
津島神社御神木 大いちょう
津島神社の東側の鳥居から50メートル東側にある「大いちょう」で、樹齢は約4百年と言われていますが、この場所はかつて流れていた木曽川や佐屋川の支流「天王川」の西堤となり、津島神社のお旅所があったところです。
鎌倉時代から尾張地方の商都として、津島に存在した津島湊を中心に交易が行われており、織田信長もこの津島湊から火縄銃を入手し、全国に進出する足がかりとなった場所ですが、1785年(天明5年)に川がせき止められて入り江となり、1899年(明治32年)に佐屋川が廃川となり、現在は天王川公園として大きな池が残されています。 佐屋川廃川によって津島湊が無くなることは当時の大問題で、愛知県は日光川から運河を開削する計画を立てましたが、地元の大反対で運河は実現しなかったと記録されています。何故に…
同じことが、日本国有鉄道が関西線を建設するときにも起こり、当初予定されていた津島市を通過する計画が地元の反対もあり実現されませんでした。何故に…
明治20年代の話となりますが、関西線の桑名から名古屋間のルートは、桑名と名古屋を最短で結ぶ現在の線路と、弥富から津島を経由して名古屋に入る2案が計画されたものの、津島も誘致運動を起こす一方で、蒸気機関車から出る火の粉を嫌って反対する勢力もあり、結果的には合理的な最短ルートに決まりました。
ただし、現在の名鉄電車の中で一番歴史の古い「尾西鉄道設立」が計画され、関西線の桑名と名古屋間が開通した1895年(明治28年)の翌年に、弥富と一宮市を結ぶルートで鉄道が計画され、現在の津島市を本社として、地元の津島紡績の社長が初代社長に就任しています。
ちなみに、名古屋鉄道の前身となる愛知馬車鉄道の創立委員長となったのは、津島市に町制がひかれて初代町長となった岡本清三氏であることも、明治初期の津島の経済力とともに存在感を歴史にとどめています。
繊維産業が最盛期で、経済的にも豊かな津島市だったことから、自力で鉄道会社も設立する経済力があり、津島市を中心にした発想で津島市と一宮市を結ぶ尾西鉄道や、津島市と名古屋を結ぶ現在の名鉄津島線がしかれたものの、当時は津島市を中心に廻っていると考えた人も存在したかもしれません。
私が市議会議員になった当時、津島市の天王通り商店街の人から、商店街のある天王通りを、現在行き止まりとなっている名鉄津島駅のガード下を東に通り抜けられるようにして欲しいとの意見がありました。
議会で質問したことがありますが、実は昭和40年頃に現在の津島駅周辺の高架事業を進める中で、天王通りを駅東に延伸する計画もあったものの、駅を通り抜けることによって、商店街の顧客が駅東に奪われることを懸念し、強硬に反対する意見が多く、現在の状態となったことを当時の市長であった竹内節男氏から昭和60年頃に聞かされており、ほとんどの店が廃業してシャツター通りになった現在の商店街を見ると、50年とは言いませんが、せめて30年後くらいまでの将来像を考えないと街は寂れてしまいます。
津島市の歴史はこんなことの繰り返しです。本日は御神木の前に立ち、この地を大河が流れていたことと、ここに百間(約180メートル)と言われる「津島大橋」があり、この地に織田信長も立っていたと過去に想いをはせる一日となりました。
本日の体重 徒歩数 10190歩 間食あり
1月27日の一言








