大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

訃報

歩き遍路友の会前会長の位牌の前に



イメージ 1讃岐七ヶ所まいり 歩き遍路 右から2人目が上野前会長 平成23年11月1日


 歩き遍路友の会東海の前会長上野勝彦さん(愛西市)が今月10日に逝去され、本日は現会長はじめ4人でご自宅を訪れましたが、上野さんと歩いた四国や高野山の思い出とともに、昨年からガンに侵された私の三男のために自身の体験からアドバイスをいただいていただけに未だに受け入れたくない現実でもあります。

 私は平成20年に四国遍路の先輩より友の会への入会を奨められ、平成24年ににその前年に会長になられた上野さんから副会長を要請されて活動してきましたが、一緒に歩いた四国や高野山の思い出が走馬灯のように浮かんできます。


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海岸寺駅からスタート 一番左が上野前会長 赤い杖が私

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最後の天皇寺 一番右が上野さん


 四国の遍路道も歩きました。


 平成26年には高野山を麓から9時間半かけて金剛峰寺まで歩きました。

 この10年間には色々なことがありましたが、上野さんの遍路体験は大いに役に立ち、上野さんが体調を崩され会長を辞任される際には、上野さんの前任の会を創設された元会長から「あんたが引き受けなければ友の会は後が無い」と言われたものの固辞し、現在の安藤会長と池田副会長にお願いしましたが、歩き遍路の先輩を失ったことは大きな痛手になっていくと思われます。
 
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一番手前の後姿が上野さん 昨年5月27日


 昨年5月に実施した名鉄須ヶ口駅から旧街道を歩いて津島神社を歩いた際には、ガンの闘病中でありながらナビゲータ役となり、昼食会場まで案内して夜の打ち上げ会場でも一緒にビールを飲んでいただけに信じられない訃報です。

 本日は副会長の池田さんと、上野さんが案内してくれた昼食をとった「お好み屋さん」まで行きましたが、あいにくと臨時休業となっており、近くの珈琲店で思い出話や雑談後に別れたものの、今年は上野会長時代のように四国の歩き遍路を友の会で実施したいと思います。

 午後は久しぶりに横井庄一記念館の一日にもなりました。

                                    5月19日の一言


津島市の名物マスターの訃報を耳にして


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2011/1/29 私の写真展と娘の家族 真ん中がマスター


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2012/5/20のピアニスト佐藤由美さんを見守るマスター


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我家のアンズの下のマスター(左)
                        3年前はこんなに元気な笑顔を見せていたのに…



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在りし日の浪漫亭砂九さん


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2016/6/8のマスター
 「おい、オレの顔は写すなよ」


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2017/6/11(日) 私とは最後のツーショット

 「大鹿さん、ありがとうな」の一言は、昨年6月(上の写真)にマスターが主宰する合同展会場から、病院の病室にもどった時の言葉で、長時間外出することが困難で、車イスのまま私の福祉タクシーで送迎した時の言葉です。

「おい、いくらだ?」
  「マスターから金は貰えんから」
「そうか、悪いな」

 今から30年ほど前に、私が地域でミニコミ紙を発行していた頃からの付き合いですが、私が議員になってからも「大鹿さん」と言われた記憶はなく、昨年も合同展の会場では「いっぱち」とか、「こいつ」などと愛情を込めた会話が「大鹿さん」と言われたことに違和感は感じていたものの…

 そして、マスターと長年付き合いのある仲間や、マスターの面倒を見ておられた先生が、車イスを押す私を追いかけて「大鹿さん、ご苦労さん」とか「有難う」と声をかけられていたいたことも、今にして思えば…

 私にとっては兄貴分のような存在だった津島市西愛宕にあった画廊喫茶「茜屋」のマスターが死んでいるかもしれないと、私に確認するため議会中で不在の我家を訪れた人があり、知人に確認すると2月に亡くなっておられたことが判りました。

 故人の遺言で家族だけで葬儀が営まれたとの話ですが、そんなことも知らずにマスターの自宅近くのうどん屋さんで、「今度行こうか」と会話していた知人もあり、確認された知人とともに土曜日に手を合わせに行こうとの話になりました。

 茜屋で私の知人の娘さんがピアノコンサートを毎年開催することになり、社会人落語の浪漫亭砂九さんとの出会いも、政治関係者に不信感を持っていた砂九さんに、「こんな人も議員にはいるよ」と私を勧めたのもマスターでした。

 私自身もこの茜屋で「上高地」をテーマにした写真展を何度も開催し、下手な書道についても書道会のメンバーとともに書道展を開催し、茜屋が閉店されてからも「オマエは下手な書道を出すんだ」と、「写真は自慢するから」と開催ごとに書道作品を出展してきました。

「マスターに会わせたいひとがあるんだ」
     「だれだかオレは知らんがな」
「上高地にテントで油絵を描いている知人がいるんだけど」
     「それがどうした」
「マスターに風貌が似ているんだ」
     「ふーんそうなんか」

 ここで出会った人には魅力もあり、私自身が変わった人(個性のある人)が好きで、マスターにも上高地のホームレス画伯にも会わせたいと常々口にしていたものの、昨年からは酸素吸入器と一緒でないと外出ができず、上高地に同行できなかったことも残念な結果です。

「やめろ、ヤメヤメ」
   「なんで」
「こいつの話は後向きだからダメ、聞くな

 こんな声が聞こえてきそうですが、茜屋の存在が津島市だけでなく、近隣のアマチュア芸術家の憩いの場所になっており、表舞台で表彰されるような柄ではなく、本人も「勝手なこと言うな」と怒られそうですが、私以上に多くの人々の拠り所となる存在の訃報は悲しい、寂しいと言うよりも悲しいの一言しか思い浮かびません。

                  本日の体重72、7キロ     3月8日の一言

先輩の訃報を聞き、通夜会場へ

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孫を主役にした家族四代の遍路 昨日の写真です

 昨日5時まで四国を巡拝して、本日未明に高松市から名古屋に戻ってきましたが、孫を中心に考えると、私の母親と妹も同行しているため、ジジイと孫ではなく、家族四代6人のお遍路になります。

 孫はお寺に到着すると梵鐘を撞き、本堂で賽銭と納め札を入れ、本堂前にひらがなで表示してある、ご本尊のご真言を読みながら3回唱えて、大師堂では母親と一緒に般若心経を一字一句読んで読経しています。

 3年前に別格二十霊場の「こども先達」を「ちびっこセンダーツ」と言い、何も判らないままに四国を巡礼しており、まだ1年生のため、長い階段を上っていくと「おんぶして」とせがみますが、「子供先達が先頭を行かなければ」と言うと、私の前を走って駆け上がっていきます。こんな生活がいつまで継続できるのでしょうか。

 さて、遍路中に高校の5年先輩で、17年前に初めて選挙に挑戦した時に、同窓会長として津島市に住む卒業生全員に推薦文を送付してくれた恩人の訃報が入り、本日は私の出生地祖父江町で開かれた通夜式に行ってきました。

 先輩は代々続いた水道工事会社を経営しており、私が大学時代には外車ジャガーで夜の街をハシゴして豪遊してもらい、社会人になってからも日中から懐石料理をおごってもらうなど、世話になりっぱなしの先輩でした。

 大相撲名古屋場所の桟敷を開催中借り切って、知人や先輩に提供したり、人から頼まれると大抵のことは何とでもしてしまう先輩でしたが、実は政治嫌いで、私が連れて行った地元の議員への応援を本人の前で断りました。

 「いい大人になって、議員になろうとするものが、僕みたいな所に来なくても、自分の力で頑張って当選してくださいよ」の一言に、私の初選挙の時に、毛筆で推薦文を書き、大量の封筒に全て会社印を押していただいたのは何故かと思いました。

 「大鹿君の場合は、順調に経営していたお店を廃業してまで選挙に出ると言うから、奥さんや子供を路頭に迷わせてはいけないと思った」と、私の応援の理由を聞かされましたが、自分の仕事を持ったまま兼業する議員には厳しい面もありました。

 先輩に恩を受けた人は多く、大相撲をはじめ、地元で依頼された仕事は多く、今年4月から稲沢市の選挙管理委員にも選任され、仕事は子供に任せて今後は地域貢献できる環境が整っていただけに残念でなりません。

 「酒は止めた方が良いよ」の一言は、私が議員になった17年前に私の後援会長が私に発した言葉で、私の父親をはじめ、町内で「酒が強い」と言われた大酒飲みは全員早死にしていることから、酒をたしなむように諭されました。

 私とは5歳しか離れていない先輩の早すぎる死も、仕事柄酒席が多く、後輩とは言え大学生の私を豪遊させてくれた当時を思い起こすと、四国遍路を奥さんと廻るような気分にもっと早くなっておればと思います。

 昨年訪れた際に、奥さんに「2人一緒でお遍路へ」と薦め、「私はそうしたいんだけど…」と言われていただけに、そのままにしていた反省をしてみても、こんなに早くお別れの日が来るとは思ってもおらず、私の年代はそんな時期になっている自覚も必要と思うお別れとなりました。

            本日の体重 71、2キロ 徒歩数 5156歩 間食なし
                                    10月10日の一言

忍び来る秋色に訃報もあり…

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我家のホウノキの葉です

 5月に大きな緑の葉の中に、真っ白な大きな花を咲かせていた朴の木の朴葉が、最近は黄緑色から茶色が混ざり始めて落葉を始めており、我家の名物となっているアンズも秋色に変色しています。

 ガサッ、ガサッと大きな葉が落ちてくるのは寂しいものがあり、確実に夏の終わりを実感させられるとともに、その寂しさを払拭する材料が少なくなってきた現実を、我が身と重ね合わせてしまいます。


 春に添付した写真を見直すと寂しさは隠せません。

 「○○がなくなったので…」
 「なくなったって?」
 「昨日の夜に風呂場で…」
 「えっ、本当の話なの…」

 共に伴侶を亡くして、一緒に同居中だった知人から、同居するご婦人が亡くなったとの訃報ですが、風呂場でおぼれて水を飲み、心肺停止状態で緊急搬送されたものの、心筋梗塞で亡くなったとの連絡です。

 2人は今週の金曜日から九州に出かける予定で、早くから切符を購入して、九州で親族と落ち合う約束もできており、足腰を鍛えるために私の三男の接骨院に通っておられただけに信じられない結末です。

 「もうすぐ、私も75歳になってしまうので…」
 「何を言っているの、まだ75歳でしょう」
 「まあ、いいかげん、いい歳になったもんだわ」

 私の家内と故人が最近交わした言葉で、かつてはご主人が亡くなった後の家具屋さんを一人で切り盛りした元気が衰えており、もう充分生きてきたような会話が気になっていただけに、突然の訃報に無力感が漂いました。

 もっと気がかりなことは、同居している知人は80歳になっており、一緒に同居することで車で外出するなど、役割分担をして孤独な生活ではありませんでしたが、二度目となる悲しい独居生活が始まります。

 上高地への道中でエアバックの警告が点滅し、ラジュエターの冷却水漏れがあり、滞在中は大きなストレスを感じ、不安をかんじながら車を自宅まで回送し、再度上高地へ出向いて帰宅したものの、翌日からは身体が強張って動きません。

 原因不明の体調不良は、気力も失せており、こんなときに聞く訃報は堪えますね。

            本日の体重 71、3キロ 徒歩数 1014歩 間食あり
                                      8月17日の一言

突然の親族の訃報に…

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 ここが何か判りますか?
 
 本日は市役所の出納監査のため、いつもどおりに準備していると、「実は、名古屋の叔父さんが…」と、病気見舞いを通り越しての訃報です。
 
 本日の予定を市役所で確認すると、午後4時までは出納監査が続くため、急遽家内に会社を早退させて、母親と共に名古屋市の名東区にある叔父の家に行くように指示したものの…
 
 叔父は元々は津島市に近い中村区稲葉地町に住んでいたものの、平成のはじめに名東区に転居しており、私が乗せて行ったことはあるものの、家内が一人で運転して行ったことはありませんから、文明の機器であるカーナビ頼りでやっとの思いで辿り着いたとの話です。
 
 さて、亡くなった叔父は、私の叔母(父の妹)の夫で、叔母は平成9年に亡くなっており、我家にとっては横井庄一さん、新家の当主とともに、毎月のように葬儀が連続し、来月にも17回忌の法要が行なわれると思っていた矢先の訃報でした。
 
 叔父は横井庄一さんとの血縁はありませんが、横井さんの母親と特に縁のあった叔母の関係から横井さんを語れる存在だっただけに、横井さんの幼少期を知る人は、病院に入っている叔父(父の弟)だけとなり、横井さんの幼少時を知る血縁者も(本人や親達から聞いている)私だけになるのも時間の問題となってきました。
 
 添付したのは千種区にある葬儀場で、受付で応対してくれた故人の次男(私より5才若い従兄弟)と談笑している時は良かったのですが、控え室前で喪主を務める長男(私と1才違いの従兄弟)の顔を見ると、幼少時の思い出や、叔母や叔父、私の父親の健在だった頃の記憶が走馬灯のようによみがえり、お互いに涙を堪えるのに必死となりました。
 
 突然の訃報は、故人や家族の生活を一変させ、本日夜に開催された我家の書道会も、宿主不在で開催され、すべての約束事をリセットさせます。
 
 本日夜のテレビニュースから、東京三鷹市の18才女子高生が殺傷される事件が発信されてきました。本日の朝にストーカー被害として21才の男を母親と共に警察に訴えていたとの報道があり、無責任な警察の危機感の無さと同時に、犯人は勿論のこと、犯人を放任していた家族にも怒りが隠せません。
 
 踏み切りで人を救助して自らの命を落とした女性の存在を考えると、他人の命を身勝手に奪う凶悪犯や、死体を切り刻んで隠匿する殺人犯には、極刑をもって人が人の命を奪う事件が二度と再発しない社会を目指したいものです。
 
                                     10月8日の一言 

同級生の父親の訃報に

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毎日食卓に上がるトマトの予備軍です
 
 我家の畑からトマトが採れだしてから1ヶ月ほど経ちますが、これから完熟する青いトマトもまだまだ残っており、高齢になった私の母親が育てているものの、野菜は元気一杯で次々と我家に持ち帰られてきます。
 
 私は畑には行ったこともなく、もっぱら母親が毎日の仕事として、朝と夕方に出かけて行きますが、ろくに歩く事もないままに足腰が弱り、肥満体質となった私が体調維持に苦慮しているなかで、高齢とは思えぬ元気な毎日を送っており、こんな環境が一日も長く続くように思います。
 
 本日は同級生の父親が亡くなり、今晩通夜が行なわれましたが…
 
 「大鹿さん、今から車を頼めますか?」
 「本日は予定があるんですが…」
 「体調が悪いので病院に行きたいんですが」
 「い、今からですか?」
 
 知人の奥さんから突然の電話で、私は都合が悪いため、タクシーを依頼してもらう話となったものの、通夜は遅れても行けるため、体調不良の奥さんを優先して病院に同行しましたが、知人が夜勤のため子供を連れて点滴を受ける姿に、後ろ髪を引かれる心境で病院を後にしました。
 
 同級生の父親は90才になられていたとの話ですが、私が昭和63年より始めた朝日旅行友の会のバス旅行の常連で、御夫婦で参加されるものの、一人でカメラを持ってマイペースで黙々と歩いておられた姿が今でも思い浮かんできます。
 
 故人は、私の父親の兄で沖縄で戦死した伯父と同級生で、戦死していたかもしれない命と口癖にされていたようですが、私の伯父を知る人もほとんどいなくなっていく現実とともに、戦争を語れる人も無くなっている現実も実感させられます。
 
                                  7月25日の一言

恩師の金ピカの霊柩車を見送り

 本日は91才で亡くなられた恩師の葬儀があり、多くの参列者だったものの教え子の姿は見えず、教師仲間も(年齢から)ほとんどなく、私たちの小学校入学から3年生までの担任だった事から、50年の月日の経過を考えると悲しい別れとなりました。
 
 美人で厳しい恩師で、時には手の平で叩かれるような厳しい半面で、我々には母親のような存在で、退職後に自分で経営された保育園の園長も務められ、我家の前の道路に車を停めて訪ねてもらった事もありますが、遥か昔の姿が今のように思い出されました。
 
 「あんたはいつも隣に座らされていたなァ」と、幼馴染みに言われますが、女子をいじめたり泣かせたりすると、必ず教壇の先生の隣に座らされ、給食も食べさせてもらえず、全員の給食が終わった後で、皆に見られながら一人で給食を食べた苦い思い出があります。
 
 嘘をついたり乱暴な生徒には平手で叩かれていましたから、厳しい中にも使い分けて生徒を厳しく指導されていたと思いますが、教員退職後はやさしく可愛い小母さんに変身され、晩年はあまり外出もされなかった事から、訃報を知らない教え子がほとんどと思われます。
 
 さて、冒頭に「教え子の姿も見えず」と記しましたが、かつては連絡を取り合って同級生と一緒に参列していたものの、男子は仕事を持っており、女子にも「お節介」と思われるのも嫌で、最近は一人での参列となっています。出来の悪かった私が見送るのは皮肉のようですが…
 
 私にとっては小学校時代の恩師は全員が亡くなっており、本日も「私の担任だった」との一言に驚く人が存在し、もはや我々の年齢は「教え子」とは思ってもらえぬ年齢になっているのかも知れないと思った次第です。
 
 恩師に見送られた小学校時代の記憶は白黒でしたが、恩師を乗せて出棺した霊柩車は金ピカに輝いており、我々の母親たちから姉のように慕われていた恩師との別れが、我々の親の出棺ラッシュにならぬ事を祈りたいが…
                                 9月8日の一言

知らぬ間に同級生が亡くなっており

 民主党小沢氏の政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑について、先月末に東京地検特捜部は改めて不起訴(嫌疑不十分)処分にし、特捜部の一連の捜査は終結したが、東京第五検察審査会は、小沢氏を政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑で強制的に起訴すべきだとする「起訴議決」を決めた。
 
小沢氏、強制起訴へ 検察審査会2度目は「起訴議決」
                  http://www.asahi.com/national/update/1004/TKY201010040184.html?ref=reca
小沢氏を不起訴処分 07年の虚偽記載容疑、捜査終結
                  http://www.asahi.com/national/update/0930/TKY201009300337.html
 
 第五審査会は1度目の審査で4月に「起訴相当」と議決したものの、東京地検特捜部が二度にわたって「不起訴」とした小沢氏を、第五審査会が2度目の審査で11人の審査員のうち8人以上が「強制起訴」に賛成したと報じられている。
 
 現実問題としては、東京地検特捜部が有罪とする決定的証拠が存在しない事から不起訴としている事から、今回の強制起訴によって市民の期待する明確な司法判断が出されるとは思えないが、11人の審査員のうち8人以上が強制起訴に賛成した現実を考えると、小沢氏を未だに総理候補と発言する国会議員は勿論だが、小沢氏も政治家としての責任を考えるべきではないか。
 
 日本の裁判では「疑わしきは罰せず」として、事件の状況や捜査から容疑者が犯人として有罪と思える場合でも、確実な証拠が示されない場合には容疑者に有利な判断が下されるが、今回の事件は意図的な証拠隠滅や仲間内の口裏合わせがあって当然と考えられ、政治家の疑惑については司法判断とは別に、市民への疑惑を完全に払拭できなければ自発的責任を負うべきと私は思います。
 
 さて、昨日の話となりますが、私の同級生は同じ町内に男子7名と女子が6名ありましたが、市内に嫁いでいた女性が亡くなっているとの話が伝わり、6名の女子のうち4名が亡くなっているとの話にびっくりです。(男は全員健在です)
 
 私の町内の同級生の間では、同級生の訃報には必ず集まって葬儀に参列する暗黙の決め事ができていましたが、地元を離れて嫁いでいることから、女子については突然に2人の死亡を聞かされる事となりました。
 
 そのうちの1人については、嫁ぎ先が津島市内にあり、選挙の際にも事務所に親とともに顔を出してくれていただけに、「死んだ」との報が信じられず、嫁ぎ先の町内の知人に連絡して確認までしましたが、今年の7月末に亡くなっていました。
 
 4名が亡くなったと記しましたが、そのうちの1名は実家に残った事から、私の選挙の際には自発的に電話番へ駆けつけてくれ、2度目の選挙の際には医師から死の宣告を受けた身でありながら、苦痛を隠して何事もないように事務所に来てくれていた事から、女性の強さと思いやりを実感するとともに、彼女の葬儀を一緒に見送っていた市内在住の同級生の死すら知らなかったことに議員として無力感でいっぱいです。
 
 長寿社会となり、長生きが当り前のように感じていましたが、町内から6名の女性の同級生のうち4名が50代にして亡くなっている現実は信じがたい話で、当分は死なないと思っている自分も判らないと思う一日と化しました。
                                  10月4日の一言 

中村主水(藤田まことさん)逝く

 名古屋地区ではチャンネル11番の名古屋テレビで、午前10時から必殺仕事人の「中村主水(もんど)」として、午後には「はぐれ刑事純情派」の安浦刑事として、「藤田まことばかりで見飽きた!」と言われるほど昨年までは放映されていたが…

俳優の藤田まことさん死去↓↓
http://www.asahi.com/obituaries/update/0218/OSK201002180059.html

 「てなもんや三度笠」のあんかけの時次郎から「必殺」シリーズの中村主水(もんど)まで、幅広い芸域と深みのある演技で人気を集めた俳優の藤田まこと(ふじた・まこと、本名原田眞〈はらだ・まこと〉)さんが17日午前7時25分、大動脈からの出血で死去した。76歳だった。朝日新聞夕刊

「警察官は60で定年ではなかったのか?」と思えるほど、少年時代に「てなもんや三度笠」を見ていた年代からすれば、年齢を感じさせない藤田まことさんの若々しさを羨ましく思っていたが、人間の死亡率100%を実感させられる一日となりました。

 さて、私にとっては「てなもんや三度笠」で、あんかけの時次郎として、白木みのるの「チンネン」とのコンビが忘れられず、奥さんの作った莫大な借金も全て返済された事から、シリアスなドラマばかりではなく、バラエティ番組で腹から笑える出演も見せて欲しかったが…

 一方で、藤田まことさんが、海軍に入隊した実兄を戦場で失うなど、戦争体験者として反戦、平和への願いが強く、映画「日本の青春」や「明日への遺言」などの映画に出演されていた事も、02年に紫綬褒章を受章されていた事も訃報により初めて知りました。冥福を祈りたいと思います。

 藤田まことさんの訃報を知り、精しい情報が知りたいためにアサヒコムを検索すると、ニュース一覧に訃報が多いことに驚いてびっくりしていると、訃報・おくやみ情報の一覧を見ていたためと判ったものの、実に多くの人々が亡くなっている事にも実感させられました。

訃報・おくやみ情報
http://www.asahi.com/obituaries/

 「人間の死亡率は100%」と声高々に法話で語っていた高僧もやっぱり亡くなっており、誰もが迎える死期ですが、自分の死期を考える余裕もないままに死んでいく人が多く、藤田まことさんも3月からは本格的に復帰すると語っておられた様子でした。
                                   2月18日の一言

昨日の笑顔と元気さは何だったのか

 昨日の一言に市民病院の緩和ケア病棟の「お茶会」の様子と、叔母の看病を知り合いの看護師さんにお願いした顛末を記しましたが、昨日の様子がウソのような悲しい結末を迎える事となりました。

 「おい、容態が急変したので急いで病院に連れてってくれー」
 「はい、じゃーすぐに行くので」と、叔父から電話を受けたのが午前7時12分。慌てて車のエンジンをかけて上着を羽織っていると、「父は私が乗せていくから」と叔父の娘から電話で、「じゃー、頼むよ」と電話を切りました。

 叔母は今週初めには昏睡状態となり意識もなくなっており、家族とともに医師から「今週いっぱいが山」と聞かされていたが、戻る事のないと思っていた意識が昨日は完全によみがえり、個室から緩和ケア病棟に移された1日目が「お茶会」にあたり、お茶どころか菓子も口にして、カラオケのマイクも握っていたのである。

 ありえないほどの復調に18日のクリスマス会どころか、年内は大丈夫かとさえ思っていたものが、翌日の朝にはひっそりと息をひきとったのである。眠ったまま意識のない時に見舞った私の母親に話しても信じてもらえない昨日の回復は何だったのか。

 トイレも娘の介助とはいえ立って歩き、車イスではあったが「お茶会」の会場に行き、病院の周りの風景を案内してもらい、私なんかの世話まで心配していたのである。
 病棟を移って1日目で、私の知り合いの看護師さんは昨日が休みで、早めに出勤して病室を覗いてくれた時には既に亡くなっていたのである。

 ただし、この訃報が判ったのは昼になってからで、私はそれまで連絡がない事から小康状態を保っているものと思い込んでおり、昼になって叔父から「なんだ、知らなんだのか」とびっくりの展開で、親族への連絡をすませて葬儀場に走り、叔父の着替えに付き添い、仮通夜のあとに明日からの段取りを終えて帰ると時計は11時を示していた。

 さて、叔父は我家の生れで、本籍地は80才になった現在も我家に残されていると本日知った次第だが、住まいは愛西市(旧佐織町)にあり、40年以上前から津島市民ではないが、葬儀会場が津島市に建っている事から、選挙管理委員会に問い合わせると、私は叔父の本家の長男で跡取でありながら、私が議員である事によって葬儀場に私の名前で花やお供えを出してはいけないという事である。

 父親の葬儀にも叔父から花やお供えをいただいており、本家の長男の私はお返しの意味でも花やお供えは当然の責任とも思われるが、公職選挙法ではこのような行為を厳しく禁止しており、一般市民の常識である儀礼も果たせないのである。

 もっとも、私の名前でなければ良いので、私は「越津町大鹿家」として親族と同じように体裁を整えたが、選挙目的でもなく、売名行為でもないのに、親族のお付き合いもできない法律には矛盾があり、親戚付き合いばかりか、お寺や近所の当り前の付き合いができない現実を久々に実感させられました。
                              12月4日の一言
追伸
葬儀のある12月6日は私の結婚記念日にあたり、私の誕生日である18日は祖母(母親の母)の命日に当たります。年齢を重ねるとこんな偶然も増えていきます。

悲しみも最大級の訃報に

 本日は議会運営委員会が開催され、12月議会の日程や議案説明に続き、請願などの委員会の付託先を決めて散会したが、国からの方針で議員年金の廃止も含めて議会で意見集約も求められており、廃止になるのは公費負担を考えて個人的に異論はないが、国の都合で廃止となるのに、今までに支払ってきた年金負担分が全額返還されない事には絶対に納得ができない。

 このあたりの温度差は、年金受給資格となる3期以上議員を続けた者と、初当選したばかりの議員とは感覚が大きく違い、今議会には議員の期末手当の減額も議案として提案されているが、平成11年に議員になってから報酬も含めて減額だけが続いている。

 国会議員は地方議員とは桁違いの報酬を受け取り、政党助成金も自由に使える立場にあるが、このままでは地方議員は副業か定年後のボランティアしか成り立たなくなるのではないだろうか。
 一方で、廃止となれば、現在受給中の元議員についても全額支払いを停止すべきであり、駆け込みの引退による年金受給も絶対に見逃さない必要がある。

 さて、数日前に一緒に旅行に出向いていた知人の訃報を知らず、喪中の手紙で知った悲しみを記しましたが、本日は更に私の家族と一緒の上高地行きだけでなく、私が7回巡拝した四国遍路のうち4回も一緒に結願を果たした知人の訃報がご家族よりもたらされました。

 本日の午前2時頃に亡くなられたとの話に、私が四国から自宅に到着した頃に亡くなられていた事と、今回の四国行きの案内を投函しただけで、直接声をかけなかった事が残念でならない。もっとも、家族の話では、声をかけても体調不調だったようですが、10月の高野山行きが最後となり、その時はお元気だっただけに悔いが残ります。

 「投函された写真のお礼も伝えないままで…」との家族の言葉に、もっと早く持参して本人に直接手渡さなかった事の反省と、本人が昭和5年生まれであった事から、こんな日が突然に訪れる事も考えてお付き合いすべきだったとも思われます。

 事務所の入り口には瀬戸中央大橋から撮影した夕陽の大きな写真が置かれていますが、最後の四国遍路から帰った直後にいただいた写真で、役務的に写真を配布している私とは違い、運転手の私が景色を見られない事から助手席から撮影されて届けられた写真で、改めて親を亡くしたような気持ちにもなります。

 息子さんは私の妹と同級生で、お孫さんは私の三男と同級生だっただけに、親と同年代でありながら体力自慢の人だっただけに年齢差をあまり考えた事もありませんでしたが、四国、西国、坂東、秩父と一緒に寝食を共にしてきた知人だけに悲しみも最大級の訃報となりました。
                                11月24日の一言
追伸
偶然にも本日は、私の盟友であった落語家「浪漫亭砂九」さんの命日でもあり、四国で家内とそんな話をしていたのでしたが…
まだ、3年しか経過していないのに、はるか昔のように思えてきました。

山城新伍さんの訃報に接して

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 お盆の最中であるが、俳優の山城新伍さんの訃報が報じられてきた。晩年は糖尿病に苦しみ、華々しい芸能界とは無縁の生活が続いていたが、若き頃から俳優として活躍し、私が大好きな鶴田浩二さんの映画にも多く出演されていた事と、当時のキャラクターは任侠映画の中では貴重な存在だった事から、映画の一場面であるが「博奕打ち・一匹竜」の一場面(映画写真集・鶴田浩二から拝借)を追悼として添付(写真上)しました。

 「博奕打ち・一匹竜」昭和42年作品 鶴田浩二さんの後ろの若者が山城さん。
山城新伍・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E6%96%B0%E4%BC%8D#.E6.98.A0.E7.94.BB

 山城さんは私の子供時代の白馬童子の主役が有名だが、鶴田浩二さんらが活躍した昭和四十年代の任侠映画の中では、荒々しいヤクザの抗争の中で、茶目っ気のある笑いを提供し、その後のテレビでの活躍にも共通するが一流の俳優でありながら軽妙な笑いを提供できる貴重な存在であった。

 新聞報道によれば、一年半ほど前から特別養護老人ホームで暮らし、嚥下性障害による肺炎が死因とあるが、山城さんの軽妙なキャラクターとは違い、映画全盛期から多くの名優と共演した一流の俳優であった事から、今一度の復活を見てみたかったと思っている。

 数年前のテレビから知人の芸能人から本人の人格を侮辱するような話をされ、自分の身体が思うようにならず、反論どころか本当の姿を伝えられない不満を口にする報道を耳にしたが、多くの一流スターが鬼籍に入ってしまった事から、一流スターのように勘違いしている芸能人への鉄槌を芸能界に復帰して見せて欲しかった。

 さて、高齢になると嚥下性障害(食事が食道ではなく気管に入る)は危険と聞かされていたが、山城新伍さんも嚥下性障害によって肺炎に至っており、施設などでは十分に注意をされている中での死因だけに、在宅での老々介護や独居老人にとっては十分な注意が必要である。

 これは高齢者に限った話ではなく、中年の我々にとっても徹夜続きの食事が胸に詰まる事もあり、生きるための食事が命取りとなる皮肉な現実だけに警鐘としたい。
 私の尊敬する鶴田浩二さんの身近で共演していた山城新伍さんの訃報は残念であるばかりか、テレビの創生期から活躍した俳優の死去は、一時代の終焉のようにも思えてきました。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。
                                   8月14日の一言

忌野清志郎さんの死を悼んで

写真1番上 四国八十八ヵ所第1番霊山寺住職と忌野清志郎さん
写真2枚目 第20番寺鶴林寺で納経中
写真3枚目 どしゃ降りの中、難所を登り第12番焼山寺へ
写真4枚目 第24番最御崎寺到着・室戸岬での忌野清志郎さん
 ※写真はすべて雑誌「一個人」の中からのコピーです

 忌野清志郎(いまわの・きよしろう)さんが亡くなった。58歳の年齢の若さにもびっくりさせられるが、喉頭癌を治療後の昨年2月には日本武道館で「完全復活祭」と銘打った復活コンサートを行い、その後のテレビ出演もあった事から今回の訃報は残念でならない。

 奇抜な衣装と絶叫のようなロックとは縁もなかったが、私は会場で輝く忌野清志郎ではなく、本名の栗原清志さんとして、家庭や家族を一番大切にされていた素顔を知るとともに、平成17年に発行された雑誌「一個人」の仏教を愉しむ旅に登場した姿から魅力を感ずるようになっていました。

 この企画では、徳島県の第1番霊山寺から高知県室戸岬にある第24番最御崎寺まで、阿波の国「発心の道場」を4日間かけて自分のロードバイクで走り、住職や納経所の人々と素顔で語り、番外の名所・旧跡で手を合せる忌野清志郎さんの姿とコメントが掲載されている。

 私は平成13年より四国遍路を始めてきたが、いずれもマイクロバスや乗用車による巡拝ばかりで、この企画を読んで自転車ばかりか歩き遍路にも興味が増大した。「車じゃなくて、バイクや歩きで回ってこそ、感じられるものがあるんじゃないかなぁ、ここには」のコメントは4日目の室戸岬での一言。

 この時使用した愛用のバイクは、つくばの「プロジェクトM」のカスタムメイドで、特注カーボン製と記されているが、この四年前からサイクリングをはじめ東京と鹿児島間や、奥の細道を完走した忌野清志郎さんだが、四国遍路は16年10月30日から4日間の記事であった。

「彼の音楽は単なるエンターテインメントではなく、自分の意志・生き方の表明だった。清志郎さんは自分の意志に正直に生きた人だと思います。自分が正しいと思ったことをやる。これはおかしいじゃないかと思うことを言える。破滅的なロックと言うよりは、体制の批判者だったんですね。恰好だけではなく、真剣に生きているということそれ自体が本質的にロックだったんです。そのために、無条件に信頼されたのではないでしょうか」と音楽評論家・加藤普さん(60)は語っている。

さらに、忌野さんの死がもつ意味について、
 「闘病もそうですが、彼はいつも生に対して、真剣に向きあってきた。真面目だった。だから、私はその死さえメッセージではないかと思うのです。我々はそれを引き受けなくてはならないと思います」

YouTubeから
suezen9さんのチャンネル  http://www.youtube.com/user/suezen9
復活への道 http://www.youtube.com/watch?v=7gVcBBt5qZA&feature=related
雨上がりの夜空に http://www.youtube.com/watch?v=zDyCll7rFCc&feature=related
激しい雨 http://www.youtube.com/watch?v=II7I7VeKQ5A&feature=related
傘がない http://www.youtube.com/watch?v=xuTyB1Swrqo&feature=related

 まるで縁のない世界のミュージシャンと思っていた忌野清志郎さんだったが、四国遍路の記事から加藤さんと同じような素顔の魅力を感じるようになり、音楽を聴く機会も無いまま悲しい現実を直視する中で、私はこれから音楽を聴いてその魅力を忘れないようにしたい。
                                5月5日の一言

地域の温かさを実感させられた恩師の葬儀

 本日は愛知県内の公立小学校の入学式が催され、来賓として出席させていただきましたが、息子達が大きく成長した我家との違和感が強く、小さな新入生を前に来賓として紹介されても、普段はお喋りの口が緊張からたどたどしくなります。

 30才になった長男が独身のため、長女の結婚によってお祖父さんの仲間入りが近づきましたが、学生結婚だった私を当てはめてみると、既に小学生の孫が居てもおかしくない年齢となっていますが、我家には子供が居ない事から、「おめでとう」の一言が懐かしく思われました。

 本日は正午から母校である神守中学校で長く教鞭を執られ、同窓会の物故者法要では僧侶としてお世話になってきた恩師(満90才)の葬儀が行なわれ、私達の大先輩達の恩師である事から、地域の重鎮となられた先輩達が多く集まられて別れを惜しみました。

 私は同窓会長として毎年物故者法要をお願いに走り、直接の教え子ではないものの、恩師の教員生活の中でも一際思い入れの強い学校だった事から、教え子のように接していただき、訃報を聞いて駆けつけた時も当り前のように枕元まで案内され、恩師の語られた法話を昨日の事のように回顧してみた。

 私にとっては足元にも近寄りがたい先輩達であるが、本日は中学生の悪ガキに戻ったような会話が交わされ、70前後となられた教え子達が少女のような涙で見送られ、同じ母校を卒業した先輩達ばかりであるが、会長という職にある事からこんな素晴らしい先輩達と一緒に恩師を送らせていただいた事に感謝したい気持ちでもあった。

 さて、葬儀が終わり、霊柩車を見送った後で、先輩会長と会話を交わしていると、恩師と同時期に勤務された恩師(女性)が立ち寄られ、「あんた見た事があるわね」と問われ、恩師は私を教え子と勘違いされており、毎年同窓会総会で顔を合わせている事からの勘違いとは思うが、同行した女性から大変な話を耳にする事となりました。

 恩師は昨晩の通夜に4時間半をかけて隣町から自転車でお寺を探したものの見当たらず、本日も自転車で2時間以上の時間がかかったとの話です。「そうなのよ、今日も10回位転んでねッ」なんて言われると、そのまま別れる事もできず、私も自転車での参列のため送る事もできません。

 花屋さんや葬儀関係者にも断られ途方にくれていると、長年地元で消防団長を務められた先輩の姿が見えました。
 「〇神さん、お願いします」と突然のお願いに、「うん、良いよ」と事務所に戻って車を回していただき、恩師の自転車を積んで送る事ができました。

 「おい、最近は暇でいかんわッ」と、不景気が建設業界にも影響している話を帰りの車中で耳にしましたが、今時こんなに気さくに突然の依頼を引き受けていただける先輩は珍しく、私のような後輩にも同じ視線で語ってもらえる幸せに感動し、母校の発展はもとより、議員の立場では地域貢献も考える責任を気持ち良く感ずる一日となりました。

 亡くなられた恩師に感謝し、夏の物故者法要には恩師を偲んで、一人でも多くの会員に集まっていただく宿題と同時に、多くの先輩や恩師達とともに地域が構成されて社会が成り立っている心強さと温かさも実感する一日となりました。
              恩師に合掌
                                    4月6日の一言

遍路仲間の訃報を聞いて

 久々の訃報である。平成13年から四国八十八ヵ所を巡拝し、その勢いにのって西国33観音、坂東33観音、秩父34観音の日本百観音を達成し、三年前には再度の四国巡拝(逆打ち)を一緒した人で、今年夏に亡くなった人に続いて3人目の訃報(四国のみは他に1人)である。

 四国88ヶ所と百観音を一緒に達成したメンバーは17人おり、その中で3人の方が亡くなられた事になるが、一緒に寝食を共にして巡拝した仲間の訃報は悲しさとともに淋しさも実感する。
 もっとも、私は6回の巡拝で50人ほどの人と巡拝しており、亡くなられた人も大正生まれである事から、むしろ長寿に感謝してあやかりたい葬儀と思うべきかもしれないが、元気な姿を見ていただけに残念で仕方がないとの思いが強い。

 さて、議員にとって、(私にとって)選挙の際の大きな支えは60才を越えた人々が大半で、10年前に頑張って走っていただいた方々の多くが亡くなられており、それらの人々に代わる人々の支持を拡大させない事には、議員活動は続いていかないのである。

 現実面として若い人々との接点も多いが、若い人が議員を訪問する理由は、行政に対する不満や、自分の生活を護るための自己主張によるものが多く、人として付き合っていく上では歓迎できないものも多く、明らかに議員を利用するために近づいたとしか思えないものも存在する。

 そういった意味では、自分の利害に関係なく応援いただける定年を終えた高齢者の支持が、我々議員の活動を支えており、そういった人々の訃報は、より淋しさを実感する事が多いのは当然でもある。

 四国遍路に大きく片足を突っ込んでいる事から、仲間の訃報を聞いた際に、「いい時に連れていってもらった」との一言をもらう事が多い。

 「ちょっと待って下さいよ」
 私は皆さんを安らかに冥土へ送るために四国に行っているのではありませんよ。「四国に行けば元気になれるでしょう」と叫んでも、所詮は年齢をさかのぼって若くなる事は不可能である。
 「じゃー、何のために四国へ?」
                                 12月16日の一言
 

筑紫哲也さんの訃報を聞いて

 ジャーナリストでテレビキャスターであった筑紫哲也さんが亡くなった。73才の年齢を聞くと、2日前の一言の繰返しで「あと19年か」と淋しい気持になるが、テレビでガンを公表して闘病生活を送ったものの、所詮ガンに対しては無力だったのかと実感させられる。

 かつて愛知県はオリンピックの誘致に名乗りをあげ、あたかも誘致に成功したかのように浮かれていた時期があり、地元の有力企業を中心としてオリンピックの声が最高潮だった時、当時は朝日ジャーナルの編集長の立場で名古屋に入った筑紫哲也さんは、「絶対に無理だ」と地元に水をさすびっくりの発言をしたのであった。

 書店の〇善で開催されたブックフェアに招かれた際の一言だが、当時の愛知県が地元企業を中心として誘致へ一丸となっている時に、愛知県だけ盛り上がっていても、全国的には何ら関心も高まっておらず、東京に本社を置く大企業との連携もなく、愛知県だけで独善的に進めている姿勢を批判し、実現の可能性が低いとの発言をした。

 当時は愛知県内でのオリンピック熱は最高潮になっていたものの、地元の新聞が書き立てているだけで、全国に名古屋オリンピックが浸透していない現実を、あえて発言したジャーナリスト精神に対して、批判する声もあったものの、その後に誘致失敗の責任から愛知県知事が自殺する事態に至った事から、朝日の記者魂を見せられた気持ともなった。

 私は筑紫さんの健康管理については何も知りえないが、ジャーナリストとして煙草が必需品というような発言を聞いた記憶があり、健康管理に対する甘さとか、「まさか自分が」との思いからガンの早期発見が遅れたのではないかと勝手に推測するものでもある。

 私にとっては、地元紙が圧倒的シェアを占める名古屋で、あえて「朝日新聞」の看板をあげたのは、学生という身分もあったが、記事内容や取材精神を評価して決断したものの、なかなか普及しない紙面を勧める上で、筑紫哲也さんは朝日のシンボル的存在でもあった。

 柔和な表情と、相手の意見も聞きながら、冷静で公正な視点を持ち、時には厳しい批判も淡々と語りつづける筑紫さんであったが、かなりのストレスがたまっていたのだろうか。筑紫さんは煙草をガンの理由にはされたくないと思うが、ガンには早期発見しか対抗できない事と、改めて嫌煙運動を世界レベルまで引き上げる必要性を実感させられた。
                               11月7日の一言

愛読書『走り屋一代』(少年時代)の著者の訃報

169周目:さらばタナケン   (2008年1月21日 読売新聞)

 タナケンが亡くなった!? 日本のモータースポーツが産声が上げた1960年代、その不屈の勝負師魂と独特の個性とで誰からも一目置かれ慕われたトップ選手、田中健二郎。

 1934年1月3日、九州は福岡の生まれ。2007年12月29日、療養先の沼津にて死去。享年73。その訃報が知らされたのは、年が明けて早10日も経った1月11日のことだった。

 無敵のオートレース時代、本田宗一郎にスカウトされてホンダ入り、2輪世界GPデビュー戦で何と日本人初の3位表彰台、しかし次戦で大事故に遭って片足切断寸前の危機、ライダー断念後の若手育成《健二郎学校》、ニッサンに誘われ4輪に転向して大活躍、プリンスを吸収合併した後のニッサン新体制に合わず個人チーム「タキ・レーシング」に移籍してメーカーに対抗、71年富士GC開幕戦優勝にもかかわらず夏に37歳で突如引退表明、といった波乱万丈のレース人生は、専門誌に載るだろう追悼記事をご覧あれ。

 より詳しく知りたい向きには、著書『走り屋一代』(八重洲出版/69年刊)の一読をお薦めしたい。豪快というか破天荒というかハチャメチャな生き様は、激動の昭和を生き抜いた男のまさにそれであり、目から鱗が落ちること請け合いだ。

 その後のレース界ご意見番としての毒舌評論やTV解説も良かった。「この北野君のダイナミックなスリーステップ走法、見ててくださいよ。ほれ、ワン・ツー・スリー」「おや、ハシェミ君が来(き)ないですね」「コーナリングを比べてみましょう。生沢君、さすがにうまい。次に来たこの選手、いかんいかん下手糞ですね、誰でしょう、あ、あたしですね」。腹を抱えて笑ったオイラは当時高校生だったか。レースを見るのが大好きになった。

 その後、サーキットでタナケンとすれ違う場面は何度かあったが、20歳前後の編集アルバイトの分際では、畏れ多くて話し掛けることもできず、ただ競合誌に載るタナケンの寄稿記事を一文字も逃さずに読んで、レース界の表と裏を知った気になっていた。

 決してお行儀はよろしくないし、ちょっぴり幻滅するような話も時々聞こえては来たが、なぜか憎めないユーモアと愛嬌がタナケンにはあった。

 時は流れて一昨年の06年初め、『日本の名レース100選』を創刊するにあたり、タナケンさんへのインタビューも当然考えた。沼津で静養中であることを知り、ロングインタビューは厳しいだろうが、時機を見て連絡してみようということになった。

 06年末、69年日本GP号を編集するにあたり、タナケンがかつて寄稿していた記事を再録すべく、編集部員が許可を得ようと電話連絡した。「そんな重要なことを電話で済ますんじゃない」と一喝され、彼は沼津まで飛んで行った。会うなり笑顔で「やっぱり君だったか」と言われた編集部員は、もちろんタナケンとは初対面だ。記憶違いというより、きっとタナケン流のリップサービスなのだろう。身振り手振りのタナケン独演会がしばし続いたという。帰り際、奥さんから「今日は何で?」と尋ねられ、「昔の記事の再録許可を得に」と答えたら、「それだったら電話で良かったのに」とは、まるでコントのような展開だ。

 オイラは思う。タナケンはレースのことを誰かに話したくてたまらなかったのだ。人恋しかったのに違いない。

 タナケンが亡くなったというハガキを奥さんから得た編集部員は、かつてタナケン番記者をしていた西山平夫(@cars/F1ウォッチ筆者でもある)とともに、線香をあげに行った。足の古傷が悪化して手術しようかという話になったのを頑なに拒み、「まるで意気地なしなんだから」と奥さんは苦笑していたという。かつてサーキットで見かけたタナケンは、レースの酸いも甘いも知り尽くした豪放磊落(らいらく)な勝負師そのものだったが、その実、「カァちゃんにはわがままで甘えん坊」だったらしい。このギャップが、きっとあの怖いけどちょっとお茶目なタナケンを理解するヒントなんだろうと、いま思う。インタビューしたかった。

 人は老い、100%の確率でこの世を去る。

 日本に本格的なカーレースが始まった60年代半ば、当時30歳前後だったトップドライバーたちは、40年余を経た現在、70歳を超える年齢に達した。サーキットでの修羅場をいくつも潜り抜けてきた猛者たちといえども、人の命には限りがある。

 国内レース界第一世代の先頭を切って、いま、田中健二郎が真っ先にチェッカードフラッグを受けた。やはりタナケンは、最後までトップグループを引っ張っていたのだった。

田中健二郎(Kenjiro Tanaka)、60年代のドライバー。12月29日没、享年73

葬式嫌いが連日の参列となり…

 「20年とか30年生きたいとは思わないが、できればあと10年は生きたかった」の言葉は、本日行なわれた葬儀後の出棺時に喪主が参列者への挨拶として語った病床の妻の言葉であった。

 平均寿命がどんどん伸びている中で、55才の年齢はあまりにも若すぎるが、これも現実の光景である。「せめて、息子に嫁さんでも貰ってからだとなー」とは、近所に住む同級生の言葉だったが、私の小中学校の同級生で亡くなった者も増えたが、奥さんを先に送った例は初めてであった。

 同級生と一緒に庭先に立っていると、「おい、かずやー、ここに来てくれッ」と、喪主が大声で私を来賓席に呼び寄せた。そうして座っていると忘れていたが、喪主とは2人で名古屋の私立高校を受験しており、結果的には高校は別々になったが、若かりし頃はよく酒を飲み歩いたことが走馬灯のように蘇ってきた。

 田舎の葬儀には複数の議員が駆けつけて、来賓焼香で順番に呼び上げられる光景が私は嫌いで、葬儀の案内をいただいても公務優先としてきたものの、最近では欠席が許されぬ葬儀も増えており、ここに参列して隣には行かないことも失礼となりと考えると葬式ばかりとなってしまう。

 地域的な慣習であるが、私の住む地域では、葬式の来賓として市長や議員の名前を呼び上げる慣例があり、全く知らない家でも自分の名前が勝手に呼ばれる事が当り前とされており、議員になった当初に参列しない葬儀での私の来賓呼び上げに対して葬儀屋に抗議して止めてもらった経緯がある。

 私は葬儀参列の目安を決めており、自分の同級生と父親の葬儀に参列してもらった人以外は、自分の町内以外への参列を断っており、葬式嫌いの本音で議員になって9年が経過したが、参列する機会が増える一方で、悲しみを引きずっての帰宅となる。

 葬儀後に同級生と珈琲屋で雑談していると、我家とは懇意で父親も家内も親しくしていただいた方の訃報を聞かされた。隣の町内の方で、地元推薦の先輩議員が存在する中で私を支援いただいた方だったが、葬儀の欠席を決め込んでいると、母親が「お父さんも親しくしていた人だから」と言い、夜になって家内からも「息子の中央大学の先輩(80代の大先輩)だから」との言葉が返ってきた。

 考えてみると、名古屋では苦戦中の朝日新聞でも23年間お世話になり、議員になってからも応援していただいた方の葬儀の欠席ははなはだ失礼でもある。「また葬式かァー」との知人の言葉を聞かされる明日の珈琲タイムとなる。

兄貴分の知人の訃報に際して…

 何も変化のない変わりばえもしない一日が終わり、上高地の夕暮れを(パソコンから)最後まで見て一日を終えようと思っていると、思いもよらぬ訃報である。

 「おおしかさ~ん」までは一緒だったが、「主人が亡くなっちゃったんだわー」の言葉に、返す言葉を失った。今年八月に建設現場で倒れ、クモ膜下出血の後遺症で入院中ではあったが、着々と回復しており何とか自宅まではと、市役所や病院、施設と交渉中だっただけに「2階に上がって階段を外された」心境でもあった。

 高齢社会の中で57才の訃報は早すぎるだけでなく、今年の夏までは元気で仕事をしていただけに信じられないばかりか、「オレはオマエの事なら何でも応援する」と言ってくれていた先輩(3才違い)だけに、淋しさよりも悲しみが襲ってきた。

 こんな結末を想像した事もなく、7月には知らなかった事とは言え、朝から飲酒運転(の疑い濃厚)らしき車に乗せられてびっくりした一言(下記参照)も記している。
「バカな事聞くな!」と一喝され(7月6日) http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/22266861.html 

 今月の初めに高校時代の同級生が亡くなり、年末には兄貴分にあたる知人の葬式が今年最後のイベントになりそうである。
 「おぅー、わかった!」と口癖のように何でも快諾してくれた。「おー、おはよー」と街角で会うと声を出し、「おー、オジさんに任しとけッ」とのキップの良さも聞くことはもうない。

 四ヶ月に及ぶ入院により日焼けした顔は真っ白になり、武闘派の菅原文太から知性派に変身しての旅立ちである。ホームページを開設して4年になるが、この間に身近な知人の訃報が増えここへの記載も増えている。生きている事自体に感謝する年齢になっている事を実感させられる。
                              12月26日の一言

同級生の訃報を聞き…

 本日も寒さを実感する一日となり、見苦しいのを承知で首巻(ネックウォーマー・一応Mizunoと書いてありますが)を付けたまま夜を迎えた次第であります。

 12月議会の一般質問は、来週10日(月)と11日(火)に開催されますが、私は初日の2番目の登壇となりました。有線テレビの中継をご覧いただくか、議会を傍聴いただければ幸いです。下記が質問の要旨です。

1件目 市民病院の経営改善について
 ここでは、夜間・休日の受付や救急患者の受け入れ等と、病院収益を上げる方策について質問の予定です。
2件目 津島市の救急体制について
 救急については、5年前と比較して出動件数や内訳、搬送時間の短縮などについて質問します。
3件目 道路(歩道)のバリアフリーについて---歩行者と自転車の安全確保の視点から
 歩道上にある点字ブロックの改善や、歩道の危険個所、電柱・標識の改善について質問します。

 さて、本日は同級生の訃報があり、一宮市役所に勤める同級生が肺がんで亡くなったとの話である。私の同級生では一番出世が早く、2回ほど職場を訪れた事があったが、「おいッ」と手で合図して高校時代と変わらぬ対応に親近感を覚えていたが、春に人間ドックで異常が見つかり闘病生活をおくっていたとの話を聞いても、あまりにも早い他界に言葉もでない。

 「そういえば、タバコが好きだったからなァ」の言葉に、知らせてくれた知人が「それならオレも肺がんじゃないか」の一言がかえってきた。
 もうそんな年になっているんだと実感してしまいそうだが、53や54才の他界は早すぎ、時間的余裕もないために疎遠になっている知人も多く、あらためて同級生との時間の共有について考えてみたい。
                                12月5日の一言

会報発行と突然の訃報と…

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 会報津島の風(第32号A4版8ページ)が完成し、本日の早朝(3時半)より戸別配付をはじめました。

 出会った人々から「久しぶりだね」には気恥ずかしいが、「来月の旅行は何処に行くの?」には今年に入って企画をしていない事から、議員活動とは一線を引いている『朝日旅行友の会』については、会員独自への全く別物の案内と報告が必要と実感させられた。

 さて、本日は朝一番で親族の訃報の連絡である。家内の在所の母親からの電話は、家内の姉のご主人(私にとっては義兄にあたる)が肺がんにより66才で亡くなったとの連絡であった。
 私にとっては初めての兄弟間の訃報であるが、家内の親族ゆえに状況も詳しく判らず、夜に訪問した通夜で見た死顔にびっくりである。

 昨年に在所の父親が亡くなった時にも具合が悪いとは聞き、その後に入院されて家内らは見舞いにも訪れているが、その後の容態については悪いとは聞きながらも、絶望的とは最近まで知らされず、抗がん剤と食事も取れなかった事から、骨と皮だけで、90才をこえて亡くなった在所の親よりも老けて見えたのである。

 私の父親も胃がんによって65才で亡くなっているが、がん患者の最悪の状況を見せ付けられたような気分で、改めてガンの厳しい現実を見せられたと思うのと、34才で家を離れて生計を営む息子さんにも、将来計画を語り合う事もなく亡くなった現実が淋しく感ずるものである。

 こんな突然の訃報に接して、先週末の胃がん検診や、明日には基本検診を控えている自分であるが、自分が発病した時に家族はどのように対応するかによっては、健康診断の意味も無い社会の現実を本日の通夜で聞かされてきた。

 「主人は医者嫌いだったから…」は誰しも同じであるが、亡くなった当事者が家族の経済的負担と、見舞いにくる家族の足を考えて、十分とは思えぬ治療を自覚しつつ入院治療していた現実である。
 「何処で治療を受けても料金は同じだから…」と、手術を必要とする人々にはできるだけ高度な病院を薦めているが、レベルの低さを知りながら、付き添いにくる家族や仕事を考えて病院を選択している人々は結構多い。

 昨年すい臓ガンで亡くなった叔父にも、埼玉県の医療機関を薦めたが、「そんな所まで行けないだろう」と、本人にも情報が伝えられず、「せめて名古屋の大学病院に…」と伝えたが、「どこでも同じ」として、治る可能性も低い手術を受けて他界していった。

 百歳を超えた老人が水泳の日本記録を樹立したとの報も伝わる中で、田舎では随分と命が粗末にされて若くして命を散らしている現実を実感する。義理とは言え、初めての兄弟の葬儀を経験し、自分にも差し迫りつつある寿命の短さも実感させられた。
                            10月29日の一言

浪漫亭砂九と永遠の別れ

 本日は、49才の若さで去っていった落語家『浪漫亭砂九』こと、纐纈彰良さんの葬儀に参列した。あまりにも突然の交通事故死であり、本人もやり残した事ばかりと想う。
 テレビニュースでは、悲惨な事故の模様が映し出され、ペチャンコになった砂九さんの運転席も放映されたが、相手である28才の男は飲酒運転であった。しかも、直進中に突然右折してきた対向車との衝突だけに、相手を怒るどころか、家族への別れの言葉すら発しないままの別れである。
 勝手な事だが、これだけ飲酒運転に批判が集まり、連日のように新聞やテレビで報道されている中で、相手の男は事故直前の午前4時まで、中川区や中区で酒を飲んでいたとの報道から、厳しい厳罰は勿論だが、酒を提供した店への処分も絶対に必要である。
 彼と出会ってから数年であるが、私の主催した座談会と共催した『出前寄席』は36回を数え、勉強会から『大鹿寄席』と名称を代え、私と津島市民との対話の背中を押してくれる原動力にもなっていた。
 彼のホームページには、私(一八)を『周りの人々』の中にマネージャーとして紹介し、「津島市会議員だって。ちょっとかための真面目人間」と紹介してくれていた。同じマネージャーとして『兄貴分』と紹介されている茜屋のマスターも闘病中であり、最後の別れが出来なかった口惜しさを考えると涙が止まらず、帰宅後も『浪漫亭砂九』の残像を探して泣き続けている。
 「一八さん、泣いててもしょうがないじゃん」と彼が笑顔で話しかけてきそうでもあるが、茜屋のテーブルで日ごろのストレスから愚痴る私に、冷や水をかぶせるマスターのあとで、私に同情してフォローしていたのが砂九さんであった。
 最近は砂九さんの人気を理由にして、自分の忙しさから身勝手に半年間座談会を休止しており、今月から再開したばかりでの別離である。しかも、次がない永遠の別離である。
 出棺前、最後の別れとして、彼の右手あたりに『浪漫亭砂九私設マネージャー』と記した私の名刺と、遍路旅に使う『同行二人』の納め札に願意と記名をして置き、胸に置かれた彼愛用の『扇子』を握り締め、最後の別れとしたが、涙が止まらない。「それだけ泣き続ければ、きっと痩せられるでしょう」と、語りかけて欲しいが…
 ただし、一昨日から訃報と葬儀の案内だけになっていた彼のホームページが、息子さんの手によって今晩『会葬御礼』に更新されてきた。彼の残した足跡は確実に残されている事を、今晩更新されたホームページから感じるとともに、少なくとも私の2期目、ここ4年間は確実に『浪漫亭砂九』と二人三脚だった事を実感し、彼の冥福を祈り、彼の記憶と記録を永遠にとどめたい。
                               11月26日の一言

二度と会えなくなって…

 本日の夕刊に、『酒気帯び?衝突死亡事故』の記事が掲載されてきた。本日午前5時15分頃の事故であるが、酒気帯びと思われる車との事故によって尊い命を失った纐纈彰良さんは、私の主催するまちかど座談会に出前寄席として出演していた『浪漫亭砂九』さんであった。
 早朝から鳴り響く電話で、訃報が知人より伝わったが、まったく信じられない事だけに、間違いであればと思っていると、直後に鳴った携帯電話の発信者は『砂九』と表示され、一度は「良かった」と思ったが、受話器の相手は砂九さんではなく、息子さんの声であった。
 この頃から、本日は無気力な一日となり、何も手がつかずに経過したが、明日の『バリアフリー検証会』と、産業フェスタの展示品は待ってはくれないので、夜になって取り掛かっていると、再度『砂九』さんの表示であったが、電話の声は奥さんであった。声と言うより泣き声であった。
 連日のように、飲酒運転の事故が報道されてくるが、悲しみや怒りは、親しい人物が被害者にならないと判らない。49才の命…。家業の仕事はどうなるのか。親の体調を心配していたが…。まだ学校に通っている子供達は、と考えると涙が止まらない。
 最後に会ったのは、今月の11日に津島市の喜多神団地で開催した『出前寄席』であった。私と市民との意見交換のため満足な会話も無いままに別れ、その夜の電話で「来月10日の出前寄席にはゆっくりと話そう」と発した言葉が最後となった。今となっては、再会どころか、10日には実施どころではなくなり、「話そう」ではなく、話しておくべきだったと後悔の念のみが残る。
 過去を振り返ろうと彼のホームページを見ると、訃報と葬儀の案内に一新されており、自分の過去まで失ったようで気力も失せる。
 私の主催する『浪漫亭砂九』の落語会は15年2月8日が初めてである。以来、今月まで36回の勉強会を津島市で開催し、彼のホームページには私が『私設マネージャー』と記されるようになり、勉強会から『大鹿寄席』に昇格されていた。
 過去を振り返ってもしようがないが、突然の別れは後悔も多い。「いつでも呼んで下さい」と、気軽に落語をPRしていたが、これからは呼ぶ人がなく、こんな別れは予想もできなかったが、現実に起こった事件でもある。家族の心痛を想うと涙が止まらない…。
                              11月24日の一言
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