大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

2022年01月

知人の犯した罪に無力感を覚えて

厳冬期の釜トンネル

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大鹿一八「本日の一言」 : 今年最後となる上高地入りです (livedoor.blog) 2012年12月23日

大鹿一八「本日の一言」 : 冬季閉鎖の上高地に足を延ばし (livedoor.blog) 2011年12月23日

大鹿一八「本日の一言」 : 今年最後の上高地入りとなり (livedoor.blog) 2010年12月18日


2011年12月23日の河童橋

 

 10年前の上高地の思い出は、これから記す主人公が存在したことで実現しました。


 先週金曜日に行われた民生委員の会議中、家庭が破綻して先月から電気が止められている家庭が議題となり、中学3年生になる子供の生活を何とかしようと議論を重ねました。


 色々な意見がある中で、私は警察しか救える道はないと言いましたが、当事者と一番近く接している私からは市役所や福祉関係者では救えない家庭環境に陥っていると確信し、子供の父親が唯一尊敬している中学時代の恩師に連絡して説教してもらうことにして散会しました。


 問題となった家庭の父親は、私と一緒にPTA活動や不登校の生徒を支援する活動を行った知人(母親)の息子さんで、かつては名古屋市の職員として真面目に生活していましたが、薬剤師だった奥さんと泥沼の争いや揉め事が続き、お互いが精神状態に異常をきたし数年前に離婚しました。


 両親が亡くなったため私を頼って訪問するようになり、離婚前から度々問題を起こし、数年前にも新聞に掲載される事件を起こしており、その度に警察署や弁護士から連絡が入り、周りの知人に借金を繰り返すなど救いようのない生活になっていました。


 公務員でありながら税金や公共料金を滞納しており、昨年仕事を退職した退職金で全てを清算したものの、次の仕事が定まらず昨年末には家庭の電気が止められ、風呂にも入れない状態の中で親子が生活していましたが…


 民生委員の代表が息子さんの中学校の担任教師に連絡をとり、何とかしようとしたその翌日となる2日前の新聞に、その父親が窃盗で逮捕されたとの報道があり、これからは関係する担当部署が対応するのでしょうが、親族と絶縁し両親の居ない父子家庭のため、子供に何かがあった場合の学校からの連絡先は私になっていたことを考えると他人事ではありません。


 いつ頃から窃盗に手を染めていたかは不明ですが、おかしな言動を私の家内が怖がり、1ヶ月以上風呂に入らず、髭も伸び放題で異臭により近づけない状態で、一週間ほど前に真っ黒になった汚れたマスクをして訪れたため、新品のマスクを与えて私のお気に入りのマックへ誘いました。


 逮捕された今にして思えば、年末に金の無心を各地でしており、無職で無収入では生活は持続できず、何も口にしていないと思いハンバーガーを食べさせた位では何の解決策にもならなかったと反省しても、それ以前から犯行を続けていたことから、そんな予感はしながらも家内の「怖い」の一言で真剣に向き合っていなかった事実は後戻りのできない事態を招いてしまいました。


 この10年間には色々な出来事がありましたが、離婚したことが結果的に家庭の破綻する原因になったものの、離婚前からお互いが精神科の治療を受け、救急車やパトカーが連日訪れる生活が続いたことから、最終的には警察力に頼って離婚させるしか結論が出せませんでした。

 もっとも、今回の事件についても、起こした罪は免れないものの、経済的に追い詰められ正常な判断ができなかった精神面の欠落もあり、罰するだけでは解決しないと思われ、根本的に子供の生活も考えていかなければなりません。


 そして、子供には全く罪はありません。昨秋参加した修学旅行のお土産を持って私の三男の接骨院を訪れていたと聞き、今からでも出来ることがあれば何とか力になりたいとは思いますが、こうなる前に正直に相談されていても何ともしてやれない無力感も残る顛末となりました。

行政に対する「納得できない」ことは他人事ではありません

 納得できないからリブログの発信元は、元大リーガーのマック鈴木氏の書き込んだブログですが、間違いでも「一度支納めた税金は返金できません」の無責任なお役所仕事に、読んだ私自身も若かりし頃に体験した「未だに納得できない」思い出がよみがえってきました。


 私は大学3年の時に起業していますが、学生結婚で長男が生まれたため、子供の児童手当を受給するため近くの市役所支所窓口を訪れたところ、国民健康保険に入らないと受給できないと説明され、国民健康保険に入る手続きをして帰宅しました。


 しばらくして国民健康保険税の納付書が届きましたが、過去にさかのぼって思いもよらぬ金額を請求され、それまでの私は学生のため父親の勤めていた名鉄の扶養家族として社会保険を使っており、窓口で勝手に過去の支払い義務があると言われても納得が出来なかったものの、子供の児童手当が欲しいためしぶしぶ帰宅しました。


 さて、しばらくして国民年金の納付書も届き、これも児童手当のため「致し方ない」と支払ったものの、1年経っても目的となる子供の児童手当は受給できず、私には4人の子供がありながら一度も児童手当は受給しないままに子供たちが成人するまで年月が経過しました。


 今となっても、最初に訪れた際に市役所職員から、過去の支払い義務が発生することや国民年金の支払いも必要になり、ましてや目的である児童手当が受給できないと説明があれば、私は大学を卒業するまで親の扶養家族として生活していたと思われ、父親は勤め先に学生の私が起業したことと結婚したことも報告していました。


 厳格には起業した時点で扶養家族は認められないかもしれませんが、先の判らない学生の起業だけに名鉄も扶養家族として理解しており、初めて訪れた市役所窓口で職員の説明が無かったため、私個人としては大きな出費を伴うだけで、目的の児童手当は1円ももらえなかった恨み節は今も続きます。


 私はその後も市役所の説明不足による納得できない出来事は続き、議員になってからも市役所の手違いで息子が支払った数百円の料金について、当時の収入役と課長も同行して返却されたこともあるため、間違いに文句も言わないままの泣き寝入りだけは避けたいものですね。


 私の数々の納得できない出来事も今後のブログで添付していきたいと思います。

先祖の残した古銭がタンスの隅に

寛永通宝の

旧い紙幣も

15枚ほどあります

嘉慶通宝

寛永通宝

同じ寛永通宝でも大きさが違います

寛永通宝の裏側 元や文の文字が入っています

文久永宝

二銭硬貨

五十銭硬貨

さて、どうしようか…

それよりも誰の残した古銭か

とりあえずここに入れました

一緒に出てきた刻印

私の父親の篆刻です

父親が昭和38年に残した古銭の日本画

本日の写真です。

 母親がタンスの中から古銭を見つけて持ってきました。このお金の由縁が話題となり、父親が使用した日本画の刻印が一緒にあったため、私は父親が集めた古銭と思いましたが、父親は絵を描くにあたって名古屋の東海銀行本店の中で旧い貨幣を見せてもらって描いたと母が言い、絵画には我家の古銭とは違う貨幣が描かれているため、どうやら江戸時代から先祖の残した貨幣と思われます。

 大量に残されていた寛永通宝は江戸時代の寛永13年(1636年)から鋳造され、明治初年まで通用したとあることから、私より3代前となる曾祖母の親かそれ以前の先祖が残した古銭と思われ、曾祖母は貯金はしても使うことを知らず、昭和30年頃に家が2軒建てられる貯金通帳が長期間放置したため無効になっていた話もありました。

 さて、何所へ売りに行こうかと話が盛り上がる家族を制して、このお金はこのまま後世に残すことにしましたが、数年前に事務所を息子に明け渡した引っ越しで、昭和時代に集めていた紙幣が行方不明になっており、隠してあるヘソクリについても私が死ねば存在すら判りません。

 両親を失った父親の幼少期や、60歳を越えてから乳母車に野菜や花を積んで行商に出て、3人の孫を育てた曾祖母の苦難の時代を考えると、この古銭を大切に保管して子孫に語り継いでもらいたいと思います。

家内と地元の写真展を鑑賞して

津島市文化会館前の景色


反対方向からの一枚

みゆきカメラ

ひびい てるかず写真展

案内のはがき

新聞にも紹介されました

会場風景

来場者を案内する主催者

主催者 ひび井照和さん

本日の写真です。

 本日は津島市文化会館の前にある「みゆきカメラ」2階のギャラリーで開催されていた写真展を鑑賞に訪れました。主催者の苗字である「ひび」の文字(添付した新聞記事をご覧下さい)が私のパソコンでは表示できないため、かな表示で申し訳ありませんが、ひび井照和さんはこれまで訪れた160ヵ国で撮りだめた写真を今回の写真展で公開されていました。

 案内状に記されていた会場にご本人がおられる日程に行けなかったため、最終日となる本日にやっと訪れて直接お話を聞くことができました。

 私もプロフィールに趣味は写真と記しており、30年ほど前に高校野球の写真展や20年前には上高地の写真展を開催しているものの、写真の精度や画質よりシャツターチャンス優先の粗い写真だったため、年月を経ても変質しないフイルムの保管など趣味の域を超えた見事な作品に驚かされました。

 さて、明日は名古屋市博物館で開催されている蕪村と大雅の文人画を鑑賞に訪れたいと思っています。そして、日曜日は高校時代から趣味の写真を続けている後輩と約束がしてあり、今一度過去のワクワクしていた活動について再起しようと考えています。

積極的な情報公開を コロナ感染を防ぐために

本日の夕暮れ 午後5時39分 津島市葉苅町


 新型コロナの感染者数は連日増加の一途をたどり、全国で過去最多を更新し続けており、私の住む愛知県でも本日5160人の感染が発表され、3日続けての過去最多との報道が流れてきました。




 私の住む6万都市の津島市でも、昨日に発表された感染者数は33人(累計992例)と報告され、累計の患者発生者数は本日1千人を超えているものと思われます。

 さて、新聞やテレビの報道でも、最近は芸能人やプロスポーツ選手など、有名人の感染について個人名が公表されていますが、これだけ多くの人々が感染している現実を考えると、プライバシーの配慮は必要でも、地域としての感染情報をできるだけ公開していかないと、デマや憶測による風評被害や地域内の人間関係に修復できない亀裂が生まれていきます。

 私の知人の中にも感染した人が存在し、自分が感染した感染源を追求していく中で、知り合いが感染していたことを隠していたことが判り、せめて感染したことを伝えてもらえれば感染しなかった可能性も高いため、「2度と口をきかない」の言葉はまだしも、「殺してやりたい」とまで口にしました。

 人には生活していく中で、それぞれの生活環境や、働く仕事の環境は様々で、隠していた人物は勤めていた会社を休むだけで済みましたが、知人は複数の人を雇用していたため全員が濃厚接触者として仕事が止まり、多額の利益が損なわれてしまいました。

 また、新型コロナに感染しても入院できないまま亡くなり、家族も葬儀どころか火葬にも立ち会えないままに死亡した津島市民の存在は、地域社会の一員が失われた認識もないままに生活していることに悲しみが募ります。

 考えてみれば、私自身も高齢者を病院へ搬送する福祉有償運送を展開しており、感染することは自分だけの問題では収まらず、一緒に生活する家内も移送に関わっているため、重篤な患者さんの移送ができないと患者さんの生命を脅かすことにもなり、敷地内で営業している三男の接骨院も休業となってしまいます。

 そんな中で、私の住む地域内で感染クラスターが発生しているとのウワサは、新聞報道によって老人施設と判ったものの、何処の施設かは特定できないため、それぞれが憶測で勝手に施設名をウワサしており、休園となった幼稚園についても情報が伝わらないことによってまるで悪者かばい菌の源のような会話を耳にすることがありました。

 今や、何処か彼処でコロナに感染する可能性が高く、元々が感染した人も第三者から感染させられている被害者であることから、できる限り感染情報を公開して、地域で感染が拡大しないようにすべきで、私自身は過去の一言で感染したら公表すると公言していますが、風邪かインフルエンザ程度となったコロナの現状から、感染者も勇気を持って公表して周辺の感染者を増やさない気持ちは重要になっていると思います。
                               1月27日の一言

源義朝暗殺の地 野間大坊に立って

野間大坊大御堂寺の源義朝公御廟に眠る人々のお墓

大御堂寺から300メートル歩くと密蔵院へ

知多四国第52番 鶴林山密蔵院

大師堂

大師堂内

新発見

蜜蔵院の沿革

境内の奥の山

100メートル

200メートル

300メートル

目的の松

はりつけ松の説明

のどかな風景ですが…

先週土曜日の写真です。

 今から900年前の話となりますが、平治2年(1160年)に源義朝(源頼朝の父)は入浴中に随行していた鎌田政家の舅、長田忠致・景致父子に平家からの恩賞目当てで暗殺され、随行していた義朝の乳兄弟と呼ばれた鎌田政家も暗殺前日に影致によって殺害されています。

 鎌田政家の妻は長田忠致の娘と言いますから、忠致は娘の夫を殺害し、政家が仕えていた主君義朝を暗殺し、その首を大御堂寺の横にある池で洗い、平家の恩賞をもらうために首を持って上京したと伝わっています。知多半島から京都まで移動した時間を考えると、持参した首の状態や検分した平家の武士の当時の顔がよみがえってきます。

 下克上と言われる戦国の時代にあって、親子や兄弟が殺しあうのは当り前の世情かもしれませんが、平家のために娘婿を殺した長田親子は暗殺した義朝の息子である源頼朝の下で働き、頼朝のために恩賞もあげますが、この野間の地で頼朝によって磔にされ、その松が枯れてはいるものの蜜蔵院の裏山に残されていることはリアルですね。

 さて、今から400年前には本能寺の変で織田信長が暗殺された後に、後継を争う柴田勝家と豊臣秀吉の間で争いが起こり、柴田勝家側についた信長の三男信孝も、秀吉と次男信雄によって本日添付した蜜蔵院で自刃しています。

 知多半島は知多八十八ヶ所の巡礼の地になっていますが、かつてはそのお寺で暗殺が行われ、その後当事者が裏山で磔の刑に処され、織田信長の三男はその家来だった秀吉と自分の兄弟によって蜜蔵院で自害していた歴史が目を閉じると浮かび上がってきそうです。
 

2018年 2月19日 私の記した一言です。

 お寺で人が殺されたり、人々が普通に生活する場所で切腹する残酷な歴史が数百年前は普通に行われており、私の住む津島市に近い七宝町にある「桂の六地蔵」についても、天正12年(1584年)6月に起こった蟹江城合戦で敗走し,秋竹で切腹した武士の遺骨を引き取った僧が,その冥福を祈って刀剣とともに葬って建立されたと言われています。


 この蟹江合戦についても、織田信長が本能寺で倒れた後に豊臣秀吉と徳川家康との間で小牧・長久手の戦い以降に起こっており、蟹江城合戦では秀吉軍と家康・織田信雄(信長の次男)連合軍の闘いですから、信長や秀吉の出身地である愛知県の尾張地方でも残酷な殺し合いが行われていたことが判り、三男の信孝を秀吉と一緒になって切腹させた次男信雄も、徳川と連合を組んで戦っていることを考えると、小汚い秀吉や家康に対して兄弟が多い織田信長の子供たちが団結して信長の意思を継承して欲しかったと思うのは私だけとは思えません。


 我家の住む土地から4キロしか離れていない場所で生まれた信長や、歩いて2時間の距離に生まれた秀吉の声が聞こえそうな年齢まで歳を重ねたことも実感するようになりました。今から1200年前の空海の声が聞きたいと四国の僻地を訪れているだけに、400年前の信長や秀吉の声が聞こえそうに思えても不思議ではありませんね。

                               1月26日の一言

新型コロナワクチンの接種を終えて



本日の写真です。

 ファイザー製新型コロナワクチンの接種をかかりつけ医で受けました。

 3回目のワクチン接種を巡っては、副反応で亡くなった事例や、1、2回と受けたワクチンと違うメーカーのワクチンを接種した方が効果が高いなど、色々な意見が伝わり、中には接種してもオミクロン株には効果がないとか、オミクロンは罹患しても風邪程度のため接種する必要は無いと言う人も存在します。

 それぞれがもっともな意見に思えますが、一歩も外出せず家庭内で冬眠生活ができる人は別としても、風邪程度のオミクロンとは言え、感染すればその家族だけでなく、感染者と接触した人やその家族まで仕事や外出ができなくなるばかりか、学校や施設も閉鎖となる可能性もあり、現実の影響を考えて判断してもらいたいですね。

 本日のワクチン摂取については夜になっても副反応はなく、家内は2日後に摂取することから重症化は回避できそうですが、我家にはワクチン接種とはならない4歳の孫が存在することから、誰一人として感染しないままコロナ禍が沈静化するのを待つことになります。

                                1月25日の一言

天声人語 横井庄一発見から半世紀

本日の夕暮れ 午後5時37分


本日の朝日新聞朝刊





本日の朝日新聞夕刊


 本日は横井庄一さんがグアム島で発見されて50年目にあたり、朝日新聞朝刊に掲載された天声人語の中で私の名前を見た知人から複数の電話が入り、午後にも東京や全国各地の方々からの問い合わせが届きました。

 記念館が休館になって2年が経過しており、その間にテレビや新聞で報道されると、直接電話連絡ができない人々は、ネット検索から私の事務所や自宅の電話番号を探して、全国各地から問い合わせや、中には名古屋に来て現地から電話をかけてくる人も存在します。

 私の寿命があと何年あるかは判りませんが、我家で小学校5年生まで「大鹿庄一」として生活していた横井さんの幼少期と、横井さんが私に語った言葉を思い出しながら、残された人生の中で横井さんの記録を残していきたいと思っています。
                                1月24日の一言

知多半島 野間大坊の古刹を訪れて

源義朝公のお墓

昨日の写真です

野間大坊 客殿

石庭

四国八十八ヶ所 お砂踏み

悠紀殿

鐘楼堂

大門

大御堂寺 本堂

源義朝公 御廟

入り口

義朝公のお墓

伊藤萬蔵寄進の香炉

織田信孝公のお墓

池禅尼の塚

鎌田政家と妻のお墓

血の池

野間大坊信徒会館


 昨日訪れた知多半島美浜町にある野間大坊の大御堂寺の写真です。

野間大坊(のまだいぼう)は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗豊山派の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は鶴林山。正式には鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、宗教法人としての公称は「大御堂寺」である。寺がある美浜町野間は源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。

 『大御堂寺縁起』には、天武天皇(673~686)の時代に役小角が建立、聖武天皇の時代に行基により中興されたと伝わり、寺伝には「その後空海が一千座の護摩を炊き庶民の幸福を祈った」と愛知県へは来ていない空海の名前も記されているのであくまで言い伝えですが、歴史の古い真言宗の古刹です。

源義朝の最後

平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた義朝は、随行していた鎌田政清の舅・長田忠致の許に身を寄せるが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿(野間駅の東にある法山寺にあったとされる)で入浴中の義朝を欺し討つ。この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。


 この源義朝公の御廟の中に、織田信長の三男信孝のお墓が残されており、信長が本能寺の変で亡くなっているとは言え、織田信長の三男でありながら家臣であった豊臣秀吉と戦って敗れ、大御堂寺の近くにある安養院で自害させられたことに残酷な戦国時代を実感させられます。

 昨日訪れた美浜町に残されたお墓から、数百年前まで何所で殺されるか判らなかった世情と、突然死んでも家族と最後の別れもできないコロナ禍の現代社会にも共通する人間の儚い生命を感じさせられました。
                                 1月23日の一言

五平餅と団子を探して知多半島へ

アピタ東海荒尾店

米乃家

メニュー

五平餅

1本150円

みたらし団子

1本90円

フードコート マックやミスド等があります

マックと団子の食べ合わせ


 知多半島に美味しい団子屋さんがあると聞き、家族3人で東海市のアピタ東海荒尾店を訪れたところ、当地方のチェーン店米乃家の団子屋さんを見つけ、五平餅とみたらし団子を買い、店内のフードコードのテーブルでマクドナルドのコーヒーとフライドポテトでランチとしました。


 かつての記憶では奥三河の団子屋さんが五平餅を焼いていると思っていましたが、尾張地区に点在する米乃家さんの団子屋さんでした。半年前には団子を食べ比べで各店の評点もしていましたが、尾張地区のスーパーや売店のほとんどは大量に焼いてガラスケースに作り置きしており、この米乃屋の団子も作り置きで、一昨日我家で焼いた木曽路中村屋の真空パックの五平餅より餅も硬く、タレも確実に味が劣るので評価はしません。


 顧客が集中するため大量に作り置きして販売していると思いますが、作り置きした団子は注文を受けてから焼かれた団子より確実に劣ります。そして、見た目は美味しそうですが焼いたと言うよりも蒸したような団子が多いのも残念ですね。ただし、団子とマックの組み合わせは私のお気に入りで、こんな食べ合わせのできるお店は魅力です。


そして、常滑市に入り…

尾張・多賀神社

愛知県常滑市苅屋字洞ノ脇51

石段を登ります


長い参道です


拝殿

近江の多賀大社から四百年前に歓請

本殿

団子ののんき屋

五平餅

五平餅160円  みたらし団子100円

すばらしい空間です

和歌山電鉄のタマ駅長を思い出します

営業部長の「サブ」 お客さんにも反応しません(笑)


営業課長の「ゆき」 お客さんを無視です(笑)

農産物売り場

鮮魚売り場と寿司店

イチゴ狩り

本日の写真です。

 東海市から次の目的地「野間大坊」へ走る途中の常滑市で、広い駐車場のある多賀神社と地元の農産物を売るお店を見つけ、この中に五平餅とみたらし団子を焼いている小さな店舗と言うよりも小屋を見つけました。いつ来るか判らないお客さんを待って、団子だけを焼いているオバサンの存在に、時間給を度外視した昔ながらの商売に時空を超えたような魅力を感じました。

                                  1月22日の一言

病院の診察からお寺まで

中村日赤

通院は軽自動車です

病院玄関

診察券の受付

自動受付機

診療科の外来へ

診療科の受付

処置室

診察が終わりました

会計へ


 昨年10月に入院して前立腺肥大症と結石の手術を受けましたが、年が新しくかわったためか半年ほど経過したような感覚だったものの、本日は手術後3ヶ月目の診察に訪れました。

 手術前に主治医から、手術の説明だけでなく術後の流れについても説明され、退院時には術後の患部の変化や生活指導を受けましたが、医師から説明を受けたとおりに回復しており、処方される薬も2ヵ月分処方され、次回の診察は3月となりました。

 通院や診察と言っても、手術後の回復を医師が見届けるための通院で、血液検査もなく検査結果によって緊張感がはしる診察ではないため、私が福祉有償運送で搬送している患者さんのように半日か一日がかりの診察とは違い、待たされることなく診察が終わりました。

 そんな患者のためか、2ヵ月後は待たされることのない診察開始の9時の予約となりました。

本日の伊吹山

町内のお寺へ

本日の写真です


  午後は町内のお寺で開催される「阿息観」に参加する予定でしたが、本日から始まった新型コロナの蔓延防止等重点阻止が適用されたため、中止の連絡がメールで届いており、考えてみると阿息観は真言宗の瞑想法と言うよりも「呼吸法」であることを考えると中止は当然ですね。

 お寺には月末に行われる節分の星祭の申し込みに訪れましたが、月に一度お寺の本堂に座ることをルーティンにしているため、ナマカワな身体のまま惰性の一ヶ月となりそうです。

 明日と明後日は四国遍路に行く予定をたてていましたが、これもコロナ禍により断念したため、身体を持て余す週末をむかえ、本日開催された町内会役員会から帰宅すると、家内から明日は日帰りで出かけることになったと聞きましたが、行き先を考える気力まで失せてしまいました。

                                 1月21日の一言

鬼籍に入ったブロ友のコメントを探して

一年前 1月20日の写真


 生まれた年は1年違うものの、私と同じ津島市で生まれ育ち、私の三男が高校時代に自転車競技を通じてお世話になっており、平成20年(2008年)夏に鈴鹿サーキットで開催されたロードレースで顔をあわせて以来のお付き合いでしたが、我家の前をロードバイクで大手予備校まで通勤されており、ブログが同じヤフーだったことからブロ友として交信してきました。

 その知人が鬼籍に入って一年が経過し、家族の発信されたフェースブックを見て、知人が最後となる闘病生活送っている一年前の年末となる私の誕生日にお祝いのメッセージを寄せてくれていたことを再確認しました。

 知人の発信していたフェースブックを残された家族が定期的に更新されていることに、私は大きな力を感じて感謝していますが…

 厳しい闘病生活のなかで、「これからも大鹿さんらしい活動応援していますよ」とか、「もしもの時は病院までの送迎」を依頼されていたことが、私の一年前のブログに記されており、当時はそのコメントの交信が簡単に確認出ましたが、本日になって知人の残したコメントはフェースブック上だったことから探しても見つかりませんでした。


知人の残したブログ

晩年の書き込み

 歳を重ねると悲しい思い出がどんどん増えていきますが、同世代の知人との別離が当たり前のように起こっており、過去のブログを読み直していると、「あの時は叔父も元気だった」とか、相棒リマも生きていたことを実感させられますが、1年とか2年の過ぎ去った期間があいまいになっていきます。

2021-01-19

 知人のブログとフェースブックが残されていることは、生き残っている私には大きな生きる原動力になっていますが、多くのブログ(ブロ友)は遺族によって削除されたり、私の場合はヤフーブログのサービス停止によって消え去ってしまいました。

 

 我が身となって考えると、私のホームページについては有線テレビ局のネット配信であり、私の名前をもじって使っている電話「24-0018」津島は18や、愛車のナンバー18についても、私が亡くなれば家族に負担しか残さないため消えていく運命となります。


 一年の中でも厳しい寒波に見舞われる時期だけに、周りの訃報や苦境が伝わるとつい同じような心境にさせられてしまいますが、知人が鉄人のように逞しく思えたロード姿を思い出して乗り切りたいと思います。

                                1月20日の一言

自宅で木曽路上松宿「中村」の五平餅を焼いて

自宅で五平餅を焼きました。

21年11月29日

中山道上松宿 五平餅の中村

                 長野県木曽郡上松町大字小川 (,寝覚) 2443-1

           電話 0264-52-2183 10時~17時(時期により異なる) 定休日 不定休 

3個分入っていました。

同封されていたタレ

クルミ、胡麻、落花生、砂糖、しょうゆ、みりん

作り方のレシピ

真空パックに数ヶ所穴を開けてレンジします。

電子レンジで1分から2分加熱します。

ずいぶんと柔らかくなりました。

出来立てのような感触です。

タレを付けます。

タレの残り

少し焦げ目が付くまで焼きます。

2本同時に焼きます。

まもなく出来上がります。

本日の写真です。

 冗談やお世辞抜きで真空パックのお土産とは思えない美味しさです。


 ↓↓ 過去の五平餅や団子の記事一覧です。↓↓クリックしてご覧下さい。

 昨年夏から訪れた奥三河や木曽路の五平餅の中で、私の身勝手な評価で最高点をつけた旧中仙道上松宿にある「中村」で、11月末に購入して持ち帰った真空パックの五平餅でしたが、店内で食べた味と遜色ない柔らかい焼きあがりになりました。


 かつて、お土産の五平餅を自宅で焼いたことがあり、餅の一部が煎餅のように固くなった記憶がありましたが、レシピにあった電子レンジで温めたためか、近くの街角のスーパーで売られる五平餅よりも柔らかく、自分好みに焼いたため香ばしくなりました。


 もっとも、購入してから時間は経過していたものの、餅は真空パックで保存され、タレも容器にテープを巻いて密封してあったため、餅さえ店と同じ食感になれば、タレは本職の自家製のため美味しくて当たり前なのかもしれません。


近くのスーパーで売られている普通の五平餅より美味しいことは間違いがありません。


                                   1月19日の一言

認知症の始まり 手にはめた手袋を探して

「あっ、手袋を落としてきた」はずが…


 ウォーキング途中で立ち寄ったマクドナルドを後にして、ポケットに入れてあった手袋を取り出すと片手分しかなく、後戻りして歩いてきた道を探していると、後から追いかけてきた家内から「付けているじゃない」と言われ、左手を見ると手袋をはめていました。


 あわや店内まで戻って問い合わせる寸前でしたが、無意識に左手に付けたことも自覚しないままに手袋を探していました。最近になって旧知の知人の名前が出ない事が増えており、本日も病院で手術を担当した医師の名前がしばらく思い出せませんでした。


 左手に車のキーを握りしめたまま、車のキーを探していたり、老眼鏡を付けたまま老眼鏡を探していることもあり、明らかに認知症の入口か、老人ボケになっていることは間違いがなく、物を暗記するか頭の体操でもしないとボケ老人になってしまいそうです。


 自分自身が自覚する物忘れの多さについて、第三者に話しても「誰でもそうだワ」と言われてしまいますが、最近首に巻いていたネックウォーマーも行方不明になっており、過去の出来事の年号も曖昧になって、思い出しても浮かばなくなってきました。


 添付したダイコンは、私が過去に鳥の青菜として栽培していたダイコンの子孫で、タネを捨てるのが可哀想なためプランターに蒔いておいたダイコンですが、植物は確実に時期がくれば発芽し、植えた人間が存在すら忘れていても確実に花を咲かせていきます。

 それに比べて人間である私は、3日前の一言へ翌日に五平餅を焼こうと記しておきながら、机の上に出して置いたまま忘れており、本日も夜に書道会があるため明日以降になるなど、物忘れが日常茶飯事の生活になっており情けない限りとなります。

 さて、本日の移送ボランティアは、午前中は雪が降り出したため患者さんから心配してキャンセルの連絡が入りましたが、午後になって出発した家内から、病院まで搬送予定だった対象者が、自宅の玄関内で転んで動けなくなっており、近所の人と救急車を手配して大変な思いをした体験を聞くことになり、昨日の悲報に続く会員さんの悲劇に遭遇する一日となりました。

                           1月18日の一言

日の出とともに移送ボランティアへ

日の出と同時に移送ボランティアへ 本日愛知県の日の出 午前6時58分

渋滞中

中村日赤の往復です


 最近は目覚ましを8時05分に設定して起床しているため、本日は久しぶりとなる日の出とともに患者さんのお宅を訪れ、名古屋市の第一赤十字病院を目指したものの、道路は通勤のマイカーで大渋滞となっており、早朝の通院の辛さを実感して帰宅しました。


 我家は津島市と名古屋市を結ぶ県道沿いにありますが、昨晩は違反者を見つけたパトカーが突然我家の前から大音響でサイレンを鳴らして追尾したため、びっくりして目が覚めてしまい、その後なかなか寝付かれないままに朝を迎えてしまいました。


 昨年10月から朝は8時過ぎに起きてゆっくりと朝食を摂り、その後もコタツで横になってから動くようにしており、7時前に起床してそのまま外出することで、朝食は帰宅した午前9時過ぎとなり、何もしないまま待機して昼食になると一日中身体の怠い生活になってしまいました。


 さて、搬送する患者さんのうち3人が現在入院中になっており、病人にとって厳寒期のこの時期は大変な生活になりますが、なによりも年末年始の医療機関の休診が大きなストレスになっていると思われます。


 そして、搬送する側の私自身の体力も低下し、明日の移送を考えると大きなストレスになっていきます。

散歩中 午後4時40分

夕暮れ 愛知県の日の入り 午後5時04分


珈琲店入店 4時52分

珈琲店退店 5時30分

本日の写真です。

 ボランティアとは言え、自分のペースと違う行動は我が身に堪え、普段より2時間早い起床は夜も熟睡ができないため夕方まで不調のままで、こんな時ゆえに身体を奮い起こして寒風のなかウォーキングに出ましたが、夢遊病者のような帰宅となりました。

 そして、更に辛いお話は、私の帰宅直前まで私たちが搬送していた90歳をこえた男性の親族が訪れておられ。年末に亡くなられていたことと、肋骨が折れていたことなどを家内が聞かされており、移送の対象者が高齢者のため、最後は寂しい悲報になると我々にも精神的ストレスとなって身体が疲弊していきます。

                                 1月17日の一言

恩を返さないままの別れに 海部元首相の訃報を聞き

私がいただいた書

現在は三男の接骨院に掲げてあります。


平成元年(1989年)9月発行のふるさとアサヒ第10号

                            私が編集発行していたミニコミ紙です。

昭和51年文部大臣就任祝賀パーティの1枚

                           津島青年会議所のメンバーと

平成2年1月のふるさとアサヒ第13号

年頭の挨拶分


 現職の総理大臣のあいさつ文を貰いにいきましたが、地元の有力者に依頼すると「総理大臣の挨拶文なんかもらえない」との返答で、「あんたで貰えるものなら貰ってきたら」と「若造のお前扱い」の冷たい反応しかなく、恐れを知らない私は直接訪れ、当時秘書であった田中志典氏(元犬山市長、元愛知県議)の計らいで年頭のあいさつ文と写真をいただきました。

懐かしい顔です

思い入れのある長文の挨拶文を戴きました。


議員時代 箱根のホテルで夕食に招いていただきました。


 私は平成11年に仕事を辞めて市議会議員に転出しましたが、立候補した初めての選挙中に我家の事務所前で海部さんに応援演説をしてもらいました。

 地元の人たちには私と同時期に県会議員に当選した井桁さんの縁で海部さんの応援をいただいたと思われているものの、実際には私の立候補を心配する稲沢市の先輩たちが海部さんの地元事務所(稲沢市)まで連れていっていただき、海部事務所の指導を仰ぐようになりました。

 「靴を3足履きつぶす覚悟で地元を歩け」と、海部さんの弟で秘書の尚樹氏に激を飛ばされて選挙運動をスタートさせましたが、それをさかのぼること10年前に地元で発行していた「ふるさとアサヒ」の挨拶文を、当時一宮市にあった海部さんの事務所を訪れて依頼しており、この挨拶文をミニコミ紙へ掲載したことで海部系と思われ、ミニコミ紙の複数の配布場所から置くことを断られました。

 さて、議員になってからも色々と海部さんのお世話になりましたが、しばらくして行われた市長選挙で海部陣営の推した候補者を私が応援しなかったため、津島市の海部陣営の政治関係者から締め出され、海部事務所を訪れることは無くなりましたが、元々が津島市の海部陣営の関係者とは無縁だっただけに無念な思い出となりました。

 海部さんの訃報を現実のものとして、受けた恩は多いものの、何一つとして恩返しができないままに現在に至った後悔は大きく、私にとっての海部さんは国会議員でありながら、政治上のつながりではなく、私のためなら何でもやると言われたランカ堂写真店の高橋さんとの写真つながりの延長で、高橋さんは海部さんのご尊父とも親交のある津島市で一番の海部ファンでもありました。

 私と海部さんをつないでくれたのは、決して政治的な打算や計算ではなく、その間をつないでくれた私の恩人や先輩が存在していたことから、引退された直後にでも当方から訪れて何かしら微力でも恩返しなり御礼ができておれば良かったと思いますが…

 知人は勿論ですが、恩人や先輩の訃報が身体に堪えるようになり、元気に散歩に連れられていく愛犬を見ても相棒の姿を探していることがあり、何時でも会えるとの感覚を改め今を大切にして生活していきたいと思います。
                               1月16日の一言 

一宮市まで五平餅を買いに走ったものの…


 スマホのネット情報につられて、一宮市まで五平餅を食べるために走りましたが、午後3時に閉店となっており、残念ながら再度訪れることを告げてお店を後にしました。

  一宮市奥町三出102-10  電話 0586-62-4656 

            朝6時から午後3時まで営業 月曜日が定休日




 私が訪れた直後にも名古屋ナンバーの乗用車が駐車場に入ってきましたが、私自身の反省も含めて、ネット発信には営業時間や定休日も添付しないと遠方から訪れる人もあるため注意が必要です。


 もっとも、自宅には過去の食べ歩きで最高得点と評した木曽路上松宿「中村」で買い求めて、自宅で焼く真空パックの五平餅があるので明日にでも焼いて食べたいと思います。


本日の写真です。          ドンキホーテ勝幡店

 本来の予定では、本日長野県松本市へ行っている予定でしたが、予定された定例会がキャンセルとなり、自宅でのんびり静養しようと考えていると、愛西市の知人から病院への通院に困っておられる人の相談が入り、知人に同行して対象者宅を訪れ、知人に誘われるまま昼食をご馳走になっていると帰宅は午後3時近くになっていました。

 その足で家内と一宮市まで走ったわけですが、せっかく一宮市まで行ったので知人へ連絡して立ち寄り、談笑後の帰宅途中にコンビニに立ち寄ったところ、今度は地元の同級生と偶然にも遭遇し、車内で飲みながら帰る予定の珈琲でしたが、コンビニ前で長話の珈琲になってしまいました。
                                    1月15日の一言

降雪は何もかも真っ白の白紙にしてくれます

午後まで雪が残った愛車

昼頃の我家

同じく午後の車

愛知県のコロナ情報


長野のコロナ情報

環境省からのメールです。


 数日前から新型コロナ感染を避けて長野県松本市まで行く方法を考えてきましたが、本日の正午過ぎに環境省から明日に予定されていた定例会を中止する旨のメールが届き、家族から心配される中を移動しようとしていたものの、それも無駄な苦労に終わってしまいました。


 昨日の一言に、バスと電車を天秤にかけた書き込みを記していましたが、どちらにしても人が密集する名古屋駅を通り、バスの車中では感染者がいるだけで濃厚接触者になるため、雪道を安全に車で走行する覚悟を決め昨晩タイヤチェーンの確認をしました。


 ところが夜になって激しい雪が降り始め、本日早朝には患者さんの移送を依頼されていたため、空模様が気になり何度も確認のため外を眺め、朝は家内の車にチェーンを装着する覚悟で目覚め、家内は雪道の走行を確認するため試運転へ出かけました。


 準備万端で家内と2人乗車で移送する対象者のお宅へ出発しようとした瞬間になって依頼者からキャンセルの連絡が入り、昨日に積雪の予報から日程変更をお願いしても頑強だった依頼によって、心配な一晩を送ってから出発直前の中止決定には本当にハシゴを外された心境になりました。


 結局は前日に全員日延べの連絡を入れたため、本日の福祉有償運送はお休みとなり、無情にも雪道の移送を希望する会員以外の電話だけが響き渡る午前中となりました。


 そして、昼には明日予定されていた環境省の定例会中止の連絡が入り、週末に雪道を走行して松本まで走る心配も無となりました。


管理栄養士さんからもらった絵手紙です

本日の写真です。

 3ヵ月毎に訪れる管理栄養士さんの栄養相談があり、同級生とともに津島市保健センターを訪れました。年末年始は餅をはじめ食べ過ぎており、昨年10月から70キロ前後で推移していた体重が1キロほど増加しており、間食が増えていることもこんな機会に自覚させられます。

 次の相談日は3月の予定ですが、それまでに体重を落とすことよりも足腰の筋力を高め、身体全体のストレッチに心がけ、4月の上高地開山と四国遍路にそなえたいと思っています。

                            1月14日の一言
                 本日の体重71,3キロ 徒歩数2502歩

これでは外出できない オミクロン株の感染拡大

名古屋テレビのコロナ情報


長野放送のコロナ情報


環境省からのメール


 今週土曜日に松本市で予定されている環境省の定例会に参加する予定ですが、一昨日には大寒波によって木曽路の木曽福島や木祖村の国道が圧雪により通行止めになっており、車での長野入りは完全にあきらめ、JR中央本線の列車か名古屋と松本を結ぶ長距離バスにするか迷っていると、急速に拡大した新型コロナの情報や、環境省から万が一の中止も含めて金曜日の正午に判断する旨の連絡が入りました。そんな訳でバスの予約もできません。

 ワクチン接種券が昨日届いたため、本日はかかりつけ医で3回目の予約をして、25日に私が接種を受け、家内は日をずらして27日に接種を受ける予約を済ませており、それまで周りから感染しては大変なため、今回の松本行きについても列車とバスとどちらが安全か真剣に悩まされます。

そんな中へ…

ボランティア仲間からのラインです。


 私と同じように遠方から松本市へ出向く予定だったボランティア仲間から、社内に感染者が出て濃厚接触者になったため定例会出席をキャンセルしたとの連絡が入ってきました。


「こりゃーあぶないなァ」

     「本当だね」

「どうしようかな?」

     「やっぱり止めるの?」

「バスにするか、電車が良いか…」

     「えー、お父さんには止めるという選択肢は無いの?」


 第三者から感染させられずに松本まで行くために、バスと列車のどちらが安全かを真剣に考えていましたが、知人のキャンセルという現実の中で、万が一感染すると私だけでなく家族も濃厚接触者となり、毎日病院まで搬送している福祉有償運送の患者さんたちの移送ができなくなってしまいます。


 さて、どうしたものか…


 ちなみに、明日早朝から依頼されている病院からリハビリ病院への移送ですが、東京から駆けつけた娘さんが同行していく予定でしたが、搬送先の病院から東京から来た家族が同行したら患者さんを受け入れないと厳しく言われ、同乗する私たちも危険と隣り合わせであると実感させられます。


 現実には私の事務所の1階は三男が接骨院を営んでおり、私の感染は私と同居する息子たちの仕事やお客さんにも影響することから、危険と隣り合わせの行動は自分だけでは済まず、何のために3回目のワクチンを予約してきたか判りません。


 私の住む愛知県の感染者数も急増しており、感染地域からの訪問によって他人へ感染させる可能性も考えると来週予定している四国遍路についても、ワクチン接種後に感染者数が減少するのを待った方が国や自治体の判断ではなく自分や周りの人のためにも賢明かもしれませんね。


 知人から届いたラインの内容から新型コロナの厳しい現実を身をもって実感させられました。


本日の名鉄電車 患者さんを搬送した休憩中の写真です

動画

名鉄のシンボルカラー赤い列車

電車で豊川稲荷へ行こうと話していましたが…

本日の写真です。

 県外への移動どころか、今回のオミクロン株の感染力を考えると、駅や電車だけでなく買い物に訪れるスーパーですら危険と思える世情になってきました。
                              1月13日の一言
                    本日の体重71,1キロ 徒歩数3205歩

3回目のコロナワクチン接種券が届いて

満開 昨年挿し木したブーゲンビリア


ジャパネットから届いたカタログ


愛知県から届いた手紙

請求書関係と思っていると…

支援金がもらえる大変有難い内容でした。


そして、3回目のワクチンの接種券も届きました。

本日の写真です。

 新しいオミクロン株によるコロナの感染者急増で暗い世情になっていますが、本日我家の郵便受けに届いた手紙を見てみると大変有難いものばかりでした。

 市役所や行政から届けられる手紙は、税金や国民健康保険など請求書しか発送されてこないため、本日届けられていた愛知県の手紙についても、NPO法人の報告書の催促か、移送に関する規制等と思って開封すると、支援金がもらえる有難い内容でした。

 「タクシー事業者燃油価格高騰対策支援金」の申請を受付ける案内で、ガソリン等の値上がりの影響を受けながら運行するタクシー事業者を支援するとの内容ですが、コロナ禍にあって高額な補助金が支給された飲食業界のような高額の支援金ではありませんが、支援金がもらえること自体が珍しく素直には信じられず担当窓口へ連絡してしまいました。

「本当に申請書だけでもらえますか?」
      「申請書を出してもらえば支給します」
「何かの実績等は必要ないですか?」
      「添付書類を出してもらえれば…」

 添付書類とは運輸局から認可された事業許可書と、所有している車両が確認できる車検証等を付ければ台数分(我家は2台)の支援金がもらえる甘いお話でした。
 行政から求められる報告書や催促は期限が来て催促されるまで放置してありますが、今回は1時間後に必要書類を同封して郵便局に走っていました。

 午後になって再度郵便受けを確認すると、今度は3回目のコロナワクチンの接種券と関係する書類が同封されており、昨日発送されたと聞いていたので心待ちにしていた手紙で、明日の朝一番にかかりつけ医へ予約に訪れたいと思います。

 こんな福の神のような手紙ばかりが届くのは珍しく、郵便を心待ちに(コロナの接種券)したことも久々の福袋のような一日となりました。
                                   1月12日の一言
                                                                           本日の体重71,2キロ  徒歩数6,287歩

寒波とオミクロン株拡大で思案する週末の松本行き

本日夕方の

本日の写経

塩尻市の健康ランドのサービス券


 週末の土曜日に、長野県松本市で開催される上高地のパークボランティアの定例会に参加する予定で、本日出席する申請をメール発信しましたが、オミクロン株のコロナ感染が急増しており、昨年の外出自粛で行けなかった悪夢がよみがえってきました。

2021-01-12

 2年前にはコロナ感染が始まっていたものの、外出自粛になるような拡大はしておらず、松本市から遠回りとなるJR飯田線経由で一日かけて愛知県へ戻っており、こんなことが当たり前にできた社会に戻るのはいつのことになるのでしょうか。

 

 東海3県が11日に発表した新型コロナウイルスの感染者数は、合わせて320人でした。 愛知県は236人で、名古屋市55人、豊橋市4人、岡崎市21人、一宮市10人、豊田市22人、その他が124人でした。

 添付したサービス券は、塩尻市にある健康ランドの無料券ですが、昨年も送付されてきたもののコロナ禍で行くことができなかったため、何とか今年は行きたいと考えているものの、毎日の移送ボランティアが高齢者の患者さんを病院まで同行する仕事であることを考えると複雑です。


 そんな気持ちに追い討ちをかけるように日本列島を強い寒波が襲う天気予報が出ており、オミクロン株の猛威をかいくぐりながらでも松本を目指す強い意志を堅持しつつ、明日以降の感染状況を冷静に見守りたいと思います。

                              1月11日の一言

前立腺肥大症の手術後の記録 尿漏れについて

前立腺肥大症手術後の記録 尿漏れについて

 昨日同級生と電話で話していると、「仲間から前立腺肥大とか尿漏れ、オムツの話を聞いていたが、年寄りの話として聞き流していた」との話に、その年寄りの話は同級生である自分自身の体験でもあることから、昨年10月に手術を受けた体験談として残しておきたい。

 手術後に尿漏れが治らず、オムツや尿漏れパッドを常用する人も私の周りに多数存在することからも記しておきます。


過去の体験談の書き込み一覧です。

 過去に書き記した記録から、10月13日の手術後は尿漏れを考えることよりも血尿が続いており、血尿は手術から20日経過した11月3日を最後に消え、尿漏れも少なくなっていることが記されているが、この頃から尿漏れ対策を考えるようになったものの、手術から1ヵ月経過するまでは患部そのものの心配から下腹部に力を入れることができず、1ヶ月が経過した日からネット検索して骨盤底筋体操を始めました。


 11月7日からは夜就寝後から朝まで一度もトイレに行かなかったことが記されていますが、重い物を持った時や、ウォーキングの途中や階段を上がった直後に軽い尿漏れが残り、尿とりパッドは必需品の生活が続きます。


 11月26日の診察時に初めて尿漏れを相談しましたが、「時間の経過によって自然に治まる」との医師の説明があったものの、「早く治したいから薬を処方して欲しい」と訴え、「ベタニス錠50mg」を処方されて病院を後にしました。

主治医からもらった骨盤底筋体操のしおり


スマホから添付

退院時に購入した尿とりパッド

近所で購入 未使用

近所で購入 未使用


 骨盤底筋体操と薬の処方があっても、寒い日の外出時や突然の尿漏れが続くため、術後2ケ月目となる12月24日の診察日に、医師からより強力な薬「トビエース4㎎」を処方してもらい、体操の方法についても指導を受けました。

 私自身の尿漏れ体操の効果か、処方された薬の効果かは判りませんが、今年1月6日現在では前夜から日中の尿漏れは治まり、7千歩のウォーキング後に温かい2階の部屋に入ってイスに座った直後に一瞬の尿漏れがありました。

 翌日の7日には名古屋市で寒風吹く外出時に歩いて移動する際に軽い尿漏れがあったものの、翌日8日の夜まで尿漏れは一度もありませんでした。その後も、日常生活での尿漏れはなく、意識しておれば尿漏れは起こさない状態になってきました。

 薬の効果もあるとは思いますが、骨盤底筋体操を毎日続けることの効果は大きく、始めた頃には必要な部分に力が入っておらず、自己流ですが、トイレへ行った排尿時に、1秒で小便を止めて5秒間以上止め続け、その後もその繰り返しをして排尿したところ、骨盤底筋に力が入る自覚があることから、私の素人考えでは体操と同じような効果があるものと思われます。

 そんな繰り返しから、日常生活ではほとんど尿漏れが無くなり、更に良くなることを期待していますが、最近では尿漏れする時が限られており、車の運転席の乗り降りと、ウォーキング中に立ち止まった時、帰宅後に暖かい2階に上がった時、湯船から立ち上がって出る時限定となりました。
 そんな時に気をつければ何とかなるようになりましたが、前立腺肥大症の手術は尿道の一部に穴を開けて手術をすることから、重要な筋肉や神経を損傷してしまえば尿漏れは自然には治らないため、簡易な手術とは言え信頼できる病院の選択は重要です。

 もっとも、多少の尿漏れがあっても、夜間に一度もトイレに行かないで済むことから、夜間に何度も起きて睡眠不足で生活するよりは快適な日常生活となり、前立腺肥大症やそれに伴う尿管結石で味わう苦痛や、薬の副作用に苦しむよりは手術はお薦めです。

 過去の体験談にも記してありますが、泌尿器科の医師数が少ない病院や、手術後に尿漏れが治らない患者さんの話を聞いた病院は避けた方が良さそうです。

 これが私の前立腺肥大症最後の書き込みになることを祈る心境です。

                                 1月10日の一言
                    本日の体重71,6キロ 徒歩数1,272歩

コークオン スタンプ目当てで歩きました

「何処かへ行ってこようか」
      「何もしてないのに…」
「明日まで連休だぞ」
      「やる事をやってきたら」

 家内との会話ですが、家内の言う「やる事」とは町内会の会計処理のことで、3月の総会で報告する会計の出納帳をパソコンで整理する必要がありますが、本人不在の総会で無理やり決められた役員のため、町内会と聞くだけでストレスとなり、判っていても余計にやりたくないばかりか、何もやりたくなくなってしまいます。

 世間が3連休となっている中で、何故に町内会の仕事なんかやらされなくてはならないかと腹がたち、午前中は横になっていましたが、コカ・コーラのコークオンアプリでは、決められた歩数を歩かないとスタンプがもらえないため、夕方になってから近所を目的もないままに歩きだしました。

隣町にある大師像

本日の写真です。

  さて、明日は不満はあるものの知人の協力をお願いして町内会の仕事を始めることになりました。
                              1月9日の一言
                      本日の徒歩数6,691歩

まさかの三連休にボランティアとは

歯科医院へ

本日の血圧


本日の写真です。

 年末に前歯の歯茎が痛みだし元旦には化膿していたものの、歯科医院が正月休みのため我慢していると自然に良くなってきたのでそのまま回復を待つつもりでいると、昨日になって入れ歯が折れ本日は入れ歯の修理に歯科医院を訪れました。

 そんな訳で、回復間際になっていた歯の治療も受けることになりました。

 そして、ボランティアを終えた家内とマックまで歩いて本日は終わりと思っていると…

「急だけど6時半に頼めないかしら」
     「通院ですか?」
「そうです。片道でも良いので…」
     「うーん、どうしようか」
     
 真っ暗となる夜の移送ボランティアは断ろうと思っていましたが、何もしないまま一日を終わるよりはと快諾し、いつになるか判らない治療後の移送も引き受けたため、夕食も中途半端になり、移送後に家内と買い物に出向く長い一日となりました。

 世の中は三連休になっているものの、通院に同行している患者さんの中で4人が入院中となっており、移送しているのが高齢者ばかりで、持病のある患者さんのため、身体の異変は休日でも待ってくれず、休み気分になっていても連絡があると断れなくなってしまいます。

 もっとも、来週は上高地のパークボランティアの定例会が松本市であり、再来週は四国遍路に出向く予定のため、地元に居なければ断るしかありませんが、家内と手分けしているものの、要望に応えていると一年中休みなしになってしまいそうです。

 生活がかかった本業のタクシーであれば大歓迎の依頼かもしれませんが、利益は運行に必要最低限の対価となる福祉有償運送のため、雪道の移送で事故を起こしたり、人を運んで駐車違反でもおこすと赤字になってしまいます。

 そして何よりも依頼される患者さんが高齢のため、私を若いと思っておられるものの、あと2年も経てば70歳になってしまうため、若いボランティアを増やしていかないと自分自身の限界は明らかで、自分が病気になった時に困るようでは何のためにボランティアを始めたのか判りません。

 ちょっと頑張ろうと思う一日ともなりました。
                                  1月8日の一言
                   本日の体重71,8キロ  徒歩数7606歩  

朝日新聞社の取材を受けて

朝日新聞社の看板記事「天声人語」

創刊140周年にびっくり


 私は新聞配達もしたことがありませんでしたが、大学3年次の昭和52年に朝日新聞販売店の店主として起業しました。両親や親族が全員反対する中で、横井庄一さんだけが「朝日新聞は信用できる」と後押ししてくれ、保証人にも名乗りをあげましたが、新聞社との契約時に横井さんの保証人は無理と言われ、私の推薦人として名を連ねてくれました。


 なにゆえに横井さんが朝日新聞を大好きだったかは後日記したいと思います。


 その当時に創刊100周年に向けた記念行事が続きましたが、取材時に差し出された名刺に記された創刊140年の書き込みから、年月の経過の早さとともに、自分の年齢と置かれた立場を実感させられました。


名古屋市博物館 名古屋市瑞穂区

本日の写真です。

 朝日新聞社から「横井庄一」さんについて取材依頼を受け、最近のテレビ番組や新聞記事が発見当時とは微妙に違う脚色が見受けられるため、名古屋市博物館で生前の横井さんを知る元学芸員さんとともに取材を受けました。

 コロナ禍で記念館は2年間近く休館状態になっており、久しく語ることもなく認知症気味の脳をリフレッシュするために、横井さんの経歴を読み直し、戸籍や幼少時一緒に生活した家族関係を整理すると、過去に報道された記事に大きな疑問が湧いてきました。

 生後3か月頃に離婚して母親の実家である我が家に戻ってきた母親は、赤ちゃんの庄一さんを我が家に置いたまま住み込みで奉公に出てしまい、庄一さんは従姉妹になる私の祖母や伯母となる私の曾祖母ら3人と小学校5年生まで「大鹿庄一」として貧しい極貧の生活を送ります。

横井さんが「明日への道」に記した自分の生い立ちです。

 その頃、私はまだ幼くて、父と母との間にどういう事情があったのかわかりませんが、母は生れて三ヶ月にしかならない乳のみ児の私をおいて、実家に帰ってしまいました。
 洋服屋の父は、私のことなど構わないため、祖母 (父の母) が、近所に貰い乳をして歩いたあげく、たまりかねて母の里へ母の留守をねらって赤ん坊の私を置いて行く、一方母は、再婚に差しつかえると考えたのか、また私を父の方へ返しに行く、そんなことが何度かあった後、とうとう私は、最終的には母の方に引きとられて育てられました。
 その当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。

の当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
 現代では、離婚をしても何もいわれませんが、その頃 (大正の初め) は、「出戻り」などと、人に後ろ指をさされて女性は大層肩身の狭い思いをしたものです。
 それで母も実家には居辛くて、ひとり、街へ、女中奉公にでてしまいました。後に残された私は、私のいとこになる、あきゑ、キヌ姉妹が可愛がって育ててくれましたが・・。

私は、小さい時から、親も、兄弟もなく、自分の家とてもないひとりぼっちの寂しい境遇で、よく友だちからも「親なし子」と馬鹿にされ、いじめられました。
 自然私は、消極的な、おとなしい、無口な子供になり、みんなから私の名前、大鹿 庄一をもじって、「オシか、ツンボか、庄一か」とはやされるほどでした。
 子供心に人知れずどれほど口惜しく思ったことか、そして人並みに、親と一緒に暮せる生活を幾度夢みたことかしれません。
 

 私が十二の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので私も一緒につれられて行きました。
「ああ、やっと母と一緒に暮せる、自分の家もできる」
 と、喜んだのも束の間、やはりそこも、私にとって安住の場所ではありませんでした。新しい義父は、とてもよい人で、ひとから「仏の重三さん」といわれるほどでしたが人が好すぎるために押しがきかず、まわりの人たちに、母も、連れ子の私も、ずいぶんひどく扱われました。ことごとに苦労する母を見るにつけ、「こんなに口惜しく、辛い思いをするぐらいなら、母はなぜ、再婚なんかしたんだろう。もうあとわずか二、三年の辛抱で、自分が学校を卒業したら一生懸命働いて親子みずいらずでも幸せに暮せたものを」と心の中で、何度思ったことかわかりません
 
                                横井庄一手記「明日への道」


 添付した文章はグアム島から帰国した横井さんが記した明日への道の記事ですが、実際には生々しい事実は伏せられているものの、生まれた直後から母親とは小学校5年生になるまで別々の生活となり、再婚先の横井家に母親は庄一さんの存在を隠したまま嫁いでおり、子供が居なかったため連れてくるように言われて大正15年に横井家へ入りました。

 昨日過去の戸籍簿を見直して確認したところ、その後小学校と珠算学校を卒業して昭和5年に豊橋市の洋服店に住み込みで勤務していますが、大正15年に横井家に入りながら昭和7年になるまで横井家には入籍もされていません。

 過酷な幼少時の体験から、「母一人、子一人」とか、息子の戦死を否定する母の存在がグアム島で生き抜いた原動力と報道されてきましたが、現実には母親は戦後間際の昭和23年に横井さんの永代供養を寺に依頼し、昭和30年に立派なお墓も建立しています。

 「庄一は生きとる」との母親の一言は、戦後誰一人として味方の居なくなった横井家の親戚から追い払われないための方便であり、終戦時の昭和20年に30歳になっていた横井庄一さんと母親が一緒に暮らしたのは12歳以降の10年弱しかなく、グアム島で生き抜いた原動力は間違っても母親ではありません。


 世間常識では理解されない幼少時の極貧生活について、横井さんは第三者には誰にも口にすることはありませんでしたが、時々の出会いの中ではありますが、実家の長男である私には気を許したのか皆さんからは想像もできないと思われる幼少時の話を聞くことがありました。


 グアム島で発見されて50年が経過しようとしていますが、当時横井さんを取材した横井番と言われる新聞記者も皆無となり、本当の横井さんの心情や気持ちは伝わらないままに年月が経過している現実を、横井さんと親交のあった博物館の元学芸員さんの話からも確信した一日となりました。


 現代社会でも学校のいじめが問題になっていますが、横井さんの幼少時は「死ぬしかない」と思われるような罵詈雑言やいじめを受けており、親に置き去りにされた環境から生き抜いてきた横井さんだけに本音が聞けれれば、随分と現代社会に役立ったのかもしれません。


                                  1月7日の一言

在日米軍の横暴 コロナ感染拡大で日本人の脅威へ

 年末まで収まっていた新型コロナの感染者数が一気に急増しているが、元々は外国から渡航してくる対象者を自宅待機させた政府の甘さがあり、極めつけは沖縄県知事が再三にわたり要請していた在日米軍の横暴を止められない政権によって日本中がコロナ感染の脅威にさらされている。

 沖縄県では6日、新規感染者数は981人となり、過去最多を更新。山口県でも過去最多となる181人、広島県では273人の感染が新たに判明した。沖縄県と山口県には在日米軍基地があり、その周辺で感染者が急増している。広島県は山口県に隣接している。


 沖縄県民の強い反基地感情をあざ笑うような米軍の横暴は、在日米軍によって生計を立てる日本人の存在も無視できないが、マスクもはめずに日本国内でオミクロン株を撒き散らす行為は、主権者である日本国民の生命を危険にさらす米国人の犯罪行為と言っても過言ではない。


 人権問題で米国に追随して中国と距離をとる政府ですが、感染防止に必死になっていた日本人の人権を無視した米軍の行為も明らかに日本人の人権を無視しており、これだけ馬鹿にされたような米国の対日政策を見過ごすのも限界がある。


 むしろ、オリンピック開催を控えているとは言え、感染拡大を国策として必死に防止しようとしている中国との関係改善に取り組み、アジア全体からコロナ感染の脅威を無くすことが、日本経済の早期回復になると思われ、反中、反日と対立にこだわるより、トランプ大統領やコロナ禍によって明らかになった米国との国民性の大きな違いから関係を見直す必要も感じます。


 そんな中で、ホンダは中国に新しいEV工場を建設すると発表しており、世界一の市場を前にして米国に追随するだけの政権とは違い、経済界は生き残るために中国を敵対視はしておらず、その良し悪しは判断できませんが、米国に追随するだけの政府にも限界を感じます。


 一方で、地位協定とは言え米軍の関係者を自由に行動させておくことは、日本国民に外出制限や自粛を求めても説得力がなく、米国人と同じように行動すれば感染拡大は収まりません。もっとも、オミクロン株が重症化しないインフルエンザと同程度の感染症となれば、感染者のプライバシーを保護する必要もなく、情報公開によって住民が感染しないよう各人でも防御ができるようにすべき時期が来ているのではないだろうか。

                           1月6日の一言
                  本日の体重71,8キロ   徒歩数8062歩

過去の書き込みにびっくりの千枚通し

千枚通しです


 過去に記していたヤフーブログを読み直すと、書いた自分自身でもびっくりとする書き込みが残っており、記されていない知人の名前と顔を思い浮かべて、当時のやり取りを必死に回想することになりました。

「医者は何とも無いと言うんだけど…」
      「じゃー、大丈夫なんじゃないの」
「それでも何かを食べると吐いてしまい、何も食べられないから」
      「そんなら、千枚通ししかないかなぁ」
「えっ、千枚通しって (怖いー) 

 大学病院の検査をはじめ、知り合いの医者を訪ね歩いても、「異常なし」と言われたものの、食事も一切口に入らないとの知人の話を聞き、「そりゃー、千枚通ししかない」との私の一言に、知人はびっくりした顔をしました。

 知人は「千枚通し」を、先の尖った穴を開ける「千枚通し」と思い、この「千枚通し」で身体に穴でも開けると思ってびっくりとしたようですが、私の紹介した「千枚通し」は紙と言ってもオブラートのように薄いものです。

2010年07月12日

 今から12年前のブログ記事ですが、ヤフーブログからライブドアブログに過去の記録として引っ越し、保存してあった記事が人気記事にランクされており、当時の何事もなく当たり前に記した記事も、読み直してみるとびっくりさせられる書き込みになりました。


四国遍路で入手した千枚通しです

四国別格12番延命寺の千枚通護摩符

四国八十八か所霊場78番郷照寺の千枚通し

四国64番前神時の千枚通し


 千枚通しについては、一般的には事務用の千枚通しを連想しますが、四国遍路や高野山を参拝する人たちには目にする機会も多く、小さなオブラートのような護摩符が千枚入っており、朝晩水と一緒に飲めば、病苦を除き妊婦さんも安産になると言われています。

 千枚通しの遠起を読むと、現在の別格12番延命寺において、松の木の辺りに一人のイザリが居るのを見た空海(弘法大師)が、何とかしてやろうと千枚通し霊符の1枚を授けたところ、微妙な霊験によって全快したことが現在に継承されてきました。

 過去に病院では何ともならないと言われる人たちに差し上げてきましたが、科学万能の現代社会においては効能は定かではなく、私自身も病苦に陥った際に飲もうと置いてあったものの、昨年10月に手術を受けた際にも眼中にありませんでした。体調不良が続く今こそすがりたいと持ち出した次第です。

 さて、四国遍路や真言密教を信奉する人たちには当たり前となる「三蜜」についても、最近ではコロナ禍の中で忌み嫌われる言葉ですが、弘法大師の教えでは身(体)、口(言葉)、意(心)がバラバラでなく、調和がとれているものを三蜜と言い、信心の目標にもされてきました。

 過去に私自身が記した一言ですが、プライバシーに配慮して記名が無いため、今にして思うと思い出せない記載も多くなってきたことを実感させられました。

                                1月5日の一言
                                                                       本日の体重 71,4キロ  徒歩数 4,563歩

関西出雲久多美神社を参拝して 岐阜県海津市

大きなしめ縄です 関西出雲久多美神社


国道258線 大桑線

関西出雲久多美神社 岐阜県海津市南濃町

入口の鳥居

境内前の鳥居

関西出雲久多美神社

本殿


 岐阜県海津市にある「関西出雲久多美神社」へ初詣に訪れました。

 昨年も正月の3日に訪れていますが、一般的な神社の初詣は長い行列に並んで賽銭を投げ、後ろの参拝客を意識しながら慌てて柏手をうって本殿を後にしますが、久多美神社では本殿の扉を開け広い畳の祭殿の前まで進み、二礼四拍手のあとで神様に祈願します。

2021-01-03

 熱心な信者さんたちによって維持されており、いつ訪れても信者さんから声がかかり、「本殿の中まで入って参拝されましたか」と聞かれ、参拝の作法などを丁寧に説明してくださる姿は、いわゆる新興宗教の勧誘宣伝とは違う、神様のお使いのような神妙な気持ちにさせられます。


 ここには賽銭箱も無く、お守りやおみくじも売られてはおらず、一般の参拝客も信者さんと一緒に本殿内の拝殿前で祈願する、日本古来からのお参りをする神聖な神社です。


養老山地は午後三時を廻ると夕暮れの雰囲気となります

道の駅月見の里

南濃みかん

書初めの作品

本日の夕暮れです


 誰もが元旦になると初詣に出向きますが、久多美神社は祭神である久多美大神を崇める信者さんが真剣に参拝し、我々一般人も参拝できますが、まるで真言宗の開祖弘法大師の面前で祈願しているような雰囲気を感じさせられます。

 私は法力とか霊感とは無縁ですが、コロナ禍の中で感染防止策として本殿の四方が開けられ、境内に雪が残るなかで拝殿に大きな扇風機が回されているものの、全く寒さも感じない神聖な場所に座っていることが認識され、大神と相対していることを意識させられました。

 さて、近くにある道の駅に立ち寄ったものの、目的としたミカンの品数が少なく、隣接するJAの直売書は休業しており、高額なミカンを少量購入して帰宅することになりました。

                                 1月4日の一言
                   本日の体重71,7キロ  徒歩数6,472歩

中大6位入賞 箱根駅伝をテレビ観戦して

本日の夕暮れ


 山の神「神野大地」君が私の母校神守中学校の卒業生のため、毎年正月は箱根駅伝の青山学院を応援してきましたが、今年は1区で中央大学が1位となり、往路6位に入賞したことでかつて長男が陸上競技部で所属していた中大を応援する懐かしい思い出がよみがえってきました。


 長男は入学直後のケガで満足な競技生活(走り高跳び)ではありませんでしたが、名古屋の熱田神宮と伊勢神宮をむすぶ全日本大学駅伝では、長男と同じ文学部の先輩や、長男と同じ愛工大名電高校出身の後輩が活躍する駅伝の応援に中大の旗を持って応援していました。


 最近は低迷していた中大の駅伝ですが、やはり活躍する選手の姿を見ていると子供たちが現役だった頃の懐かしい心境がよみがえってきました。


見慣れたユニフォームです

見事な完勝です

ゴール

今年も青学のための箱根になりました

貫禄の総合優勝です

そんな中でも…

古豪復活 久々の快挙です

ゴールです

6位入賞 よく頑張りました

藤原監督 来年も期待していますよ

本日のテレビ画面です。

 復路を6位スタートした中大は、最後の10区まで3位と健闘し、結果的には6位入賞に終わったものの、来シーズンの活躍が期待される選手も多く、爺さんになっていた最近の心境から、選手の親御さんの心境を少し共有する応援ができそうです。
 
 さて、東京都では新型コロナの感染拡大が続き、全国各地に存在する在日米軍基地からオミクロン株の感染が大幅に増えており、めでたい正月休みの外出によって感染拡大が続き、再度外出自粛となりそうな雰囲気が漂ってきました。

 問題は、沖縄県知事が再三にわたって米軍からの感染防止を訴えても、米軍は聞く耳を持たず、政府も無策のまま感染者が急増している現実で、かつての感染拡大と同じく東京都の感染拡大が全国に波及するパターンが何ら対策も施されない現実を考えると正月気分には浸っておれませんね。
                               1月3日の一言
                    本日の体重 72,1キロ   徒歩数 7,694歩

2万歩歩いて津島神社へ初詣に

箱根駅伝6位の中央大

久々の入賞です


 久々の中大6位入賞です。私の長男は平成8年に開催されたインターハイの入賞(走り高跳び)により、中央大監督のスカウトを受けて翌年入学しましたが、当時の中大は大会ごとに有力校にあげられ、私の住む愛知県を走る大学駅伝には中大の旗を持って応援に駆けつけていました。

 しばらく忘れられていた入賞ですが、5区を走る一年生の頑張りに親御さんになったような気持ちになって応援していました。

そんなわけで寝ているはずが気力回復して…

地元越津町の梁川八幡社

日光川

午後2時21分

津島市役所

名鉄津島駅 東口

天王通り 観音寺のギャラリー

牛玉山観音寺 真言宗智山派

観音寺納経所

本堂


 最近朱印で人気のある観音寺に立ち寄りました。津島市のご朱印ブームのさきがけとなったお寺ですが、行列の先は朱印が目的になっており、本堂で読経する参拝者は年始でも皆無でした。
 お寺に人を呼び込む努力は評価できますが、お寺本来の目的を忘れると観光目的の金儲けとしか思えず、私が四国霊場会で厳しいお叱りを受けた朱印の基本とは程遠く、真言密教そのものの魅力を伝えて欲しいものですね。

天王通り

大いちょう

午後3時17分

津島神社

参道

参拝者の列

本殿

楼門

牛頭山寶寿院 真言宗智山派

本堂

大師堂

涅槃像


いとう写真館


名鉄津島駅

改札口

コークオンの自販機 午後4時27分


午後5時02分

日光橋の下


午後5時12分

本日もの写真です。

 本日歩いた歩数は2,0780歩になりましたが、午前中から見ていた箱根駅伝で、久々に中央大学が6位に躍進したことで、外出する気力がよみがえり、地元出身である神野大地君の活躍によって青学を応援してきた近年とは違う、二十年前の父親の気持ちがよみがえってきました。

明日も中大応援のテレビ観戦となりました。
                                1月2日の一言
        本日の体重 71,1キロ 徒歩数20,780歩

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。

 コロナ禍で先の見通せない現状ですが、四国遍路と上高地を中心にして走り回りたいと思います。最近では多くの先輩や友人が鬼籍に入っており、疎遠となっている旧知の知人や友人たちを訪ねられる一年にしたいとも思っています。本年も宜しくお願いいたします。

令和4年元旦
ギャラリー
  • ようこそ 大鹿一八の納経所へ
  • ようこそ 大鹿一八の納経所へ
  • 令和6年 上高地開山式の様子です
  • 三重県桑名市大福田寺の聖天祭へ
  • 毎年恒例となった我家のアンズジャム作りへ
  • 毎年恒例となった我家のアンズジャム作りへ
  • 本日もボランティアの一日となって
  • 我家のきゅうりとプランターのイチゴです
  • 我家のきゅうりとプランターのイチゴです
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