大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

2015年01月

久しぶりとなる四国遍路の会話に

イメージ 1 「お遍路へ自転車で行くと何日かかりますか?」
 「清志郎さんは徳島を四日間で走っているよ」
 「徳島は楽だから」
 「いや、いや、大変だよ」
 「徳島は小さいから」
 
 地図だけを見れば徳島県は高知県よりも小さく、高知県より楽に思われそうですが、徳島県には「遍路ころがし」と言われ、多くの歩き遍路が途中で断念してしまう焼山寺や、鶴林寺、太龍寺など急坂の難所が多く、忌野清志郎さんは徳島県の全行程220キロ(1番から23番)と、高知県室戸岬の24番最御崎寺までの80キロを平成16年に四日間で走破しています。 (写真右)
 
 平面的な地図では感じない山の高低差は、歩き遍路と同様に自転車の遍路にも厳しく、清志郎さんも「あーしんどい」を同行した雑誌記者に連発しています。むしろ、距離は長くても平坦地の多い高知県の方が自転車には楽かもしれません。
 
 「ところで、何を持って行けば良いですか?」
 「パンクの修理道具かなあ」
 「はあー?」
 「だって、軽くないと行けないでしょう」
 「あの…お寺でもらうハンコとかは? 朱印かな?」
 「そんなの、いらないでしょう」
 「せっかく行くんだから…」
 
 本日久しぶりに訪問していただいた知人との会話ですが、暇つぶしに物見遊山の観光で訪れる四国遍路と、真面目に参拝するお遍路とは全く異質に思われ、「ハンコ」とか「朱印」の言葉から、「納経帳」、「輪袈裟」、「白衣」、「菅傘」、「金剛杖」、「数珠と経本」などと語る気力がわいてきませんでした。
 せっかく四国まで行こうと考えるなら、朱印のハンコ取りなどと考えず、身だしなみから整えて、経本の一字一句を丁寧に読み上げ、経本の意味を知り、せめて四国に居る間だけでも「十善戒」の教えを忠実に行動したいものです。
 
 ただし、4月の統一地方選挙後なら、自転車では付き合えませんが、バイクでの同行でも良いならと約束し、昨年秋から封印してきた四国遍路の話題で久しぶりに盛り上がりました。
 
 自転車による遍路話のお陰で、平成21年5月に他界した清志郎さんに関する過去の一言を読み直し、久しぶりに映像から歌声を聴きなおしましたが、公式ホームページを検索したところ未だに現役のような元気をもらいました。ぜひ、ご覧下さい。↓
 
忌野清志郎公式ページ http://www.kiyoshiro.co.jp/ 
 
               本日の体重 71、8キロ 徒歩数 2521歩
                                     1月31日の一言

相棒の環境対応に感心する一日に

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 我家の相棒は、私の助手席に座って出歩くのが好きですが、目的地では店内に入れないため留守番となるものの、本日訪れたホームセンター「バロー」はペットも連れて入れるため、相棒もストレスをためることなく同行しています。
 
 我家では暴君ともなり、来客に対しては果敢に飛び出して吠え続け、噛み付きそうな態度をしていますが、外では可愛い愛犬に変身し、「まあ、可愛い」と言われてカートの中でおとなしくしています。
 
「後藤さんの声の可能性高い」 新たな音声に菅官房長官

 安倍晋三首相は30日の衆院予算委員会で「テロには屈しない。これが基本原則だ。その中で、なんとか日本人を救出したい」と強調したと報道されていますが、日本独自でイスラム国と交渉するパイプはなく、他国の動向に委ねるしかないのが現状です。

 そもそもが、国家とは認められないとは言え、安部首相がイスラム国への対抗策として2億ドル(約240億円)の支援を敵対国で表明し、「イスラム国(ISIL)と闘う周辺各国を支援する」とうたいあげたことが原因であり、日本人2人が人質として殺害予告をされてから「人道的支援」と訴えても弁明にもなりません。

 私自身の英語が堪能ではありませんが、当時の演説で安部首相は、わざわざ「支援はイスラム国の脅威を食い止めるため」…「イスラム国と闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束する」と発言しており、発言する勇ましい態度からは米国や英国と同じ立場からの軍事的支援としか映りませんでした。
   
 人質事件が表面化してからも、「テロには屈しない…日本人を救出したい」と発言を繰り返しているものの、交渉や情報収集は他国任せで、イギリスや米国のように独自で救出に向かうことも法的にはできず、自らの失言に対する反省は聞こえてきません。
 
 私の無責任な思いかもしれませんが、イラクのフセイン政権に介入した米国の軍事介入こそが内政干渉であり、国として混乱させたまま撤退した結果が現在も続いており、フセイン政権が続いておれば国内の反体制派としてイスラム国に対処していたと思われ、他国の紛争に偉そうに介入した大国主義と米国に追随するだけの日本の限界を感じられずにはおれません。
 
 我家の相棒について、一国の首相と対比させることは不謹慎ですが、我家の縄張り内に入ってくる訪問者には勇ましく猛々しいものの、外へ散歩に連れ出したり、ホームセンターではおとなしくしている姿に動物の直感力を感じさせられ、人質の存在を知りながら不用意な発言をした安部首相のパフォーマンスは鈍感すぎたと言われても弁解できるのでしょうか。

               本日の体重 71、7キロ 徒歩数 8138歩
                                    1月30日の一言
 

法隆寺…客減れば値上げやむなしとは言えども

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京都大原宝泉院 額縁の間

 22年ぶりとは言え、奈良法隆寺の拝観料が千円から千五百円に値上げされたとの報道にはびっくりで、少子化の影響で参拝客の多くを占める修学旅行生が減ったことや、旅行先の多様化が影響したと記され、寺の古谷正覚執事長が「多くの文化財を抱える寺の維持には、ある程度の浄財が必要と判断した」と発言されているが、世界遺産選定や、平城遷都1300年祭など他力本願の結果とか思えません。

 
 比較する規模が違いすぎますが、写真を添付した宝泉院は参道手前に有名な三千院があり、勝林院の横に存在することすら判らない不利な条件下にありながら、夜のライトアップやイベントによって参拝客を維持しており、拝観料は800円ながら抹茶とお菓子が出され、何度も訪れるリピーターが存在します。

減れば、値上げやむなし法隆寺 拝観料引き上げ
 
 
記事の続き…
 町によると、参拝客は、世界遺産になった93年度までは年間100万人を超えていたが、2005年度に60万人に減った。「平城遷都1300年祭」が催された10年度に96万人に回復したが、13年度は79万人だった。
 奈良では、奈良市の東大寺が大仏殿と東大寺ミュージアムの共通券、法華堂、戒壇堂で計1800円。興福寺は、東金堂と国宝館の共通券で800円。

 ちなみに、京都の三千院の拝観料は700円で、清水寺は300円などと安価で拝観でき、東寺にいたっては御影堂や食堂の拝観は無料(特別展の開催時のみ有料)で、「客減れば、値上げやむなし、法隆寺」と、「柿食えば…」と揶揄されるような発信は情けないの一言です。

 かつて、老朽化が進んで荒れるに任せる状態になっていた薬師寺について、高田 好胤(たかだ こういん)元管主が修学旅行の生徒への法話に力を入れ、百万巻写経勧進の道を切り開いて金堂、西塔など薬師寺の伽藍の復興に道筋をつけた話は有名ですが、その薬師寺についても玄奘三蔵院伽藍公開時の拝観料は800円です。

 我家は家族が多く、昨年の四国遍路や大晦日の京都には6人で訪れましたが、法隆寺に入るだけで1万円近く必要になると拝観するのも躊躇してしまい、寺院が美術鑑賞か景観鑑賞になり、お寺への参拝は何のためかかを考えさせられてしまいました。

               本日の体重  71、1キロ 徒歩数 8212歩
                                   1月28日の一言

地域を歩いて先人を偲ぶ一日に

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六合庵正生之碑

津田正生 つだまさなり1776-1852 江戸時代後期の地誌家。
安永5年4月生まれ。生家は尾張(おわり)(愛知県)の
造り酒屋恩田仲任,鈴木朖(あきら)にまなぶ。31歳のとき「尾張地名考」の執筆にとりかかり,文化13年完成させた。嘉永(かえい)5年10月21日死去。77歳。通称は神助。号は六合庵。著作はほかに「眼前教近道」など。

 本日歩いていた津島市兼平町と喜楽町のあたりで、佐織町(:現愛西市)見越との境に「六合庵正生之碑」が立っており、当地方の歴史を書き記した「津田正生」の庵があったことを示してありました。

 愛西市佐織歴史民俗資料室の津田正生翁についての説明も添付します。
江戸時代後期の地誌家
津田義宗・六合庵・六合亭とも称した。
安永5年(1776)根高の酒造家、豪農の家に生れ、通称「神助」といいました。
幼児より好学の念があつく、名古屋藩の恩田仲任や鈴木朖(あきら、1764~1837)に学び、金に糸目をつけず、和漢の書を求めて勉学に励みました。
地誌、随筆、戯作など多分野にわたる研究をして、多くの著作を残しました。
天保4年58歳にして槍ヶ岳の頂(いただき)に立ったんだそうです。ちなみに槍ヶ岳開山の播隆上人に遅れること数年の踏破です。いったい何の目的で槍ヶ岳に上ったんでしょうか。
彼の著書「尾張國地名考」12巻は刻苦20年心血を注いで著述しました。旧家を訪問し、多くの文献を読み、地元の調査をしながら記述しました。
今でも地名の由来を述べた書にはかならずといっていいほど引用されています。
研究のスタイルは机上の論を嫌い、フィールドワークに徹した人でした。
根高の津島街道沿いに六合庵を建て、旅人に湯茶をふるまうかたわら、人々の話を聞いたといいます。
各地を見分するときに羽織袴を着ていると村人が敬遠するので、知多漫才を学び、その装束は箱に入れて下僕に持たせて、普段はボロをまとい、村に入ると装束を着て漫才を演じました。古老をつかまえては、地理を研究したということです。
「尾張國地名考」を尾張の殿様に献上して、大変賞賛されたということです。
嘉永五年(1852)77歳で没しました。

 ちなみに、我家にある「尾張地名考」は大正5年に発行された物を、昭和45年4月に愛知県郷土資料刊行会が復刻刊行したもので、販売価格は不明ですが、大正5年に刊行された「尾張地名考」は、「弐圓五拾銭(2円50銭)」と記されています。

 「根高の津島街道沿いに六合庵を建て、旅人に湯茶をふるまうかたわら、人々の話を聞いた」とか、「各地を見分するときに羽織袴を着ていると村人が敬遠するので…普段はボロをまとい、村に入ると装束を着て漫才を演じた」とあり、各地の古老から聞き出した昔話と研究が、現代にも貴重な古文書として残されています。

 私自身も、昭和63年から平成5年にかけて、ミニコミ紙「ふるさとアサヒ」を発行していたことから、地元に伝承されていた話や史跡を紹介していた時期がありましたが、その後の20年の空白は大きく、津田正生翁の足跡を考えると残された功績の大きさと、「天保4年58歳にして槍ヶ岳の頂(いただき)に立った」との話には驚きを隠せません。
 
 
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 添付したお店は、名古屋市の中村公園(豊臣秀吉が生まれたという豊国神社)前にある「お好み左慈」で、この辺りでは「チェリー」という著名人や国会議員も通う珈琲店の前にあります。

 チェリーのご主人は津島市の出身で、奥様は私の父親の同級生でしたが、2年前に他界されており、20年前に父親を送ってもらった恩返しもできないままになってしまいました。津島市(旧神守村)の人々には知られたお店で、ここに寄れば名古屋に出て行った人々の消息が判り、名古屋に出て頑張られた先人の話も聞けましたが、お元気だった姿を思うと世代交代に寂しさが隠せません。

                 本日の体重 71、1キロ  徒歩数 1万4386歩
                                                1月28日の一言

書の能力不足に自己嫌悪となる一日に

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世譽不足慕、唯仁為紀綱
 世間での誉れというものは追い求める価値などなく、仁をこそ基準としよう 
崔子玉(後漢の文人)がのこした『座右銘』の一節

 
 本日火曜日は、夜に書道会があり、これから開催予定の書道展に出品する作品の締め切りに迫られており、出来栄えは悪いものの中国の崔子玉によって残された「座右銘」の一節を記してこれを作品にしようと思います。
 
 自分の腕の悪さを実感させられ、私だけが仕上げが遅れており、恩師にせかされて書いていたものの、「世の評判は気にかけるほどのものではない。仁のみを拠りどころとすべきである」との一節の意味どおりに開き直りの作品です。
 
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 メンバーは色紙も作品として書き込んでいるものの、私は過去の書道展へ色紙を出展したこともありましたが、人生を目標にされるような大人物ではなく、書の腕もないため、色紙を出展するような立場でないと自覚しており、毎回「般若心経」の写経を出展しています。
 
 こちらについても、過去に仕上げた写経よりも腕が落ちており、書き上げたものの納得はできず、本日になって書き込む紙質の違いから、筆のすべりが悪いことに気づいたものの、元の用紙に替えてみても今度は不慣れなため書き込みできません。
 
イメージ 3 さて、書道会の会場としている事務所の2階には、平成5年に他界した父親の残した絵画や書が残してあり、練習のため書き残してあった紙くずの中に、表装して残したいような作品を次々と発見し、親が書き残した書も目にすると、未熟な私の作品では書道展への出展も取りやめたくなってきました。
 
 現在2階を大掃除している最中で、家内が捨てる物の中に入れていた書や墨絵の紙切れの中に、右に添付したような練習した絵を次々と発見し、このまま捨てるのは忍びなくなると同時に、まとめて発表したいような心境にもさせられました。
 
 どうしたものやら…

後藤さん不明、昨年11月に把握 首相、答弁で明かす
 
 
 
 
 1人の命を巡り、2億ドル(約236億円)という要求額にも驚かされますが、国王や国のトップ級を相手に交渉が行われているものの、元はと言えば内戦中の国で、一方に肩入れする資金援助や、イスラム国と戦うとしか思えない不用意な発言をした安部首相の責任は大きく、国内にも行方不明になっている人々や、北朝鮮に拉致された人々も放置されており、人の命について考えさせられてしまいます。

              本日の体重 71、0キロ 徒歩数 1268歩
                                    1月27日の一言

市役所より歯医者さんに通う回数が多くなり

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 私が入り浸っている場所ですが、ここがどんな処か判りますか?
 
 最近は2日か3日おきに通い、次は水曜日に訪れますが、ここが三ツ星印の隠れた料理店として紹介できれば幸いなものの、私が数年間通い続ける歯科医院で、最近は左の奥歯が痛んで歯茎が腫れあがり、一週間かけて治療が終わると、今度は右側の奥歯が痛みだす繰り返しが続き、正月休みや三連休は不安な毎日となります。
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 歯槽膿漏による歯肉炎ですが、予期せぬ硬い食べ物を噛んだり、歯が気になって舌で触りつづけると一晩で歯肉が腫れあがることもあり、遠出をするときは心配となり、このまま年齢を重ねると食べたい物も食べられなくのは確実となりそうです。
 
95歳夫が88歳妻殴った疑い 「浮気してると思った」

 杖で殴って88歳の妻を死亡させた罪で、95歳の夫が警察に逮捕される事件が高知県宿毛市で発生しており、逮捕された夫は「妻が浮気していると思い、口論になった。腹が立ったので後頭部を2~3回、杖で殴った」と容疑を認めているという驚きの発信です。
 
 ことの真意は判りませんが、浮気をしたと言われた88歳の妻にも驚きですが、95歳になっても浮気を巡って口論となったことと、杖で2~3回殴っただけで死んでしまった高齢者の結末にも驚くとともに寂しさを隠せません。
 
 こんな事件が起こるのも超高齢社会の象徴かも知れませんが、私のように歯の痛みをたえず抱えているようでは、こんな疑惑を考える余裕もなく、口論もできませんから、きっと健康なご夫婦だったと推測され、救急車を呼んだ子息の心境を考えると笑い話では済ませられません。
 
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 こたつの上へ背伸びして「転寝」する相棒リマ君ですが、こたつの上に寄り添って寝る癖は私のパソコンの横で待っていたことが癖になり、寝ているように見えても好物の食べ物が置いてあると隙を見て食べてしまうので安心はできません。
 
 もっともこれは、寝るためではなく、家族の話に一緒に加わるため、背伸びしてコタツに顔を出していた結果ですから、完全なる家族の一員になっています。
 
 当初は家族に叱られていましたが、あまりにも気持ち良さそうに寝ている姿と、我々の隙をついて食べ物をゲットするための行動を観察するのが面白く、最近では微笑ましいと放任されており、背伸びしてこたつに伏せる姿が当たり前になっています。
 
 こんな幸せが永く続くことを望みたいものですね。
                 本日の体重 71、5キロ 徒歩数 6953歩
                                    1月26日の一言
 

久々の映画鑑賞に名古屋へ

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 本日は名古屋市中川区にあるコロナワールドへ、映画「アゲイン」を鑑賞に訪れました。甲子園出場の機会を部員の起こした事件で逃した元球児たちが、マスターズ甲子園を目指す中で、28年前の事件の真相が判明し、各自が抱える家庭内の問題も解消していく感動作品です。
 
アゲイン 28年目の甲子園
監督 大森寿美男  出演 中井貴一 、波瑠 、和久井映見 、柳葉敏郎 、西岡徳馬 他
 
中川コロナシネマワールド http://www.korona.co.jp/cinema/nak/nowRoadshow.asp
 
 中川コロナでは映画の窓口料金は1800円ですが、夫婦のどちらかが50歳以上の場合に2人で訪れると1000円(現在は1100円・2人で2200円)で鑑賞できたため、2人で出かけてきましたが、6回入場すると無料となるポイントカードがあり、このカードは最後の鑑賞日から1年以上経過すると無効になり、今月26日が期限となっていたため慌てて訪れたのが真相です。
 
 もっとも、シニア割引もあり、60才以上は1100円で鑑賞でき、私は1人でも割引されるようになりましたから、2人で行く必要もなく、私の趣味にあわせて家内が鑑賞する必要もなくなりましたが、2人で出かけるには良い機会ともなります。
 
 さて、本日は上映されていませんが、月末より「エクソダス」という映画が上映され、この映画はかつて発表されたセシル・B・デミル監督の「十戒」と同じストーリーで、ヘブライ人の奴隷の子だったモーゼが王子から奴隷になり、エジプトのヘブライ人を開放に導く大作映画です。

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 十戒は昭和31年に制作された映画ですが、私は昭和40年代の高校時代に鑑賞し、「十回は見ないと」と言って何度も映画館を訪れ、2巻からなるビデオテープも購入し、鶴田浩二さん以外では唯一となる大好きな映画でした。
 
 この映画を見た当時、右足大腿部の骨髄炎が毎年再発し、長期間入院して手術を受け、高校の非行と併せて留年も体験するどん底時代だったことから、苦難が大きければ大きいほど、私に科せられた試練と思い、多くの旧約聖書を読み漁り、自分勝手に神と約束(契約)して病気が治るように祈願しました。
 
 そして、14歳から18歳まで毎年再発し、三度の手術を体験した骨髄炎は、翌年から発症しなくなりました。
 
モーゼの十戒
 1 神が唯一の神である
 2 偶像を作ってはならない(偶像崇拝の禁止。別の神を作っても拝んでも仕えてもならない)
 3 神の名をみだりに唱えてはならない
 4 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ
                              (6日間働いてすべての仕事をし、7日目はどんな仕事もしてはならない)
 5 あなたの父と母を敬え
 6 殺してはならない
 7 姦淫してはならない(結婚前、配偶者以外との性行為)
 8 盗んではならない(誘拐を指しているとの見解もある)
 9 偽りの証言をしてはならない
10 隣人家を欲しがってはいけない(妻、奴隷、牛、ろば等全て)
 
 神との約束はその後の私の人生にも大きな影響を残したと思いますが、四国遍路で真言宗の十善戒を厳守し、宇宙の真理である大日如来を拝むのも、キリスト教のもととなるモーゼやユダヤ教の教えが東洋にも波及し、中国から空海が真言密教を持ち込んだ壮大な歴史を考えると身震いが起こります。月末のエクソダスの公開が待たれます。
 
十善戒
不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。
 不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫(ふじゃいん) 不倫をしない。
不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。
不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。
不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
不慳貪(ふけんどん) 異常な欲を持たない。
不瞋恚(ふしんに) 異常な怒りを持たない。
不邪見(ふじゃけん) (善悪業報、輪廻等を否定する)誤った見解を持たない。
 
               本日の体重 71、3キロ 徒歩数 6595歩
                                      1月24日の一言

地元の大般若祈祷会に参加して

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 本日は町内の弘盛寺(高野山真言宗)で初弘法が開催されたので参加してきました。21日は真言宗のお寺では弘法会が毎月開催されており、私はこのお寺で午後から開催されている阿息観に参加していますが、今月は年の始めのため午前中の大般若祈祷会に出かけました。
 
 大般若経とは、大乗仏教経典で唐の玄奘(げんじよう)訳した600巻にのぼる経典で、別々に成立した般若経典(「仁王経」と「般若心経」を除く)集大成したと伝わり、空の思想を説き,真実智慧般若明らかにした、大般若波羅蜜多経をさします
 
 この経典を僧侶が読経にあわせて玉すだれのように開き、祈願者である参拝者も同じように経典をめくっているのが添付した写真で、この後に住職が般若経典で参拝者の肩や首などをトントンと叩いて祈願は終わりとなります。
 
 さて、本日の副住職の話では、お参りには願い事を祈願する読経と、先祖等を供養する読経の2種類があり、本日は祈祷会が行なわれており、参拝者の身体健全や家内安全などと読み上げられていましたが、私は「先祖代々」と記入していることに読経中に気づいたものの、やっぱり馬鹿ですね。考えてみると、薄暗い本堂の受付で、祈願する項目を記入する欄に、先祖供養と書き込んでおり、老眼鏡がないと何も見えない現実に甘んじている反省も必要です。
 
 さて、本日は私自身がメンバーの移送に関わっている名古屋市の志賀弘法友の会でも集会が行われており、家内が午前中に津島市からメンバーを名古屋市に送っており、夕方になってから名古屋市の大須観音の近くにある会場へ迎えに走りました。
 
 今年は空海によって高野山が開創されて1200年にあたるため、高野山でも多くのイベントが開催されますが、お寺から行事の案内をもらって参加を考えている人と、弘法会のメンバーとして参加を考えている人とは大きな違いを実感させられます。高野山に参拝して50年の経験と、修業体験は聞くだけでは体感ができません。
 
 名古屋から帰る車中では、四国遍路や百観音巡礼について花を咲かせ、弘法会の人々にとっては、私が4月の選挙で落選すると移送の依頼がしづらいため、「とにかく頭を下げつづけるんだよッ」と厳しい叱咤がありました。
 
                                本日の体重 71、4キロ 徒歩数 9386歩
                                    1月21日の一言

故人の残された絵画を眺めながら

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 この仏画は、今月94歳で亡くなられた古田實三さんの残された仏画で、ご遺族がはがき台に印刷して葬儀の参列者に配布されたものです。 (現物はもっと色鮮やかですが、カメラの写りが悪いためご容赦ください)
 
 落款を見ると、1995・11・24(平成7年)の書き込みがありますが、息子さんも大阪の大学で美術関係の要職に就いておられることから、お父さんの影響を受けられたものと推察できますが、私自身もお父さんの作品を見るのは初めてでした。
 
 葬儀場には故人の描かれたスケッチブックも置かれていましたが、素朴な味わいが絵ににじみ出ており、他の作品も見せて欲しいと思う魅力を感じましたが、ご本人の没後の話だけに残念でなりません。
 
 私の住む地域には、昭和40年頃から住宅団地が造成されだし、地元では知られていないものの各方面で活躍されていた人も多く、ご子息が転出されたことで埋もれてしまう遺産も多く、そのまま忘れられていってしまう現実に寂しさを隠せません。
 
 さて、古田さんの葬儀では、参列者からの香典を辞退されただけでなく、参列者全員に出身地である岐阜県の八百津町で醸造された日本酒「玉柏」という名酒が用意されていました。故郷である岐阜県と八百津を愛されていた故人と、残されたご遺族の意思を、我家に持ち帰った日本酒から感じさせられました。
 
八百津の蔵元やまだ http://www.kura-yamada.com/
 
 我家でも、平成5年に他界した父親の色紙が、20年以上の月日を経て、2年前にオークションに出されているのを発見し、オークションは一度も参加したことがなく、父親の色紙は知人に差し上げたもので絵画の価値もないため、「お金を払ってまで」と言う家族の一言もありましたが、私はいくらかかっても入手したいと思いました。
  
父親の色紙を発見して  2013/8月 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/47503475.html
 
 所有者のご好意により感動の里帰りとなりましたが、現在は仏壇の横に置いてあるものの、我家には父親だけでなく、父親の恩師や仲間の絵画が多く残されており、横井庄一さんの残した遺品も2階で展示していますが、いずれは保存する場所に困るのは目に見えています。
 
 今晩のテレビ番組で「なんでも鑑定団」が放映され、遺族の残した作品が鑑定されていましたが、資産的価値は無いものの、我家に残された多くの作品を見ながら、横井庄一記念館も含めて、先祖の残した遺産の維持を考えさせられる一日ともなりました。
 
               本日の体重 70、4キロ 徒歩数 7931歩
                                     1月20日の一言 

日々進化するスズメの知恵に

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自分で持ってきたティシュペーパーで遊ぶピーちゃん
 
 ピーちゃんのいる部屋のパソコンの前に座ると、バタバタと鳥カゴの中で跳び回り、扉を開けるようにアピールするため、扉を開けて無視していると飛んできて、それからも無視していると、本日はティシュペーパーを咥えて持ってきました。
 
 ピーちゃんを保護した時から、小さなカゴやテッシュペーパーの箱に、ティシュを敷いて巣のようにしてあったため、目が開いた時から毎日ティシュを見ており、現在も鳥カゴ内に置いてあるティシュの箱の中でティシュに潜り込んで遊んでいます。
 
 それにしてもスズメの知能には驚かされ、私の手の平の上にティシュを持ってきたことは、私の手を巣にするつもりか、一緒にティシュで遊ぶために持ってきたとしか思えず、日々進化するピーちゃんの頭脳にびっくりです。

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 こんな状態では何もできず、無視してパソコンを作動させているとキーボードの上に乗ってくるため無視もできません。下に添付した写真は、居間のコタツに入った私の手から、家内の調理の様子を観察中のピーちゃんです。
 
 本日は早朝の会報配布に続き、午後にも会報配布に市内を歩きましたが、柿の木に大量のスズメが止まっており、近づくと一斉に飛び立っていき、総てのスズメが1羽の離脱もなく移動していく姿に、我家のピーちゃんは一緒に行動する仲間が存在しない事と、仲間ができないまま一生を送る可能性を考えると悲しい現実です。
 
 来春に偶然スズメを保護するか、飼育できない人からでも依頼があるなど、仲間ができることがあれば最高ですが、冷たくなってほとんど動かなかった保護した当時の状況を考えると、大変だった飼育の日々を忘れるほど今は夢のような日々となりました。
 
               本日の体重 71、3キロ 徒歩数 1万5491歩
                                      1月19日の一言

ネット投稿の少年逮捕に思う

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津島市内午前6時30分 鉄塔の右は児童科学館のドーム
 
 私は大学3年次の時に、朝日新聞名古屋本社の販売次長の勧めにより、一度も新聞配達の経験がないままに販売店の店主と(学生は店主になれないため、サラリーマンの父親名義でしたが)なり、平成11年に議員になるまで23年間毎日のように眺めていた日の出風景ですが、久しぶりとなるだけでなく、年齢を重ねたためか大自然の中で生かされているというような感動を覚えるようになってきました。
 
 スーパーで菓子の容器につまようじを入れたり万引きをする動画をネットに投稿させた少年が逮捕されましたが、日本中の大きな話題になったものの、最近当たり前のように連続する殺人事件のような凶悪犯とは違うため、生活を矯正してやり直せる可能性を見出してやりたいものです。 
 
 
ようじ混入動画、19歳逮捕 店舗侵入容疑、滋賀で確保 
記事の続き…
 同じアカウントからは昨年12月以降、東京都調布市のスーパーで菓子の容器につまようじを混入したり、別のスーパーで飲み物を万引きしたりするような動画が20本以上投稿された。同庁は今後、威力業務妨害などの疑いでも調べる。
 一方、同庁が少年の自宅を家宅捜索した際、容器に穴の開いた菓子を押収。同庁は、少年が事前に用意した商品を使って万引きなどを装った動画の投稿を繰り返していた可能性もあるとみている。
 
 逮捕された少年については、逮捕される前から実名や顔写真がネット上に発信されており、少年自体も「少年法の改正」を犯行中のネットで訴えているものの、少年のプライバシーが護られなくなっているネット社会についても見直しが必要に思います。
 
 少年法によって冷酷な凶悪犯が責任を免れるのは許せませんが、我々の少年時代には大人や親が叱って現場で許されていた軽微な犯罪が、パトカーに乗せられて警察に連れられていき、司法の審議を受けている少年も多数に上ります。
 
 数年前の話となりますが、中学生が集団で遊んでいる現場に、ナンバーのないバイクが置いてあり、自転車のシールで学校名を確認し、学校に電話連絡して一緒に注意しようとすると、応対した教員は現場に来る意志はなく、「不法行為は警察に連絡してください」との言葉が返ってきました。私は警察に連絡する意志は全くなく、逆に応対した教師と口論になり、学校の指導方法をめぐり教育委員会に連絡しましたが、最近の学校は何でも警察に連絡する体制になって現場に出てきません。
 
 生徒同士の喧嘩についても、親を呼んで厳重注意に留めるか、警察に連行されて裁判所の判断を仰ぐかの判断によって、当事者のその後の生活環境に大きな違いが生じていきます。私の少年時代は非行と高校の落第の繰り返しで、そこに闘病生活も加わり最悪でしたが、18才になって初めて理解ある恩師と出会い、この歳から3回目となる高校1年生で出直し、恩師の勧めで大学まで進学しました。
 
 恩師と出会う前に、自身の招いた二度の落第と闘病生活(右大腿部骨髄炎)に八方塞となり、真剣に「やくざ」になりたいとさえ思っており、こんな時の出会いは重要です。
 
 自身の体験から、少年によってはやり直しも可能と思い、高校を退学した生徒や問題のある生徒を意図的に雇用し、中には夜間高校を卒業したり、新聞社の奨学金制度を利用して新聞配達をして大学に進んだ者も存在します。
 
 本日朝に私が眺めた日の出風景を、逮捕された少年にも清々しい気持ちで眺め、こんなすばらしい自然界の中で自由に行動できる機会を与えてやりたいものです。
 
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 あまり露出させると娘に叱られますが、自転車にまたがる孫の姿です。孫が大人になるまで生きておれれば幸いですが、孫には上高地や京都、四国遍路の魅力を常々伝えており、真っ直ぐに成長して欲しいと願っています。
 
                本日の体重 71、4キロ 徒歩数 6188歩
                                     1月18日の一言

阪神・淡路大震災から20年も経過し

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私のパソコン前で遊ぶピーちゃん 秘書になったつもりかも
 
 6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から20年も経過し、新聞を見るまで本日がその日になることを忘れており、20年前の地震発生時となる午前5時46分に、本日も偶然ですが地震を体感した場所の近くにいたことにもびっくりさせられました。
 
 20年前の地震発生時に、私は朝日新聞の津島市と七宝町の販売店主をしており、当時は携帯電話を所持していなかったことから、無人となる七宝店の配達終了を確認するため、市内の公衆電話で通話中に大きな揺れを体感しました。
 
 愛知県でも私が過去に経験したことのない揺れがあり、公衆電話に両手をついても倒れそうな衝撃があり、今でも当日の様子が忘れられませんが、本日も午前4時から会報配布に走っており、意識しないままその公衆電話(現在は公衆電話が無くなりました)周辺を配布していました。
 
阪神大震災20年、各地で追悼行事 教訓継承の決意新た
 
 地震発生直後に、車のラジオから流れてくるニュースでは、地震は大きいものの被害は甚大とは発信されず、帰宅後の朝食時になってテレビ画面から衝撃的な映像や、火災が拡大していく様子が放映されだしました。
 
 東日本大震災にも大きな揺れを体感しましたが、東日本大震災は揺れが長く続き、車に酔うような嫌な気分になったものの、阪神・淡路大震災は揺れ幅が大きく、電柱や電線など建物の揺れが大きく、立っておれないような衝撃を感じました。
 
 本日の報道により、震災時に生まれた子供が成人して頑張っている姿や、生まれたばかりの子供を失った人々の背負った悲しみが、自分のことのように感じさせられ、平和ボケになっている自分の反省も必要に思いました。
 
和歌山)高野山で毎年恒例の「托鉢寒行」
 
 さて、 本日の新聞報道では、高野山真言宗の総本山金剛峯寺(高野町)で16日、毎年恒例の「弘法大師報恩托鉢(たくはつ)寒行」が営まれ、150人の僧侶が黒い法衣に網代笠姿で町内の商店や住宅を回ったとの記事がありました。
 
 寄せられた浄財は、盲導犬育成や震災復興などの事業に役立てられるそうですが、社会福祉に力を注いだ弘法大師の精神を引き継ぐ活動で、9班に分かれて各家を訪れ、店の入り口や玄関先で般若心経を唱えて托鉢に廻る姿に、我々にも実践できる社会貢献の可能性を実感させられます。
 
 本日は、個人的には市民の身の上相談に応対する一日となりましたが、こんな私でも頼りにされていることに責任を感じる一方で、家族間で話し合えば理解できる簡単なことが、他人には論理的に話せるものの、我家にも同じような問題が発生している現実を、自分自身で解決できないのも現実です。
 
                本日の体重 71、9キロ 徒歩数 4479歩
                                     1月17日の一言

保健センターで指導を受けて…

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我家から500メートルの距離にある椿市町の氏神様へ夕陽が沈んでいきます 
 
 本日は保健センターで管理栄養士さんの指導を受け、指導を受けて半年間で8キロの減量を果たしたことと、何とか肥満と呼ばれる体重から標準体重(ギリギリですが)となり、今後は現在の体重を維持していくことの確認を行いました。
 
 6月27日 79,8キロ 最初に指導を受けた日
 7月17日 80、5キロ
 8月23日 80、1キロ 最後の80キロ台
 9月16日 78、2キロ
 9月30日 75、8キロ
10月16日 74、3キロ
11月16日 73、5キロ
12月16日 72、4キロ
 1月 1日 71、9キロ
 1月10日 70、5キロ 半年間で最小体重
 1月15日 71、1キロ
 
 今年に入り、歩く事で体重を維持できており、8キロも減量して身体が軽くなったことと、シューズの中敷を換えたことで、小走りが可能になり、体重が減らない場合は500メートルほど走れば体重が落ちることが判りました。
 
 一方で、歩く事と、走ることで安易に体重が減らされることから、食事へのこだわりが希薄になっている面が自覚されることと、間食も増えているため、今一度の食習慣と生活習慣の見直しも必要になってきます。
 
 この一言に体重を記すようになって半年が経過しますが、同じことの繰り返しはマンネリ化し、役務的になると苦痛になる可能性と、油断すると元通りにリバウンドした過去の経験から、これからの体重維持は重要です。次の指導日は3月…
 
              本日の体重 71、7キロ 徒歩数 10055歩
                                     1月16日の一言

舒明天皇が最初に葬られた古墳との報道に

 奈良県明日香(あすか)村の小山田(こやまだ)遺跡から現れた未知の巨大遺構について、舒明(じょめい・641年没)天皇が最初に葬られた墓(初葬地)の一部ではないかと報道されています。
 
 第30代敏達天皇と伊勢大鹿首(いせのおがのおびと)小熊の娘莵名子(うなこ)の孫にあたるのが第34代舒明天皇で、大鹿氏は伊勢国では天皇系譜につながる唯一の古代氏族として注目されており、多気郡の相可(おおか・現多気町)を大鹿氏の本貫地とする説と、北伊勢の河曲郡(現鈴鹿市)に大鹿(おおが)氏の本貫地があったという説とがあります。
 
舒明天皇最初の墓?蘇我蝦夷? 未知の古墳、見立て様々
記事の続き…
 舒明は、在位中に聖徳太子や馬子が活躍した推古天皇と、大化改新のきっかけとなり蝦夷・入鹿(いるか)父子が倒されたクーデター「乙巳(いっし)の変」を見届けた皇極(こうぎょく)天皇(後に再び即位して斉明(さいめい)天皇)の2人の女帝に挟まれて目立たない印象だ。だが橿考研の今尾文昭調査課長は「舒明天皇は、蘇我氏の氏寺だった飛鳥寺を上回る規模の百済大寺(くだらのおおでら)を造営し、八角形墳を原則として天皇だけが築ける墓として採用するなど、蘇我氏に対抗した人物。再評価の必要がある」と指摘する。
 なぜ改葬されたのか。今回の遺構が舒明の初葬地の可能性が最も高いとみる猪熊兼勝(かねかつ)・京都橘大名誉教授(考古学)は「舒明の没後、妻の皇極天皇が即位すると、蘇我氏はそれまで力が均衡していた天皇家より優位に立った。蝦夷、入鹿父子は甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅を造って周辺を開発。丘の南端にあった舒明陵も改葬させたのでは」と推測する。
 一方、一帯には石舞台古墳や甘樫丘のほか、石を階段状に積み上げた特異な大型方墳で、蝦夷の祖父、稲目(いなめ)の墓説もある都塚(みやこづか)古墳がある。そのため蘇我氏の関連ではとみる識者もいる。
 大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長(考古学)は「7世紀前半から中ごろの飛鳥は蘇我氏の本拠地。蘇我氏と張り合った舒明がそこに墓を造ったと思えない」と指摘。遺構は、蝦夷が生前に築いたと日本書紀に記された「大陵(おおみささぎ)」と推測する。
 前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)も、石舞台と堀の石張りが似ていることから蝦夷の墓説を取る。「馬子が飛鳥の南東の出入り口である島庄(しまのしょう)に邸宅と石舞台古墳を造り、息子の蝦夷は南西の出入り口にあたる甘樫丘周辺に邸宅と墓を築いたのでは」
 奈良県立図書情報館の千田稔館長(歴史地理学)は舒明の初葬地、蝦夷の大陵のほか、舒明の妻・斉明(皇極)天皇が661年に没してから667年に正式に埋葬されるまで仮埋葬された初葬地の可能性を指摘する。
 和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(日本古代史)は「飛鳥の東西を走る主要道路沿いにあり、皇族の居館という印象だ」と古墳との推定を疑問視する。石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)も「居館や苑池(えんち)の可能性もあり、古墳と決めつけるのは早い」と釘を刺す。
 
 歴代天皇一覧
1 神武 2 綏靖 3 安寧 4 懿徳 5 孝昭 6 孝安 7 孝霊 8 孝元 9 開化 10 崇神
11 垂仁 12 景行 13 成務 14 仲哀 15 応神 16 仁徳 17 履中 18 反正 19 允恭 20 安康
21 雄略 22 清寧 23 顕宗 24 仁賢 25 武烈 26 継体 27 安閑 28 宣化 29 欽明 30 敏達
31 用明 32 崇峻 33 推古 34 舒明 35 皇極 36 孝徳 37 斉明  38 天智 39 弘文
 
              皇室飛鳥時代
┬(27)安閑天皇
├(28)宣化天皇─上殖栗皇子─十市王─(多治比)麻呂─島(丹党祖?)
└(29)欽明天皇┬(30)敏達天皇┬忍坂彦人大兄皇子┬(34)舒明天皇─→
       │       ├春日皇子    └茅渟王┬(35)皇極天皇/(37)斉明天皇
       │       ├大派皇子        └(36)孝徳天皇─有間皇子
       │       └難波皇子─大俣王─栗隈王─美努王─(橘)諸兄(葛城王)〔橘氏へ〕
       ├(31)用明天皇─┬┬聖徳太子(厩戸皇子)─山背大兄王
       ├(33)推古天皇 │├来目皇子
       ├(32)崇峻天皇 │├当麻皇子
       └穴穂部間人皇女 ┘└殖栗皇子
 
 
 さて、今から30年ほど前の話になりますが、隣村の「大大鹿」と呼ばれる大鹿家に残されていた古文書を解読してもらったところ、大鹿の先祖が現在の三重県鈴鹿市から海路で現在の津島市に移動してきたことが記されており、鈴鹿市に大鹿(おおか)三宅神社という古墳が存在することが判りました。
 
 三重県鈴鹿市や、伊勢の皇學館大學では伊勢の古族大鹿氏や、国分寺跡や大鹿氏ゆかりの廃寺などの研究が行われていたことから、私も20年ほど前に資料を収集していた時期がありました。
 
 今回の新聞報道を読み、今から1400年、1500年前の様子を連想するとともに、敏達天皇の夫人となった伊勢の大鹿首の娘莵名子や、2人の皇女を生み糖手姫(ぬかてひめの)皇女から第34代舒明天皇誕生までの様子や、舒明天皇の子天智・天武天皇の時代までを想像する一日ともなりました。
 
 3年前に鈴鹿市の長者屋敷跡や国分寺跡と思われる土地に立ち、いにしえからの呼びかけに耳を澄ませたことがありましたが、百歳の人が14人バトンタッチしただけの年代差しかないと思っても、何一つ聞こえてくるはずもありません。
 
 今回の報道についても、舒明天皇の墓ではないとの意見もあり、奈良県立橿原考古学研究所には更なる調査を続けて欲しいと希望します。
 
 昨日に名古屋まで事務用整理棚を探しに走りましたが、同じ寸法の棚は存在せず、値段も書庫以上に高額だったことを聞いた知人から、近くのリサイクルショップをすすめられ訪れたところ、全く一緒の棚が置いてあり、軽トラックを無料で貸してくれ乗せてもらいました。
 
 持ち込まれて、店頭に並べる前の棚だったようで、段取り良く自宅に持ち帰ったのは良かったものの、大きくて事務所の中に入れられず、結局分解して事務所の2階に持ち込むだけで夜になってしまいました。
 
                本日の体重 71、1キロ 徒歩数 3113歩
                                      1月15日の一言 
追伸
年代の経過によって、大鹿も「おおか」から「おおしか」になりました。

店頭で柿を衝動買いしました。

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 添付した柿は名古屋市内のスーパーで購入してきた柿で、時期はずれの柿にびっくりした衝動買いですが、昨年まで柿なんて気にもならず、柿そのものを買う気持ちすらなかったものの、柿が相棒リマの一番の大好物になっていることから金額も見ないで買いました。
 
 もっとも、柿が相棒の大好物と判ったのは、我家のガキ大将「スズメのピーちゃん」に柿を与えていた時に、欲しがるため仕方なしに与えたのが初めてで、以来「カキ」と聞くと走ってくるようになりました。
 「ピーちゃん」についても、柿を食べに来ますが、ピーちゃんの一番の好物は蜂蜜で、甘い菓子や煎餅の方が好きそうです。
 
 さて、りんごやイチゴのように一年中販売されている果物と違い、柿は秋だけの味覚と思っていましたが、今回購入してきた柿はまだまだ堅く、しばらくは置いていけますが、岐阜県産の富有柿で、冷蔵貯蔵されていたものです。
 
 
柿が年中販売されてないのはなぜ? http://okwave.jp/qa/q7481362.html

 昨年訪れた和歌山県の九度山町も柿の産地で、過去に食べたことのないような大きな甘い柿を、高野山の道中の畑でお接待としていただき、宿では渋柿をアルコールで甘くした柿もいただいたことから、我家の渋柿をブランディに漬けて甘くした柿が冷蔵庫に保存してあります。
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 右に添付した写真は、2ヵ月前にウイスキーにつけた我家の渋柿ですが、現在もほぼ同じ状態で冷蔵庫に眠っており、渋柿をウイスキーにつけたのは初めての体験だったものの、見事に甘く変身しました。
 
 珍しいから衝動買いした柿でしたが、これも買い物に出かけない私ゆえに珍しいだけの話で、1個200円近くもしたことから、「柿を買うくらいならイチゴの方が良い」との家内の一言が消費者の声なんでしょうね。
 
 「柿は果物として致命的なことにジャムやジュースなどの加工に不向き」とか、「輸入するほど需要が高いわけではありません」との書き込みのとおり、200円でも高いと言う家内の一言は的を得ています。
 
 本日は市役所の仕事が午前中に終わったため、名古屋市まで事務整理棚を購入しに走りましたが、かつては安価だった棚が見当たらず、立派な書庫や整理箱の方が品揃えが良いだけでなく安く陳列されており、消費者ニーズが変わったとの話に、30年前に購入した棚と同じ物を探していた自分の「浦島太郎」ぶりを実感させられました。
 
 かつて、この会社へ案内していただいた恩人どころか、私の同級生ですら全員が定年退職している年齢から、何を言ったところで馬の耳に念仏で、恩人は当時の社長の兄弟でしたが、そんな昔話をつい先日のことのように思って訪れた自分のこだわりが滑稽に思える一日となりました。
 
               本日の体重 71、1キロ 徒歩数 7768歩
                                    1月14日の一言

懐かしい風景と、高齢化の現実問題に

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 津島市内のお宅ですが、私が学生時代に起業した朝日新聞販売店のお客様で、私が学生の素人経営者のため色々と親切にしていただいたお宅です。
 歴史のある名家で、何も判らない無礼な私でも緊張して訪問していた懐かしいお宅でもあります。世が世であれば、開門した屋敷の中からお城に登城する家主が籠で出てきそうな雰囲気です。
 
 「こんにちわ」
 「あら、久しぶり」
 「ところで、ご主人は?」
 「なんとか元気でやっているわ」
 「ホッとしました」
 
 議員になって16年を迎えており、かつて配達や集金で毎月のように顔を会わせていた人々と疎遠になっていることと、高齢化しているため「元気ですか」と聞くことも、亡くなられているケースもあり、元気と判れば安心ですが、現実に多くの人々が鬼籍に入られています。
 
ペットに遺産を 飼い主高齢化、世話を「信託」
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 ほかに、飼い主亡きあとのペット対策としては、動物を財産と見なし、世話を条件に相続する「負担付き遺贈」などの方法もある。だが司法書士の河合さんは「信頼できる親族らがいる人しか使えず広がっていない」と話す。
 内閣府の2010年調査では、ペットを飼っている60代は36・4%、70代以上は24・1%に上る。一方、国立社会保障・人口問題研究所は、65歳以上の一人暮らし世帯は35年には762万世帯と、25年間で1・5倍になると推計する。
 ペットの寿命はペットフードの改良などで延び、ペットフード協会の14年度調査では、犬の平均寿命は14・17歳、猫は14・82歳と、4年でそれぞれ0・3歳と0・46歳延びた。また、犬や猫を飼う意思があるのに飼えない理由を年代別に聞くと、70代では「最後まで世話をする自信がないから」が約3割で一番多かった。
 東京都獣医師会の村中志朗会長は、涙を浮かべてペットを飼うのを諦める高齢の飼い主を何人も見てきた。「高齢者が心身ともに健康に過ごすためにも、安心してペットを飼える仕組みを社会全体で考える時期にきている。信託という方法もその一つだ」と話す。
■遺品整理、押し入れからやせ細った猫
 実際、飼い主の死亡で取り残されるペットが増えている。
 東京都の遺品整理業者「ガーディアン」の高橋満さん(42)は昨年9月、神奈川県の団地の一室に入った。60歳前後の男性が布団の上で死後約4カ月たって見つかった孤独死。作業を始めると、別の部屋の押し入れから5、6匹の猫が出てきた。室内には未開封の缶詰のキャットフードが山積みになり、風呂場の浴槽にわずかに水がたまるだけ。体が大きい1匹以外はやせ細り、ケンカをしたのか体には血が付いていた。
 高橋さんは「首輪がゆるゆるになった犬など、遺品整理の現場でペットを見つけるのは珍しくない。可愛がっていたんだろうなあと、故人の生前を思い浮かべながら作業します」と話す。「遺品整理士認定協会」(北海道)によると、孤独死や入院など高齢者関連の依頼の2~3割にペットが関わっているという。
 環境省によると、12年度に全国の動物愛護センターなどに引き取られた犬と猫は約20万9千匹。引き取り条件を厳しくするなどして10年間で殺処分数は6割減ったものの、同年度は約16万1千匹が処分された。
 東京都動物愛護相談センターが12年度に飼い主から引き取った327件(550匹)のうち、飼い主の死亡(22%)や入院など(18%)の理由が4割を占め、新しい飼い主が見つからない場合は殺処分された。センターの担当者は「飼い主の高齢化を理由にした引き取り件数は今後も増え続けるだろう」。高齢の飼い主向けに、自分が世話できなくなったあとの準備の必要性を訴えるパンフレットをつくることを検討しているという。
 
 私の3メートル横に寝ている相棒リマと、カゴを開けておくと私を目標に飛んでくるスズメのピーちゃんの居ない生活は考えられませんが、ペットの寿命が伸びている反面で、70歳を越えた人々は「最後まで世話をできない」とペットが飼えない人々の存在が発信されてきます。
 
 ペットを飼っている60代は36・4%で、70代以上は24・1%と言う現実と、今から20年後に65歳以上の一人暮らし世帯が762万世帯になるとの予想は、家族もなく孤独な独居老人にとってペットの存在は大きいことから、高齢者もペットと安心して生活できる環境づくりは急務と思われます。
 
 
 現在福祉施設に入所している叔父から、体調不良から飼っていた柴犬を預かったことがありますが、開いた戸から飛び出して車に轢かれてしまい、死んだ愛犬をなでて「家においておけば良かった」と泣いていた叔父の姿が今でも忘れられません。
 
 私が高校時代に飼っていたニワトリについても、私が入院したことで餌が与えられず、退院したときには餓死しており、家族が存在するから安心なようですが、飼い主の不在はペットには大変な事態を招く可能性があります。
 
 ペットと至福の毎日を送っているだけに、本日の新聞報道が深刻に思えるとともに、ペットより心の支えにならない息子たちの存在を実感させられる一日となりました。
 
             本日の体重 71、4キロ 徒歩数 1万4376歩
                                   1月13日の一言

爺さんとピーちゃんのキャッチボール

ピーちゃんの散歩
 
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「おい、今から行ってくるぜィ」
ピーちゃんが女性の場合版  「ちょっと行ってくるわねッ」
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「おーい、こんなもんだぜィ」
女性版  「お父さん、どう?元気でしょうー」
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「どうだい、まだまだ飛べるぜィ」
 女性版 「見て、見て、上手でしょう」
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「おーい、今からいくぜーィ」
 女性版 「上手に受け止めてよッ」
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「帰ってきたぜィ」
女性版 「待っててくれて有り難うねッ」
 
 我家には相棒リマがいるためペットの主役にはなれませんが、私にとっては相棒より格上になっているのが「ピーちゃん」で、私の声が聞こえるとカゴから出たいとアピールし、出せばカゴに戻りたくないため私の腕はフン塗れになってしまいます。
 
 スズメを保護した経験を持つ人の発信に、運動のため部屋で飛ばした後に戻ってこないため捕まえるのに苦労した体験談がありましたが、幸いにしてピーちゃんは捕まえる必要はなく、私の手か肩の上に戻ってくるため安心です。
 
 本日は会報を配布する予定でしたが、来客が続いたことから足が止まってしまい、ピーちゃんの相手をしていると刻々と時間が経過していきます。
 
 「チュン、チュン」                  翻訳版 「お父さん、お父さん」
 「うん、うん」                          「何だ、何だ」 
 「ピョッ、ピョッ」                        「こっち、見てよ」
 「うーん」                            「うん」
 「ピー、グチュグチュ、ヒー、ヒィ、ウィッチュ…」     「あれや、これや、ちゃんとしてよ」
 「ほい、ほい」                                                     「判った、判ったよ」
 「ヂュー、ヂュー」                       「聞いてないくせにッ」
 
 こんな一日もありですね…
 
               本日の体重 71、7キロ 徒歩数 6794歩
                                      1月12日の一言
 

久々に相棒と名古屋までドライブへ

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津島市の消防出初式が本日の朝9時から天王川公園で開催されました。

 
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午前11時からは津島市文化会館で成人式が行なわれました。
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 最近では私がスズメのピーちゃんと一緒に居ることが多く、それを見る度にストレスを溜めている相棒リマでしたが、本日は久しぶりに名古屋行きに同行させ、「おいで」と呼ぶと自分の指定席となっている助手席に座ります。
 
 相棒リマ(ポメラニアン雄)は、平成21年12月に3ヵ月の約束で長男が預かってきたものの、私の小学生の頃に飼われていたスピッツの「マル」が戻ってきたと勘違いするほど顔が似ており、一緒に車に乗せ、一緒にコタツで寝ているうちに別れられない関係となり、返す日を延ばしているうちに飼い主の都合で我家の家族になりました。
 
 最初に連れられてきた時に、車で連れてこられたためか、私の助手席で外を眺めることが好きで、添付した写真のように車窓から景色を眺め、車で外出するときにはついてきたがり、買い物だけでなく、旅行にも家族と一緒に乗せて行きます。
 
 3年前に旅先でリマと一緒に寝るためテントを買い揃え、家族が宿に宿泊しても、私だけはリマと一緒に車中泊となり、相棒を主役にしたドライブや旅行を続けてきましたが、最近では私の5歳になる孫が私の助手席に座りたがるため、久々に主役となるドライブになりました。
 
 本日の名古屋行きは、事務所の2階を整理するための整理棚を購入するためでしたが、店舗はシャツターが降りており、日曜・祝日は休みであることが判り、引き返しましたが…
 
 「火曜日に来ようか」
 「どこか近くで買ったらどう?」
 「ここは安いから…」
 
 本日訪れた事務機の栗田商会は、安いことはもちろんですが、今から30年ほど前に私が店舗を新築した際にイスや書架などを購入しており、ここの社長の弟になる知多の早川さんは名鉄の資材部長を務められた人で、私のために知多の営業所に出向き、名古屋本店まで同行していただいた恩があります。
 父親の職場である名鉄の先輩たちが、私のことを家族のように心配してくださり、少しでも私が得をするように同行していただいたり、親切にしていただいた恩は忘れたくありません。 
 
 
 さて、名古屋からの帰り道に、久しぶりに横井庄一記念館に立ち寄り、話に花を咲かせていましたが、家内と一緒に訪れたため、「あんたたち、何か話があったんじゃないの」と、88歳の独居老人を心配して訪れたのに逆に心配されてしまいました。
 
 記念館の前の道路が拡幅されるため、削られる分を隣の土地と交換する話になっており、「先で家も建てられるからね」と先の長い話があった反面で、「あと一年位は生きられそうだから…」と聞きたくない話があったり…
 
 横井庄一記念館の存続について、私自身も無責任ではおられない話をした過去があり、夫人が亡くなった後も存続させるため、具体的な計画を実行すべき日時が経過しており、最近夫人と同年や同世代となる著名人の訃報が続いているだけに、何とかしなければと思う一日ともなりました。
 
               本日の体重 71、5キロ 徒歩数 3407歩
                                   1月11日の一言
 
 

我家ではピーちゃんが離れません

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 昨晩から歯が痛み出し、歯肉が完全に腫れあがったため、午前中に歯医者さんに走り、喉のリンパ節も痛むため、本日は完全休養日と決め、事務所裏のパソコンの前に座ると、「おーい、ここだ、ここ !! とばかりにピーちゃんの独演会です。
 
 ただし、鳥カゴを出すだけでは済みません…
 
 ピーちゃんのお気に入りは私の右手の上で、パソコンのボタンを押す間は牛に乗るカウボーイのロディオのように踏ん張っており、邪魔だから排除すると添付した写真のように、手の裏側から登場し、無視しているとキーボードにフンを落とすためかかりっきりとなります。

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「おい、オレにもよこせ !!
 
 私の食べるものは何でも自分の物と思っているのか、食い意地が張っているためパンでも菓子でも何でも食べにきて、相棒リマのように欲しいと意思表示もしないままに喰らいついてきます。
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「何だ、何か文句でもあるのかい?」 ジロリ…
               「いえ、いえ、何もありません」
 
 こんな調子で私から離れませんから、トイレにも行けず、勝手に「チュッ、チュン」と鳴かせて無視していると頭の上に移動し、頭にフンをされたら困るため、私の右手が直ぐにやってくることを見越したような行動をします。スズメって賢いんですね。
 
 「チュン、チュン」
 「はい、はい」
 「クチュッ、クチュン」
 「うん、うん」
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 私の右手と左手を行き来し、気まぐれに頭上を飛び回り、疲れると添付した写真のように居眠りをはじめ、呼びかけて起さないとそのまま眠ってしまいます。
 私の右手と袖口はピーちゃんのフンに塗れ、掃除係にされていますが、こんな関係は私だけで、毎日水を換えてカゴを掃除している家内でも寄って行かず、指を出せば突付いて嫌がり、ちょっとした物音や騒音にも警戒する臆病者とは思われないでしょうね。
 
 事務所の横には、いずれ社会復帰させるためにピーちゃんの食べ残したエサを蒔いており、朝や夕方には仲間が寄って来るようになりましたが、肝心のピーちゃんがスズメの姿を見たことがなく、鳴き声には反応するものの、自分の仲間と思っていないことも寂しい現実です。この中に、ピーちゃんの両親や兄弟が存在する可能性から、私のスズメを見る気持ちも大きく変わりました。
 
                本日の体重 70、5キロ 徒歩数 3903歩
                                    1月10日の一言
追伸
半年前から初めての70キロ台に減量となりました。
                                                                   
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源義経…下田の弓掛松と百(丁)町矢塚 

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愛知県津島市百町の矢塚(矢落の社)
 
 旧七宝町(現あま市)の下田に、弓掛松という史跡があり、旧東海道の熱田と桑名間の海路を迂回する脇街道となる佐屋街道を、京都に向かう源義経が弓を掛けたという松があり、私は昭和48年に三代目と伝わる松をスライド写真に収めたことがありました。
 
 この時にも虫食いにより枯れかけでしたが、松が個人宅にあったことと、行政の文化遺産としての認識が希薄だったためまもなく枯れ、現存する松は適当に移植されたもので、歴史好きな人々から五代目の松と発信されています。
 
 この地から南西方向に向かって義経が射た弓矢が、百丁先まで飛んで落ちた場所が現在の津島市百町の地名になり、大正時代に発行された尾張名所図会には、落ちた場所に「矢落しの社」を建てたと記されています。
 
義経弓掛松
 下田村にあり。九朗判官ここより強弓を放ちて試みられけるに、百町を通りて其矢落ちたりしかば、其所を百町村と名づけ、そこに矢落の社を建てしといひ伝えへし古跡にして、今もなお松一株あり。是其時に弓をかけられし松とて、里人かくいひ伝えしなり。
                                      尾張名所図絵 大正8年発行
 
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 近くの八幡社に笹の茂みがあるため、ここを矢塚と勘違いしている人も多く、私も矢塚の正確な位置は本日まで確認したことがありませんでしたが、塚の周りの水田の所有者の方の案内によって訪れる機会に恵まれました。
 
 百町の矢塚は道路から入った水田の中にあり、細い畦道があるものの、農繁期は長靴を履いても入れそうにもないことと、場所と由来を示す掲示板や案内もないため訪れる人もなく、地元でもほとんどの人が存在すら知りません。

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 さて、矢塚(矢落の社)については、昭和14年に発行された「郷土研究神守」の中に、義経が下田の弓掛松周辺から放った遠矢の行程を住民に尋ねると、「百丁(10、9キロ)」と伝えたことを不思議に思い、探し出すと浜辺の平野家の庵室の地で発見し、老翁の風格を慕って2泊して語りあったと記され、その後この「矢落塚」の因縁から、「百丁」が「百町」と記すようになったと記録されています。矢塚については、この時の落ちた矢から根が生え、その竹は逆さに立って枝が下方に向いて出たと伝わります。
 
 源義経の真意はさておき、このときに持っていた蛭子の像一体を記念として老翁に与え、この像はこの地に再建された堂宇で大正2年に盗難にあうまで保存されていたことと、この百町には不思議な伝承も多く、元々が海岸線の浜辺で、水害により記録された書物も少ないことから今一度書き記すことが必要に思います。
 
 会報を配布するために地域を廻っていますが、本日は私の子供や家内を知る人と、まとまらない縁談について談笑し、私より10歳年長の先輩とは母校の昔話や恩師の思い出話に花が咲き、水路として舟を使った農作業にも話が及びました。
 矢塚を案内していただいた方は、私より2年先輩となり、部活の先輩でもありましたが、卒業以来初めての再会で、「大鹿君には厳しくしすぎたと反省している」と、私にとっては優しい先輩でしたが、意外な思いやりを頂いていたことも知りました。
 
            本日の体重 71、3キロ  徒歩数 1万365歩
                                      1月9日の一言

人間のレベルの違いを実感させられて

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東愛宕住宅内にある津島市の広報板です。

市内には多くの広報板がありますが、何も掲示されていない掲示板も存在する中でも、ここの掲示板は見事に管理されています。

せっかくの行事が広報板に掲示されない町内では、市民は情報不足から参加できない可能性も出てきます。
 
和歌山)名将歩む「修行」の道 高野山に恋して
記事の続き…
 きっかけは、2008年に部員への体罰問題で受けた謹慎処分だった。練習試合で、個人プレーに走ったせいでチームが負けたにもかかわらず反省の様子がない部員に対し、「仲間の気持ちを考えろ」と、思わず蹴りが出てしまったという。「一生懸命教えてるのになんで出来へんのや、この野郎、という気持ちをぶつけてしまった。自分の指導力の無さが原因だったのに」と振り返る。
 3カ月の謹慎の間、忍耐力を身につけようと四国八十八カ所を巡礼。仕上げとして高野山の奥の院にお礼参りした際に町石道の存在を知った。「短すぎず長すぎず……。自分を鍛えるのに最高の道やと思った」
 以来、週に2回ほど高野山に通い始めた。練習に支障をきたさないように、出発するのはまだ闇に包まれている午前4時。イノシシや鹿にも遭遇する。冬も、雪道に足跡をつけながら登る。そして午前8時半のケーブルカーで下山し、その日の練習に向かう。
 町石道は一般的に所要6時間とされているが、高嶋監督は4時間ほどで登り切ってしまう。頭に去来するのは、やはり野球のこと。「あいつ最近調子悪いよな、どうしようか」「あいつはたるんでるから、今日は少ししごいたろ」。自分との問答の時間だ。
 本当は無心で登らねばと思っているのに、どうしても野球が頭に浮かぶ。ただ、次第にそれでもいいと思えるようになった。「生徒たちと向き合える大切な時間ですから」
 2年に1度ほどは、野球部員たちも連れて登る。無理強いはせず、「どうする? 登るか?」と問うだけ。子どもたちが自ら「登りたい」と言うのを待つ。自主的に歩き、そしてしんどさを知ってもらいたい。
 「上ったり下ったりの町石道は、まさに人生そのものだ。苦労して登り切った時の達成感を、僕は生徒にも味わってほしい」
 すでに登った回数は計353回。目標は、煩悩の数を表す108回を10倍した1080回だ。「初めは過去、現在、未来の意味を込めて3倍を目指していた。でも、それくらいなら誰にでもできる。人と同じことしてたらあかんですから」
 年を取るにつれ、体がきつい時ももちろんある。それでも自ら決めた目標を達成するまでは、黙って足を動かす。高野山には、グラウンドを離れても闘い続ける名将がいた。
 
 弘法大師空海によって高野山の開創直後に設けられた「町石道」は、標高約800メートルの高野山まで約20キロの山道で、普通は6時間程度の時間を要しますが、昨年10月に訪れた際には7時間かかってやっと到着しました。
 
 最近の新聞記事によると、甲子園で活躍している智弁学園和歌山高校野球部の高嶋仁監督(68)が、練習の合間を縫って週に2回ほど九度山町の慈尊院に向かい、ここから始まる町石道を黙々と歩き出す。その回数は年に70~80回に及ぶと紹介されています。
 
 平成20年に指導中の部員への体罰から3ヵ月の謹慎生活があり、この機会に四国八十八ヶ所を巡礼するとともに、高野山「町石道」の存在を知り、「自分を鍛えるのに最高の道」として登るようになったと記されています。
 
 高嶋監督はここを4時間程度で登りきると紹介されていますが、私は7時間かけても足腰の限界を感じており、7才も年長者でありながら、さすがに高校野球の指導者として体力の差を感じてしまうとともに、「二度と登りたくない」と思ったことに恥ずかしく思いました。
 
 午前4時から出発し、午前8時30分のケーブルカーで下山するという行程にしても、「町石道」にはイノシシの足跡や餌を探した痕跡が残されており、冬は雪があり暗いことを考えると、記事を見て感化されたとしてもよほどの覚悟が必要です。高嶋監督には遠く及ばないことも記事から実感です。
 
           本日の体重 71、1キロ 徒歩数 1万1003歩
                                    1月8日の一言

漫画から旧満州の郷愁を感じさせられて

 
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 添付した写真は、ビックコミックオリジナルに連載されている「フイチン再見」で、戦前・戦中・戦後の中国大陸「満州」が舞台となっており、最新号に描かれた戦後の引き揚げ風景を見ながら、私の父親も同じ体験があったものの、生前に満州の詳しい話は聞いたことがないため、父親の満洲時代について知ろうとしても聞けない現実を寂しく思う一日となりました。
 
 この漫画は、旧満州ハルピン出身で、ハルピンを舞台にした「フイチンさん」を書き残した漫画家上田トシコさんの実体験をもとにした漫画で、作者の村上もとかさんは、上田トシコさんの生涯を題材として2年ほど前からビックコミックオリジナルで連載されています。 
 
上田 トシコ(うえだ としこ、1917年8月14日 - 2008年3月7日)は、日本の漫画家。東京市生まれ、旧満州ハルピン出身、頌栄高等女学校(現 頌栄女子学院)卒業。本名・上田俊子。
少女漫画の黎明期に活躍した女性漫画家の一人であり、代表作にハルピンを舞台にした『フイチンさん』などがある。少女誌執筆の頃は上田としこ、新聞の執筆の頃は上田とし子、その後に上田トシコ、と3度ペンネームを変えている。
 
イメージ 3 今年になって発行された最新号では、戦後中国軍に戦争関係者として身柄を拘束された父親と、一度は拘束されたものの開放された兄など家族の心情が描かれ、線路沿いに大きな荷物を背負って引き上げる日本人や、生きて日本に帰るため自分の小さな子供を置き去りにする母親の様子が描かれています。
 
 私の父親は14歳の時に、当時の国鉄には身長が足らずに採用されないため、鉄道員になるため中国に渡り、採用してくれる満州鉄道に入社しましたが、結果的には戦死した兄が存在したことから、満州に骨をうずめる覚悟で日本を出国したと聞きました。
 
 
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 私の父は軍人ではなく、鉄道員として駅周辺の中国人と親しく接していたため、敗戦後に日本兵が捕虜となり、軍人以外でも男性が収容所に拘束されるときに、自宅にかくまってくれた中国人が複数存在し、多くの日本人が捕虜収容所に拘束され、シベリアに送られた人々も多数ありますが、中国人を憎むどころか親交を温めていました。
 
 中国残留孤児が日本の親族を探しだした当時、新聞紙面に自分の生活していた近所から親族を探している人を発見し、厚生省に連絡したことから、来日しても何も手がかりがなく沈んでいる人々の話し相手になって欲しいと言われ、毎年連絡が入るようになりました。
 
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 父は昭和17年に満州に渡り、中国各地の駅員などをしていましたが、14歳から3年間の少年期だったことから、駅周辺の中国人にも可愛がられて生活していたことが想像され、日中国交正常化後は中国語を学びなおし、旧知の中国人と文通し、ラジオや日用品なども送っており、自由に渡航できない時期にも新聞社の訪問団として中国を訪れていました。
 
 引揚げ船の出る港まで線路沿いに歩いたと聞きましたが、駅員のため助けてくれる中国人も多く、着の身着のままに帰国した人が多い中で、温かい毛布を持って帰国し、中国に嫌な思い出はなく、住んでいた吉林省の鉄道員で組織された吉林(チーリン)会に参加していました。
 
 添付した「フイチン再見」は実に忠実に描かれており、父が生きておれば喜ぶと思いますが、私の生まれる8年前が舞台となっているものの、記録の伝承がないままに父は他界していることと、交流していた中国の人々と連絡もとれないことが残念ですね。
 
 安部政権になり、中国とは険悪な関係が続いていますが、日本が植民地化していた当時の人々の中にも、同じ人間として近所付き合いをしていた日本人は多く、名古屋市は卓球を通してピンポン外交が行われた舞台になることから、人と人との関係から日中友好を果たすべきと漫画と亡き父親を回顧しながら思う一日となりました。
 
                 本日の体重 71、0キロ 徒歩数 2万4687歩
                                     1月7日の一言
追伸
イメージ 5出典元は、ビッグコミックオリジナルです。

私を探して飛んできたピーちゃんに感動したものの…

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本日の津島市役所です 
 
 昨日から仕事を再開していますが、本日は市役所内での仕事始めとなり、2月1日付けで発行される議会だよりの編集委員会の仕事が午前中に終わり、午後には帰宅することができました。
 
 添付した写真は、耐震改修中の津島市役所玄関(北)側ですが、年末まで覆われていた足場が取れ、新年からは正面玄関が利用できるようになりましたが、かつてのゆったりした建物が公営住宅になったようで少し寂しい気持ちになりました。工事は年度末となる3月まで続きますが、正面の耐震改修が済んだことで利用する市民の方々への不便さが少しは解消できそうです。
 
 さて、嬉しい感動を呼ぶ話題となるはずでしたが、一方で、大変な危険となる可能性のある事件が新年早々にありました。
 
 最近度々登場させているスズメのピーちゃんですが、年末年始に家を空けていたことから、事務所の温度をあげるとともに、鳥カゴの扉を開けて接する時間を意識的に増やしていましたが…
 
 ピーちゃんの居る部屋から離れて、所在不明になった物品を探しながら作業を続けていると…
 
 頭上から風とともに、ブーンと言う羽きり音が聞こえ、天井を見るとピーちゃんが飛来しており、私の声を頼りに探しながら飛んできたことが判り、家の中とは言え「ピーちゃん」と感動の再会となりました。
 
 私の声が聞こえる部屋まで、どうやって飛んできたかは判りませんが、私を探しながら(家の中なので大げさですが)自分の部屋から私の居る部屋まで飛んできたピーちゃんの姿に、しばらく味わったことのない感動シーンを体験し、人間以上に愛おしさを実感させられました。
 
 家族にこんな感動シーンを伝えていると、「万が一何かがあったらどうするの」と、感動よりも私の失態として、家族の大バッシングを受けることに…
 
 確かに、私が不在時に誰かが入ってきたり、イスに乗っているピーちゃんに座ってしまったら大変なことになり、家とは言え家具の隙間で行方不明になったり、ストーブのヤカンで火傷させる可能性も考えると、嬉しさは封印して厳重な注意が必要です。
 
 かつて、相棒のリマと一緒に居ることから、犬臭い匂いが気になった時期がありますが、最近では匂いも感じなくなっており、ピーちゃんについては匂いは大丈夫と思うものの、私の腕や頭に糞をしている可能性があり、汚いとは思いませんが人目もあり、注意が必要になりそうです。
 
               本日の体重 72キロ 徒歩数 2440歩
                                     1月6日の一言

会報配布にお寺へ出向いて

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津島市葉苅町 法性山長福寺
 
 市内葉苅町にある長福寺の寺標から本堂への参道ですが、長福寺は天文9年(1540)に創建された浄土宗のお寺で、私が毎年大晦日に訪れている京都百万遍知恩寺の末寺になります。
 
 寺伝によれば隣接する蛭間町大徳寺や宇治町光明寺など十一の末寺があり、宗祖法然上人尾張二十五霊場(第五番札所)や、尾西弘法第4番札所、海東西・新四国八十八ヶ所(第六十九番札所)などに名前が記されています。
 
 前記したように、寺の創建が天文9年(1540)ですが、本堂の参道西に建てられた観音堂には、安置されている十一面観音菩薩像は創建より古い明徳2年(1391年)の作と刻印されており、尾張三十三観音第二十番札所にも含まれ、世が世なれば人でにぎわっていたことが想像されます。
 
 当地方の寺院としては格の高いお寺で、織田信長の父信秀が京都百万遍知恩寺から岌清上人を招いて創建したとの説もあり、郷土史家の記した文献には、織田信秀が隣村の勝幡城を居城としていたことから、尾張地方統一のため長福寺の末寺をどんどん建立して情報収集を図っていたと記されています。
 
 私の叔父は幼少時に母親を交通事故で亡くし、2代前の住職が親族だったことから幼くしてこのお寺に出され、大学卒業後も家族4人でこのお寺で僧侶として生活していましたが、昭和40年代に隣村の長福寺説教所に移り住んでいます。
 
 門前の寺標は私の叔父が寄付した石柱で、墓地内には叔父が建立した檀家なら誰でも納骨できる大きな墓石(叔母も納骨されました)もあり、石は永遠に残るため、叔父の名前も末代まで残されていくことになります。
 
 立派に再建された本堂や鐘楼堂などを眺め、お寺が辛くて逃げ出した幼子の叔父をなだめて祖母や家族が同行してお寺に送った話や、母親を亡くし孫3人が祖母と一緒の布団の中で泣いたと言う、昭和初期に貧困にあえいでいた先祖の思い出話を改めて思い浮かべる一日ともなりました。
 
               本日の体重 71、4キロ 徒歩数 3万478歩
                                   1月5日の一言
 

近所のガソリンスタンドやお店の廃業が続き

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我家(真ん中)の近くにあったガソリンスタンドとみたらし団子屋さん(左端)
 
 我家の100メートル西側から見た本日の風景ですが、近くで便利が良かったガソリンスタンドが年末の31日で閉店となり、左端に写るみたらし団子屋さんも先月21日をもって閉店となっていることから寂しさを隠せません。
 
 みたらし団子については、私が大好物であることと、このお店の団子は1本30円と安いため、10本買ってきて食べる者がいないと全部食べてしまうことから、「1本だけ買う勇気があるなら」と、かつての管理栄養士の竹内先生にも言われていました。
 
 ところが、孫もみたらし団子が大好物のため、孫が来たときは一緒に買いに行っており、新聞にも記事として紹介されたこともある名物店でしたが、ご主人の体調不良のため先月でお店は閉められてしまいました。
 
 一方で、ガソリンスタンドについては、地下の油脂タンクに対する国の規制が厳しくなったことが廃業の原因で、「安ければ何処でも」という風潮がありますが、バイクのガソリンや、農作業の草刈機等のガソリンを購入していた人々には、今後は遠くのスタンドまで買いに走る不都合が生じます。
 
 日ごろはあって当たり前と思っていますが、実際にお店が無くなると困るのは地域住民で、我家の電気工事や水道工事を担当した業者も廃業しており、困ったときに依頼する代わりの業者選びが大変になります。
 
 年末に玄関の壁が落ちましたが、実際に施工していただいた左官屋さんは亡くなっており、依頼する業者が定まらぬまま、壁に板をもたしかけてあるものの、いずれは本格的な修理が必要になってきます。
 
 さて、そういう私も議員になる16年前に、それまで23年間続けてきた朝日新聞販売店を突然廃業し、私への義理で購読した人だけでなく、信頼して購読されていたお客さんには迷惑をかけています。
 
 私の事務所の壁には、廃業した後も、以前と変わらず朝日新聞販売店用のカレンダーが下げてありますが、このカレンダーは私の先輩となる蟹江町の販売店主が毎年年末に自分の販売店用の物を届けて下さっています。
 廃業して16年も経過し、届かなかったら代わりのカレンダーを下げる覚悟はありますが、たかだかカレンダーとは言え、事務所の看板にもなっており、届けて下さる先輩には金品に代えられぬ恩を感じて新年を迎えました。
 
                 本日の体重 72、0キロ 徒歩数 4005歩
                                      1月4日の一言

ピーちゃんの怒り爆発の夜に

イメージ 1 箱根駅伝は、昨日に往路優勝を果たした青山学院大学が復路も1位でゴールを切り、過去最高のタイムで総合優勝を達成しました。
 
 5区で驚異的な走りをみせた「三代目山の神」神野選手に注目が集まりますが、優勝タイム10時間49分27秒はコース変更のため、過去の記録は参考記録となるものの、91年の箱根駅伝で史上初めて10時間50分を切る歴史的勝利となり、ほとんどの区間で区間賞か僅差の2位で襷をつないだ総合力の優勝です。
 
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 世界の瀬古選手(一番右)の隣でインタビューに応える神野大地選手。瀬古選手のような世界的マラソンランナーに育って欲しいものです。
 
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 箱根駅伝が終わってから、正月でなまった身体を動かすため自宅を出発です。
 
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 午後5時30分頃の津島市葉苅町から見る東の空です。辺りは真っ暗になってきましたが、雲の合間から見える青空と月明かりが初めて見るような風情です。歩くことの魅力を感じさせられました。
 
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 「おい、何やってたんだよ (怒) !!
 
 年末に京都へ出発し、朝帰りのため元旦は睡眠に費やし、家族や娘の家族と食事に時間をとられ、年末年始はピーちゃんの相手をろくにしておらず、久しぶりに訪れると怒っているのか鳥カゴから出てきません。まるで抗議をしているかのように、ティッシュを引きちぎって撒き散らしています…
 
 実際には、保護した直後から入っているティッシュボックスの中のティッシュと遊んでおり、「入ってこいよ」と言っているようにも見え、夕食後は私の腕と手の上から離れず、人間(私)の子供と勘違いしています。
 
 外の厳しい寒さから少し心配していましたが、フンの様子も健康的で安心したものの、私の右の指先が好きなため、パソコンのキーを打つ間も指から離れず、動画で撮影してアップしたいようなカウボーイのロデオのようなピーちゃんとの書き込みとなりました。もうオヤスミの時間(午後10時50分)です。
 
                  本日の体重 71、8キロ 徒歩数6787歩
                                     1月3日の一言

神守中から日本一ランナーへ 神野大地選手に乾杯

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本日の箱根駅伝往路でゴールした神野大地選手
 
やったー 日本一 !!
“3代目山の神”青学大・神野 誕生 !!
 
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 1位を走る明治大学の走者をとらえます
 
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ゴールまでハイペースで独走です
 
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笑顔で余裕のゴールです 
 
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“3代目山の神”青学大・神野「ここまで走れると思っていなかった」=箱根駅伝
 第91回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の往路が2日、東京・大手町の読売新聞社前から箱根・芦ノ湖までの5区間、107.5キロで行われ、青山学院大が5時間23分58秒で初の往路優勝を果たした。 2位は明治大で5時間28分57秒、3位には東洋大が5時間30分47秒で入った。

 戦前に「“3代目・山の神”を目指す」と語っていた164センチ・43キロの小柄なエースが、有言実行の走りでチーム初の往路優勝をたぐり寄せた。青山学院大は4区までにトップの駒澤大から46秒差の2位と好位置につけると、山上りを任されたエース・神野大地(3年)が序盤から飛ばす。10.4キロ付近でトップを走っていた駒澤大・馬場翔大を一気に抜き去り首位浮上。そのまま軽快に山道を駆け上がり、後続との差をみるみる広げた。神野は5区を、参考記録となった“新・山の神”柏原竜二(東洋大、現・富士通)のタイムを上回る1時間16分15秒で走り切りった。
 以下、青山学院大・神野のレース後のコメント。

「1区から4区の人が自分のところまでいい流れで持ってきてくれたので、あとは自分がやるだけと思って、1年間箱根駅伝のためにやってきたのでその力を全部出そうと思って走りました。本当に往路優勝のテープを切る想像をずっとしてきたので、今現実になって本当に夢なんじゃないかと思うくらいうれしいです。(最初から速いペースで入ったが、これはプラン通り?)いや、予定ではゆっくり入って山に入ってから勝負と思っていたのですが、思ったよりも体が動いていて調子も良くて、そのままの流れのままに任せていったという感じでうまく走れました。本当にここまで自分が走れると思っていなかったので、5区を走って良かったです。
(復路のメンバーへメッセージを)往路優勝できれば総合優勝が見えてくると思っています。復路は4年生もいるので、4年生が最後にしっかり走ってくれれば、総合優勝もできると思います。明日の復路はしっかりサポートに回って、総合優勝できるように応援したいと思います」 
 
箱根駅伝選手、神野大地君が母校を訪れ… 昨年1月17日
 
大学駅伝応援のため伊勢神宮まで… 昨年11月2日
 
 一年前の1月17日に母校である神守中学校を訪れた神野大地君と出会い、私のピンボケ携帯電話のレンズに気さくに収まり、昨年の母校の同窓会報にも活躍と彼のメッセージを紹介し、11月の大学駅伝は伊勢まで応援に行ってきました。
 
 「箱根駅伝も応援に行く」と公言していましたが、元旦の京都から帰り道の吹雪に見舞われた高速道路上で、「こんな中で箱根に行くのは止めて」と家族に強く言われ、本日はテレビ観戦となってしまい、神野選手が日本一になる瞬間に居合わせなかったことは大きな後悔になったものの、テレビ観戦ゆえにタスキを受け取ってゴールする瞬間まで感動して応援できました。
 
 今年3月に発行する同窓会報は一面を飾る予定だったことから、箱根駅伝で彼の活躍によって日本一になった結果は、正月の最高の「お年玉」となり、今年の会報には母校の後輩に対するメッセージをもらいたいと考えています。
 
“母校の誇り”青学大・神野 今後は世界へ !!
 
  昨年の箱根駅伝には校長先生が「頑張れ 神守中」の横断幕を「頑張れ 神野」と書き直して応援に走りましたが、同窓会長の独断で神野大地選手用の横断幕を作り、今後の大会会場や箱根駅伝へ持ち込み、本人の究極の目標である「東京オリンピック」まで応援を続けたいと思います。
 
 本日の私の一言への訪問者数が900人近くなったのも、神野大地君の過去の記載があったからと思われ、彼を検索すると私のブログがヒットすると知人からも連絡が入りました。母校の後輩から日本一の選手が登場したことと、神野君の性格が本当に良いため過去最高の正月となりました。
 
                本日の体重 71、2キロ 徒歩数 1万1860歩
                                       1月2日の一言
追伸 元旦の体重 71、9キロ 徒歩数 2416歩
 

謹賀新年

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平成27年元旦 午前5時の津島神社楼門です
 
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午前4時30分 岐阜県羽島市 お千代保稲荷へ参拝しました
 
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お千代保稲荷の鳥居です
 
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津島神社本殿と楼門
 
京都からの帰り道に羽島のお千代保稲荷と地元津島神社に参詣しました。
 
明けましておめでとうございます
                    本年もよろしくお願いいたします
 
                             平成27年元旦

除夜の鐘 百万遍

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除夜の鐘を撞く前に僧侶によって般若心経が唱えられます
 
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参加者全員で「南無阿弥陀仏」を唱えて大念珠を廻します
 
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家内と2人で除夜の鐘を撞きました

今年の除夜の鐘は9番目(娘と婿と孫)と10番目(次男)、12番目(私と家内)の受付になりました。

一年ぶりにここで顔をあわせたお二人と談笑できたことも思い出となりました。

来年の大晦日も、元気で再会できることを祈願して散会となりました。
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  • ようこそ 大鹿一八の納経所へ
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  • 令和6年 上高地開山式の様子です
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  • 毎年恒例となった我家のアンズジャム作りへ
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  • 我家のきゅうりとプランターのイチゴです
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