大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

2008年06月

希薄だった薬剤師の存在感に

 「千円と2千円、3千円の栄養ドリンクが3本あったら、どれが身体に効くと思いますか?」と問われ、常識的に「高い方が効くんじゃないの」と答えると、成分表を見ると大差がなくほとんど同じとの話に新鮮さを感じた。

 本日は、午後に市民病院の薬剤師さんを訪問し、時間をとってもらって話を聞く機会があり、病院は医師だけでなく、看護師は勿論だが、薬剤師や放射線技師などがチームとして地域医療を支えている事を再認識させられた。

 全国的に病院の勤務医の不足がクローズアップされているが、夜間の当直や休日の診療にも医師と看護師だけではなく、必ず放射線技師や薬剤師も待機している事が意外と知られていない。夜間や救急でもレントゲンが撮られ、薬も処方されているが彼らの姿を意識した人はあるのだろうか。

 病院に限らず、開業医においても、薬を処方する医師の存在は感じても、実際に薬を配合する薬剤師の存在を我々は役務的、雑用係のように見ていたようで、彼らが貴重な医療従事者であり、専門知識を持っている事は当然だが、病院の貴重な戦力である意識が希薄であったと反省したい。

 医師不足の議論はさかんにされるが、病院経営の中で、薬剤師や放射線技師などの職種にある人々の意見は十分に反映されてきたのだろうか。
 医師や看護師ばかりに視線がいってしまうが、今まで脇役のようにされていたとすれば、彼らの見ていた病院の姿や医療現場の長所短所についても耳を傾けてみたいと思う。

 さて、食品についても産地の偽装が次々と発覚しているが、健康ブームの中では、薬か食品か区別もつかない代物が通信販売で手軽に手に入るが、効能どころか身体の毒になっている組み合わせも存在し、薬は毒とまでは言わないものの、副作用もある事を認識したい。

 私も平成5年に父親に死の宣告を受けた際、効能どおりに効果があれば、毎月20万円ほど必要となる健康食品を購入した事があった。今にして思えば、何の効果もなかったが、こんな時こそ病院勤務の薬剤師のアドバイスを聞いておればと思う一日ともなった。
                         6月30日の一言

息子から貰った元気

 本日は横井庄一記念館の留守番であったが、横井夫人が愛知県の護国神社で開かれた戦没者の遺族会に参加するため名古屋まで送り、夕方は本日まで開催されていた展覧会の作品を恩師と搬出に愛西市まで走り、記念館に戻ってボランティアを自宅に送り、交差点に差しかかると遠くから三男が自転車で走ってきた。

 「先に行け!」と背後を車で追ったが、息子は豊橋競輪場から津島市まで自転車で走ってきた疲れも見せず、逞しいフトモモを回して自宅に入っていった。この時点で豊橋で別れて帰宅中の家内が戻っておらず、休憩していたとはいえ家内の車より早く、雨中を豊橋市から走ってきたのであった。

 三男は夏に東海地区から選抜されて派遣されるツールド東北に標準を絞っており、しばらくは短距離ばかりの練習だった事から、長距離の練習のために激しい雨の中を走ってきたようだが、こんな根性をインターハイや国体の試合で発揮して欲しかったとは親の身勝手な感想でもある。

 それにしても3時間で豊橋市から津島市まで戻ってくるとは思わず、「早かったな」と言うと、「よく判ったネ」、「岡崎からついてきたんだぞッ」、「うそッー」と、ウソでも嬉しそうな顔を見せた。競輪場で転倒してスリ傷を負っていると聞いていただけに、何事もなかった事に感謝でもある。

 半月前までは競輪だけが全てのような生活であったが、恩師達から大学も視野に将来を考えるように言われ、競技結果が伴わなかった事は残念だが、日頃の練習では結果が出せても、人を蹴落としても勝つ執念が不足している事や、実力不足を自覚した事と、惜敗直後に高価な自転車を注文してきた事から、やる気が失せていない事が親を元気づける。

 さて、ボランティアやNPO法人の仕事の遅れを痛感していたが、来年からは唯一残された扶養家族への仕送りが必要となりそうな事から、改めて保護者としての働きも考える必要があり、自分自身にも大きな転機とすべき足音も実感する一日となった。
                         6月29日の一言

先人の感傷に浸る一日

 私の少年時代からと言うよりも、今までの人生の中で一番印象に残っている愛読書が「走り屋一代」で、この本は最初から最後まで一字一句読み上げた数少ない本で、2才年下の同級生に薦めて貸したままになって30年以上が経過している。

 昨晩は市内の小学校PTA会長の訪問を受け話していると、「私の祖父は○△です」と聞き、(あえて、名前は伏せますが)びっくりして顔を見直す事となった。

 津島市の市政功労者で、市長や県議を務められ、引退されてからしばらくした昭和60年頃には、悠悠自適の生活の中で、若かりし私は大変に可愛がられ、自身の失敗談まで正直に語られる人柄に惹かれ、何度も御宅を訪問しただけでなく、私の発行した地域紙にも大きく取り上げた(政治家では一人だけ)人のお孫さんとの話に、私は当時が今の事のように甦り、一部しか保存されていないミニコミ誌をコピーして差し上げた。

 自身が地方とはいえ政治の場にありながら、政治的慣習や臭いに馴染めないままに時が経過しているが、私見ではあるが過去の市長の中では一番市政に結果を残された人物と思うとともに、政治を引退されてから孫のような年齢差の私が相手である事から、自身にとってマイナスとなる失敗談も隠さずに話せたものではなかったか。

 もちろん、実績を残された大物市長だけに、失敗談の方が話しておきたかったのかもしれないが、数年前に一宮市が永年の懸案であった鉄道の高架化に莫大な費用をかけた事や、同じく津島駅と勝幡駅の高架事業に要した予算を考える時、名鉄や道路公団トップとの個人的関係から、津島市の財政支出は一切ないままで40年前に津島駅周辺の高架事業を実現させた手腕は、国会でも伊勢湾台風の惨状を演説した大物伝説を残している。

 こんな昔話は知る人もなくなり、政治的評価は世論を二分するので、私の親しくしていた恩人の中にも、○△さんの家へ出入りする事に異論を述べる人もあった事と、私の政治スタイルとは無縁のためにこの話はこれまでとするが、お孫さんとの出会いが若かりし頃の散逸する資料とともに、冒頭の「走り屋一代」を思い出した次第でもあった。

 ただし、「走り屋一代」の著者である田中健二郎さんは、昨年末に亡くなっておられる事を昨日まで知らず、お孫さんの帰られた後でパソコンから検索して知る事となったのでもある。

田中健二郎 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%81%A5%E4%BA%8C%E9%83%8E
愛読書『走り屋一代』(少年時代)の著者の訃報・読売新聞のコピー
 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/34119604.html

 さて、そうやって考えると、私の周りでも多くの知人がいなくなっている。
 読売新聞の記事によれば、『人は老い、100%の確率でこの世を去る』と書かれ、「日本に本格的なカーレースが始まった60年代半ば、当時30歳前後だったトップドライバーたちは、40年余を経た現在、70歳を超える年齢に達した。サーキットでの修羅場をいくつも潜り抜けてきた猛者たちといえども、人の命には限りがある。

 国内レース界第一世代の先頭を切って、いま、田中健二郎が真っ先にチェッカードフラッグを受けた。やはりタナケンは、最後までトップグループを引っ張っていたのだった。」
と結んでいる。

 そんな感傷にふけ、恩師や旧知の人々との出会いが途絶えている反省の一日ともなった。
                              6月29日の一言

愛読書『走り屋一代』(少年時代)の著者の訃報

169周目:さらばタナケン   (2008年1月21日 読売新聞)

 タナケンが亡くなった!? 日本のモータースポーツが産声が上げた1960年代、その不屈の勝負師魂と独特の個性とで誰からも一目置かれ慕われたトップ選手、田中健二郎。

 1934年1月3日、九州は福岡の生まれ。2007年12月29日、療養先の沼津にて死去。享年73。その訃報が知らされたのは、年が明けて早10日も経った1月11日のことだった。

 無敵のオートレース時代、本田宗一郎にスカウトされてホンダ入り、2輪世界GPデビュー戦で何と日本人初の3位表彰台、しかし次戦で大事故に遭って片足切断寸前の危機、ライダー断念後の若手育成《健二郎学校》、ニッサンに誘われ4輪に転向して大活躍、プリンスを吸収合併した後のニッサン新体制に合わず個人チーム「タキ・レーシング」に移籍してメーカーに対抗、71年富士GC開幕戦優勝にもかかわらず夏に37歳で突如引退表明、といった波乱万丈のレース人生は、専門誌に載るだろう追悼記事をご覧あれ。

 より詳しく知りたい向きには、著書『走り屋一代』(八重洲出版/69年刊)の一読をお薦めしたい。豪快というか破天荒というかハチャメチャな生き様は、激動の昭和を生き抜いた男のまさにそれであり、目から鱗が落ちること請け合いだ。

 その後のレース界ご意見番としての毒舌評論やTV解説も良かった。「この北野君のダイナミックなスリーステップ走法、見ててくださいよ。ほれ、ワン・ツー・スリー」「おや、ハシェミ君が来(き)ないですね」「コーナリングを比べてみましょう。生沢君、さすがにうまい。次に来たこの選手、いかんいかん下手糞ですね、誰でしょう、あ、あたしですね」。腹を抱えて笑ったオイラは当時高校生だったか。レースを見るのが大好きになった。

 その後、サーキットでタナケンとすれ違う場面は何度かあったが、20歳前後の編集アルバイトの分際では、畏れ多くて話し掛けることもできず、ただ競合誌に載るタナケンの寄稿記事を一文字も逃さずに読んで、レース界の表と裏を知った気になっていた。

 決してお行儀はよろしくないし、ちょっぴり幻滅するような話も時々聞こえては来たが、なぜか憎めないユーモアと愛嬌がタナケンにはあった。

 時は流れて一昨年の06年初め、『日本の名レース100選』を創刊するにあたり、タナケンさんへのインタビューも当然考えた。沼津で静養中であることを知り、ロングインタビューは厳しいだろうが、時機を見て連絡してみようということになった。

 06年末、69年日本GP号を編集するにあたり、タナケンがかつて寄稿していた記事を再録すべく、編集部員が許可を得ようと電話連絡した。「そんな重要なことを電話で済ますんじゃない」と一喝され、彼は沼津まで飛んで行った。会うなり笑顔で「やっぱり君だったか」と言われた編集部員は、もちろんタナケンとは初対面だ。記憶違いというより、きっとタナケン流のリップサービスなのだろう。身振り手振りのタナケン独演会がしばし続いたという。帰り際、奥さんから「今日は何で?」と尋ねられ、「昔の記事の再録許可を得に」と答えたら、「それだったら電話で良かったのに」とは、まるでコントのような展開だ。

 オイラは思う。タナケンはレースのことを誰かに話したくてたまらなかったのだ。人恋しかったのに違いない。

 タナケンが亡くなったというハガキを奥さんから得た編集部員は、かつてタナケン番記者をしていた西山平夫(@cars/F1ウォッチ筆者でもある)とともに、線香をあげに行った。足の古傷が悪化して手術しようかという話になったのを頑なに拒み、「まるで意気地なしなんだから」と奥さんは苦笑していたという。かつてサーキットで見かけたタナケンは、レースの酸いも甘いも知り尽くした豪放磊落(らいらく)な勝負師そのものだったが、その実、「カァちゃんにはわがままで甘えん坊」だったらしい。このギャップが、きっとあの怖いけどちょっとお茶目なタナケンを理解するヒントなんだろうと、いま思う。インタビューしたかった。

 人は老い、100%の確率でこの世を去る。

 日本に本格的なカーレースが始まった60年代半ば、当時30歳前後だったトップドライバーたちは、40年余を経た現在、70歳を超える年齢に達した。サーキットでの修羅場をいくつも潜り抜けてきた猛者たちといえども、人の命には限りがある。

 国内レース界第一世代の先頭を切って、いま、田中健二郎が真っ先にチェッカードフラッグを受けた。やはりタナケンは、最後までトップグループを引っ張っていたのだった。

田中健二郎(Kenjiro Tanaka)、60年代のドライバー。12月29日没、享年73

2日間、傍聴席に座って

 昨日は市民病院経営評価委員会が開催され、本日は保健センターで高齢者保健福祉計画と介護保険事業計画策定委員会が開催され、いずれも傍聴席ではありますが参加してきました。

 市民病院については、昨年の同時期においては医師の転出によって存続の危機まで議論され、議会の本会議でも公設公営を続けるか民間への売却まで発言や質問が出されていたが、その後の市長はじめ関係者の尽力によって、医師の流出を食い止めたことから、昨日の評価委員会のテーマも利益回復と公的負担の限界など、話題が経営改善に向けられるようになってきた。

 ただし、事務局から「3年では無理でも、5年後には黒字化を図りたい」との説明に、委員から「できるハズがない、できるなら今までにできている」との厳しい意見が出され、「津島市としてはどこまで支えられるのか」と、具体的な市からの財政負担の限界の掲示を求め、地域に信頼される救急部門の建て直しなど具体的発言も出されてきた。

 具体的な目標に対して抽象的な報告しかしない当局に対して、収益の中身に対する分析不足や、経営の危機に対する病院全体の意識はあっても、個別で一人一人のコスト削減意識の低さも指摘されたが、不十分ではあっても医師の確保が図られ、経営収支や医療体制が僅かでも改善されている事と、公立病院の必要性から「これで良いわけではないが、改善を続けてもらいたい」との提言にとどめられた。

 さて、問題は、「赤字が続けば倒産」となる民間と違い、公立病院の存在が地域医療に不可欠である事から、赤字でも市税を投入すれば存続していくとの甘い気持ちがある事は否めない。また、公的負担をしても公立病院の存続は必要ではあるが、このあたりについても、3人の外部から招いた評価委員の感覚の相違も感じられた。

 1名は地元で会計事務所を営む立場から委員をお願いしてあるはずであるが、数字に関する経営の根幹に関わる発言は皆無で、病院を利用する高齢者の立場での発言がなされただけで、医療は勿論だが、経営改革での具体的改善どころかお客さんの立場では評価委員が『名誉職』としか思えない。

 現状は好調でも、現在いる医師が数人転出すれば、昨年の経営危機の状態と変わらない現状から、せっかく招いた評価委員の医療関係者2人には今後も定期的に評価とアドバイスをいただき、当局には厳しくても本音で診断する会計の専門家に再度評価を依頼しないと大変な結果を招く可能性もある。

 そうしてみると、本日開催された策定委員会では、それぞれの立場で発言がなされ、委員から市当局に活発に質問が出されていた事から、市民病院の改善のためにも、もっと多くの分野の専門家も含めた提言組織の必要性を私は実感したものである。
                           6月27日の一言

おい!、もうあんただけだよッ!

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 明日より開催される展覧会に出品する書道作品を名古屋まで引き取りに走り、まもなく会場に到着という時に携帯電話が鳴り、誰かわからないままに出ていると、「おーい、もうあんたの作品だけだよッ」と催促の電話である。

 明日から3日間、愛西市の佐屋公民館で開催される『グループ茜合同展』に、私は恩師とともに書の作品を出展していますが、私の作品「般若心経」は表装に出したままとなっており、満足に見ないままに会場に展示されました。

 私と恩師は初めての出展となるが、この合同展は今年で21年目となる歴史のある展覧会で、画廊喫茶茜屋に関係する地域の芸術家たちの作品が出展されており、「年々出展者が減ってきた」と聞いているが、今年も70人をこえる人々の出展は見事の一言としか言いようがありません。

 歴史とともに、高齢化も必然となり、出展者の減少を聞くうちに、「私もいつかは出展しようかな」とつぶやいたのが縁で誘われ、上高地か高校野球の写真を出品しようと考えていると、「あんたは、書。写真はいらないよ」と言われ、得意な分野ではなく書の出展が決まったのであった。

 「書は半人前だから」
 「誰もが最初はそうだ」
 「写真の方が自信があるけど…」
 「得意な物より、下手な方が良いの」
 「写真も良いのがあるけど…」
 「あんたは書でハジをかいたほうが良いの」

 全く理不尽とも思えるマスターの選択であったが、選択した以上はと作品を何枚も書き上げたものの、満足な作品にはならず、真心を込めて「般若心経」を書き入れれば大丈夫かと、今月になって書き入れた写経が今回の作品である。

 思い起こせば、この合同展には今年亡くなった私の恩師長谷川丈夫先生もかつては出展されており、恩師と一緒に活動されていた仲間も出展されているが、恩師の後継に指名された現在の恩師後藤先生と2人で出展するのも縁としか言葉が思い当たらない。
                             6月26日の一言

新聞の特集・津島市民病院

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吹き抜けロビーを備えた津島市民病院=愛知県津島市、加藤丈朗撮影

60億円赤字 再建必死 2008年06月25日

【津島市民病院】
行動計画・医師年収増・開業医活用

●全職員に意見募る

 愛知県津島市の津島市民病院は、名古屋市の西側にある「海部医療圏」9市町村の地域医療を担う。約60億円の累積赤字を抱え、経営の立て直しに必死だ。26日には今年度初めての経営評価委員会が開かれる。(岡崎明子)

 津島市民病院では医師不足が急速に進み、救急や一部の診療科の受診が制限されている。多くの救急患者が名古屋市中村区の名古屋第一赤十字病院などに流れている。
 津島市民病院のつまずきは153億円を投じた増改築から始まった。05年に289床から440床に増床。1床当たり約3500万円の建築費は民間病院の倍かかった。
 だが、04年度に始まった臨床研修必修化で思惑が狂った。医師の派遣元である大学が医師を確保できなくなり、津島市民病院は期待通りに派遣してもらえなくなった。
 特に内科医が足りなくなり、05年度の12人から07年度は6人に。今年5月の医師数は39人と定員を15人割った。07年度の病床稼働率は62%に低下し、一部病棟を閉鎖。1日約1200人いた外来患者も約700人に減った。
 透析センターの稼働は8カ月間にとどまった。約7千万円で導入した尿管の結石破砕器も昨年7月から使われていない。月20人に使うことで採算が取れる東海地方初の放射線治療の最新機器「サイバーナイフ」の利用者は月10人弱。経常損失は06年度に12億9千万円、07年度17億7千万円と増え、07年度の累積欠損金は62億4千万円に上った。
 市は外部の専門家らによる市民病院改革委員会の答申をもとに、07年2月に市民病院経営改革行動計画をつくり、改革に乗り出した。昨年5月に就任した伊藤文郎市長も病院の経営改革を喫緊の課題に掲げた。地方財政健全化法で、08年度決算から病院の会計などを連結させ、自治体財政の健全度が測られるようになるためだ。
 伊藤市長と鈴沖勝美副市長は医師の派遣要請のために、昨年だけで大学の医局を延べ100回訪ねた。冷ややかな反応の大学側に、伊藤市長らは「津島が倒れれば、患者が名古屋の病院に押し寄せる」と再考を求めた。
 他の自治体病院に比べ低かった医師の年収も平均120万円上げた。昨年7月からは週1日、市医師会の開業医5人が夜間3時間、内科の救急外来を院内で受け持ってカバーすることになった。大学側も病院存続に理解を示すようになってきたという。
 しかし、昨年11月に開かれた外部の病院経営評価委員会は、「2月の行動計画はコンサルタントが作ったもので、現場から積み上げられたものではない」と批判し、見直しを迫った。病院は全職員に改革に向けた意見を募り、7月までに改訂版を作る。
 鈴沖副市長は「事務方から『自分たちは努力している。医師が足りないだけ』という意見もあったが、全員の意識改革が必要」と訴える。
    ◇
 ご意見、ご感想をメール(n-iryo@asahi.com)またはファクス(052・231・6014)でお寄せ下さい。

行政視察で見かけたポスター

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 本日はフジの棚で『世界一』と豪語しているあしかがフラワーパークを訪問し、樹木医の塚本園長の話を聞いてきました。東洋一とPRしている津島市のフジも塚本園長に直接指導してもらっており、この日は津島市のフジの問題点も多く指摘されたが、予算をかけても収益が観光客の駐車料金だけにどこまでできるか疑問にもなりました。

 むしろ、フジだけに頼らず、桜、アジサイから天王川のハス、ショウブやアヤメ、バラなど天王川公園全体に一年中花を咲かせ、秋の紅葉まで人々を呼び込む事の方が可能性が高く、今後の展開を考えて訴えていきたいと思います。

 富田駅(両毛線12時15分発)…⇒小山(東北新幹線やまびこ214号14時1分発)…⇒東京
 東京(東海道新幹線のぞみ39号15時10分発)…⇒名古屋(16時51分)…⇒津島市役所へ

 企業誘致に成功して工業団地を造成中の足利市を視察しましたが、その一方で大手家電メーカーの工場が閉鎖され、市内に残された下請け工場が困っている事や、跡地利用などを直視し、企業誘致だけではなく長期の計画と街づくりを実践する必要性と、農業の振興と工場誘致の矛盾するテーマは全国共通の問題である事を認識する視察となりました。

 さて、添付した日光東照宮(らしき)の前に並べられた2編成の列車の写真には驚きです。もちろん合成写真ですが、こんな夢のあるポスターが発表できる事は、地域住民の期待は勿論でしょうが、うらやましいかぎりの写真です。
 明日には市民病院評価委員会が開催され、議会関係の行事も続く事から、6月議会が閉会した事がうそのような雰囲気を感じています。本日はここまでで…。
                               6月25日の一言

行政視察に足利市へ

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 本日は津島市議会総務文教委員会の行政視察で、栃木県足利市を訪問し「企業誘致」をテーマに当市の実践報告と、企業誘致の現地視察を行いました。

 津島市役所(7時50分)…⇒名古屋(9時1分発東海道新幹線のぞみ112号・写真上)…⇒東京(10時43分)
 東京(11時20分発東北新幹線なすの255号)…⇒小山(12時2分)
 小山(12時24分発両毛線)…⇒足利(13時5分)

 昼食・京かのこ(足利市伊勢町)…⇒足利市役所(13時50分)

 足利市役所(16時)…⇒足利インタービジネスパーク(工業団地視察)…⇒宿

 本日の宿は、足利市駅前のニューミヤコホテルで、部屋の前は東武鉄道伊勢崎線足利市駅(写真下)で、目前を特急列車が次々と停車し、乗降客の顔まで見えるため、明日は目覚まし時計も必要がないと安心して眠れそうです。

 ここから70分で浅草に到着すると記してあり、昨日知り合った中国の調理師ヱ国(えいごく)さんも今ごろは浅草に戻っていると思うと、かつては遠かった地区も身近に行き来できる事を実感しています。

 行政視察も様変わりし、我々の議員になる前には殿様のような視察だったと聞きますが、最近は世間の厳しい視線のお陰で、目的第一で夕食もごく普通の食事で、宴会とは程遠いもので、皆さんにも披露したいところですが、私1人の視察ではありませんので差し控えます。

 さて、明日の視察予定については足利フラワーパークを視察予定としていますが、足利市のフラワーパークは藤の日本一をうたっており、我が津島市は東洋一の藤棚を観光にうたっておることと、塚本園長には津島市の藤棚の育成にも指導いただいている事からの視察です。

 この足利市についても、大手電気企業の撤退にともなう下請け企業の苦難も抱えており、かつての繊維産業により反映してきた町の衰退を改善すべき使命は共通です。塚本園長に関しては、我々視察のために浜松市か来ていただくとの話から、無にしない視察にしたいとおもいます。
                           6月24日の一言

近くにいる皆さんの発信を期待いたします。
 
 

近くて遠く、遠くて近いを実感する

 我家の隣りには中国料理店があるが、永年続いた初代の店主が廃業した後は、次々と店名や経営者が代わっており、現在のお店も3回ほど入ったものの、店名どころか経営者の顔も知らなかったのである。

 本日は市役所の人事異動の内示があり、私と親しい知人の異動を知った市役所OBの訪問を受け、帰ろうとするOBを誘って隣の中国料理店に出向く事になった。

 元々が会社勤めが嫌いで、学生時代から自営業の道を進んできただけに、会社どころか市役所の内部事情や上下関係には関心もなかったが、本日は今まで耳にしながら理解に苦しむ内部事情とともに、市役所職員の私に対する認識について、ずいぶん私の感触とは違う職員の本音を聞く事となった。

 そうして聞いていると、私も職員には理解されないばかりか、ずいぶんと嫌われた立場にあると思われたが、私は地域や町内会の代表として議会に出ているのではなく、一人一人の市民の声の代弁者として議会に出ているので、行政にとっては理解不能であっても、市民の一人でも粗末な対応を受ければ、そんな些細な事でも議会発言とする事から、行政には「何で」と思われる発言も多いようでもある。

 さて、会食を終えて店を出ると、知人の前で「ありがとうございました」と言われ、親しみのある顔から店主と勘違いして話しかけたところ、「私は日本語がわかりません」と言われた。
 「えっ、何故ッ?」と筆談で話しかけた事から、知人は帰り、改めて店に入って話していたところ、私に挨拶した中国人は店主の友人で、本日初めてこの店に来て、明日には東京に帰る人である事が判った次第であった。

 それにしても、チベット騒乱や、オリンピックの聖火リレーをめぐる中国人のイメージとはまったく違う中国人の素顔に触れたような気持ちと、世界各地に躍進する中国人の一面を垣間見たような気分である。

 私が永年の知人のように語り掛けた中国人は、東京浅草の『花蒋』で調理師として働いている「ヱ国」(えいごく)さんで、2年前に黒龍江省から来日したとの話であった。

 初対面の中国人と思えず親しく話し込んだが、彼が店主との関係について「朋友」と筆談で記した事から、日本人以上に日本人らしく思え、36才の年齢を知り、我が息子のように思えてきたのであった。そうやって考えれば、私の次男に体型や顔立ちもそっくりであり、国を憎んで人を憎まずの言葉を思い出す。30分の会話であったが、再会を期待したい人物であった。
                                6月23日の一言
追伸 同じ漢字とはいえ、意味は通じても日本語と若干違う文字にパソコンも対応しません。

親と子供の絆を信じて

 本日は横井庄一記念館の一日となりましたが、息子は家内と最後の大会(ロード)に出ていきました。結果は余裕の試合展開から最後のスパートと思っていたところ、テントから1キロ離れたところでパンクし、交換して追いかけたものの一人旅では追いつく可能性もなくリタイアしたそうです。

 幸いにして落胆した様子もなく、来週の国体予選が控え、夏のツールド東北への派遣が決まっており、夏を目標にして明日からも練習が続きます。私自身は、自分の身体だけを武器とする進路には反対で、大学進学も含めて挫折が良いチャンスになったと思っています。

 さて、私もまだまだ老け込む年齢ではなく、まだまだやりたい事がいっぱいあり、議員になってから周りの人々に危ないからと止められてきた自動二輪についても、知人に預かってもらってあるが、盆頃までには車検を受けて再度仲間達と走りたいと考えている。

 バカみたいな夢ではあるが、「まさか」と人々に思われるであろうやりのこした事にも、後先を考えず実践したいとも思っている。
 ただし、息子の進路によっては学費だけでなく仕送りも必要となり、久しぶりに親として働きたい心境も感じているが、議員としては限界もあり、しばらくは貧乏生活が続きそうではあるが…。

 親としての責任を感じていると、「来週は大会に行ってみる?」と家内の一言がかかったが、来週は横井夫人が愛知県の護国神社で開催される戦没者の慰霊祭に参加する事から、記念館の留守番が決まっており、会場が豊橋市だけに抜け出す事も不可能で、無責任な親の信頼回復には至らない。

 名古屋市博物館に寄贈してある横井庄一のグアム島発見時の生活用品が、来週の水曜日から一般公開される事から、私の管理するホームページ「明日への道」が引用され、入場者に配布されると聞くと、今まで適当に発信していた中身を改善も必要になってきた。

「会報はいつ発行するの」と、配布のボランティアに言われそうで、「3期務めたから手抜きか」と言われないためにもやりたい事を封印しつつ、チャンスをうかがう日々ともなりそうである。
                           6月22日の一言

落ちてくるアンズとともに

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 事務所前のアンズはすでに無くなったが、奥にあるアンズがこれから最盛期を迎え、雨とともにドンドンと音をたてて屋根に落下し続けている。

 こちらは熟するまでしばらく必要であるが、鳥が真っ赤な色に惑わされて突付きにやってくるので、実に穴や傷がつけられてしまうと、ゴミと化してしまうので、来週にはハシゴに登って収穫する必要にも迫られそうである。

 事務所前のアンズは下の歩道にころがり、歩行者や自転車に踏まれると、道路が甘酸っぱい臭いに包まれるばかりか、踏まれた残骸処理が大変だったが、奥のアンズは落ちて朽ちても心配はないが、大きいうえに数が多いので、差し上げれば喜ばれるが、ハシゴが届かない高木に成長しているために収穫は大変でもあるが、落ちれば傷物になるので収穫が必然ともなってくる。

 添付した写真は、落ちて屋根のトイに残っていたもので、これだけでザルに一杯となり、見上げると想像がつかない量のアンズが枝をしならせている。

 さて、アンズの落ちる話は結構な話だが、昨日から大垣競輪場で東海大会から全国を目指していた三男が、団体も個人も1着の差ながら進出ができず家内と帰ってきた。明日もロードが残ってはいるが、最近は全くロードの練習をしていない事と、11位まで認められる全国大会出場が、同じ高校の人数ワクによって息子は3位以内でないと認められないため、かなり厳しい一日となりそうでもある。

 「もう、止める」との競技終了後の息子の一言に、監督から夏の東北大会や秋の国体のために頑張るように説得されたようだが、意気消沈した家内と違って、私はこの惨敗が自分の足下と将来を見つめ直す、良き機会になったのではないかと思っている。

 我家には陸上の走り高跳びで全国5位の表彰台に上がった長男がいるが、当り前のように東京の大学から誘われて入学したものの、ケガにより競技生活を止めて大学生活を7年もおくりながら、未だに自分の進むべき道が見つけられずにいる。次男も相撲の全国大会まで進んだものの、誘われた大学には進まず大学1年で退学してしまった。

 私の反省だらけの人生でも、すでに54才になってしまい過去に自問自答する事も多く、成り行きだけでは後悔する事も多い。「大鹿さんは良い時に辞めたね」とは、同業だった新聞販売店主の一言だが、我々の掛けていた共済年金は60才から支給され、現在より有利な年金額との話だが、私は議員に転出時に一時金でもらっており、息子の学費と化してしまっている。

 議員になった当初は、地元国会議員に特別に可愛がられたが、私はそんなシガラミが大嫌いで、親戚筋の大物県議にも政党への入党を奨められたが、「私は政党が嫌い」と断り、一匹狼となって9年が経過している。人生は成るようになるものでもあり、本日の挫折が三男のコヤシになる事を祈りたい。
                              6月21日の一言

郡上八幡街歩きと湯治の旅

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 本日は朝日旅行友の会で『湯治の旅』として郡上八幡へ行ってきました。

 津島市(8時30分出発)…⇒尾西IC…⇒川島PA…⇒郡上八幡IC…⇒郡上八幡城下町プラザ(10時到着)

 郡上八幡街歩き・プラザ…⇒宗祇水(そうぎすい・名水百選第1号)…⇒大乗寺など…⇒郡上八幡博覧館(郡上おどり実演)…⇒城山公園(昼食)…⇒郡上八幡温泉(ホテル郡上八幡内・天然温泉宝泉)

温泉12時30分から4時まで(1時40分~3時30分まで芝居と舞踊ショー・6月は劇団輝の葵たけしを座長とする芝居を上演中)

温泉(4時出発)…⇒国道156号…⇒路の駅・美濃みちくさ館…⇒美濃IC…⇒尾西IC…⇒津島市

 東海北陸道が開通後は通過地点とされている郡上八幡の街歩きと温泉の旅を17名の参加で挙行してきました。天気予報は雨で、カサを持参の街歩きも天候に恵まれ、カサ不要の旅となった事はツエが必需品のメンバーには幸いと恵まれました。

 久しぶりの郡上八幡は観光客のために見事な変身を遂げており、歩きやすく立ち寄りやすい街に整備され、100円バスも頻繁に走っていました。「後期高齢者」のメンバーにはムリですが、郡上八幡城や慈恩禅寺など魅力ある施設もあり、足をのばせば大滝鍾乳洞や美山鍾乳洞もありますが、本日は温泉湯治が目的です。
http://www.chitora.co.jp/main.html

 温泉の規模も大きく、食事や休憩室など施設も充実していました。芝居は6月は葵たけし座長による公演であったが、ひいき筋からは1万円札が数枚オヒネリに出され、その道のファンの存在と、私には初体験の芝居一座の鑑賞となりました。

 さて、帰りは「時間があり余るから…」と、高速ではなく国道経由となりましたが、長良川の清流を眺めながらのゆっくり旅は、高速道路で走り去る町々の魅力を再発見する旅ともなりました。もう一度ゆっくりと訪れたい湯治の旅となりました。
                             6月20日の一言

明日からは雨らしいが…

 議会が終了し、明日は岐阜県郡上八幡の街歩きと湯治の日帰り旅行を予定しているが、雨足が強くなりつつあり、参加者の足元が脆弱なため、一日の時間の経過を心配する事となった。

 17人のメンバーのうち、足を痛めてツエを常用している人が4人あり、最近まで病気で入院していた人が2人ある。まさに後期高齢者の象徴のような集団だけに、弁当まで手配した街歩きが、雨では時間が消化できず、いきなり温泉行きの雰囲気でもある。

 この旅も10日前に思い立ち、印刷して配布したのが先週末で、マイクロバスを予約したものの、果たして何人の人があるかも判らず、後先考えぬ企画の反省は多い。マイクロバスに数人ならどうするか。「参加して下さい」と誘わない旅を実践し続けられるか。

 こんなストレスを蓄積させずにすむのも、参加していただける人々のお陰であり、参加によって私の出費が減り、次の企画へと続くのであるが、旅は私の議会活動のストレス発散に重要な企画ともなっており、空白のない日々の限られた日程だけに、明日の雨が残念で仕方がない。

 さて、私の三男にとっても、明日からの3日間は重要な意味があり、明日と明後日は大垣競輪場で団体と個人の東海大会が続き、3日後にはロードの個人戦が木曽三川公園で開催され、これに勝ち残らないと全国大会には出場できず、明日からの天候が気になるところでもある。

 本日は午後に大垣まで送ってきたが、見届けたい気持と同時に、見ない方が好結果となりそうでもあり、複雑な親心ではあるが、近くでもホテルに宿泊する息子に、親離れが近いことも実感する。「観自在菩薩…」、息子と別れる間際に般若心経を無言でつぶやいての別れである。
                           6月19日の一言

我家は毎日震度1

 14日に発生した岩手・宮城地震から5日が経過し、連日不明の遺体が発見されてくるが、まだ行方不明者は11人残されており、明日から予想される降雨によっては、更に被害が拡大する可能性から被災地には更なる緊張が走っている。

 阪神大震災については別としても、新潟や能登半島、島根や九州と全国各地で大きな地震が起こり、東北でも何度も地震が続いているが、これだけ続くと個々の地震の印象も薄くなり、過去の被災地はどこまで復興しているかが心配になってくる。

 都市部の災害と違って、人的被害の少ない山間部の復旧については、我々の目にふれてこない可能性も高く、今回のように山が崩れて地形が変わってしまうような自然災害は、人間の対処の限界を超えており、都市部と変わらぬ対策を求めたいものでもある。

 さて、我々の住む愛知県も東海地震、東南海地震の可能性から災害発生を想定した対策や市民への啓蒙が続けられているが、幸いにも地震にも、最近では台風もコースから外れており、災害の空白地帯が続いているが、我家では一日に何十回もの震度1を体験している。

 二年後に完成を目指す下水道工事のために県道が継ぎ接ぎとなっており、我家に近いマンホールを大型車やバスが通過する度に家が揺すり(隣も一緒ですが)、道路の片側は完全舗装によって改善されたものの、残された片側の舗装そのものが粗悪で、肝心のマンホール部分が未完成のために揺れ続けている。

 最近の報道では、東海3県の耐震補強の必要な木造住宅83万戸のうち、耐震補強工事を実施したのは1パーセントと発表されている。対象となる住宅に対する耐震工事については、自治体が無料で診断し、工事を実施した場合には60万円程度の補助金が制度化されている。

 補助金がありながら診断や工事が実施されない原因として、工事費用が高い事と地震の被害者となる認識不足などが指摘されているが、我が身に置き換えて考えてみると、老朽化した家屋の人目に触れぬ汚い床下を見せるのも恥ずかしく、耐震工事の効果にも疑問を残している。

 「耐震工事をしても、大震災が起これば壊れてしまうのではないか」との疑念を払拭し、耐震工事の効果を具体的に示さなければ、建築から年数を経た家々は、地震で倒れてから建てなおした方が得策と思っているのではないか。問題は、家が倒れた際の人的被害であるが、根本的に「明日は我が身」の認識不足は私を含めて否めない。
                             6月18日の一言

本日は反省会のハシゴです…

 本日は8日に実施された海部地方総合防災訓練のボランティア支援本部立ち上げ訓練の反省会が、海部総合庁舎(元海部事務所、現在名は県民サービス○○とか、出張所とか名前が変わり続けて正式名称は判りません。勉強不足と言われそうですが、県の都合に振り回された名前を覚えるつもりはありません)で開催され、海部地区9市町村の職員も参加して連携が図られました。

 さて、本日はこれから神守丈友会(書道会)の反省会があり、出掛けるために一言はこのままか、帰宅後の書き込みになります。反省会も様変わりで、かつては会食に飲酒が伴いましたが、恩師も闘病生活中でありますし、我々にも車の運転が必要な事から、お酒の無い真面目な反省会になりそうです。

 個人的には公共交通や移動手段が整備され、車がなくても自由に地域を行き来できる社会の実現を望みたいですが、難しい事から、地元より簡単にバスで行き来できる名古屋の方が身近な社会が続きそうな気配でもあり、名古屋の多種多彩な中から選択した方が魅力もあるのかもしれません。議員の立場では言い辛いですが、名古屋市の延長線にある事を視野に、地元に固執しない街づくりの方が、市民のニーズとなりつつあるのかもしれません。

 さあ、帰ってきましたが、アルコールのない反省会は終わりも早く、恩師を送り届けて帰宅となったが、肝心の書の話は何もなく、私は月末にも作品を出品するものの、世間話のみの食事会となる反省のない反省会となりました。

 私が反省すべきは、やるべき仕事が遅れている事で、会報(議会報告)の発行はもちろんだが、NPOの手続きなど残された仕事が山積しており、議会が終了した後にも遅れた仕事の後始末に追われる日々が月末まで続きそうでもある。
                          6月17日の一言

紙の良し悪しが作品の決め手に…

 本日は午前中から月末に出品する「般若心経」の写経を仕上げていたが、一枚の写経を書き上げる事の大変さを実感する事となった。元々が筆は右から書き込むと乾ききらぬ筆跡がにじむ事から、左から書き込んだ方が自然であるが、この事を「般若心経」に当てはめると、御経の後ろから書き込むこととなり、なぜかしっくりとこないのでもある。

 右から書けば書き込んだ文字が乾くのを待つ必要もあるが、262文字といえども下手なりに真剣に書くとかなりの時間を必要とする。「こんにちはー」と、階下から聞こえる来客の声に中断され、間をおくと次の一字がおかしく、せっかく完成しても用紙がきれいにはがれなかったり、最後の署名に失敗したりと…

 過去にも多くの「般若心経」を書き入れたが、ただ黙々と書き込んだだけで、人に観てもらおうとは思っていないから、一字一句の良し悪しは考えもしなかったが、考えれば完成は至難の業と思われてきた。
 一方、今までの人生で、一番多く書き込んでいる筈の自分の氏名が思うように書き込めず、般若心経は心を込めても名前の書き込みでぶち壊しとなってしまいます。

 「とにかく、下手なんだから、何でも良いわ」と、展示する宿主の言葉を素直に受け止め、2枚の完成品が仕上がったものの、どちらも欠陥が気になり選択ができず、落款を押すことができず、恩師へ連絡して決めてもらう事にしました。

 「こっちが良いわ」と簡単に決まったが、私自身はもう1枚の方が気にいっており、「どこが違うんでしょうか」と訪ねると、「紙が違うわッ」との一言が。つまり、文字の良し悪しよりも、書き込んだ用紙の材質の良し悪しが優先して発表する書が決定したのでした。

 突然の訪問にも関わらず、恩師が表装する店に同行すると言われたために、「予定があります」とも言えず、急遽名古屋まで走る事となったが、仕上げまで2から3週間は欲しいとの店側に、一週間後には出品する予定から、何度も通いなれている恩師の言葉で間に合わせてもらえる事となりました。

 「先に料金を支払っておいてよ」との恩師の言葉に素直に随ったが、これが信用の一歩との事で、仕事を依頼しても完成品を取りにこない客も多いようで、金にならない作品を抱えて店が泣かされる例も多いそうである。
 さて、「帰りはどこかに寄るの?」と恩師の一言。「この後は○×の予定が…」とも言えず、「サービスの良い店をみつけました」と珈琲タイムの後に、弥富市役所まで走る事となりました。

 それにしても、私の書の腕は成長がみられず、4月に発表した書を恩師に見せたところ、「そりゃー、そっちの方が良いわ、そっちにするか」と言われ、「せっかく書いたんだから…」と決まった作品も、用紙の材質が決め手となっており、書道展に発表するレベルには達していない事の証でもあった。
                               6月16日の一言

ボランティアを抜け出してケイリン

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 本日は横井庄一記念館の一日となったが、息子が出場する愛知県自転車競技選手権大会少年ケイリン決勝レースが開催されたため、午前中から午後3時まで記念館を抜け出した。

 決勝は一宮競輪場で開催され、息子達はプロ選手の第7レースと第8レースの間に出走したが、親の期待には反して最後に力及ばず4着に終わったのでもあった。ただし、来週には全国大会をかけた東海大会が控えており、転倒や落車が無かった事は幸いだった。

ケイリンの関係記事・朝日新聞
http://mytown.asahi.com/aichi/news.php?k_id=24000000806130005

 「おい、あんな絶好の位置にいて、最後は勝てなかったのか」と問うと、「レース前にアップができず、力が入らなかった」との返事であった。試合用の自転車に後輪がはまらず、仕上がった時にはローラーに乗る時間もなかった事と、チームメートを勝たせるためのカベ役となっていたようでもある。

 息子の話では『大鹿』の名前がアナウンスされた事で、観客から「あれは大鹿の孫か」との声援とエールが起こり、4着に終わった事でブーイングのヤジも起こったという。同じ地元の同姓の大先輩の存在を実感する出場ともなったようである。

元競輪選手の大鹿真毅関係HP
http://www.tokyo-seitai-kenkyusyo.com/cgi-bin/t-seitaiHP/sitemaker.cgi?mode=page&page=page1&category=0

 さて、競輪場への訪問は息子には内緒であり、家族にも内緒で出かけていったものだが、家族や息子と顔を合わせないために市役所を通して特別室に入れてもらった。この特別室にはかつて7市3町競輪組合の議員として何回か来ているものの、ギャンブルと無縁の私には久しぶりの競輪場にとまどうばかりでもあった。

 競輪場から横井庄一記念館へ戻ると、本日は訪問者が一人もないとの話であり、閉館まで一人の訪問もない初体験となる一日となってしまいました。
 息子のためとは言え、自己満足のための行動で疲れたとは言えず、来客もないままに一日が経過する留守番もかなりの疲れが残る事から、ボランティアのTさんの疲れも気にかかる。

 昨日書き損じた書の書き直しと、積み残した仕事も時間が迫り、会報の配布(旅行友の会)と、編集発行(議会報告)も残しており、NPOの報告や申請など考えると寝る暇もない日々が月末まで続く。息子の大会も全国への前哨戦が続き、仕事と息子の移動と水田の管理を担当する家内はもっと大変なのでもある。
                         6月15日の一言

故人の実兄から連絡をもらい

 本日は今月末の作品展に提出する書を仕上げたものの、風通しを良くしてあったために、作品がなびいて筆の墨がついてしまい、再度のやり直しとなり、提出日まで時間との競争となりそうな事態に陥りました。

 午後に携帯電話に留守録が残されており、連絡すると相手は宝塚市に在住の『大鹿』さんで、朝日新聞社の元編集委員であった大鹿八郎氏(故人)のお兄さんであった。
 私が記したこの一言の中に、私と大鹿八郎氏のやりとりが記してあり、インターネットでそれを読まれた事から、私のところに連絡があったのでもあった。

 ただし、私が『大鹿八郎』を検索すると、確かに私のホームページやブログの一言が表示されるものの、書いた本人である私自身が記した日時を思い出せず、記事にたどりつけない事から、検索に表示されたわずかな文章を頼りに記憶を呼び覚ますと、一人の人物に辿り着いた。

 しかし、インターネットの検索からは探し出す事ができず、毎日書き込んだ一言を探す事も苦痛で、ため込んだ名刺を探す事にしたが、これもため込んだままで整理がされておらず、探しても肝心の名刺が出てこないばかりか、出てきても記事は読み直して探すしかありません。

 そうしてたどり着いた記事が二年前に記した「テレビ局の重役さんと古里談義に」↓↓でした。
 http://www.clovernet.ne.jp/~oshika18/contents19.htm#18614

 この一言で、私は大鹿さんの古里や重役さんの古里が私の住む旧神守村であった事を記したが、亡くなった大鹿八郎氏が記者でありながら自分のルーツを知ることもなく世を去られた事を未だに残念に思っている事と、キーワードとなる『横井庄一』(幼名は大鹿庄一)も同じ古里であった事に古い縁を感じるものでもある。

 そして、本日連絡をいただいた大鹿さんのお兄さんは旧制八高から東大を出られて大学の教壇に立っておられたとはお聞きしたが、パソコンで検索すると量子力学の大家であり、何冊も本を執筆されている事が判りびっくりした次第でもあった。また、私に連絡するために、弟の八郎氏の家や横井庄一記念館にも連絡されていた事からも、電話の真剣さが伝わってきた。
 
 さて、大鹿の名前で活躍する(された)人々が全国に存在するが、改めて我が郷土との縁をたぐり寄せてみたいと思うとともに、名刺や記録の整理の必要性を実感する一日となった。
                          6月14日の一言

吉兆を批判できない医療機関もか…

 歩行者天国にトラックが突っ込み、運転手にナイフで追いかけられて殺される秋葉原殺傷事件も異常だが、体調不良や病人を治すべき三重県の診療所では、前日作った点滴を受けた患者が死亡し、被害者総数は26人(今日現在)となる超異常事態が起こっている。

 少し前に客の残した料理を使い回して客に出した「船場吉兆」が閉店に追い込まれたが、病院の点滴薬が前日から作り置きされ、患者5人からセラチア菌が検出され、この診療所で点滴を受け連絡がとれた268人のうち約2割に腹痛などの被害が出ていたといい、111人には連絡も取れていない事から、被害者はさらに増えそうでもある。

 さて、食品の賞味期限や産地の偽装問題でも、社会の一大問題になった事を考えると、人の生命に関わる医療現場の最前線で、人の体内に入る薬剤が作り置きされていたとの報道には驚きを隠せなかった。

 一方で、一週間前に開催された名古屋大学の学園祭で、模擬店で販売されたクレープが原因で食中毒が起こり、45人が食中毒にかかり4人が入院する事件が起こっているが、これも前日からの作り置きであり、担当していたのが医学部の生徒だった事から食の安全と医療の安全意識にまたがる皮肉な事件でもあった。

 こうして考えて見ると、人の食べ残した食材を次の客に出していた船場吉兆は、イメージこそ汚ならしく思われたが、食中毒を起こさなかった事は見事としか言いようがないが、何の実害がなくとも廃業になっており、今回の医療機関の点滴作り置き事件では死亡者も出ていることから、今後の責任問題が気になるところでもある。

 この問題では医療の安全対策について再度考える警鐘が重要であり、最近では小さな開業医でも簡単に点滴が行なわれており、患者が風邪などで通院しても「早く治るから」と、患者から注文して点滴が実施されている事例も多く、もちろん適正な医師の診断で行なわれているとは言え、医療と人間の身体に絶対安全は無い事から注意も必要である。

 私の母親の実体験であるが、地元の二次医療機関でも他人の点滴を処方された事があり、点滴開始後に「私の名前と違うけど…」と本人の指摘で間違いが判ったものの、看護師が確認後に「中身は一緒だったから」とそのまま処方されて帰ってきた事があった。抗議して間違いを無くす改善策はとられたものの、医師や医療関係者からの謝罪はなかった。

 今にして思えば、間違っても偶然に中身が一緒だったことから事故にならなかっただけで、当時(8年前)の看護師には緊張感も希薄すぎたと思われるが、我々の周りでも注射一本の事で、歩行困難に陥り、抗議して医師から無視され、挙句に通院が出来なくなり、他の医療機関にその顛末を話した事から受診を拒まれ、その被害者体験を封印して医療機関を転々としている人も現存する。

 いわゆる泣き寝入りであるが、一方で注射一本で永年の通院と治療が一度に改善した事例もあり、医療に完全を求める前に患者も勉強が重要であり、注射や点滴で体調が改善する事は、間違えば逆効果どころか死亡する可能性もある事の自覚を持った受診も重要である。
                               6月13日の一言

珈琲屋はデ-サービス(宅老所)を実感する

 自分の行動範囲は広そうに思っていても、いかに狭い地域しか行動していないかを本日は実感する一日となりました。本日は午後より旅行友の会の会報を配布し、ボランティアのWさんと知人のNさんと休憩に珈琲屋に入ったところ、「サービスは何にしましょうか?」と問われた。

 「サービスは何でも付けて下さいよ(笑)ッ」
 「何でもではなくて、パンかケーキのどちらかで」
 「じゃー、パンで」と、
トナリの客の豪華なテーブルを見ながら別に注文しようかと思っていると、私達にも珈琲にパンとお好み焼きと菓子がついてきました。内心、昼食を取ってなかったので、「これで十分」と思っていると、「これも食べてよ」とNさんの声。

 医者から間食の制限を受けており、サービス品が一食分もありそうな食事と化してしまいました。驚いたのは帰りにレジの前に立った時で、「810円です」との言葉に、「一人おいくらですか?」と問い直したのであった。

 最近では3人分で千円を越す店が当り前と思われるが、一人270円の珈琲にパンとお好み焼きと菓子が付いているのである。値段だけでは市役所内の食堂が220円の珈琲を出しているが、夕方に前記のサービス品を付けて270円の値段は、サービス合戦と言われる名古屋でも珍しい存在であろう。

 原材料の値上げから珈琲屋の値上げも続いており、この店も20円値上がりしたらしいが、350円以上の珈琲代が当り前となった中での270円には喝采を贈りたい。
 それにしても午前中のモーニングサービスと間違うほどの満席で、空席はすぐに後からの来店者で温められていく。「最近はヒマでしようがない」と、客の珈琲屋離れをボヤいている店が多いが、ここにはボヤくヒマもない様子である。

 ただし、ここには若者の姿はほとんどなく、客のほとんどは70才前後と思われる人ばかりで、遠くから車に乗って集まっている様子から、一種のデーサービスか宅老所と言っても過言ではなく、頭の回転の悪い当方にも`金儲け`のヒントと、時代の要求を見せ付けられたように思われてならない夕暮れとなりました。
                                 6月12日の一言

本日はブログ初のクイズです

 目がさめて最初の仕事は、事務所前の歩道に落ちて転がるアンズ(杏)を拾い集める仕事で、私が目覚めた時には既に自転車や歩行者に踏まれた残骸も多く、早朝より掃除が日々の日課になっている。

 小学校の通学団が通る前にも拾い集めて、市役所に出かける前に拾って車を出そうとすると、既に数個が落ちており、後ろ髪を引かれながら出発し、留守中は母親に頼んであるとは言え、帰宅すると車も入れないほど落ちており、踏みつけられた残骸が無残な姿をさらしている。

 車を降りるとアンズの甘酸っぱい香りが漂い、拾ったアンズが山となっている事務所もアンズが香り、流し台も台所も目前のアンズが置かれ、家中がアンズの香りでいっぱいとなっている。

 さて、私は梅干が大嫌いで、色と大きさは違うものの、形とタネが一緒のアンズも苦手であったが、多くの人々に貰ってもらう必要性と、黄色から赤みを増し、年々綺麗になった果実と美味しそうな香りから、自然と口にするようになってしまったのである。

 一ヶ月前のサクランボのように、鳥が狙い続ける事はないが、さすがに年々と甘味が増してきた事から、今年は鳥に突かれて傷ついた実も増えた。同じアンズでも木が大きくなった事から、木陰の黄色いアンズから、オレンジ色から真っ赤な果実まで存在する。観察すると太陽の光を浴び続けた果実は赤みが増す。

 残り少なくなりホッとしていると、事務所裏にある更なる大木と化し、事務所の2階を更に越すアンズの実が色づきはじめており、こちらは木が高すぎて登る事にも限界があり、長い洗濯サオに網をつけた道具でも作らないと取れそうもないが、こちらは大きく甘い事から我家の本命のアンズでもある。

 ただし、こちらは落ちても下が道路ではないので、踏みつけられる心配がない事と、落ちても傷がつかない利点もありますが、残念ながら私には一人では取りにいけません。
 「おい、先に行ってくれよー」と家内に言ってからハシゴにのるか、倉庫の屋根に登ってからのアンズ採りになりますが、その理由が判りますか?

 私のブログでは初めてのクイズです。
私は何故に家内の後からアンズを採りに行くのでしょうか?
 身勝手なクイズで本日は筆を置かせていただきます。
                           6月11日の一言

これでも死刑は廃止と言えるか

 歩行者天国を歩いていると猛スピードのトラックが突っ込んできて、直後に走ってきた運転手は救助ではなく次々と人を刺し殺す。こんな事が人で賑わう都会で起こり、その光景がビデオカメラに映されてテレビで放映された事にはびっくりである。

 秋葉原無差別殺傷事件では容疑者がナイフを5本も用意して手当たりしだいに人々を襲った事にもびっくりだが、凶器のナイフは静岡県から福井県まで出向いて買い求めた事にも驚かされる。こんな容疑者にトラックを貸して人殺しの凶器に使われたレンタカー会社もびっくりであろう。

 死亡した7人と、10人の負傷者は勿論の事だが、突然に家族を失った人々に与えた衝撃は計り知れないものがある。凶器のナイフは、サバイバルナイフとかダガ-ナイフと報道されているが、写真を見るかぎりでは工作用などの目的に使われるものではなく、明らかに対人用の凶器としか思えず、販売した業者の責任も問われなければならないと私は思う。

 しかし、拳銃による事件も多発しており、拳銃さえも何とか入手できそうな社会となっているが、刃物やナイフについてはまったくの無防備で、ホームセンターには家庭生活には必要とは思われない長い刺身包丁も並んでおり、悪意を持って行動すれば危険極まりない社会とも思われる。

 本日には犯人の親が謝罪会見を行なったようだが、裁判をするまでもなく死刑と断言できそうな凶悪な事件の後始末を、被害者や遺族などが納得できる賠償ができるのであろうか。「今は何も考えられない」との父親の言葉はその通りと思うが、犯人が死刑となっても被害者や遺族の怒りの矛先は納めようもない。

 さて、こんなことが携帯サイトに犯人から予告され、凶器を購入する様子もカメラに残されていた事を考えると、国をあげた対策が急務でもある。
 「おい、こんな目にあうと困るから、これからは日本刀でも下げて歩くか」などと、本気で考えたくなるような非常識が日常化したような社会情勢ではないか。
                           6月10日の一言

仕事の翌日残しは禁物を実感し

 「大鹿君は明日だなぁー」と、朝に言われていた議会の一般質問であったが、昼頃には「(前の質問者が)3時半までに終っていたら今日だなッ」となり、午後3時には想定外(覚悟はできていましたが)の登壇となりました。

 今回の6月議会には10人の一般質問が通告されており、過去の議会運営から想定すれば、1日目に7人が登壇し、2日目に3人残した方が無理がなく自然と思われるが、これも私の勝手な想定であり、午前中に5人も登壇するスピード議会では8人目の私までもがあえなく登壇となってしまいました。

 「あえなく」と記したのは、昨日昼まで参加した総合防災訓練の後で、身体が限界状態となり、午後に出向いた横井庄一記念館から帰宅後には頭痛も治まらず、「どうせ、2日目だから」と質問の整理を翌日送りにして横になったのでした。

 朝起床した時にも頭痛は治まっておらず、カゼ薬を飲んで出かけた次第でしたが、この時点では議会終了後の今晩に明日の質問をまとめる予定でいたが、まさかのスピード議会に用意した資料は持ち合わせていたものの、分類しておらず引用する余裕もないままとしてしまいました。

 実際には質問を通告した際に質問項目がまとめてあり、質問項目を読み上げるだけでも質問とはなるものの、具体的な事例を紹介する事で、質問の意図と方向性を導きたいところであるが、壇上で考えながらの質問は、質問した項目の漏れはないものの、体調不良から準備を先送りした事の反省の登壇ともなった。

 ただし、この筋書きのない質問は、答弁する市役所の担当部長にはドッキリとなったようで、私の質問中に理事者席が前後で答弁書のやりとりをする様子が見え、私が壇上では質問しないと伝えてあった質問までした事から、今回が議会初登場の新任部長には冷や汗をかかせたようでもあった。

 さて、議会のセレモニー化への批判も多く、あらかじめ質問と答弁のすり合わせをせず、ガチンコ勝負を期待する市民の声も耳にするが、準備不足の登壇はまさにその可能性を持ち合わせる事を実感する登壇ともなりました。
                          6月9日の一言

総合防災訓練に参加して

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 写真の写りが悪いのは、防災訓練に参加した人々のプライバシーを考慮したものではなく、私の携帯電話のカメラの性能が悪いためですが、こんな時にはちょうど都合の良い写りなのでしょうか。

 本日の防災訓練は海部地区全市町村の訓練ですが、会場となった木曽川河川敷は続いた雨によってぬかるんでおり、駐車場所に到着したとたんに「おいッ、引っ張って」と、20年選手の我が愛車と知ってか知らずか、我が物のようにロープが付けられて救援する事になりましたが、こんな自然に協力できる関係がボランティアの良いところでもある。

 8時から開始時間まで準備にかかり、8時45分から訓練開始の宣言が出された。私が参加しているのは、ボランティアコーディネーターのボランティア支援本部の立ち上げ訓練で、災害時に各地から被災地に訪れたボランティアを迎え入れ、被災者の希望する支援にボランティアを送り出すための分担作業の演習なのである。

 毎年参加しているのだが、毎年何らかの問題や課題が出てくるのも、新たに参加される新しいボランティアの存在があっての事で、ボランティアを格付けして「私は卒業した」と他の組織に走る人も存在するが、これはこれで重要な繰り返し作業なのでもあります。

 毎年参加していると言っても、実際に被災地に出向いた体験を持たず、訓練のみであり、その訓練で問題が発生すると皆で烏合の衆と化し、経験豊富な本部長の指導を仰ぐ事となる。ここには男女差別どころか、男女同権などと難しい話をするまでもなく、女性の本部長の前に教え子のようにただうなずくばかり(写真)である。

 さて、ボランティアと言っても54才の私が若手の部類で、ほとんどの人がシルバーと呼ばれる世代の人であり、雨の予想が外れて太陽の日差しが差した事から、私の体力は限界に達しており、他の人々の疲労の度合いが気になるところであるが、毎年思う事は訓練以上に、訓練後の挨拶が長く、若い消防団員は別としても、ボランティアの市民への配慮が必要と思う事である。

 私が議員の立場から思う事は、車の駐車場所もボランティアの市民が会場の一番遠くに配置されており、一等地に来賓の議員や首長の車が待機されており、市民が主役となるためにはまだまだ行政の体質改善が必要な事でもある。それにしても、過去に無い疲労に、自分の身体を考える一日ともなりました。
                                6月8日の一言
追伸、明日からの一般質問は大丈夫か(笑)

本日はアンズ取りに

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 本日は、アンズ(杏)が熟して次々と落ちてくる事から、家内はアンズのジャムを作る事となり、それでもたわわに実るアンズは処理しようもなく、知人に連絡して取りにきてもらいました。とにかく2階まで届く大木にいっぱい実っているわけですから、何ともなりません。

 「ダメッ、ダメ」と言われているのは知人のご主人で、高血圧のためにハシゴは危険と上らせてもらえず、頭上にしっかり実るアンズを尻目に撤退です。それでもバケツに2杯はありそうで、この木にはいったいどれだけの実が付いているのでしょうか。

 地域限定の情報ですが、希望される方はアンズを是非取りにきて下さい。

追伸
 実はこの木(事務所前・県道ぞい)より大木になって、2階の高さを超えるアンズの木が奥にもう一本あります。こちらは今年は数こそ少ないものの、大きくてより甘いので、よりオススメで、まもなく熟してきます。
※少ないと書いたら、表の木よりずっと多いと言われました。


 事務所前の木は長野県出身の方にいただいた木で、奥の大木(事務所前も大木ですが)は、この木を植えてから、私の実父が植えたものです。ともに、30年近く経っており、3月は桜の代役で花が咲き、2ヵ月後に実が熟します。花もきれいで、実はきれいでか弱いアンズですが、我家にとっては熟れた実の後始末に困る日々が続きます。
                               6月7日の一言

昨年のアンズ
 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/16242004.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/20961251.html
17年のアンズ
 http://www.clovernet.ne.jp/~oshika18/contents18.htm#1769

稲沢市のせんき薬師へ

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 稲沢市大塚町の性海寺で開催されている「あじさい祭り」を目的として知人達を誘い、隣に建つ「せんき薬師」と恵明寺にも立ち寄ってきました。

 あじさい祭りについては、添付したブログ⇒『http://blogs.yahoo.co.jp/trek_orbea/10055011.html』を参考にしてもらい、私は先に、性海寺の東200メートルに位置する「せんき薬師・西福院」に参拝いたしました。
 西福院は真言宗智山派のお寺で、道路沿いには「日本一ヶ所せん病封じ祈願所、尾張三霊場第3番」の大きな看板が上がっている。(写真上が本堂)

 「せんき」とは聞きなれない言葉であるが、「疝気(せんき)」とはスジの病で神経痛・リウマチ・腰痛・脱腸等々身体に巡っている筋の痛みの古の総称との事で、この寺は昔から「脱腸」への効力が遠くまで伝わり、現在でもせんき封じの祈祷をはじめ、様々な病気平癒の祈祷や身体健康等のご祈祷を随時受け付ている。

 本日の参拝時にも複数の信者が本堂で祈祷を受けておられたが、この寺には本堂の南に神道の「御岳様」が奉ってあり、先代住職は御岳教の先達との交友も多く、御岳信仰にも熱心な理解者だったようで、まさに役行者小角や行基菩薩の系譜となる弘法大師の真言密教が受け継がれている事を実感する。

 本堂正面の山号の揮毫は、同じく真言宗智山派のお寺で安産の効能で有名な祖父江地泉院の住職で、書家としても高名な三神僧正http://www.shodo-journal.com/calligrapher/ma/mikamieiken/mikamieiken.htmlの手によるものである。

 西福院を南に歩くと50メートルで「南無大師遍照金剛」のノボリと大師像がたつ「恵明寺」がある。ここでも般若心経を一巻あげて、西へ進むと目的地の「性海寺」の正面に出る。

 ただし、山門の前には私の一番弱い「饅頭屋」が屋台を出しており、「一つでも良いですか」と饅頭を食しての参拝(帰りにも一個)となる。性海寺は⇒http://akon.sakura.ne.jp/mytown/ajisai/syoukai/syoukai.htmlを参照して下さい。

 さて、添付したHPには、寺の縁起伝承として「弘仁九年(818)、空海が熱田神宮参詣の折り、老翁の教示により大塚を築き,銅像の歓喜天を埋める』とあるが、大塚については稲沢市の文化財として「今から1400年以前の古墳」と記されている事から、この地が弘法大師が訪れる前から神聖な地であった事がうかがえる。

 目的の「あじさい」については、地元の新聞が報じてはいるが、他の名所とは比べ様もなく、私は「あじさい祭り」を口実にして、何度となく知人を誘いながら真言密教の聖地としてこの地を訪れているのでもあります。性海寺本堂前には、四国八十八ヵ所や西国、坂東、秩父を巡拝した「稲沢新栄講」の石塔(写真下)が建ち、86名の連名に手を合わせずにはいられませんでした。

 山門正面の愛染明王前には小さな祠があり、中に弘法大師像が奉られており、我家の仏壇の中で煤で汚れて肩身の狭い思いをされている大師像に酷似している事から、「何とかせねば…」と放置してある大師像の扱いについて想いを馳せる一日ともなりました。同行二人ではなく、同行三人の身勝手な顛末となりました。
                                  6月6日の一言

これではヤブヘビになっていく

 本日は朝一番から市役所の連絡や訪問が続き、事務所の一日となったが、6月議会の一般質問に対する市役所側の答弁を読み上げる部長の多くが新任となっている事と、聞き取り役の課長にも新任が多い事から、当方の質問の一言や一字一句を真剣に聞き取るものの、これでは議会当日の質問がセレモニーと化す心配すら感じる一日となった。

 もっとも、昨晩も午前様であったが、本日は早朝より犬(我家の愛犬)の泣き声が目覚ましとなり、びっくりの早起きにもなっていた。屋外から聞こえる大声に、近所の訃報の案内かと勘違いして飛び起きると、地域の人々の旅行への旅立ちで、我家の前でバスを待っていた話し声から、犬が鳴き続けていたのであった。

 我家の前は県道の主要道であるが、旅行の集合場所にされる事も多く、今まで苦にした事もなかったが、早朝の集合だけに大声は勘弁して欲しい。これは、旅行を企画して主催している自分にも戒める事と今後の注意も必要となるものである。

 さて、今回も議会には3項目の質問が通告してあるが、答弁の内容を自分なりに想定しており、新たな答弁に期待しているものはほとんど無く、むしろ質問する中での自己主張と市民の声の代弁を目的としており、「答弁内容はどうでも良い」との当方の言葉を理解していない職員が多い。

 勿論、「どうでも良い」と言うのも本意ではないが、当方や市民の要望に無理のある質問を通告しており、過去の議会答弁や他の議員への答弁内容から、新たな内容に乏しいことは承知であり、議会前に市役所側の答弁内容を知りたいとは全く思っていない事から、かみ合わない問答と職員の聞き取りミスを恐れた心配から訪問が夕方まで続いたのでもあった。

 今月は議会日程が続くだけでなく、日曜日にも公的(私的にも)行事が多い。4月から毎週日曜日が「横井庄一記念館」に常駐であったが、完全なる休養日のない日々は身体に疲労が蓄積し、夫人の退院から一週間おきの留守番になるとホッとしていたが、一緒に同行されるボランティアのTさんには、毎週の留守番が生き甲斐になっていると知人から伝わってきた。

 それは、それで有難い事であるが、まもなく80歳となるTさんは毎日がヒマとは言わないが、休日と同じく休養も可能だが、毎日が仕事である私にとっては身体の休まる日がなく、「毎週出掛ける」と言われるTさんに「止めましょう」とも言えず、館長の入院と退院によって大変な事態に推移しているようでもある。
                               6月5日の一言

6月議会の一般質問の内容

 6月議会の一般質問は、6月9日(月)と10日(火)に開催され、10議員が質問を通告しており、私は8番目の登壇となりました。今回の議会から質問通告書の提出順に質問する事が決まっていましたが、8番目の質問は9日の夕方か、10日の9時からか微妙な順位となりそうです。

 私の質問内容について記しておきます。
1件名 津島市の街づくりについて-(計画と市民生活について)
 津島市で開催された藤まつりが盛況に終わり、観光センターの建設も進められ、4月末には津島市商工会議所と商店連合会、観光協会が市街地の街路整備として天王通りの拡幅を求めた新聞報道に対して、過去の議会で天王通りは人の通行する生活道路として拡幅を否定した答弁がされた事の再確認と、市民生活にとって買い物に行く店の倒産や、買い物に出向く生活の足(巡回バス等)が不足している市民生活の現状を指摘する市民の声を代弁します。
 一方において、公的負担が増え、後継者のいない農家について、名古屋市に30分の距離にある事から、農地の集約化を示した過去の議会答弁以外に、土地の有効活用について何らかの方法とか、農家にとって将来に期待できる明るい話題はないのか質問いたします。
 四年前に廃止された市民菜園についても、国が農産物の自給率向上を訴えていることから再開の可能性についても質問します

2件名 津島市の感染症対策について
 インフルエンザや結核、ハシカなどに対する現状と対応について質問します。高齢者の結核患者の増加と、各地から結核の集団感染が伝えられ、感染して発病すると強制入院となる事と、発症した患者の接触者などの検査までに時間がかかっている現状から、早期の検査により感染の拡大を防ぐ対応を求めます。
 また、感染した市民の市民病院の受け入れや、対応についても質問していきます。

3件名 資源ゴミの回収について-(古紙持ち去り事件の判例から)
 この質問では、資源となる古新聞やダンボールなど古紙の持ち去り事件に、最高裁が「有罪」の判決を示した事から、ゴミの集積場に出される古紙やペットボトル、アルミ缶の回収状況と実態の報告を求め、資源ゴミの所有権は津島市にあるかどうかの質問をします。
 ゴミの集積場で、資源ゴミを持ち出す回収業者との問題も出ており、ボランティアの名のもとにアルミ缶を持ち出すグループと、持ち出しを断られるグループとの問題も現場にはあり、はっきりとしたルールが確立されていない事についても質問いたします。

周りから四国の話題が続々と

 本日より6月議会が開会され、午後には海部総合庁舎で来週の日曜日に木曽川河川敷で開催される海部地方総合防災訓練のため、ボランティア支援本部立ち上げ訓練の予行練習が行なわれました。

 ボランティアの経験の差はあるものの、他の市町村のボランティアが同じ場所で一緒に協働する事の意義を感ずる一日となった。次々とボランティアグループや自主防災団体が組織されているが、市町村の枠を超えた貴重な機会となっている。

 さて、帰宅後に来客の応対をしていると書道教室の開始時間が迫り、慌てて恩師を迎えに車を走らせ戻ってくると、家内から「丁度良かった」と三男を駅まで迎えに行かされ、やっと書道のためにスズリに水をたらすと、「電話だよー」と明日の早朝に病院の送迎を依頼され、ボランティアの手配を済ませて戻ると、恩師から書のコピーを依頼された。

 「今日は書けないなッ」と、先週の鶴田浩二さんのお墓を発見した話をして、遍路や高野山を話題にしながら筆を走らせると、「今日は人が少ないから珈琲屋に行こう」の一声となった。
 「そういえば、夕飯もまだじゃないか」と、四国の銘菓「かまどせんべい」をポケットに入れて同行し、四国や高野山の話題を続けて帰宅すると時計は10時を廻っていた。

 さて、帰宅後の夕食前に渡された饅頭は、近所のOさんの四国遍路の土産との話で、販売元を確認すると「名物かまど」の生菓子「虎まんじゅう」で、高松屋島店で5月30日に買われており、本日Oさんからいただいたのであるが、偶然にも私の推薦している「かまどせんべい」の製造元である荒木屋の製品にびっくりの一口となった。

 かまど本舗荒木屋のHP http://www.kamado.co.jp/index.html
 朝日旅行友の会立ち寄りたい名店 http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage101.htm

 Oさんは一人で歩き遍路に挑戦し、60日かかって四国遍路を終え高野山への御礼を済ませて帰宅されたとの事で、数年前に私と廻られた義母に勧められての遍路に、私の経験した事のない通しの歩き遍路で満願を達成されており、うらやましいやら、同じ趣向の土産にびっくりさせられたり。

 現在、近くの知人も自転車で二度目の遍路挑戦中だそうだが、この知人も16年12月に奥さんを亡くされた事(信じられない訃報http://www.clovernet.ne.jp/~oshika18/contents14.htm#16125)から、私が薦めた四国遍路だが、まわりからの四国遍路の話題に血が騒ぐ一日となった。
                               6月3日の一言

結果は判らないものでもあるが

 昨日は息子の忘れ物が目覚ましとなったが、本日は市民の方からの相談事の電話によって朝一番で市役所で待つ人のもとに走る事となった。

 ただし、法的な専門家の手続きを必要とする案件であり、専門家も親族間のいざこざから仕事に手を出さない案件だけに、「何とかお願いします」と言われても、相手によっては憎まれるだけでなく、刃傷ざたに発展する可能性もあり、うかつに動ける問題でもなかったのである。

 こんな時に活躍すべき専門家が動く事ができない原因は、前記したいざこざを抱えたくない事と同時に、目的が達成しないかぎり報酬にもならないからであり、素人の当方にとっては無報酬のうえにいざこざの当事者になる可能性があり、極めて厳しい相談であった。

 さて、明日から議会が開会されるが、こんな問題を抱え込むと確実にストレスがたまり、素人では解決できない問題ゆえに、最後は専門家の手にゆだねるしかないが、それも双方を納得させる結論まで導いておく必要があり、「とにかくお願いします」と言われたものの、私の限界を超えた問題である。

 「勝手に期待して、行動しないで下さいよ」と言ったものの、相手は完全に期待しているようでもあり、何ともならないと思っているようでも、私なら何とかできると信じ込んでいるようでもあり、私の言葉が伝わらない様子でもあった。

 相談者はかなりの高齢者で、親族間の関係も冷え切っており、同居する子息には知らせないで欲しいとの要望では、明るい展望が見えてこない。

 役場を後にして道路に出ようとすると、警察が事故の現場検証の最中であり、事故の当事者が知り合いのため雨の中を付き合う事となったが、事故原因は相手の単車が悪いと言うものの、相手が救急車で運ばれた事から、とんでもない災いを負った可能性を感じた。

 こちらも相手は80代の高齢者との事だったが、病院に搬入されたものの軽傷で「飛び出した私が悪い」と自己責任を認めたとの報に、こちらは高齢者の正直な応対に救われたようで、何を言っても判らない事とウソのつけない高齢者の裏表を見せられる一日となった。
                          6月2日の一言

6月議会の資料

<結核>11人の集団感染発生--県健康推進課 /滋賀
2008年5月29日(木)18:00  毎日新聞

 県健康推進課は28日、県内で11人の結核の集団感染が発生したと発表した。

 今年3月、高島市の男性(32)が、せきや発熱などの症状で病院で受診し、結核と判明したが、感染経路は不明。届け出を受けた高島保健所が家族や友人、仕事の関係者ら44人を健康診断した結果、10人の感染が分かった。うち2人は発病し、通院治療を開始。発症していない感染者8人にも県が通院治療を指示した。

 厚労省は結核の集団感染を「感染源が20人以上に感染させた場合」などと定義。発病者1人は6人の感染者に相当するとして計算するため、今回のケースを集団感染と認定した。県内での結核の集団感染は9年ぶり。【服部正法】


http://blogs.yahoo.co.jp/arc2life/36359508.html
青森県は11日、弘前市職員ら男女28人が結核に集団感染し、うち職員ら6人が発症したとのことです。40代男性職員が入院中で、5人が通院治療を受けていて、市職員以外の人は発症者1人を含む3人と発表されています。

県保健衛生課によると、最初に発症した職員1人は昨年10月に医療機関で結核と診断され、今年1~3月、職員ら男女5人が相次いで発症したため、弘前保健所が患者に接触した87人を対象に調べたところ、10~60代22人の感染が判明したようです。

大阪府でも先月、豊中南署(豊中市)で留置中の被告や署員ら男女計23人が結核に集団感染し、うち男性4人が発症していました。留置されていた20代の男性が入院し、留置中の別の男性と署員2人の計3人が通院治療をしているということです。

最初に発症した20代男性は、昨年2月ごろからせきなどの症状が出始め、留置された後の同9月に豊中市内の病院で肺結核と診断され、同10月から、署員ら男女計91人を対象に結核検診をしたところ、発症者4人中3人が同じタイプの結核菌だったことが判明したようです。

同じ結核菌による感染者数が20人を超えたという事実から、集団感染と判断したとのことですが、現代における隠れたエビデンスとして見逃せない徴候ということができます。
20年4月

http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/063/index.htm

http://blogs.yahoo.co.jp/misaki110ban/14300152.html

http://www.hokenkai.or.jp/1/1-3/1-32/1-32-50.html

学校で127人が結核に集団感染 千葉; 1 名前: JJφ ★ 投稿日: 02/07/04 21:10 ID:??? 千葉県健康福祉部は4日、木更津市の学校で学生ら127人が結核に集団感染し、う ち1人が発病した、と発表した。 ...

インフルエンザ
http://www5.pref.aomori.lg.jp/hoken/18991/cpub.html

(朝)事故の予感が、(夜)優勝に変わって

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 本日は横井庄一記念館の一日であったが、携帯電話に設定した目覚まし時計の時間より早く携帯が鳴り、びっくりとして時間を確認すると、三男の携帯電話からの呼び出しで、何事かと思って出ると家内の「裕一が…」と慌てた声に、一瞬は息子が事故にでもあったかと心臓が凍りついた。

 「ゲタ箱の上に靴を忘れてきた」
 「えっ、何ッ?」
 「今、犬山に来ているけど、靴(自転車競技用のシューズ)を忘れてきたから」
 「何事なんだ?」
 「今日、大会なんだけど…」

 昨晩も帰りが遅く、息子の顔すら見ていないばかりか、早朝から家内と犬山市に出かけて行った事も知らないし、白い靴と言われてもどれなのかが判らない。寝ぼけ眼(まなこ)で靴箱をひっかきまわし、問題の靴を発見した。

 「今すぐ、持って走ってきて!」
 「悪いけど、そこまでは行けない」
 「シューズがないと出場できないから…」
 「時間(記念館の開館まで)が無いし」
 「とにかく、途中まで戻るから走ってきて!(プッッ)」
 「おい、おーい!」

 顔も満足に洗えない状態で息子の靴を助手席に乗せて(写真下)早朝のドライブとなった。帰宅後に歯をみがいて着替えるとボランティアのTさんの姿があり、記念館に走ると開館より1時間も早い結果に、完全なる寝ボケの一日となった。

 さて、記念館の一日が終わり、帰宅するとスポーツドリンク「リゲイン」の箱が並んで置いてあった。「おー、あいつは子供のくせに、こんなのを飲んでいやがるんか」と、親の悲哀を感じていると、「それ、お父さんにあげるわ」と家内の声が。

 顛末を聞くと、本日の大会で個人と団体(愛工大名電)で優勝した息子へのスポンサーからの景品との事であった。「そうか、1位だったのか」との喜びを隠し、「そりゃー、オレの持って行った靴のお陰だから当然だ」と平常を装ったものの、その他の立派な景品には声がかからなかった。

 三年間かかって、何とか全国レベルの結果が伴うようになってきたが、しばらく続く大会が三男の将来に大きく影響するため、当面は息子の体調維持と試合へのサポートが私にも求められて(息子は何も期待していないが)いるのかもしれません。
                              6月1日の一言
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