
本日書店を訪れたところ、一週間前に売り切れとなっていた戦争映画のDVDが置いてあり、購入しようと取り上げて確認すると、出演者に「鶴田浩二」さんの名前がなく、見直していると既に2号の「日本海大海戦」となっていました。
ただし、横を見ると創刊号も置いてあり、同行した家内の財布が開かないため、自分の小遣い銭で購入(990円)して、売り切れで諦めていた「連合艦隊」のDVDを手にすることができました。
私が尊敬する「鶴田浩二」さんは、この映画は主役ではなく特別出演ですが、沖縄作戦で第二艦隊司令長官を務めた伊藤整一海軍大将役を演じ、アメリカ航空艦隊艦載機による総攻撃によって撃沈される戦艦大和とともに海に沈んでいきます。
連合艦隊 東宝映画 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
映画「連合艦隊」十の泣き所
『連合艦隊』 主題歌 谷村新司 『群青』
私はこの映画のビデオテープを持っていますが、最近と言うよりも15年ほどは見ておらず、久しぶりにパソコンによる鑑賞となったものの、昭和56年当時としては破格の10億円の製作費をかけ、興行収入・動員数ともに第1位を記録した映画だけに迫力が違います。
キャスト
真珠湾攻撃・ミッドウェイ作戦
レイテ作戦
武田上整曹(瑞鶴飛行隊整備士長): 長門裕之
沖縄作戦
本郷家
本郷英一(瑞鶴艦上爆撃機隊の隊長。海軍大尉): 永島敏行
本郷眞二(瑞鶴、のちに大和の航海士。海軍少尉): 金田賢一
本郷直樹(奈良博物館館長): 森繁久彌
本郷歌子(英一・眞二の母): 奈良岡朋子
本郷陽子(英一の婚約者、後に眞二の妻): 古手川祐子
小田切家
小田切武市(海軍兵曹長。大和工作科分隊班長): 財津一郎
小田切照代(正人の姉): 友里千賀子
小田切美代(正人の妹): 里見奈保(鶴田さやか)
添付したキャストを見ただけで、歴史に名を残す大スターが揃う豪華メンバーであることが判りますが、私がビデオテープを入手して鑑賞した頃と違い、現代社会はネット情報が充実している事から、俳優の経歴だけでなく、演じた実在した人々の経歴も判る事から、当時の戦況や歴史背景も見ながら鑑賞すると映画の奥行きが深くなっていきます。
久しぶりの鑑賞となりましたが、時間がないため鶴田浩二さんが登場する後半しか見ておりませんが、撃沈された大和の艦内は浸水した水が戦死した兵士の血で真っ赤となり、どす黒い油が浮き、現実と変わらぬような臨場感ですが、パソコン画面でなく大型のテレビ画面で見れば更に感動は増幅されると思います。
一方で、映画のラストを主題歌「群青」が見事に引き立てますが、この映画のために作られたと言ってもよいような感動を生みます。
さて、パソコン画面でも涙で溢れますが、勝手な借り物としたグーブログ「連合艦隊十の泣き所」を参考にされれば更に感動となり、この映画で鶴田浩二さんの三女の「小野(鶴田)さやか」さんが出演していることを知り、再度見直したいと思う夜となりました。
この一言の満10年までのカウントダウン、あと6日
2月6日の一言
追伸 ウィキペディアから削除されていたので、記録として残します。
あらすじ
やがて、ドイツの対ソ宣戦布告や日本軍の南部仏印(現在のベトナム)への進出、そして、それに対するアメリカの対日制裁置としての日本への資源の禁輸などが始まると、世界情勢は日毎に緊迫の度を強め、対米戦争の予感は現実味を帯びてきた。日米協調派である山本は、もしも、日米開戦となった場合でも、早期和平を実現させるために、アメリカ太平洋艦隊の本拠地であるハワイ・オアフ島の真珠湾を空母機動部隊により奇襲するという作戦計画を立てた。
やがて、日米交渉が決裂し、1941年12月8日、真珠湾攻撃が行われた。英一は、空母瑞鶴飛行隊の九九式艦上爆撃機部隊の搭乗員の一員として真珠湾攻撃に参加し、真珠湾に停泊中の米太平洋艦隊が壊滅的打撃を受けるのを興奮の面持ちで見つめていたが、そこに空母の影は1隻もなかった。
同じ頃、5年の歳月と造船技術の粋を集めて、極秘のうちに建造されていた戦艦大和が竣工した。翌1942年2月、大和は連合艦隊の旗艦となり、山本長官以下、連合艦隊司令部が乗り組んだ。大和の乗組員の中には、予備役から応召、大和の工作科分隊士として海軍に復職した海軍兵曹長、武市の姿もあった。
日本軍の破竹の快進撃が続く中、同年4月18日の米空母ホーネットから発進したB-25爆撃機の編隊による日本本土初空襲の衝撃を受けた軍令部は、空母を含む米太平洋艦隊の残存部隊を全滅させるという山本のミッドウェー攻略作戦案を了承し、5月下旬、連合艦隊の主力部隊は、ミッドウェー島沖に向けて出撃した。しかし、6月5日・6日のミッドウェー海戦では、事前に日本軍側の作戦情報を入手していた米軍の待ち伏せにより、日本海軍は主力空母4隻を失い、ミッドウェー攻略作戦は大失敗に終わり、戦局は、ジリ貧の消耗戦へと突入していった………。
解説[編集]
本作は、日米開戦前年の日独伊三国軍事同盟の締結から始まり、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、ソロモン諸島攻防戦、山本五十六の戦死、レイテ沖海戦などを経て、沖縄水上特攻作戦に向かった戦艦大和が坊ノ岬沖海空戦で壮絶な最期を遂げるまでの、太平洋戦争における連合艦隊の興亡の光と影を、ダイジェストながらも編年史として描いた初めての作品であり、東宝の、そして、松林宗恵監督自身の戦争映画の集大成として製作された映画[2]。世界第3位の規模を誇った旧日本海軍の連合艦隊が、1940年の日独伊三国同盟調印により第二次世界大戦=太平洋戦争(大東亜戦争)へと引きずり込まれ、約5年後の戦艦大和撃沈によって、その終焉を迎えるに至るまでの軌跡を、市井の2つの家族を中心にして描いた作品である。レイテ沖海戦は、日本の戦争映画では本作で初めて映像化された。
それまでの太平洋戦争をテーマにした戦争映画では、山本五十六などのような歴史に名を残す軍人を描いたものが多かったが、本作は「本郷家」と「小田切家」という、連合艦隊に関わった2つの架空の家族を中心にして、この時代と世相を描いている。実質的な主役は、本郷英一、本郷眞二、小田切武市、小田切正人の4人である。
本作で、この「市井の目から見た戦争映画」という様式が取られた背景には、監督の松林宗恵と脚本家の須崎勝彌に共通する、ある思い入れが介在している。両者は、ともに旧海軍の出身だが、彼らが過去に東宝で製作に関わった戦争映画は、いずれも英雄譚としての性格が強いものばかりだった。そのため、かねてより、「現在の日本の繁栄は無名の英霊達の犠牲の上に成り立っているのではないか、息子達を戦場に送り出した父母の思いは如何だったのか?」という疑問を抱いていたのだという[3]。
製作費は、当時としては破格の10億円。劇場公開時の配給収入は約19億円(興行収入に換算すると32.3億円)で、1981年に公開された日本映画の中では、興行収入・動員数ともに第1位を記録し、大ヒット映画となった[4]。
特撮[編集]
この映画で使われた戦艦大和の模型は、石川島播磨重工業(現:IHI)の子会社によって9000万円の製作費を費やして縮尺1/20(13mサイズ)のものが作られた[2]。船体(木材や金属で作られていた過去の撮影用模型と異なり、FRPを使用[2])はIHIクラフトが、艦橋や煙突、砲塔やマストなどの上部構造物は東宝美術と東宝特殊美術(現・東宝映像美術)が製作し、1981年1月20日に完成し進水式が行なわれた。2005年に開館した呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)で1/10の模型が公開されるまでは、最大の大和の模型であった。この1/20の大和の模型は、小型漁船用の水冷ディーゼルエンジンを動力とし、船体内部に3人が入って時速6ノットで自力航行できただけでなく、火薬とラジコン装置を用いて46cm三連装主砲の発射シーンを再現することもできた[5]。船体の前方にも舵がついており、プール内で楽に回頭できるようになっている[2]。なお、坊ノ岬沖海戦の戦闘シーンのうち、遠景や、(ラストの)爆沈のシーンなどの撮影では、東宝特殊美術が中心になって製作した縮尺1/40の模型が使用された。
13mサイズの超大型のミニチュアが造られた最大の理由は、東宝撮影所敷地内の特撮用大プールではなく、外洋で撮影するためであった。しかし、この当時、船舶法などの関連法令の改正により、13mを超える(小型)船舶の海上での航行には、船舶への航海標識灯の設置、ならびに、船長や無線士の資格を持つ者が操船することなどが必要となっていて、結局、三浦半島沖での外洋ロケは見送られ、特撮用大プールでの撮影のみとなり、中野昭慶特技監督が思い描いたヘリコプターからの空撮は実現できなかった[6]。
空母瑞鶴についても、小型漁船用のディーゼルエンジンを動力とし、船体内部に1人が入って自力航行できる模型(船体は、大和の模型と同じく、FRP製で、飛行甲板や艦橋などは合板製)が東宝特殊美術で製作された。[7][8]
神奈川県茅ヶ崎市の柳島海岸に、瑞鶴の艦橋や飛行甲板、対空機銃などが実物大セットで再現された。また、東宝撮影所の敷地内には、大和の艦橋下部周りや、高角砲、シールド付の25mm三連装機銃が並ぶ船体中央部の最上甲板、1番副砲、さらに、艦橋最上部(防空指揮所、15m測距儀、21号電探)などが、実物大セットで再現された。東宝撮影所のスタジオ内には、瑞鶴の艦上機格納庫甲板や艦橋内部、ならびに、大和の第一艦橋内部や司令長官室などがセットで再現された。
本作のために製作された縮尺1/20の大和の模型は、撮影終了後に東武動物公園に寄贈され、直後にテレビドラマ[9]の撮影にも使用された。その後、船の科学館に譲渡されて長らく玄関脇に展示されていたが、2004年の年末に暴風雨によって横転し、上部構造物が損壊、修理不能と判断され解体・廃棄された。
本作で大和が初登場するシーンでは、これまで、ほとんどの映像作品で描かれることがなかった、2番・3番副砲を備えた最初期の艤装を復元している(なお、『連合艦隊』以前の東宝の特撮戦争映画で、最初期の艤装を再現した大和のミニチュア模型が実際に特撮シーンに登場した作品は、1968年の『連合艦隊司令長官 山本五十六』のみ。1960年の『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』の劇中の瀬戸内海の柱島泊地のシーンにおいて、1カットだけ登場する大和の模型(木製模型)は、ミッドウェー海戦の直前であるにも関わらず、レイテ沖海戦時の艤装であった。また、1953年の『太平洋の鷲』に登場する大和は、マット画処理により作製されたものである)。
本作での大和や瑞鶴などのミニチュア撮影は、あえて、波の縮尺を度外視して大きくした「磯波」で演出されている。これは、中野昭慶特技監督の、「迫力にこだわりたい」との意図によるものである。また、背景の空(ホリゾントに描かれたもの)が曇天なのも、悲劇性を強調してのものであった。ラストシーンでの大和の大爆発(爆沈)シーンでは、大和の艦橋を凌駕する派手な爆発の炎が話題となったが、この爆発の撮影は、一度目のものは、中野監督が「爆発は良いが波が気に入らない」ということとなったため、改めて撮り直され、「磯波」で録り直した2テイク目が採用された。当時、「この爆発の火柱が大き過ぎるのではないか」と指摘があったが、中野監督は、「それは間違い。実際は、あんなものじゃなく、船の2倍くらいの大きな火柱が上がっている」とコメントしている。この大爆発(爆沈)シーンには乗組員の描写が無いが、これも中野監督によると、「大和が主役だから」との趣旨による[10]。








