
本日は娘の依頼で、朝から孫を預かっており、孫と一緒に買い物や桜の花見などを目標に出かけましたが、私の助手席は相棒リマの指定席となっており、車を走らせた時には喜んでいたものの、本日の主役は相棒ではなく、珈琲屋からホームセンター、スーパーマーケットと、我々が車を離れる度にストレスを溜めまくる一日となってしまいました。
家内の話では、車で出かけると解ったときは喜んでいたようですが、孫が一緒だと解ると嫌そうな表情をしたらしく、出かけるのは好きですが、助手席の留守番役となり、私のいない運転席で叫んで寂しく待ち続ける相棒でしたが、最近は孫が助手席に座りたがるため、助手席だけは死守して喜んでいる姿を添付しました。
創業1400年、金剛組に異変 「最古の企業」当主不在
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とりあえず、今年の儀式は金剛組相談役の植松襄一(じょういち)さん(71)が、前例のない「正大工代務者」となって挙行した。19歳で入社し、四天王寺から「権大工(ごんだいく)」(正大工の補佐役)の称号を拝受している。「伝統ある儀式を続けられてほっとした」と話すが、当主不在は長引く可能性がある。
金剛組や四天王寺に具体的な記録が残る17世紀以降、金剛家が当主不在で「手斧始め」を迎えた例はない。だが、後継者難や経営危機は何度もあった。
亡くなった利隆さんが病床で完成させた著書「創業一四〇〇年」によると、江戸時代、病弱だった33代目は26歳で自ら正大工を退き、継いだ34代目も「職道不熟」で退任に追い込まれ、分家からの養子でしのいだ。明治時代、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で四天王寺が寺領を失うと、お抱え宮大工の扶持(ふち)米2石3斗もなくなり、経営が悪化。他の社寺の仕事をもらってしのいだ。
1932年、37代が後継者がないまま先祖の墓前で自殺。急きょ、38代目となったのが妻の故・よしえさんだった。48年、福井県の建設会社で働いていた利隆さんを婿養子に迎えて後継者のめどを付けると、55年には株式会社化して経営を再建。社寺の鉄筋コンクリート造りに素早く対応するなど、「なにわの女棟梁(とうりょう)」として名をはせた。
しかし、マンションなども手がけたバブル期の拡張主義が遠因となり、2005年に経営危機に直面。06年に中堅ゼネコン高松建設(大阪市)の支援で子会社となった。その際、社長だった利隆さんの一人息子が責任を取って退社し、金剛家が経営から退いたことが、今回の当主不在の事態につながった。
ただ関係者は、金剛家からの正大工を期待している。高松建設から金剛組に転じた刀根健一社長(59)は「120人の専属宮大工には、伝統ある『金剛家の弟子』との自負がある。社寺との信頼関係や精神面で金剛家が必要だ」と話す。
四天王寺の吉田明良(めいりょう)・総務部長(46)も「寺は災害や戦災で7回失われたが、金剛家のおかげで再建できた。1400年の付き合い。いつかまた正大工を担ってほしい」と願う。
相談役の植松さんは「当主不在は長い歴史に比べたらほんの1ページ。ふさわしい40代目が現れるまで技術と伝統を預かっていく」と決意している。
私は学生時代から朝日新聞販売店を経営していましたが、平成11年に選挙に立候補することになり、政治との兼業が禁止されていたため廃業することになり、23年間で看板を降ろしましたが、自分の仕事を次世代に継がせるのも大変なのに、千四百年も歴史を刻む企業の存在には驚きの一言しか思い浮かびません。
聖徳太子の命で四天王寺を建立して以来、千四百年も継承されてきた「日本最古の企業」ともいわれる「金剛組」(大阪市天王寺区)が、昨年10月に39代目当主金剛利隆さんが後継者不在のまま89歳で死去してしまったとの朝日新聞記事です。
金剛組は578年 初代・金剛重光が百済から渡来して創業し、593年に聖徳太子の命で四天王寺を建立したとあるが、日本書紀に「百済に行った使者が僧や造寺工を連れ帰り、難波(大阪)に住まわせた」という趣旨の記述があり、金剛組の系図は「用明天皇の皇太子(聖徳太子)が金剛、早水、永路の3人の大工を召して四天王寺を建立した」と記されており、天皇家と遜色ない歴史を宮大工として残しているだけに、金剛家の血脈で40代目を継承してもらいたいものです。
3月29日の一言








