
天候の悪さだけでなく、体調の悪さも空模様と同じで、明日にはマイクロバスを運転して奈良県の明日香への旅程を予定しているため、午前中に三男の接骨院で低周波や超音波治療器など理学療法機器と、息子の施術を受けて休息の一日となりました。
しかし、8月に上高地から帰って以来の不調が続き、まさにぐずつく天候のように風邪のような調子が続いて、休養しても快調にはならず、何かをすれば左腰が痛むため必要最低限の仕事のみの生活が続いています。
「どこか遠くに行きたい」のが口癖で、目的地のためには徹夜もいとわなかった私ですが、最近は運転するのが苦痛となり、外出は家内の車に同乗することが多くなり、先月に和歌山を訪れた時にも家内の手を借りました。 私に万が一の事態があったときのため、家内もマイクロバスを運転できる大型免許は持っているものの、10年近く運転させたことがなく、かつての私なら日帰り程度は何の心配もありませんでしたが、喜んで走って行くような元気はなくなりました。
さて、明日は明日香村を目的に走りますが、添付した「石舞台古墳」は、被葬者は明らかではありませんが、7世紀初頭の権力者で、大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父でもある蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
これまで何度となく訪れていますが、この古墳が造営された当時に、我々大鹿姓のもととなる伊勢の大鹿一族も朝廷に近い大きな存在て゜、大化の改新で中臣鎌足(のち藤原 鎌足・「藤原氏」の始祖)とともに、蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子(のちの天智天皇)は、伊勢の大鹿氏の血を継いだ舒明天皇の子供です。
第30代敏達天皇と采女・菟名子(うなこ、伊勢大鹿首小熊の女)の間に生まれた糠手姫皇女(ぬかでひめのみこ)の子供が第34代舒明天皇で、その子供が大化の改新の主役となったのが中大兄皇子、のちの天智天皇となります。
欽明天皇の後を継いだ敏達天皇は、伊勢の豪族・大鹿首(おおがのおびと)小熊の娘・菟名子夫人(うなこのおおとじ)を娶り、太姫皇女(またの名は桜井皇女)と糠手姫(あらてひめ)皇女(またの名は田村皇女。舒明天皇の母)をもうけた。大鹿首は中臣氏の同族であり、ここに中臣氏は大鹿首を介して天皇家の嫡流と姻戚関係を持つようになった。菟名子夫人は中臣系から出た最初の皇妃である。彼女が生んだ糠手姫皇女は、後に異母兄弟の忍坂彦人大兄皇子に嫁ぎ、田村皇子(舒明天皇)を生んでいる。
歴史の表舞台には出て来ない大鹿一族ですが、日本書紀や古文書から大鹿一族も中臣氏と同族で、大鹿の血をひく菟名子夫人が中臣系から出た最初の皇妃で、藤原氏の始祖となる中臣氏と天皇家との関係をとりもったことが記されています。
敏達天皇6年(577)、天皇は諸国に日祀部(ひのまつりべ)を設定した。日祀部は太陽神を祀る祭祀にかかわる部民で、このころ天皇家の太陽神崇拝がたかまり、もともと伊勢の地方的太陽神にすぎなかった天照大神が天皇家の厚い崇敬を受けて皇祖神化していったものと思われる。日祀部の設置に関しては、宮廷祭官の筆頭であった中臣氏と伊勢出身の大鹿氏および菟名子夫人が、天皇に強く勧めたことが容易に想像できる。
小学校や中学、高校で学んだ歴史上に「大化の改新」があったことは誰でも知っていることですが、今から1千500年前の大きな政治改革を行った中大兄皇子が天智天皇である認識も薄く、ましてや大鹿の血をひく先人との意識も全くありませんでした。
大鹿一族の歴史を記した書籍はなく、古文書も伊勢の皇學館大学や、大鹿首の存在した鈴鹿市などで研究や発信もされていますが、知れば知るほど興味はつきず、伊勢から消えてしまった大鹿一族が、現在の津島市に移ってきたという古文書が市内の「大大鹿家」に残されていたことから、30年前から調べはじめました。
大鹿一族の歴史探訪 http://red.ap.teacup.com/oshika18/
議員になって17年になりますが、議員になってから大鹿姓について何も集約はしていなかったものの、ネット上に「大鹿一族の歴史探訪」を発信したことで、全国の大鹿関係の人々から問い合わせがくるようになりました。
明日訪れる明日香の石舞台についても、そんな悠久の歴史を感じながら入ったことはありませんが、明日はそんな想いを胸に秘めてハンドルを握って行きます。
本日の体重 72、1キロ 徒歩数 1818歩 間食なし
9月24日の一言








