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愛知県津島市百町の矢塚(矢落の社)
 
 旧七宝町(現あま市)の下田に、弓掛松という史跡があり、旧東海道の熱田と桑名間の海路を迂回する脇街道となる佐屋街道を、京都に向かう源義経が弓を掛けたという松があり、私は昭和48年に三代目と伝わる松をスライド写真に収めたことがありました。
 
 この時にも虫食いにより枯れかけでしたが、松が個人宅にあったことと、行政の文化遺産としての認識が希薄だったためまもなく枯れ、現存する松は適当に移植されたもので、歴史好きな人々から五代目の松と発信されています。
 
 この地から南西方向に向かって義経が射た弓矢が、百丁先まで飛んで落ちた場所が現在の津島市百町の地名になり、大正時代に発行された尾張名所図会には、落ちた場所に「矢落しの社」を建てたと記されています。
 
義経弓掛松
 下田村にあり。九朗判官ここより強弓を放ちて試みられけるに、百町を通りて其矢落ちたりしかば、其所を百町村と名づけ、そこに矢落の社を建てしといひ伝えへし古跡にして、今もなお松一株あり。是其時に弓をかけられし松とて、里人かくいひ伝えしなり。
                                      尾張名所図絵 大正8年発行
 
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 近くの八幡社に笹の茂みがあるため、ここを矢塚と勘違いしている人も多く、私も矢塚の正確な位置は本日まで確認したことがありませんでしたが、塚の周りの水田の所有者の方の案内によって訪れる機会に恵まれました。
 
 百町の矢塚は道路から入った水田の中にあり、細い畦道があるものの、農繁期は長靴を履いても入れそうにもないことと、場所と由来を示す掲示板や案内もないため訪れる人もなく、地元でもほとんどの人が存在すら知りません。

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 さて、矢塚(矢落の社)については、昭和14年に発行された「郷土研究神守」の中に、義経が下田の弓掛松周辺から放った遠矢の行程を住民に尋ねると、「百丁(10、9キロ)」と伝えたことを不思議に思い、探し出すと浜辺の平野家の庵室の地で発見し、老翁の風格を慕って2泊して語りあったと記され、その後この「矢落塚」の因縁から、「百丁」が「百町」と記すようになったと記録されています。矢塚については、この時の落ちた矢から根が生え、その竹は逆さに立って枝が下方に向いて出たと伝わります。
 
 源義経の真意はさておき、このときに持っていた蛭子の像一体を記念として老翁に与え、この像はこの地に再建された堂宇で大正2年に盗難にあうまで保存されていたことと、この百町には不思議な伝承も多く、元々が海岸線の浜辺で、水害により記録された書物も少ないことから今一度書き記すことが必要に思います。
 
 会報を配布するために地域を廻っていますが、本日は私の子供や家内を知る人と、まとまらない縁談について談笑し、私より10歳年長の先輩とは母校の昔話や恩師の思い出話に花が咲き、水路として舟を使った農作業にも話が及びました。
 矢塚を案内していただいた方は、私より2年先輩となり、部活の先輩でもありましたが、卒業以来初めての再会で、「大鹿君には厳しくしすぎたと反省している」と、私にとっては優しい先輩でしたが、意外な思いやりを頂いていたことも知りました。
 
            本日の体重 71、3キロ  徒歩数 1万365歩
                                      1月9日の一言