
三河三弘法・蜜蔵院(刈谷市)大師堂で
本日は、10日前に歩き遍路として残してあった知多半島新四国霊場について、足を痛めた同行者が存在したことから、私の車にて結願を果たし、名古屋の八事山興正寺と、三河三弘法(知立市と刈谷市)を巡拝することが急遽決まりました。
朝7時に津島市を出発し、名古屋駅と北区各地でメンバーを拾い、最初に八事の興正寺へ参拝し、東海市の第86番寺から、85番、84番、5番(大府市)と巡拝し、午前11時前に第88番円通寺で結願となりました。
こんなことなら、前回の巡拝で納経時間締め切りまで残した1時間半を有効に巡拝しておれば、前回で結願していた可能性も高いと思ったものの、残していたことから本日2人の同行者が増えたことも考えると結果吉となりました。
知多半島を結願後に、知立市の遍照院に走り、本堂に上がって参拝し、境内下の戒壇巡りに入り、本堂の奥にある岩屋に篭り般若心経を唱え続けましたが、この岩屋には弘法会の先輩先達が篭って修業されたとの話で、同行者は先人の思い出話に花を咲かせていました。
知立市の遍照院の近くには、多くの仏壇や仏具店が軒を連ね、我々は山門の隣にある老舗料理店で昼食となり、私には自分では絶対注文しないような高価な「うなぎ定食」が特別に注文してもらえました。有り難うございました。
知立の弘法さんのおかげで、周辺の住民が商いで潤っている姿は、京都の八坂神社と対比される津島神社の門前町と言われながら、地元住民が何も恩恵を得ていない津島市とは違い、毎月の縁日には参拝客が列をなすとの話をうらやましく思いました。
我々は知立市から刈谷市に入り、密蔵院と西福院、井戸寺に参拝し、国道一号線から名古屋市に戻り、午後5時には津島市に帰ることができました。
さて、全国に弘法大師に関係する伝承は多く、全国各地に弘法大師の掘り当てた井戸や温泉が存在しているものの、現実には史実ではない伝承がほとんどで、弘法大師が全国各地の人々に親しまれた有名税とも思いますが、知多半島でも今年は「1200年」ののぼりが張られており、弘法大師が知多半島に上陸して1200年と語られています。
見返弘法大師と三弘法のいわれ
弘仁年間(810年代)に、弘法大師が関東地方に御巡錫の途中、当地へ約1ヶ月の間御逗留になり、布教に勤め衆生済度を実践され、佛道の社会的実践の場として当山を建立され、出立の際には庭前の赤目樫の木をもって御自身の座像を三体刻まれ、当山の御本尊とされたのであります。
知多四国八十八ヶ所霊場の由来書
弘仁5(814)年、弘法大師が諸国行脚の途中、三河から舟路で知多半島を南下、南知多町大井聖崎に御上陸され、同地医王寺と同町山海岩屋寺に御留錫、護摩修法された後、野間を経由し、陸路北上されて伊勢路に向かわれたという。
添付した書き込みは、三河三弘法と、知多四国八十八ヶ所霊場会がネット発信している内容ですが、ここに記された弘仁5年(814年)とか810年代は勿論ですが、「大同3年(808年)に大師が百日の護摩を修業して、自分の像を岩窟に納めた」と言う知多半島岩屋寺や、「弘仁5年に弘法大師が7日間護摩修業した」と言う医王寺など、弘法大師の略年譜とは違う発信が堂々と発信されていることに違和感を覚えずにはおれません。
これも弘法大師のご遺徳として寛容でありたいと思うものの、問題は寺院を訪れる観光客に、弘法大師が知多半島で長期間修業されたという事実とは違う話が、さも本当の史実のように僧侶の口から宣伝されている事から、私は知多半島の巡礼や弘法信仰を好意的には思えないばかりか、四国遍路の紛い物としか感じません。
しかしながら、今回同行している名古屋市北区の志賀弘法会の伝承者たちは、車中で般若心経を唱え、知多の霊場に建つ大師堂でも般若心経と光明真言、御宝号を声高々に読み上げており、巡礼中は買い物や買い食いも許されない参拝姿を見せつけられると、「これもありか」と思わされる一日になりました。
4月24日の一言








