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「修禅寺は修善寺温泉発祥の寺で、807年に弘法大師が開基したお寺です。」
                                       知人からのメールです

 知人から送られてきた修禅寺の写真と寺の説明を読んで、弘法大師と修禅寺の関係とともに、まずおかしいと思って寺の概要を見ると、「大同2年(807年)、弘法大師に依って開創され、その後約470年間は真言宗として栄えました」とありました。


 日本中に空海(弘法大師)の伝承は多く残されていますが、観光地で有名な修禅寺の公式ホームページにまで記されていたことに驚きで、私の持つ四国遍路の「先達経典」には、前年の大同1年に「明州の港を発ち、帰国の途に就かれる」と記されています。

 記録を正確に読み直すと、この大同1年に中国の皇帝に帰国を申請し、九州の太宰府の鴻臚館に入り、朝廷に帰国を報告し都へ上京する許可を申請しており、定説では約1年間大宰府の観世音寺に留まっていたとされています。

 この1年間の記録が定かではないことから、空海が各地に寺院を建立したとか巡礼の伝承が残されていますが、20年の留学期間を2年で切り上げて無断帰国したことは重罪に値するため、大同2年(807年)には留め置かれた大宰府の観世音寺に居たと思って間違いがないでしょう。

 修禅寺を開基したと言われる大同2年の記録として,空海は九州から和泉国(大阪府南部)の槇尾山寺に入ったことが残されていますが、前年に朝廷へ唐から持ち帰った新訳の経247巻、梵字の真言等44巻、経の注釈は170巻、その他に仏像、曼荼羅、法具類を目録(後の御請来目録」)にまとめて渡したとされています。

 私の住む愛知県でも、大同3年に知多半島の岩屋寺で100日間にわたって護摩修行をして、自分の像を岩窟に納めたと伝承されていますが、空海は中国密教界の最高権威者の「恵果」から大日経系の胎蔵界と金剛界の伝法灌頂を受け、真言密教の後継者に指名されており、国内の安易な弘法伝説の比ではありません。


 こんなことを記すと、対象となるお寺や地域から厳しい批判や悪口をもらうことになるため、先輩諸氏から「こだわるな」と言われていますが、宗教にはあり得ないと思われる非日常的な現象を現実のように話し、弘法大師の声を何度も聞いたとか、姿を見たなどと言う人が崇められたり、錦の納札を手渡して謝礼金を受け取る輩も存在することから、私はお寺が適当な年代をあげて宣伝する行為はやめるべきと常々思っています。

 それにしても、添付した「空海年表」はよく調べてまとめてあります。空海が高野山の御廟に御入定されたのが62歳。私はもうその年齢もこえてしまいましたが、知人の送ってくれた空海の伝承によって、久しぶりに弘法大師を認識する一日となりました。
                                     9月11日の一言