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5月の書道展に出展した般若心経
 
 本日は6月の末に愛西市佐屋公民館で開催される「グループ茜合同展」に出展する書の作品を書き上げていますが、5月に茜屋で開いた書道展に般若心経を出展してしまったので、今回は中国後漢の崔子玉(さいしぎょく)の座右の銘を書き上げています。
 グループ茜合同展は今年で23回(年)目となり、津島市や海部郡の絵画や写真などを趣味とする100人近い芸術家によって続けられており、私は3年前より亡くなった恩師・長谷川丈夫先生の代わりに書を出展するようになりました。
 
 もっとも、恩師は書家の岡本白祷先生に師事した腕前ですが、私は主催者から「下手だから…」と書の出展を勧められており、恩師や恩師と一緒に書道展を開いていた故・木村輝夫さんの身代わり程度の出展です。
 
 手本は現在指導を受けている恩師・後藤毅先生に書いてもらいましたが、書の出典を崔子玉の座右の銘と伝えておらず、私も座右の銘の意味は記してあったものの、崔子玉の事は詳しく調べた事もありませんでした。
 
○書家としての空海(参照してください)
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書き込み中の崔子玉・座右の銘
崔瑗(77~142)
 字は子玉。安平の人。崔駰の子。賈逵に師事し、天文・暦数・易などに通じた。馬融や張衡と親しく交わった。四十余歳にして郡吏に任官した。のち車騎将軍・閻顕に招かれたが、閻顕が誅殺されると、彼も追放された。のち汲県の令をつとめて治績をあげ、済北の相となった。『崔瑗集』。
崔子玉(上)に関するHP http://www17.ocn.ne.jp/~ichitubo/zayuu.html
 
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 「さすがに弘法大師は良い座右の銘を残しているな」の恩師の一言に、「これは弘法大師が中国から持ち帰った一文で…」とは答えたものの、詳しくは説明ができないばかりか、「ところで、弘法大師は何歳まで生きたのか」の質問にも、「鶴田浩二と同じだったかナ…」と、62歳と正確に答えられません。
 
 そうやって考えてみると、四国遍路から半年も遠ざかっていることから、一時は暗記していたお寺の名前も順番に言えなくなっており、忙しいことは事実ですが、四国に行くだけが遍路ではなく、自宅にあっても精進できることがおろそかになっていた反省で、久しぶりに「先達教典」を開けました。
 
 一方で、空海(弘法大師)は宗教家としてばかりではなく、中国に入唐後は、書を韓方明に学び、王羲之顔真卿の書風の影響を受け、中国では五筆和尚といわれ、日本では入木道の祖と仰がれ、書流大師流と称された不出世の能書家であり三筆とも称されています。
 
 さて、書家としての空海について記し、大師を代表する『崔子玉座右銘』を書いて出展すると弘法大師の尊厳を傷つけてしまう未熟な腕前ですが、私の恩師も王義之や顔真卿の書を手本にされているので、私は基本に素直な作品にとどめたいと思います。
 
 4月からは書道展へ出展するために時間があれば書を書いていますが、私の書いた未熟な「般若心経」を欲しいと言われる人もあり、嬉しい気持ちと、未熟で恥ずかしい気持ちとなりますが、一番良いと思われる書を差し上げてしまうと、我が家には悪い書ばかりとなり、劣ると自覚する書を差し上げるのも末代までの恥書きとなるために、差し出す書の選択にも困りますが、私の書いた程度の書で喜んでもらえる事に感謝する気持ちが欠けていました。精進が必要です。
                                  6月3日の一言