
捨我精進 辨匡
私の事務所の奥に飾ってある額で、「捨我精進」と記された書ですが、揮毫されたのは椎尾 辨匡(しいお べんきょう)という宗教家の手による、我を捨てて精進せよとの意味で、長年名古屋の東海学園の倉庫で埃と雨水に打たれて眠っていたものを、私のために叔父が持ち帰り、京都の表装屋さんに出して表装しなおしたものです。
椎尾 辨匡さんの最盛期には、「1字20万円」と言われた書だったようで、宗教家は亡くなると字の価値も下がると聞いたことがありますが、私が事務所を新築した際に叔父が記念に贈ってくれた貴重な書でもあります。
椎尾 辨匡(しいお べんきょう、1876年7月6日 - 1971年4月7日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶・政治家。大正大学学長や大本山増上寺法主などを歴任した。
名古屋円福寺住職の子として生まれ、13歳で得度。東京帝国大学を卒業後、宗教大学(後の大正大学)・日本大学・早稲田大学などで仏教学の講義を担当。1913年に東海中学校校長となり、1922年に仏教運動として共生運動を始める。1926年に大正大学教授となり、学長を3度経験(第6代・第9代・第14代)。僧職の傍ら、1928年の総選挙に愛知1区から立候補し当選し、衆議院議員を3期務めた。
1945年には増上寺法主となり、戦災で大打撃を受けた寺の復興に当たった。また東海学園理事長を務め、1963年に開学した東海学園女子短期大学(現東海学園大学)の学長に就いた。
最近になり、浄土宗のキャッチフレーズとなっている、「法然共生(ともいき)」の共生が椎尾上人の残された言葉で、椎尾上人は「共生」という言葉を、法然上人が師と仰いだ中国唐の時代の善導大師の『往生礼讃』という書物の中の「願わくは諸の衆生と共に安楽国に往生せん」というものから引用されていたようです。
椎尾上人の共生の理念は、人は時々刻々常に生まれ変わり、臨終の夕べにはもっともこの世における生命の完成された姿で浄土往生を迎えることになると表現されています。
叔父は東海高校から大正大学に進んだ浄土宗の僧侶で、東京のお寺に住み込んで大学に通っていたことから、椎尾上人が法主となっていた東京芝の増上寺から頂いた大正天皇にまつわる三石(左の手のひらの石)も私の手元で家宝となっています。 もっとも、我家に届いた当時(私の高校時代)は3個の石が存在したものの、20年ほど前には2個になり、今では2個が行方不明で、この1個だけしか存在しません(家中の何処かには存在しているはずですが)。

右に添付した写真が3個の石の但し書きで、右側の茶色の封筒には、「大正天皇 九條家、御賜三石入り 道重信教大僧正 御書付ヶ添付」と書かれ、当初は3個の石が入っていました。
添付されていた「御書付」が左側の筆書きで、「三石 ○? 大正天皇相州葉山海浜二於テ 拾セ玉 ○?石也 九條鶴殿二参上し節 拙僧頂キタルモノナリ ○?而○?二記シ置クモノ也 大本山増上寺七十九世 大僧正信教謹書」と記されています。
落款が押されておりませんが、頂いた当時の話では、「欲しかったら増上寺に行けば筆跡で判るから…」と言われたものの、最近の「なんでも鑑定団」のテレビ流に言えば残念なことかもしれません。
ただし、2個が行方不明とは言え、この1個の石は確実に葉山の海岸で大正天皇の手によって拾われた石であり、その石が私の手の中にあると思うと、大正天皇は勿論ですが、石は永遠にそのまま残っていくことに感動させられます。
戦後60年が経過し、終戦直後に縁あって叔父の手元にきた大正天皇の石が、我家で歴史を重ねてきたことと、当時は貴重だった椎尾上人の書が、学校の倉庫で埃にまみれて存在すら忘れられ、叔父によって再生されて、我家の事務所に掲げられている現実を考えると、時間の経過は一瞬で、今度はこんな但し書きを私が残していく必要に迫られていることを実感させられます。
11月11日の一言
追伸
本日は市役所で定期監査の一日となりましたが、木曜日と金曜日も市役所で同様の生活となり、明日と明後日は個人的に山積したプライベートの仕事を夜まで続けないと、週末の四国遍路に出発もできません。








