大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

2013年03月

千葉県から油絵が届けられて

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 2日前に訪れていた千葉県から、留守にしていた我が家のポストに、千葉県で夕食会場を訪ねていただいた「ホームレス画伯」こと、上高地で油絵を描いて半世紀の渡辺氏より、地元の犬吠崎の灯台を描いた油絵と手紙が届けられていました。
 
 3日前に千葉県に到着し、夜の食事会場を確保してもらうため連絡すると、「おい、どうしたのッ」と画伯が驚きの声を上げ、電話した当方もその声に驚いていると、「たった今、そっちさ送ったばっかりだっぺ…」と、私へ宅配便を送った直後に電話がかかった偶然に驚かされ、「もう着いたのかとおもっちゃったよ」と交わした会話の品々でした。
 
 氏いわく、上高地の絵じゃないけど、もらってもらえるかなと随分と謙遜したプレゼントですが、73歳となっている画伯の健康を祈り、こういう人間関係が永く続く事を祈らずにはおれません。次の再会は4月27日の上高地開山式となりますが、画伯は23日に千葉を発ち、11月まで上高地でテント生活が続きます。
 
 
 本日は叔父のお寺の永代経が行なわれ、午後に開催された今年で最後となる「あかね寄席」は家内が代理で鑑賞に走りましたが、月曜日から1泊で東京に視察へ訪れ、名古屋に帰った足でピアノコンサートを聴き、その夜に神奈川県に車を走らせ、帰宅したのは土曜日の未明でした。
 
 夜行で神奈川県まで走り、翌日から土曜日まで神奈川県と千葉県を走り続けたことで、身体は悲鳴こそあげていないものの、悲鳴をあげる寸前の鈍痛が走り、横になるとそのまま眠ってしまいそうです。
 
イメージ 2 さて、明日は午前中に市役所へ走り、来週中に3月に発行した同窓会報の広告代の集金に廻る必要に迫られ、公的日程が再来週まで続いており、月末の坂東巡礼や上高地行きまでに仕事を終わらせないと、ゴールデンウィークも中途半端になりそうです。
 
 本日車を停めた道端には「ツクシ」が生えていましたが、既にほころびており、今年はツクシも食べないままに春が過ぎそうですが、車中から千葉県飯岡漁港の道端から抜いてきたアシタバを降ろし、植える場所を定めて、昨年の春に熱中していた園芸にも頑張りたいと思う一日ともなりました。
 
                                     3月31日の一言

10年ぶりの坂東三十三観音へ

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 今月27日から3日間の坂東三十三観音巡礼では、三つほど新鮮な気持ちを味わう事がありました。
 
1日目・3月27日(水)
津島市26日23時出発…浜名湖SA…足柄SA…第5番勝福寺…第7番光明寺…第6番長谷寺…第8番星谷寺…第4番長谷寺…第1番杉本寺…第14番弘明寺…第2番岩殿寺…宿・松汀園
 
2日目・3月28日(木)
鎌倉・第3番安養寺…千葉県木更津市・第30番高蔵寺…館山市・第33番那古寺…第31番笠森寺…第32番清水寺…宿・旭市飯岡漁港・グロリア九十九里浜…夕食・
 
3日目・3月29日(金)
朝食・旭市ガスト…第27番奥の院満願寺…第27番飯沼観音…第28龍正院…成田山新勝寺…第29番千葉寺…アクアライン海ホタル…足柄サービスエリア・夕食…浜名湖SA…春日井IC…東名阪…津島市
 
 一点目の出来事は、千葉県館山市にある第33番那古寺の納経所で、ご住職から朱印をいただく際に、十年前に巡拝して満願となった朱印帳を確認されたことでした。
 
 「結願になるんですね」
 「いえ、順番を変えているので」
 「それでも結願ですよ」
 「あくまで、百観音の結願が目標なので…」
 
 那古寺は坂東の33番目のお寺ですが、前回も最後の巡拝とはしておらず、今回も2日目に訪れている事から、満願とか結願の意識は皆無で、ご住職の言葉の意味も理解できずにいましたが、ご住職の解釈では、10年前に全部のお寺を巡拝しており、今回訪れたことが結願にあたるとの意味だったようで、納経帳に「結願」の印を押していただきました。
 こんな展開から、那古寺で「結願の証」を記してもらい、翌日訪れた銚子市の満願寺では、四国八十八ヶ所と、西国、坂東、秩父百観音の「満願之証」を発行してもらうことになりました。全ての納経帳を持参していたからできた結末です。
 
イメージ 2 2点目は、28日に訪れた第31番笠森寺で、境内の池に繁殖していたヒキガエルですが、ソフトボールより大きいヒキガエルの夫婦が、添付した写真のように本堂前の庭にオンブした姿で歩いており、動物の子孫を残す自然現象とは違う、夫婦一体の散歩風景はほのぼのとしているだけでなく、こんなカエルの夫婦が十組ほど本堂前の庭を歩く姿はテレビの「珍百景」に応募したい心境にかられました。
 
 それ以上に、カエルでも仲良くしている姿に人間が教えられます。それにして、背負っているカエルはオスかメスかが気にもなります。
 
 3点目は、2日目に宿泊した宿が夕食の無いビジネスホテルだったことから、夕食会場を探す手助けを当地に住む知人に依頼したところ、わざわざ土産持参で訪れていただいたことで、予想もしていたかった訪問者に人との出会いの妙を実感させられました。
 
 次は1ヵ月後に再開となります。          3月30日の一言

坂東三十三観音三日目

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飯岡漁港・屏風ケ浦 霧で見えません

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第27番奥の院 満願寺
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第27番 飯沼観音
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第28番 龍正院
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第29番千葉寺 桜が満開でした

坂東三十三観音第一回目は、本日千葉県のお寺を巡拝して帰宅しています。

満願寺と成田山新勝寺も参拝しました。

詳細は明日に、、、、、、

坂東三十三観音二日目

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本日は、五つのお寺を巡拝しました。

鎌倉の安養寺、千葉県へ入って、木更津市の高蔵寺、館山市の那古寺、笠森寺、清水寺を廻り、本日は旭市の飯岡漁港の近くにあるグロリア九十九里浜に宿泊しています。

明日に銚子周辺の四ケ寺を巡拝して愛知県へ戻ります。

おまけ-上高地のホ-ムレス画伯とも一緒に夕食をとりました。

坂東三十三観音巡礼の旅に

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 本日は、昨晩11時に津島市から6名のメンバーで出発し、坂東三十三観音巡礼をスタートするため、足柄サービスエリアで時間調整の仮眠をしたうえで、午前8時に小田原市の第5番札所勝福寺(写真上)から参拝をはじめました。
 
 第5番勝福寺…第7番光明寺…第6番長谷寺…第8番星谷寺…第4番長谷寺…第1番杉本寺…
 
 …第14番弘明寺…第2番岩殿寺…宿へ
 
イメージ 2 朝から小雨が降ってはいたものの、順調に巡拝を続けて、鎌倉市の第1番の杉本寺を参拝した直後に先導する私の悪い癖がでます。
 
 予定では、第1番杉本寺の後に、第3番安養寺と第2番の岩殿寺を参って、そのまま本日の宿に直行する予定と説明していたものの、駐車場の係員さんとの会話から、横浜市南区にある第14番弘明寺に参拝しても十分に廻れると聞き、急遽予定に入れて自動車専用道へ車を走らせました。
 
 もっとも、地理に明るいわけでもなく、平成15年以来の巡礼の上に、春休みになっていることから、若者や外国人が大挙して訪れており、車が思うように走れなかっただけでなく、道に迷って到着時間が大幅に遅れて、結局が「第3番安養寺は廻れないこととなりました。
 
 「すいませーん」」
 「… …」
 「こんばんわ」
 「… … … …」
 「おかしいなァ…」
 
イメージ 3 本日最後の参拝となった第2番岩殿寺に到着した時、時計の針は朱印帳の受付時間の締め切り5分前となっていたものの、お寺の山門は添付した写真のようにがっちりと閉められ、納経所の扉にもカギが掛けられ電気も消えていました。
 
 必死でインターフォンを押し、何とかお寺のご住職を呼び出したことから、本日は3番の安養寺を除いて予定したお寺を全て巡拝できました。
 
  本日の宿は、逗子市にある松汀園で、大正浪漫の香る和のお宿と紹介されていましたか、国家公務員共済組合連合会が運営している宿で、一般の我々も利用できるリーズナブルな施設です。
 
KKR逗子松汀園 http://www.kkrzushi.jp/
 
 さて、明日は本日やり残した鎌倉市の第3番安養寺に参拝後に、東京湾を渡るアクアラインをわたって房総半島にある四つのお寺を巡拝し、銚子に近い九十九里浜の宿を探す予定ですが、さて、さて…
 
                                    3月27日の一言 
追伸
本日の宿ではソフトバンクの携帯電話がつながらず、坂東三十三観音のブログ記載を携帯から転送しようといた当方にとっては大きな誤算となりましたが、さすがは国家公務員の共済組合が運営する宿だけあって、無線ランがつながっていました。車にノートパソコンを積んでいたことが幸いでした。

東京から帰り、夜には鎌倉まで

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本日は東京臨海広域防災公園を視察後に、国会図書館と憲政記念館を見学し、国会議事堂に向かいました。

私の所属する青風会の二人は、いつか来るぞと国会議事堂に吠えております。
 
本日は、新幹線を降りてから、午後7時から名古屋市中区の名古屋電気科学会館で開催された、佐藤由美ピアノコンサートを鑑賞してから自宅に帰り、11時から津島を出発して、仮眠後に明日からの坂東三十三観音がスタートします。
 
                                                   3月26日の一言

東京都東大和市への行政視察へ

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 添付した写真は東京都立川市にある多摩モノレール立川北駅で、本日は津島市議会青風会(3人)の行政視察に、東京都東大和市を訪れており、中央線立川駅からモノレールに乗り換えて上北台まで乗車しました。
 
 東大和市への行政視察は、「不登校対策プロジェクト」についてで、平成19年をピークに増大した小中学校の不登校問題を、宮崎大学大学院の小野昌彦教授の指導を得て、昨年度までに半減させた成果を聞くとともに、津島市の現状も共通テーマとして質疑応答を繰り返しました。
 
 私の母校となる中学校でも不登校問題は20年来の課題で、最近は減少しているものの、教育現場と行政と専門家が一体となった取り組みは大いに参考になると思われ、私も視察でいただいた資料を津島市で活かすように働きかけたいと思います。
 
イメージ 2 右に添付した菓子は、「うまべえサブレ」と言い、東大和市のキャラクターをお菓子のサブレにしたもので、市役所で全面的にPRされていたことと、食べて美味しかったことから、販売されている値段も解らないまま無責任に紹介した次第ですが、イチゴの香りもして本当に美味しい逸品です。
 
 さて、添付した多摩モノレールの立川北駅は、平成9年から7年間にわたって私の長男が沿線にある中央大学に通っていたことから、アパートを訪ねる際には沿線にある大塚・帝京大前駅まで利用した懐かしい駅で、息子のアパートがあることから、宿泊代がいらないため沿線の行政を訪ね歩いた懐かしい思い出がよみがえってきました。
 
 日本一の病院を目指した稲城市や、息子の住んでいた日野市、八王子市、三鷹市、武蔵野市などを回り、東村山市や武蔵村山市を市役所に届けた公的な視察や、個人的に議員とも告げずに訪れた懐かしく恐れも知らない当時がモノレールの車窓から思い出されました。
 
 そうやって考えると、息子が卒業して以来東京近郊とは疎遠となっており、やはり当時の思いであった、東京近郊の行政の実績は、間違いなく地方都市の先鞭となる事例が多いことから、改めて注目したいと思う一日ともなりました。
 
                イメージ 3                                                       本日の視察は、テーマを担当する教育委員会の統括指導主事と、指導主事の先生2人によってきめ細かい説明がなされましたが、私が驚いたのは東大和市議会の尾崎信夫議長が、最初から最後まで同席されていたことで、私が議員になった平成11年から各地を視察してきて、議長は最初の挨拶だけで退席される慣例が当たり前の中で新鮮に映りました。本当にありがとうございました。
 
 明日は、江東区にある東京臨海広域防災公園を視察して名古屋に帰りますが、明日の夜にはピアニストの佐藤由美さんのピアノコンサートが中区で開催されることから、コンサートを鑑賞後の帰宅となり、夜11時には遍路仲間と坂東三十三観音のため神奈川県まで車を走らせる荒行とも思える一日が継続していきます。
 
                                     3月25日の一言

息子に連れられてボディケアへ

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 本日は三男が休日のため帰ってきましたが、三男は柔道整復師として桑名市で働いていることから、「どうせなら、息子に料金分支払って背中を押してもらおう」と数日前から考えていると、息子は早朝より実業団のチーム時代のユニフォームを着て、自転車で家を飛び出してトレーニングに出ていました。
 
 元々が、自転車のプロ志向が強かった三男に、資格を取ってケガをしても困らない環境になってから自転車をやるように勧めたのは私で、一時は実業団の最高クラスで走れるまでになっていたものを、国家試験と勉強のため2年間封印してきたのが自転車でした。
 
 高校の同級生で競輪選手となっている友人の自転車を譲り受け、自分に合わせて調整を依頼してあった自転車が完成し、1ヵ月前から毎日2時間ずつ室内に置いたローラーに乗っており、現役時のスピードが甦っているようです。
 
 「おい、背中を押してくれッ」の一言に、「だめだ、練習のしすぎでやって欲しいくらいだ」と言われ、家族には運動不足とか、バッティングセンターかボーリングでも行ってきたらと言われる始末でしたが、息子が仕事の参考にするためマッサージ店や治療院に行く事も趣味にしている事から、一緒に同行していくこととなりました。
 
 息子や家族の話では、あまりにも酷いレベルのお店では三男が苦言をはく場合があると聞いていたので気乗りはしませんが、背中や肩が凝っていることが原因で、最近では頭痛も伴っているため有無を言わずに同行です。
 
 我家から車で5分の距離に、手もみリラクゼーションのお店があり、中に入ると予約が無いため40分程度の待ち時間が必要と判り、私は待つ気満々ですが、息子が「それだけは待てない」と断ってしまい、情ない話ですが息子の後ろから続きます。
 
 息子は近くのお店を探して行く気満々ですが、今度は私が遠くまで運転して行く気力がなく、一度は自宅に戻ったものの、息子が運転して乗せてもらえることになったため、息子の行くお店に連れていってもらうと、車は稲沢市まで走っていきます。
 
 「こんな遠くまで来るなら、さっきの店で待っていても一緒だろう」とグチも出ましたが、最近は明朗会計で時間と料金が表示してあり、慢性疾患を隠して仮病で健康保険を使う接骨院よりは効果に期待ができそうです。
 
 本日訪れた最初の店は、15分850円で全身もみほぐしが可能で、2店とも30分1600円程度、45分で2300円、60分でも3千円から20円のおつりがもらえますから、週1回程度のボディケアには手頃な料金と思います。
 
 本日は2人とも45分のコースを選択したものの、私はもう少しケアが必要と考えていると、辛口の苦言を言うはずの三男が、「意外に腕の良い施術だった」と言い、今度は60分コースのほうが良いと思われます。
 
 寝不足と過度に仕事を貯めすぎたため、身体は固く悲鳴をあげており、明日から一週間続く東京、神奈川、千葉の行動には十分な睡眠が課題となり、来週末(月末)に残された仕事を完結して四月を迎えたいと思います。
 
                                    3月24日の一言

我家のアンズがブログに紹介されて…

今朝「杏」の花を写真撮らせていただきました。
毎日見ながら通勤しているのですが、散り始めているので慌てました。有り難うございました。
 
 昨日の一言に対するコメントですが、本日の朝早くから我家のアンズを写真に収められただけでなく、早速ご自身のブログに我家のアンズを紹介していただいておりましたので下記に添付しました。是非ともご覧下さい。
 
 
 このブログ運営者は私と同じ津島市の同世代の方で、直接お話した事はありませんが、毎日津島市と名古屋市の学校まで趣味の自転車で通勤(デジツウ)しておられ、鈴鹿サーキットで行なわれるロードレースや、伊吹山や乗鞍岳で行なわれた山岳レース(ヒルクライム)にも出場されており、車に当て逃げされた骨折後にも自転車にカムバックされている脅威の体力を誇る人物です。
 
イメージ 1 氏のブログにも記されておりましたが、アンズは花は一瞬ですが、1ヵ月後に黄色から桃色となる見事な実が熟し、当初は酸っぱいため砂糖を混ぜてジャムにするしかありませんでしたが、木の成長に伴って年々甘味が増し、最近では実をそのまま口にしても美味くなり、庭の奥にあるアンズは実も大きく、長野県の産地で売られているアンズと遜色ないものになってきました。
 
 さて、例年ですと、サクランボが花を咲かせてから一週間後にアンズが開花し、庭の奥にあるアンズはその一週間後に開花していた事から、サクランボが熟してから同じ感覚でアンズも実が熟していましたが、今年はほぼ一斉に花を咲かせたことから、実も一斉に実る可能性が高く、次々と落ちてくるアンズを考えると地獄の苦しみがやってきそうです。写真は昨年のアンズです。
 
 毎年の繰り返しとなりますが、アンズは熟する前に採っては甘味が薄く、熟したと思った頃には簡単に落ちてしまい、実が柔らかいため落ちると傷だらけとなり、傷つくと果汁が出てしまいますから、アンズの収穫は大変な作業となります。
 
 昨年は大きな網を購入して、木の下にぶら下げたものの、落ちたアンズの重みで広範囲をカバーできずに失敗していますから、今年は更に大きくて軽い網を買ってみようと考えていますがどうなることやら…
 
 それよりも、全部収穫すると食べきれる量ではなくなり、全部をジャムにすると詰め込むガラス瓶も大量に必要となり、何よりももらってもらえないことには処理しきれず、売る気で考えなければ収穫する気力も続かず、放置すれば庭中にアンズの匂いが腐って土になるまで香りますから大変な季節を迎えることにもなります。
 
 サクランボはギャングと化したムクドリの群れが綺麗に食べてしまうので、こちらは食べられてしまう口惜しさから怒りが込み上げてくるものの、アンズはカラスに突かれて傷物になっても、大量に捨てる以外に方法は見当たりません。
 花と実を楽しめる半面で、家族は後始末に追われますから、近隣の方々には是非とも収穫に来て欲しいものですね。
 
                                   3月23日の一言 

田舎と故郷を感ずる一日となり

イメージ 1 本日は、今年1回目となる3月議会が終了しました。ひとまず、ヤレヤレ。
 
 我家のアンズ(杏)が満開となっており、庭の奥にあるサクランボの花はほとんどが散ってしまい、この事務所前のアンズと、庭の奥にあるアンズが残ってはいますが、来週の月曜日と火曜日は東京に出向き、水曜日から金曜日までは神奈川県と千葉県を訪れる予定になっていることから、時間に余裕ができた頃には花が散ってしまった無残な姿を残していると思われます。
 
 もっとも、サクランボもアンズも花が散るだけでなく、1ヵ月後には果実が実りますから、存在感がありますが、添付したアンズは屋根を越えて、電線より高くなっており、庭の奥にあるアンズは2階の屋根を越えるだけでなく、添付したアンズの倍以上の大木になっており、ハシゴも届かない高さゆえに、結実した実がゴンゴンと落ちる頃には隣の家にも迷惑をかける存在となっています。
 
 朝日新聞の地域版に、「里山体験交流祭り」なる記事が掲載されており、内容は愛知県豊田市にある田舎暮らし体験館「すげの里」が、田舎暮らしに興味のある人は、気軽に参加してほしいと呼びかけている。
 
田舎暮らし、来て見て体験して 愛知・豊田で24日
 
 今から30年ほど前の話となりますが、私も田舎暮らしに憧れて、岐阜県や長野県に友人を連れ立って出向き、美濃白鳥地区では空家になっていた家を借りようと交渉したり、岐阜県や長野県の山村で廃校となった学校を調べて借りようとしていたことが懐かしく思い起こされました。
 
 最近では、書店の本棚に田舎暮らしやアウトドアの本が溢れるように並んでおり、ついつい手が出てしまうものの、若いときに憧れていたような田舎暮らしを実現するためには、本日添付したアンズやサクランボなどは勿論ですが、先祖から引き継いだ土地や家を処分してから考えないと、留守にする資産にかかる税金と二重払いいなることから考えると苦痛になってきました。
 
 私の知人の中には、定年後の移住を目的にして和歌山県や岐阜県に別荘を購入した人達がありますが、共通して別荘は空家状態となっており、売りたくても買い手がないばかりか、利用もしないのに高額の管理費が必要となり、長野県に別荘を持つ知人に至っては冬季の除雪に100万円単位の費用を支払っています。
 
 騒々しい都会を離れて、自給自足や物価の安い田舎暮らしは憧れでもありますが、我家の畑すら行かない私が畑を耕すはずがなく、水洗便所でもウォシュレットがないと生活できない現実は、若い頃とは大きな感覚の違いを実感させられます。
 
宝暦治水の堤防跡 木曽川底で確認
稲沢の市民団体
 稲沢市祖父江町の木曽川に江戸中期の「宝暦治水」で築かれた堤防の跡が沈んでいるのを、市民グループの稲沢市郷土歴史文化研究会が確認した。17日に開いた報告会で説明した。
 場所は、国営木曽三川公園ワイルドネイチャープラザ付近、拾町野(じっちょうの)地区の川底だ。河岸からやや上流方向に、長さ約150メートル、幅約15メートルの範囲で杭や石が残っている。国土交通省などの協力で昨年9月に水中調査して確認した。
 調査した郷土史家の堀精宏さん(73)と斉藤茂さん(74)は、古文書や古図で場所や規模を照合し、「宝暦治水」の「猿尾(さる・お)」とみられると説明した。猿尾は本堤防から突きだした細長い補助堤防で、形が猿のしっぽに似ているため、そう呼ばれた。
 「宝暦治水」で築かれた猿尾は、対岸の岐阜県羽島市に「石田の猿尾」が残っているが、堀さんらによると愛知県側での確認は「拾町野の猿尾」が初めてという。
 遺構は、約1・5キロ下流に大堰(馬飼頭首工)ができた1970年代に水没した。それまでは目視できたが調べた人はいなかった。
 調査に協力したNPO法人木曽川文化研究会代表の久保田稔さん(67)は「猿尾はしばしば破損し、改築が繰り返されるのが普通だった。この猿尾にも改築の手が加わった可能性があるが、郷土史をめぐる意欲的な調査だ」と話した。(佐藤雄二)
 
 さて、上に添付した記事についても、私の高校時代の恩師(校長)が歴史の研究者であった事から、捨町野の河原についても私の出生地に近いため何度も訪れており、当時は下流の馬飼頭首工ができる前だったことから、自然にこの宝暦治水の堤防跡を見ていたようにも思いますが、記憶が定かではなく、確認したくとも恩師は鬼籍に入っておられるため確認もできないジレンマを感ずる一日ともなりました。
 
                                   3月22日の一言

やはり孫の姿が一番ですね

イメージ 1 津島市議会は明日が最終日となりますが、明日から4月の初めまでスケジュールに空きが無いため、本日は自分のかかりつけ医を受診し、当分は理髪店に行けないため出向き、人との約束や所用で稲沢市や津島市役所の窓口へ市民とともに訪れていると、帰宅は夜8時を過ぎていました。
 
 来週は月曜日と火曜日に東京近郊に会派の行政視察が予定してあり、火曜日の夜は知人のピアノコンサートが名古屋市であり、その夜11時には半年前に西国三十三観音を結願したメンバーと、「坂東三十三観音」に夜行で出発する約束になっている事から、帰宅する来週金曜日まで身動きができない事と、帰宅した土曜日には町内の親睦会の総会、日曜日には叔父のお寺の春季永代経があるものの、当日は津島市の施設がオープンし、午後には今年2月で閉店した茜屋さん最後となる「あかね寄席」が商工会議所で開催されますが家内の代理では笑うにも笑えません。
 
 「お父さん、明日は暇かなぁー」
 「どうしたんだ」
 「明日は保育所が休みだから…」
 「それで」
 「暇だったら、〇〇とどこかに連れていって」
 
 明日は孫が通う保育所の卒園式があるため休園となり、孫が休みとなるため娘も会社を休んでいるとの話で、孫と一緒に出掛けられれば家内より人気が一歩も二歩もリードとなるものの、明日から一緒に出かける時間も余裕もありません。
 
 そんな話をしていると、孫と愛犬のツーショットが送信されてきました。「そんなものを送ったら、今日のブログに載せちゃうぞ」の一言に、「それは困る」の返信がありましたが、「載っても何も実害はないだろう」の一言で、添付した次第です。歳を重ねると、相棒(我家の愛犬)と孫が一番の癒しとなります。
  
昭和21(1946)年4月 (昭和史再訪)旧満州から引き揚げ開始
 【牧村健一郎】昨年(2012年)12月、東京・新宿のホテルで「日本長春会」の忘年会があり、70人が参加した。
 旧満州(中国東北部)の首都、新京(現・長春)に住んでいた日本人の会で、今や平均年齢は80歳ほどになる。それでも忘年会には新たな参加者が数人おり、思い出や引き揚げの苦労を語った。
 会長の磯部荀子さん(85)が福岡の博多港に引き揚げてきたのは1946(昭和21)年10月末、18歳の時だった。新京では南満州鉄道(満鉄)に勤めていた。ソ連参戦の数日後、父を除く家族9人で朝鮮との国境へ疎開。1年あまり難民に近い生活を送った。
 引き揚げが決まると、指定港の葫蘆(ころ)島まで満員列車に乗った。途中、何度も列車は止まり、山道を歩かされた。脱落する人もいた。乗船すると、日本人船員から銀シャリのごはんをもらった。
 「今日一日を無事過ごせたらいいと思っていた。博多港に着いた時はさすがにほっとしたが、帰国の喜びより将来への不安が大きかった」と振り返る。博多駅から親類のいる金沢にむかった。
 旧満州からは、46年4月から1年半で105万の日本人が引き揚げてきた。世界史でも珍しい規模の難民帰還活動だと言える。どのような手順で実施されたのだろうか。
 45年8月、日本政府はポツダム宣言を受諾すると在外邦人の現地定着方針を決めた。本土は焼け野原で食糧も足りない。現地でなんとかしてくれというのが本音だった。
 一方、米軍は終戦前に参謀総長と在華米軍総司令官の間で、早期に帰還させる方針を決めていた。日本人、特に軍人をはやく本国に追い返したいという考えだった。
 終戦時、中国本土には100万の武装した日本軍がいた。彼らが国共内戦で傭兵(ようへい)化したら大混乱になるとおそれたのだ。そのため中国本土からの引き揚げは比較的順調に進んだ。
 だが、ソ連軍が支配した旧満州は取り残された。ソ連兵の略奪、暴行が頻発し、治安は極度に悪化。ソ満国境から着の身着のままの開拓団民が都市部に流れ込み、難民化した。病弱者は次々と死んだ。各地で日本人会が組織され、難民救済にあたった。
 引き揚げが始まったのはソ連軍の撤退後だ。東京の連合国軍総司令部(GHQ)の指示で、中国国民党の軍や行政組織が引き揚げ時期、順番などを各地の日本人会に通達、日本人会は隣組などを通じて各家族に連絡した。移動は社宅などのブロック単位でおこなわれ、列車で葫蘆島に向かったのだ。
 終戦から引き揚げまでの旧満州における死者は24万5千人に達し、中国本土や台湾に比べ段違いに多かった。ソ連軍の侵攻、治安の悪化、寒さや食糧不足が原因だった。今に続く残留孤児問題も、このときに発生した。
 国文学研究資料館助教の加藤聖文さんは「中国本土や旧満州からの引き揚げは、中国から日本の勢力を一掃するというアメリカのアジア政策の一つで、マッカーサーの人道主義や善意ではない」と指摘する。国際政治の枠内で決まり、占領下の日本政府は何もせず、何もできなかった。
 「個人個人の体験談は多いが、それが国民の共通の記憶、歴史認識になっていない。だから近隣諸国の人々から歴史認識を問われると、うまく答えられない。なぜ多くの日本人が旧満州にいたのかを含め、全体像を知る必要がある」と加藤さんは言う。
 博多港に赤い大きなモニュメントがある。敗戦後、中国大陸や朝鮮半島から引き揚げてきた139万人、ここから中国や朝鮮に帰った50万人を忘れないため、戦後50年を機に、96年に造られた。歴史を風化させないためである。(牧村健一郎)
■終戦時、旧満州・大連に邦人155万人
 1945年8月時点で、旧満州と大連(関東州)には155万人、中国本土には150万人、台湾には33万人の日本人がおり、数年のうちに引き揚げてきた。日本の引き揚げ港は主に福岡県の博多と長崎県の佐世保で、京都府の舞鶴にはシベリア抑留者が帰ってきた。博多は日本人の引き揚げのほか、朝鮮や中国出身の人々を故国に送り出す港でもあった。
 今のソウルから博多に引き揚げてきた福岡市在住の森下昭子さん(85)は、この経験を語り継がねばと、引き揚げを記録する運動を続ける。「市民福祉プラザの1階に、資料展示のコーナーがあります。狭いスペースですが、公的、常設の展示がやっと実現しました」と語る。
■証言:中国との交流活動に取り組む国際善隣協会会長 古海(ふるみ)建一さん(79)
 新京(現・長春)に住んでいました。小学6年だった1945年8月、突然ソ連軍の侵攻が始まり11日の深夜、両親と別れ無蓋(むがい)貨車に乗りました。雨が降りだし全身ずぶぬれ、トンネルに入ると蒸気機関車の煙とすすで顔が真っ黒でした。
 到着したのは朝鮮国境に近い安東(現・丹東)でした。幸いこの町で母と再会し、半年後には長春に戻りました。46年8月末、再び無蓋貨車で引き揚げ指定港の葫蘆(ころ)島へ。そこから米軍の船に乗りました。
 帰国上陸したのは佐世保湾の針尾島です。頭から殺虫剤DDTをかけられて真っ白になり、初めて見たアメリカ兵が珍しかったことが記憶に残っています。
 10年ほど前、そのあたりを訪ねましたが、丘の上に記念館が建っているほか痕跡もなく、隣接のテーマパーク、ハウステンボスのスマートな建物群との対比に時の経過を感じました。
 佐世保からは列車で父の実家の京都へ向かいました。途中、車窓から見た焼け野原の広島に衝撃を受けました。
 敗戦を境に当たり前のことが当たり前でなくなる、価値基準が全部ひっくり返るという経験は、強烈でした。混乱の中で人間の原形を見たようにも思います。敗戦と引き揚げは、日本が無理を重ねてきた歴史のとがめが、強烈な形で出た、その体験であったと思っています。   
                                             3月18日 朝日新聞 
 
 さて、旧満州からの引き揚げに関する記事が朝日新聞にあり、私の亡くなった父親が昭和17年に14才で満州に渡り、満鉄職員として戦後日本に還っており、記事を記録するとともに、父親は満鉄職員の「吉林(ちいりん)会」に入って旧交を温め、中国語を学びなおして退職後に中国と行き来していた思い出も記したいと思っています。
 
                                     3月21日の一言

花は満開でも、心境は東電への怒りへ

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 昨日の一言に、我家のサクランボやアンズの花が満開になったことを記しましたが、本日のテレビニュースでも東京の上野公園で花見をする人々が放映されており、最近まで記録的な積雪で事故や被害が報道されたいたことを忘れてしまうような春爛漫を実感させられます。
 
 本日は祭日のために行楽客が多く、私の地域でも車が渋滞していましたが、あいにくと雨が降りしきる一日となったことと、夜になってから「春〇番」となる強風が吹いていることから、一瞬にして満開となった我家の花々が地面に叩きつけられており、明日の朝を想像すると辛いものがあります。
 
河津桜が見頃、家族連れでにぎわう 愛知・岡崎
 
 愛知県岡崎市で河津桜が見ごろになっている報道が本日ありましたが、この河津桜は例年より半月ほど開花が遅れていたらしく、最近の暖かさによって一気に満開を迎えたようで、名古屋市ではソメイヨシノが開花しており、我家同様に全ての桜関係の花々が一斉に咲き誇っているようです。
 
蜂須賀桜、今年も公開 徳島の原田家住宅で16・17日
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 桜の保存活動をしているNPO法人「蜂須賀桜と武家屋敷の会」が主催する毎年恒例の催し。今年は原田家住宅の庭園内に新しい通路が設置され、住宅と桜が一枚の写真の中に収まる「特別観覧ゾーン」を設ける。
 県観光協会によると、蜂須賀桜は樹齢約250年。徳島藩主・蜂須賀茂韶が大切にしていて、明治維新時に徳島城御殿にあった桜を藩士の原田一平に託したとされる。カンヒザクラと山桜の交配種で、開花時期が2月下旬頃と早いため花を咲かせる期間が長く、葉桜になった状態も美しいという。今週から見頃を迎えており、公開期間も見頃が続くという。
 入場無料。公開時間はいずれの日も午前10時~午後4時。抹茶とぜんざいの販売(500円)もある。問い合わせ先は県観光協会(088・652・8777)。16、17日は原田家(088・625・8739)。
 
桜開花宣言「日本一と同着」 高知・宿毛の標本木
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 昨年は3月21日に高知市の標本木が2年ぶりに全国で最も早く開花。宿毛市は24日に開花した。「今年こそ単独1位を」と狙っていた市担当者は、福岡市に敗れたことを知り、「やはり先週末の暖かさでしょうね……。参りました」。しかし午後になって開花が判明し、福岡市との「同着」に大喜びした。
 宿毛市片島の測候所にあった標本木は何度も全国で最も早い開花を記録していたが、2001年に測候所が廃止となったため、「公式記録」と認められなくなった。そこで市が独自に標本木を定め、「1本の木に5輪以上」の開花基準を設けて市職員らが観測。今年は11日から観測を続けていた。
 宇和島市の測候所も05年に無人になり、開花宣言の対象外に。同じ境遇の宿毛市と、毎年日本一早い開花を競っている。
 
 昨年の同時期の一言を読み直していると、桐生市からハーブの「ホワイトセージ」を買い求めて植えたり、各地からハーブやイチゴの苗を購入しており、一年前の自分の関心事と現在の心境の大きな変化に驚かされ、アベノミクスで世の中が明るくなっているようにはなっていない私と我家の厳しさを実感させられます。
 
 さて、東京電力の福島原発内で起こった停電により、冷却設備が止まって危機的状況に陥っていた問題は、停電の原因とみられる仮設配電盤の近くに、焼け焦げたネズミのような小動物の死骸が落ちており、このネズミ一匹が原因と特定されれば、原発の最悪の危険性を想定すると2年前の反省どころか、あまりにもズサンな管理体制に驚かされます。
 
 地震や津波の自然災害の延長と思われていますが、遅れながらも復興に向けて歩みかけている東北地方とは違い、福島の仮設住宅の人々や、土地を奪われて仕事に戻れない人々は、原発による人災によって自宅に戻れない現実から、東京電力が倒産してももっと確実に保障を求めるべきで、人ごとのように事故を発表している東電社員から責任のカケラも感じられません。
 
 本日も我家のアンズやサクランボの開花を記しましたが、福島県の立ち入り禁止区域でも桜の花が咲いていくことを考えると、家を追われている人々の悔しさは他人事ではなく、「ネズミ一匹」によって世間の大問題としている東電にも怒りを覚えます。
 
                                    3月20日の一言

一晩でアンズも満開になっており

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満開となった我家のアンズの花です
 
 我家にはアンズの木が2本あり、例年だと添付した事務所前のアンズが咲いてから一週間後に、庭の奥にあるアンズの花が開花するのですが、今年は急に暖かくなったためか、サクランボもアンズも一斉に満開となってしまいました。
 
 今年は寒さが厳しかったことから、梅の開花が遅れており、現在でも満開状態で花が残っていますが、日曜日にサクランボが満開になった事から、例年なら来週の日曜日に事務所前のアンズが満開となり、その一週間後に庭の奥にあるアンズが満開となるのが例年のスケジュールでしたが… 
 
除草剤専用のジョウロで水やりをしてしまい  12年4月3日
                       http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/46177588.html
アンズが実りました 12年6月3日  http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/46342968.html
 
 昨年の一言を見直すと、4月3日の一言に、「満開を前にして」の記載があることから、我家では昨年より2週間早い満開となっており、例年のスケジュールを当てはめると5月中旬にはアンズの実が熟すことになりそうです。
 
 しかし、例年なら3週間にわたって花見が味わえたところ、今年は一週間で一瞬にして終わってしまいそうで、ゆっくりと花見ともならない不意打ちのような気候に、私の身体もついていくのが大変で、風邪か頭痛か、なるはずのない花粉症かと、体調不調の日々にも悩まされます。
 
 さて、3月議会も22日が最終日となり、最終日に発表する文教建設委員会の報告書を昨晩に完成させ、本日未明に議会事務局に電子メールで送信しました。これで一段落と思いたいものの、来週からは全く休みもない日々が連続します。
 
                                     3月19日の一言

2年後のF1にホンダが参戦するの報道に

 F1レースで6年連続でコンストラクターズ(製造者部門)チャンピオンを獲得していたホンダが、2年後のF1に参戦することを前提として、F1用エンジンの開発に着手しているとの記事が、本日の朝日新聞一面のトップ記事として掲載されていました。
 
ホンダ、F1復帰へ 15年にも エンジン開発に着手
記事の続き…
 マクラーレンは現在搭載しているメルセデス製エンジンの供給契約が14~15年で終了する。その後のホンダエンジン搭載を検討しているとみられる。
 ホンダは過去3度F1に参戦。エンジンのみを供給した「第2期」は86~91年に6年連続でコンストラクターズ(製造者部門)チャンピオンを獲得するなど、イメージ向上に一役買った。しかし00~08年の「第3期」は1勝にとどまり、リーマン・ショックのあおりで撤退した。
 昨年から欧州を中心に復帰のうわさが取りざたされるようになり、復帰の可能性を問われた伊東孝紳(たかのぶ)社長が2月、会見で「一生懸命、勉強している最中です」と発言。動向が注目されていた。
     ◇
 〈フォーミュラワン=F1=〉 タイヤがむき出しの「フォーミュラカー」による自動車レースの最高峰。1950年に始まった。世界各国のサーキットを転戦し、1~10位の着順に応じてポイントが分配され、年間の累積ポイントでドライバーとチームの王者を争う。2013年シーズンは15日に開幕し、三重・鈴鹿での日本グランプリを含め、計19戦が予定されている。
 
 5年前にF1から撤退したホンダに続いて、翌年にはトヨタもF1から撤退しており、かつてアイルトン・セナや、アラン・プロストのドライバーによって、年間16戦のうち15回の優勝を飾ったホンダの復帰には、リーマンショックによって冷え込んでいた日本経済の復活も予感させられます。
 
 F1と言えばホンダで、モータースポーツも鈴鹿サーキットを中心に日本のレースを引っ張ってきたのがホンダで、私自身にレース経験はありませんが、数年前から知人のガレージに預けっぱなしとなっている修理中の自動二輪も、今年の連休には復活する予定を立てています。
 
 さて、私はトヨタの本拠地となる愛知県に住んでいますが、企業イメージはホンダのファンで、それは高校時代に読んだ田中健二郎さんの「走り屋一代」に記された、ホンダのレース創生期の本田宗一郎氏と健さんのやりとりに影響されていると思います。
 
 
イメージ 1 田中健二郎氏は、ギャンブルのオートレース出身者で、ホンダでは3人目となる契約ライダーとなります。
 昭和35年にドイツで行なわれたドイツグランプリで3位に入ったのが、日本人として海外レースでは初めての日の丸になりました。
 
 その後、海外連戦中のアルスターグランプリで瀕死の重傷を負い、二輪レーサーとしてのカムバックを目指したものの、「健二郎、お前コーチをやってくれんか。うちには国光と北野しかいない。若手を育てるんだ。若いもんに、勝負というものを教えてやってくれ。若いもんの心の支えになってくれ」との本田宗一郎社長の言葉で引退します。
 私は引退後のホンダで、健二郎学校として渥美勝利、粕谷勇、長谷見昌弘、大月信和、加藤爽平、片山義美といった名ライダーを指導した頃の健さんと本田社長のやりとりに同じ釜の飯を食った者同士の人間味を感じさせられます。
 
 「私のいた当時の、本田技研は、清水次郎長一家に匹敵する一家であった。その中で、私は森の石松的役割を演じてきたが、たしかこの頃から大組織となり、昔ふうの親分、子分の考え方では、片のつかない問題もあった」と「走り屋一代」にも回想されていますが、本田宗一郎を親分として多くの名ライダーが育っています。
 
 かつての世界チャンピオン、アイルトン・セナも本田社長とは相思相愛で活躍しましたが、そのセナも、本田宗一郎も、田中健二郎も天国に召されており、ホンダの創生期に一丸となってサーキットを走った走り屋の伝統を、2年後のF1に参戦よって再現してもらいたいと熱望しています。私にとっては明るい話題となりました。
 
                                  3月18日の一言

四国酒蔵88箇所巡りが新聞に

 香川県高松市の酒店の店主が、「どうしたらお酒に興味を持ってもらえるか」と若者の日本酒離れを考える中で、四国遍路をヒントにした四国酒蔵88箇所巡りを考え、四国4県の酒蔵を説得して完成させたとの発信がありました。
 
酒蔵、鉄道…四国88カ所巡礼 高松市の酒店社長が考案
記事の続き…
 アイデアが次々とわく一方、負担に感じた酒蔵から協力を断られることも増え、88カ所になかなか届かない。繰り返し説得し、約1年後の2008年2月、ようやくホームページを完成させた。
 ネット上で名前を登録した「巡礼者」は、ダウンロードした「納経帳」にスタンプを集め、最後に地元の各酒造組合に送れば「酒神」の認定証がもらえる。これまでに約1千人がエントリーし「予想以上の反響」。さすがに結願したのは約60人だが、佐藤さんは88カ所をめぐる面白さにすっかりはまった。
 酒蔵の説得行脚で疲れた体をいやしたのは、行く先々の温泉。「思った以上にたくさんあるな」と気づき、温泉の88カ所も探すことに。ん、待てよ、何でも88カ所を集めて紹介できるんじゃないか――。
 友人らに声をかけ、昨年6月に「四国なんでも88箇所巡礼推進協議会」を設立。JR四国の社員やウェブ制作会社の経営者ら、「四国愛」を自任する12人がメンバーに名を連ねた。
 「温泉」「駅と車窓」「ダム」――テーマが決まると、メンバーがそれぞれのテーマに詳しい人に声をかけ協力を依頼。情報を持ち寄る会議を開き、88カ所を選ぶ。そこから先は佐藤さんの出番だ。実際に「札所」をまわって取材し、情報掲載の了解を取りつける。
 きちんと回ったか証明する仕組みに手を抜かないのも特徴だ。先月1日に開設した「駅と車窓」の場合、乗った電車と自分が一緒に写った88枚の写真データを協議会のメンバー宛てに送る。本物と認められればJR四国から「四国鉄神」の認定証が贈られる。
 みごと結願した時のごほうびは「自己満足。御利益はマニアからあがめられること」と佐藤さんは笑う。「でもひとつのテーマで88カ所を回ると、誰も気づかなかったディープな四国が見えてくる。古き良き日本が残っている四国でふるさとを再発見するチャンスです」
 今後も続々と新たな88カ所を紹介する予定で、すでに食堂、珍味、パワースポット、埋蔵金を探索している。
 
四国酒蔵88箇所巡り http://sake88.info/
 
 今年3月1日に発行した神守中学校の同窓会報に、私の地元で唯一となる酒造会社の社長を活躍する卒業生として紹介しましたが、日本酒離れに歯止めをかけるための営業努力と、地ビールや地産地消にこだわる新商品の開発など、日本酒を製造する立場からの苦労話を聞くこととなりました。
 
 今回の記事では、酒の販売店の店主のアイデアによって、四国4県にある88の酒蔵の参加によって酒蔵88巡りが完成しており、作る側だけでなく売る立場のアイデアも一緒にして考えればまだまだ可能性は開けそうです。
 
 今回の遍路をヒントにした酒蔵88箇所巡りは、日本酒だけにとらわれず、四国の山奥のダムや堰堤を巡る『四国堰堤88箇所巡礼』や、四国の鄙びた温泉を巡礼する『四国温泉88箇所巡礼』、四国各地に眠る埋蔵金伝説を巡る『四国埋蔵金88箇所巡礼』等を設定し、『四国パワースポット88箇所巡礼』や『四国妖怪88箇所巡礼』まで予定していると言いますから、四国経済全体への波及効果も大きそうです。
 
 新聞報道にも記されていますが、四国遍路に訪れるお遍路客は年間15万人と言われており、目的は八十八ヶ所のお寺への参拝と朱印ですが、利用する鉄道やバスから、食事や宿泊施設まで多くの地域経済を潤しています。
 
 私の住む愛知県津島市も、かつては繊維産業の盛況と連動して、多くの人々を呼び込み、尾張で一番の預貯金を誇る経済都市だったと言われていますが、繊維産業の衰退と都市計画の目測誤りにより、「貧乏」の一言がそのまま代名詞のようなイメージとなっています。
 
 今こそ、地域の特性を見直し、特産品が沈黙する前に活性化を考えたいと思う四国からの発信でもありました。
 
 さて、本日は古雑誌として我家の庭先に出されていた古本を自室に持ち帰り、改めて本の魅力を噛み締めておりましたが、この魅力についても私個人のこだわりでしかなく、書聖と言われる「王義之」の書から武帝に仕えた「周興」が選んで模写したと言われる「千字文」に関する本で、中国でも南朝から唐代にかけては非常に珍重されたと言われる千字文が捨てられようとしていました。
 
 現在の中国のイメージとはかけ離れていますが、今から1千500年前の南朝時代にこれだけの書の指南書ができていたことに驚かされ、過去の遺産を見直すこととでも信頼される両国関係に発展する可能性も感じますが…
 
                                   3月17日の一言

四国八十八ヶ所出開帳…中部国際空港

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セントレアで開催されている出開帳の会場内の様子です
 
 本日は中部国際空港セントレアホールで3月11日より開催されている四国八十八ヶ所めぐり出開帳に参加するため、午前9時30分に津島を出発して名古屋で娘夫婦と孫を乗せ、一般道で東海市から常滑市を経由して、めんたいパークで休憩後に空港連絡道路からセントレアへ午前11時に到着しました。
 
 セントレアの出開帳は、午前8時30分から3時間の第1部と、午前12時から3時までの第2部、午後3時30分から6時までの第3部に分かれており、私たちは第2部の前売り券を購入しており、12時前に会場入り口に到着したものの、入場者が満員で入れず、午後1時からの入場整理券をもらってその間に昼食タイムとしました。
 
 もっとも、1時間以上あった時間も、空港内の食事処は全て満席で入場待ちの行列ができている有り様で、6人分のテーブルを確保するのは不可能で、何とか空いたテーブルを見つけて、ハンバーガーと飲み物が昼食代わりとなりました。
 
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 さて、1時からの入場整理券をもらっていたものの、会場となるセントラルホールに着いた時には会場前に行列ができており、やっと会場内に案内されたと思ったら、会場に入るための待合室が右の写真のように満席になっており、ここでおよそ1時間が経過してしまいました。
 
 この待合室には、四国から持ってこられた大師像が安置されており、この大師像は、今年2月からスタートし、月に2回の歩き遍路によって全27回の行程で来年5月に満願となる「徒歩練行」のために開眼された像で、若手住職に背負われて公認先達とともに四国を巡行しています。本日の案内役であった第47番八坂寺のご住職とともに四国に戻され、18日から徳島の熊谷寺の近くまで巡行していきます。
 
 第3回 3月8日(金)~9日(土) 長尾寺~長野まで
 第4回 3月18日(月)~19日(火) 長野寺~東海寺まで
 第5回 4月4日(木)~5日(金) 8番熊谷寺~鍋岩
 第6回 4月15日(月)~16日(火) 鍋岩~文化の森(徳島市大谷町)
 第7回 5月14日(水)~15日(木) 文化の森~道の駅わきじ(那賀郡那賀町)
 第8回 5月24日(金)~25日(土) 道の駅わきじ~鯖大師まで
 
 今回の出開帳には、四国八十八ヶ所のお寺のご本尊(出開帳用)が並べられており、その前に敷かれたじゅうたんの上をご本尊の真言を唱えながら、お砂踏みをしながらお参りするわけですが、無料のお砂踏みとは違い、満員で600人に制限された入場者数と、1500円もの料金を支払っていることから、八十八番目のご本尊にたどり着いた時に時計は3時半を大幅に廻っていました。
 
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 会場の出口には大きな大師像が待っておられ、ここで最後の合掌とご真言「南無大師遍照金剛」を唱えて出開帳が終わりとなりますが、賽銭を持ち合わせない人のために賽銭代わりにもなる「納め札」が入り口に用意されており、千円と引き換えになっていましたが、我家は自宅から用意していった賽銭を使いました。
 
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 会場の出口付近では、関係者によって次々とカメラのシャッターが押されており、会場出口で「結願之証」とともに写真が手渡されますが、私は自分が大写しとなっていた写真も千円で購入しました。主催しているのが旅行会社のため有難いサービスです。
 
 国際空港内に会場がある事から、四国へ訪れる白衣姿のままでは訪れられず半袖の白衣姿の巡礼となったものの、四国と同じような気持ちで最後まで廻れる有意義な一日となりました。こんな環境の影響を受け、3才の孫が違和感なく手を合わせ、般若心経の出だし(途中まてですが…)をスラスラと口ずさむことに、有難さを感ずる一日ともなりました。
 
                                   3月16日の一言

外国人による事件に警鐘を…

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お城ではありません。愛知県庁です 
 
 本日は市役所の仕事を済ませるとともに、本日が最終日となった昨年の確定申告を済ませ、その足で昨年の政治活動の収支報告書を愛知県の県庁まで届け、久しぶりの県庁行きのため旧知の職員の職場も訪れて、NPO法人の近況報告と情報交換をして帰宅しました。
 
 昨年までは定期的に訪れていた県庁ですが、親しい職員が定年退職で次々と職場を去っており、自分より年長となる先輩が不在となると、年下の職員には知恵や助言を授かりには行きづらいものがあり、自然と足が遠ざかっていたようです。
 
韓国の僧侶ら、対馬を訪問 盗難被害の寺に別の仏像持参
記事の続き…
 仏像が観音寺に渡った経緯については「浮石寺には日本人が仏像や仏画を略奪したという記録が残っている。仏像も頭の部分が欠けているなど傷みが激しい。皆さんはどう考えるか」と述べ、略奪された可能性をにおわせた。
 これに対して、面会を拒否した観音寺の前住職、田中節孝さん(66)は「略奪したものであれば、あんなに大切にまつっているわけがない」と反論。「一刻も早く返さなければ、日韓の溝は深まるばかりだ」と話している。
 観世音菩薩坐像は昨年10月、観音寺から盗まれた。韓国の警察当局は今年1月、これらの仏像を密輸入した疑いで韓国人窃盗団の検挙を発表。仏像も押収した。日本政府は返還を要請したが、韓国の大田地裁が2月、日本に勝手に引き渡すことを禁じる決定を出していた。
 
刃物などで襲われ2人死亡 広島 殺人容疑で中国人逮捕
 
 
 長崎県対馬市観音寺から盗まれ、韓国で見つかった県指定有形文化財観世音菩薩坐像をめぐり、韓国の大田(テジョン)地方裁判所が日本に引き渡す事を禁じていたが、地裁に仮処分を申請していた浮石(プソク)(韓国・瑞山市)の僧侶らが14日、対馬の観音寺を訪れたと報じられている。
 
 新聞報道によれば、浮石寺の僧が現代作家が作ったという青銅製の仏像と女性の姿をかたどった3体セットの寺のマスコット人形を持参したというが、盗まれた仏像が戻ったわけではなく、日本人に略奪されたと主張していることから、竹島問題と同様に平和的解決は望めそうにはありません。
 
 一昨日広島県江田島市で2人が死亡して、6人が重軽傷をおった殺傷事件では、現場で暴れていた中国人技能実習生が、殺人と殺人未遂の疑いで現行犯逮捕されているが、4年前に愛知県蟹江町で起こった母子3人殺傷事件では、昨年12月に逮捕されたのも中国国籍の男であった。
 
 最近愛知県でも外国人による凶悪事件が増加しているが、蟹江町の事件で逮捕された男性(29歳)も、事件を犯した当時は大学に留学中の学生で、「侵入し、見つかったら殺すつもりだった」と供述しており、中国人は目的のためには手段を選ばない事と、人命に対する感覚と価値観が日本人とは大きな相違が存在します。
 
 長崎県対馬の観音寺から盗まれた仏像についても、仏教に関係するお寺を舞台に事件が起こっていますが、同じ仏教でもお互いに平和的に話し合うとか、双方が理解し合える解決策を見いだす気持ちが韓国のお寺に見られない事から、自らの希望をかなえようとしているとしか思えません。
 
 海峡を隔てているだけの近距離にあり、韓流ドラマによって相互理解が進んでいるように思われていますが、人の良い日本人は韓国から流入したドラマに酔わされているだけで、日本のテレビドラマや文化が韓国人に理解されているわけではありません。
 
 国際化が叫ばれる現代社会ですが、私の住む地域では中国人労働者の流入によって、夜のスーパーマーケットの買い物や、家庭から出されるゴミを巡るトラブルが増加しており、日本人も自己主張していかないと殺伐とした地域になる警鐘が急務と思われます。
                                     3月15日の一言

新聞報道が話題とされて…

 今月の3日の一言に、私がかつて発行していたミニコミ誌「ふるさとアサヒ」が、図書館の資料として当地方で発行された郷土紙の一つとして一冊の本に集録されたことを記しましたが、本日の朝日新聞で「大正時代の地域新聞を一冊に」と題して取り上げられていました。 
 
大正時代の地域新聞を一冊に 愛知・津島市立図書館
NPO法人まちづくり津島が運営する津島市立図書館が、大正時代に津島周辺で発行されていた地域新聞の紙面を「地方新聞集成 海部・津島 第一輯(しゅう)」にまとめた。郷土コーナーで閲覧できる。
 一昨年以降、津島市と愛西市の旧家で見つかった新聞から、編集しやすい同じ判型の9紙を複写し、600ページにまとめた。初の館蔵資料となった「関西新聞」は、津島の旧家で包装紙になっていたのが、「捨てるのもどうかと思って」と持ち込まれ、日の目を見た。
 編集した園田俊介副館長によると、大正から昭和前期、津島周辺には21の新聞社があった。「黒色解放運動」や「プロレタリア戦闘紙・大衆」など、広告を募集するはがきはあるが、実物が残っていない新聞もある。大半の新聞は、何度かあった毛織り産業好況期に誕生し、いつのまにか消えた。各紙それぞれ地元に密着し、個性豊かな紙面を作っていた。
 「尾西タイムス」は、経営者と出身地が近い加藤高明が率いる憲政会びいきを隠さなかった。社会問題の掘り下げが得意だった「尾陽新報」は、アパート家賃を値上げする津島の家主会や、財政難なのに天王川公園を整備しようとする町当局を批判した。「大日本新聞」は、津島芸者衆のゴシップ報道にも力を入れた。
 17日午前10時から図書館の大集会室で「大正時代の地元新聞 新たに発見された津島の新聞を読む」の題で園田さんが講演する。入場無料。申し込み不要。問い合わせは同館(0567・25・2145)。
 
 
 偶然ですが、この記事と添付された写真を見た人が、この中に私のミニコミ誌が入っているとは思わず、「こんな古い物が残されていたんですね」と言われて話題にされましたが、この中に昭和63年から平成5年まで発行していた私の新しいミニコミ誌が入っているとは言えず、聞き役に徹することとなりました。
 
 私のミニコミ誌を除く8紙は、大正年間に発行された「尾西タイムス(大正8年から10年)」をはじめ、「尾陽新報」、「尾州実業新聞」、「大日本新聞」、「津島新聞」、「関西新聞」の6新聞が集録され、昭和28年から35年まで発行された「愛知時事新聞」と「東海民衆新聞(昭和33年)」など、本格的な新聞が取り上げられています。
 
 印刷技術の進歩は著しく、最近では電子情報として記事を送信する事もできますが、大正時代や昭和期の新聞は紙原稿から一文字ずつ活字を選んで活版印刷されており、印刷の大変さと配布方法は勿論ですが、記事以上に大変な作業に大量の広告主の確保と広告代の集金が考えられ、当時の編集発行人の人脈の広さや、高度な社会的地位が推測されます。
 
 「おい、議員になる前の方が輝いていたぞッ」の一言は、私が朝日新聞の販売店主としてミニコミ誌を発行するだけでなく、朝日旅行友の会を主宰し、海部津島水郷釣り大会で尾張各地から釣り人を集めていた事などと議員活動を比較して言われた先輩の言葉で、議会でいくら頑張っても地域の人々に楽しみを与えていない現実を実感させられ、改めて議員の立場とは乖離したミニコミ誌の復刊を目指したい心境は持ち続けています。
 
 本日報道された郷土紙を集録した資料には取り上げられていませんが、津島市には元市長で県会議員も務められていた竹内節男氏が、政界引退後に発行されていた「日本津島」も2百数十号発行されており、「新聞の後継者ができたので安心だ」と言われた言葉や、元愛労評議長を務められた成瀬昇氏より、次の「ふるさとアサヒ」に掲載する原稿を預かったままに休刊している事を反省する一日ともなりました。
 
                                    3月14日の一言 
追伸
本日の津島市議会では総務協働委員会が開催され、審議は午後5時過ぎまで続いて散会となりました。

明治から残る小学校の松伐採の回覧に

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ちょっとピンボケですが、我家のサクランボです
 
 本日は委員会の合間の休日となり、昨日は帰宅も遅かったことと、夜の書道会も続いたことから就寝も遅く、ゆっくりと休んでいると来客が続き、来客があれば相棒が吼え続けることから、留守中はこんなに人が来ているんだと実感させられます。
 
 本来であれば今月1日に発行された母校の同窓会報に協賛いただいた広告主へ集金に訪れる必要がありますが、雑用に追われて日にち延ばしとなっており、予約をした日時に行けなかった歯医者さんにも行けず、昨日の早朝に歯の詰め物が取れたことから偶然に出向けましたが、確定申告も済んでおらず、綱渡りの生活が明日から続きます。
 
巨大たいまつに息災願う 愛知・津島の神社「開扉祭」
上の添付は朝日新聞  下は中日新聞の転載です。
イメージ 2巨大なたいまつの炎で災いを払う、春の神事「開扉(かいひ)祭」が12日夜、愛知県津島市の津島神社であり、激しく燃えるたいまつを担いだ男衆が境内を勇壮に練った。
 700年以上の歴史があるとされ「おみとまつり」とも呼ばれる。ヨシを束ねて作ったたいまつは長さ10メートル、直径1メートル。地元の消防団員ら50人が担いで楼門を駆け抜け「わっせ、わっせ」の掛け声で境内を進んだ。
 燃え残ったヨシは、虫よけや歯痛に効くと伝えられる。男衆が練り歩いた後のたいまつに多くの見物客が群がり「熱い、熱い」と言いながら抜き取った。 
 
 添付した記事は昨日開催された津島神社の開扉祭ですが、今年1月の一言にもポスターを添付するとともに、今年こそ訪れてみたいと考えておりましたが、昨日は委員会が夜7時過ぎまで続き、夜の書道会についても椅子に座るのが精一杯で、残念ながら今年も鑑賞に訪れることはできませんでした。
 
 さて、本日朝の話ですが、他の用事で母校である神守小学校の教頭先生から電話があり、地域の人々から寄せられていた小学校の同窓会が活動を休止することと、母校の創立以来植えられている松の大木が伐採されるとの話を確認しました。
 
 教頭先生の説明では、同窓会活動の限界から、役員総会において活動を休止(終了)する事を決め、同窓会費で剪定されていた松の剪定費用も無くなる事から、総会で伐採することに決めたとの話でした。
 
 同窓会の活動を休止するのは仕方ないが、松の伐採については同窓会だけで勝手に決めるのはおかしいとの私の主張に、「松は昭和58年に同窓会から寄贈されたもので、同窓会の総会で伐採を決めた」との説明がありました。
 
 学校は次々と教員が転勤し、教員も過去の歴史については関心が無いのかもしれませんが、この松は明治初頭に学校が統廃合される際に、私の住む村の「越冶学校」から訓導の教師とともに移植されたもので、昭和58年に「忍耐松」と記されて残された石碑は、校舎の鉄筋化で新築される際に、我々が在学した頃に生えていた玄関前から移設された記念碑と思われます。
 
 当時の校長先生が移植した松が枯れないように毎日のように根元に日本酒を注がれていた話も、今では知る人も少なくなっており、私は現在は中学校の同窓会長となっていますが、昭和58年頃には小学校の役員を務めており、当時は松の剪定に同窓会費が使われていませんでした。
 
 私の推測では、大きな松の剪定には費用がかさむことから、同窓会費が流用されるようになったと思われ、かつては学校の管理費で賄われていたはずで、同窓会役員の年齢が若くなっていることから、過去のいきさつを全く理解することなく伐採を決め込んだようです。
 
 仮に明治20年に松が移植されていたとすると、樹齢は江戸時代から換算される可能性も高く、我々の住む地域には東海道の熱田と桑名の海路を避ける人々の陸路として佐屋街道が存在しており、この松はその頃から残る文化遺産でもあります。
 
 同窓会の活動休止と、松の伐採については、各町内会の回覧版にも回覧されておりますが、ほとんどの人々が伐採される松がかつて玄関前に植わっていた松とは認識されておらず、「総会で決めたことだから…」の一言で伐採されては堪りません。
 
 一方で、各地の同窓会活動が窮地に陥っているのは現実問題で、私が会長を務める中学校でもジリ貧は否めませんが、こんな豊かな世の中では、大きいといっても松を1本残す程度の地域力は存在しており、問題は誰がその地域力を結集するかどうかの問題です。私も20年前に務めていた役職に戻る元気はありませんが、何とか先人や先輩から引き継いだ松を残したいと奮闘するつもりです。
 
                                  3月13日の一言

ヘソクリが定期預金に化けてしまい

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 本日は津島市議会で文教経済委員会が開催され、夜7時11分まで審議が続くロングランの委員会となりました。委員会で議案を説明する課長や部長の中には、今月で定年退職を迎える職員も存在し、私と同年の職員はあと1年先の退職になるものの、民間に勤める同級生の中には来月4月に60歳の定年を迎える人物もあり、これからの一年間は目まぐるしい一年間になりそうです。
 
 添付した写真は、本日届けられた定期預金の証書で、日頃から大嫌いと発言している農協のJAバンクの証書のため「何故」と言われそうですが、貯金を勧められたのは大学時代に我家でアルバイトを続けていた農協職員で、現在は部長職にあると聞いて嬉しさから必死にかき集めた定期預金でもあります。
 
 私は昭和52年に朝日新聞販売店を起業しましたが、私が当時現役の大学生であったことから、若い学生アルバイトが多く集まり、連日のモーニングコーヒーだけでなく、夜や休日には車や単車を繰り出して遊んでいた関係は、雇用主と使用人の関係ではなく、一緒に働いて遊んだ仲間のような関係だったと思っています。
 
 年齢の経過とともに、PTAなど公的な役職をもらい、働く人々も女性が主体となりましたが、起業してから数年の間に働いていた学生が、社会に出て各方面で活躍しており、時々再会して懐かしい昔話に花を咲かせられるのは最高のひと時でもあります。
 
 もっとも、この定期預金のためにかき集めたお金の出所は、家内に内緒にしてある預金通帳からではなく、本当に「ヘソクリ」のようにして隠してあった現金であった事から、家族にもその存在を知らしめてしまい、自分の使える貴重な資金を失ってしまった事にもなります。
 
京都・祇園暴走事故、運転手の雇い主を書類送検
 
 昨年4月に、京都・祇園の繁華街でてんかん患者の運転する軽自動車によって、通行人19人がはねられ死傷した事故で、京都府警は運転者を雇用していた女性経営者を業務上過失致死傷容疑で書類送検し発表したことが報じられている。
 
 実は、私もかつて「てんかん」の持病を持つ高校の後輩で、大学では先輩となった知人が仕事に就けず困っていたため、「てんかん」の持病があるとは知らずに雇用したことがありました。
 
 雇用してからしばらくして、彼に与えていた車が田んぼに飛び込む事故が起こり、その後も危険な運転が続く事から心配していましたが、仕事の最中に度々パチンコをしていた事が発覚し、怒り心頭で注意していると、私の前で突然倒れて全身を痙攣させました。
 
 「てんかん」であると感じたものの、本人は必死に否定し、高校時代から知っているだけに解雇もできないものの、安心して仕事にも出せない状況となり、病院に行くよう勧めると、「てんかん」では無いものの既に病院に行っていることを話しました。
 
 私が雇用するまで求職期間が長かったことから、私は「てんかん」と確信したものの、病院に行って医師から薬を処方されており、精神的に追い込まなければ仕事もこなせるため、辛抱して使っていましたが、危険なため単車にも乗せられず、車による集金や営業だけでの使用には限界がありました。
 
 こんな怖い関係が続きましたが、とても高校時代や大学時代とは人が変わって幼稚になっており、言われた事しか仕事ができず、遊び好きのため気を許すとパチンコに通い、負の連鎖のような腐れ縁で雇用していました。
 
 こんな関係も、貸し与えていた車の床が抜ける事故があり、関係者に聞くと普通の運転では起こらない故障のため、乱暴な運転が原因と指摘され、彼を問い詰めているとやはり病気が原因としか思えず、「子供の仕事じゃないぞッ」と発した私の言葉に腹を立てて自分から辞めていきました。
 
 高校の後輩であり、悲しい別離でもありましたが、その後に病状は悪化の一途をたどり、度々倒れて骨折して入院をしたり、行政の保護と介護を必要とするようになり、最後に連絡があった時は市外の福祉施設に入所していました。
 
 報道された京都の事例は詳しい事が判りませんが、病気を隠しておれば雇用主にも判らず、仮に判ったとしても「即解雇」とは言いにくく、本人も症状が安定しておれば「てんかん」とは言う必要もないことから、症状が悪化するまで放置される例が多いのではないかと推測されます。
 
 懐かしい雇用関連から長文と化してしまいました。
                                 3月12日の一言

県道を渋滞させた迷い犬を飼い主へ届けて

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本日、保護して飼い主に届けたポメちゃん
 
 本日は津島市議会では厚生病院委員会が午前9時より開催され、昼休みをはさんで午後3時30分まで続きましたが、昨年は夜まで審議が続いていたことを考えると早い終了となり、家で待つ相棒のもとに帰ろうとしましたが…
 
 市役所を出てから、500メートルも走った県道名古屋津島線で、私の車の前をノロノロと横切った犬がおり、対向車に轢かれてはいけないと車を停車していると、私の車の前に戻ってきて、左側から後方へ行き、また道路を横切ったため、交通量の多い県道は犬を避けた車で渋滞となりました。
 
イメージ 2 このまま走り去ろうかとも思いましたが、横切った犬がポメラニアン(上の写真)で、我家の相棒リマと似ていることから、車を大回りをさせて後を追い、県道から入ったわき道を安全な場所まで追い続けて車を停めました。
 
 我家の相棒リマ(右の写真)より少し大きく、毛色が濃いものの、相棒が年老いたらこんな顔かと錯覚しそうなポメちゃんで、逃げてはいかないものの、警戒してなかなか距離は近づけず、逃げて県道へ戻っては危険なために持久戦で寄ってくるのを待ちます。
 
 やっと私から逃げなくなったところで、車から菓子を取り出して与えると、お手もやるようになったものの、首輪にさわろうとすると警戒してなかなか触れない事から、一緒に市役所を出た山田議員に連絡するもつながりません。
 
 しかたなく、市役所の生活環境課の職員に電話して、犬を保護するための応援を依頼しました。普段であれば相棒リマを助手席に乗せるためのリードも積んでいますが、本日は委員会のため積んではおらず、犬も警戒して抱かせてくれないために、寒風の中でじっと応援を待ち続けました。
 
 やっと市役所の車が到着し、2人の職員が来てくれましたが、犬を入れるため持ってきたダンボール箱や、ビニール紐を見た犬は驚いて後ずさりするため、菓子を手にして再度スキンシップを図り、やっとのことで首輪に紐を付けることに成功しました。これで交通事故の心配は無くなりました。
 
 担当職員の話では、保健所や警察に電話して飼い主からの連絡を待ち、犬は一宮市の保護センターに引き取られて行くようですが、とても他人の犬とは思えない事から、見つかるまで我家で預かると話していると、遠くから心配して応援に来てくれた人があり、4人で何軒か訪れて聞いて回った結果、時間はかかりましたが飼い主を特定でき引き渡す事ができました。
 
 交通量の多い県道で、我家の相棒と似ているポメちゃんだった事から、私も追いついて保護しようと考えましたが、仕事に出向く時や、約束した人があったら、この犬はそのまま家から遠ざかり、無事に家に戻れたとは思えない事から、無事に飼い主に戻せたことは幸いでした。
 
 もっとも、私の暴君である相棒リマのように、力いっぱい走り、家族以外には近寄らない犬であったら車に轢かれていたと思われ、高齢のためか走らない犬だった事や、暴君に仕える私が、ポメラニアンの性格を理解していた事も幸いしました。
 
 昨年12月の議会で、私は狂犬病予防接種の質問に立ち、迷い犬や道路で死んだ犬やネコへの対応を質問しましたが、津島市のペットを取り巻く環境は不備も多く、稲沢市などと比較すると、愛犬の保護に対する市民運動の積極性にも欠けますが、愛犬も今では家族の一員となっている事から、愛犬を守る市民の連携も重要と思う一日となりました。
 
                                     3月11日の一言

6月に定年を迎える同級生と雑談し…

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我家で満開となっているサザンカの花
 
 数日前までジャンパーやコートが必須だった生活が、一転して春爛漫の暖かさとなり、冬眠状態となっていた庭の草花も一斉に花芽を出し、梅は満開状態となる現実から、今年の寒さは厳しいと思っていたものの、昨年も同じように花が咲いて、我々も同じように行動していたことを一年前の一言からも実感させられました。
 
完全に春の息吹を実感し…昨年3月11日  http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/46116207.html
 
 一年前はハーブを買い求めて植え、ホームセンターで孫のためにイチゴの苗を買い、まもなくサクランボの花が咲き、我家の名物となっている「アンズ」の花と、サクランボやアンズの実が実っていくことを、一年前の一言を読み直して実感させられます。
 
 さて、本日は家内に同行してドラッグセンターとスーパーマーケットに出かけたところ、家内と迷子になってしまいましたが、レジで精算している同級生と目が合い、久しぶりに近況報告の雑談で盛り上がりました。
 
 私たちは今年で60歳を迎えますが、知人は今年の6月で定年を迎え、勤めている会社は65歳まで働けるものの、6月で退職して一週間に3日程度のアルバイトを探す予定との話で、厚生年金は来年からの支給ですが、任意で年金基金を積み立ててきたことから、今年から毎月10万円近い支給を受けられるようです。
 
 知人は数年前に奥様を病気で亡くしており、90才をゆうに超えた母親が施設に入っていることから、これからは家庭第一でゆとりのある生活を考えており、同じ同級生でも65歳まで働く必要に迫られている知人や、会社をリストラされ屈辱の職場にある知人も存在する中で、同級生の私も今後の進退や方向性を決めていく時期がきていることを実感させられる会話となりました。
 
カモメにエサあげるシャチ 千葉・鴨川シーワールド
記事の続き…
 毎日あるシャチのショーの合間に、カモメがプールに近づく。ルーナが水に潜り、浮上と同時に口から水を飛ばす。「うがい」と呼ばれる芸の一種で、水と一緒に飛んだ魚の切り身をめがけて、カモメが水に飛び込み、切り身をくわえて飛び去った。わずか3、4秒間の早業だ。カモメには数羽の「常連」がいる。
 シャチには冷凍のホッケとサバの切り身がエサとして与えられ、その切れ端をカモメにやっている。
 シャチは、米国など7カ国で約40頭が飼育されているが、カモメへのエサやりの報告はない。佐伯宏美・海獣展示一課長は「小さいルーナは遊びの段階だろうが、アースたちをまねて覚えたようだ」という。
 よこはま動物園ズーラシア園長で日大教授(野生動物学)の村田浩一さんは、「シャチによるカモメのえさやり行動は極めて貴重な観察例で、世界も注目するだろう。動物園のチンパンジーやゾウが観客を仲間扱いするような種を超えた交流の一種。カモメの反応を楽しんでいるのでないか」と話している。
 
 添付した記事は、弱肉強食の自然界の中で、獰猛なシャチがカモメに餌を与えているという珍しい現象を紹介した記事ですが、何でもかんでも食べてしまうサメとは違い、哺乳動物は生活の余裕があれば他の動物を襲わないどころか餌を与える現実に、我々も老後の生活に対する環境の違いを実感させられました。
 
 現在は3月議会が開催中ですが、まもなく議員任期の半分が経過します。私の任期終了時は61歳になっており、定年を迎えた同級生や知人の動向を見極めてから自分の方向性を決めるのは他力本願で無責任と思われるかもしれませんが、ボランティアとは言え主導しているNPO法人や、高額なタクシーまで買い込んでタクシー事業主になっている現実も考えた議員生活となりそうです。
 
                                    3月10日の一言

今は亡き愛犬の兄弟犬と出会って

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 今月1日に発行された神守中学校同窓会報に、活躍する卒業生として原稿を依頼した同じ町内に住む大学生S君のお宅に借りていた写真を届け、その帰りに愛犬と参歩中のお父さんと出会って立ち話をしました。その愛犬は以前から我家の愛犬と兄弟ではないかと思っていましたが、本日の会話から確実に2年前に亡くなったモモの兄弟と判ったので添付しました。
 
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 我家の愛犬モモ(写真左右)は平成14年5月8日生まれで、2年前のもうすぐ9才になる直前に肝臓ガンで死亡しましたが、もらってきた家が同じである事を聞き、今年11才になるとの話から、誕生日が一緒であれば一緒に生まれた可能性が高くなりました。
 
 Sさんの近くに我家の田んぼがあり、近くを散歩中の姿から兄弟ではないかと眺めていましたが、今にして思えば元気な時に会わせてやればよかったと後悔しても時間の後戻りはできません。
 
我家の愛犬モモ逝く 2011年4月28日  http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/44992033.html
家の環境を2匹の愛犬から  3月5日  http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/44800805.html
 
 もっとも、我家のモモは、一年前にもらってきた愛犬モモが僅か3ヶ月後に交通事故で死亡したことから、1年後に生まれたそっくりの妹をもらってきた愛犬で、事故にあわせないように家の中で過保護に育てており、本日出合った兄弟のように人懐っこくはありませんでしたが、犬に言葉が判ったら話し掛けたい心境でした。
 
 本日は、満開になっている我家の梅の花と、突然の春の陽気にツボミが膨らんだサクランボか、出かけた家の前に生えていたツクシの写真を添付しようと思っていたものの、夕方に出かけたSさんの愛犬を見かけて愛犬モモへの郷愁が甦りました。
 
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 すでにモモの親は死んでおり、かつては各地で見かけた兄弟の姿も見かけなくなっていることから、モモが死んで2年も時間が経過していることを実感しますが、右に添付したモモの子供時代の姿が、今でも忘れられずにいる自分と、現在でもモモが私を見ているような錯覚に陥ります。
 
 さて、偶然にも3日前に、モモと相棒リマを抱く家内の写真を添付していますが、本日は私の助手席に座っていた相棒リマにモモの兄弟となる犬を見せた事から、リマにもモモの陰影が脳裏に甦ったようで、帰宅後の「モモちゃん」の呼び声に頭を傾げ続ける夜ともなりました。
 
                                      3月9日の一言

愛媛県から自転車先進地の発信が…

 愛媛県で、「自転車の安全な利用の促進に関する条例」案が県議会に提案され、罰則規定はない条例ですが、多発する自転車や歩行者の事故防止には有効と思われるだけに、条例施行後の効果に注目したい話題でもあります。
 
目指せ自転車先進県 愛媛県が「左側通行」明記の条例案
記事の続き…
条例案では、自転車に乗る人の責務として「歩道や路側帯を通る時は車道の左側を通行する」と明記。すれ違いや車との対面による事故を減らす狙いがある。「励行することで安全利用に努める」と抑えた表現だが、既に施行されている京都府と埼玉県の条例にはない項目だ。歩行者が頻繁に通る歩道では押して歩くことも盛り込んだ。
 背景にあるのは、自転車が特に歩行者にとって脅威になっている実態だ。昨年、県内で自転車が関係した交通事故は約1200件。事故全体の推移に合わせて年々減っているのに、自転車同士の事故は10年前の3・8倍、対歩行者では8倍と急増している=グラフ。自転車は車との事故では被害者の立場がほとんどだが、乗り方一つで「交通強者」になり得ることを示している。
 県がしまなみ海道を「サイクリストの聖地」として全国や海外に売り出そうと力を入れていることを踏まえ、条例案ではスポーツ車や2人乗り車を貸す時にヘルメットの着用を助言するよう求めるなど、レンタサイクル業者についても規定した。また自転車のそばを通る時に安全な間隔を保ったり徐行したりすることをドライバーの責務とした。欧米で先行している、道路を車と自転車、歩行者で分け合う「シェア・ザ・ロード」の考え方を「県民の責務」として採り入れたのも特徴の一つという。
 「罰則がなくても県民の意識づけになる。マナーでも日本一をめざす」と県消防防災安全課の担当者。条例案が可決されれば7月施行の見込みだ。条例制定の意義について、自転車旅の企画やガイドをしている今治市のNPO「シクロツーリズムしまなみ」の山本優子代表は「自転車を楽しみに県外から訪れる客に対し、愛媛県が安全をきちんと考えているという意思表示になる」と評価する。
■26サイクリングコース整備へ
 自転車を生かした観光や文化の振興を模索する県は新年度から、5年かけてサイクリング26コース約1300キロを整備する。「ブルーライン」と呼ぶ見えやすい案内を道路に表示するなど、自転車がより安全で快適に走れるコースを提案する。
 「愛媛マルゴト自転車道」と名付けた事業。サイクリストが試走するなどした、62~165キロの中・上級者向け11コース計1073キロと、4~26キロのファミリー向け15コース計198・5キロを選んだ。いずれも専用道の新設などはせず、今ある車道にコースの案内板や距離表示、注意喚起の標識などを設置。休憩所を兼ねた駐輪施設やパンク修理サービスも提供する考えだ。
 2013年度は「松山・今治サイクリングコース」(62キロ)と伊予市~伊方町間の「メロディーライン・夕やけこやけラインコース」(78キロ)を手がける。
 
 先月末の朝日新聞に、2人乗りのタンデム自転車で、約10年間北米から南米、中国から東南アジアを走り回った宇都宮さん御夫婦が、実家のある愛媛県にもどり、しまなみ海道のサイクリング振興に取り組むNPO「シクロツーリズムしまなみ」の職員になったという記事が、「ニッポン人脈記」に報じ(下記に添付)られていました。
 
(ニッポン人脈記)自転車でいこうよ
記事の続き…
アメリカ・テキサスでは、食料を買った店でアルバイトをしていた3人の少女が、「カンパよ」と1ドル札を2、3枚ずつ渡してくれた。一期一会の日々で、こんな出会いがたまらなくうれしい。
 ほわっと穏やか、天然系のトモ子だが、一成は「旅に向いている」と感じていた。「さっきの谷と今の谷じゃ、女の子の帽子の様子が違う」。ことさら注意して見ているわけではないのに、観察力がすぐれ、旅を豊かにしてくれた。危険もいちはやく感じて、それがたいてい当たっている。新たな面を発見するたび、またパートナーがいとおしくなっていった。
 「豊かさって、なんだろう」。自転車をこぎながら、2人は何度も自問した。マイホームにマイカー? モノや肩書? これまで、本当は無くていいものをずいぶん持たされてなかったか。どう転んでも自分は自分。まわりと比べず、自分の尺度で生きていけたら――。
 空路をはさんで中国から東南アジアへ。そして2人は、台湾で諸国漫遊に区切りをつけた。
 沖縄、九州を経て、愛媛県の南にある西予市宇和町の一成の実家に戻ったのは2007年11月11日。アラスカからスタートして10年5カ月と10日、一成は39歳、トモ子は40歳になっていた。
 出版社から話があって、3年後に旅行記を出した。タイトルは「世界でいちばん長いハネムーン」。終わりに一成はこう書いた。「僕の夢に付き合ってくれたトモ子さん、ありがとう」
 
 一成とトモ子はいま、瀬戸内の街、愛媛県今治市に住んでいる。しまなみ海道のサイクリング振興に取り組むNPO「シクロツーリズムしまなみ」の職員だ。
 スカウトしたのは、活動の中心メンバーの山本優子(やまもとゆうこ、39)。知人に紹介してもらい、「出会うべくして出会った」と思った。
 99年に開業したしまなみ海道は、今治と広島県尾道市の間の六つの島を10本の橋で結ぶ。本州と四国を結ぶ三つの架橋のうち、ただ一つ自転車で行き来でき、地元はサイクリングを通じた町おこし、島おこしを目指す。
 一成が真っ先にとりかかったのは案内マップづくりだった。野宿しながら自転車で島々をくまなく回り、道の高低差、区間距離、立ち寄ってほしいスポットを詳しく記した地図を作り上げた。
 空港がある県都の松山市から自転車をそのまま列車で運べる「サイクルトレイン」。独身の男女にタンデムで交流をはかってもらう「恋活」イベント。アイデアは次から次に湧いてくる。開業当初の7万台から一時は半分以下に落ち込んでいたレンタサイクルの貸し出しは、昨年度、6万1千台まで持ち直した。
 
 車やバイクで流れていく景色だけではわからないことがたくさんある。自然と一体になって、空気も太陽も肌で感じて。難しいことは言えないが、それが自転車の最高の魅力だと思う。
 一成とトモ子は、あの旅の途中、アメリカとメキシコの国境近くで出会った高校教師の夫妻のことをいまも思い出す。「若いうちに行かなくちゃね」。還暦を過ぎた夫と妻は、そう言い残してタンデムで出発していった。
 いくつになっても、だれの前にも道は広がっている。
 この瀬戸内で、自転車がもつ可能性を探りたい。そしていつか、またタンデムで果てない旅へ。2人は、そう思っている。(但見暢)
 
 広島県と愛媛県の瀬戸内海の島々を橋で結ぶ「しまなみ海道」では、過去にも自転車で道路を走るイベントが行なわれて、自転車による町おこしが図られているだけに、自転車は歩道も路側帯も車道の左側を通行すると明記された条例によって、自転車の対面事故や歩行者を巻き込んだ事故防止になれば幸いと思います。
 
 「ニッポン人脈記」を読んで、世界を自転車で走破した最終章として、夫婦で故郷に戻って自転車だけで仕事に辿り着いたことと、「車やバイクで流れていく景色だけではわからないことがたくさんある。自然と一体になって、空気も太陽も肌で感じて。難しいことは言えないが、それが自転車の最高の魅力だと思う。」との記事が、私が車でスピード巡拝を続けてきた四国遍路でも、歩くことでしか聞こえない景色の音と香りの魅力に取り付かれていることと共通しました。
 
 愛媛県では、タンデム自転車で2人乗り通行でき、自転車をそのまま列車で運べる「サイクルトレイン」など、自転車に対する地域の応用に感心していましたが、事故防止の条例と観光もあわせて自転車先進地となりそうな予感がします。
 
 「いくつになっても、だれの前にも道は広がっている。 この瀬戸内で、自転車がもつ可能性を探りたい。そしていつか、またタンデムで果てない旅へ」との2人の一言に、我町では言えない一言だけにうらやましく思うとともに、議員になってから封印されていた自動二輪の復活で体感したいと思います。
 
                                    3月8日の一言

中学校の卒業式に出席して

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 本日は愛知県の公立中学校では卒業式が行なわれ、私は母校の神守中学校の来賓として参加してきましたが、ここ数年間で最高に落ち着いた学年と言われてきただけに、卒業生から学生服の乱れも見えず、全員で真剣な式典として卒業していきました。
 
 数年前には、卒業式でふざけた返事や態度も目立ちましたが、学校に20年ほど前から存在した不登校生徒の多さも改善されており、未だに不登校の生徒も存在するものの、ボランティアの大学生が遅れた勉強のフォローに自宅を訪れるなど、可能な限りの対応をしてきた結果が実った成果とも思われます。
 
 我が身に置き換えて回想すると、自身の生活態度の悪さから3年間叱られ続けており、これで嫌いな教員から開放されると笑いが堪えられない卒業となった記憶がありますが、本日の卒業式は涙、涙の卒業式となり、私の涙腺も完全開放となりました。
 
 生徒達の多くは、これまでの学校生活の延長のように思っているのかもしれませんが、高校生活は義務教育とは違い、不良行為は家庭謹慎となり、病欠であっても欠席が授業日数の三分の一を超えれば容赦なく留年となり、私学なら些細なことでも退学にされてしまいます。
 
イメージ 2 さて、本日の卒業式に招かれた議員は校区内に住む5人でしたが、来賓の数は過去最高の27人となり、校長室の会議テーブルに座りきれない数の来賓となった訳には、地域社会と連携するボランティア活動が積極的に行なわれている神守中学校の特質かもしれませんが、これだけの数になるのであれば、来賓のあり方を考える必要もでてきます。
 
 私がPTA会長として臨んだ20年前の来賓は10名程度しか存在していませんでしたが、市を代表する市役所幹部は別としても、議員を席次の上座にする必要はなく、卒業式の形態が様変わりしている現実を考えると、保護者に近い存在にしてもらいたいものです。
 
 最近の卒業式は、保護者と卒業生が対座する会場設定となっており、かつての卒業式のように来賓が舞台上に座らない存在となっていることから、来賓の席次の上下関係を払拭して保護者と一緒に卒業生を祝いたいと思うからです。
 
 添付した右上の写真は、市議会青風会で一緒に活動する山田議員で、卒業式終了後に打ち合わせのため近くの珈琲屋さんを訪れましたが、選挙の支持者の競合する同じ校区内にありながら一緒に行動できる関係には感謝するしかありません。
 
 議会中のため、月初めより休息の無い日々が続きましたが、明日は3件の約束があるものの、完全休養日となる週末を迎えられそうで、休みが無い月末までの静養としたいと思う半面で、休養より月末の仕事分を減らすため働くべきかと悩む夜を迎えました。
 
                                   3月7日の一言 

中学校の同窓会入会式に参加して

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母校の校訓「至誠」を刻んだ同窓会碑 
 
 本日は朝から福祉有償運送のボランティアで病院まで走った後で、母校の神守中学校に走り、卒業式の予行練習を終えた3年生とともに、同窓会への入会式に臨みました。
 
 「会長さんは私の同級生で、津島市の市議会議員を務めておられます」と、校長先生から卒業生に対して私の紹介があり、あまりにも立派な卒業生のように紹介されたことから、「校長先生は真面目で、裏表の無い正直な優等生でしたが…」と、自分の中学時代の非行体験や不登校の体験を語り、高校を5年かかって卒業した灰色の少年時代を語っていました。
 
 中学時代に経験した不登校や不遇の生活から、高校受験のため私に数学と英語を無償で教えてくれた地域の恩人と、2度の落第と非行生活から退学寸前になっていた高校生活で、自分のクラスで一年生からやり直すように説得してくれた恩師の存在から、成人式を超えて卒業して大学に進んだ話をしました。
 
 少し時間が長くなりましたが、2年前の入会式のように途中で出入りする生徒もおらず、自分の思いが卒業生に伝えられたことに満足して、校長室で教頭先生と式の終了を待ち、戻ってきた校長先生と、過去の経験と体験から真面目な教育談義を続けることになりました。
 
 私の母校も生徒が荒れた時代があり、地域ぐるみで対応を協議した時期もありましたが、自分の同級生が校長になった事から、私の贔屓目で身勝手に褒め上げる訳ではありませんが、卒業生の校長ゆえに地域社会との連携が図られ、校長も小学校の時のままに真面目正直に対応していることから、教育環境は最高の域になっていると思われます。
 
 本日は午後には市役所に戻る予定をたてていましたが、家に立ち寄ったのは夕方になっており、パソコンを開いたところ見覚えもない画面が添付されており、削除したつもりでしたが、その後に表示される画面が変わり、ヤフーブログにもログインできずにゲストのままとなりました。
 
 偶然にも我家の近くを通過中の知人が立ち寄って復旧させてくれましたが、身勝手に送られてくる画面を、何も支障がないと善意で解釈して、内容も判らないままに操作することは大変に危険であることを実感させられましたが、今回はウイルスの汚染か本体の故障かと半ば諦める心境を味あわされました。
 
 明日は卒業生にとっては最後の登校日となりますが、最近は特に涙腺が緩くなっていることから、淡々と式次第が終了していくことを祈るのみです。
 
                                    3月6日の一言

一匹狼を自認しつつ、同志の存在も感じる議会に

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 この写真は、2年前の4月12日に狂犬病の予防接種に行った時の私の相棒リマと、この半月後に死亡した愛犬モモと家内ですが、一番大事なものは家族と相棒であることを実感し、過去の写真を添付しました。モモ、今どうしているのかなッ…って、我家の庭で眠っているんですが(家族で埋めました)
 
 津島市議会の一般質問が本日終わりましたが、過去に先輩議員から「大鹿君、自分の家族や親族の話を議会ではタブーだよ」と言われていたものの、市民病院の苦言については再三にわたって市民の代弁をしてきたものの、具体的には何も改善されていない事から、議員生活14年にして初めて母親が時間外診療を受けられなかった先月10日の事実をもとに質問にたちました。
 
 内容はさておいて、電話応対のミスを「申し訳なかった」とミスの再発を防ぐ答弁が欲しかったものの、私が記したブログの記事(下に添付しました)に対して、公人として疑いたくなる卑劣極まりない記事との市長の発言がありました。
 
津島市民病院の悪いウワサを実感し http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/47042718.html
 
 皆さんに再読していただき、上の記事が卑劣極まりない記事かどうか判断を仰ぎたいものですが、医療関係者の助言によって市民病院の時間外診療を希望し、「悪くなったら来て下さい」と電話で断られ続けたことと、自宅から医師を呼んで7時間以上に及ぶ検査と処置をしてくれた海南病院とは雲泥の差がありました。
 
 津島市民病院は津島市民の税金が毎年6億円ほど使われており、言うなれば津島市民の支払った税金がなければ運営できない現実を考えると、病院の主役は津島市民である筈が、病院によって嫌な思いをした市民が悪者にされてしまう議会答弁は許されない現実です。これまでの市長発言には、コンビニ受診は迷惑とか、入院しない患者は軽症とし、安易に救急車を呼ぶ市民の批判など、市民の税金が無かったら倒産している市民病院の自覚は感じられません。
 
 さて、私の質問は昨日に終わっていますが、本日の一般質問の中で、同じ会派の山田議員から、市民病院の「診てあげよう」という気持ちが不足していたと私を弁護する発言があり、津島市議会で一番若手となる小山議員からも、私の質問に関連して、市長や病院当局を批判する発言がありました。
 
 私の個人的な質問に対して、これからの市議会を担う若手の議員たちが取り上げてくれたことに、今まで無党派で「一匹狼」のような議員生活を続けてきたものの、頼もしい同志・仲間の存在を感ずるとともに、年長者はいずれは若者の世話になる宿命も実感し、冒頭の相棒達との写真を添付した次第です。
 
 もっとも、市民病院の正当性を主張した病院側や市長答弁でしたが、市役所の足元にある職員からも、市民病院で診てもらえなかった苦い経験が伝わり、電子メールには心温まる内容も入り、本日来訪した団体職員や同級生からも「頑張っていたな」と言われたことから、実体験から訴える真実は共感者も存在する事を実感させられました。
 
 「もう、そろそろ潮時かなァ」と囁いたこともありますが、議員の私がこんなことでは市民はもっと大変と、権力側に対する若い時からの怒りが甦り、明日は早朝より病院まで私のハンドルに頼る市民と、母校の同窓会入会式で対座する卒業生の存在に心をリフレッシュする夜となりました。
 
                                  3月5日の一言

待ち望んだ四国からの便りが届き

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 毎月1日に発行されている四国八十八ヶ所霊場会の会報「へんろ」は、私の住む愛知県は2日(遅くとも3日)には届いていますが、今月は土曜日だったことから配達が遅れており、本日のポストに投函されていました。
 
 今月の会報「へんろ」には、2月よりスタートした四国霊場開創1200年記念事業の「徒歩練行」が記されており、1回目の2月4日に弘法大師の誕生した第75番善通寺から先達37名と霊場会の僧8名で出発した様子が記されています。
 
 徒歩練行には先頭に出発前に開眼法要が行なわれた「大師像」を担ぎ、全国から寄せられた写経4千巻と護摩木6千枚を一緒に巡行しており、この日は金倉寺、道隆寺、郷照寺を経て坂出市に宿泊し、翌日には天皇寺、国分寺、白峯寺を経て根来寺まで巡拝したことが記されています。
 
 参加した知人や、徒歩練行を記したブログから様子は判っていたものの、会報を見て内容と様子をはっきりと知ることができ、今回の会報には5月14日(水)と24日(金)に開催される第7回と第8回の行程が発表されていたことから、議会日程と重ならないのであれば参加を考えたいと思います。
 
 「お父さん、デカイチョウがあるんだけど」
 「えっ?何んなの?」
 「デ・カ・イ・チョウ?と書いてあるんだけど…」
 「何処で?」
 「常滑のセントレアだけど…」
 
 常滑市のセントレア(中部国際空港)では、昨年にも四国八十八ヶ所霊場会の「お砂踏み」が開催されていたことから、「出開帳」と判ったものの、内容が判りませんでしたが、3月11日(月)から18日(月)まで、株式会社JTB中部の主催で行なわれることが判りました。
 
 内容的には、各地の寺院で行なわれる「お砂踏み」と同じように思いますが、当日の入場料を1500円に設定していることから、霊場会の僧侶による何かのイベントがあるかと思いましたが何もないようです。
 
 ただし、ネット検索したところ、入場者全員に「結願之証」がいただけると記されており、広告では「結願之証とは八十八ヶ所霊場を全て回り終えると発行してもらえる証書」と記され、「入場者全員に現地で四国八十八ヶ所巡礼をしたのと同じご利益が得られる結願之証をお渡しいたします」とありました。
 
四国八十八ヶ所出開帳 常滑市セントレア
 
四国八十八ヶ所霊場会公式HP http://www.88shikokuhenro.jp/1200.html#i004
 
 いかにも旅行社らしい宣伝で、「四国八十八ヶ所巡礼をしたのと同じご利益」との文言にはいささか疑問符がつくものの、四国を打ち終えた遍路経験者には、四国遍路を懐かしく思い出す機会になることは間違いがありません。
 
 もっとも、この出開帳を連絡してきたのは私の娘で、娘婿から私に伝えるように言われて伝えてきたことから、期間中に孫も伴って電車で常滑市とセントレア行きを考える一日ともなりました。
 
 本日は津島市議会の一般質問が行なわれ、質問の通告者が17名と多いため、時間延長して8人の質問が終わりましたが、明日も9人の質問が残っていることから、時間延長は必死の一日となりそうです。
 
                                      3月4日の一言

私の発行したミニコミ誌が本に収録され

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 本日は津島図書館を訪れたところ、元愛知県の幹部で最近まで日進市の副市長を務めておられた津島市民のTさんが訪問しておられ、図書館長と副館長とで津島市の歴史や、歴史資料や民家に眠る古文書などの保存などをテーマに花を咲かせることとなりました。
 
 津島市は中世に躍進して全国に進出していった織田信長の台所を支える商都として発展を続け、当地方の繊維産業の盛隆とともに愛知県で3番目となる「愛知3中」が創立されるなど、尾張地方有数の中心地であったものが、繊維産業の衰退と、都市間の交通体系から外れていることなどから衰退の一途を辿ってきました。
 
 一方で、市内の旧家には戦国時代から伝承する古文書も多く残されているものの、門外不出になっているケースも多く、その一因には行政が託するに値しないと信頼されていない事も大きいと思われる事から、最近では津島市の歴史を記録する役目も担っている図書館の頑張りに期待したいものでもあります。
 
 さて、本日私が図書館を訪れたのは、このたび図書館が当地方で発刊されていたローカル新聞社から発行された新聞を(B4版)606ページ分に保存して、収録して一冊の郷土資料として発行した中に、私の発行した「ふるさとアサヒ」も収録されていたため、提供していた新聞の返却と贈呈された一冊を頂きにうかがった次第でした。
 
イメージ 2 この資料には、大正8年に発刊した「尾西タイムス」や「尾陽新報」から、昭和28年から35年まで発行された「愛知時事新聞」など9社の新聞が収録され、私が昭和63年から平成5年にかけて発行した「ふるさとアサヒ」も参考のために収録されました。
 
 元々が、朝日新聞のミニコミ誌として発行されたものですが、「発刊の挨拶に、津島の話題や情報を発信することで読者に郷土愛を喚起してゆくと表明しており、紙面には地元で活躍する人物の紹介など、地域に即した特集を充実させている」と紹介されていました。
 
 残念なことは、「現在休刊中」と記されていることで、編集発行人の私が生存していることから、「廃刊」とは記されておりませんが、本来なら継続して発行し、過去に発行されていた新聞と一緒に資料として収録されているべきではなかったと反省です。
 
 「後は安泰だなぁ」の一言は、私が「ふるさとアサヒ」を発行していることに、自身も「日本および津島」を毎月発行されていた、元市長で県会議員を務められた竹内節男さんの言葉で、自分の亡くなった後を託せる存在として評価されていたことに報いてはおらない反省も必要となります。
 
 仕事も年齢も最終章に入りつつありますが、当時訪れた人々の多くが亡くなっておられることや、先人の残された新聞の中にも、現在と比較すると興味深い記事が残されていることから、「休刊中」を再発行に変えてみたい意欲も湧いてきました。
 
 そんな思いも、明日には議会の質問が決まっており、愛知県への報告書や確定申告など日程的に迫られている事案を終わらせてからの話で、「そのうち」とか「できれば」ではなく、実現させて報告する一文を載せて見たいものです。
 
                                  3月3日の一言

梅の花から春を実感させられる一日に

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 全国的に春の嵐が吹き荒れたようで、愛知県の三河地方では強風のため電車も止まっていたようですが、私は家内の母の3回忌に出向いたところ、伊吹降ろしの風は冷たいものの、庭には梅の花が咲いて春の到来を実感する一日となりました。
 
 家内の在所は稲沢市祖父江町の木曽川沿いにあり、法要後に迎えにきたマイクロバスによって、東海大橋から木曽川と長良川を渡って岐阜県側の料理屋へ運ばれましたが、川が県境となっているものの、生活を共有する結びつきの強さを実感させられました。
 
 料理屋さんの女性と親族の会話を聞いていると、田舎では昔からの旧家やお医者さんは遠くまでその名前が知られており、私の先輩が婿養子に入っている医院の名前も耳にすることとなり、家の名誉や伝統を維持していくためには高額な税金や負担も多いことから、田舎暮らしで身軽に生活するレクチャー本がここでは通用しない現実も実感です。
 
 さて、最近では木曽川の堤防道路は車の通行はできますが、堤防下の河川敷や河原には降りられなくなっており、対岸では道路そのものが入れないようになっているとの話で、その理由はゴミや家電製品の不法投棄を防ぐのが目的だったようです。
 
 そのことによって、それまで「シジミ」を採りに行っていた近隣の人々が入れなくなって困っているとの話に、一部の不届き者によって、多くの人々が声をあげる場所もないままに不都合を被っていることを実感させられました。
  
天声人語
 「五里霧中」はよく知られた四字の熟語で、親切な辞書には「五里夢中は誤り」と注意書きがある。さらに丁寧な辞典には「ごり・むちゅう」と区切って読むのは誤り、とある。正しくは「ごりむ・ちゅう」だと。中国の「後漢書」に、その五里霧なるものは出てくる▼張楷(ちょうかい)という在野の学者は、道術を使って五里四方に濃霧を発生させた。人を避けたいときは霧の中に姿を隠したそうだ。時は流れて、その張楷も驚くような中国の大気汚染である。一昨日は今季初の黄砂も加わり、北京の街は黄色く沈んだ▼視界不良で高速道路が閉鎖され、屋外の活動を控える指示も出された。北京だけでなく、汚染の深刻なエリアは日本の面積の数倍におよぶとも聞く。現代の公害の脅威は、五里霧の故事の比ではない▼風に乗って、とばっちりは東へ進路をとる。汚染物質に黄砂がまじり、迷惑の二重奏に韓国も戦々恐々らしい。スギ花粉に作用して症状がひどくなる恐れもあるそうだ▼終戦の2年後、中秋の名月を眺めて、小欄は「来年の今月今夜はモクモクと出る煙突の煙で思いきり曇らせてみたい」と書いた。焦土からの復興を願ってのことだ。どの国にも、昇る煙が繁栄の証しのような発展途上の時期はある▼その後の日本の公害と反省は、説明不要だろう。中国は世界第2の経済大国になった。自他の国の環境と健康への責任を、五里霧に隠れて頬被(ほおかむ)りでは許されない。藍天(らんてん、青空)を守るべし。なりふり構わぬ発展から、舵(かじ)を切って。
 
 私の母親は今年82歳になりますが、最近の日課の中で一番時間をかけているのが、添付した朝日新聞の「天声人語」を専用台紙に書き写すことで、販売店から書き写しノートを買い込んで、午後の大半の時間をかけて書き続けています。
 
 半月前に、肺炎や原因不明の体調不良で遠くの海南病院へ運び込んだのがウソのように復活し、本日も私の妹に誘われて鉄道とバスを利用して、渥美半島で開催されていた菜の花のイベントに参加してきました。
 
 天声人語が学生の受験対策に利用されるのは昔からの事ですが、高齢者の指先と頭のリフレッシュにも効果を発揮しているものと思われ、「バカな知恵をつけられたものだ」と思っていましたが、ボケ防止には確実に効果があり、冬になって畑作業も少ない母親の健康維持の一因となっているようです。
 
 書き写しノートには、天声人語を切り取って貼るスペースと、鉛筆で書き写す原稿用紙が組み合わされており、辞書で調べた漢字や言葉を書くスペースと、天声人語の内容の要約や、意見を書き残すようになっています。
 私にとっても、かつては販売のキーワードとなっていた天声人語ですが、毎回603文字と文字数が決まっていたことと、6つの段落に分かれていたことは、母親が書き写すまで知らなかった新事実でもありました。
 
                                       3月2日の一言

厳粛な記念式典から3月が始まります

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 本日は、津島市の市政66周年記念式典が津島市文化会館で開催され、6名の特別表彰をはじめ、15名の永年勤続表彰と、8名の一般表彰が挙行されました。
 表彰行事の後には、昭和38年に結婚し、今年で50年の金婚式を迎えられた72組の御夫婦をお祝いする式典が行なわれ、今年からはそれぞれの御夫婦に市長みずからが記念のメッセージを手渡され、最後に代表者へ記念品が贈呈され、謝辞が述べられました。
 
 かつては、表彰式と金婚夫婦を祝う会は別々の場所で行なわれており、我々議員も場所を移動して参加していましたが、数年前から同じ会場で前後して行なわれるようになり、昨年は表彰式に時間をかけた後に、10分程度の金婚式で終わってしまったことと、私自身も時間がかかった表彰者の一人だった事から、金婚式に参加された当事者から直接批判の電話がありました。
 
 このことは、批判された私自身も心苦しく、批判された人々に応えるため、6月議会で金婚式の改善を求めていたことから、市長がそれぞれのご夫婦の前に歩み寄り、それぞれの名前が入ったメッセージを手渡すという感動的な式典に改善されていました。
 
 さて、本日の新聞報道では、名古屋市の河村市長が率いる地域政党「減税日本」の名古屋市議の不祥事による除名や離党が続き、本日の朝刊には2人の離党により、第2会派の自民党と1議席差になった事が報じられていましたが、夕刊には新たな離党希望者の出現で自民党と議席数が並んだと報じられています。
 
 河村市長の求心力低下を報ずる新聞やテレビもありますが、一番の原因は、自分の力では議員になれるはずも無く、議員になる準備も無かった市民が、河村人気で突然議員となり、政令指定都市の市議会議員として勘違いした「先生」になってしまったか、元々が不安定な生活だったことが要因とも思います。
 
 過去の不祥事には目をつぶり、選出された28人が議論は戦わせても、喧嘩別れをすることなく、市民に選出された責任を果たし続けておれば、市民派としての勢力を維持できたと思いますが、離党して次の選挙に勝ち残る可能性は皆無との自覚もないままに、勝ち誇ったように離党会見で発言をしています。
 
 河村市長が存在することから、河村市長の今後の展望と発言に期待するマスコミの動きを、離党会見をする自分の存在感からマスコミが訪れていると勘違いし、離党することが市民の民意や市民の政治参加を否定していく自覚が感じられません。
 
 私は反自民、反民主の無党派無所属議員を続けてきましたが、名古屋市で起こった減税日本の躍進は、既成政党の殻を破った河村発言や、自民党や民主党の議員に無名の市民が勝った選挙結果だけに、大いに期待してきました。
 
 国政は、国民不在で幼稚な国政運営をする民主党の惨敗に終わったものの、結局は自民党だけが残り、市民派と呼ばれる政党も無くなってしまいました。
 
 2年前に河村市長とタッグを組んだ愛知県の大村知事にしても、当選後は河村市長と反目する発言や、減税の旗を降ろすなど関係が希薄となっているものの、次期選挙に河村市長の援護がなければ厳しい戦いとなる事が予想され、国民の半数以上が支持政党を持たない無党派である事を考えると、残された任期中で市民や県民の信頼を取り戻す努力が欲しいものでもあります。
 
 統一地方選挙から2年が経過しましたが、第三極の政治に期待した挙句に、選挙に勝つためだけに市民が利用され、国政選挙が終わったら国民目線では無くなっている現実に、名古屋市の減税日本の凋落を重ね合わせてしまう一日となりました。
 
                                  3月1日の一言
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