我家に届けられる手紙の多くは宣伝物と各種請求書がほとんどだが、心温まる便りも混在しており、その中でもお寺から届けられる手紙の中には自然に涙が頬をつたう内容もあり、私にとってはポストを開ける唯一の楽しみともなっている。

 我家には月参りの際に住職から浄土宗の月刊誌が届けられるが、一年前からは四国八十八ヶ所霊場会から会報「へんろ」が毎月届けられるようになった。しかし、15年以上前から知多半島の先にある「洗い観音・宝珠寺」からは、毎月18日の縁日の案内と住職の一言が記された封書が届けられてくる。

 このお寺に初めて訪問したのは、私の父親が亡くなった平成5年の秋であった。この年の1月に父親は医師からガンによる死の宣告を受け、何とかワラをもつかむ思いで人々の知恵を聞く中で、「宝珠寺でガンが治った人がある」と耳にし、聞いた相手が朝日新聞の記者だっただけに、非科学的な事ではあったがウソとは思えず、かと言って医者が死の宣告をした父親が助かるとは思えず、そうこうするうちに父親は7月に65才で旅立っていった。

 父親が亡くなって半年後に訪問し、住職から医者に見離された人のガンが治った話を聞き、当事者が私の隣町の人であった事と、住職が我々の話に真剣に耳を傾け、真剣に自分の考えを話す姿に感動して帰宅した。と、言うのも、それまでのお寺のイメージは、亡くなった人々の供養しかなく、生きる我々を相手とする住職の姿は印象的でもあった。

 そんな関係がその後続き、訪ねる機会は少ないが、忘れられる事無く手紙は毎月届けられてくる。殺伐とした世の中で、こんなお寺もあり、心のよりどころとなる事から紹介しました。⇒http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/35964221.html

 さて、今月は節分があり、前記した宝珠寺より古くから私に届けられる手紙がある。今年も京都大原にある宝泉院より、お札と福豆が届き、挨拶文が添えられていたが、我が身にも置き換えてこの中の一文を紹介したい。

 ある国の格言の中に「王道如砥」王道は砥石の如く公平であり、人情と礼儀を備えたものである、という言葉があります。ですから、よくよく人々の上に立つ者は、その真意を理解し行動し、社会という車を運んで行って欲しいと願うわけです。
 さて、社会の要、とりわけ人と人との間にある要は何でしょうか?それは縁であると思います。これは何も男女の間だけのことではなく、平たく言えば世の中全体のことだと考えます。
 しかし、この世には承知の通り良縁、悪縁とでも言ったら良いでしょうか、そこから物事の善悪が発生してくる深い意味が潜んでいるわけですから、なかなかに厄介なものです。しかもそれは、この私にとって、時々の判断、決心にも拠るところですが、どちらも選り好みができず、受け取らねばならないと言うのが現実の有様です。ですから自分の中にある本来の心に従って、いろんなことが起こって来た時にも自分の欲望に左右されない無欲さと言ったら良いでしょうか、自然さを忘れずにもっていられる事が大事であると考えます。
 また人との良き縁を築いて行くにおいて、その人その人の長所をよく見、聞きながら、交わって行くのも人生の知恵かと思います。そして何よりも自分を遥かに超えた仏様の呼びかけに応じられるように、仏様の親縁、増上縁を感じ、受け取って歩んで行きたいものてあると思っています。(宝泉院藤井宏全住職の手紙から一部抜粋)

 本日の報道では5日に調印された設楽ダムの実現に向け、地元地権者から割高で購入していた土地への工業団地建設を断念すると発表し、断念によって3億円を超える含み損が愛知県民の負担になると報じられている。この含み損は県民の責任では済まされまい。「王道如砥」の一文から、関係者にこんな一文を読ませるゆとりも必要と実感する。
                                       2月7日の一言
京都宝泉院のHP⇒http://www.hosenin.net/