

空海(弘法大師)は、晩年に大法会を修し、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」(この世が存在する限り、生きとし生けるもののいる限り、私の衆生救済の願いは尽きることはない)との誓いの言葉を述べ、承和二年(835年)に高野山で永遠の命の本源に帰っていかれました。
御廟の前に建つ燈籠堂に一人座り、何度も般若心経を読み、奥の御廟を眺めながら、蝋燭の炎からお大師様の姿を想像し、今から1千2百年前にも大師によって同じ「御経」が読まれていた事と、「56億7千万年後に弥勒菩薩とともに甦る」との遺言を思うと、自分のはかない命と同時に、いとも簡単にこの場に座らせていただける事に感謝するのみであった。
さて、7名での高野山行きであったが、私のこだわりは一の橋のたもとに建つ「ああ同期の桜」の慰霊碑に参る事で、他のメンバーを車に残して小雨舞う参道を走った。この慰霊碑は海軍第14期生の戦没者を奉る慰霊碑で、私の尊敬する「鶴田浩二」さんは、毎年9月の第2日曜日に開かれる慰霊祭に欠かさず出席されていたのであった。
何度も高野山に参拝しているが、今回は少人数であった事と、偶然にも本日3名が道に迷って遅れた事を逆手にとったように、「ちょっと待っていて下さい」と、車に人を残したままにここに走ったのであった。
ただし、この慰霊碑と鶴田浩二(敬称略す)の関係は知っていたが、まさかその背後に鶴田浩二の墓(写真下)が奉られているとは本日まで知らず、私は鶴田浩二の墓は鎌倉にあると思っており、高野山での出会いにはびっくりと言うか感動である。
この墓は鶴田浩二が亡くなった翌年の昭和63年3月16日に、妻の小野照子さんの手によって建立されており、小野家墓所と印されているものの、墓標には『鶴峰院栄誉誠純悟道大居士』と記されており、まさしく小野栄一さん(鶴田浩二)の墓である。
恐れ多くも、この墓標に手を触れ、私の心情とともに「同期の桜」を口ずさみ、写真を撮りまくり、フイルムを入れ替えに走ってからも撮影し、「これで、本当に帰ります」と言ってから墓を後にした。今にして思えば、何故に同期の桜だったのか。何故に般若心経でも読み上げなかったのかと反省ばかりである。
「おい、君は礼儀というものを知らないのか」と本人に言われそうな、大スターを前に舞い上がった子供のような振る舞いも、小雨舞う天候が幸いして、声をあげて語り、鶴田浩二を1人占めできたような気持ちでもあった。こんな幼稚な姿は今回だけにして、今後は真っ先に大人として手を合わせたいとおもっている。
さて、高野山の弘法大師がかすんでしまい、鶴田浩二一色になってしまったようだが、これまで敬称略を当り前として鶴田浩二と記してきたが、墓前に立ったことで「さん」をつけたい心境になった。考えてみれば、生前中の本人を前に「鶴田浩二」と呼び捨てにはできず、今までの横着と無礼にも反省する一日ともなった。
5月29日の一言








