事と、早朝より一斉に大声で叫ぶ姿からは長野市が日本の主権下である事すら忘れられており、聖火リレーの本来の目的とは程遠い中国の国威を示した聖火リレーに終わった印象が強い。

 さて、トマトを聖火に投げつけて現行犯で逮捕された男性は愛知県津島市の自営業者との報に、犯罪を助長する気持はないが、同じ地域に住む者として同情と行動の心情には理解を示したい。
 暴行で逮捕とあるが、警察官に命中したトマトは聖火へ投げられたものであり、警察官には偶然に当たったか警察官が意図的に当たった可能性も否めない。

 たかだかトマトを投げただけで暴行の現行犯で逮捕の報にも今回の聖火リレーの異様さが象徴されている。人数の多さで少数を圧倒する姿は、チベットの歴史と伝統とともにチベット人の信教の自由も奪い、武力によって有無も言わさず身勝手な主権を主張する中国そのものでもある。同じ図式となるこんなリレーに参加して笑顔を見せる日本人の姿にも淋しさを感じられずにはおられない。
                           4月26日の一言

こんな意見も参考に→ http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/32490177.html

本日は一分の時間切れを話題に

 このブログを書き込んで、夕食後に転寝をしていると携帯電話が鳴り、歓送迎会後の「良い気分」となっていた市職員と偶然に出会って運転手役となった議員(何か可笑しくないか?)の訪問を受け、3人で近所の珈琲屋で議論を続けていると、「12時を廻った」の一言を聞いた。

 25日のブログの空白を避けたいが、自宅に戻る時間もなく、携帯電話で間に合わせの送信をして、走って帰宅すると、1分間の遅れで25日は空白になっていた。1分間とは言え、遅れは取り返しがつかず、これが選挙なら投票もできず、遅れついでに気分を変えて書き直しである。

 さて、本日(昨日)は、ボランティアで高齢者を病院に車で付き添う知人にとって、初めて複数の依頼が重なる嬉しい悲鳴となり、重複する場合の補欠役となっていた私も自宅で待機していたものの、時間になっても連絡がなく、「出動したら珈琲代に」と約束していたが全額自腹となってしまったのである(悲)。

 ボランティアであり、有償とは言え600円が利益とは思えないが、来るはずの連絡がなく、私にとっては初めてとなる出動機会がなかった事から、「ずっと、待っていたんだが…」のグチになったが、知人によれば私が市議会議員であるから頼み辛かったのではないかとの話であった。

 病院に行く公共交通や家族の足がなく、病院に行きたい時に行けない人々の足を確保するために、低価格の有償ボランティアを含めたNPO法人を立ち上げたのであるが、その張本人である私にボランティアを依頼しづらいとの住民の意識に、議員と住民との大きなカベを実感させられた一日ともなった。

 もっとも、知人は帰りの連絡のないままとなった住民の安全確認に送り届けた病院に走り、タクシーを呼んで無事帰宅された確認をしたが、こちらも5分待ってもらえば間に合ったとの話に、1分であっても時間の予測の難しさを実感したのでもあった。

 「何故ッ、連絡がないんだ」と言う私に、「議員を送迎役にはできないんじゃないか」の言葉が返ってきたが、私を通して頼まれたボランティアだけに、私にも身体を張ったボランティアを依頼して欲しかったと無念の思いが強い。

 そうやって考えると、深夜に議員を運転手役とした酔っ払いの市職員(管理職ではありませんよ)は大したものである。そんな酔っ払いの運転手役で我家に走ってくる若き庶民派議員の存在に、時代の変化を感じるとともに、明るい光明を見せてもらったように思えてきた。
                          4月25日の一言

般若心経の文字数を問われ…

 「大鹿さん、般若心経は何文字あるかな?」と、いきなりの質問にびっくりした。昨日の事であったが、私が書道展に出品した般若心経を見ての一言であった。

 「えっ?」と一瞬言葉が出なかったが、この文字数については、諸説あり「264」とか「266」、「262」などと人によって返ってくる言葉が違い、私自身も正確には数えた事がなかったのである。相手は知って聞いているのか、知らずに聞いているのか判らず、「経本には二百と六十余文字と書かれている」と伝えると、「そう、その通り」との言葉が返ってきた。

 正確には「262」文字であるが、写経として記すと最後の般若心経まで266文字あり、読経の際にも266文字まで声を発するので、266文字の説にも納得でき、「二百と六十余(よ)文字」との勘違いで264文字と言う人も、きっと『心経奉賛文』を聞いた事がある信心深い人なのであろう。

 何枚も写経で般若心経を記してきたが、昨日の質問から自分の目で一字一字を数え直したのでもあった。しかし、下記のブログのように、僧侶の中にも274文字と記されていたり、276文字と記した般若心経も存在し、266文字説の書き込みが圧倒的に多いのが現実でもある。

http://blogs.yahoo.co.jp/swingpriest/8395945.html
http://blogs.yahoo.co.jp/makoton243/32800392.html

 262文字については、四国八十八ヶ所霊場会の先達教典にも記されており、266文字から最後の「般若心経」を除いた数字でもある。文字の数でもこんな具合であるから、般若心経については多くの解説があるのは当然でもある。

 先達教典によれば、「仏教の根本的な教えである空について説いている。とらわれのない心、ものの見方、受けとり方で、真実の姿を見極め、あらゆる苦悩の源を断つべきことを述べている。弘法大師は自らの著『般若心経秘鍵』で、この経は大般若菩薩が究極の悟りの境地を説いたものであり、声聞・縁覚・菩薩・大乗仏教・密教という、仏教のあらゆる段階の修行と、その結果をすべて含んだものである、と解釈されている」と記されている。

 私は般若心経の解説について、大和屋圭蔵氏(故人)の残された『般若心経講話』(大八木興文堂発行)を参考にしているが、はじめの観自在菩薩から終盤の真実不虚までを「顯了般若」と言い、最後の「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提婆訶」の17文字は、諸佛の秘密の呪とされ、これを『秘密般若』と記されている。

 さて、私に質問した人が、さらに「知ると知らないとどちらを取る」と問われ、回答に困っていると、「知っていると言うと人は教えてくれない」と言われ、忘れている事もあるので「知ったふり」をせずに「知らない」を選択した方が良いと教えられた。あいまいな解釈も多く、経典を見直す夜となった。
                             4月24日の一言

日本海側との新時代が到来し…

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  本日も自転車の一日となったが、以心伝心という言葉を実感されられるかのように、昨晩ポストに投函した書道展の案内を見て、早速鑑賞に訪れて記帳した人があり、会場の外で追いついたが、この足で我家に車を走らせる予定だったとの話であった。

 肝心の書については、私の名前が記してあるにもかかわらず認識されておらず、改めて足を運ぶ事となった次第でもある。

 さて、東海北陸自動車道が7月5日に全線開通する事から、本日の夕刊に『高速バス参入続々』として記され、現在4路線ある高速バスが全線開通によって走行時間が30分ほど短縮される事から、列車との競争激化とともに、増便と価格面でのサービスにも期待できそうである。

 ただし、高速バスとは言え、名古屋と富山市が4時間もかかる事と比較し、総延長が185キロ(愛知県一宮市~富山県小矢部市)であれば、単純にマイカーでは2時間の距離であり、太平洋と日本海を横断する新たな観光と流通の交流が展開されそうである。

 平成5年1月にさかのぼるが、片道5時間以上をかけて富山県上市町まで雪の北陸道を走った事があった。目的は「ガンが治る」と言われた霊水で、死を宣告された父親のために、福井や金沢を通り越して北陸道を滑川ICからさらに雪の山道を走ったのでもあった。

穴の谷の霊水
http://www.town.kamiichi.toyama.jp/HP/spot/spot03.html
http://www.geocities.jp/m_mitumori/anannda-1.html
http://www.kita-alps.net/shop/indexanantan.php

 穴の谷と書いて「あなんたん」と呼ぶ霊水は、今から1200年前の延暦年間に弘法大師が巡錫された霊場で、昭和になってお告げにより「万病に効く」と全国に知れわたった霊水は、環境省選定名水百選に指定されている。

 霊水の効力についてはゲルマニウムを含有しており、当時はガンに効くとか万病に効くと聞き、恐れを知らずに雪の北陸道を走り、ポリ容器5個を持ち帰ったが、思うような期待には至らず、再度走ることなく父親は去っていった。

 最後を宣告された瀬戸際ではなく、『ゆとり』のある中で再度訪れ、霊水の効力を自分自身の身体で味わってみたい。前記した書道展への訪問者の車には、昔から『ありがとう』の大きな看板が付けてあり、最近では『ゆとり』の看板も増え、津島市では知る人は知る存在となっている。
                           4月23日の一言

忙しいのに自転車で走り続けて…

 先週の木曜日に雨が降り出し、一晩充電した電動自転車が事務所の入り口に待機していたが、時間に追われるとついつい車で走ってしまう事から、本日の午後になってやっと自転車を引っ張りだす事となった。

 さすがに雨の心配はなかったものの、県の海部事務所で防災の会議中に市役所から電話があり、自転車とも言えずに終了後に引き返し、自転車ならでは行けない知人宅へ戻り、自転車ゆえに立ち寄れる家々を訪ねて帰宅すると、時計は午後7時を廻っていた。

 さて、一昨日から市民病院の2階で神守丈友会の書道作品が展示されており、私の作品も2点出展してあるが、案内状の発送どころか、ハガキに記名もしてあらず、本日夜の書道会は宛名書きで終わり、明後日にも病院に行かれる知人もあるために深夜に郵便局のポストに走る事となった。

 わざわざ4キロも離れた津島郵便局のポストを目指す私に、メンバーのMさんから「近くの神守郵便局(簡易郵便局)のポストでは」と言葉があり、神守郵便局は昼と夕方しか手紙が回収されない事を伝えると、「朝8時にも回収しているよ」との言葉が返ってきた。

 私も数ヶ月前までは、朝の8時前と午前中、昼と午後と夕方にポストが回収されていると思っていたら、現在は昼と夕方より回収されておらず、「これも民営化の影響か」と津島郵便局で確認すると、民営化以前より一日2回になっているとの話であった。

 絶対に一日2回とは思ったものの、Mさんの自宅からポストが見える距離である事から、「万が一」と期待して走ったところ、やはり昼と夕方しか回収されておらず、再度我家の前を走って津島郵便局まで走る事となった。こんな時こそ車で走れば良いのに、ついでとばかりに自転車で出かけた事から、足腰どころか身体中が麻痺し、直後に風呂に入った事から汗が滴り落ちている。(日頃の運動不足と、連日名古屋まで自転車で往復し、競輪場を走る三男との違いを実感する)

 最近になって、恩師や恩人が亡くなり、趣味としていた写真や、私が発行していたミニコミ誌を懐かしい話題にする事が多いが、恩師と一緒に書道展を開催されていたK氏宅を訪れてから、ギャラリーとして開放されている珈琲屋に寄ると、6月に開催される合同展に出品してみないかとの話となった。

 「じゃー、参加しようか」と思い、写真のテーマを高校野球か上高地と考えていると、「書じゃないと受け付けない」とマスターの身勝手な一言が返ってきた。写真なら何とかなりそうだが、書は素人同然であり、恥ずかしいかぎりであるが、今年は趣味の写真の再開と、ミニコミ誌の復刊にも挑戦したいと考えており、会報を政治と旅行会の二種類発行している事から、議会以上に世間の付き合いが復活し、益々忙しい日々を実感する一日となったのでもある。
                        4月22日の一言

忘れた頃に鶴田浩二を

 本日は久々に俳優の鶴田浩二さんを思い出してみたい。鶴田浩二が亡くなり20年以上経過しているが、現在でも右翼の街宣車から流される軍歌の中に鶴田浩二の声がとどろく事があり、私は一瞬でも足を止めてしまうのである。

 鶴田浩二は戦争体験者として多くの軍歌を唄っているが、唄った軍歌のほとんどは戦争の悲哀と先に逝った戦友を偲んだ曲が多い。また、「リサイタルは好きでない」と言いながら、歌手以上に多くの唄を残している。

 「あれは終戦の少し前、富田という私と同期の男が、私のところへきてこう言った。゛おい、小野、三途の川っていうのはほんとにあるのかな。きっと冷たいだろうなぁ。迷ったらどうしよう゛彼は真顔でこう言い、そして次の日、彼の飛行機は海に落ち、死んでいった。あの時のショックは永久に忘れないだろう」

 「私は生き残り、戦友たちは海の底に沈んでいった。私にはそれがどうしても忘れられない。生き残っている私は、とにかく人並みの楽しみは味わえるようになった。だが一杯の酒を飲んで、うまいなぁ、と思うとき、私の心には死んでいった戦友達のことが思い浮かぶ。私は生きて酒を飲み、うまいものを食っていられるが、彼らは海の底に死んで行ったまま、もう二度と生き返ることはないんですよ」

 学生であった鶴田浩二は、昭和19年5月15日、横須賀第二海兵団に二等水兵として入団している。死後に特攻隊の生き残りかどうか騒がれたが、「海軍少尉、小野栄一。身長五尺七寸、体重十七貫五百。きわめて健康…」として敗戦を迎えている。

 「私の飲む酒の味は苦い。だからつい、ガブ飲みになり、3日酔い、4日酔いということになる。私には今の日本の見せかけの平和が気にいらないんだ。純粋に国のために戦って死んでいった人達の骨が、まだ海の底に、南方各地に散らばっているというのに、もう戦後は終わったとばかりぬくぬくしている連中に腹が立つ。万博の、オリンピックのとお祭り騒ぎをする前に、何でその金の何百分の一でも遺骨収集に使ってくれないのか。一映画俳優の私だが、そのために微力をつくしたい。私が決して好きでないリサイタルなどをやったのも、そのためなのです」

 昭和46年に撮影された『吼えろ唐獅子』のセットの中で、田山力哉氏に語られた鶴田浩二の一言ですが、現代社会にも通ずるものがあり、今こそ鶴田浩二の人生を振り返ってみたい。

戦友よ安らかに http://jp.youtube.com/watch?v=Q6gOHfpE6ao&feature=related
<軍歌>あゝ戦友 http://jp.youtube.com/watch?v=1WqimFT8wuQ
戦友の遺骨を抱いて http://jp.youtube.com/watch?v=qv42AWjqhW0
戦友の遺骨を抱いて  http://jp.youtube.com/watch?v=Bguv-75vPeU
父よあなたは強かった http://jp.youtube.com/watch?v=Vv-Hzh5ue6g
日露戦争物語 http://jp.youtube.com/watch?v=hxBzlyV-ZJw

東宝映画 太平洋の嵐 http://jp.youtube.com/watch?v=YKQ43HiZI00&feature=related

横井庄一記念館で懐古

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 添付した案内状は昭和59年に名古屋市の三越百貨店で開催された、横井庄一作陶10周年記念作陶展のハガキである。

横井庄一陶芸の記録 http://blogs.yahoo.co.jp/oshika59/folder/1236758.html

 帰国して10年(横井庄一がグアム島で発見されたのは昭和47年)を記念して、昭和56年から東京、大阪、仙台と全国各地で開催された作陶展だが、残されている案内状では最後となるのが上のハガキである。

 横井庄一は自身の手で、『明日への道』(昭和47年)と、『無事がいちばん』(昭和58年)を出版し、59年2月にも『横井庄一のサバイバル極意書もっと困れ!』(小学館刊)を発行しているが、この年の6月に右目の白内障の手術(藤田保健衛生大学付属病院)を受けており、翌年の3月には胃がんの手術(国立東名古屋病院)を受けている。

 昭和57年には、横井庄一と美女7人による『ザ・サバイバル』(テレビ朝日)に出演し無人島での原始生活を再現し、58年、59年、60年(横井不参加)と番組は続いたが、本の出版や陶芸の作陶展なども身体の不調からこのあたりがピークとなっている。

 発見されて時の人として全国を走り廻り、落ち着いてからテレビのバラエティー番組出演や出版、作陶展と充実した日々も長くは続かず、このあたりで本人の代弁者として、本人からの聞き取りをしてあると貴重な戦争体験が後世に伝えられたと思うものの、私自身もこの年に三人目の次男が誕生しており、そんな事にはまったく無関心でもあった。

 本日は館長不在の記念館で、庭に植えられた我家から移植された槙やツツジを眺めながら、聞こえてこない本人の言葉から時間の経過と世代交代の現実をヒシヒシと感ずる一日となった。
                          4月13日の一言

書道展前日のハプニング

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 明日からの書道展の準備に出向いたところ、本日まで展示の写真パネルが張ったままになっており、午後3時から再度集合し直したがそのままになっていた。

 細かい打ち合わせが不足していたと思われるが、会場が市民病院のために行政の怠慢として恩師の怒りは頂点に達しており、土曜日のために4月に異動したばかりで何も判らない職員が1人だけで明日に仕切りなおしとなった。ただし、日曜日は恩師も私も都合が悪いために、他の人々にお願いする事となった。

 「明日の9時からやりましょうか」の一言に、「9時に写真パネルは外してあるの?」、「さぁー」、「もし、明日も外してなかったら外せッ」、「勝手に外してはダメでしょう」、「じゃー、いつなら良いの?」、「担当者に連絡が取れないので…」

 この顛末に恩師の怒りは最高潮。「外しゃァ、エー」、「勝手に外して傷ついたと言われても」などと、進捗しない応対に「もし、自分が出てきてこのままなら、責任者の院長にも出てきてもらう」との私の一喝に「そこまでは」と弱腰の言葉が出たが、忙しい中で朝から変更や出直しの挙句である。

 私が議員であるからではなく、市民としてこんな事ぐらいと適当にあしらわれる事に、市民病院の問題点と現在の厳しい経営状況がある。民間ではこんな顛末はあり得ない。もっとも、恩師の怒りはこの後のサービス満点の珈琲タイムでは消えていた。

 さて、この後で名古屋市まで息子の試合用自転車を取りに走った車中で、自己反省も含めて権力をかさにした怒りが知人との話題となった。

 「高速道路の彦根インターが工事で出られなかったため、俳優の緒方拳が怒鳴り込んで来た」との話で、「オレを誰だと思っているんだッ」と次のインターから戻ってきて料金所に怒鳴り込んだらしい。今から十年ほど前の話だが、この事から「二度と緒方拳の顔は見たくなくなった」との知人の話に、明日は我が身と実感した。

 関係者しか知らない話だが、サービスエリアのオバちゃん達にも「もう緒方拳は嫌いだ」と話題になったと言うが、時間に追われていたら目的地に直行する事から、「オレは特別」との意識があった事は確実と知人は言う。

 こんな嫌な話は身近にもあり、人に上下をつけたり、特別扱いをするから問題も起こる。市内の行事に出かけた際に来賓の案内をもらっていたのに、前の車を誘導しながら、私の車は「こっちには入れない」とシャットアウトに。

 ボランティアの案内であったが、ワンボックス車とジャンパー姿から来賓とは認識されず、「来賓です」、「証拠は」などと失礼な言葉に、「うるさいッ」と会場入り口で押し問答となった事があった。こんな顛末を繰り返さないためには、一切の特別扱いを排除し、市民は全員平等に扱う事であろう。

 ただし、本日の一件は大問題で、既に展覧会の案内状が郵送してあり、明日の午前中に会場を訪れた人があったら大変失礼な事となる。明日から我々が借りており、当然の事として本日中の後片付けが求められ、それができない市民病院の対応と体質は大問題でもある。
                           4月19日の一言

高齢者(母親)が連日叫んでいる…

 大阪府の橋下知事が大阪府内43市町村の首長との意見交換で見せた涙が話題となっている。財政改革を旗印にして立候補し、府民の圧倒的な信託をえた知事であり、厳しい歳出の削減は当然の事とは言え、市町村の予算執行ができず、市民生活に影響する予算の末端まで把握した上での削減かどうかが気になるところでもある。

 ただし、多くのテレビカメラが並んだ前で、首長たちは厳しい視線を意識して発言しただけでなく、完全に悪者役となる覚悟での意見であり、全てを言い尽くしていないと思われる事から、再度の意見交換の実施と同時に、人気者だけにテレビカメラを意識した涙との疑惑と、カメラを排除した本音の意見交換がなされるべきでもある。

 全国の知事たちからは国の交付金の削減や道路整備に対する予算の削減に反対する意見が政府に寄せられ、自民党は時間切れとなったガソリン税を再度議決するとの情報が大勢を占めているが、自民党の応援で当選した橋下知事が、府下の市町村長に補助金の削減を訴えている姿は皮肉とも思えてくる。

 もっとも、自民党のように歳入を増やす手立てはなく、お願いする立場になっているとは言え、一方的に市町村への補助金削減を発表し、テレビでの人気を背景として、涙を見せることで押し切ってしまう論法は乱暴でもあり、府下の市町村の補助金削減の比率で国からの補助金も放棄してもらいたいところでもある。

 公約の実現は重要であるが、市町村の首長にもそれぞれの公約があり、市町村の予算配分は地域住民の生活に直結することから、財政再建のために歳出削減が自身の公約だけではなくとも、歳出の削減を一方的に発表する前に市町村と十分な調整をする事と、大阪府民に自ら具体的な説明をする事が忘れられてはいないか。

 同じタレント出身とは言え、宮崎県の東国原知事とはまったく違う乱暴な手法に、危うさと同時に人気を背景とした独善的な手法との疑念が捨てられないが、今後もテレビカメラの前でのセレモニーが続けば、地域住民の民意すら首長が代弁すれば悪者にされる可能性も高く、橋下知事の政治力よりも人間としての資質が気になるところでもある。

 さて、国の混乱は治まらず、我家でも母親が後期高齢者の保険税が年金から差し引かれる事に、自民党や小泉元首相を名指しで批判を続けている。地方議会とは言え、この制度に賛成票を投じた立場から、保険税の見直しと同時に、地域住民への十分な説明を求めたいと思っている。

 公的負担も増え、行政からの地域サービスが低下しても当然のような流れは断ち切らないとならない。一方で、公的負担も収めず、行政の補助を当り前として生活する横着な市民の存在も断ち切らないと、真面目な自律する市民に負担が集中し、公的負担も収められない混乱が予想される。国の末期的様相ではないか…
                                 4月18日の一言

やっぱり雨を降らせてしまいました…

 結核菌に怯える数日が過ぎ、昨日には感染の心配から開放された事から、息子の自転車に触発され、夜に自転車を持ち出して近所を五百メートルほど(笑)全力で立って走ったところ、身体がフラフラになったものの、足腰の痛みが消えていた。

 昨年四月の統一地方選挙では自転車で地域を走り回り、身体の減量ばかりでなく足腰の痛みが消えたことを思い出し、昨晩から電動自転車に充電して、本日は早朝より自転車で走るために準備をして、着替えをすませて外に出ると雨が振り出した。

 ふだん考えない事や、やりなれない事をやろうとすると「翌日に雨が降る」とは言うが、本当に事務所から自転車を出して出発する寸前の雨で、準備万端整えてからの雨だけに、このまま濡れて走ろうかと思った位であるが、気持が収まらず息子のローラーに自転車を乗せるものの、電動自転車はサイズがあわないために、「ものすごく古いロード」と言われる愛車に空気を入れた。

 さて、ローラーに乗る息子の姿は見慣れているが、実際に自分で乗った事はなく、固定ローラーは乗れるものの、(3本)ローラーには乗れない事から苦戦を続け、結局はイスと机を支えに乗ること5分。これでも汗が出て、イスを支えにした手が痛くなってきた。

 また訃報である。57才の市役所課長が本日亡くなったとの話であるが、数日前に元気な姿を見て会話を交わした事から信じられない連絡であったが、この4月から部署を異動したことから昨日開かれた歓送迎会出席の後、自宅を直前にして倒れたとの話である。

 詳しい状況は判らないが、昨日まで元気で持病もなさそうな人が本日には亡くなって葬儀の主となっている現実と、昨日までの結核菌の影に怯える自分を重ね合わせ、人生の結末が近づきある現実と、今までとは違う年齢を意識した行動が必要と実感する一日となった。
                           4月17日の一言

目に見えぬ結核菌に怯えた3日間

 「大丈夫ですよ、感染はしていません」との一言を、昨晩の現役看護師さんからのツベルクリン反応の見立てからも確信していたものの、主治医の言葉が素直には信じられないのでもあった。

 「それでも、身体のどこかに結核菌が潜んでいる事はありませんか?」
 「そんな心配はありませんよ」
 「それでも、何ヶ月か後に発症する事はありませんかね?」
 「何で?」
 「保健所から定期的な検査が必要と言われているから」
 「今現在は感染していないから、でも、何故?」

 胸部のレントゲン撮影でも異常がなく、ツベルクリン検査の結果も異常がなく、結核菌の感染はないと診断されたものの、身体のどこかに結核菌が潜んでいるようで、医師の言葉を素直に聞くことができず、「絶対に見落としはありませんね?」と、帰宅後に冷静に考えると信頼している筈のかかりつけ医に大変失礼な言葉を返していたのでもあった。

 病院を出た直後に家内から電話があり、昨日まで厄介者のように言われていた事から、「今日中に荷物をまとめて入院する必要がある」との冗談も、本気にされているようで、自ら「冗談、冗談」と種明かしして、無事に異常なしと伝えて、晴れて無罪放免のような心境となりました。

 さて、2週間に1度訪問していただけで、保健所から結核患者の接触者として連絡があり、感染の危険性から検査の必要性があると言われた割には、入院(隔離)先の病棟へは自由に入れ、地元保健所からは2週間から3週間待たないと検査の案内がないとの話に納得がいかないでいる。

 「あんまり神経質になりすぎじゃない」とも言われたが、目に見えない細菌であり、体力の弱った高齢者や持病のある人にとっては、感染する事が生命に関わるだけでなく、入院(隔離)して長期間家に帰れなくなる可能性もある事から、検査の実費負担とか公費負担に関係なく早期の処置が当り前と思うが、保健所は実にのんびりとしたものでもある。

 それでも私は親族であるから責任もあるが、赤の他人の接触者にとってはまったく迷惑な話でもある。保健所からの連絡を待つTさんにも実費でも早急に検査を受けるように伝えたが、予告なく突然訪問した病院もびっくりの対応となる。一方で、建物とか生活用品からは感染しないから大丈夫とは言うが、患者から放出した結核菌が静かに息を潜めているかもしれず、週末は念のために横井庄一記念館の消毒にも念をいれたいと考えている。

 最近では高齢者の結核が増加しているとも言われているが、結核菌と隣り合わせの恐怖を感じた経験から、行政の怠慢を是正することと、感染者の早期発見について訴えていきたいと思う一日となった。明日からは遅れてたまった仕事の巻き返しも急務となる。
                                  4月16日の一言
結核に関するブログ
結核菌感染者が日本人の4人に1人! http://blogs.yahoo.co.jp/glowforestmoon/13976632.html
あらゆる抗菌剤が効かない結核菌を検出 http://blogs.yahoo.co.jp/realmedicine101/47623549.html

明日まではハリのムシロ

 結核患者と二週間に一度とは言え接触していた事から、昨日のツベルクリン検査の結果(レントゲンは異常なし)の出る明日までは謹慎生活である。

 「何ともないでしょう」と言われても、万が一感染していたら私の家族はもちろんの事、親しい知人まで検査が必要となり、責任重大であるだけでなく、長期の隔離された入院も必要となる事から、昨晩はツベルクリンの注射痕が気になって仕方がなかったのでもある。

 さて、本日夜の書道会には現役看護師の女性も参加している事から、顛末を説明して「これでどうだろうか?」と腕の注射痕を見せると、「大丈夫、心配ないわッ」との言葉がかえってきた。

 「本当に大丈夫かなァ?」
 「大丈夫、大丈夫」
 「明日になったら悪くなっていないかなァ?」
 「感染していたら、二重痕になるから」
 
 いくら説明を受けても「万が一」を考えると、質問したい事が次々とでる事から、肝心の書道はスズリに水を入れて筆を湿らしただけで、一字も書かないままに書道会が終わって散会となりました。
 
 インターネットを通じて『結核』について調べてみても、結核菌は自然の大気中にも存在しており、ほとんどの人は菌を吸い込んでも発症しないとあるものの、最近では高齢者の発症例を耳にする事も多く、不適切な治療による耐性菌を持った人に出会うと大変な結果にもなりかねない。

 結果は明日の医師の診断を待たなければならないが、大丈夫としても一緒に記念館に通っているTさんは検査が済んでおらず、Tさんの安全が確認できるまではマスクが必需品にもなる。失礼な話だが、保健所の指示を待っていたら安心もできず、かと言ってボランティアのTさんに実費で検査を受けてくれとも言えず…

 しかし、「結核の検査を受けたい」と伝えた際、マスクを渡され病院外の車中で1時間も待機(隔離)させられた事を考えると、保健所間の手紙による書面の連絡と、検査日が数週間先となる現実に、被害者の拡大と新型インフルエンザの対応を重ね合わせて、医療の温度差も実感する。

 夜には後期高齢者の健康保険税について母親がグチをこぼし、「年寄りのわずかな年金から摂っていくなんて」から「小泉(元首相)が悪いんだッ」とエスカレートする中で、検査結果によっては強制入院となる人々の存在が頭をよぎり、「うるさいッ」と叫んでいた。
                          4月15日の一言
関連記事(ブログ)
結核結果(~_~メ) http://blogs.yahoo.co.jp/demy0401/13314250.html
臨時結核検診がありました http://blogs.yahoo.co.jp/masasan843/41511378.html
結核病検査!! http://blogs.yahoo.co.jp/felice1rosa/34857553.html

病院でも歓迎されぬ自分の身体に

 「大鹿さんのお宅ですか?」と、朝一番の電話は名古屋市の中川保健所からの連絡で、老人性肺結核で入院した横井庄一夫人との接触者として、結核の検査を受けるための連絡であった。

 「地元の津島保健所に連絡しますので、その連絡を待って検査を受けて下さい」
 「連絡はいつ頃になりますか?」
 「こちらから、手紙で連絡してから手紙での連絡ですので、2週間から3週間先になります」
 「そっちに行っても良いので、早く検査が受けたいのですが?」
 「中川の検査は今月は済んでしまいました」
 「それじゃー、津島保健所は今月はどうですか?」
 「津島の事は判りません」
 「電話で事情を話して、聞いてもらえませんか?」

 こんな顛末であったが、保健所どうしの連絡をとってもらった結果、津島保健所は一般医療機関に検査を委託している事が判明した。ただし、検査は手紙を送付してからの連絡待ちとの事から、急いで検査を受けたいと訴えた。

 「今日にでも検査を受けたい心境なんですが?」
 「それはムリです」
 「万が一、私が感染していたら、多くの人々に結核菌をまき散らす可能性もあるでしょう?」
 「そうですが、そんなに心配する事もないですよ」
 「しかし、検査は必要なんでしょう?」
 「結核菌は何所にでもあり、ほとんどの人は感染しても発症しませんから…」
 「はァー? でも、発症する人はあるんでしょう?」
 「今、咳とか熱がありますか?」
 「ありませんが、感染していたら入院でしょう?」

 なんて問答を続けたものの、議員という立場上、多くの人々と接触する可能性から、今すぐ検査を受けたいと訴えると、「どうしてもと言われるなら、実費で検査を受けてください」と言われ、当方は検査費用の有無ではなく、安心したい事から今から病院で検査を受けると伝えて病院に走りました。

 「結核の検査を受けたいんですが?」と、窓口で事情を説明して待合室で待っていると、「大鹿さん、これを着けて下さい」とマスクを手渡され、「連絡するまで車の中で待っていてください」と、大変仰々しい対応に恥ずかしい思いで、陽があたり暑くなった車中で待たされる事一時間となった。

 「なんでこんな事になったのか」と、天国の横井庄一さんに恨み節を言ったところで後の祭りで、まるでバイキンのように隔離された事から、悪かったら二度と横井記念館には行かないなどと、待ち時間が永いことからも恨み節を続け、後悔ばかりが頭を巡ってきたが、これも人間の運不運であり、過ぎた日時は後戻りができません。

 医師に事情を伝えて、レントゲン撮影とツベルクリン検査を受け、レントゲンの結果は何も異常がなかったが、ツベルクリンの結果は明後日の検診を待つ事となりました。

 「それはそうとして、このマスクはいつまで着けていれば良いですか?」、「無くても大丈夫だけど、人の多い所に行く時は着けた方が良いよ」、「結果が悪かったらどうなるんですか?」などと、大丈夫そうな応対でも心配は尽きず、医師の話からも深刻さはなく、隔離されたような待ち時間がウソのような応対になったのでもあった。

 さて、一緒に記念館に行っているTさんにも保健所から連絡がいっているが、Tさんは保健所に任せきりのようで、私のようにうろたえていない様子だが、結核について色々と調べてみると、風邪と思って風邪薬を飲みつづけている高齢者も多いとの事に、医学が発達して治療法が確立されたとは言うものの、改めて結核への予防と検査の必要性を感じる一日となりました。
                         4月14日の一言
よく似たブログ記事
 http://blogs.yahoo.co.jp/mm411966/23189119.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/mm411966/23677432.html

近々保健所から連絡がいくから…

 「わッ、近寄らないで!」と家内が言えば、「おいッ、おいッ、マスク、マスク」と三男に言われ、無理やりマスクを付けられても家の中で私の居場所がありません。

 本日は横井庄一記念館の一日となったものの、館長であり夫人の入院した病気である老人性結核に感染している危険性から、私とボランティアのTさんは地元の保健所で検査を受ける事となり、近々保健所から連絡があるとの電話があった。

 数日前の一言にも記したように、病院を訪れた時に感じた「万が一」の恐怖は、記念館に到着する前から車中の話題になっていたが、「体調が悪く弱っていないかぎり大丈夫」と看護師さんに言われたものの、私の心中ではこの数日間の心配事になっていました。

 今までまったく他人事であった結核であるが、このまま記念館を開館していて大丈夫かと調べたところ生活道具を通じた感染の心配はなく、人から人に感染する事が判ったものの、二週間に一日の訪問と言えども安心はできない事から検査を受ける事となった次第である。

 症状は軽いものの高齢である事から入院となった事と、絶対に入院を必要としないとの話だった事から深刻に考えた事もなかったが、数日前に病院を訪問した事から私の心配事になっており、人々から「大丈夫」と言われても、まるで既に感染しているような気持となっていました。

 しかし、そうなると、私の家族は勿論ですが、毎日接している知人も心配となり、早急の検査は急務であり、一緒に出かけているTさんの「大丈夫だわッ」との言葉の胸中が信じられないでいる。本当は保健所からの連絡を待つのではなく、明日にでも検査を受けたい心境でもある。

 さて、何ともないとは思っているものの、万が一感染していたら大変な事で、「検査を受ける」と伝えただけでも毛嫌いされる家族の対応を考えると、感染していたら家にも置いてもらえないだけでなく、人生を左右する一大事なのかも知れないが、余計な心配事に終わることを祈る一日となりました。
                           4月13日の一言

戻ってこない犠牲者の命に…(東名脱輪事故)

 昨日静岡県の東名高速でトラックのタイヤが脱輪し、フェンスを越えて反対車線の追い越し車線を走行中の観光バスに衝突する事件があった。

 この事故で観光バスを運転中の運転手が死亡し、乗客7名が軽傷を負ったと報じられているが、脱輪したタイヤは重量が100キロもあるという事から、即死状態の中で瞬間的に運転手が踏んだブレーキと、事故後の対応が被害を最小限にとどめたものと思われ、運転手の命を賭けたプロ精神に心より冥福を祈りたいと思う。

 高速道路の走行が当り前の社会になり、通勤割引など気軽に高速道路が使われる社会の中で起こった事故だけに、改めて事故の原因究明と防止策を実施して事故の再発を防ぎたい。

 今回の事故ではタイヤの車軸についたボルトが折れてタイヤが外れたとあるが、8本あるボルトのうち2本は錆びて茶色に変色していた事から、かなり以前から折れていた事が考えられ、改めてタイヤの保守点検について考えてみたいものでもある。

 自分自身を振り返ってみると、タイヤがパンクして取り替えた経験は平成になってから記憶すらなく、雪道でチェーンを付けたことはあるものの、自らタイヤを交換する機会もないことから、タイヤの車軸についての点検どころか考えたこともなかったのである。

 さて、今回の事故は、事故にあった観光バスが岐阜県大垣市の営業所から発車し、愛知県内の尾張地域の人々を乗せて走行していた事から、私自身も今月29日に観光バスによる旅行を企画しているだけに、他人事とは思えないとともに主催する立場としても深刻な事故でもあった。

 実際に高速道路を走行する時、車間距離の短さだけでなく、百キロを超える高速でも追い抜くためにあおってくる大型トラックの存在など、法令が遵守されていないどころか、明らかに速度リミッターが改造されている営業者の存在も考えられ、意図的な違反には厳罰も必要と思われる。

 もっとも高速での事故は相手車輌だけでなく、自身の命に直結する危険性から、改めて防衛運転の重要性と、故障やパンクがなくなった事から、他人任せとなっている車輌の整備点検の重要性を認識しなおしたい。まずは一度も見た事のない車軸のボルトを確認したい。
                           4月12日の一言

街角の看板に

イメージ 1

 最近の津島市の明るい(?)話題となっているのが、市内唯一の私立高校の生徒が東京大学に合格した事から、学校の敷地に宣伝用に立てられた『東大現役合格』の看板である。(感度の悪い携帯のカメラで逆行の中を走行中の車中からの写真です)

 もっとも、今までに看板が無かったことから、学校始まって以来の「初めての快挙」であれば、「こんな事を売物にする事自体の今までの歴史が恥ずかしい」との市民の冷ややかな反応も交わされているのでもある。ただし、かつての公立優位の時代とは違って、最近では私学の特色ある教育に魅力を感ずる家庭も多い。

 愚息を何人も抱えた我家も「私学至上主義」であり、勉強嫌いの息子達ではあるが、スポーツだけに専念することで高校生活に生き甲斐を感じている。我家においては嫌いな勉強を捨ててでも、スポーツで汗を流し続ける高校生活だけで親も満足しているが、それに応える指導(学業も含めて)が私学では行なわれている。

 大学進学も様変わりして、スポーツだけに専念しても結果を残せば有名大学や、国公立への進学の道が拓け、我家も長男が東京の中央大学に進んだが、東京に行かせる事によって地元に帰る道を困難にし、反面教師で地元の大学に進んだ次男は突然に退学した事から、最後の三男については「本人の希望」に任せているが、三人の息子がいても親の思うようにはならず、家庭を第一に考えると反省すべき想いも強い。

 東京を目指すも本人の目標かも知れないが、有名大学の卒業後も親元に帰らず、高齢になっても親だけ残された老々介護の家庭も多く、子供を頼れず議員となった私を頼られる人々も存在する事から、私は卒業後に戻ってくる事を条件にしないと進学を許さない超封建的な頑固オヤジに徹しており、無理矢理長男を戻した事から悪者とも変人とも言われているが、離れ離れになった親子や家庭が社会の大きな負担や問題になってきた事も現実の問題である。

 こんな事を記していたら夕食時に、帰宅した三男の口から今後の進路が話題になり、高校の監督から岡山の大学の名前が出され、担任の先生からも競輪学校だけではなく大学進学も含めて将来を考えるように言われたとの話になった。

 タイミングが悪く、こんな事を記しており、「どちらを選択しても良いが、地元に帰ってくる事」との私の発言が基になって家族争議となる。家族も本音は同じでも、私の発言が混乱を招くので、暫しは息子の判断待ちとなりました。

 さて、前記した東大の看板であるが、いまさら東大でもあるまい。津島市からも多数の東大生が誕生しており、大学院に進んだ者も複数ある中で、なんで東大の立派な看板を立てたのか。立派すぎて撤去も大変そうな看板から、来年も続く事を願いつつ、何でも東京の時代ではない事を叫んでおきたい。
                           4月11日の一言

真面目な人が怒っている

 本日は朝から晩まで小雨が続き、一度も晴れることのない一日となったが、連日の疲れがたまっている事と、2日前に足を挫いている事から、休養と電話番の一日となり、外出は定期便(?)の知人との珈琲屋行きのみとなりました。

 「おい、役所から次々と手紙がくるが請求が高くなったなー」、「年金の手紙が届くそうだが、いったい何をやっているんだ」などと、今日は新聞の影響からか行政に対する不満と批判が多く、「年金から差っ引く高齢者のアレはひどいなァ」と後期高齢者の保険制度にも話が及んできた。

 確かに市民としては当然の想いであろうが、わたしは議員の立場ではあるが、行政の説明係ではなく、国の制度の説明役でもないが、聞くかぎりでは年々と公的負担が増えている現実から、深刻な問題として考えさせられる事となった。

 真面目に税金や年金などを支払い続けていても、年金も支払わないで責任を放棄しているような人々が行政に救われる一方で、支払い続けても何も恩恵がないような現実を考えると責任を放棄したくなるのも当然かもしれない。

 「会社で33年厚生年金をかけて、その後は国民年金をかけており、受給者の資格はあるのでこのままで支払いを辞めたいと思うが、何か問題があるんだろうか」と問われた。

 確かに国民年金をかけ続けている人より年金支給額は多そうだから、このまま支払いを止めたいのは当然の事のように思われるが、このまま止めて事故などで倒れて障がい者となると、障害年金の支給ができなくなる可能性を告げた。

 しかし、税金は支払わず、市役所から生活保護を受けて、パチンコ屋通いをしている人の実例を示されると、何を言ったところで説得力はなく、そんな悪例を改善もできない現実から、年金制度や保険制度など国レベルでの見直しが必要であろうと思う。

 残酷なようだが、税金どころか健康保険も支払わず、公的年金の負担金も支払っていない人が当然のように救われる現実の是正は重要である。国の混乱や不祥事から市民も自ら考え発言するようになっている事は歓迎すべきと思われるが。
                             4月10日の一言

護られるべき市民の権利が

 津島市と隣接する愛西市で、市議会の議事録の情報公開を請求した市民の個人名が、市議会の全員協議会で公表されていたとして、市民から市議会議長と市長に謝罪と説明を求められていると本日の新聞各紙が伝えている。

 市議会斎場建設調査特別委員会の議事録の情報開示を求めた30代女性の個人名を、議会事務局の職員が全議員の前で報告したとの報道であるが、情報公開を請求した市民の名前が公表されるとなれば、市民からの自由な情報公開の請求ができなくなる事は必死でもある。

 かつての防衛庁などで、『情報公開請求者リスト』が作成されて批判を受けていた事があったが、請求者の名前が判ってしまえば、多くの市民達は情報公開を求める前に萎縮してしまい、個人として大きな相手となる行政や議会を相手に請求する事は容易ではないと思われる。

 実は津島市でも、過去においては請求者の名前が漏れていた事があり、情報公開の請求者が私の関係者と勘違いされて、私の指示で情報公開の請求が出されたとして、私に対して津島市から補助金が出ている団体の代表者より問い合わせがあった。

 ただし、この時に請求されていた情報は、市議会議員の立場では請求しなくとも容易に入手できる案件であった事から、私の指示での市民からの情報公開ではない事は理解されたが、はっきりと請求者の名前が告げられたことから、意図的ではなくとも守られるべき請求者名が告げられなくとも伝わっていた事は確実であり、担当窓口に抗議したことがあった。

 今回の詳細について詳しくは知りえないが、津島市にあてはめれば議会についてはテレビカメラで中継されており、委員会についても市民の請求があれば傍聴できる可能性が高い事から、今回の封建的な事件には違和感も感じるが、市民の知る権利と風通しの良いガラス張り行政実現のために他山の石としてもらいたいものである。
                         4月9日の一言

この部屋の中が一番危険と言われて

 「遠い親戚より、近くの他人」とか、「遠き親子よりも近き隣」とのことわざがあるが、ともに遠くの親戚や親子よりも、隣近所や周りの他人の方がいざと言う時に頼りになるとの意味のことわざである。

 「ちょっとあなたにお願いしたい事があるんだけど…」と、昨日の夜に『横井庄一』さんの夫人より電話があり、病院に入院している際の退院後の受け入れや、医療費の支払いに対する連帯保証人になって欲しいとの連絡があった。「連帯保証人にはなってはならない」と言う人も多いが、先祖にあたる横井庄一さんの夫人ゆえに当り前に引き受けた。

 横井夫人には京都に兄や弟達がおり、甥も立派に活躍しているが、前記したことわざのように遠くにあっては機敏な対応もできず、私にオハチが廻ってきたのであるが、私にとっては親に反対された学生結婚の良き理解者であり、私の仲人である事から、これこそ恩返しであり亡くなった父親のためにも踏ん張りどころと思っている。

 「雨が降っていたら行く」との約束をしたところ、幸いにして早朝に小雨が降り、朝より知人を珈琲にと誘って、一緒に名古屋市の東側にある国立療養所東名古屋病院に向かった。(我家は名古屋市の西に位置しています)

 病室のある階数と部屋番号を聞いていたので、エレベーターを降りて部屋を探して歩いていくと、「ちょっと、ちょっと」と慌てた表情で看護師さんに制止され、「何でしたか?」と余裕で尋ねていると、「ここはマスクをはめないと入れないんです」と言葉が続き、「結核菌に感染するかもしれない」との言葉が続けられてきた。

 軽い老人性結核とは聞いていたが、ここの病棟は全員が結核の患者さんが入院しており、マスクをつけないと入れないばかりか、体調が悪い人は感染する可能性もあると聞き、改めて結核の恐怖を実感した。医学の発展で過去のような隔離との印象はないものの、ここの患者さんはこの病棟内しか自由に歩けないとの事であった。

 ご丁寧にも自販機でマスクが売られていたが、値段を見ると1.200円とあり、「高いなァ」とボヤいて、「患者を呼んではもらえませんか?」とお願いして待っていると、「これは、内緒だけどッ」と看護師さんよりマスクが手渡された。ただし、看護師さんの厳重なマスクと比較すると心配となる普通のマスクでもあった。

 夫人に「ちょっと部屋も見ていくッ?」と言われて、「大丈夫かなァ」と感染しないかと心配しながらついていったものの、部屋を出るのが心配で「帰りの廊下で感染しないかなァ」と呟くと、「何言ってるの、この部屋の中が一番危険なんだから」と言われ、もっともだと感心したのでもあった。

 近年では結核は怖くなくなったとの声を耳にした事もあるが、医学が発展して治療法は向上したものの、高齢者の感染する例は多く、夫人も30年前に肺を患った際の再発との話から、結核菌の怖さを改めて実感した次第でもある。
 本日の訪問で看護師さんから体調が悪くなければ感染はしないと言われたが、決して万全の体調ではないことから一抹の不安を抱えての帰宅となりました。
                               4月8日の一言

ボランティアで親族の車イスを押して…

 本日は県下の小学校で入学式があり、来賓として地元小学校の式典に出席したが、どんどん簡素化されていく学校行事に、来賓の意味があるのか疑問を感じるとともに、地域との結びつきが希薄になりつつある学校を実感させられている。

 卒業式と入学式しか顔を合わせない来賓の存在を学校現場の教員はどのように感じているのだろうか。私が議員になって九年間が経過したが、私自身が小学校の教育現場に具体的に協力したことは無きに等しく、日頃から学校と地域との風通しの悪さを実感させられるものでもある。

 校長室で入学式を待っている間の会話には、厳粛なイメージは何もなく、軽薄な世間話が続くと議員は飾りであり、議員も自己の宣伝のために出席しているのではとの自問自答をしないではおられない。
 情けないものでもある。議員本来の使命感を考えると今後は『大鹿流』の対応も考えていきたい。

 さて、昨日の横井庄一記念館には元新聞記者の訪問を受け、今後の記念館存続についてその意義と理念についての議論が交わされました。

 館長不在となり、記念館のカギを預かり、毎週の記念館勤務が続く中で、館長からの定期便の連絡が続き、本日は病院への身元保証人としての依頼がありました。若いと思っていた館長も80才となり、完全な年寄りとなっている現実と、館長とは血縁ではないものの、横井庄一が幼少時には大鹿庄一として我家の一員であった事から、その夫人である館長の世話も我家の責任と思うようにしている。

 幸いにして咳の原因が軽度の肺結核と判明し、大事をとっての養生である事から今回は心配には至らないが、今後は最悪の事態も考えて記念館の運営を考え直す必要もあり、記念館の法人化も具体的に考えていく必要にも迫られている。

 本日ボランティアで市民病院に出かけた家内の押す車イスに座っていたのは、我家の分家である『大鹿さん』であった。びっくりの出会いであるが、この夫人も82歳との事で、我家を在所とする分家の実子であり、横井庄一とも5親等の血縁者でもある。

 横井庄一を知る人々が消え行く運命の中で、記念館を後世に残す意義も真剣に考えていきたい。
                           4月7日の一言

万引きの現場に居合わせて…

 本日は横井庄一記念館の一日となったが、道中のコンビニエンスストアーで昼用の食事を買いに入ったところ、年配者の万引き現場を直視する事となった。

 一人しかいない若い店員が背中を見せているその背後で、温められた飲料水をとってポケットに入れた瞬間の男性と正面から目と目が合い、相手は一度入れた商品をポケットから出したものの、場所を移動した後に商品は手から消えていた。

 こうして見ていると明らかに挙動不審に思えるものの、消えた商品はポケットかカバンに入ったとしか思えず、店員の女性に言おうか迷ったもののそのままに支払いを済ませて同行者の待つ車に戻った次第である。

 「とんでもない現場を見てしまった」と顛末を話したが、小さな店内で見張るのも難しく、車中から店内を眺めていたが、「万引きは現行犯で、店の中では捕まえられない」との同行者の一言で、不快感を残したままで店を後にした。

 人を疑いの目で見てはいけないと思うが、ごく自然に堂々とポケットに入れられた様子からは、かなり手慣れた行動と思われ、このまま見過ごすのも後味が悪いが、見て見ぬふりをした自分自身と、同世代から60前後と思われる人物の万引きに不快な一日となりました。当分はこの店に入ると今日の光景が思い浮かぶのは必死である。

 さて、館長(横井夫人)の体調不良により、当分は毎週の留守番と案内係となり、本日からは家のカギも預かってきた。「来週も来ても良いよ」と同行者に言われたが、これからは館長が不在でも困らない体制を考えないといけない時期が差し迫ってきたのを実感する。
                          4月6日の一言

3日前の写真が判別できず

 本日は隣のお寺の永代経が開かれ、午前中は受付に座る一日となりましたが、睡眠不足と昨日までの四国遍路の余韻に浸りながらの一日となりました。

 3月末からは恩師の葬儀からお寺の永代経、四国遍路と本日の永代経まで線香の匂いが体中に染み付いた一週間となりました。

 さて、3日間の写真を眺めるものの記録がしてないために、自己の記憶を頼りに思いだそうとするのの、何所で撮影したか判らない風景も多く、立派な『遍照金剛』のついたてを目にして写真に収めたものの別格12番から14番とは記憶しつつ判りません。3日前の事なんですが…

 こんな繰返しで同じような写真が大量にあふれている。四国遍路については写す風景が寺ばかりなので一枚一枚に記録を残さないと本堂とか仁王門などは別としても、特徴のない石仏などは何所のものなのか判らなくなってしまいます。

 人々の四国遍路の写真と解説を読むとしっかりと記されていますが、私はまったくこれができず、フイルムが写真になって受け取ってから、「はて?ここは何処か」となって、考えてみても考えるほど確証がなくなりそのままとなってしまっています。

 かつては夏の高校野球の写真展を何度も開催していますが、写真は総て残してあるものの、その年は記録して展示した写真が今となると何年の試合であるかとか、球場の特定はできても高校名すら判らない写真がほとんどとなっています。

 何とかしようと積み置かれた写真を2階に移して整理しようと考えたのですが、このことが余計に複雑にしてしまい、考古学のような検証を必要にしてしまいました。一番の問題は、私の老化した脳細胞にあるのでしょうが、これからはメモを残した撮影が不可欠になってきました。
                          4月5日の一言

四国八十八ケ所三日目

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 本日の巡拝で四国霊場八十八ヶ所と別格二十霊場の巡拝を終え、別格一番大山寺と一番寺霊山寺への御礼参拝をすませて帰宅となりました。(上の携帯写真は夕陽に輝く第1番霊山寺大師堂、下の写真は88番大窪寺満願後の私です)

 ただし、七十九番寺天王寺から八十八番寺までと別格二ケ寺を残した十二ケ寺の巡拝は余裕と錯覚し、「コーヒーでも」と余裕で出発していたが、前々回の逆打ちの巡拝での行程より二ケ寺多いことから、一抹の不安が午後には現実のものとなった。

 満願の大窪寺で記念撮影の後、別格一番大山寺に到着したのが午後4時20分。納経所が不在で必死に呼び鈴を押し、参拝して7名の朱印を済ませた時、車のカーナビに示された霊山寺への到着時間は午後5時より2分前を表示していた。

 「戦争中の命を賭けたパイロットの事を思えば」と、全員の命を託されて一目散で狭い山道を駆け下り、追い越し追い抜き順調に走り続けて5分前に到着した。満願とともに納経帳と掛け軸の朱印を済ませ、残りは高野山への参拝のみとなり、来月に一泊で出向く事となった。

 これもケガの功名で、昨晩の宿泊予定としていた善通寺が満杯で宿泊が出来なかった事から、78番郷照寺まで巡拝する事となり、昨日も5分前に駆け込んでいた。この事から、来月に満願を予定していたものを「本日で何とかなりそうだ」となった次第であった。

 さて、宿泊できなかった善通寺であるが、本日の根香寺の門前で真言宗善通寺派管長となられた樫原大僧正らしき人の車とすれ違った。一瞬の事で定かではないが、白いカローラ(?)らしき車を運転されておられれば本人と思われるが…(あと10秒早く歩いておれば確認できたが)

 とにかく私にとって5回目の巡礼は終わりました。過去のマイクロバスの巡拝と違いワンボックスの普通車だったことから無理もでき、2泊3日で4回の予定が3回で高野山を残すのみとなりました。「こんな狭い道を走っていたのか」と考えると、マイクロバスは敬遠したくなる。「次はいつにしようか」と高野山を残しながら思いを馳せる一日となった。
                              4月4日の一言

四国遍路第二日目

 二日目の巡拝が終わり、第七十八番郷照寺まで巡拝しました。
本日は別格十六番萩原寺からスタートし、六十七番から十四ケ寺巡拝しましたが、遍路のシーズンになり、宿泊を希望していた善通寺も満杯でした。
ほとんどの宿泊施設が満員で、久しぶりに苦しみましたが、幸いにも巡拝が終わった直後に位置する坂出国際ホテルが手配できました。
 当初は五月も出向く予定でしたが、明日には満願となり、来月は高野山へ一泊となりそうです。
明日の夜には帰ります。

写真は背中に夕陽を受ける郷照寺の石仏と、遠景には坂出市の高層マンションが見えました。

寄り道

昨日は四国霊場の合間に石鎚神社(写真)や、西条市の弘法水などにも立ち寄りました。
予定どおりの巡拝ができました。

四霊場第一日目

本日は第六十番から第六十六番雲辺寺まで、
別格十二番から十五番まで巡拝しました。
写真は最後の箸蔵寺の夕暮れの様子です。
昨晩十一時に愛知県を出発し、朝六時に到着し、五時まで巡拝し、白地温泉小西旅館で宿泊します。

遍路の出発前に難題が集中して

 本日の夜11時から、3回目の四国巡礼に向かって津島市から出発します。1回目と2回目は8人での巡拝でしたが、1人が体調不調ということで、今回は7名の巡拝ですが、過去の巡礼でも満願まで到達せずに中途で終っている人もあり、そのままになってしまう可能性も高く残念な事でもあります。

 今回は愛媛県の第60番横峰寺からの巡拝になりますが、横峰寺は西日本で一番高い石鎚山の中腹にあり、四国八十八ヵ所霊場の中では3番目の高地にあり『遍路ころがし』の最難所と言われています。
 明日中には愛媛県の巡拝を終えて香川県に入る予定ですが、西条市にある「弘法水」や石鎚神社の「お神水」など、地域の見どころも見学しながらの巡拝となり、明後日には善通寺に宿泊したいと考えています。

 宿泊する旅館は未定ですが、60番寺からは61番の香園寺をのぞいて75番善通寺まで宿坊がなく、宿坊は過去にも善通寺しか宿泊してこなかったものの、いざという時のお守りとして宿坊の存在感を実感しているところです。

 さて、出掛ける前になると仕事が殺到し、帰宅後のスケジュールも詰まってきているが、一週間おきに留守番役となっていた『横井庄一記念館』についても、館長である横井庄一夫人が肺結核のため暫らく休養することとなり、「これからどうしよう?」と相談され、高齢ゆえに開館が身体の励みになっている事から「毎週開けましょう」と言ってしまったのである。

 簡単なようだが、毎週貴重な日曜日を記念館に張り付くのは大変なことで、周りの人々の力を借りなければ到底続けられませんが、館長不在の記念館が現実問題として直面し、その責任を感じる事となる午後の電話となりました。

 正直な話ですが、来週の6日は私の当番日でしたが、息子の試合を見るために静岡県の修善寺まで出掛ける予定を家内と立ててあり、休む連絡をしようと思っていただけに、休むどころかボランティアに協力を仰ぐ立場となってしまい、仕事に出ている家内に伝えた時の落胆する顔が予想され、私は今夜から不在になる事から慌ただしい週末になりそうです。

 政治活動の会報「津島の風」はこれからですが、朝日旅行友の会の会報「旅情」は(A4版6ページ)が本日完成しましたが、明日から不在のために配布は帰ってからとなり、土曜日が一日中隣りの寺で受付に座り、日曜日が記念館、月曜日が小学校入学式の来賓とスケジュール表を見ると大変な仕事を積み残したままの遍路となりそうである。
                                  4月1日の一言
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  • ようこそ 大鹿一八の納経所へ
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