
さて、今月7日のブログ( http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/26099806.html )にも記しましたが、横井さんの従兄弟に「大島定造」なる人があり、横井さんが帰国後は嫌って遠ざけていたと書きましたが、本日の永代経の席で、横井庄一さんが戦死した慰霊として隣の寺に永代供養がされている台帳を見つけ、隣に大島定造さんの名前も仲良く記されていました。
永代供養は、横井さんの母親「つる」さんが依頼したもので、写真では見づらいですが戦死した戒名の下に「千音寺横井つるノ息子」と記されておりました。その隣には大島さんの母親「たき」さんの永代供養を息子の定造さんが依頼していました。
当時の状況から、横井さんの母親と大島定造さんが一緒に出向いて依頼しており、たきさんは横井さんの母親の姉になることから、伯母と甥が揃って我家に来て、隣のお寺に出かけた模様である。
「つるさんと定造さんは仲が良かったのでしょうかね?」と、記念館で横井婦人に問われたが、現在は名古屋市に住む大島家も、元々は旧佐屋町の本部田にあったことから、我家を中心に日常的に出会っていたものと思われる。そして、大島さんの母親は私が生まれてから亡くなっている事と、横井さんの母親は昭和32年に亡くなっている事から、永代供養を依頼したのは昭和30年前後の話と思われる(受付の仕事があり、そこまで詳しく見ておれませんでした)。
横井家には戦死した横井庄一の立派な墓がある。「息子は生きている」と、母親つるさんは息子の戦死を最後まで信じていなかったと、横井庄一さんが発見された当時の人々が語って新聞や雑誌にも記されたが、戦後10年も経過し、自分の姉も亡くなった事から、墓ばかりでなく、息子の永代供養も依頼する心境となっていた様子が偲ばれる。
昭和47年に横井が発見された時、私の父親は自分の兄も生きていると真剣に思うようになっていたようである。本日帰宅後に大島定造さんの戸籍に母親の嫁ぎ先が記されていた。「どこなのか調べてみようか」とつぶやくと、「何のために?」と家族の声が聞こえてきた。こんな処でも私だけが家族から浮いている事が実感されてきた。
10月21日の一言








