169周目:さらばタナケン (2008年1月21日 読売新聞)
タナケンが亡くなった!? 日本のモータースポーツが産声が上げた1960年代、その不屈の勝負師魂と独特の個性とで誰からも一目置かれ慕われたトップ選手、田中健二郎。
1934年1月3日、九州は福岡の生まれ。2007年12月29日、療養先の沼津にて死去。享年73。その訃報が知らされたのは、年が明けて早10日も経った1月11日のことだった。
無敵のオートレース時代、本田宗一郎にスカウトされてホンダ入り、2輪世界GPデビュー戦で何と日本人初の3位表彰台、しかし次戦で大事故に遭って片足切断寸前の危機、ライダー断念後の若手育成《健二郎学校》、ニッサンに誘われ4輪に転向して大活躍、プリンスを吸収合併した後のニッサン新体制に合わず個人チーム「タキ・レーシング」に移籍してメーカーに対抗、71年富士GC開幕戦優勝にもかかわらず夏に37歳で突如引退表明、といった波乱万丈のレース人生は、専門誌に載るだろう追悼記事をご覧あれ。
より詳しく知りたい向きには、著書『走り屋一代』(八重洲出版/69年刊)の一読をお薦めしたい。豪快というか破天荒というかハチャメチャな生き様は、激動の昭和を生き抜いた男のまさにそれであり、目から鱗が落ちること請け合いだ。
その後のレース界ご意見番としての毒舌評論やTV解説も良かった。「この北野君のダイナミックなスリーステップ走法、見ててくださいよ。ほれ、ワン・ツー・スリー」「おや、ハシェミ君が来(き)ないですね」「コーナリングを比べてみましょう。生沢君、さすがにうまい。次に来たこの選手、いかんいかん下手糞ですね、誰でしょう、あ、あたしですね」。腹を抱えて笑ったオイラは当時高校生だったか。レースを見るのが大好きになった。
その後、サーキットでタナケンとすれ違う場面は何度かあったが、20歳前後の編集アルバイトの分際では、畏れ多くて話し掛けることもできず、ただ競合誌に載るタナケンの寄稿記事を一文字も逃さずに読んで、レース界の表と裏を知った気になっていた。
決してお行儀はよろしくないし、ちょっぴり幻滅するような話も時々聞こえては来たが、なぜか憎めないユーモアと愛嬌がタナケンにはあった。
時は流れて一昨年の06年初め、『日本の名レース100選』を創刊するにあたり、タナケンさんへのインタビューも当然考えた。沼津で静養中であることを知り、ロングインタビューは厳しいだろうが、時機を見て連絡してみようということになった。
06年末、69年日本GP号を編集するにあたり、タナケンがかつて寄稿していた記事を再録すべく、編集部員が許可を得ようと電話連絡した。「そんな重要なことを電話で済ますんじゃない」と一喝され、彼は沼津まで飛んで行った。会うなり笑顔で「やっぱり君だったか」と言われた編集部員は、もちろんタナケンとは初対面だ。記憶違いというより、きっとタナケン流のリップサービスなのだろう。身振り手振りのタナケン独演会がしばし続いたという。帰り際、奥さんから「今日は何で?」と尋ねられ、「昔の記事の再録許可を得に」と答えたら、「それだったら電話で良かったのに」とは、まるでコントのような展開だ。
オイラは思う。タナケンはレースのことを誰かに話したくてたまらなかったのだ。人恋しかったのに違いない。
タナケンが亡くなったというハガキを奥さんから得た編集部員は、かつてタナケン番記者をしていた西山平夫(@cars/F1ウォッチ筆者でもある)とともに、線香をあげに行った。足の古傷が悪化して手術しようかという話になったのを頑なに拒み、「まるで意気地なしなんだから」と奥さんは苦笑していたという。かつてサーキットで見かけたタナケンは、レースの酸いも甘いも知り尽くした豪放磊落(らいらく)な勝負師そのものだったが、その実、「カァちゃんにはわがままで甘えん坊」だったらしい。このギャップが、きっとあの怖いけどちょっとお茶目なタナケンを理解するヒントなんだろうと、いま思う。インタビューしたかった。
人は老い、100%の確率でこの世を去る。
日本に本格的なカーレースが始まった60年代半ば、当時30歳前後だったトップドライバーたちは、40年余を経た現在、70歳を超える年齢に達した。サーキットでの修羅場をいくつも潜り抜けてきた猛者たちといえども、人の命には限りがある。
国内レース界第一世代の先頭を切って、いま、田中健二郎が真っ先にチェッカードフラッグを受けた。やはりタナケンは、最後までトップグループを引っ張っていたのだった。
田中健二郎(Kenjiro Tanaka)、60年代のドライバー。12月29日没、享年73
タナケンが亡くなった!? 日本のモータースポーツが産声が上げた1960年代、その不屈の勝負師魂と独特の個性とで誰からも一目置かれ慕われたトップ選手、田中健二郎。
1934年1月3日、九州は福岡の生まれ。2007年12月29日、療養先の沼津にて死去。享年73。その訃報が知らされたのは、年が明けて早10日も経った1月11日のことだった。
無敵のオートレース時代、本田宗一郎にスカウトされてホンダ入り、2輪世界GPデビュー戦で何と日本人初の3位表彰台、しかし次戦で大事故に遭って片足切断寸前の危機、ライダー断念後の若手育成《健二郎学校》、ニッサンに誘われ4輪に転向して大活躍、プリンスを吸収合併した後のニッサン新体制に合わず個人チーム「タキ・レーシング」に移籍してメーカーに対抗、71年富士GC開幕戦優勝にもかかわらず夏に37歳で突如引退表明、といった波乱万丈のレース人生は、専門誌に載るだろう追悼記事をご覧あれ。
より詳しく知りたい向きには、著書『走り屋一代』(八重洲出版/69年刊)の一読をお薦めしたい。豪快というか破天荒というかハチャメチャな生き様は、激動の昭和を生き抜いた男のまさにそれであり、目から鱗が落ちること請け合いだ。
その後のレース界ご意見番としての毒舌評論やTV解説も良かった。「この北野君のダイナミックなスリーステップ走法、見ててくださいよ。ほれ、ワン・ツー・スリー」「おや、ハシェミ君が来(き)ないですね」「コーナリングを比べてみましょう。生沢君、さすがにうまい。次に来たこの選手、いかんいかん下手糞ですね、誰でしょう、あ、あたしですね」。腹を抱えて笑ったオイラは当時高校生だったか。レースを見るのが大好きになった。
その後、サーキットでタナケンとすれ違う場面は何度かあったが、20歳前後の編集アルバイトの分際では、畏れ多くて話し掛けることもできず、ただ競合誌に載るタナケンの寄稿記事を一文字も逃さずに読んで、レース界の表と裏を知った気になっていた。
決してお行儀はよろしくないし、ちょっぴり幻滅するような話も時々聞こえては来たが、なぜか憎めないユーモアと愛嬌がタナケンにはあった。
時は流れて一昨年の06年初め、『日本の名レース100選』を創刊するにあたり、タナケンさんへのインタビューも当然考えた。沼津で静養中であることを知り、ロングインタビューは厳しいだろうが、時機を見て連絡してみようということになった。
06年末、69年日本GP号を編集するにあたり、タナケンがかつて寄稿していた記事を再録すべく、編集部員が許可を得ようと電話連絡した。「そんな重要なことを電話で済ますんじゃない」と一喝され、彼は沼津まで飛んで行った。会うなり笑顔で「やっぱり君だったか」と言われた編集部員は、もちろんタナケンとは初対面だ。記憶違いというより、きっとタナケン流のリップサービスなのだろう。身振り手振りのタナケン独演会がしばし続いたという。帰り際、奥さんから「今日は何で?」と尋ねられ、「昔の記事の再録許可を得に」と答えたら、「それだったら電話で良かったのに」とは、まるでコントのような展開だ。
オイラは思う。タナケンはレースのことを誰かに話したくてたまらなかったのだ。人恋しかったのに違いない。
タナケンが亡くなったというハガキを奥さんから得た編集部員は、かつてタナケン番記者をしていた西山平夫(@cars/F1ウォッチ筆者でもある)とともに、線香をあげに行った。足の古傷が悪化して手術しようかという話になったのを頑なに拒み、「まるで意気地なしなんだから」と奥さんは苦笑していたという。かつてサーキットで見かけたタナケンは、レースの酸いも甘いも知り尽くした豪放磊落(らいらく)な勝負師そのものだったが、その実、「カァちゃんにはわがままで甘えん坊」だったらしい。このギャップが、きっとあの怖いけどちょっとお茶目なタナケンを理解するヒントなんだろうと、いま思う。インタビューしたかった。
人は老い、100%の確率でこの世を去る。
日本に本格的なカーレースが始まった60年代半ば、当時30歳前後だったトップドライバーたちは、40年余を経た現在、70歳を超える年齢に達した。サーキットでの修羅場をいくつも潜り抜けてきた猛者たちといえども、人の命には限りがある。
国内レース界第一世代の先頭を切って、いま、田中健二郎が真っ先にチェッカードフラッグを受けた。やはりタナケンは、最後までトップグループを引っ張っていたのだった。
田中健二郎(Kenjiro Tanaka)、60年代のドライバー。12月29日没、享年73








