大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

2016年07月

上高地から 遠くの(馴染みの)街に行きたいと

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木曽川の源流地 木祖村 道路左の小川が木曽川

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上高地から奈川村へ  昨日の午後です

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木曽福島を過ぎて右折して、御嶽山を目指します

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私の祖父の石碑(右) 道成霊神

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私が祖父の(享年)年齢に近くなってしまいました

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御嶽山からの帰路 左長野 右名古屋方面へ

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国道19号を自宅へ帰ります  左側はJR中央本線

 私が上高地へ初めて行ったのは、昭和49年に名古屋観光バスのアルバイトの添乗員として訪れましたが、それ以来毎年訪れるようになり、今年からは好きな上高地のために少しでもお役に立ちたいとボランティアを志願して、一人で参加するようになりました。

 そんな展開により、これまで家族や知人と走っていた道程を、今年からは一人で走る機会が増えたことから、一緒に訪れた人々で亡くなった人の顔が浮かぶようになり、昨日は昭和47年7月28日に他界した祖父が通い続けた御嶽山の霊神場に車を走らせていました。命日に一日遅れの合掌となりました。

 一人で遠出するようになり、「知らない街に行って見たい」とか、「遠くのどこかわからない場所に行きたい」という、少年期の私の旅の原点を思い出し、最近亡くなられた永六輔さんの「遠くへ行きたい」の曲が妙に懐かしく感じられるようになりました。

遠くへ行きたい ジェリー藤尾  https://www.youtube.com/watch?v=FMoRpdJGUbU

遠くへ行きたい デューク・エイセス  https://www.youtube.com/watch?v=QgdBSoHf2AY

遠くへ行きたい』 渥美清   https://www.youtube.com/watch?v=F94eBpOoBGU

遠くへ行きたい 倍賞千恵子 https://www.youtube.com/watch?v=oWMuyffXSQU
 
 「知らない街を 歩いてみたい   どこか遠くに 行きたい   知らない海を ながめてみたい … … 愛する人と めぐり遭いたい  どこか遠くへ 行きたい … 」

 中学時代に学校をズル休みして、朝から自転車で目的もないままに北へ向って走っていきました。「あっ、ここは…」と、父親の車に乗せられて訪れた場所に一人で行けるようになり、見つからないように祖父母の家を眺めてから帰宅したこともありました。

 御嶽山は先達だった祖父に連れられて子供の頃から訪れていた場所で、元気だった祖父が多くの信者を引き連れていた姿や、祖母との言葉のやりとりも昨日の事のように鮮明によみがえってきました。

 それにしても最後の旅は行先不明の独り旅となりますが、それまでに「知らない街、知らない海、どこか遠くに行きたい」と唄われる永六輔さんの詩のように旅立つとともに、亡くなった人を偲んで鶴田浩二さんのように旅立ちもしたいと思う一日となりました。

             本日の体重 71、8キロ 徒歩数 5709歩 間食あり
                                      7月30日の一言

上高地ボランティア  外来植物除去

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河童橋と清水橋の間に咲く可憐な花 
                   ミヤマシャジンと思われます これは上高地の花です

上高地の花ハンドブック 前田 篤史著
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バスターミナル 水飲み場
                  上高地の水はお薦めの湧き水です

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            エゾノギシギシ  日本にはもともと分布していない外来種


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 本日は上高地の田代橋周辺からバスターミナルまで、外来植物のエゾノギシギシを環境省職員と、3人のボランティアが参加して除去しました。

 外来種どころか、植物について全く不勉強な私ですから、エゾノギシギシの名前も初めて聞く名前で、先輩方に教えていただきながら、シャベルや除草器具を利用して除去しますが、地中に深く根を伸ばしており、根を完全に取り除かないといずれ新芽がでてきます。

 日本中の水田の畦道や水辺でも見慣れた「ギシギシ」と同種で、大きくなるとはっはりと識別できますが、小さなうちはオオバコの陰にかくれて、うっかり見落としてしまいそうで、1本発見するとその辺りに群生しています。
 ちなみに、シロツメグサも上高地では外来種で除去の対象になります。


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 ボランティアが終り、小梨平で昼食後にボランティアの窓口となるバスターミナル前のインフォメーションセンターで活動の報告書を提出して作業を終えました。

 帰りのバスの車窓から見える道端の植物に目がいってしまいますが、環境省が決めた日に「外来植物除去中」と記された環境省のベストを着用している時以外は、確実に外来植物と判っても除去することは許されません。

 さて、観光目的で上高地を訪れる場合は、飛騨側から高山経由で帰りますが、本日は松本側の沢渡駐車場に車を停めていたため、久しぶりに木曽路経由で帰ることにして、木曽福島から右折して御嶽山の祖父の石碑に立ち寄りました。

 その顛末は明日に…
  
          本日の体重 72、4キロ 徒歩数 12573歩 間食あり
                                    7月29日の一言

上高地 パークボランティアへ

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上高地 大正池
                 貴重な樹木 私が生きている間は倒れないで欲しいものです

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本日は「さわんどバスターミナル」からバスで入ります

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バスで上高地に入るのは久し(十数年)ぶりのことです

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ウェストン碑

 本日は朝8時に愛知県津島市を出発して、高山平湯経由で、安房トンネルから沢渡まで走り、ボランティアとして指定された松本市市営第二駐車場に車を停め、さわんどバスターミナルから上高地へ入りました。
 我家から沢渡まで、休憩なしで約3時間強で到着し、沢渡から上高地までシャトルバスで約30分の行程でした。
 
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 さて、本日のボランティアは、田代橋周辺の外来植物除去と聞いておりましたが、午前中に活動は終っており、午後はゴミを拾いながら巡視することになり、私は河童橋から右岸をウェストン碑、田代橋から田代池、大正池まで歩き、帰路はバスの走る車道のゴミを拾いながらバスターミナルまで戻りました。

 ちなみに、私が本日拾ったゴミは約250グラムで、ゴミを捨てないように宣伝されているため、歩道にゴミはほとんど存在せず、前回に河童橋から明神池まで往復したときよりは多かったものの、我々の街のゴミ拾いとは全く環境が違い、ボランティアだけでなく関係者が連日のように拾っているためか、よほど目を光らせないとゴミは見つかりません。

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               本日は観光バスが満杯でしたが、
            夕方になればこんなにゆったりとした雰囲気になります。

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 本日の宿泊は上高地となります。明日は午前9時からボランティアが始まり、夕方には帰途の予定ですが、夕食後の雑談から、昭和47年7月27日に他界した祖父が思い浮かびました。上高地のホームレス画伯と、祖父を天秤にかけ、もしかしたら、御嶽山の先達として石碑を残す、祖父の眠る御嶽山の霊神場に立ち寄るかもしれません。

                本日の体重 未測定 徒歩数 19153歩 間食あり
                                      7月28日の一言

兵庫県西脇市へ行政視察に訪れて

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国登録有形文化財 旧来住(きし)家住宅 兵庫県西脇市
本日は、ここの次の間(離れ)で昼食をいただきました。 
 
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西脇市役所
 
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JR西脇駅
 
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昨日は右側のホームで降り
 本日は左側のホームで乗りました。

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最後は姫路駅から新幹線です

 本日は、「西脇市の地域医療を守る取り組みについて」兵庫県西脇市を視察に訪れましたが、名古屋まで30分で到着して、大学病院や高度な医療機関を受診できる津島市とは、医療に対する環境が違いすぎます。

 かつて、岐阜県中濃地域の公的病院で副院長を務められる先生から、「救急は誰でも100パーセント受け入れます。受け入れないとその人は間違いなく死ぬんだから」と、聞かされたことを思い出しました。

 西脇市の場合には、小さな子供を持つ女性たちが地域医療を守るために立ち上がり、地元医師会と地元の商店主や商工業者が全面支援し、自治体の手厚い補助など、地元の医師と医療を守るために地域一体となった試みが実行されました。

 病院どころか、医師そのものが存在しない地域では、医療機関の存在そのものが生死に関わる問題となり、医療レベルの差からより高度な病院を選択できる私の住む地域では、地元に固執することがより良い医療の提供になるとは限りません。
 
男性80.79歳、女性87.05歳 平均寿命過去最高
 
 2015年の日本人女性の平均寿命は87・05歳、男性は80・79歳で、いずれも過去最高を更新したとの発信がありました。男女ともがん、心疾患、脳血管疾患の「3大疾患」による死亡が減ったことが大きいという。

 さて、大橋巨泉さんの享年は82歳でしたが、それまでの命としても私には20年の寿命しかなく、平均寿命をあてはめると18年の命しか残されておらず、65歳で他界した私の父親を例にすると3年しかありません。

 そろそろ人生の終末に向けた覚悟と、やり残していることをできずに後悔したくありませんから、行政視察した内容を無にしないことと、オートバイの復活と、かつて発行していたミニコミ紙の復刻を真剣に考えてみます。

 本日の夜に帰宅したばかりですが、明日と明後日の2日間は上高地のパークボランティアに参加を通告しており、田代橋周辺の外来植物の除去が仕事ですが、汚れてもよい服装で参加して欲しいとの連絡に、観光とは気分を変えた上高地行きがしばらく続きます。

             本日の体重 72、6キロ 徒歩数 6101歩 間食あり
                                      7月27日の一言

行政視察に山口県宇部市まで

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新山口駅 JR西日本宇部線 宇部新川駅行きのワンマンカー(一両編成)
運転手さんがドアを開けて改札も行い、乗客は車輌先頭から乗降します。

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こんな線路を延々と走ります

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山口県宇部市役所

 本日は津島市議会厚生病院委員会の行政視察として、山口県宇部市の宇部市保健センターへ「子育て世代包括支援センター」について視察し、母子保健コーディネーターの果たす役割と、子育て世代包括支援センターの概要と役割について説明を受けました。

 何よりも驚かされたことは、視察目的ではありませんが、医療機関や病院の多さで、待機児童が存在しないだけでなく、小児科だけの休日診療所や夜間診療所が存在し、国の施策に関係なく地域医療が充実していることでした。

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新山口駅から見る在来線の駅構内です

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こんな新幹線のお陰で山口県まで来られます

 視察後は山口宇部空港に立ち寄り、新山口駅から新幹線で広島駅を経由し、午後6時49分に姫路駅に到着しました。本日の宿泊地は「姫路キャッスルグランヴィリホテル」で、ルートインのチェーン店です。

 明日は、ここからJR神戸線で加古川駅まで移動し、JR加古川線で西脇市まて移動して、「西脇市の地域医療を守る取り組みについて」視察してから愛知県に戻る予定となっています。

                              本日の徒歩数 4436歩
                                      7月26日の一言

静寂な上高地の小梨平へ 

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        年間120万人以上の観光客が訪れる上高地ですが…
             時間の経過を忘れてしまうこんな場所もあります。
                    晴れていれば穂高連峰を眺めながら、瞑想にふけります。
                                              小梨平 梓川
 
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都会では嫌われて刈られてしまいそうなアザミですが…
上高地では可憐な花に見えてきます。
 
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梓川沿いのカラマツ
 
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 「好きなのを選んでよ」
 「どっちにしようかな」
 「店に飾ったら写真で送ってよ」
 
 6月に三男が接骨院を開業したお祝いとして、上高地の「ホームレス画伯」から記念に油絵をいただけることになり、小梨平の画伯のテント前で作品を選び、サインを入れた油絵を三男が河童橋で受け取りました。
 
 本来なら、もっと感動するシーンになりそうですが、画伯は津島市から一緒に同行した画伯と同業者になる自動車板金塗装業者と、板金塗装の話で盛り上がり、絵心もない知人と絵の構図や色付けの話に熱中しています。
 
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 さて、かつては私が主催する朝日旅行友の会の旅行に参加した人々の多くが鬼籍に入られており、健在でも足腰が弱って外出ができないとか、病気療養中の人も多く、「旅行に参加したいけど…」と、参加できない話をよく耳にしてきました。
 
 この話を聞いた知人が、安くマイクロバスを借りられるように仲介してくれたため、先月の琵琶湖一周に続いて、昨日に上高地を訪れることになりましたが、今回も少ししか歩けない人が複数参加していただきました。
 
 「そんな会費で行けるわけが無い」
 「上高地はマイカーは入れないよ」
 「入れないから、バス乗換えで高額になる」
 
 参加する人が旅行業者や知人に聞かされた一言ですが、会費3,000円で上高地に行ってきました。確かに、名鉄バスの往復運賃は1万円を超し、マイカー規制は存在するものの、参加する仲間で経費を分担すれば低額で目的地に行く事ができます。
 
 マイカー規制は存在しますが、タクシーとバスは対象外となっており、観光バスが規制される日以外はマイクロバスも上高地へ入れます。
 もっとも、私はタクシー車両も所有しているため、いつでも上高地に入れますが、地元の事情通と言われる人々の話で参加を断念した人があったことが残念です。
 
 高齢者が参加する旅行会社の会員募集も多くありますが、足腰が悪くなった人や、闘病中の人は参加ができませんから、仲間の参加を寂しく見ている人や、仲間として誘われるため、「仲間外れにされたくない」と行きたくない旅行に参加した人の話も耳にしますが、知人の力も借りてしばらくは旅行会を続けていきます。
 
              本日の体重 72、0キロ 徒歩数 2159歩 間食あり 
                                       7月25日の一言
 

初めての上高地トンネルへ

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 今月19日(火)に開通した「上高地トンネル」を初めて通行しました。左手に見えるこれまでの進入路が妙に懐かしく感じます。

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   天気予報は「曇りのち一時雨」でしたが、雨に降られる事はありませんでした。    
       穂高連峰は雲に隠れたままでしたが、逆に暑くも無く、寒くもなく過しやすい一日でした。

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   上高地の帰り道にも「上高地トンネル」へ入ります。

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トンネル内は明るく、ヘッドライトもいらない位です。

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上高地トンネル出口から見る「釜トンネル」

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釜トンネルへ入ります

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釜トンネル内部 比較すると暗いですね

 本日は「朝日旅行友の会」主催の日帰り旅行を行い、16人のメンバーとマイクロバスで上高地を訪れました。

 7時30分自宅…市内2ヶ所…一宮市…尾西インター…(東海北陸道)…長良川サービスエリア…飛騨清見インター…中部縦貫道…高山西インター…道の駅「ななもり清見」…高山インター…安房トンネル…上高地 11時30分

 今月8日に続く上高地ですが、マイクロバスで訪れるのは8年ぶりとなり、平成21年に国土交通省の認可を得て、10人乗りのジャンボタクシーを所有するタクシー事業主になってからマイクロバスの運転をしていなかったため、先月より大型バスのリハビリドライブとして、しばらくはマイクロバスでの旅行企画を続けます。

本日は上高地へ 2008/5/20(火)

 本日は上高地の河童橋で油絵を描く「ホームレス画伯」こと渡辺さんから、私の三男の開業祝いに油絵をいただけることになり、三男が直接作品を見定めることとなっていたことから、小梨平の画伯のテント前で談笑する一日となりました。
 尚、来週の28日(木)と29日(金)にも、環境省のパークボランティアとして上高地を訪れることになっています。

             本日の体重 72、2キロ 徒歩数 6881歩 間食あり
                                      7月24日の一言

高齢者の電動車いすの事故が増加して

 「○○さんと○○さんも来るから」
 「車をどうしようか」
 「○○さんに頼もうか」

 息子の接骨院で施術を受けながら聞こえてくる会話に、明日に出かける上高地の話かと思っていると、今晩に開催される尾張津島天王まつりに出かけるため、車を駐車する場所を思案する会話だと判りました。

 「今、電話は良いですか」
 「あっ、今、車を運転中なので…」
 「今日と明日はお祭ですね」
 「今は何処に居られるんですか」
 「(県内の)○○です」
 「そうですが、明日は上高地へ行くので…」

 明日に上高地へ行くためのマイクロバスを引き取りに走っていると、私がお気に入り登録している知人より電話で、本日は奥さんの実家がある愛知県内に居られることが判りましたが、明日は上高地に出向くためすれ違いとなります。

 実際には先週の18日に上高地へ行く予定を立てていたものの、先週の3連休はバスも入れない規制日になっていたため、あわてて一週間後に順延した次第で、自分の地元のお祭とは考えてもおらず、一緒に出かける知人たちも「今まで数回しか津島祭に行ったことがない」とお祭は全く眼中になかったようです。

 「明日の朝なんですが…」
 「大丈夫、待っていますよ」
 「それより、マイクロが通れますかね」
 「何?どうしたの」
 「明日は朝祭があるでしょう」
 「あっ、そうか。考えもしなかったなぁ」

 祭会場となる天王川公園に隣接する知人との連絡ですが、自宅まで迎えに行く約束がしてあったものの、祭が開催されるため道路が通行できず、待ち合わせ場所を変えましたが、知らずに出かけているとマイクロバスが迂回できないところでした。

 「足腰が悪くなって外出ができなくなった」とか、「昔は色々な所に連れて行ってもらったけど」と、かつて一緒に旅行に出かけた朝日旅行友の会のメンバーの声に応え、先月から知人がマイクロバスを安く借りてくれることになり、明日は上高地へ出かけますがマイクロバスの上高地は久しぶりとなります。

電動車いす、3年で11人死亡 消費者事故調が注意喚起
記事の続き…
イメージ 1 新潟県上越市郊外の田園地帯で今月11日、水路に転落したハンドル型電動車いすが見つかった。約300メートル下流で近くの女性(72)が水死していた。
 女性は息子と2人暮らしだった。当日は医院に行く途中だったらしい。
 現場は幅3メートルほどの見通しのよい農道。転落の原因は不明だが、近くで何かにこすったような傷のあるコンクリート片が見つかり、これに乗り上げてバランスを崩した可能性があるという。知人によると女性は約3年前から車いすを使っていた。女性を知る町内会長は「いつも慎重に運転していた。なんであんな所で転落したのか」。

 電動車いすに乗った人は道路交通法では歩行者として扱われ、免許などはいらない。メーカーの担当者は「便利さはすぐに分かっていただけるが、踏切や段差などの危険は理解してもらいにくい」。メーカーは自治体などと協力して安全な使用方法を教える講習会を増やしている。ただ事故調のアンケートでは、講習会を受けたことがある人は全体の1割しかいなかった。
 また、事故調は今回、運転者が意図しない発進を防ぐためアクセルレバーの操作を2段階にすることなども提言したが、メーカー側は「発進操作を複雑にすれば、今度は危険な場所からすぐに移動できないなどのリスクが大きくなる恐れがある」と懸念している。(重政紀元、四倉幹木)
     ◇
 〈ハンドル型電動車いす〉 現在は4輪タイプが主流。車体の大きさなどの基準に適合したものは道路交通法上、「歩行者」として扱われ、運転免許は不要。最高で時速6キロまで出せる。製造大手のスズキ製のものは30万~40万円程度で販売されているほか、介護保険を利用したレンタルで使う高齢者も多い。

 さて、便利な世の中になり、電動車いすの普及によって、外出が困難な高齢者が買物に出かけたり通院する足になってきましたが、運転操作をあやまった事故も報告されており、運転者の指導だけでなく、安心して通行できる歩道の整備なども必要に迫られています。

 電動車いすを利用する人の運転技術も問題となりますが、運転に自信のある高齢者の通行も歩行者に危険を与えており、先日訪れたショッピングセンターの売り場では、電動車いすを自分のペースで通行するオジイサンを人々が避けて買い物をしていました。
 介護保険によって、気軽に電動車いすもレンタルできますが、車イスは歩行者と一緒と言っても、現実には超小型自動車と一緒で、歩行者よりずいぶん早く走ることから、運転の資格とまでは言わないものの講習は必須と思われます。

             本日の体重 71、7キロ 徒歩数 2290歩 間食あり
                                      7月23日の一言

便利な器機がありながら…

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カインズホーム内の写真プリントコーナー

 津島市内にも、かつては多くの写真館とカメラ屋さんが存在しましたが、今ではほとんどが姿を消し、私がフイルムの一眼レフカメラを趣味としていた時に利用していた「キタムラ」も、最近は閑古鳥となっており、その原因がコンビニやホームセンターでも写真のプリントができるようになったことが考えられます。

 我家には叔父が教員時代に趣味を逸脱して、多くの雑貨店に窓口を置いて副職で写真のDPEをしていた時の、コパルの自動プリンターや業務用の暗室作業の一式が今でも残っていますが、写真もデジタル化で暗室作業とは無縁になってしまいました。

 車の運転についても、最近では自動停止装置が装着され、居眠りしても勝手にブレーキがかかる時代になり、近い将来は勝手に運転して車が走り、運転手は座っているだけで目的地に到着すると言われています。

 ただし…

居眠り注意、運転手にお知らせ 大阪のバス会社機器導入
記事の続き…
 http://www.asahicom.jp/images/asahicom/hand.png高速バスを巡っては、2012年に関越道で7人が死亡した事故のほか、今年1月には長野県軽井沢町で15人が死亡したスキーバスの転落事故も起きた。運転手の健康管理を強めるなど、安全対策の向上を求める声は高まっている。
 ウィラーエクスプレスの平山幸司社長は記者会見で「高速バス業界は競争が激しい。利用者は価格で選ぶことが多いが、安全対策やサービス面でも判断してもらいたい」と話した。

車載カメラ【ドラドラ6】 http://www.jafmate.co.jp/dr/dd06/

 旧式の車(平成元年登録ライトエースやキャラバンなど)ばかりが並ぶ我家では、私が現役で運転する間に、自動運転の新しい車を購入する可能性は極めて低く、事故防止については助手席の家内しか頼りにはできず、添付した記事にあるような警報装置に光明を見出すしかありません。

 昨年8月に車イスのまま乗車できる福祉タクシーを購入しましたが、資金調達をしたときの見積書にはドライブレコーダーとブレーキ警報装置も入れてあったものの、現実には未だに購入しておらず、私自身は四国遍路や上高地など、一人で長距離を走る機会が多いことから早急に購入したいと思います。

            本日の体重 72、1キロ 徒歩数 11264歩 間食あり
                                      7月22日の一言

大橋巨泉さんの訃報が続いて…

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車1台分の日陰を見つけました カインズホーム当知店

 本日、愛知県内の小中学校は終業式が行われ、私の孫は母親に所用ができたため、朝から家内と一緒に名古屋市まで走り、孫が小学校から帰ってくるのを車中で待ち続けました。

 最近のアパートはセキュリティが万全になっており、娘からカギは預かっていたものの、入り方を間違えるとガードマンが走ってくるため、孫にカギを開けてもらい、暗証番号を押してもらって部屋に入りました。

 「ボクの部屋に来てよ」
 「ボクの部屋があるのか」
 「金魚を見てよ」
 「金魚が居るのか」
 「ゲームをしようか」
 「ゲームか…」
 「やろうよ、やろうよ」
 「カインズホームに行こうか」
 「ゲームの方が良い」
 「ママが待っているから
 「ママがァ…」

 自分の部屋の水槽の中にいる金魚やメダカを見せて、親に買ってもらった本を持ち出して一緒に遊ぼうとする孫を、無理やりホームセンターに誘い、昨年10月に「ピー」が逝ってから足が遠のいていたカインズホームに向いました。

 私の住む津島市近郊にもホームセンターはありますが、生きた「ミルワーム」は稲沢市のホームセンターまで行かないと入手できず、更に「ピー」が大好きだった米のお菓子は名古屋のカインズホームでしか売られていません。
 後輩となる「ヒー」と「サブロー」も、「ピー」が好きだった菓子が好きなため、孫の面倒は二の次としたホームセンター行きです。

 さて、梅雨が明けたのは朗報ですが、外出時に必ず同行している相棒「リマ」にとっては、炎天下の駐車場は命に関わるため、エアコンをかけ続けるのは当然ですが、日陰を探すのが一番重要な作業となります。

巨泉さん、自己主張する司会先駆け 「遺言」で首相批判

 テレビ司会者の大橋巨泉さんが、12日午後9時29分、急性呼吸不全のため82歳で亡くなられていたとの報道にはびっくりさせられました。

 7日に逝った永六輔さんの訃報は家族が伝えなかったと記されているが、昨年放映された徹子の部屋へ2人で出演していた姿や、永さんの追悼番組で黒柳さんが涙を流した光景を思い出すと、笑顔がトレードマークだった黒柳さんの涙ばかりを見るようになってきた現実を悲しく思います。

 巨泉さんが20年にわたって書き続けた週刊現代での連載コラムは、最終回とした7月9日号で、「今のボクにはこれ以上の体力も気力もありません」などと病状を説明し、「最後の遺言」を記し、安部首相を批判する一文を残している。

 「書きたい事や言いたい事は山ほどあるのだが、許して下さい。しかしこのままでは死んでも死にきれないので、最後の遺言として一つだけは書いておきたい。」

 「安倍晋三の野望は恐ろしいものです。選挙民をナメている安倍晋三に一泡吹かせて下さい。7月の参院選挙、野党に投票して下さい。最後のお願いです。」
                           (引用元:週刊現代 2016年7月9日号)

 皮肉なもので、巨泉さんの訃報は参議院選挙の後となり、最後の遺言についても選挙後に目にしましたが、選挙と後先が逆になっていたら、参議院選挙の結果にも大きな影響があったと思われ、世の中を牽引した巨星の相次ぐ訃報に虚無感が漂います。

                本日の体重 71、6キロ 徒歩数 5121歩 間食あり
                                     7月20日の一言

車窓から消えた日光の商店街

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夕暮れの津島 日光川橋西

 本日の日光橋西側から見た津島方面ですが、私の子供時代は日光川の両岸に倉庫が並び、昭和50年代まで日光橋の西側は商店街で、薬屋さんや雑貨店、八百屋さんや米屋さんが軒を並べていました。

 私が議員になった直後に日光橋は新しい橋に掛け替えられ、両側の商店はそれ以前から立ち退きのため買収が進められており、橋が完成した時に両側の商店は完全に姿を消し、ほとんどが市内各地に移転していきました。

 一方で、現在の日光橋周辺は、道路の交差点となり、立ち止まって四方を眺めるようなスペースはありませんが、私の少年時代には橋の横に神社があり、大きな樹木が茂っており、橋から川岸に下りて遊んでいましたが、神社は近くに移設され川に下りることもできなくなりました。

 私の父親の若い頃には、この日光橋の周辺でシジミが取れていたと言いますが、かつては両岸に回船問屋の倉庫が建ち並ぶ湊が存在しており、私たち大鹿一族の祖先は、三重県の鈴鹿周辺から海路でこの湊に移動してきました。

 街角から人間の生活感や息吹が消えてしまったようで寂しいものですね。

3万年前の航海「謎深まった」 草舟、どうにかゴール
記事の続き…
http://www.asahicom.jp/images/asahicom/hand.pngチーム代表の海部陽介・国立科学博物館グループ長(47)は「計画はうまくいかなかった。3万年前の人が海を渡ってきたことは確か。祖先の謎を解きたいと思っていたが、今回の実験で謎が深まってしまった」と話す。今回成功すれば来夏にも、より距離の長い台湾から与那国島への航海も予定していたが、計画を練り直すという。
 草舟は強い風と海のうねりで当初予定より5日遅れて出航したが、風が残るなど天候は完全には整わなかった。目的地の西表島は与那国島のほぼ東。その間に南から北へ海の流れがあり、南へ向かえば到着できると考えられていたが、海の流れが想定以上に強かったという。
 こぎ手たちは口々に、草舟による航海の難しさを語った。村松稔さん(39)は「島の南側から出たのに、島の北側が見え始めた。こいでもこいでも、海の流れの方が速く、進む方向が変わってしまった」。入慶田本(いりけだもと)竜清さん(33)は「伴走船にいったん移ったとき、3万年前の人はどうやって渡ったんだろう、と考えた。こぐ力が2、3倍あったとしても、あの流れをこの舟で渡るのは難しいと思う」と振り返る。
 少し違う感想を持ったこぎ手もいる。碇昌行さん(41)は、「浮力があってすばらしい舟だった。天候が一番良い時期で、こぐ力も備わっていれば、草舟で渡れる可能性はまだあると思う」と話す。
 今回の航海実験は、旧石器時代に台湾に近い与那国島や西表島まで海を渡ってきた方法を検証するものだった。背景には、沖縄県石垣島や沖縄本島では旧石器時代の人骨が発掘され、石垣島で発掘された人骨はDNA解析で台湾など南方と共通する遺伝子型だと判明していることがある。
 チームの一員として3万年前の舟を検討した後藤明・南山大教授(61)は、「与那国島で手に入る材料と、石器を使わなくても作れるものとして草舟を考えた。他に、台湾の先住民が使っている竹いかだも試す価値はある。ただ、いまは与那国島で大量に手に入らず、草のように貝殻では切ることができず、道具も必要になってくる」と話す。

 大きく報道された3万年前に人類が大陸から草舟で沖縄に移動してきた再現実験でしたが、伴走船まで用意しながら、予定したコースに流れない海流から、伴走船でひいて針路を変更したり、実際には航海の大半を人力で行っていないなど、国の関係機関や大学教授も参加した実験とは思えないお粗末な結果には驚かされました。

 3万年前の人類の行動や、大陸から沖縄地方に移動した先祖の生活を想像すると国のレベルを超えたロマンを感じずにはおれませんが、使用した草舟について大学教授が、「与那国島で手に入る材料と、石器を使わなくても作れるものとして草舟を考えた」と語っていることを聞くと、素人でも中国大陸や台湾に存在する材料を利用しなかったことは滑稽としか思えず、歴史的検証ではなくイベントでしかなかったと残念な気持になりました。

 最近では、九州から韓国まで海峡を泳いで渡る人も存在していますが、伴走船まで用意した3万年前を想定した実験であれば、人力だけで潮の流れや海流に影響されて草舟で何処に辿り着くかの実験をすべきだったと思います。

 戦後にグアム島で生き残るために横井庄一さんが考えたことを考えると、今回のような大がかりで組織的な行動を3万年前の古代人が考えたとは思えず、島国の発想ではなく、大陸人の発想で考えて再挑戦してもらいたいものです。

             本日の体重 72、1キロ 徒歩数 2703歩 間食あり
                                      7月19日の一言

歴史を3万年もさかのぼると…

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 五百年以上の歴史がある尾張津島天王祭は、来週の7月23日(土)に絢爛豪華と言われる宵祭が行われ、翌日の24日(日)に朝祭りが開催されます。
  「尾張津島天王祭」は、日本三大川まつりのひとつに数えられ、津島神社の祭礼として、全国の数ある夏まつりの中でも最も華麗なものと言われており、昭和55年に「尾張津島天王祭の車楽船行事」が国の重要無形民俗文化財に、昭和59年に「尾張津島天王祭の車楽」が県の有形民俗文化財にそれぞれ指定されています。


 約3万年前に人類が沖縄に渡ってきた航海の再現実験で17日早朝、沖縄県与那国島から草舟2隻が出航したとの新聞記事に興味津々とさせられます。

草舟2隻、夜間はこぐことを中断 3万年前の航海再現

3万年前の船旅、何食べた? 航海再現チームの食料は…

 出航した与那国島と、到着地の西表島は約75キロあり、7人のメンバーが30時間以上かける航海となりますが、今回の航行は伴走船が併走しており、必要な水や食料を積んだ万全な航海であるものの、3万年前を想像すると、海の先に陸があることも判らず、何日かかるか判らない船出だけに、水と食料をどのように積み込んだのかすら想像ができません。

 約3万年前に人類が沖縄に渡ってきた航海の再現実験ですが、現代社会の国立科学博物館など専門チームによる万全な航海のため、天候や強風のたる何度も順延されました。
 しかし、天気予報もできない3万年前の人類が、東南アジアから集団で海を渡ってきたことには驚きで、この実験によって日本人の先祖が、海路で沖縄に移動してきたルートの裏づけになっていきます。

 日本人のルーツは、南方から海を渡った沖縄ルートと、大陸から朝鮮半島を渡ってきたルートと、北方から南下してきた3ルートと言われていますが、個人の意思で人が自由に移動していた当時を想像すると、国家の存在により尖閣諸島や竹島問題が起こり、中国の南シナ海の領有権問題などが起こっている現実が残酷に思えてなりません。

              本日の体重 72、4キロ 徒歩数 3264歩 間食あり
                                       7月17日の一言

和歌山電鉄たま駅長が児童書になって

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 本日は議会報告会が開催され、私の担当となった班は、午前中に神島田公民館を会場にした神島田地区の人々を対象とした報告会に参加し、午後は東憩いの家で東小学校区の人々を対象とした報告会に参加しました。

 議会報告会には議員全体で作成した報告書に基づいて報告しており、議員個々の個人意見は発言してはいけないことになっており、市民の方から市政に懐疑的な質問や意見が出されても、市長の代弁者のように応答する内容に不満を持ちながら、口にチャックをしてストレスを溜め続けます。

 市民病院の経営や、医療体制についても、現市長が赤字解消のための具体的背策を何も出していないのに好転する可能性は低く、市民病院に高額な予算を投入しているため、隣接市町村に比べて駅前の整備等が遅れ、住民サービスも確実に低下しておりながら、市の施策を良さそうに説明することは市民だましとしか思えません。

 議会は市長に肯定的な意見も当然ですが、批判的な意見や否定的な意見があって議論となりますが、市からもらう補助金を頼りにする市民団体や、市長に直接訴えられる人間関係を披露する人の意見や議論ばかりでは改革はできません。
 
イメージ 2和歌山)故たま駅長の活躍が児童書に 貴志駅でサイン会

和歌山)ニタマが園児らと短冊に願い 貴志駅に飾り
 
  さて、赤字に苦しむ和歌山電鉄の経営を立て直した功労者(猫)となる、貴志駅の「たま駅長」が死んで一年が経過しますが、「たま駅長」の生い立ちから駅長となって活躍し、世界に発信された顛末が児童書になったとの発信がありました。

 猫の「たま」を駅長に登用したのは小嶋光信社長のアイデアですが、後継者となっている「ニタマ」駅長と比較すると、やはり「たま」を駅長とするひらめきは、「たま」の持つ独特の魅力によるもので、一匹の猫が地域の足となる鉄道を維持する原動力となったことは驚きでもあります。

 私自身は「たま」駅長を2回見に行きましたが、存在した命が無くなっている現実は寂しいものがあります。我が身に振り替えて、今年になって保護した「ヒー」と「サブロー」は勿論ですが、人間嫌いの「チー」と、知人から預かっている2羽との時間も大切にしたいと思う一日になりました。

              本日の体重 72、3キロ 徒歩数 784歩 間食あり
                                      7月16日の一言

陽射しを受けた真昼間のウォーキングへ

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私が主治医としている『かかりつけ医』の彦坂外科と薬局

 「お父さん、何処に行くの?」
 「彦坂さんと市役所」
 「ついでに乗せて行ってあげるわ」
 「うーん、どうしようかな…」
 
 迷ったものの、家内が親切心で発した言葉だけに、素直に乗せて行ってもらうことにして、病院で降ろしてもらいましたが、家内は近くのホームセンターへ買い物に走って行き、帰りに拾ってもらって市役所に寄って帰る予定でしたが…
 
 待合室に座って本をめくろうとすると、「大鹿さん」と呼び出しがあり、到着して5分もしないうちに診察室に座ることになり、「まだ、血圧が下がりませんね」と看護士さんに言われて、「何事もありませんね」と診察が終わりました。
 
 待合室に戻って、張り出された健康診査の張り紙を見ていると、「大鹿さん」と会計のため受付から声がかかり、もしかしたら病院内に10分も居なかったのではと錯覚するほど早く診察と会計が終わってしまいました。
 
 偶然にも木曜日は院長先生の息子さんが外来を担当しており、息子さんの診察日には行かないと知人が語っていたことを思い出し、親の築いた信用と実績を、後継者となる息子さんが引き継いでいくことの難しさと、我家も息子が6月から接骨院を開業しており、患者さんが来なければ経営の危機となることから、他人事としてではなく息子さんにも我が子を谷底に落とす獅子奮迅の環境が必要にも思いました。
 
 自分のかかりつけ医としておれば、長寿が可能ならば自然と息子さんの診断と治療が必然となりますから、勤めた病院で外科医として信頼と実績を残して独立した院長先生のように、修羅場をくぐった経験が必要で、健康診断程度の感覚では患者は続きません。子供は子供なりの個性を生かして頑張って欲しいものです。
 
 さて、過去にも経験のない早い診察が終割った頃に携帯電話で連絡したものの無反応で、薬の処方が終った後にも何度か連絡したものの家内は電話に出ないため、歩きながら市役所を目指し、ついには到着してしまい、何度も連絡するも何の反応もありません。

 そして、本日に限って陽射しが強く、汗でずぶ濡れとなったシャツが市役所の冷房で冷えることから、そのまま歩いて自宅を目指しているとやっと電話です。

 「携帯家に忘れちゃってて」
 「…」
 「今、何処にいるの?」
 「日光」
 「じゃー歩いて来れるね」

 こんなことなら、最初から自分の車で出かければ良かったと思ったものの、汗だくで街中の歩道では怒る気持にもなれず、ウォーキングできたと思うことにしましたが、携帯を忘れたことも知らずに病院から歩き出した私を探すため、薬局へ聞きに行って探していた家内も大変な思いをしたものと思われます。思いもしなかったウォーキングとなりました。

              本日の体重 71、4キロ 徒歩数 6229歩 間食あり
                                       7月13日の一言

久々となる郷土本が出版されて

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今月23日に発行される「尾張津島天王祭のすべて」を持つ著者

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 私の住む津島市では、今月の23日(土)と24日(日)に「尾張津島天王祭」が開催されますが、23日の宵祭にあわせて「尾張津島天王祭のすべて」を発行すると、著者の若山聡さんから早速案内していただきました。

 若山さんは、現在愛西市観光協会の役員ですが、かつては津島市の観光交流センターの館長として祭や津島市の歴史文化とは深く関わっておられ、今回発行される本には祭の舞台裏が解かりやすく記されるとともに、朝祭の主役となる愛西市の市江車についての記載があり、久しぶりとなる郷土の出版物ともなります。

尾張津島天王祭のすべて 著者 若山聡 発行所 風媒社 定価1200円+税

 著者略歴の中には、「諸国一ノ宮山歩」(風媒社)を著作したことと、「日本百名山登頂など生涯を通し継続している」と記されていますが、著作者は学生時代から登山を趣味としていることから、海から山に至る日本の信仰や歴史についても発信されることを期待したいものです。

 さて、写真を撮った私が言うべきではありませんが、若いと思っていても著者の見事な爺さん姿に、私は著者より4歳も年長となる現実を感じながら、編集後記の中に、祭の写真を提供してもらった今田秀徳さんへの謝辞が記されていることを目にしました。

 最近は定年退職後に写真を趣味とするにわか愛好家がプロの写真家のようにふるまう光景を目にしますが、提供者は中学時代から写真撮影と暗室作業を趣味としており、著者と同級生で同じ町内に住んでいたことを認識しておらず、現役の愛好家として見事な写真を提供していたことにうれしさを感じる夜ともなりました。

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 本日は、昨年1月に三重県の鈴鹿山系の冬山登山で行方不明になり、先月遺骨が遺品とともに発見され、本人であることが確認されて実家に戻っていた従兄弟の葬儀が行われ、稲沢市の祖父江斎場で火葬が行われました。


 遺骨とは言え、身元が特定されて戻ったことは幸いですが、従兄弟は何時にどのような最後を迎えたのかも判らず、小さな棺にお骨が納められて火葬されたものの、親より先に逝くことの悲惨さと同時に、天候のように寂しく、午前中に浴びた香の臭いがかび臭く感ずる一日ともなりました。

           本日の体重 71、8キロ 徒歩数 11051歩 間食あり
                                     7月13日の一言

津島市に通信制高校の窓口ができて

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 津島市内には3つの県立高校と1つの私立高校がありますが、高校中退者や不登校で学校に行けない人たちを受け入れる通信制高校の津島支部が設立され、昨日より登録が済んで地元の生徒を受け入れる準備がされていました。
 
 
 私は高校入学直後に中学時代に入院した「右足大腿部骨髄炎」が再発し、入院生活が長くなったことから、秋ごろには出席不足による留年が決まり、退院後に落第を承知で通学していたものの、進級しない教室に行き続ける矛盾と、津島駅でたむろして遊んでいる知人や、意気投合した友人と不良生活を謳歌するようになりました。
 
 こんな状態で新年度を向かえ、他の生徒に暴力を振るったことで無期家庭謹慎となり、夏休み前に病気の再発により入院し、2度目となる留年が決まり、その後も不良生活が改まらず、担任からも退学を勧告され、2度目の落第ゆえに退学を覚悟していました。
 
 こんな難治性の病気を持って2度も落第した不良は行き場が無く、高校の名簿から名前が消えた3年目の新学期に、勝手に退学扱いにした担任へ抗議するために不良仲間に励まされて登校し、担任だった教師を殴って退学する予定でした。
 
 しかし、私の姿を見つけた新1年生の担任となる教師より、不良である私の行動を知りながら、「僕のクラスで一からやり直してみないか」と誘われ、その年にも病気が再発して3度目となる手術を受けたものの、早期に教室に戻って留年を免れました。
 
 1年生を3回経験したとか、高校5年生とか今では「良い経験をした」と語れますが、年下の生徒と一緒の落第生活は衆目の目にさらされ、不良が生活を改めることもこの恩師の存在と、不良時代を見ていない、新たに赴任されてきた教頭や校長の指導によって20歳の成人式後に卒業し、恩師の強い勧めで大学にも行くことになりました。

 5年も高校へ行った経験は、今となっては貴重な体験になったと思うものの、骨髄炎という手術しても完治しづらい病気と、落第という大きな精神的ダメージを受けた高校生活は過酷で、当時は定時制の夜間高校か私学へ転校するしか選択肢がありませんでした。

 当時に比べて圧倒的に増加した中学校への不登校を考えると、自宅内へ引きこもって学校に通学したことのない生徒の就学と、病気や非行によって高校を中途退学してしまった生徒が再起して、高校を卒業して更なる大学を目指すためには、最近の通信制高校の存在も大きな選択肢になりうると思います。

 中学校を不登校のまま就学の機会を失っている生徒や、高校の中途退学者にとって、津島市内に高校生活をサポートしてくれる新たな窓口ができたことは、参入者のビジネス展開として無視するよりも、対象となりそうな生徒に案内して高校を卒業して大学を目指す大きなチャンスとしたいものです。

          本日の体重 71、7キロ 徒歩数 4867歩 間食あり
                                     7月12日の一言

選挙に行ってきましたが…

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私は母校神守中学校が投票所になります

 本日は参議院選挙の投票日でしたが、支持政党を持たない無所属の地方議員にとっては、地元から立候補している候補者が存在する地方区は別としても、政党を選択する比例区は投票のしようが無く、白紙投票は無効票として集計されないため参加意識も希薄となる投票になります。「支持政党無」か「支持政策無」の投票先が欲しいものです。

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 添付した写真は、昨日岐阜県川辺町で開催された「佐藤由美ピアノコンサート」が終った後の様子ですが、演奏者のオマケのオマケの演奏を、居残った参加者がデジカメやスマホを向けて撮影していました。

、こんな演奏者を囲んで演奏を聴き、写真に収めているコンサート風景を見たのは初めてのことで、私も急いでデジカメで撮影に参加しましたが、散会したコンサートの終了後に演奏者とお客さんがピアノを囲んで談笑する雰囲気は、大きなコンサートホールでは考えられない魅力でもありました。

 私は、ピアノどころか音楽は鶴田浩二さん以外とは無縁の生活ですが、佐藤由美さんのお父さんとご縁があり、勧められるままに演奏会に参加しており、県内だけでなく東京都葛飾区でのコンサートに同行したこともあり、結成された後援会にも入会しています。

 佐藤由美さんは、東京芸大大学院の出身で、海外に派遣された経験もあるピアニストですが、演奏できる会場とグランドピアノがあれば、何処にでも出かけて演奏する気持があり、東日本大震災の被災地や東北地方へ何度も出向いて演奏会を開催してきました。
 「街角コンサート」の魅力にはまったお節介で、皆さんの街角でもコンサートや演奏会をお聞きになりませんか。私まで声をお寄せください。皆さんの近所の街角に行ってピアノを聞きたいと思っています。

早まるランドセル商戦、今年は4月が増加 価格も上昇
記事の続き…
 http://www.asahicom.jp/images/asahicom/hand.png一方、阪急百貨店うめだ本店は7月15日から。去年は8月1日だったから、2週間早めたことになる。子どもたちが夏休みに入る時期に始め、3世代が集まるお盆に照準を合わせる。
 ランドセルメーカー「セイバン」執行役員の長瀬秀樹さんは「売り場ができるのは10年ほど前だと11、12月でした。この3~4年で夏になり、今年は4月からが増えました」と話す。昨年の販売のピークは8月だったが、今年は早まる可能性があるという。
 値段は「年々上がっている」と売り場の担当者たちが口をそろえる。ランドセル工業会によれば、平均価格は06年の2万9900円から14年には4万2400円に上昇。15年はさらに数千円上がったようだ。

 さて、今年小学校に入学した孫のランドセルを予約するため、昨年8月に家族に連れられて店頭を訪れましたが、8月の予約にもびっくりしたものの、今年は4月から商戦が始まっているとの報道には驚きです。

 昨年の孫のランドセルの予約時にびっくりしたのは、6年間の保険が付いていることもありますが、購入価格の高さで、これだけ低価格が当たり前になった現代社会で、高額なランドセルが売れていく背景は何故でしょうか。


               本日の体重 72、1キロ 徒歩数 2002歩 間食なし
                                      7月10日の一言

佐藤由美 ピアノコンサート 岐阜県川辺町

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演奏前の会場風景とグランドピアノ

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えっ? ここが会場ですか…

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今度は蕎麦を食べに来たいものです

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休憩中のスナップ撮影

本日は岐阜県川辺町のそば処山法師で開催された「佐藤由美」ピアノコンサートに出かけました。

そば屋さんとピアノの組み合わせは意外な気がしますが、店主とともに各地を同行したグランドピアノで、偶然お客として立ち寄った由美さんと出会い、演奏させてもらったのが縁となり、コンサートを開催する話に盛り上がり本日の演奏会に至ったとの話です。


佐藤由美さんはピアノがあれば何処でも出かけて演奏する意欲を持っており、東日本大震災の被害にあった東北地方で演奏することもライブワークにしています。

街角のピアノコンサートは、音楽音痴の私でも参加ができます。


                                                     本日の体重 71、1キロ 徒歩数 635歩 間食あり
                                                  7月9日の一言

上高地の足元に咲く山野草を眺めて

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昨日の上高地 大正池です

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カラマツソウ
 
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ウツボクサ
 
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キジムシロ?
 
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さて?
 
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さて? キバナノヤマオダマキかな?
 
 昭和49年に初めて上高地を訪れ、その自然環境に感動して訪れるようになり、平成11年に休みの無い新聞販売店を廃業し、時間に余裕のある議員活動になったことから、家族で長期滞在ができるようになりました。

 今年から環境省のパークボランティアに登録されましたが、ボランティアならせめて上高地の案内くらいはしたいと、2月から白樺自然学校のガイド養成講座を受講していたものの、上高地を訪れる回数は誰にも負けないものの、鳥や植物に対する受講者のレベルの高さに驚かされました。

 講師から、「詳しいことは本を見れば判る」との助言があり、私自身もネット検索でも判るだろうと思っていましたが、現実には植物にも成長過程によって、花が咲く前と、咲いた後では様子が違い、ネットや本で調べても確実には判りません。

 4月の開山期には雪が残り、11月の閉山式の前に積雪がある厳しい上高地の環境下で、多くの植物が自生しており、外来植物の進入を防ぐため、明日と明後日もウェストン園地と帝国ホテル周辺で、西洋タンポポやエゾノギシギシ、ミズバショウなどの外来植物を除去する活動が行われます。

 「この花は何ですか」と問われれば、「ビジターセンターに置いてある本を参照してください」と言うしかありませんが、今年からは足元の植物にも目がいくようになり、
未だに不勉強な鳥に関心を持ちたいと思うようになったものの、一番重要な視力が老化現象で働きませんから寂しい現実も実感です。

              本日の体重 71、3キロ 徒歩数 8193歩 間食あり
                                        7月8日の一言
 

父親からもらったダルマの絵

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私の父親大鹿時義は、若い頃は浅見香城先生に日本画を習っており、門弟には元名古屋市長の杉戸清氏や、名古屋大学名誉教授大西誠一郎氏など、高名な方々が多い中で、先生の一番若手層の教え子にあたります。
 
絵は素質が無いものの晩年まで描き続けており、多くの作品を先輩や同僚の退職記念や交流会で配布しており、数年前には静岡県沼津市から「日本猿」を描いた色紙がオークションに出され、あまりにも下手で汚れていたものの、父親の愛用していた落款が押され、裏面には朱の住所印も押されていたことから、初めてオークションで落札しました。
 
添付した作品は、使い古しの額に入った父親の絵ですが、大きなダルマが小さなダルマと張り合っている姿を、私と家内に見立てて、私から「欲しい」と言ってもらった唯一の絵画です。
 
私の言葉を聞いた父親は、同じ絵を書き直すと言いましたが、過去に父親の絵を欲しいと思ったことがなく、唯一欲しいと思った直感からそのまま貰いましたが、私の言葉が嬉しかったか、その後に父親は同じ絵を何枚も描いていました。ただし、この絵のように欲しいと思う絵はありませんでした。
 
小さなダルマの目を見ていると、当時の家内を思い出して笑ってしまいます。昭和60年頃の作品と思われます。
 

愛知県から上高地まで散歩感覚です

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 本日、突然に上高地を訪れたのは、千葉県旭市と言うよりも、一年の半分以上を上高地の小梨平のテントで生活する渡辺画伯(写真右、別称・ホームレス画伯)に、添付した折りたたみ椅子3脚を届けるためで、4月より約束してあったものの、遅れに遅れた届け物になりました。

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こんなに人の居ない上高地も珍しいですね

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私のお気に入りのカラマツ 穂高は雲に隠れています

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小梨平から見る焼岳

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 「上高地を描き続けて57年」と、「山の友情は根雪をも溶す」と記されたキャンパス台に置かれた油絵は、今では上高地を訪れる人々の名物ともなっており、主人公となる渡辺さんは、日中は河童橋の周辺で絵を描き、開山式より早い4月から、閉山間近の10月まで小梨平に大きなテントを張って生活しており、訪れる観光客と旧交を温める場所にもなっています。

 引退した老後は年金で悠々自適の生活を送りたいとか、知らない場所でしがらみの無い好き勝手な生活を送りたいという話はよく耳にしてきましたが、現実にそんな生活を実現できる人はほとんど存在していません。

 「上高地のテント生活で半年」と言うと、上高地の好きな人には羨ましい限りですが、現実には激しい雷雨や台風にも影響され、我々の生活環境より気温は約10度低いため、春先や秋口は冬並みの寒さに震える生活となります。

 10年以上前に知り合い、小梨平ではテントの隣人となり、千葉県のお宅まで訪れるような関係になっていますが、家業は子息に任せて好きな絵を描くことだけに徹する生活は見事で、私も地元に10日、上高地と四国遍路に10日間づつの生活を、セカンドライフの目標にしているものの、6月は一度も上高地に行けませんでした。

 しかし、口にするのは簡単ですが、朝起きて天候を確認してから上高地へ出発するのは大変で、本日は突然の思いつきで車を走らせ、高山市(旧丹生川村)で地元の人のように家内と珈琲屋さんに立ち寄り、午後2時過ぎに上高地に入って画伯と談笑し、まるで散歩から帰るかのごとく上高地をあとにして、息子の開業した接骨院の営業時間内に愛知県まで戻ってきました。

 かつての一言に、上高地の帰り道となる旧丹生川村で、親しくなった知人と隣人のようにすれ違ったり、留守となった知人宅に勝手に土産物を届けた一文が残されていますが、愛知県の自宅と長野県の上高地まで距離はあるものの、散歩の延長として考えると、かつては遠かった上高地が近所の延長で身近な存在になっていることを実感させられます。

            本日の体重 71、6キロ 徒歩数 6000歩 間食あり
                                       7月7日の一言

気まぐれで上高地へ

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本日は天気予報が一日だけ晴天と言っていたことから、本当に気まぐれで上高地へ車を走らせることにしました。

写真は、東海北陸道「ひるがのサ-ビスエリア」で散歩中の相棒リマです。

本日は昼食後の上高地入りとなります。

名古屋へ出かけ、岐阜県の草餅を口にして

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本日夕方の空模様 宇治町から 正面が越津町 右は下切町

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名鉄勝幡駅

 本日は、9月に開催される「歩き遍路友の会東海」の総会の打ち合わせのため、名古屋の金山総合駅で待ち合わせ、名古屋ボストン美術館のある南ビルに集まりました。

 津島市には名鉄の津島駅と青塚駅がありますが、我家の事務所前に名鉄バスのバス停があり、ここからバスで「名鉄バスセンター行き」に乗れば、直接名古屋駅に30分程度で到着し、「栄行き」に乗れば名古屋の繁華街「栄」まで直接行けますが、名鉄電車を利用するためには、津島駅にもバスは行くものの遠回りで時間がかかり、青塚駅には車を駐車するスペースがないことから、電車で名古屋へ行くときは愛西市の勝幡駅を利用することになります。

 津島駅や青塚駅の利用者が年々減少している理由には、こんな津島市の地理環境と、駅周辺の道路や駐車場が未整備であることに加えて、高速道路を使えば自宅から20分程度で名古屋市の中心地に到着してしまうことが考えられます。


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 さて、夜になって好物の「草餅」を食べ、「ういろ」があることを聞き、私の好きな「大須ういろう」か「青柳(あおやぎ)ういろう」と思っていると、昔ながらの「ういろう」で、口にしてから岐阜県海津市の「かわしまや」の草餅とういろうであることが判りました。
 ここの草餅やういろうを確実に買うためには、朝一番で足を運ぶ必要があります。

 「大須ういろう」や「青柳ういろう」の原材料は「米粉」で、我々の地域で昔から口にしていた茶色の「ういろう」は「小麦粉」でできており、根本的に味に違いがありますが、かつては当地方で麦が大量に栽培されていたことから懐かしい味になります。

日本人の祖先、いつどこから来た? 定説の3ルートとは
記事の続き…
 http://www.asahicom.jp/images/asahicom/hand.png対馬ルートで渡ってきた時期について、首都大学東京の出穂雅実准教授(考古学)は「約3万8千年前」と絞り込む。
 地球は約7万年前から約1万年前まで寒冷な氷期になり、海面が今よりも低かった。3万年前より古い国内の遺跡のうち、「古本州島」として陸続きになっていた九州、四国、本州の各地から条件がよいものを厳密に調べたところ、最も古いのが約3万8千年前で、それ以降、急に増えていた。朝鮮半島とは海で隔てられていたが、対馬などを伝っていけば目視しながら渡ることができた。
 北海道ルートはシベリアまで陸続きだった。出穂さんによると、約2万6千年前以降の北海道の遺跡から見つかる「剥片(はくへん)石器群」と「細石刃(さいせきじん)石器群」がシベリアのものと似ており、生活が共通していたことがうかがえるという。「氷期で最も寒かった2万4千年前からの2千年間、シベリアに遺跡がほとんどない。南下して北海道へ避難してきた可能性もある」
 人類のDNA解析データを調べた山梨大の安達登教授(人類遺伝学・法医遺伝学)も「シベリアから南下したと考えられる」と話す。北海道の縄文時代の人骨と共通する遺伝子型が、現代の東シベリアの先住民に多く見られる一方、朝鮮半島の現代人には非常に少なく、台湾や東南アジアには見られなかったからだ。
■知力生かし航海か
 沖縄ルートは難関だ。国立科学博物館(科博)の海部陽介・人類史研究グループ長によると、渡ってきたのは「3万年以上前」。那覇市山下町の遺跡で約3万6千年前、沖縄本島南部の八重瀬町港川や石垣市白保で2万年以上前の人骨が見つかっている。白保の人骨のDNAを解析した科博の篠田謙一・人類研究部長は「今の東南アジアに特徴的な遺伝子型を持っている。南方から北上した人たちが白保に到達したと考えられる」。
 しかし、琉球列島最西端の与那国島と台湾の距離は最短でも約110キロある。東京大の横山祐典教授(古気候学・地球化学)によると、当時の日本周辺の海面は今より50~60メートル低かったが、このあたりの海の距離は現在と大差がなかったという。大陸と陸続きだった台湾から舟で渡るとしても、間を北上する黒潮に流されるので、航行距離はもっと長くなる。
 本当に海を越えられたのか。
 海部さんは「航海術を持っていたとしか考えられない」と話す。3万年前の航海を再現しようと、海部さんら科博の研究者や海洋冒険家、草舟職人、与那国町職員のチームは7月、まず与那国島から西表島までの約70キロを草舟で渡る実験をする。篠田さんは「ホモ・サピエンスはアフリカを出て世界へ拡散したとき、現在の人間と同じ知力を持っていた。わたしたちが思いつくことは当時の人たちも考えていただろう」と話す。
■旧人・原人 いた?
 約3万8千年前に日本へ渡ってきた人類がホモ・サピエンスだといえる根拠は、遺跡にも残されている。
 日本旧石器学会会長の佐藤宏之・東京大教授(考古学)によれば、3万年以上前にできたとみられる落とし穴が国内で400基ほど見つかっている。静岡県三島市では100メートルにわたり60基が連なる遺跡が発見された。「これほど大規模な落とし穴群をつくれるのは、知能の高い今の人類しか考えられない」と話す。
 季節ごとに移住している様子などもあり、複雑な行動をしていたことがうかがえるという。
 ただ、東アジアには北京原人やジャワ原人など、今は絶滅した古い人類がいた。欧州などでは、旧人のネアンデルタール人がホモ・サピエンスと共存していた時期があると言われている。日本にも、ホモ・サピエンスが渡る前に原人や旧人がいた可能性はないのか。この点は研究者の間でも見解がわかれているという。
 かつて日本では人類の遺跡が約70万年前までさかのぼれると言われていた。だが、2000年、これらの遺跡はアマチュア研究家が石器を埋めて掘り出した捏造(ねつぞう)だったと判明。日本における原人や旧人の研究は白紙に戻った。
 ただ、近年の研究でも、10万年より古い可能性のある遺跡が存在するとの見方はある。今後、新たな発見などがあれば、研究が進展するかもしれない。(神田明美)
■人類の起源は?
 最初の人類である初期猿人がチンパンジーとの共通祖先から分かれたのは約700万年前。その後、原人や旧人など様々な人類が誕生した。
 かつては、世界各地でそれぞれ原人→旧人→現生人類へと進化したという「多地域進化説」が唱えられていたが、今ではホモ・サピエンス以外はすべて絶滅したとする「アフリカ単一起源説」が信じられている。世界中の現代人のDNAを比べると、共通祖先が20万年前ごろのアフリカへたどれるという遺伝学的証拠のほか、化石の骨の形や考古学的な証拠もある。

 『世界中の現代人のDNAを比べると、共通祖先が20万年前ごろのアフリカへたどれるという遺伝学的証拠のほか、化石の骨の形や考古学的な証拠もある』との記事を目にすると、1200年前に空海が説いた声に耳を澄ませている自分の視野の狭さを実感されられますが、犬や猫を家族として生活する現代社会で、人が人を殺戮する現実との大きな乖離も実感し、遥か彼方から日本に辿り着いた人類と空間を想像してしまう夜にもなりました。

            本日の体重 70、8キロ 徒歩数 5111歩 間食あり
                                      7月3日の一言

核家族化の弊害を実感する一日に

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我家のブルーベリー 完熟も間近になりました

 2013年に子どもの貧困対策法が成立し、昨年から全国に「子ども食堂」が続々誕生しているとの報道と、「ハラ減った~。早く~」とか、「朝ご飯食べてない」と、待ちきれず先に手をつける子。「夏休みには給食がなくなり、やせる子もいる」との記事内容に驚かされます。

 こんな新聞記事を読むと、日本の家庭で何が起こっているかが判らなくなり、飽食の時代となり、食べられる食材も安全のため確実に破棄されるシステムが確立しているのが信じられなくなってきます。

「食」の支え合い、各地で手探り 「子ども食堂」急増
記事の続き…
 http://www.asahicom.jp/images/asahicom/hand.png九州でも昨年、公民館で開こうとして「貧困の子どもはいない」と区長に拒まれたケースがあった。主催者が何度も足を運び、「全ての人の居場所になり、地域が活性化する」と説得して開設できたという。
 あえて「子ども食堂」と名付けないところもある。
■クラウドファンディングの利用も
 食堂の継続には安定した財源の確保が欠かせない。
 子ども食堂の多い滋賀県。開設を後押ししているのが、県社会福祉協議会などでつくる「滋賀の縁(えにし)創造実践センター」だ。モデル事業で昨年度から、食堂を運営する団体などに初年度20万円、その後2年間は10万円ずつ助成している。
 5月現在で26団体が対象。今年度は県がこの事業を支援するため1212万円を計上した。センターは「小学校区に最低一つ、300カ所に増やしたい」。
 助成対象の一つ、大津市の「しらゆり子ども食堂」は一口5千円の協賛金も募る。運営する歯科医の山元浩美さん(55)は自己資金で鍋や食器を購入。昨年12月から、経営するデイサービスサロンで週1回食堂を開く。小中学生15人ほどが来る。材料費は月5万円ほど。子どもは無料で大人は600円払ってもらうが、「助成終了後も活動を続けるには資金集めの仕組みが必要」と山元さんは話す。
 歯科医師会やロータリークラブで協賛を呼びかけ、半年で30万円集まった。応じてくれた個人や団体名を、百貨店にも置く山元さん発行の健康情報紙やフェイスブックに載せた。
 ネットで資金を集めるクラウドファンディング(CF)の利用も目立つ。
 埼玉県川口市の「川口こども食堂」はCFで48万円を得た。食材は寄付でまかなえるが、公民館の使用料やチラシ代、絵本やおもちゃなどを保管する倉庫代がかさみ、約50人の食事代(子ども50円、大人250円)を集めても月2千円余り足りないためだ。
 CFで目標の1・2倍を集めたが、佐藤匡史(まさし)代表(43)は「CFのお金が尽きたら“閉店”というわけにいかない」と、オリジナルの文房具などを販売し、運営の足しにする計画だ。
 食材の寄付や会場の無償提供など現金によらない支援も資金繰りを助ける。
 食材の寄付は各地であり、「野菜はほとんど農家からもらっている」ところも。那覇市ではスーパーの丸大長田店が近くの食堂の希望する食材を無償で提供している。琉球銀行は15団体に毎月1万円分の商品券や食材を贈っている。
■本当に必要な子、どうしたら来る
 相模原市南区の元飲食店を使った「相南ハッピーこども食堂」。6月23日夕、十数人の親子で満員となった。訪れたのは、つわりで調理が難しく娘を連れてきた女性、妻が妊娠中で息子2人と来た男性ら。運営する富岡美智子さん(52)は利用を喜びつつ、「貧困や孤食などの子に来てもらえるかが課題」と話す。
 支援を必要とする子にどうすれば来てもらえるか――。誰でも利用できる形式の食堂に共通した悩みだ。
 「冬休み中、毎日開いたが、来てほしいと思っていた子は1回しか来なかった」(兵庫)、「ママ仲間が誘い合って来る。コミュニティーになっていいが、しんどい親子にも来てほしい」(東京)、「困っている親子に限定するとかえって来づらい」(埼玉)。
 情報を届けるため、子どもの実情を知る学校や地域とつながる動きもある。
 沖縄県うるま市の「スマイルカフェ」は、「誰でも無料で一緒にごはんを食べることができます」と書いた名刺大のカードを小学校長や民生委員、ケースワーカー、市に配り、気になる家庭に渡してもらっている。これまで数人の子がカードを持って来たという。
 食堂になっている児童館の山城康代館長(54)は子育て支援のNPO法人代表を12年務め、自治会や民生委員とのつきあいが深い。「情報を届けるには、地域の事情を知る人たちに頼むことだと思った。何度も足を運ぶのも大事」と話す。
 学校の場合、「教育委員会を通してほしい」などと言われ、チラシを置くだけでも難しいケースがある。
 兵庫県尼崎市の小学校では、近くに「そのっこ夕やけ食堂」ができた今春、チラシを貼った職員室前で、教頭が「こんなの始まったよ」と子どもたちに紹介。今もチラシを校内に置く。食堂は市やPTA、スクールソーシャルワーカー、市社会福祉協議会、NPOなどでつくる連絡会が始めた。当時の教頭は「登下校の見守りや行事への参加など普段から付き合いと信頼があったので」と話す。(河合真美江、中塚久美子、丑田滋)
 〈桃山学院大の金沢ますみ准教授(スクールソーシャルワーク論)の話〉 子どもの貧困問題が注目されるようになり、国がやるべき貧困対策とは別に、「地域でできること」として民間の善意から子ども食堂のような場が始まった。つながりが薄れ、気になる子に声をかけにくい社会になっている。顔が見える関係をつくって、経済的に苦しい家に限らず子どもが安心して過ごせる場が必要だと多くの大人が感じていたことが、食を共にする活動として広がったのではないか。
 地域にどんな子がいるのかを知り、何を目指すのかを共有することが大切だ。大人のしたいことではなく、子どもが必要とすることを探してほしい。鍵になるのは学校との連携。事前に取り組みを知ってもらい、どんな協力関係を築きたいのか丁寧に説明すれば理解を得やすくなる。
 無理のない範囲で続けることが、子どもの安心・安全を支える。

 さて、私が学生時代に起業した新聞販売店では、昭和50年代には新聞配達のアルバイトを希望する中学生も存在し、生活のため会社の勤務前に内緒で配達をする人もありました。

 これだけ豊かな社会になり、働けるのに働かない人でも生活保護の対象となった世の中で、子供たちが学校の休みとなる夏休みに痩せてしまうという現実は、生活困窮者の確認とともに、何ゆえに困窮に至ったかの原因究明も急務と思います。

 私の父親は幼少時に両親を失い、14歳の時に満州に渡っており、戦後帰国した時に我家は壊れかけの家屋で生活していましたが、親を亡くして苦労した父親は、2人分働いて私たち子どもたちに「ひもじい」思いをさせませんでした。

 村にテレビが初めて登場した時には、私たちが近所に見せてもらいに行く姿を見た父親は、早速テレビを買って持ち帰り、村に自家用車を買った家があると知った時は、私たちのために借金して車を購入し、私たち子供に自分のような貧乏な想いはさせないようにしていました。

 私の子供たちが小学校の時に、それまでの「父親学級」が、父親の居ない子供に配慮して「両親学級」と呼ぶようになりましたが、事故や病気で片親となった子どもは別として、核家族化や親の安易な離婚によって生活困窮に陥っているとしたら、社会構造そのものに問題が存在します。

 我家の場合は、親子三世代による家族構成のため、名古屋市に嫁いでいる娘の孫についても、病気に限らず何かがあれば家内が走っていくか、家族の共助で乗り切っていきますから、成長後に仕事のため親元を離れて生活する核家族化が当たり前となった世の中の見直しも、子育てだけでなく独居老人の増大からも急務と思われます。

            本日の体重 70、3キロ 徒歩数 9074歩 間食あり
                                      7月2日の一言

清原選手の免停処分は見せしめでしかない

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本日三男の接骨院のお客さんからいただいた巨大ピーマン
                          下の小さいのが我家のピーマンです

 元プロ野球選手の清原和博氏に対して、東京都公安委員会は「覚醒剤の所持と使用」を理由として、180日の運転免許停止処分を決めたとの報道がありましたが、「清原氏本人か代理人の意見を聴いた上で処分を執行する」との記事が添付されているものの、実際に運転もしていないのに免許停止処分は、覚醒剤以外のアルコールに置き換えると大きな問題をはらんでいると思われます。

清原和博氏を180日間の免停処分へ 都公安委員会

 私は法律の専門家でもなく、裁判官や弁護士でもありませんが、伝わってくる清原選手の体調は幻覚や意識障害とか運動障害があるとは思えず、「清原元選手が覚醒剤により運転に影響が出る恐れがある」と発信されていますが、これを前例とすると飲酒により影響が出ることも理由となりうり、病気闘病中の人々も対象となってきます。

 覚せい剤使用者に運転免許停止 http://33765910.at.webry.info/201606/article_2.html

 この記事を予測したような発信が、弁護士小森榮の薬物問題ノートに記されていますが、今回の免許停止処分は、清原選手が有名ゆえに「見せしめ」にしているとしか思えず、清原選手の覚醒剤の所持と使用について裁判所から法的処分が出され社会的制裁を受け、反省して再起を期して医療機関の監視のもとに指導を受けていると考えれば、薬物中毒者として車を運転する可能性は低く、運転免許を停止処分とする理由が理解されません。

 果たして清原選手は薬物中毒者で心神喪失状態なんでしょうか。有名人ゆえにこの決定が決まっても異議を唱えることは社会的責任を考えると難しいものの、テンカンなど病気の危険性がありながら放置されている現状と、病気により薬物投与されている人々の存在も考えると、私なら弁護士と相談して異議を唱えていきますが…

 一方で、少年法の厳罰化も叫ばれているものの、罪を犯しても反省して再起するチャンスを与えることは重要で、社会的地位や生活の場を追いやられ、再起中の清原選手には是非とも薬物への依存を断ち切って社会復帰を果たして欲しいと思います。
 薬物依存の中毒患者による運転の危険性は排除する必要がありますが、清原選手のファンとしての私情ではなく、法律とか条令を万民に当てはめた公平性の観点から、今回の東京都公安委員会の決定については、司法関係者による自発的な議論や検討が行われることに期待したいものです。

             本日の体重 70、8キロ 徒歩数 14417歩 間食あり
                                        7月1日の一言

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