奈良井宿の看板
2023年05月
日曜日の写真です。
木曽路では妻籠の宿と同様に規模の大きな宿場町で、過去に何度も訪れていることを買ってきた傘や杖とともに、団子屋さんの店頭で実感しましたが、無人駅の多い木曽路のJR中央本線の中で駅員さんの居ることでも宿場の存在感を実感させられます。
奈良井宿には複数の寺院や神社が存在しており、それらについては後日の添付とします。
28日(日)午前6時30分
車載の食料と調味料など一式
朝はヨーグルトにバナナと調理パン
夕食前の赤ワインも積んできました
グレンパークさわんど
前日の土曜日(27日)は午前5時15分に愛知県を出発し、高山市経由で8時前に釜トンネルを通過しバスターミナル駐車場に愛車を停めましたが、この時期の夜の上高地は非常に寒いため、夕方に沢渡まで移動して温泉に入り、グレンパークさわんどを車中泊の場所としました。
午前7時13分
大正池
バスターミナルへ
基本的にボランティアに参加する時は、さわんど足湯公園前の駐車場に車を停めますが、今回は同行するボランティアメンバーが大きな荷物を持参したことと、上高地で半年間生活する渡辺画伯へ生活必需品を届けるため愛車で上高地へ入りました。
もっとも、上高地はマイカー規制で自家用車は入れないため、青ナンバーのタクシーを所有する私ゆえに可能なことで、上高地内で車中泊ができるのは私だけかも知れません。
2日前の写真です。
週末2日間の天気は快晴に恵まれていましたが、翌日となる昨日は一転して激しい降雨によって落石事故が起こり、落石の除去等の作業により上高地公園線は午前10時から午後1時まで通行止めになりました。
29日(月)午前10時のFacebook
しかし、通行止めが解除となった直後に、今度は雨量が多く午後4時30分から再び通行止めが決まり、バスやタクシーも4時からは運休となりました。
午後1時18分のFacebook
そんな散々な天候となった月曜日でしたが、翌日の本日早朝には快晴の上高地の写真が発信されてきました。
本日(30日)朝のFacebook
ただし、午後には昨日の降雨により焼岳小屋近くの登山道が土砂崩れによって通行ができないことと、復旧の見通しが立っていないと発信されてきました。ネット社会になっても上高地の電波状況は悪く、時間に遅れると上高地から出ることもできず、土砂崩れの現場より上にいる登山客は上高地へ戻ってくることもできません。
5月も明日で終わり、6月は四国遍路と高野山行きを予定しており、上高地行きは17日までお預けとなりますが、河童橋にある五千尺ライブカメラと、インフォメーションセンターが連日発信する映像や写真によって愛知県に居ながら上高地にいる臨場感を味わえることに便利な世の中も実感させられます。
昨日の写真です。
私は昭和49年に初めて上高地を訪れましたが、平成11年からは小梨平で長期滞在するようになり、今から二十数年前からは河童橋で油絵を描き続ける渡辺画伯のテントの隣に家族でテントを張るようになり、千葉県のお宅を訪ねるほど身近な存在となりました。
そして、渡辺さんを通じて上高地で多くの人たちと出会いました。かつてはテントに「世界の交差点」と記されていましたが、私がブログに発信した「ホームレス画伯」を見た外国人も訪ねてくるようになり、まさに世界の交差点にもなりました。
4月29日(土)
環境省のボランティアMさんと
ビジターセンター前で一服です
今年の渡辺画伯は4月22日に千葉県旭市の自宅から上高地へ入っていました。
4月30日(日)
5月2日(火)
ここだけは 時間が停まっています
イギリスの親子と
学生時代に英語をまったく勉強しなかったため、外国人には声も掛けられませんが、画伯は日本人でも判らない千葉なまりが強いものの、外国人観光客とも気軽に(勝手に)話しかけられる神経と言葉が通じなくても相手が喜んている現実は見習いたいものです(笑)
5月3日(水)
5月13日(土)
はい、チーズ
かつては私より背が高かった画伯も84歳となり、永いテント生活で背中が曲がって小さくなりました。
しかし、ストレスの無い上高地の生活は半年間医者とは無縁となり、84歳とは思えない薬も飲まない健康な生活を続けてきました。
「お茶でも飲んでくかい」が口癖ですが、画伯の部屋に入るのは危険で、気をつけていても座ったおしりに絵具が付くので要注意です(笑)
さて、こんなストレスの無い交流が続いて欲しいものです(笑)
観音正寺
滋賀県近江八幡市安土町石寺2
観音正寺は、滋賀県近江八幡市安土町石寺にある天台宗系単立の寺院。山号は繖山。本尊は千手観音。西国三十三所第32番札所。観音寺城跡の、琵琶湖の東岸、標高433mの繖山の山頂南側の標高370m付近に位置する。
険しい石段です
久しぶりの西国巡礼と言うよりも、四国遍路も共通して言えることは、二十年前の若い時のイメージをそのまま引きずっているためか、七十歳を間近に控えた体力の衰えを実感させられ、観音正寺の石段も辛く四国よりも辛くなってきました。
もっとも、辛いのは体力の低下ばかりではなく、駐車場や拝観に必要な料金も年金受給者となった現在では二十年前とは違って大きく感じてしまいます。
観音正寺の林道についても、初めて訪れた二十年前だけでなく6年前にも麓から当たり前のように登りましたが、今回は歩く気力が湧かず山上駐車場を目的地にしたところ、登り口で600円の通行料が必要で、やっと登った境内入口では500円の拝観料が求められ、「志納」とは記されているものの当たり前に徴収となります。
最近では四国遍路でも道路の通行料や駐車場代を求められるお寺がありますが、基本的に駐車場や拝観料は無料で、世界文化遺産となった高野山でも駐車場は無料で、特別な庭園などへ入らなければ無料で参拝が可能です。
さて、3日前の西国巡礼では白衣姿の巡礼者とは一人も会わず、読経する声や線香の香りもない孤独な巡礼だったことも私の疲れを大きく増幅させたように思います。
明日からの2日間は上高地のボランティアに出かけますが、明日は笹原をかき分けて湿地に生える「ミズバショウ」の除去が予定されており、観光地では人気のミズバショウも上高地では外来植物となり、「長靴と汚れてもよい服装」での参加が求められています。
家族から「遊び、遊び」と言われていますが、「沼地のミズバショウ除去」は大変な作業で、過去の体験から「2度と参加したくない」と冗談を飛ばした作業は人目にはつきませんが、こんな作業が上高地の環境を維持しています。不思議なことは、昨年膠原病に罹患していても四国遍路と上高地だけは「疲れた」と言わないことに、我が身の不思議を実感させられています。
長命寺は推古天皇27(619)年に創立された天台宗系で聖徳太子が開基した西国観音巡礼第31番のお寺です。
長命寺の建つ奥島山はかつて山そのものが神の宿る御神体として信仰されており、本堂奥の山腹には多くの巨石も残されており、神仏混合の歴史をとどめていました。
かつては歴代天皇の健康長寿が祈願されたことが長命寺の由来とのことですが、近江商人や奉公人の出世と長命も祈願する観音様として信仰を集めたお寺で、境内の鳥居をくぐると稲荷大明神や太郎坊大権現が奉られていました。
長命寺から眺める琵琶湖や麓の近江八幡の街並みから、いわゆる日本の山寺らしい雰囲気を実感する参拝となりました。
本日の写真です。
本日は当初予定していたスケジュールが空いていたため、鉛色の空模様を眺めて突然西国三十三観音へ行くこととし、三重県いなべ市の石榑(いしぐれ)トンネルから滋賀県へ入って三十一番長命寺と三十二番観音正寺を参拝してきました。
かつては関ヶ原経由か西名阪自動車道の高速道路が当たり前だった滋賀県行きも、いなべ市経由の石榑(いしぐれ)トンネルが開通したことで、一般道から簡単に訪れることができ、本日のように10時近い出発でも気軽に巡拝できるようになりました。
また、本日は2カ寺だけの巡拝ですが、境内すべてのお堂を訪れて参拝できたのも自分一人の行動ゆえの結果で、長命寺の太郎坊大権現にも参拝できました。
長命寺と観音正寺の詳細については後日に添付していきます。
本日の写真です。
私にとって毎月21日はお大師様の日で、何事もなければ町内のお寺の本堂で「阿息観」という瞑想法の座禅を組んでいます。もっとも、かつては名古屋市北区で開催されている志賀弘法会の代表を送迎していましたが、現在は家内に任せて阿息観だけの一日となっています。
身体中の空気を細胞を絞り出すような感覚で掃き出し、深く吸い込めるだけ空気を大量に吸い込み、一時息を止めた後に、ゆっくりと時間をかけて吐き出す呼吸サイクルの繰り返すのが阿息観という瞑想法です。
阿息観は今から千二百年前に空海が中国から持ち帰った「阿字観」の一つで、真言密教の僧侶だけに引き継がれてきた真言宗の瞑想法ですが、現在は一般の信者にも広く開放されるようになり、私も最初は高野山まで行って参加していましたが、地元のお寺で開催されていることを知ってから参加するようになりました。
それが今から12年前の話となり、私が四国遍路に行くようになって22年も経過している現実にも驚きしかありません。
2011年7月21日の一言
数年前には、自己勝手流の瞑想ですが、目をつぶって自分が座っている場所を高野山奥之院の御廟前と、上高地の小梨平で穂高連峰を望む場所に設定し、我が身が現地へ転送されたような錯覚を感じて座っていたこともありますが、体力的に衰えたためか最近は現地と同化することができなくなりました。
前記したように空海によって伝承されてきた真言宗の瞑想法ですが、最近は健康法としてテレビで専門家によって同じような呼吸法が案内されており、医師や学者も科学的に紹介するようになりました。
仏教嫌いの人や、四国遍路や真言密教を邪教と言う新興宗教も存在するため、この阿息観が医学的にも有効な呼吸法として理解してもらうため、アメリカアリゾナ州立大学の先生が提唱する呼吸法を添付します。
アメリカ・アリゾナ州立大学のアンドルー・ワイル博士が提唱する「4-7-8呼吸法」と呼ばれる瞑想呼吸方法
息を吐く
息を深く吸うためには、まず息を出し切らなければなりません。姿勢はできれば楽な姿勢で背筋を伸ばして床に座るのが理想的ですが、仰向けでも構いません。
1 息を吸う
口を閉じて、静かに鼻から息を吸います。心の中で数える4秒間のうちに息を吸います。
2 息を止める
7秒間息を止めます。
3 息を吐く
1番のように再び舌の先端を前歯の付け根に触れるようにカールさせ、8秒間で口から息を吐き切ります。シューッという音がすると正しく息を吐いている証拠です。息を吸う2倍の時間でゆっくり息を吐き切ります。
1〜3までが1つのサイクルで、1回と数えます。この呼吸法により酸素が肺一杯に吸入され全身にくまなく酸素が行き渡るので、体がリラックスするのです。1〜3までが1つのサイクルで、1回と数えます。この呼吸法により酸素が肺一杯に吸入され全身にくまなく酸素が行き渡るので、体がリラックスするのです。
仏教も究極の目標は人間の幸福(真言宗の目標は生きている間に仏様になる即身成仏)にあり、幸福の源となる健康は生きていく上での第一歩となり、これからも健康で四国遍路や高野山に行ける体調管理に努めたいと21日になると実感させられます。
本日午後6時41分
本日の写真です。
2月の西国巡礼から、3月と4月は四国遍路に出向き、5月には上高地のボランティアが始まり、今週やっと自宅でゆっくりとした週末を迎えましたが、周りは夏のような暖かい 環境になっていました。
5月になっても上高地の朝晩は冬のように寒く、先週まで雪でも対応できるように衣類を積んでいましたが、数日前から動くと汗が滴るようになり、身体が暑さを実感するようになりました。
そんなわけで 遅れていた車のスタッドレスタイヤを夏用の普通タイヤに交換しました。
さて、明日21日は月に一度となるお寺で阿息観の一日となります。
木曽11宿 宮ノ越の宿場
巴淵
巴淵
長野県木曽郡木曽町日義
木曽川上流
木曽川下流
木曽川が巴状に渦巻く渕であったことからこの名がある。巴御前がここで水浴をしたという伝説が残る。
日曜日(14日)の写真です。
木曽義仲
源 義仲 は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。 ウィキペディア
先週日曜日に訪れた中山道 宮ノ越の宿場の写真を添付しました。
木曽義仲公が亡くなってから1000年以上経過していますが、この地から遠く離れた京の都まで、戦い抜いて進軍していったと考えると感慨深いものを覚えます。
宮ノ越を流れる木曽川を眺めて、川の流れと水の清らかさは当時と変わらないと考えると、今でも義仲公の姿が拝めそうな気持ちになってきます。
何よりも本陣等の歴史的な史跡が無料で開放されていることと、観光資源に頼らず自立して生活する 宮ノ越の人々の自尊心を感じずにはおれません。
この地の木曽川に流した木の葉が、何日で私の住む 愛知県に到達するかは分かりませんが、投じた木の葉を何日でも待ち続けてみたい心境と、川の流れに身を任せて自宅へ帰りたいと思わされました。
2013年11月
添付した写真は、今から10年前に歩き遍路友の会東海のメンバーとともに「讃岐7ヶ所まいり」で、JR 海岸寺駅に降り立った際の集合写真です。
この時に先頭を歩いた上野会長も鬼籍に入られ、メンバーの高齢化により今では四国にすら行けないお遍路も存在するようになりました。
2013年11月21日の一言
昨日12時51分の写真です。
名鉄勝幡駅
午後3時20分の写真です。
来年には70歳となり、昨年膠原病に罹患した私ですが、友の会では若手になることと、四国へ頻繁に訪れていることから、メンバーに新風と四国遍路の新鮮な情報を提供するため 新たに Facebook のグループを立ち上げて発信することになりました。
昨日に開設したFacebook です。
そんなわけでメンバー3人でスタートしたFacebook に、招待したお遍路のベテランが加入していただき 本日 4人のメンバーとなりました。私自身が昨年からFacebook で新鮮な出会いが続いていることから、新たなお遍路の出会いにつながることを期待しています。
日曜日(5月14日)の写真です。
辰野町にある花街道は日本の原風景と言える綺麗な里山風景を残していました。
下飯沼地区の花街道
横川川
道端の道祖神
横川ダム堰堤
ダム本体
ダム湖
放水中
蛇石キャンプ場
案内板
横川渓谷
蛇石?
大蛇のようです
蛇の骨格のようです
恐竜の化石?
随分と長い蛇石です
地元の川島地区には、次のような民話が伝えられています。
横川川の上流で兄弟竜がけんかをし、川が氾濫して下流の村が鉄砲水に襲われそうになりました。それを母子2匹の大蛇が、自分たちの身を犠牲にして救いました。それに感心した熊野権現が、この母子を蛇石に変身させ、兄弟竜を二度とけんかが出来ないように、上流にある大滝に閉じ込めたといいます。
科学万能の現代社会においては、黒色の粘板岩の岩脈に白い石英の岩脈が蛇のような模様を残していると理解できますが、横川の氾濫を救った2匹の大蛇を熊野権現が蛇石に変身させたとの伝承や、太古の時代に存在した恐竜の骨格の化石と言われても疑うことができない蛇石の存在感と、国の天然記念物に指定されていることに納得させられます。
木地師の墓の道標
南無阿弥陀仏
山の仕事を生業としていた木地師の墓が日陰の道路端にひっそりと存在していることに、現代社会のように車で何処にでも行き来できる社会との大きな世相の違いを感じさせられます。
白鳳山瑞光寺
辰野町横川2063
参道
山門
本堂
山門の鐘楼
瑞光寺は、人皇88代御深草院の正元元年(1259)、鎌倉建長寺の開山大覚禅師が、諸国行脚の際、この地に建立した一宇が起こりである。古くは鎌倉に属し、大いに盛んになるが、時代の変遷により衰退した。永禄元年(1558)、武田信玄が、京都妙心寺より周峯和尚を中興開山に招いて、堂宇は悉く旧に復された。また、武田信玄は、周峯和尚に深く帰依し、横川谷を残らず寺領として寄進した。このころより、京都妙心寺派に属するようになり、寺運は栄え、人々の深い信仰をうけて今日に至っている。同寺の庭園は、画聖、雪舟の作である常栄寺庭園の写しである。雪舟庭は、今より500年前に築かれ、その原形がよく保存されていることから史跡名勝に指定、この庭は、雪舟庭の池の部分のみを写したもので、別名「禅苑」とも言い、悟りの境地を表現したものとも言われている。
私の住む愛知県津島市には多くの寺院が存在しますが、長野県の安曇野や松本だけでなく、添付した辰野町や木曽路に存在するお寺は、過去に実在した歴史上の人物や歴史と直結したお寺が脈々と残されており、現代社会で葬式商売と揶揄されるような寺院とは違う、地域と一体となったお寺本来の姿も感じさせられてしまいます。
日曜日は、ここから伊那市を経由して権兵衛トンネルから木曽路へもどり、木曽11宿の宮ノ越の宿場を歩きました。木曽義仲ゆかりの宿の様子は明日に添付します。
善知鳥(うとう)峠
日曜日(2日前)の写真です。
日曜日の天気予報は午前中から雨の予報でしたが、雨どころか薄日がさしていたため、そのまま塩尻市から木曽路へ走る予定を変更して、塩尻市から伊那路の辰野町や伊那市に向けて車のハンドルを切りました。
善知鳥(うとう)峠の分水嶺に立寄り、ここに降り注ぐ雨がたった1メートルの差で北に降った雨は犀川から信濃川へ注いで日本海へ流れ、南に降った雨は天竜川から太平洋に流れる自然界のドラマチックな現実を実感させられます。
さて、上高地ではクマ目撃情報も発信されていますが、塩尻市の蔵造川水路橋を見に行く入り口で、直前にイノシシがエサを探すため道を掘り起こした跡を見つけ、里山においては当り前に動物と遭遇する危険性も実感しながら足を進めました。
下飯沼沢 花街道
建物内
伊那市へ向かう途中の辰野町で「かやぶきの館」の看板を見つけ、車を走らせると「花街道」の看板とともに日本の原風景とも思える里山の川やススキに、横川渓谷の存在とともにダムや蛇石の存在が判り更に車を走らせることとなりました。
さて、「かやぶきの館」の看板から、私は白川郷や高山市の合掌造りを想像していましたが、今までに見たこともない大きな茅葺の建物であることと、宿泊できる施設で蕎麦打ちやはた織り体験、草木染め体験などができる体験型施設であることが判りました。私とは無縁の施設ですが、こんな環境でゆっくりと滞在することもしてみたいですね。
ここから先は、明日に続けて添付していきます。
津島名物あかだとくつわ
本日の写真です。
本日は知人から東京から訪れた知人の案内を依頼され、上高地や四国を案内するガイドブックは多量に存在するものの、地元を案内するパンフレットは皆無で、尾張名所図会を持ち出して自宅を出発しました。
今から30年前に地元の歴史研究家から、津島を案内できる人物としてテレビ局に推薦されたこともありましたが、今では何も案内する資料が無く、50年前に恩師の樋田豊先生に連れられて津島市内を廻った郷土史の資料と、所蔵する尾張名所図会しかありませんでした。
その上で案内を始めた直後にボランティアの福祉有償移送の患者搬送の連絡が入り、病院から自宅へ搬送後に再度津島神社で合流したものの、十分な案内には程遠く、資料無しで案内できる上高地や四国との大きな違いを実感です。津島市の案内もと思ってしまいましたが、身体は一つしかありません。
もっとも、同じ案内でも国立公園の上高地や世界文化遺産登録を目指す四国遍路道のような資源ではなく、人が居ないばかりか現地で勧められた津島神社に隣接する神宮寺は、香炉に参拝した線香のあとも無く、本堂に寺の人も居ない状態で、最後に訪れた観光センターで知人が求めた「何処にでもあるような津島市が判るパンフレット」も無い状態ではガイド以前の問題となります。
さて、明日は早朝から上高地を目指し午後に開催されるボランティアの定例会に参加予定ですが、天候は明日から明後日にかけて雨予想で、日曜日には上高地を出て中山道の宿場を訪れる予定も再考が必要かもしれません。
4月28日夜から5月2日までの4日間は、上高地のパークボランティアのため沢渡足湯公園駐車場に停めた愛車と上高地をバスで往復し、夕方さわんど温泉梓湖畔の湯に通う生活でした。3日から5日は家族と合流して上高地から木曽路へ移動しました。
ちなみに、足湯公園駐車場の料金は1日700円、梓湖畔の湯の入湯料は730円で、今年から足湯公園にはフリーwi-fiが整備されており、無料の足湯は24時間開放されています。
過去にバスターミナル駐車場で車中泊をしたこともありましたが、上高地は標高1500メートル付近にあるため、下界より約10度ほど気温が低く、雪の残る連休中の車中泊は冬の装備が必要となります。もっとも、上高地 へはマイカーが入れないため、タクシーを愛車とする私だけの体験となります。
ちなみに、沢渡の標高は約500メートル低く(標高1010メートルと)なります。
4日 オートレスト木曽路 塩尻市
ゴールデンウイークの写真です。
サービスエリアや道の駅の駐車場で車中泊をすることの是非がネット上でも話題になりますが、松本市から愛知県までの木曽路では唯一仮眠だけでなく 車中泊 大歓迎の施設がオートレスト木曽路です。
建物内は深夜でも明々としており、コインランドリーとシャワーだけでなく、マッサージ器や自販機も置いてあり、明るいロビーで夕食や朝食が食べられるばかりか、外に出なくても通路のあるコンビニで冷えたビールを買ってくることもできます。
私の連休最後となる5日は、御嶽山へ参拝するだけでなく 5ヶ所の滝巡りを家族で楽しんできました。
近鉄電車 愛知県弥富市の高架橋から
本日は早朝から患者さんを弥富市の病院へ搬送し、家内も市内と市外の医療機関へ人を搬入しており、久しぶりにボランティアに徹する一日となりました。昨年膠原病に罹患したため早朝の行動は自粛していましたが、連休の上高地では毎日午前7時のバスに乗っていたことと、来週も上高地へ行くためには頑張るしかありません(笑)
本日の写真です。
添付したイチゴは今年は五年目(?)となるプランターのイチゴで、昨年は二十株ほどに増えていましたが、家内が畑で大量に育てていたことと、昨年は私が膠原病に罹患したため夏の手入れが全く出来ず、たった1本だけになってしまった私の最後のイチゴです。
幸いなことに熟した実はひじょうに甘く、ランナーが多く出ているため、来年には5鉢以上に増やして再来年に繋げていきたいと思います。
さて、ボランティアの一人が体調を崩しており、明日は三人分の仕事を家内と2人で分担することになり、病気持ちの私も複数の患者さんを搬送する事態となりました。
我家は私が膠原病に罹患した昨年からボランティアを加減してきましたが、体調を崩したボランティアは口コミで患者が増えており、ボランティアが高齢化する中では真剣な対応が急務となります。
明神館前から見える明神岳
5月4日の写真です。
6日間ボランティアのために滞在したゴールデンウィークの上高地で、唯一紹介して来なかった明神方面と岳沢湿原の写真を添付しました。
大正池から河童橋まで(約1時間)歩く観光客は多いものの、明神まで歩く人は更に1時間(往復2時間)歩くことから、日帰りツアーの高齢者には大変な旅程となり、魅力ある環境を楽しむ余裕すら ありません。
上高地は大正池から河童橋、 そして小梨平から明神池まで全てに魅力ある環境となりますが、明神からさらに 徳沢まで足を伸ばすと、自然そのものの環境とともに居場所とするニホンザルの行動にも変化が見られます。
今年は一気に 暖かくなり、すでにニリンソウが咲いていますが、天候に恵まれ過ごしやすい環境下で時間を忘れてニホンザルを眺めていたいと思う 上高地 滞在となりました。
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