後期高齢者の医療制度に批判的であった人が、障がい者への優遇策にも批判的な意見を述べられていたが、障害を持つ人々に対する制度も厳しくなっている現実があり、自分本位ではなく、それぞれの相手の立場にたち、我が身としての議論が必要と思われる。

 確かに、医療施設の近代化と、医療水準の上昇で、過去には救えなかった命が救われる反面で、障がい者と認定され、障害を持って行き続ける事が必要となった人は増加して、国や地方の財政を圧迫している面は否めないが、「そこまでして生きなくても」の言葉は、健康だから言える言葉であり、明日は我が身の気持ちも忘れてはならない。

 何故、今頃、こんな一言を記しているかと言えば、本日の出先で「くそッ、こんな事で…」と、老眼で目が見えない現実に、自分で記した文字さえ読めず、いつもウエストポーチに携帯している筈の老眼鏡を忘れた事から、わが身に起こっている目の障害を現実に「障がい者」として実感した次第であった。

 誰もが自分を障がい者とは思っていないが、老化による身体の衰えは誰もが当り前にやってくる。目の衰えも当然身体の障害であり、膝が痛くて正座できない人も障がい者であるし、ツエがなければ歩けない人も障がい者に違いない。

 人々は生活の中で、老化に限らず病気や事故によるケガにより何らかの障害を持っており、何も異常が無い人は幸運と思うべきで、そのような障害を取り除くためにバリアフリーに務め、障害を持った人々が苦痛のない生活を国や地方自治体が積極的に支援すべきでもある。

 今回の後期高齢者の医療制度は、75才以上と対象者を限定しており、手帳を発行して障がい者を別個のように扱ってきた国の制度の延長でもあり、これだけ国民的な批判が多い事から、障がい者や難病も含めた全ての人々を対象にした医療制度改革が必要ではないか。

 介護保険にしても制度は定着してきたものの、サービスを受けられる人々の多くが、介護認定の申請すらせずに野放しになっている現実から、申請しなくとも医療機関から自然に申請が出されるべきで、申請した人しかサービスが受けられない現実の改善も必要であろう。

 我家では、それぞれのパソコンの前と、事務所の机と、台所に老眼鏡が置かれ、私のウエストポーチにも老眼鏡を携帯しているが、ここまで障害の幅を広げて考えると、世の中の不備も多く、不備を減らす事によって、我が身も恩恵となる実感をもって考えてみたいと思う一日となった。
                                  10月3日の一言