「あッ、今日は14日か…」と、忠臣蔵のドラマが終わって家内と顔を見合わせた。「もう20年かァー、早いもんだなァ」と、毎年12月14日がくると悪夢が思い起こされてくる。
平成1年の本日早朝に、新聞配達を終えたM・セツヨさんは自宅から2百メートルの道路交差点で乗用車にはねられて救急車で病院に運ばれていった。直後に、「今、お母さんが事故に遭って救急車で運ばれていった」と息子さんからの電話があった。
私は、まさかMさんが命をおとす重大事故とは思わず、新聞の配達が終わっているかどうかが気になり、不謹慎にも仕事の確認を第一として事故現場に走り、ここで初めて生命に関わる大事故と認識し、幸いにも新聞は予備紙だけが残っていた事からそのまま病院に走った。
搬入先の病院では対応ができず、市民病院に運ばれており、病院の廊下にはご主人が座ってみえた。「どうもダメらしい…」との話で、「まさかー」「何とかならないか」とは思いながらも、午前中にはご主人と二人で最後を見取る事となった。
昭和52年に開業して初めて経験する死亡事故に、雇用主としての責任も痛感しながら葬儀の準備をし、残された家族にはまだ高校生の娘さんもおり、自分はどうするべきかと自問自答していると、すべてが吹っ飛ぶような事が通夜で起こった。
事故の相手が登場し、「そっちが飛び出してきて、自分は悪くない」と、遺族や近所の人々の前で平然と言い放ったのであった。人の命が奪われた事故で、相手が死亡した事故の運転手が放った言葉に、私は悲しみよりも相手への怒りがこみ上げてきた。そんな私の拳を引きとめたのは、被害者のご主人であったが、奥さんの親族も静かに見送られ、その事が私を余計に苦しめた。
Mさん一家は私の少年時代からの知り合いであった事もあって、この事故が私に与えた衝撃は大きく、その後の雇用方法にも影響し、1時間の労働でも15分を差し引いた労働時間で雇用をすすめ(人件費は高くなりますが)、この事が人不足に悩む業界にあって私は廃業する平成11年まで人に困る事がなくなります。
奥さんを亡くしたMさん一家は、自動車保険の他に労災保険と新聞社でかけていた交通傷害保険、私が雇用者全てに別個の傷害保険をかけていた事から莫大な保証金を手にされたが、一家の要となっていた奥さんの死亡によって、転出して購入した家も現在は人手にわたり、一家離散のような状況に陥った。
昭和のはじめ、我家の祖母(父親の母)も交通事故で命をおとし、幼少の叔父(父の弟)は旦那寺にもらわれていき、養子だった祖父は家を出て行き、60才を越えた曾祖母(父の祖母)が野菜を売り歩いて生活を支えたが、働き手の両親が不在となった我家はどん底の貧乏生活を強いられた。
最近では損害保険が完備され、金銭面での心配は何もなくなったが、突然の事故は当事者の家族や親族の生活に大きな影響を与え、間違いなく不幸になるのである。20年も前、もう20年と、年月の経過が信じられず、昨日の事のように思い起こされるが、12月14日は翌年も、そして次の年もと3年連続で同じ道路で大事故が起こり、この日はこの道路を絶対に通ってはいけないと周りに言い続けてきたが、20年の歳月はそれも風化させてしまった。
12月14日の一言
平成1年の本日早朝に、新聞配達を終えたM・セツヨさんは自宅から2百メートルの道路交差点で乗用車にはねられて救急車で病院に運ばれていった。直後に、「今、お母さんが事故に遭って救急車で運ばれていった」と息子さんからの電話があった。
私は、まさかMさんが命をおとす重大事故とは思わず、新聞の配達が終わっているかどうかが気になり、不謹慎にも仕事の確認を第一として事故現場に走り、ここで初めて生命に関わる大事故と認識し、幸いにも新聞は予備紙だけが残っていた事からそのまま病院に走った。
搬入先の病院では対応ができず、市民病院に運ばれており、病院の廊下にはご主人が座ってみえた。「どうもダメらしい…」との話で、「まさかー」「何とかならないか」とは思いながらも、午前中にはご主人と二人で最後を見取る事となった。
昭和52年に開業して初めて経験する死亡事故に、雇用主としての責任も痛感しながら葬儀の準備をし、残された家族にはまだ高校生の娘さんもおり、自分はどうするべきかと自問自答していると、すべてが吹っ飛ぶような事が通夜で起こった。
事故の相手が登場し、「そっちが飛び出してきて、自分は悪くない」と、遺族や近所の人々の前で平然と言い放ったのであった。人の命が奪われた事故で、相手が死亡した事故の運転手が放った言葉に、私は悲しみよりも相手への怒りがこみ上げてきた。そんな私の拳を引きとめたのは、被害者のご主人であったが、奥さんの親族も静かに見送られ、その事が私を余計に苦しめた。
Mさん一家は私の少年時代からの知り合いであった事もあって、この事故が私に与えた衝撃は大きく、その後の雇用方法にも影響し、1時間の労働でも15分を差し引いた労働時間で雇用をすすめ(人件費は高くなりますが)、この事が人不足に悩む業界にあって私は廃業する平成11年まで人に困る事がなくなります。
奥さんを亡くしたMさん一家は、自動車保険の他に労災保険と新聞社でかけていた交通傷害保険、私が雇用者全てに別個の傷害保険をかけていた事から莫大な保証金を手にされたが、一家の要となっていた奥さんの死亡によって、転出して購入した家も現在は人手にわたり、一家離散のような状況に陥った。
昭和のはじめ、我家の祖母(父親の母)も交通事故で命をおとし、幼少の叔父(父の弟)は旦那寺にもらわれていき、養子だった祖父は家を出て行き、60才を越えた曾祖母(父の祖母)が野菜を売り歩いて生活を支えたが、働き手の両親が不在となった我家はどん底の貧乏生活を強いられた。
最近では損害保険が完備され、金銭面での心配は何もなくなったが、突然の事故は当事者の家族や親族の生活に大きな影響を与え、間違いなく不幸になるのである。20年も前、もう20年と、年月の経過が信じられず、昨日の事のように思い起こされるが、12月14日は翌年も、そして次の年もと3年連続で同じ道路で大事故が起こり、この日はこの道路を絶対に通ってはいけないと周りに言い続けてきたが、20年の歳月はそれも風化させてしまった。
12月14日の一言








