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 本日は「浪漫亭砂九(ろまんていすなっく)」こと、 纐纈(こうけつ)彰良さんの命日で、飲酒運転の車にぶつけられ、亡くなってから6年が経過してしまいました。
 
 砂九さんは、落語家に憧れて関西大学に進学し、桂三枝さんが初代学長を務めた落語大学(落研)の学長を務めたものの、親の家業を引き継ぐために名古屋に帰り、アマチュアの社会人落語として当地方で活躍し、津島市でも多くの落語会に参加しました。現在の津島市での社会人落語の礎を彼は作りました。
 
 私と出逢った日時は不明ですが、我家で平成16年2月に初めて落語会を開いており、私の主催した「まちかど座談会」では36回出演し、「ギャラは一切受け取らない」との約束で、一年に一度だけ正月に京都の日本酒「雪紫」を1本渡していました。
 
 自身のホームページの中に、私を「私設マネージャー」と記し、「津島市会議員だって。ちょっとかための真面目人間」と紹介してくれていましたが、しばらくは残されていたホームページも中身がなくなっており、当時の記録がないと記憶も薄れていきます。
  
平成18年11月26日の一言
 浪漫亭砂九と永遠の別れ http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/7408415.html
 
 砂九さんとは、「仕事に区切りをつけてプロになる」との話から、かばん持ちで付いていく話もしており、事故にさえ遭遇しなければ、私と一緒に落語会に走り、プロになる話も現実問題になっていたのかもしれません。
 
 
 
 私より3才若い砂九さんの事故死は、私にとっては大きなショックとなり、落語と一緒に政治報告会で地域を廻っていたことから、いつかは座談会を再開しようと思いながらも未だに開催する気持ちが湧いてきません。
 
 今にして思えば、私は彼の「私設マネージャー」と記されていたものの、私にとっては良き理解者として「応援団長」のような存在だったのかもしれません。私自身にリタイヤする年齢が近づき、本音で語れるはずの人間がいない現実と、亡くなって6年もの歳月が経過している現実とが交差します。
 
 本日は過去に記した一言を読み直し、失われていく「浪漫亭砂九」の記憶をよみがえらせたいと思います。
 
                                      11月24日の一言