2月28日の一言

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

昨年3月22日の一言
一年前に無理やり役員を押し付けられ、週末の土曜日と日曜日はお役御免にしてもらったものの、当事者の居ない総会で本人不在のまま確認もされずに決められた役員は、事あるごとにストレスをためた参加となりましたが、それもまもなく終わりに近づいてきました。
私自身は平日に福祉有償運送のボランティアに関わっており、週末の決められた日は上高地のボランティアに参加し、空いた日は四国遍路に走る生活パターンにしており、昨年はコロナ禍により外出の制限があったものの、基本的に自由になる日は無いことから、好きでない町内会の仕事には大きなストレスとなっていました。
それもあと半月で終わることになりましたが、来月13日に開催される総会の前に、町内監事の会計監査を受けるため、一年分の領収書と符合した決算書を完成させる必要があり、月初めからは大忙しの生活となっていきます。嫌々引き受けた仕事が終わると思えば気が楽になります。
もっとも、来月には自分の確定申告もせまっており、関わる2つのNPO法人の事業報告も愛知県に提出する必要があり、税務署や行政への申告や、ほとんど仕事は無いとはいえ民生委員の仕事も考えると完全なる休養は当面見込めません。
明日は珈琲屋くらいは行きたいものですね。
2月27日の一言
えがしら堂の和菓子
本日の夕暮れ
2021年に亡くなった人は前年より6万7745人(4・9%)増え、戦後最多の145万2289人となった。厚生労働省が25日、人口動態統計の速報値(外国人を含む)を公表した。死者数の増加は2年ぶりで、新型コロナウイルスのデルタ株の流行が影響した。出生数は84万2897人で過去最少となった。
21年の出生数は前年より2万9786人(3・4%)減ったと報告されているが、出生数より死者数が60万人ほど少ないことは益々人口が減少し、少子高齢化の歯止めがききません。
さて、東海3県の新型コロナの感染者数が減少傾向になっており、愛知県では子供向けワクチンの予約も始まり、春の到来と同じようにコロナも収まってくれれば幸いとなりますが、国内で国産の飲み薬が開発されればコロナ前の生活が戻ってきそうな光明が差してきました。
3回分の重ね印
2年前に訪れた時は相棒リマも同行させており、奥之院までは一緒に車へ乗せてもらいましたが、今となっては相棒との懐かしい思い出の場所になってしまいました。
「四国遍礼道指南増補大成」
しこく遍路考
江戸時代は、旅の時代です。「徳川の平和」「泰平(たいへい)の世」と呼ばれる時代に、街道が整備され、参勤交代を行う武士だけでなく、許可を得て多くの庶民が旅に出ました。藩が国であった時代、旅に出る時はパスポートである往来手形が必要でした。庄屋や檀那寺(だんなでら)が身元を保証し、全国の関所や村役人に向けて、関所の通行要請や死亡した場合の取り扱いなどを書きました。
旅の隆盛とともに、西国巡礼や伊勢参り、金毘羅参りなど様々な案内記が発行され、人々を誘いました。四国遍路初めての案内記は、貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』です。重版を重ね、書名の漢字も僧侶の修行であった「辺地修行」につながる「辺路」から、弘法大師聖跡の巡礼を表す「徧礼(へんろ)」「遍路」に変わっていきます。大坂の荒野聖・真念は、出版動機を「弘法大師850年忌にあたり老若男女の初心者も四国遍路できるように」と記し、歩きやすい道を選んで紹介しました。自身も200基以上の道標を建て、遍路宿を整備して、四国遍路興隆に寄与しました。
その後元禄2年(1689)、高野山の学僧・寂本の『四国徧礼霊場記』、同3年の真念『四国徧礼功徳記』が刊行され、同4年には歌舞伎『四国辺路』が京都で上演されており、畿内で四国遍路ブームが興っていました。
四国遍路に来た人々の日記も残っています。現在確認されている江戸時代の遍路日記は51点で、多くは地名・距離・難所が記された単調なものですが、筆者が福岡県立図書館で発見した佐治家の「四国日記」は、最も記述内容が豊かな日記です。
津屋崎村(福岡県福津市)の豪商佐治家一行は、7人連れで弘化2年(1845)2月22日に出発。小倉や萩、岩国の城下町、宮島を見物しながら、船で三津浜に上陸します。太山寺を打ち初めに四国を北上、55日で一周します。四国に入ると初日から登場するのが接待です。
集計すると、最も多いのは、香物(漬物)21件と赤飯18件です。続いて、髪結い7件、銭5件、唐豆類5件、煮しめ4件、餅2件、わらじ2件があり、白飯・焼米・ひきわり飯・弁当・はったい粉・トウキビ・薬・茶・豆腐・吸い物が各1件記されています。旅に必要な、自分にできる接待を行っていることが分かります。
接待主の名前も記されており、他村や他国からも接待に来ていることが分かります。伊予で13件、讃岐で25件(うち備中9件、備前1件)、阿波で11件ある一方で、土佐は0件となっています。藩から接待禁止令が出ていたためです。
遍路日記は、その時代の巡礼や社会の姿を伝えてくれます。江戸時代から続く接待は、重要な四国の文化なのです。(愛媛大学「四国遍路・世界の巡礼研究センター」センター長・胡光)
朝日新聞の転載です。
2021-10-13
ここからは日曜日、一昨日の写真です。
揖斐川と多度山
長良川と揖斐川の堤防に残る千本松原
係留されている漁船
治水神社
江戸時代の中頃、徳川幕府は、木曽三川の水害で悩む濃尾平野西南部の住民を救うため、薩摩藩にお手伝い普請を命じました。薩摩藩士らは、経験したことのない水の流れに苦しみながら、この地方の住民のため、多大の犠牲を払い、万難を排して工事を見事完成させました。
平田靱負大人は、この工事の総責任者です。幕府の検分が終わった直後の宝暦5年5月25日、工事の完成を見届けた大人は、美濃大牧の役館で命終されたのです。
永く埋もれていたこの大工事を世に広めたのは、三重県多度に住む西田喜兵衛です。彼はこの工事の様子を世間に知らせ、犠牲者の慰霊と顕彰に邁進しました。明治33年、近代の木曽三川の治水工事の成功式に併せて「宝暦治水之碑」が、時の総理大臣山県有朋公を迎えて油島千本松原に建立されました。
その後、平田大人を治水の神と讃える地元の人々の報恩感謝の熱い思いにより、昭和13年現在の地に、平田靱負大人を御祭神とする治水神社が創建されました。治水神社は、治水に尽力された薩摩藩士の功績を讃え、平田靱負大人の遺徳を偲び、犠牲となった多くの藩士達を慰霊しています。
社殿
2021-01-13
現在でも木曽川の東側(愛知県側)に三重県の木曽岬町が存在しますが、木曽川の西側にも愛知県愛西市の一部が存在し、岐阜県海津市の歴史民族資料館に展示される生活様式から、私の住む津島市や木曽川流域の尾張地区と共通する生活様式であることが判ります。
今でこそ三川の強固な堤防で分離されているものの、かつては水郷地域として舟による水路の行き来が行われており、コロナ禍によって県と県の境界がさかんに叫ばれるものの、三川の流域では同じ生活圏として歴史を刻んできました。
そんな想いで昨日は木曽川を渡り、岐阜県海津市から三重県桑名市(多度町)を訪れました。
2月21日の一言
2020年 6月06日
2年前に旅立った相棒リマが居た頃には一緒に散策できる居場所にしていましたが、2年間も素通りで通過していたことを帰宅後のブログから確認しました。
2018年02月14日の写真
最初の画面
このまま待ちます
神守店でなく平和店を選択しなければいけなかったのですね。
知立市国道1号 藤田屋
2月18日の一言
帽子も雪で真っ白に
コーラの製品1本獲得です。
菜の花ガーデン 幸せの黄色いポスト
12日(土)の写真です ↓
太平洋へ沈む太陽
伊良湖灯台
夕暮れの恋路ヶ浜
夕陽に輝く荒波
恋人たちの聖地です

伊良湖岬灯台から日出の石門まで太平洋沿いに約1km、そこには荒波をうけて湾曲した白く美しい砂浜が。「恋路ヶ浜」というロマンチックな名の付いたこの浜は、「最近の名称?」と思われがちですが、実はその歴史は古く、江戸時代につくられた和歌にも詠われています。その昔、高貴な身分の大序が許されぬ恋に落ち、都を追放されてこの地に逃れてきた伝説からこの名が付いたともいわれています。
島崎藤村の抒情詩「椰子の実」の舞台となったことでも有名で、浜にたたずむと、「名も知らぬ 遠き島より 流れよる 椰子の実ひとつ」と、ついフレーズを口ずさんでしまいます。
その名前ゆえに、「願いのかなう鍵」や「永遠の愛を誓う鐘」などがあり、プロポーズにふさわしい場所として伊良湖岬灯台とともに“恋人の聖地”と呼ばれ、デートスポットとして人気があります。
伊良湖岬の案内図
道の駅クリスタルボルト
恋咲公園 車の背後が24時間トイレ
恋路ヶ浜駐車場
伊良湖岬 午前7時09分
本日は車中で夕暮れを迎えました
病院駐車場で待機です
2020-02-09
我家から30分も走れば適度な登山もでき、県内でも足を延ばしていない場所が存在し、最近メンバーに入った車中泊と道の駅のフェースブックから魅力ある発信を眺め、冬でも四国遍路や西国巡礼を続ける人々の吐息まで聞こえそうな発信が続々と届いてきます。
もっとも、コロナの蔓延防止措置が出されていなければ、明日から3日間は四国遍路を予定して13回目の満願を終えていたはずですが、外出自粛が当り前となり、明日から三連休であったことも完全に忘れていました。
谷汲山華厳寺
こんな雪でも巡礼者が存在します
新日光橋から見える伊吹山
ディスカウントドラッグ コスモス
マキノ高原メタセコイヤ並木道
Kei Takahashiさんのフェースブック参照
白銀の世界です
あこがれの世界です
最近参加するようになったフェースブック「道の駅de車中泊」から、自分が体験しているような臨場感のある写真が発信されており、自分が過去に訪れた場所に立っているような錯覚と、相棒リマとともに訪れた車中泊が昨日のように思い出されてきます。
昨年7月の車中泊 7月22日から25日
一方で、この頃からペット厳禁となっている上高地へ相棒リマも一緒に連れて行くようになり、相棒の存在が自然と車中泊の旅行となり、相棒と共に仙台や岩手県まで車を走らせテント生活や車中泊となる中で、天候に左右されない車中泊が当り前のスタイルとなりました。
2012年08月24日
2012年08月26日
2015年08月08日
相棒と一緒に上高地や四国遍路に行くためスタートした車中泊が、2年前に相棒が旅立ったあとも相棒リマのケージとウエアを車に積んで旅に出る生活が当り前となり、居なくなった相棒を忘れないためには車中泊を続けていことと思っています。
昨年11月の車中泊
2019-12-16
コロナ禍で人との接触が問題となる中で、車中泊の四国遍路はほとんど観光客と出会うこともなく、上高地や木曽路など山や大自然を相手にする旅行は新型コロナに感染するリスクもほとんどありません。
フェースブックから各地の車中泊の様子が次々と届けられ、厳冬期で外出をしぶっていた自分にとって、久々に旅先の魅力を感じさせられるようになってきました。
2月8日の一言
本日の夕暮れ
養老の山も真っ白です
神守宿 六角堂
秋祭り 上町車の車庫
本日の写真です。
先週末から体調不良により毎日コタツの番人となっていますが、一年前のブログを読み直すと外出自粛とは言え県内各地を精力的に訪れており、最近はコロナ禍とは別に外出意欲が大幅に減少していることを自覚させられます。
外出意欲が減退している大きな原因は、昨年春から町内会の副会長に無理やり(承諾しないまま)選ばれ、選ばれたら断れないという理解のできない町内体質にもあり、土曜日と日曜日は環境省のボランティアで上高地に滞在し、平日はボランティアとは言え患者さんを毎日病院まで搬送していることについても「自分が好きでやっていること」と言われて、当たり前の役務として町内会を優先する民意は大きなストレスとなってきました。
ブログの中には、町内会役員で頑張っている日常を発信されている人も多く存在しますが、私のようにボランティアだけでなく、遠方への外出や旅行を引退後のセカンドライフとしている者にとっては、全員公平な町内会運営なら仕方ないものの、無理やり役員にされて苦痛を感ずる町内会は迷惑でしかなく、今後一方的に役員指名されたら町内会を脱会しようと考えています。
これこそ、自分のことは自分で護り、家族には迷惑をかけても残された人生は自分の好きなように生活しても文句を言われる筋合いはなく、初めて選挙に立候補した時から町内会は隣町の議員を応援し、一度も町内会の支援をもらわないまま議員生活を20年間も続けた過去を忘れることができません。そんな町内会の役員を無理やり押し付けられているのは腹立たしく苦痛でしかありません。
フライドポテトが再開されました
2014年07月29日
この鬼門除けは平成5年に他界した父親が毎年授かって部屋に掲げてありましたが、何所で授かっていたかが判らず、今から8年前に輪王寺を訪れて見つけたため、その後は毎年郵送で送ってもらうようになりました。
2020-02-04
般若心経どころか我家の宗派のお経も読めなかった父親が唯一持ち帰っていた御札ですが、無信心の父親が遠く離れた栃木県の日光まで訪れて授かっていたことは不思議で、当時一緒に旅行を楽しんでいた名鉄の先輩となる重役の方々の影響で授かっていたと思われます。
そんな姿を想像することも難しいものの、父親とは格安で宿泊できた名鉄の保養所くらいしか一緒に訪れたことがなく、名鉄を定年退職後は家族三世代で各地のキャンプ場のバンガローやケビンを訪れており、今にして思えば後10年長生きしておれば四国へも一緒に行けたと思われます。
さて、8年前から鬼門除札を部屋に掲げてきましたが、コロナが落ち着いたら古い御札を直接輪王寺へ返しに訪れたいと思います。
2月6日の一言
2月の会報へんろ
京都大原から届いた福豆
宝泉院住職のご挨拶
御札
毎年の事とは言え、忘れられることなく届けていただけることに感謝しかありませんが、今年も京都から節分の御札と福豆が送られてきました。そして、何かお返しをと思いながらも返礼もせぬまま月日が経過し、昨年からはコロナ禍もあって京都までが遠く感じてしまいます。
多くのお寺とのご縁がありますが、宝泉院は一番古くからお付き合いが続き、かつてはお盆と大晦日だけでなく、春や秋のイベントにも訪れていましたが、最近は京都を通り越えて四国遍路に走り、方向の違う高野山へ走って京都を訪れる機会が減りました。
若い頃の私にとって京都は新婚旅行の目的地にした憧れの地でもありました。京都で多くの人と知り合い、その人を訪ねながら京都へ足を運びましたが、それらの多くの人たちが鬼籍に入り、今では個人的に尋ねられるお寺は宝泉院の住職だけとなりました。
これまで添えられていた挨拶文は流し読みで深く考えなかったものの、年金受給者となり老化を切実にかんずるようになり、住職の挨拶分から自身の健康を考え、身と心から悠久の世界に存在する自覚も覚えるようになってきました。
この節分会の手紙が一年でも永く届けていただけるように、ご住職の健康も祈らずにはおれません。
毎週木曜日は給油の日にしています
当地方では低価格のスタンドですが…
レギュラーは166円
我家は会員価格の158円です
ガソリン価格が高騰を続けており、低価格で移送する福祉有償運送には厳しい運行が続きますが、昨年から燃費が安く抑えられる軽自動車を多用していたものの、新型コロナの感染者数が連日増大しているため、患者さんとの間隔のとれる大型のキャラバンとセレナで運行する機会が増えてきました。
本日獲得したスタンプ
2015年12月12日
我家から30メートルの近所にある建物ですが、営業しているときは便利さを当り前に生活していたものの、反対方向の30メートル先にはガソリンスタンドと串カツ屋もあり、道路の前にあった珈琲屋と焼肉屋も今では全て廃業しており、にぎやかだった過去が懐かしく思い出されました。

