朝日新聞の夕刊学芸欄に『東海の古戦場をゆく』のコーナーがあり、本日は織田信長が岐阜の斉藤龍興を攻めた際に、家来の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が長良川のほとりに一晩で築いたと言われる「墨俣一夜城」について、史実として事実か偽作かとする記事があった。

 一晩で築いたとの話は別としても、常識としてハリボテの砦程度はあったかと思っていたが、専門家の間では史実そのものを否定する考察もあり、その根拠として信長の信頼できる史実である「信長公記」に墨俣一夜城の記載が一切存在しない事が記されている。

 大河ドラマの太閤記でも、秀吉の出世する手柄話として欠かせない場面であるが、歴史の中で本当にあったかどうかが定かでないとすると、近年再建された「墨俣一夜城」の天守閣に輝く黄金のシャチホコも色あせ、各地で続々と建てられている城も滑稽に思われてくる。

 織田信長が尾張を統一するまで大きな影響力と関係のあった津島地区にあって、信長が生まれたと言われている勝幡城跡については、30年前には木々に覆われていたが、最近になって木々が伐採されて石碑だけが残され、間際まで新築された住宅が建てられている。

 さて、私の住む越津町については、越津ネギ発祥の地である事はまぎれもない事実であるが、この越津ネギを栽培して生業としている農家がなく、主な生産地は他の市町村に移っている事から、越津町の存在を知らず、「我が町が越津ネギの故郷」と語った人と遭遇した事があった。看板でも掲げておかないと歴史は変えられてしまう可能性もある。

 越津町にはかつて古墳があり、愛知県の西尾張地方では一番南限の古墳と言われ、「六畳敷きの石」が存在したようだが、昭和40年代の耕地整理以後は場所が確定できず、農具が当たったといわれた石も所在が判らず、場所を示す古い地図が残されていた家も、探しても地図すら発見できないでいる。場所を特定できないばかりか、新築された分譲住宅の下敷きになっている可能性も高く、古墳の存在を知る人すら地元に存在しなくなっている。

 我家で生後3ヶ月から小学校5年生まで生活していた「大鹿(横井)庄一」についても、10年前までは幼馴染も存在し、我家が実家であった事も当然の事実であったが、今では我家の家族すら他人のように「お父さんの親戚」程度しか思われていないのでもある。(夫人が居なくなったらどうなるのか…)

 我家の2階には、横井さんの遺品である書や陶器が展示され、横井さんが戦地から我家に送ってきた直筆の手紙も展示(ミニ記念館にしてあります)してあるが、これも私が死ねばゴミ扱いとされる可能性も高く、我家の現実からも正しい歴史を残す事の難しさを実感させられています。
                                4月14日の一言