「ところで、何処からですか?」
「越津だよ」
「えっ、越津ですか?」
「越津から柳原に出てここへ」
「越津の何処ですか」
「〇〇、〇〇…」
「〇〇さんですか、私も越津です」
「何処?」
本日は新しく建てられた分譲住宅の中に、私と同じ「大鹿」の表札を見つけて、偶然にも車で帰宅されたご主人に話しかけると、私と同じ町内の出身者と判り、私の戦死した伯父の同級生であり、我家と同じ講組の大鹿家から出られた人と判りました。
大鹿という苗字は、私の住む愛知県津島市に多くあるものの、全国的には限られた地域しか存在せず、愛知県内の大鹿姓のお宅の出身地を聞くと、津島市がほとんどとなり、大鹿の本家と思われる「大大鹿」には三重県鈴鹿地方から出てきた古文書が存在します。
この三重県の鈴鹿地方には、大鹿三宅神社という古墳や、国分寺周辺に大鹿廃寺など古代の伊勢地方に大鹿氏という大きな豪族が存在したことと、この大鹿氏の娘が第30代敏達天皇に嫁ぎ、生み残した皇女が第34代舒明天皇の母親にあたることなどが歴史に綴られています。
さて、そんな歴史上の話ではありませんが、名古屋市の人々には大鹿の名前には「先生」の印象が強く、このことは津島市から医師や教師となって名古屋に出て行った人々によるもので、関東地方の大鹿さんのルーツを訪ねても愛知県の場合が多いと思われます。
「大鹿は三宅から来た」の一言は、私が少年時代に村の古老から聞いた言葉ですが、この古老は三宅の地名のある平和町(現稲沢市)と思っておられたものの、鈴鹿市に「大鹿三宅神社」の古墳が存在することから、大鹿の家々には「三宅から来た」と代々言い伝えられてきたものと思われます。
本日お会いした大鹿さんは、伯父と同じ大正12年か11年の生れで、当時の同級生もほとんど他界されており、私自身が横井庄一さんの肉親として、横井さんが元々は我家の「大鹿庄一」と判ってから、大鹿姓について研究したり家系を調べていたことから判ったものの、親族以外にはこんな会話はできなくなっていきます。
最近は大鹿姓について記録したり、古文書を見ることも無くなっており、過去に収集した詩人の「金子光晴」など、大鹿姓の先人の記録や、史実についても家庭内の何処かに眠らせていることにも気づかされる一日となりました。
もっとも、帰宅後に本日お会いした大鹿さんの話をすると、母親は顔も判っている様子で、私の生まれた当時は、町内から嫁がれた人々や親族について当り前のように知っていたことも実感させられました。
12月23日の一言








