本日は昨日の一言に記したように、本日から初出勤となる三男を自転車や荷物とともに桑名市の勤務先まで送り届けました。三男は何事もないように車を降りて行きましたが、僅か40分で到着する事から、早く我が家に戻ってきて欲しいものです。
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 桑名市からそのまま戻るのも味気ない事から、寄り道をして木曽三川公園の隣にある「治水神社」を訪れましたが、学生時代には家内と毎週のように訪れていた場所ですが、懐かしさと同時に、現代のように建設機器が全く無かった江戸時代に多くの人々の犠牲によって完成した「千本松原」の治水工事の大変さが偲ばれてきました。
 
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 現在は治水神社の裏に大きな展望台のあるタワーがたち、週末は多くの家族連れや観光客が訪れる名所となっていますが、江戸時代にはこの辺りの河川が度々氾濫し、多くの人々が犠牲となっていた事から、幕府は薩摩藩に命じて長良川と揖斐川の堤防を造らせました。
 
 「治水神社」は、薩摩藩家老平田靱負(ひらたゆきえ)を祭神として薩摩藩士84名を祀る神社です。それまで木曽川を含めた三川は、度々氾濫を起こして多くの犠牲者を出していましたが、江戸中期の宝暦4(1754)年、江戸幕府は薩摩藩主島津重年に木曾三山川の治水工事を命じ、油島の締め切り工事などを行わせた。この工事の完成後に薩摩藩士によって植えられたのが千本松原として現在まで残されてきました。
 
詳しい事は下記を参照して下さい
治水神社・千本松原 http://washimo-web.jp/Trip/Chisui/chisui.htm
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 治水神社の西側には、水上レストランが浮かべられ、多くのレジャー用ボートが係留されており、北側の三川公園では年中イベントが催されて、各地より多くの観光客が訪れています。
 
 揖斐川の西には養老山脈を背景にして、のどかな田園風景が続きますが、今から300年前には洪水によって大変危険な場所だった事と、遥か遠くの鹿児島県に家族を残したまま工事の犠牲者となった先人の存在を後世まで伝えていく責務も実感させられました。
 
 さて、昨年5月の一言に、私の父親とは生き別れになっていた祖父の因縁を記しましたが、その祖父の実家は山並みの南にある多度大社の後方に位置しており、昭和の初期にはこの辺りを通って我が家へ来ていた可能性も考えながら堤から眺めていました。
 
昨年5月8日私の一言 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/45033789.html
 
 三男の勤務地が桑名市になった事で、しばらくはこの辺りを通る機会が増えそうですが、旧知の人々も存在する事から、三男の親離れを良い機会ととらえて各地へ足を延ばしてみたいと考えています。
 
                                  4月2日の一言