本日は64回目となる終戦記念日であるが、戦争を知らない私の脳裏には旦那寺で行なわれた施餓鬼法要に行く日であり、高速道路の過去にない大渋滞のニュースに、平成3年より続けてきた京都の大文字送り火の鑑賞を見送る事を考えていた。
東京の日本武道館では政府主催の全国戦没者追悼式が行なわれ、天皇、皇后両陛下や麻生首相などが参列する中で式典が開催され、6千人の参列者が約310万人の戦没者を追悼し、麻生首相の口から近隣の国々の被害者や損害に対する深い反省も表明されたと報じられている。
数日前の一言のコメントにも戦争に関する投稿がありましたが、戦争の悲惨さや体験が語られ、それが大きく報道されてくるが、実際に自分の親や家族を失った人々の感想は聞けるものの、本当に戦争の犠牲となった旧日本兵や日本人の声は聞く事ができず、被害にあっても生き残れた人と、命を失った人では全く違います。
グアム島で28年間敗戦も知らずに生き延びた横井庄一さんと言えども、帰国後は人間らしい生活を送っており、戦争体験者と言えども生き延びた日本兵は近隣の国々の人を虐待したり、殺戮した残酷な経験を持つ人も存在するはずで、殺人事件が起こると死刑を訴える最近の社会とは大きな隔たりがあります。
こんなに経済的にも恵まれた社会になっても、国外の戦地で亡くなったまま朽ち果てて放置されたままの遺骨が残されている現実を考えると、戦争の反省と諸外国への謝罪が口先だけと言われても弁解すらできないと私は思います。
古墳時代や縄文時代の遺跡を発掘する力や、太古の化石を発掘する予算の一部でも海外で放置されたままの遺骨収拾にあてれば多くの日本兵の遺骨が戻ってこれると思いますが、戦後から64年の年月の経過は戦死した親族の存在すら知らない家族となっており、国による大々的な施策に期待したいものです。
さて、本日のお寺には我家から分家となった親戚も参列しており、我家から1キロ程離れた自宅からバスと電車とタクシーを乗り継いで来たとの話から、帰りは私の車で送る事となりましたが、到着した自宅で留守番の奥さん(82歳だが私の曾祖母と従姉妹にあたる)から戦前戦後の苦しかった日々の思いでを聞かされる事となりました。
ここで共通する事は、家族の大黒柱を戦争で失った家々では戦後の混乱期を残された女性が生計を支えており、女性と子供だけの家々は地域の中でも、当然得るべき利益も後回しにされており、戦争から帰った人々の多くは戦争の反省どころか、戦死した戦友たちの家族への思いやりすら持ち合わせていなかったのでした。
我家も沖縄で長兄が戦死し、私の父親は戦後しばらく満州から帰ってこれなかった事から、父親の祖母と十代の妹が家を守っており、国の実施した農地解放についても、「女では大変だから」と我家の得るべき土地は全てが町内の人々の手に渡っていました。(親戚も同様だったようです)
とにかく、戦後の混乱期においては、戦地から帰った旧日本兵の多くは戦争の反省どころか、生きていくためには人を泣かせた人も多く、尊敬する鶴田浩二さんのように、遺骨収集や戦没者の慰霊に力を入れた人は稀な存在だったようです。
我家の伯父も未だに戦死した沖縄から遺骨は還っておらず、戦死した場所すら特定できないばかりか、沖縄県に問い合わせても連絡すらない現実の中で、戦死した伯父を知る家族は皆無となっている現実と、我家の後継者すら特定できない現実から、風化した戦争や家族環境も実感させられます。
8月15日の一言
東京の日本武道館では政府主催の全国戦没者追悼式が行なわれ、天皇、皇后両陛下や麻生首相などが参列する中で式典が開催され、6千人の参列者が約310万人の戦没者を追悼し、麻生首相の口から近隣の国々の被害者や損害に対する深い反省も表明されたと報じられている。
数日前の一言のコメントにも戦争に関する投稿がありましたが、戦争の悲惨さや体験が語られ、それが大きく報道されてくるが、実際に自分の親や家族を失った人々の感想は聞けるものの、本当に戦争の犠牲となった旧日本兵や日本人の声は聞く事ができず、被害にあっても生き残れた人と、命を失った人では全く違います。
グアム島で28年間敗戦も知らずに生き延びた横井庄一さんと言えども、帰国後は人間らしい生活を送っており、戦争体験者と言えども生き延びた日本兵は近隣の国々の人を虐待したり、殺戮した残酷な経験を持つ人も存在するはずで、殺人事件が起こると死刑を訴える最近の社会とは大きな隔たりがあります。
こんなに経済的にも恵まれた社会になっても、国外の戦地で亡くなったまま朽ち果てて放置されたままの遺骨が残されている現実を考えると、戦争の反省と諸外国への謝罪が口先だけと言われても弁解すらできないと私は思います。
古墳時代や縄文時代の遺跡を発掘する力や、太古の化石を発掘する予算の一部でも海外で放置されたままの遺骨収拾にあてれば多くの日本兵の遺骨が戻ってこれると思いますが、戦後から64年の年月の経過は戦死した親族の存在すら知らない家族となっており、国による大々的な施策に期待したいものです。
さて、本日のお寺には我家から分家となった親戚も参列しており、我家から1キロ程離れた自宅からバスと電車とタクシーを乗り継いで来たとの話から、帰りは私の車で送る事となりましたが、到着した自宅で留守番の奥さん(82歳だが私の曾祖母と従姉妹にあたる)から戦前戦後の苦しかった日々の思いでを聞かされる事となりました。
ここで共通する事は、家族の大黒柱を戦争で失った家々では戦後の混乱期を残された女性が生計を支えており、女性と子供だけの家々は地域の中でも、当然得るべき利益も後回しにされており、戦争から帰った人々の多くは戦争の反省どころか、戦死した戦友たちの家族への思いやりすら持ち合わせていなかったのでした。
我家も沖縄で長兄が戦死し、私の父親は戦後しばらく満州から帰ってこれなかった事から、父親の祖母と十代の妹が家を守っており、国の実施した農地解放についても、「女では大変だから」と我家の得るべき土地は全てが町内の人々の手に渡っていました。(親戚も同様だったようです)
とにかく、戦後の混乱期においては、戦地から帰った旧日本兵の多くは戦争の反省どころか、生きていくためには人を泣かせた人も多く、尊敬する鶴田浩二さんのように、遺骨収集や戦没者の慰霊に力を入れた人は稀な存在だったようです。
我家の伯父も未だに戦死した沖縄から遺骨は還っておらず、戦死した場所すら特定できないばかりか、沖縄県に問い合わせても連絡すらない現実の中で、戦死した伯父を知る家族は皆無となっている現実と、我家の後継者すら特定できない現実から、風化した戦争や家族環境も実感させられます。
8月15日の一言








