本日は孫の定期診断のため、名古屋市北区にある西部医療センターまで、娘と孫のアッシー君で走りましたが、3年前の出産の際に難産で孫が城北病院に転送されたのが縁で、その後大病院に変身した西部医療センターに引き継がれて、定期的に診察を受けています。
 娘夫婦や孫は医療や制度面で、津島市とは格段に違う高いサービスを受けており、このままでは間違いなく地元に戻って来いとは言えませんし、わざわざ低い行政サービスの津島市へ帰って来るはずもありません。
 
名古屋市立西部医療センター http://www.west-medical-center.city.nagoya.jp/
 
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 添付した写真は、昨日の上高地からの帰りに立ち寄った『道の駅・明宝』の正面に建てられた名馬『磨墨(するすみ)』の像で、山に沈む太陽の輝きを背景に勇ましく現代に伝承されていました。
 
参考: 岐阜は名馬の産地 http://www.ccn.aitai.ne.jp/~oken/page025.html
 
 もっとも、名馬『磨墨』の伝説や墓は勿論のこと、磨墨生誕の地は全国に点在しており、岐阜県の郡上地方が生誕地かどうかも正確な事は判りませんが、当地方には約800年前に明宝で生誕し、愛知県の尾州羽黒(現在の犬山市)で没したと伝えられてきました。
 
 鎌倉時代を開いた源頼朝の愛馬となり、梶原源太景季に賜(たまわ)って、宇治川の先陣争い(1184年)で天下にその名を知られた名馬が『磨墨』で、駿河から来た墨のように黒い馬、という意味から「駿(する)墨(すみ)」、或いは摺(す)った墨のように黒いから「摺(する)墨(すみ)」と頼朝公が名付けられたと伝わります。
 
 さて、世の中が不景気のまま低迷し、安い商品が当り前の社会となり、このような立派な像が建てられるような余裕も無くなっていますが、後世に残せるような遺徳や美談も減っており、地域の一体感も無くなってきたように感じられます。
 
 太平洋戦争で亡くなった地元の元日本兵の名前を刻む顕彰碑も、公の施設の改修や改築に併せて居場所を追われ、道端に置かれていた「お地蔵様」ですら移転する世の中で、このような大きな石碑が残されている事は、当り前のように眺めますが、当り前とは思えない世の中になってきました。
 
                               11月16日の一言