私の中学から高校、大学に至る少年時代においては、日頃の不真面目な行動に右足大腿部骨髄炎による入院や手術が重なり、高校の落第やら非行経験など(高校5年生)を経験する事となりましたが、そんな人と違う少年時代だった事から、世話になった恩師や恩人も多い。

 今にして懐古すると「あの人も、この人も…」となり、記しだすとキリがなくなりますが、今までに人に語った事もない恩人に、骨髄炎の治療をお願いした名鉄病院の主治医であった世古口先生が存在し、この先生がいなかったら今の私は存在していなかったと言えるような恩人でもあります。

 骨髄炎を発症したのは中学2年の昭和43年3月で、当時は近所の開業医の見立て違いによって高熱が続き、間一髪で名鉄病院に入院したものの、その時は簡単に治まってしまった事から、右半身の筋炎か骨髄炎の疑い程度しか診断されませんでした。

 私だけでなく家族も病気の深刻さもなく、再発する事も眼中になく、処方された薬も飲まないままに一年が経過したが、高校に入学して間もない5月のゴールデンウィークには右足が痛くて歩くのもままならぬ状態となり、この時の入院で病名が診断され、手術を避けたい私の希望で抗生物質の投与が続いたものの、高校の出席不足で留年が決まった10月には手術を受ける事となりました。

 私と世古口先生との出会いは、この手術後のことで、親不孝にも名鉄病院で一番部屋代の高かった5階の特別病棟(土川元男社長の部屋の近所)から、4階の整形外科病棟に移ってからの事と思われ、医師や看護婦の顔を見るのも嫌でしようがない環境下で、唯一の救いが世古口先生の笑顔であった。

 落第して不真面目が不良少年に化した翌年も病魔は再発し、再び半年の入院や手術によって再度の落第が決定し、荒む心にこの主治医の笑顔は唯一の救いであったが、病気は完治するどころか翌年にも再発し、高校の担任から退学を勧められる絶望的な状況と化していきました。

 一年生を3回もやり直す事態となり、その直後に入院や手術となった事から、私の人生の中でも最悪の事態とも思いますが、こんな時に出逢った高校の恩師とともに、世古口先生の笑顔が病気を自分の力で治す気力につながり、綱渡りのようでしたが高校を5年間で卒業する事となりました。

 さて、そんな時に「世古口先生の笑顔」や病院を忘れないと病気は治らないと思うようになり、自分勝手に通院も止めてしまった事から、人づてに他の病院で病院長になられたとは聞いていたものの、連絡先も知らずに今日に至ったわけですが、2年前に世古口先生と親しい人物が亡くなった事と、先生の年齢を考えると感謝の意を伝えるのは今しかないと本日思い立ち、住んでみえると記憶する刈谷市に存在する全ての「世古口さん」の電話番号を調べて連絡をしてみました。

 「たぶん、うちの主人だと思います」の一言に、実に三十数年ぶりに電話での会話が交わせましたが、恩師は80才になって医療の第一線は退いてみえるものの、半田市の老人保健施設の施設長として、週3回は顔を出してみえる事が判りました。

 多くの患者を治療した恩師にとっては一瞬の出会いかもしれないし、街角の開業医とは違い病気が治れば縁が消えてしまう病院の医師だけに、感謝する機会も無いままに年月が経過したと思います。「ところで、足の調子はどうなの?」と、私の具合を尋ねられ、改めて恩師の存在をありがたく思う一日となりました。
                                    3月6日の一言

ゆうゆうの里(世古口先生の挨拶)
http://www.i-koyu.or.jp/yuyunosato/goaisatu/goaisatu.html