
六地蔵の裏側です

前方横から見た六地蔵

横側から見た六地蔵

立て札

正面から見た六地蔵

七宝町安松交差点
本日は所用で名古屋市中川区の横井庄一記念館を訪れた帰りに、七宝町桂にある「六地蔵」を訪れましたが、駐車場もなく道路も狭いため、車から降りて写真を撮るのが精一杯で、謂れを聞くこともできませんでした。
この六地蔵は、天正12年(1584年)6月に起こった蟹江城合戦で敗走し,秋竹で切腹した武士の遺骨を引き取った僧が,その冥福を祈って刀剣とともに葬って建立されたという説と,法光寺の開祖が父の死去によって,その墳墓の傍らに六地蔵を安置したという説と2つの説があると伝承されています。
私自身が蟹江城合戦について詳しくは知りませんが、織田信長が本能寺に倒れた後に豊臣秀吉と徳川家康との間で小牧・長久手の戦い以降に起こっており、蟹江城合戦では秀吉軍と家康・織田信雄(信長の次男)連合軍の闘いです。
歴史では秀吉が織田信長の後継者のようなイメージがありますが、本能寺の変の後で尾張地方の織田一族は徳川軍と一緒に家康と行動を共にして、蟹江城合戦は織田・徳川連合軍が勝っており、国を統一した秀吉も徳川軍にはてこずっていたことが判ります。
ちなみに、六地蔵に近い桂城主は当時織田大和守が護っており、我家から千五百メートル離れた宇治町にあった宇治城も、信長の弟である織田源五郎(後の織田有楽斎・茶人)が城主を務めており、今から5百年ほど前には各村々に戦国武将の砦や拠点が点在していたことは興味深いものがあります。
今から五百年前に、七宝町の秋竹で切腹した武士の遺骨が刀剣とともに葬られ、桂の六地蔵として伝承されてきたと考えると、我々の生活圏で命のやり取りが行われていた臨場感と、戦いの代償に命を差し出す残酷な時代を想像し、景色も白黒のように感ずるとともに、地蔵の頭や身体に被せられた赤い布が鮮血のようにも思えました。
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さて、感動的な発信に、殺伐とした現代社会の中の清涼剤のような小平選手や周りの人々に感謝の一言です。南北朝鮮のきな臭い発信もありましたが、スポーツやオリンピックが平和の祭典であることを小平選手が示してくれました。有難う御座いました。
本日の体重 徒歩数 2650歩 間食あり
2月19日の一言








