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 毎月の定例コース「矢合観音」へ出かけたところ、新たに矢合観音と3ケ寺めぐりのパンフレットが作られていたので、小玉食堂で昼食後に『国分寺』を覗いてきました。

 ただし、立派なお寺の本堂はしっかりとカギがかけられ、庭先から覗いてみても誰一人出てこられません。看板には鎌倉時代の文化財が四点記されていますが、これなどは頑丈な倉庫にしまわれているのかどうか、拝観ができないのでさっぱりと判りません。

 山門の外に矢合城址の石碑が…。これによれば、「戦国時代に一色城主橋本伊賀守道一の弟、大膳の居城であったが、後継がなく廃城となった」とある。そして「追善のために一本松から移したのが円興寺(国分寺)である」と記してあるが、ひと気もなく説明もないのでそのまま帰宅となった。

 立派なパンフレットを作った事は稲沢市の観光協会を評価したいが、印刷した五千部を配布し終わった後をどうするのか、増刷であれば協賛した七件のスポンサーにも十分な説明が必要であり、肝心のお寺の受け入れ態勢がないばかりか、案内板も不備のままでは地に足がつかぬ思い付きとしか思えない。

 一緒に並べてあった「善光寺だより」第1号には同じB4版のパンフレットに19件(20件分)のスポンサーがあり、受け入れ態勢だけでなく継続していく意欲が感じられ、これこそ「お役所」と「民間」の違いを実感させられた。

 さて、石碑にあつた「一本松」とは何か? 戦国時代の城主の追善に一本松から移したのが円興寺(国分寺)とすれば、鎌倉時代の文化財四点の存在は何故か? 
 忙しい中ではあるが帰宅後に尾張史を見ると、円興寺については「鈴木山と号し、永和元年妙興寺滅宗和尚開基」とあり、「当寺釈迦堂に国分寺の本尊薬師如来を安置せり」と記されていた。
 尾張地名考に目を通すと「続日本書紀聖武天皇の天平13年の…」となり、旧字体の本から他の市町の歴史まで調べるのは億劫となるので、深くは詮索しない事とする。

 ただし、稲沢市史の中には「矢合観音」の論文があり、この中にも橋本伊賀守道一についての記載があり、豊臣秀吉などの記載も見られ、国分寺についても「国衙と国分寺」に詳しい歴史が解かりやすく書かれているので、関心のある方は図書館で調べていただきたい。

 こんな本が簡単に出てくるのは学生時代の財産であるが、この資料を眠らせたままにしており、自身の頭も目覚めなくなった現実に歳月を感ぜずにはいられない。
                           10月20日の一言