本日は8月1日の発行日となっている「神守中学校同窓会報」を、校区内にある四十数軒の町内会長さんのお宅に配送し、津島市の広報と一緒に全戸に配布していただくようお願いして廻りましたが、久々に天候に恵まれた事と、会社を休んで同行してくれた役員のお陰で、昨年一人で廻った時より楽に配布が終了しました。
ただし、一町内だけは数年前より町内会長の独断で配布がお願いできず、役員会にも諮ってもらえない事から、約170軒のお宅を私が配布する事になりますが、「そんな町内は配布するな」とか、回覧板で1部だけ回して希望者は学校まで取りに来てもらえ等との意見はありますが、広告主のためにも会長の責任で汗をかく事となります。
帰宅後にパソコンの前に座ると来客があり、話していると表に訪問者らしき車が停まり、悪徳○○○屋のような恰幅の良い人から、「お久しぶりです」と言われても暫し判らず、気がつけば高校時代の同級生(年齢は2歳下)でしたが、我々の年代の数年ぶりは風貌が一変してしまいます。
しかし、私の家を記憶していてくれて、わざわざ名古屋から来てくれるのは有難く、昔話と近況の世間話で気がつけば夕食の時間も過ぎており、「夕食でも」と言えれば気が利きますが、珈琲一杯でこんなに積もる話があったとはびっくりです。
私は高校生活が5年間にわたった事から、「この人の同級生は多いから」なんて一言をよく耳にしますが、本来の同級生も2歳年下の同級生も「おい」の一言で会話がスタートするものの、一学年下の同級生だけは私の不良時代の影響でほとんどが近寄ってきません。
こんな話をしても2年後れて一緒に卒業した同級生には、不良の片鱗は残しても悪い事はしてないために理解されていない様子ですが、そもそもが3年目は学校から退学する見込みをされ、学校の全クラスの名簿から名前を消されて、不良を通り越して任侠の一歩手前まで陥っていたのでした。
そんな迷惑な退学していく生徒に「怒ったような行動は本当にやりたい事ができないからじゃないのか」、「もし僕のクラスで良かったら一からやり直してみないか」、「僕にも教員としてチャンスをくれないか」と言ったのが生涯の恩師となる「馬郡(まごおり)武久」との出会いでした。
この恩師と出会わなかったら高校中退は確定的であり、卒業後の進路を巡って親と対立していた時に、「残された大学への受験を」と、私が怒ることを想定したかのように母親に「受験料くらいは私が出しても良いから」の一言は私を未来へと導いてくれました。
私の不良からのカムバックには中学時代の恩師達も自分の事のように語られる事から、私も高校時代の思い出を語る事も忘れていましたが、久々の来客により当時の生々しく苦々しい非行経験と、回復しない右足の骨髄炎との闘いを思い出させてくれました。
こんなどん底の14歳から20歳までが私の人生に大きく影響し、当時の恩師たちとの出会いが今までの人生を導いてくれましたが、恩師の多くが鬼籍に旅立っており、残された私はこの経験を語ることによって、同じような境遇にある若者の立ち直るきっかけに生かさなければバチが当りそうです。
もっとも一番の親分だった中学時代の教頭「長谷川丈夫」先生は亡くなったものの、馬郡先生は定年から十年ほど経ちますが、未だ現役で県内一の名門校で夜間の教員を続けておられます。こんな恩師の恩や思いでも本日の同級生が思い出させてくれました。
7月30日の一言
ただし、一町内だけは数年前より町内会長の独断で配布がお願いできず、役員会にも諮ってもらえない事から、約170軒のお宅を私が配布する事になりますが、「そんな町内は配布するな」とか、回覧板で1部だけ回して希望者は学校まで取りに来てもらえ等との意見はありますが、広告主のためにも会長の責任で汗をかく事となります。
帰宅後にパソコンの前に座ると来客があり、話していると表に訪問者らしき車が停まり、悪徳○○○屋のような恰幅の良い人から、「お久しぶりです」と言われても暫し判らず、気がつけば高校時代の同級生(年齢は2歳下)でしたが、我々の年代の数年ぶりは風貌が一変してしまいます。
しかし、私の家を記憶していてくれて、わざわざ名古屋から来てくれるのは有難く、昔話と近況の世間話で気がつけば夕食の時間も過ぎており、「夕食でも」と言えれば気が利きますが、珈琲一杯でこんなに積もる話があったとはびっくりです。
私は高校生活が5年間にわたった事から、「この人の同級生は多いから」なんて一言をよく耳にしますが、本来の同級生も2歳年下の同級生も「おい」の一言で会話がスタートするものの、一学年下の同級生だけは私の不良時代の影響でほとんどが近寄ってきません。
こんな話をしても2年後れて一緒に卒業した同級生には、不良の片鱗は残しても悪い事はしてないために理解されていない様子ですが、そもそもが3年目は学校から退学する見込みをされ、学校の全クラスの名簿から名前を消されて、不良を通り越して任侠の一歩手前まで陥っていたのでした。
そんな迷惑な退学していく生徒に「怒ったような行動は本当にやりたい事ができないからじゃないのか」、「もし僕のクラスで良かったら一からやり直してみないか」、「僕にも教員としてチャンスをくれないか」と言ったのが生涯の恩師となる「馬郡(まごおり)武久」との出会いでした。
この恩師と出会わなかったら高校中退は確定的であり、卒業後の進路を巡って親と対立していた時に、「残された大学への受験を」と、私が怒ることを想定したかのように母親に「受験料くらいは私が出しても良いから」の一言は私を未来へと導いてくれました。
私の不良からのカムバックには中学時代の恩師達も自分の事のように語られる事から、私も高校時代の思い出を語る事も忘れていましたが、久々の来客により当時の生々しく苦々しい非行経験と、回復しない右足の骨髄炎との闘いを思い出させてくれました。
こんなどん底の14歳から20歳までが私の人生に大きく影響し、当時の恩師たちとの出会いが今までの人生を導いてくれましたが、恩師の多くが鬼籍に旅立っており、残された私はこの経験を語ることによって、同じような境遇にある若者の立ち直るきっかけに生かさなければバチが当りそうです。
もっとも一番の親分だった中学時代の教頭「長谷川丈夫」先生は亡くなったものの、馬郡先生は定年から十年ほど経ちますが、未だ現役で県内一の名門校で夜間の教員を続けておられます。こんな恩師の恩や思いでも本日の同級生が思い出させてくれました。
7月30日の一言








