
愛西市千引町にある奥津社
津島市と隣接する愛西市に千引という地域があり、津島市の葉苅町と隣接していることから町内までは入らないものの、連日のように道路を通過していますが、本日は携帯電話がかかってきた事から、集会所の駐車場(下の写真中央)に車を停めました。



普段であればこのまま用件が済みしだい車を走らせますが、集会所の横に立つ建物の扉が開いており、中に石仏が見えたことから車を降りて覗いたところ、石仏は観音様で33体が鎮座しており、私は野辺に置かれたお地蔵様を集積したものと思っていたのでびっくりとしました。
私の住む町内では、これまで2ヶ所の観音様の維持管理を浄土宗の檀家で護ってきたものの、今後の管理が難しいと町内会に維持管理を依頼したいとの声があり、講組の解散を希望する声もあるため、立派な観音堂の存在に驚かされました。
予備知識もないままの訪問で、勝手な推測は禁物かもしれませんが、観音堂が集会所の横に存在していることから、かつて存在した観音堂か無住となったお寺の跡に集会所が建てられ、町内で維持管理されているのかも知れません。※あくまで私の勝手な推測です。
さて、この近くの小高い丘に奥津社(神社)が存在し、一説によれば愛知県で一番旧い古墳とも云われていることから、そのままついでに訪れましたが、鎮座は四世紀と伝わっており、低湿地帯に唯一小高く築かれた丘の上に建つ本殿前に立って、今から千五百年前の景色を想定して南方の海(今は見えませんが)を眺めてみました。
この古墳から発見された三角縁神獣鏡がかつては社殿に奉られていましたが、現在は名古屋市の熱田神宮に保存されていると記されています。
畿内の大和朝廷と当地方の関係を裏づける発見ですが、この本殿の下にそのまま眠っている歴史的資料がある可能性を考えると夢が膨らみます。
私の父親は幼少の頃に母親を交通事故で亡くし、「口減らし」のためお寺に預けられた叔父が逃げ帰ってくると、祖母と兄弟が揃って千引の橋まで叔父を送り、泣いて別れた叔父がお寺に入っていくのを確認して家に戻ったようです。
まさしく、昭和の初めに我家の先人が悲しい記憶を蓄積した場所が、奥津社から見える場所(2階建ての無い昭和初期には)にあり、我が家の先人は奥津社が古墳であったことや、当地方が尾張地方でも有数の権力者が存在した場所とも知らぬままに死んでいった事、かつては叔父が預けられた津島市の長福寺も見えたと考えると、人間が勝手に決めた市町の境界線によって、無関心で走り抜けていく自分を反省する一日ともなりました。
昨日に続き、本日も一日中家を空けておりましたが、明日は孫の健康診断に行く娘のアッシー君を約束しています。
子供は親の近くにあって欲しいを持論としてきましたが、名古屋市の医療体制や子供に対するサービス面と津島市の大きな格差を実感させられ、津島市に帰ってこいとは言えない現実と、同じように税金を支払っても津島市民の受けるサービスの低さに議員としての無念さを感じながらのアッシー君となります。
4月10日の一言








