本日は長崎に原爆が落ちて62年目となり、現地では犠牲者の慰霊と平和祈念式典が開催された。広島と並ぶ原子爆弾の被災地であるが、久間発言に対する抗議は強いものの、逆に久間発言によってマスコミの扱いが多いのも、皮肉のように思われてくる。
「久間さんの発言は許せないが、あれで原爆の脅威がもう一度、国民に思い出された意味は大きい」との発言は、長崎県被爆者手帳友愛会の会長を務める松本七郎さん(75才)の言葉である。原爆の悲惨さは言うまでもないが、あまりヒステリックに叫ばれると、「空襲で焼け死んだ人々の悲惨さも同じ」との反発を感ずるが、松本会長の発言は当事者だけに説得力があり、「戦後生まれの議員が増えた。核武装や憲法改正と簡単に言うが、原爆や戦争についてどれだけ認識しているのか」の言葉に、戦後生まれの一人として真摯に耳を傾けたい。
私が戦争そのものを意識したのは、昭和47年1月にグアム島から横井庄一が発見された時にさかのぼる。当時は不良の部類に入る高校生だったが、横井庄一の親族だった事から、関係して発行される本や雑誌から、戦争を見る事になった。ただし、当時の横井庄一は時の人であり、その後においても生き残って発見された事から、戦争の悲惨さは感じてはいなかった。
しばらくして、私の生涯において信奉する「鶴田浩二」の唄のファンから、世の中にビデオが普及しはじめたことにより、鶴田浩二の映画を見るようになり、彼が海軍の生き残りで、機会がある度に戦争の悲惨さを訴え、映画で演じるとともに自前で遺骨収集をしている事を知る事となった。しかし、これも悲惨さよりも鶴田浩二の魅力に酔いしれていただけであった。
平成5年7月2日、私の父親が65才の生涯を閉じた。父は戦争中に中国の満州鉄道に勤務しており、その関係から満鉄の吉林会(ちいりんかい)に入っており、亡くなった後にも仲間から連絡が届き、中国で世話になっていた現地人と手紙を交換し、ラジオ等を送っていた事も知る事となった。中国残留孤児の住所が自分のいた場所に近いことから、厚生省に連絡し、中国語で彼らと話したり、退職後は中国の現地にも渡っていた。
親が亡くなって初めて親の過去を調べ、その関係から戦死した親の兄の存在と、戦死した伯父が戦地から我家に送ってきた20通の手紙を見る事となった。横井庄一が我家に送った2通と併せて読み直すと、戦死したことになっている伯父は死ぬつもりもなく、生きて還るつもりで手紙を出している。又、満鉄職員から少年兵へ志願したい私の父に、「絶対に志願するな」と手紙を出した事や、自分の弟となる私の叔父や叔母の心配まで綴られている。
私にとって仏壇に飾られた遺影として、声も聞いた事がない伯父の存在であったが、父親の志願を止まらせた事が我家の現在につながっている事を実感した。前にも記した事があるが、伯父は昭和19年6月21日時刻不明沖縄本島小渡で戦死している。しかし、沖縄県に問い合わせても地名すら特定できず、連絡すら皆無である。
グアム島から横井庄一が発見された時、「うちの兄貴も何所かで生きている」と私の父は話していたが、本当に生きていると信じていた様子でもあり、それまでは私を戦死した兄の生まれ変わりと思っていたフシもあり、そう考えると横井庄一記念館で留守番をする度に、伯父の戦死した場所に立ちたいと思うようになってきた。ただ、私の自己満足だけでは伯父もうかばれない。戦後生まれの私に何ができるのだろうか…。
8月9日の一言
「久間さんの発言は許せないが、あれで原爆の脅威がもう一度、国民に思い出された意味は大きい」との発言は、長崎県被爆者手帳友愛会の会長を務める松本七郎さん(75才)の言葉である。原爆の悲惨さは言うまでもないが、あまりヒステリックに叫ばれると、「空襲で焼け死んだ人々の悲惨さも同じ」との反発を感ずるが、松本会長の発言は当事者だけに説得力があり、「戦後生まれの議員が増えた。核武装や憲法改正と簡単に言うが、原爆や戦争についてどれだけ認識しているのか」の言葉に、戦後生まれの一人として真摯に耳を傾けたい。
私が戦争そのものを意識したのは、昭和47年1月にグアム島から横井庄一が発見された時にさかのぼる。当時は不良の部類に入る高校生だったが、横井庄一の親族だった事から、関係して発行される本や雑誌から、戦争を見る事になった。ただし、当時の横井庄一は時の人であり、その後においても生き残って発見された事から、戦争の悲惨さは感じてはいなかった。
しばらくして、私の生涯において信奉する「鶴田浩二」の唄のファンから、世の中にビデオが普及しはじめたことにより、鶴田浩二の映画を見るようになり、彼が海軍の生き残りで、機会がある度に戦争の悲惨さを訴え、映画で演じるとともに自前で遺骨収集をしている事を知る事となった。しかし、これも悲惨さよりも鶴田浩二の魅力に酔いしれていただけであった。
平成5年7月2日、私の父親が65才の生涯を閉じた。父は戦争中に中国の満州鉄道に勤務しており、その関係から満鉄の吉林会(ちいりんかい)に入っており、亡くなった後にも仲間から連絡が届き、中国で世話になっていた現地人と手紙を交換し、ラジオ等を送っていた事も知る事となった。中国残留孤児の住所が自分のいた場所に近いことから、厚生省に連絡し、中国語で彼らと話したり、退職後は中国の現地にも渡っていた。
親が亡くなって初めて親の過去を調べ、その関係から戦死した親の兄の存在と、戦死した伯父が戦地から我家に送ってきた20通の手紙を見る事となった。横井庄一が我家に送った2通と併せて読み直すと、戦死したことになっている伯父は死ぬつもりもなく、生きて還るつもりで手紙を出している。又、満鉄職員から少年兵へ志願したい私の父に、「絶対に志願するな」と手紙を出した事や、自分の弟となる私の叔父や叔母の心配まで綴られている。
私にとって仏壇に飾られた遺影として、声も聞いた事がない伯父の存在であったが、父親の志願を止まらせた事が我家の現在につながっている事を実感した。前にも記した事があるが、伯父は昭和19年6月21日時刻不明沖縄本島小渡で戦死している。しかし、沖縄県に問い合わせても地名すら特定できず、連絡すら皆無である。
グアム島から横井庄一が発見された時、「うちの兄貴も何所かで生きている」と私の父は話していたが、本当に生きていると信じていた様子でもあり、それまでは私を戦死した兄の生まれ変わりと思っていたフシもあり、そう考えると横井庄一記念館で留守番をする度に、伯父の戦死した場所に立ちたいと思うようになってきた。ただ、私の自己満足だけでは伯父もうかばれない。戦後生まれの私に何ができるのだろうか…。
8月9日の一言








