本日は隣のお寺の永代経(尼寺)があり、例年は昼食を挟んで午後も供養と説教が続きますが、住職が高齢による体力減退により、午前中だけで午後は中止となったものの、参拝者の名残が尽きず食事が長引き、裏方の我々の昼食が終わったのは2時近くなっていました。
私は平成5年に父親が亡くなった年の秋から受付に座るようになりましたが、当時は高齢となった参拝客の顔と名前が判らず覚えるのに必死で、集まったお金の会計が合わずに必死で金銭の違いを追求していました。
当時の受付は、私以外に年寄りの3人のお爺さんと一緒でしたが、3人は受付で参拝客に菓子を渡して話しているばかりで、ほとんどの参拝客が紙幣をそのまま渡される事から、誰からもらったか判らないのが当然で、金額が合わなくても「これだけしか無いから…」と、判らなくても当然の受付でした。
3人は私の父親より年長者で、3人が亡くなった後に現在の婦人(現在は80近い)が加わり、昨年から私より2才上の男性が加わっていますが、最近は高齢者が亡くなった後に訪れる後継者の顔と名前が判らず、私がいないと受付と会計が出来なくなってきました。
ただし、最近はお金を封筒(香典袋)に入れて参拝されることから、会計処理は間違いがなくなり、お金が合わずに間違い探しに要する時間は無くなりました。
「おい、ウチは毎年3月末の日曜日と決まっているだろう」
「そうだけど、隣のお寺のことだから…」
「隣は行って、ウチは来れないか」
「… … …」
本日は私の叔父のお寺でも永代経が行われており、私だけでなく家内も隣のお寺の年番となっている事から、母親が代理で参拝しているものの、叔父にとっては在所の跡取である私が来ないことに不満がありありです。
先週には義母の葬儀がありましたが、葬儀より議会日程を優先して葬儀を欠席し、今回は親族の叔父のお寺の永代経を欠席して隣のお寺の永代経に行くという、親族にとっては理不尽な行動が続きました。
叔父のお寺が3月末の日曜日に永代経を行う事は周りのお寺も知っているものの、同じ浄土宗でも旦那寺の叔父たちと、尼寺の隣のお寺とは集まる僧侶が違う事から、こんなバッティングも起こるものと思われます。
もっとも、午後には小さくなって叔父の家に入り込み、僧侶の説法を聞いていましたが、何も手伝いもしない引け目から、帰宅する親族と母親を送る名目で一緒に退散してきたことから、しばらくは気まずい雰囲気が残ります。
3月27日の一言








