
長福寺観音堂内 前立十一面観音菩薩 津島市葉苅町
厨子内の観音菩薩には明徳2年(1391年)と刻まれていますが、
前立ちの観音像も安永7年(1778年)の墨書きが残されています。

本日行われた法然上人の御忌参加者の記念撮影中です
一年の経過を実感させられるのが、本日私の旦那寺で行われた法然上人の御忌で、私が議員になった平成11年から毎年お誘いをいただき、一年間の活動報告をさせていただいています。まことに有難い場所です。
議員活動は一年に4回の議会が定例となっており、毎議会で質問に立っていますが、議員活動としては同じことの繰り返しとなり、私自身が主宰しているNPO法人のボランティア活動や、昨年4月から登録された環境省の上高地パークボランティアの話となるとついつい長くなってしまいます。
9年前に亡くなった「砂九さん」が新聞に登場して 2016/2/21
お寺の御忌と涅槃会に参拝して 2013/2/24
お寺の御忌(ぎょき)に参加して 2011/2/12
さて、写真添付した観音堂の厨子内の観音菩薩に、明徳2年(1391年)と刻まれていると記しましたが、長福寺の創建が天文9年(1540年)であり、お寺の建てられた年代より200年古いことから、お寺が建てられる前から観音堂が存在したか、違う場所から寄進されたと思われます。
我家の先祖でこのお寺に残された一番古い記載は1704年で、記載された先祖の両親とそれ以前の先祖の存在を考えると、長福寺と先祖の関わりに興味が湧いてきますが、当時はこの地域において11の末寺を持つ大きな浄土宗寺院であったことから、遠く離れた我家や大鹿姓の一族が檀家になったと思われます。
長福寺現住職の三代前の住職が我家の分家の出身(大正8年没)で、私の叔父が昭和初期に小僧となり、昭和40年代までこのお寺に住んでいたご縁もあり、現在もご縁をいただいています。
その叔父が大学時代に調べた寺の歴史から、地元の郷土史家森平氏が、寺の末寺が東に多いため、長福寺から1キロ離れた勝幡城を居城としていた織田信長の父信秀が、尾張東部へ進出する足がかりとして、長福寺の建立と末寺の造営に関わったとの説を書物に残されています。
私は昭和48年頃に、恩師の樋田豊先生に連れられて、津島市だけでなく、中島郡祖父江町から旧佐屋川(木曽川支流)沿いに、古地図を頼りに調べ歩いたことがあり、昭和60年頃には過去が見えるような感覚を持っていましたが、30年の空白から過去に調べた歴史も聞き覚えがある程度しか確証ある記載ができなくなりました。
また、当時調べた資料の所在が判らず、山積した資料の中にあることは判っても、探し出す気力も湧かず、自分の年齢を考えるとそろそろ整理して残していきたいと思う一日ともなりました。
本日の体重 71、8キロ 徒歩数 2315歩 間食あり
2月18日の一言








