大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

横井庄一記念館の一年

天声人語 横井庄一発見から半世紀

本日の夕暮れ 午後5時37分


本日の朝日新聞朝刊





本日の朝日新聞夕刊


 本日は横井庄一さんがグアム島で発見されて50年目にあたり、朝日新聞朝刊に掲載された天声人語の中で私の名前を見た知人から複数の電話が入り、午後にも東京や全国各地の方々からの問い合わせが届きました。

 記念館が休館になって2年が経過しており、その間にテレビや新聞で報道されると、直接電話連絡ができない人々は、ネット検索から私の事務所や自宅の電話番号を探して、全国各地から問い合わせや、中には名古屋に来て現地から電話をかけてくる人も存在します。

 私の寿命があと何年あるかは判りませんが、我家で小学校5年生まで「大鹿庄一」として生活していた横井さんの幼少期と、横井さんが私に語った言葉を思い出しながら、残された人生の中で横井さんの記録を残していきたいと思っています。
                                1月24日の一言

朝日新聞社の取材を受けて

朝日新聞社の看板記事「天声人語」

創刊140周年にびっくり


 私は新聞配達もしたことがありませんでしたが、大学3年次の昭和52年に朝日新聞販売店の店主として起業しました。両親や親族が全員反対する中で、横井庄一さんだけが「朝日新聞は信用できる」と後押ししてくれ、保証人にも名乗りをあげましたが、新聞社との契約時に横井さんの保証人は無理と言われ、私の推薦人として名を連ねてくれました。


 なにゆえに横井さんが朝日新聞を大好きだったかは後日記したいと思います。


 その当時に創刊100周年に向けた記念行事が続きましたが、取材時に差し出された名刺に記された創刊140年の書き込みから、年月の経過の早さとともに、自分の年齢と置かれた立場を実感させられました。


名古屋市博物館 名古屋市瑞穂区

本日の写真です。

 朝日新聞社から「横井庄一」さんについて取材依頼を受け、最近のテレビ番組や新聞記事が発見当時とは微妙に違う脚色が見受けられるため、名古屋市博物館で生前の横井さんを知る元学芸員さんとともに取材を受けました。

 コロナ禍で記念館は2年間近く休館状態になっており、久しく語ることもなく認知症気味の脳をリフレッシュするために、横井さんの経歴を読み直し、戸籍や幼少時一緒に生活した家族関係を整理すると、過去に報道された記事に大きな疑問が湧いてきました。

 生後3か月頃に離婚して母親の実家である我が家に戻ってきた母親は、赤ちゃんの庄一さんを我が家に置いたまま住み込みで奉公に出てしまい、庄一さんは従姉妹になる私の祖母や伯母となる私の曾祖母ら3人と小学校5年生まで「大鹿庄一」として貧しい極貧の生活を送ります。

横井さんが「明日への道」に記した自分の生い立ちです。

 その頃、私はまだ幼くて、父と母との間にどういう事情があったのかわかりませんが、母は生れて三ヶ月にしかならない乳のみ児の私をおいて、実家に帰ってしまいました。
 洋服屋の父は、私のことなど構わないため、祖母 (父の母) が、近所に貰い乳をして歩いたあげく、たまりかねて母の里へ母の留守をねらって赤ん坊の私を置いて行く、一方母は、再婚に差しつかえると考えたのか、また私を父の方へ返しに行く、そんなことが何度かあった後、とうとう私は、最終的には母の方に引きとられて育てられました。
 その当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。

の当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
 現代では、離婚をしても何もいわれませんが、その頃 (大正の初め) は、「出戻り」などと、人に後ろ指をさされて女性は大層肩身の狭い思いをしたものです。
 それで母も実家には居辛くて、ひとり、街へ、女中奉公にでてしまいました。後に残された私は、私のいとこになる、あきゑ、キヌ姉妹が可愛がって育ててくれましたが・・。

私は、小さい時から、親も、兄弟もなく、自分の家とてもないひとりぼっちの寂しい境遇で、よく友だちからも「親なし子」と馬鹿にされ、いじめられました。
 自然私は、消極的な、おとなしい、無口な子供になり、みんなから私の名前、大鹿 庄一をもじって、「オシか、ツンボか、庄一か」とはやされるほどでした。
 子供心に人知れずどれほど口惜しく思ったことか、そして人並みに、親と一緒に暮せる生活を幾度夢みたことかしれません。
 

 私が十二の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので私も一緒につれられて行きました。
「ああ、やっと母と一緒に暮せる、自分の家もできる」
 と、喜んだのも束の間、やはりそこも、私にとって安住の場所ではありませんでした。新しい義父は、とてもよい人で、ひとから「仏の重三さん」といわれるほどでしたが人が好すぎるために押しがきかず、まわりの人たちに、母も、連れ子の私も、ずいぶんひどく扱われました。ことごとに苦労する母を見るにつけ、「こんなに口惜しく、辛い思いをするぐらいなら、母はなぜ、再婚なんかしたんだろう。もうあとわずか二、三年の辛抱で、自分が学校を卒業したら一生懸命働いて親子みずいらずでも幸せに暮せたものを」と心の中で、何度思ったことかわかりません
 
                                横井庄一手記「明日への道」


 添付した文章はグアム島から帰国した横井さんが記した明日への道の記事ですが、実際には生々しい事実は伏せられているものの、生まれた直後から母親とは小学校5年生になるまで別々の生活となり、再婚先の横井家に母親は庄一さんの存在を隠したまま嫁いでおり、子供が居なかったため連れてくるように言われて大正15年に横井家へ入りました。

 昨日過去の戸籍簿を見直して確認したところ、その後小学校と珠算学校を卒業して昭和5年に豊橋市の洋服店に住み込みで勤務していますが、大正15年に横井家に入りながら昭和7年になるまで横井家には入籍もされていません。

 過酷な幼少時の体験から、「母一人、子一人」とか、息子の戦死を否定する母の存在がグアム島で生き抜いた原動力と報道されてきましたが、現実には母親は戦後間際の昭和23年に横井さんの永代供養を寺に依頼し、昭和30年に立派なお墓も建立しています。

 「庄一は生きとる」との母親の一言は、戦後誰一人として味方の居なくなった横井家の親戚から追い払われないための方便であり、終戦時の昭和20年に30歳になっていた横井庄一さんと母親が一緒に暮らしたのは12歳以降の10年弱しかなく、グアム島で生き抜いた原動力は間違っても母親ではありません。


 世間常識では理解されない幼少時の極貧生活について、横井さんは第三者には誰にも口にすることはありませんでしたが、時々の出会いの中ではありますが、実家の長男である私には気を許したのか皆さんからは想像もできないと思われる幼少時の話を聞くことがありました。


 グアム島で発見されて50年が経過しようとしていますが、当時横井さんを取材した横井番と言われる新聞記者も皆無となり、本当の横井さんの心情や気持ちは伝わらないままに年月が経過している現実を、横井さんと親交のあった博物館の元学芸員さんの話からも確信した一日となりました。


 現代社会でも学校のいじめが問題になっていますが、横井さんの幼少時は「死ぬしかない」と思われるような罵詈雑言やいじめを受けており、親に置き去りにされた環境から生き抜いてきた横井さんだけに本音が聞けれれば、随分と現代社会に役立ったのかもしれません。


                                  1月7日の一言

本日の写真 横井庄一記念館から


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記念館は日曜日のみ午前10時から午後4時30分まで開館しています

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午後4時18分の私です

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カラーボックスを買ってきました

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最初は苦戦しました

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91歳の横井夫人も手伝います 閉館時間が過ぎました 午後4時33分

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何とか完成です

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収納ボックスです

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取り出すとこんな感じです

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ボックスに収まりました

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座敷に馴染んでいます 午後4時48分


 最近は毎週のように横井庄一記念館に出向いていますが、遠方から来られた方々との会話は新鮮で、一週間に一日とは言え館長の横井夫人が元気で生活できる源泉のように思われます。

 さて、最近では私自身の物忘れがひどくなり、伝えるべき手紙や連絡を忘れて、「また来週に」の繰り返しとなっており、NPO法人の入会希望者の住所と氏名を伝えるために手紙を探すこと一時間…

 結局はパソコンの横に置いてある手紙の下敷きになっており、会計の記録も入館料無料のため、自分の立替払いだから大丈夫とため込んで、領収書もまとめていなかったので、本日は記念館で現金出納帳に書き記しました。

 91歳とは言え、認知症のかけらもない横井夫人ですが、全国から届く手紙の返信に座敷が手紙や資料の山となっており、座敷から縁側に座ってゆっくりとくつろいでいた開館当初の話をしていると、「収納するカラーボックスを買ってきてくれる」との話になりました。

 記念館から車で5分の距離にホームセンターがあり、簡単に買ってくるつもりでしたが、自分で組み立てるカラーボックスは低額になることから、迷いつつ記念館の閉館時間と競争の慌ただしい作業となりました。

 さて、平成9年に亡くなった横井庄一さんは手先が器用で、私のような不器用な組み立てでは無いだろうと話すと、「横井なら自宅にある材料で工夫して作ってしまったと思う」と言われ、天国から見られているような中で、汗をかきつつ一仕事を終えての帰宅となりました。

                                    2月3日の一言


グアム島で横井庄一さんが発見された日


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発見の翌日の朝日新聞

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発見直後の様子

 本日は横井庄一がグアム島で発見された日ですが、日本テレビが年末に何度も記念館へ取材に訪れており、内村光良さんが司会をするTHE突破ファイルで本日放送されました。
 発見されて47年が経過しており、豊かで平和な世の中になっているため、グアム島での逃亡生活は番組とは若干違いますが、衣食住の全く無い中からどうやって生き延びたかという事実を、記念館からも発信して、横井庄一の希望した戦争の無い平和な社会と、命を大切にする発信に務めたいと思います。

 さて、かつての横井庄一の公式ホームページは、サイトの提供元が閉鎖されたままになっており、当時のホームページビルダー内に多くの写真が保存されているものの、取り出せないようになっているため、マスコミの要望にも応えられないことが多く、何とか取り出して保存し直したいと思います。

                                     1月24日の一言


横井庄一さんの月命日へ


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横井庄一記念館西の道路新設現場 本日午前11時

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記念館玄関の庭も道路下へ

 本日22日は横井庄一さんの月命日(平成9年9月22日没)のため、家内とともに記念館(自宅)を訪れました。 今年は横井さんの23回忌の年にあたります。

 さて、1月24日は、昭和47年に横井庄一さんがグアム島で発見された日ですが、偶然にも明後日の24日(木)には、紅白歌合戦の司会者内村光良さんがメインキャスターを務め、サンドウィッチマンがレギュラー出演する日本テレビのTHE突破ファイルで、夜7時から横井さんをテーマにした番組が放映されます。

1月24日午後7時から、チャンネルは日本テレビへ

THE突破ファイル 1月24日 https://www.ntv.co.jp/toppa/


 この番組は、追い詰められた人間の奇跡の突破劇をドラマ化したもので、食料も仲間も居ないグアム島で、生きていくために口にした食料や、病気を自分で治した体験とともに、発見時に射殺される危機一髪の時に発した「デマカセ」の一語など、これまで一度も報道されたこともない発信があるかも知れません。

 自然界のなかで、自分ひとりで生きる事は絶えず生命の危機に瀕しており、これまで公では語られたことのない言葉について、おしゃべりの私に同調して夫人が口にした内容も発信されると思われます。

 横井庄一さんは、母親の実家である我家で小学校5年生まで「大鹿庄一」として生活していましたが、離婚した母親の連れ子として周りの同級生からイジメられ、横井家に養子で連れて行かれた後には親族にいじめられ、自分の苦しみや悲しみは人に言わない寡黙な人物でした。

 横井さんと同じように、幼くして両親と死別した私の父親も、自分の嫌な事や泣き言は言わぬ性格でしたが、恵まれて育てられた私は、困ったことや苦しみは何でも人に伝えてその助言を糧にして生活してきたため、横井さんのイメージを損なったとしても事実を正確に後世に残したいと思っています。

 今や夫人も91歳になっており、認知症のかけらもなく記憶力は衰えてはいないものの、体力の衰えは否めず、夫人しか知らない横井さんの私生活や逸話について、事実を正確に書き記して欲しいと思っています。

 明後日のテレビを是非ともご覧下さい。 
               
                                   1月22日の一言

                                                                                   

本日も横井庄一記念館の一日となり


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本日の記念館

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横井庄一さんのお墓

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記念館内の取材

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頼むよ

 先週に引き続いて横井庄一記念館の一日となりました。

 昨日訪れた京都大原は初雪となり、途中の滋賀県では雪を横目の運転となり、宝泉院では扉を取り払った額縁の間で膝を震わせて住職と話していましたが、本日はさらに寒い今シーズンになって一番の冷え込みとなりました。

 横井庄一記念館も本日はテレビ局の取材を受けましたが、エアコンの暖房の音が撮影に影響するため、冷え冷えとした室内となりましたが、本日は地元の方々だけでなく、福島県や宮城県の仙台から来られた来館者があり、本日も夫人が91歳になったとは思えない熱心な案内をおこなっていました。

 今年は最後の日曜日となる30日も開館する予定ですが、記念館前の道路拡幅が予定されており、来月から玄関前の工事がおこなわれるため、添付した玄関前の景色も今月が最後となります。この機会に是非ご来場下さい。

                                  12月16日の一言


横井庄一記念館の一日になり


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スカイラインGT-t

 本日は横井庄一記念館へ日本テレビの取材があり、午前中から午後4時30分の閉館時間まで記念館の一日となりました。添付したスカイラインは記念館横の駐車場に置いてありました。

 テレビ番組は、本年10月からスタートした「THE突破ファイル」で、ウッチャンこと内村光良さんの司会で、サンドウィッチマンがレギュラー解答者として出演しており、横井庄一さんがグアム島で体験した絶体絶命のピンチをどのように乗り越えたか再現ドラマとして来年1月24日に放映される予定です。是非ご覧下さい。

番組概要
絶体絶命のピンチにこそ人間の真価が発揮される!あらゆるジャンルで実際に起きた驚きの突破劇を再取材。詳細な情報を基に物語を再構築し、再現ドラマとクイズで奇跡の突破劇をドラマチックにお届けする新感覚ドラマ&クイズバラエティー!

THE突破ファイル|日本テレビ - 日テレ https://www.ntv.co.jp/toppa/

 取材を受ける前に、横井庄一さんの絶体絶命のピンチは何だったかと夫人と雑談に花を咲かせましたが、私はアメリカ軍の艦砲射撃をかいくぐって生き延びたことと、昭和47年1月にグアム島のジャングルで銃を手にした現地人2人と遭遇したことが絶体絶命のピンチではなかったかと思います。

 しかし、28年間も食料もなく、隠れて生活することはピンチの連続で、毒のある食べ物を口にしたり、医者しか治せない身体の異変にも生死を分ける決断が必要となり、洞穴の周りに現地人が行き交うときは生きた心地がしなかったと思われます。

 ジャングルでサバイバル生活をおくったことと、旧日本兵と言うことで本人とは違ったイメージを持たれる人も多く、帰国後に一緒に生活した夫人と、横井さんが生後3ケ月から小学校5年生まで生活した我家の肉親として2人が取材に応じたことで、今までは違う横井像と、生き抜くための本音も感じてもらえたかも知れません。

 横井庄一さんをテーマにした雑誌や本は多く出版されていますが、帰国後の生活を記した記録と、不屈の精神力の源となった幼少時の生い立ちについては記録されていないため、夫人が元気なうちに私の合作で記録を残していくことも必要です。

 MCの内村さんとサンドウィッチマンの明るいキャラクターで、軍人ではなく人間としての横井庄一さんが語られることに期待しています。

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中村公園の大鳥居

 おしゃべりの私の影響で取材時間が大幅にのびたため、家内が取材陣を中村公園まで送っていきました。本日は福岡県から来られたご婦人や、近隣の来訪者も続いて、にぎやかな一日となりました。

                                 12月9日の一言


横井庄一記念館のクラフト教室


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会場にした記念館の座敷が満員になりました

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それぞれが竹を使った作業です

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先生役のHさん 環境省のボランティアです

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子供が主役です

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真剣な作業です

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やはりお父さんは頼りになります

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私の作った竹笛

 横井庄一記念館で開催したクラフト教室は、開館時間の午前10時前から参加される親子連れの方々が集り、開館直後の記念館は満員となり、待ちきれずに帰られる人もありましたが、午後4時過ぎまで「竹笛」づくりが続きました。

 親子連ればかりかと思っていましたが、80歳過ぎのご婦人も参加され、今年91歳となる横井夫人と談笑し、自分の作った竹笛を持って帰られました。

 もっとも、添付した竹笛のように、2本の太い竹と細い竹があれば簡単に作れますが、竹を接着する位置が難しく、原理は判っても音は簡単にはでず、先生役を依頼したHさんが存在したことで全員笛を完成させて帰られました。

 今回の竹を使ったクラフト教室は、上高地で環境省のパークボランティアに参加され、お盆に開催されるクラフト教室の責任者を務められるHさんが、名古屋市中川区の住民であることから先生役をお願いして実現しました。

 平成18年に開館した記念館は、これまで洞穴の模型や横井庄一の遺品等を鑑賞してもらう施設として毎週日曜日に開館してきましたが、今回のクラフト教室のようにもの作りのイベントや、横井庄一の茶碗を使った簡単なお茶会など、今後は見るだけでなく参加する行事を開催していく予定です。

 これまでに自分で作った陶器の器でお茶や珈琲を楽しむ会や、横井庄一のサバイバル生活を真似た自炊のキャンプ生活など、記念館に期待する声も届けられており、記念館でできる陶芸教室やお茶会など、大人も子供も楽しめる行事を考えています。

 本日の竹笛作りを開催するため、記念館と道路をはさんだ向かい側となる大治町の人々にも案内したことで参加者があり、これまでの名古屋市や中川区の記念館ではなく、地域の記念館になれたようにも思います。

 参加された多くの人々に感謝です。
                                   11月18日の一言


里帰りした横井庄一の色紙


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我家に届けられたゆうパック

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同封されていた手紙

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誠心

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仏心

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辛抱

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差出人は横井庄一(戴徳)の昭和47年8月と9月の直筆

 昭和47年8月と9月の2度にわたって福井県の中学三年生Aさんと、横井庄一が手紙で交流した際に同封した色紙で、長年ラップ等で大切に保管されていたものが、横井庄一記念館に里帰りし、我が家の2階にあるミニ記念館と分けて展示保存していくつもりです。

 48年の3月に高校受験を前にしたAさんに激励の手紙も送っており、Aさんは受験当日にこの手紙もカバンに入れて受験したエピソードも記されていました。
 送付された色紙や手紙の権限は私に一任するとの書き込みもありますが、横井美保子夫人と相談して大切に継承していきたいと思っています。

 横井庄一は昭和47年1月24日にグアム島で発見され、4月に名古屋市中川区千音寺に帰り、11月に結婚して翌年2月に現在の自宅が完成しており、里帰りした色紙や手紙のやりとりは帰国後の慌ただしい時期に交わされていたことになります。

 さて、平成18年に記念館を開館して以来、横井庄一の作陶した茶碗などが里帰りしていますが、買い取って欲しいと高額の金額を提示されるケースもあり、記念館を開館した記念に無料で差し上げた印刷した色紙がネット上で高額で売買されるケースもあります。

 発見されて四十数年が経過し、平成9年に亡くなってから20年以上が経過する中で、本人と直接関わった人たちの多くは鬼籍に入っておられ、世代交代によって横井庄一の品々も捨てられたり他人の手に渡っていきます。

 そんな中で、手紙や色紙の詳細を記した説明書きも添付して帰ってきた品は貴重で、手紙から横井庄一の素顔がにじみ出ていました。

 有難うございました。                                 
                                    11月9日の一言


横井庄一記念館のボランティア


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曹洞宗長禅寺 名古屋市中川区千音寺
                           中川区富田町大字千音寺字南屋敷2782

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 今月18日に横井庄一記念館で開催予定の「クラフト教室」の宣伝のため、家内と一緒に名古屋市中川区内の住宅地へ案内チラシを配布しましたが、名古屋市と合併する前は私たちと同じ海部郡だったことを実感する環境が千音寺には残っていました。

 むしろ、私の住んでいる旧神守村の農家よりも規模の大きい農家がそのまま残されており、立派な豪農が存在したことで区画整理がなされなかったのか、車の通行できない小路がそのままになっており、添付した曹洞宗のお寺についても、津島市には存在しないような広大な敷地に建っていながら、一般の車が通らないためかネット情報も何も存在していません。

 そして、昔ながらの竹林や竹薮が各地に残されていることにも驚きで、今回のクラフト教室のテーマは「竹」としており、横井庄一さんが隠れていたグアム島の密林に竹が多く、竹を使った漁具などを使っていたことからクラフト教室でも竹を使った「竹笛」を作ることにした次第です。

 広告は今週月曜日に配布しており、この広告を見た人から問い合わせや申し込みの連絡があり、これまでにも地域へイベント情報を配布した経験はありますが、自分の住んでいない地域での活動は自身の利害がない本当のボランティアのため、新たなボランティア意識が芽生えてきました。

 横井庄一記念館についても、横井さんの直筆の手紙も多数残されており、黒柳徹子さんから届けらた手紙や著名人の手紙もあることから、今後は秘蔵されている遺品や写真などを定期的に公開して、人が集う記念館にしていきたいと考えています。

 さて、今月に入って3日に上高地で2万歩近く歩き、5日にチラシ配布で1万5千歩、そして本日も1万5千歩歩いたことで、健康を意識せずにウォーキングになっており、こんな環境が考えずに続けられたら幸いと思います。

                                     11月8日の一言


午前中胃カメラ、午後はボランティアで汗を流して


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本日の夕暮れ 津島市日光交差点 午後5時08分

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中川区千音寺の自然 東名阪大治南302号沿い

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赤星神社

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千音寺すみれ保育園前

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名古屋高速千音寺インター付近

 胃がん検診で要観察となったため、私の意思で本日朝に胃カメラの検査を受け、異状はないことを確認し、ピロリ菌検査を受けて帰宅しましたが、午前11時までは麻酔がかかっているため飲食を控えることになり、朝食抜きで知人のボランティアに走りました。

 幸いにして午後は太陽の陽射しがあったため、午後は横井庄一記念館の周辺に18日に開催する竹を使ったクラフト教室の案内チラシを、家内と2人で配布することにしましたが…

 自宅を出発しようとすると三男の車が嫁さんと孫を乗せてやってきました。
 来月の私の誕生日と同じ日に満一歳となる孫は、私にとっては我が子より可愛い分身のような存在であり、車を降りて相手をしていると時間がどんどん経過していき、心を鬼にして外出しました。

 「横井庄一記念館から来ました」の一言は、チラシをポストに配布する祭に出会った人に発する挨拶ですが、昭和47年にグアム島で横井さんが発見される以前から千音寺に住んでおられる人は反応が良く、「美保子さんは元気かなぁ」の会話となり、今年NPO法人化した記念館を地域住民の憩いの場所にしたいと新たな意欲が湧いてきました。

 記念館は名古屋市中川区と海部郡大治町の境界道路に位置しますが、大治町に案内チラシを配布した家内には、「横井さんは名古屋市でしょう」と間違って配布していると感じる人が多く、かつて千音寺も海部郡であったことを知らない住民も多く、町の名前に関係なく立ち寄れる記念館にしていく必要も感じました。

 本日の配布に要した歩数は約1万4千歩で、土曜日に1万8千歩歩いた上高地のようには歩きませんが、今後は議員活動で会報を配布していた体力を、NPO法人やボランティア活動に役立て、一般市民として名古屋市でも新たな居場所ができれば幸いと思う一日となりました。

 庄一さんが幼少時に「大鹿庄一」として生活していた我家(津島市)と、横井庄一として夫人と晩年まで生活した自宅(名古屋市中川区)を舞台にしてボランティア活動ができることも、使命感として私の健康長寿になれば幸いです。

                                    11月5日の一言


小雨降る横井庄一記念館から


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 横井庄一記念館では18日に竹を使ったクラフト教室を開催予定ですが、参加者を募集するために案内チラシを配布するため、昨晩に上高地から帰ってきたものの、本日は小雨が降ったり止んだりしており配布ができません。

 小雨の連休で記念館も来客が無かったことから、プロカメラマンが生前の横井さんを撮影した写真を夫人が引っ張り出し、仏壇の下から横井さんが作陶した皿を出すと、座敷は荷物置き場と化し、足の踏み場もなくなってしまいました。

 「ピンポーン」

 そんな中へ記念館見学のお客さんがご夫婦で訪問され、座敷に入れないことを説明して、夫人が横井さんの戦争体験を語っていると次のお客さんの訪問があり、私も久々に記念館の説明係りになりました。

 今年65歳になる私が老眼鏡がないと文字が判別できないのに、91歳になる横井夫人は老眼鏡を使わずに新聞も読めますから、それを聞いた人はびっくりとします。

 記念館に展示してある品々もそれなりの価値はあると思いますが、遺品を整理して横井庄一さんが生前やりとりした手紙や写真を整理すれば、今までとは違う鑑賞ができ、作陶した茶碗や壷についても初期の失敗作品に面白い品々が存在します。考えるのは簡単ですが、何かをすればお金がかかり、私の無責任な会話がどれだけ実現できるかはわかりません。

 「大鹿さんが次期館長ですので」と、横井夫人がお客さんに説明しているのを聞くたびに、無料で開館を続けてきた夫人の苦労とともに、年金受給者になっていく自分の大きなストレスにならないようしたいと思います。

                                     11月4日の一言


忙しすぎる綱渡り生活に


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クラフト教室の案内 横井庄一記念館を護る会

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グルーガンと接着剤のスティック

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竹引きのノコギリ

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竹に穴をあけるドリルの歯

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息子が高校時代に作った万力

 本日は近所の知人の葬儀があり、私が議員になった直後に広島と四国を車2台に分乗して、知人と私が運転手で町内の仲間と2泊3日の旅行をしたことを思い浮かべていると、この旅が私の四国遍路のきっかけとなったことと、後に知人の奥さんとも四国遍路に廻ったことなどがまだ最近のことのように思い浮かびました。
 ただし、この時一緒だったご夫婦と、私の後援会長も他界されている現実と、若いと思っていた知人は83歳になっておられたこと、旅行当時は私の現在の年齢だったこと、旅行から20年も経過していたことにもびっくりです。

 葬儀場で僧侶から個人のエピソードを聞いているうちに、当時は自前のモーターボートで九州から山陰にかけてマグロ釣りに出かけられ、釣れ過ぎて困ったマグロを近所で料理屋に運び込んで近所の皆さんと食べたことも思い出しました。

 今年65歳になる私の年齢は、若いと思っていてもあと20年ほどて終わる現実と、早ければいつでもお迎えがくる現実を考えると、悔いのない生活に努めたいと思います。

 さて、本日は福祉有償運送の依頼が5人あり、家内が一人で受ける限界と、何故に他のボランティアに割り振らなかったと叱っていると、連絡の無かった会員さんから待っていると電話が入り、相手の連絡ミスでも病院の予約時間があるため、葬儀前と後に私が走ることになりました。

 「12日も頼んであるんだけど…」の一言に、この日は沖縄を訪れるためボランティアを断って空白になっているため、連絡したと思いこんで勘違いしておられるとは判りましたが、他のボランティアが快く引き受けてくれきした。

 家内に確認すると、連絡を忘れていた人のほかに、2人の依頼は昨晩になってからあったため他のボランティアに依頼できなかったと判りましたが、今月の月末まで患者さんの通院予約があると病気にもなっておれません。

 添付した案内は18日のイベントですが、明日に上高地のパークボランティアへ参加し、日曜日に横井庄一記念館の近くに案内チラシを配布するものの、私に万が一の事態があると実行できないため、当日必要になる竹はもちろんですが、必要となる道具を揃えてあり近々持参しておこうと考えています。

 来週に知多半島88か所巡礼の運転手を依頼されており、12日から沖縄への家族旅行があり、何よりも来週は胃がん検診の再検査で胃カメラを飲む個人的なスケジュールをこなしていくと、約束したボランティアにも万が一の仕組みを考える必要もありそうです。

                                     11月2日の一言


横井庄一記念間西側のススキが見事です


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横井庄一記念館西側のススキ

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見事なススキです

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記念館前の草ボケ

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記念館の柿の木

 横井庄一記念館は名古屋市中川区にありますが、記念館前の道路が拡幅されて新道が建設されることに伴い、記念館西側や南側に残っていた水田や畑を区画整理して、将来は住宅地になっていきます。

 現在は記念館西側の広大な土地にススキが群生し、都会では珍しい自然環境になっていますが、これも今年が最後になりそうで、記念館玄関の道路建設が来年には始まる可能性があり、記念館前の樹木の剪定はしないように言われています。

 記念館玄関周辺に植えられている樹木は、横井さんが帰国後に自分が幼少時にタネをまいたマキの木を移設したり、知人からいただいたお気に入りの木が多く残されてきましたが、道路拡幅による庭の削減によって柿の木など今年が最後になる樹木も存在します。

 昭和47年にグアム島で発見され、帰国直後に自宅が建設されましたが、自給自足の耐乏生活をおくっていた頃には畑も耕され、庭にも自分で入手した木々が植えられたものの、平成になった頃には病気によって現状維持となり、本日も親族の庭師さんが庭の剪定に入っていますが、畑は雑草が生え放題になっています。

 それも魅力で、記念館西側のススキの原っぱは観光地とは言えないものの、都会の中では珍しい自然環境となっています。

                                10月22日の一言


お彼岸に墓参りへ

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お寺の墓にお骨は入っていません

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グアム島の小動物の慰霊碑とともに

 本日はお彼岸でもありますが、横井庄一さんの命日でもあり、自宅で菩提寺のご住職をお待ちして仏壇に手を合わせた後に、千音寺霊園にある小動物の慰霊碑とともに建つお墓の花を替えてから、菩提寺にある旧陸軍軍曹のお墓にもお参りしてきました。

 皮肉なもので、横井さんの母親がお寺に残したお墓については、昭和47年に横井さんが発見されるまで主は不在で、平成9年に本人が没した後には遺言で、グアム島の小動物を慰霊する碑と一緒のお墓に葬られました。

 グアム島で28年間に及ぶ自給自足の生活で、口に入れた小動物の数は膨大となり、生きていくためとは言え、生きた動物の命を絶って生き抜いた横井さんの気持を考えると風化させたくない遺言です。

 さて、夜には知人の通夜があり、名古屋市港区まで知人とともに走りましたが、若かりし頃に一緒に汗を流した朝日新聞販売店主の先輩で、現在は地方紙の販売店主に鞍替えされているため、20年以上にわたって音信不通でもありました。

 突然の訃報に病気かと思っていると、遺影はかつての元気なままの顔であり、ご家族に聞くと今月に入って階段から落ちて治療中だったとの話に、元気すぎる死に顔から、今から30年前に戦車のように走る故人の姿が偲ばれてきました。

 この先輩には何度もお世話になっており、私が新聞社の幹部社員と大喧嘩して、「もう辞めてやる」と自宅に戻ったことを知り、仲間を呼び寄せて引きとめていただいた恩もあり、3年前に娘が中川区から港区に転居した祭に、近いため訪れたいと思いながら元気な声を聞かぬままのお別れとなってしまいました。

 私は学生時代に起業したため、新聞社だけでなく恩師や、父親の会社の重役さんとか、新聞社に出入りする著名人の方々にも可愛がられており、議員になってから疎遠になっている人が多いため、訃報を聞く前に会っていきたいと思う一日となりました。

                                      9月22日の一言


久々の横井庄一記念館とお墓へ


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横井庄一記念館裏庭のアジサイ

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本日の記念館前

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花盛りの記念館

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千音寺霊園
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横井庄一さんの墓と小動物の慰霊碑
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 本日は横井庄一記念館にいる娘夫婦と孫を訪ねて、我家の三男夫婦と孫に、私の妹と家内を伴って訪れました。
 独り暮らしの横井夫人の日常生活では考えられない、私の9人の家族が集って10人の親族で記念館は満員となり、本日記念館を訪れた方がお墓への参拝を希望され娘たちが案内し、枯れた花を見てきたため、お墓まで夫人と7人で新しい花と入替えに走りました。

 親族が7人も揃ってお墓参りするのは珍しく、横井庄一さんのお墓の他に、横井さんの母親の眠る横井家のお墓と、横井さんと仲が良かった知人のお墓の花も入替えて手を合わせました。菩提寺に存在する元軍曹横井庄一のお墓は、明日の早朝に夫人が花を供えてくるとの話でした。

バス運転手が意識喪失、乗客3人で停車 富山の高速道

 さて、富山県の東海北陸自動車道下り線で、岐阜県内のバス会社が運行する大型観光バスの乗客から「運転手の具合が悪い」と110番通報があり、乗客の3人がブレーキやハンドルを操作して停車させたとの新聞記事です。

 運転手はくも膜下出血の疑いと発信されていますが、これは誰もが起こりうる可能性があり、来週は依頼されて高野山まで運転し、8月には東北の仙台までマイクロバスで人を移送する約束がある私にも他人事ではありません。

 最近は長距離運転には、タクシーでもマイクロバスについても、運転の予備役として家内を同行させていますが、私が突然意識を失った場合に安全に車を停めるのは至難の業で、助手席から車を停止させるためには事前の訓練も必要です。

 こんなことは若い時には何も考えたことがありませんが、2年前の夏に上高地への道中で目が廻ったことがあり、還暦を過ぎると経験したことのない体調不良も考えられることから、添付したような新聞記事が切実な問題として気になるようになりました。
           本日の体重 72、6キロ 徒歩数 3592歩 間食あり
                                     6月3日の一言

5月臨時議会が開催され


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我家の庭のプランターのイチゴ

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予想に反して甘かったようです



 ホームセンターで毎年のようにイチゴの苗を買い求めますが、翌年まで持ち越して実を生らすことはほとんど無かったものの、今年は昨年植えたイチゴが花を咲かせて実を付けており、食べた家族の話では甘かったとの話でした。

 昨年は我家だけでなく、横井庄一記念館の庭にも植木鉢に植えましたが、今年は枯れてしまっており、日頃の小まめな水やりや管理がないと維持して育てることは難しく、今年の経験を来年まで持続させたいと思います。


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朝日新聞8日の夕刊に掲載されました


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 今週火曜日の夕刊に掲載された横井庄一記念館の記事ですが、東海地方だけでなくデジタル新聞で全国に発信されているものの、掲載された記事を読みたいとの連絡が続いたためここに添付しました。

 記念館の後継者に指名された私ですが、2年前に横井夫人から突然に「後はあなたに全部任せます」と言われ時の心境を、他社の新聞記者に問われた夫人は、「ずっと前から考えていましたよ」と応え、何も知らずに四国や上高地に出かけていた自分の無神経さを実感させられています。

 こうなることが判っておれば、記念館が開館した平成18年からできた事は多く、夫人が90歳となって無理もできなくなった今から再建するのは大変で、お金もないNPO法人に会員を集めるのも急務で、真剣な対応が求められてきました。
 
 そんな訳で、横井庄一記念館を存続させてやろうと思われる方は、正会員か賛助会員になってくださるようにお願いいたします。

           本日の体重 72、6キロ 徒歩数 3363歩 間食あり
                                    5月10日の一言

横井庄一さんの遺品を見学に名古屋市博物館へ


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我家のサクランボ 完熟となりました

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名古屋市博物館

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企画展 博物館イキ!のポスター

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見物する横井庄一さんの夫人と私の母親と家内

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グアムで布を織った機織り木 帰国後の複製

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グアムで使った道具

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グアムで着ていた自作の衣服

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横井さんのコーナー

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横井庄一さんの夫人 記念館館長

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見事な槙の木の盆栽 博物館の玄関前


 名古屋市博物館は、昨年10月に開館40年を迎えたことを記念して、4月28日から6月10日まで「企画展 博物館イキ!」を開催し、この地域の歴史を伝える基本的な資料、近年博物館が積極的に取り組む テーマから、まさに”活き活き”と活躍する資料を展示しています。

 横井庄一さんのコーナーでは、横井さんがグアム島での生活で作り実際に使った道具を展示して、戦争に翻弄された個人の生き方を伝える唯一無二の資料として展示されていました。

 本日は横井さんの夫人に誘われ、私の母親と家内とともに、横井さんのお墓や仏壇を護っていく私の娘夫婦と孫の7人で博物館を訪れましたが、横井さんがグアム島から持ち帰った遺品は全て博物館に寄贈してあり、夫人も我々も久しぶりに生活道具を目にしました。

 親族の手前味噌で語るわけではありませんが、グアム島で着ていた衣服は、現地のパゴの樹木の繊維をほぐして糸にして、自作の機織り器で織って布にした上で、鉄砲の薬きょうを切って作った針で縫い上げ、ボタンは貝殻を加工して造った全て手作りの作品です。

 もし仮に、私がグアム島に置いておかれたら、食料の調達もままならず、衣類は作れませんから草や葉を巻くしかありませんが、横井さんはアメリカ軍や現地人に隠れながら27年間も自給自足の生活していたのですから、同じ血縁者と言えども絶対に真似はできません。

 さて、夫人は今年91歳になり、3人いた兄弟も全て鬼籍に入っており、血を別けたオイやメイは京都周辺に生活しているため、記念館の独り暮らしは大変と思いますが、本日は86歳になる私の母親も連れていったため、久しぶりに横井さんを偲ぶ会話に花が咲き、昼食に訪れた「ステーキのあさくま」でも年齢を感じさせない食欲を見せてくれました。
 もう少し元気でいてもらいたいものですが、今日のように博物館まで外出しようとする意欲が続くうちは大丈夫と思われます。

            本日の体重 72、5キロ 徒歩数 3470歩 間食あり
                                      4月30日の一言

横井庄一記念館の桜


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記念館の門前にある桜

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記念館の外(西側)から見た桜

 太平洋戦争が終ったことも知らずに、グアム島の洞穴に潜んで昭和47年に発見された横井庄一さんは、平成9年に鬼籍に入りましたが、平成18年に夫人が自宅を記念館として毎週日曜日に開館し続けてきました。

 「後は全部あなたにやってもらうことにしました」の一言は、2年ほど前に突然記念館の館長を務める夫人が私に発した言葉でしたが、還暦を過ぎた私が引き継いでも10年先が判らないため、将来の記念館を私の娘と孫に託して、私は残された人生を次期館長として頑張ることになりました。

 昨秋から「横井庄一記念館を護る会」のNPO法人化を進め、本年3月1日に愛知県知事から認証が下り、3月末までに法務局への登記や、関係する行政への届出が総て終り、本日は法人県民税の減免について県税事務所に出向きました。

 本日午前中には、今年91歳になる夫人の財産管理をしている大手信託銀行の担当者と、夫人と娘とともに遺言状の確認と、相続の手続きについて説明されましたが、我々を見送るため門の外に出た夫人が、我々の車窓から消えるまで立ったまま見送っていた姿が気になりますす。

 さて、添付した桜は一時は枯れかけたものの、最近は樹勢を盛り返しており、予定では記念館前の道路拡幅により切り倒される運命でしたが、美しい花を咲かせているため、庭師さんに聞いて移植が可能なら植え替えることになりました。

 記念館に植えられた木々の中には、横井庄一さんが幼少時に大鹿庄一として私の家にタネを蒔いて成長したマキの木が2本移植してあり、わずかでも横井さんの血縁となる私の娘と孫が仏壇とお墓を護っていくことに、道路拡幅によって伐採される樹木にも情を感ずる一日ともなりました。

          本日の体重 72、9キロ 徒歩数 2824歩 間食あり
                                     4月4日の一言

横井庄一記念館の法人認証が降りて


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 昨年末に設立の申請をしていた「横井庄一記念館を護る会」について、愛知県より特定非営利活動法人(NPO法人)の認証がおり、愛知県知事名で3月1日付けで郵送されてきました。

 この認証通知を受け取って2週間以内に法務局に法人登記をする必要があり、定款や役員就任承諾書などとともに、法人印の登録を済ませ、法人の所在地となる津島市と県税事務所に記念館のある名古屋市にも届出が必要となります。

 さて、問題は現在3月議会が開催されており、届出時に認証が下りるのを3月10日頃と聞いていたことから、名古屋市内にある法務局へ行ける日がないため、年末の師走よりも慌ただしい3月になりそうです。

YouTube 動画 
      「公式サイト」愛西会議 横井庄一記念館を愛西市へ移設を参照
                    http://aisaideguchi.jugem.jp/?eid=156

 添付した動画は、地元テレビ局が5年ほど前に放映したものと思われますが、自分自身も出演しているものの、映像を見るのは初めてで、動画を添付されていた愛妻会議さんに感謝するしかありませんが…
 ところで、この映像をどうやって保存するのでしょうかね。

 昨年8月に放映されたNHKの横井庄一を特集した番組で、記念館が愛西市に存在するような間違った表現があり、館長の横井夫人が高齢なため、記念館が閉鎖されたと勘違いして心配した人々から問い合わせが集中しました。

 記念館は平成18年に開館しましたが、館長の横井夫人と後継者に指名された私が死んだ後も、私の娘と孫の代まで引き継ぐ計画で、そのための法人化だけに、ボランティアで協力していただく会員を募集するとともに、我家の2階に設置されたミニ記念館も倉庫と化しているため何とか公開にこぎつけたいと考えています。

 添付された愛西会議の記述にもありましたが、生まれた愛西市とともに、生後3ヶ月頃から小学校5年生まで生活した津島市にも、横井庄一の足跡を残していただけるのは幸いで、安部首相とはまったく違う戦争観と社会平和の実現を目指し、人の生きる原動力となる発信を横井庄一記念館から続けていきたいと考えています。

                                     3月4日の一言

横井庄一記念館前の道路が拡幅されるために


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名古屋市千音寺土地区画整理組合 組合事務所

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記念館裏と区画中の更地

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この道路が拡幅され、庭が無くなります

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現在の門前

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この門柱も撤去されます

 名古屋市中川区の横井庄一記念館前の道路が都市計画道路として大幅に拡幅され、玄関前の庭がほとんど無くなるため、記念館として存続していくために地元の区画整理組合事務所を訪れて駐車場確保のため調整してきました。

 大規模な計画道路に併せて土地区画整理事業が行われており、記念館の玄関先の庭が道路拡幅で削られ、横井庄一さんが存命中の生活空間が変わってしまうことと、記念館のイメージが残せるか心配は尽きません。

 この記念館の土地や建物は、横井庄一さんがグアム島で発見された際に、全国から寄せられた善意のカンパを資金として、土地を購入して建てられたもので、庄一さんがパーキンソン病になる前には、自給自足と称して野菜が作られていました。

 一時は名古屋市に寄贈して記念館として残す約束ができていましたが、名古屋市が将来は寄贈された土地を記念館ではなく更地にして売却すると約束を反故にしたことから、横井夫人から記念館として残したいと相談があり、50年先まで残す覚悟ならと平成18年に記念館を開館しました。

 地元の人々も横井夫人が高齢の独居老人のため、夫人が亡くなった後の記念館は自然消滅と思われていたらしく、記念館の後継者に私が指名され、NPO法人として認証を受けて存続する予定であることを伝えたことで、記念館の入り口に駐車場を確保してもらうことになりました。

 もっとも、後継者として指名された私も還暦を過ぎており、将来は私の娘と孫に記念館の存続を託していくことになりますが、夫人や私が他界した後々まで記念館を開館していていくことは大変と思われ、夫人からは記念館存続にはこだわらず、私の娘や孫たちが生活しやすい環境で住み続けて欲しいと言われています。

 さて、名古屋市の千音寺地区には知り合いも少なく、初めて訪れた区画整理組合でしたが、応対された地元の役員さんは、偶然ですが2人とも私の親しい知人の知り合いと縁者で、横井庄一さんが元気な頃から親しくされていた人のため、余所者ではなかったことを実感させられました。
 そして、幼少時に我家で大鹿庄一として生活していた横井庄一さんの遺産が、薄くなっているとは言え、我家の血を引く私の娘や孫に受け継がれていくことに、脈々と続く血縁や一族の絆も感じさせられる一日ともなりました。

            本日の体重 73、3キロ 徒歩数 3307歩 間食あり
                                     2月28日の一言

横井庄一さんのお墓へ案内して


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千音寺霊園の横井庄一さんのお墓を撮影中

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お墓の前には小動物の慰霊碑が

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菩提寺にあるお墓へも

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記念館の掛軸「竹」  本日

 最近は横井庄一記念館の案内に出ていませんが、本日記念館を訪れていたところ、横井庄一さんのお墓を探したが見つからなかったと言って訪れたご夫婦があったことから、戦死したと思って母親が建立したお寺のお墓と、平成9年に亡くなってから建てられた霊園のお墓に案内してきました。

 案内したご夫婦は大阪の方で、奥様が動物を慰霊する日本人について研究中で、横井庄一さんの小動物の慰霊碑とともに建つお墓を訪れ、大学の論文にまとめていく予定との話で、記念館に戻ってから閉館時間を過ぎたことも忘れて雑談に花を咲かせていました。

 本日は八丈島から訪れた方もあったと聞きましたが、閉館時に東京から訪れた女性もおられたことから、私の車で名古屋駅まで送る車中で、来年に香川県善通寺市の乃木神社を訪れるとの話を聞き、せっかく善通寺市に行かれるなら「善通寺」そのものに宿泊して朝の勤行に参加されることを勧めていました。

善通寺市 乃木神社

乃木館:香川県の自衛隊善通寺駐屯地 http://toshitsugu.com/zentsuji.htm

善通寺宿坊「いろは会館」 http://www.zentsuji.com/shukubou/
 
 私自身は毎年善通寺市を訪れているものの、明治天皇の御大葬日(1912年)に夫人とともに殉死した陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)氏と善通寺の関係については何も知らず、四国はお遍路のためだけに訪れていることから、別の角度から四国の魅力を実感する一日になりました。

 乃木大将は、軍人としての輝かしい功績だけでなく、学習院院長を歴任して後の昭和天皇の人格形成にも大きな影響を与えた偉人で、何よりも仕えていた明治天皇の葬儀当日に夫婦で殉死した事実は、戦争の是非はさておき、私は日本国の先人として尊敬しても足元にも及ばない偉人と思ってきました。

 善通寺の乃木神社の話を聞いた女性は、各地の戦争に関する史跡を訪れておられると聞きましたが、私自身は横井庄一さんを親族として見ており、記念館も戦争の資料館としての意識は無かったものの、香川県で戦争資料を集めておられる三豊市役所の森さんとも、横井庄一記念館で出会って親しくなったことを思い出し、機会があれば四国の戦争関連の施設も訪れたいと思う一日ともなりました。

 もっとも、自分に残された時間には限界もあり、何でもかんでもやれるわけではありませんから、何事にも無関心で見過ごさないことが必要です。

            本日の体重 74、3キロ 徒歩数 2726歩 間食あり
                                    12月17日の一言

横井庄一さんの祥月命日の一日が経過して

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菩提寺のご住職によるお勤めです
 
 
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午後からは読売テレビの撮影です 準備中
 
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夫人にマイクが…
 
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まもなく撮影が始まります
 
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還暦前のこんな写真も出てきました
 
 本日22日はグアム島で発見された横井庄一さんの祥月命日となり、菩提寺のご住職を待って夫人と2人で手を合わせました。
 「ご飯が炊き上がったので待ってください」の一言は、読経に入る前の夫人から出た言葉で、平成9年に横井さんが亡くなってから、毎月の命日には炊き上げた直後のご飯を仏壇に供えていたことを知り、他人事のように思っていた月日の経過を反省せられました。

 亡くなってもう20年もの年月が経過し、夫人も89歳の年齢となっていますが、本日午後に行われた読売テレビの撮影では、横井庄一さんと夫人の出会いから結婚に至るエピソードや、夫婦生活に対するインタビューが続き、子宝には恵まれなかったものの、お互いを尊重しあう良き夫婦であったことを実感しました。

 最後に、次世代の人々に伝えたいことを問われ、広島に原爆が落とされ、多くの日本人の命が奪われた戦争体験とともに、その反省から北朝鮮と和解して平和を目指すのではなく、非難して戦争の危険性も考えない現政権や、人の命が粗末にされる風潮への警鐘もあり、夫人もまだしばらくは大丈夫、頑張れるなとも思われました。

 さて、横井庄一記念館を存続させるために、「横井庄一記念館を護る会」というNPO法人を立ち上げ、役員を快諾していただいた人々の住民票や印鑑の押印をもらって、愛知県に設立趣意書と設立申請書を提出することになります。

 記念館に訪れた来館者やマスコミなどの関係者に、「次期館長の…」と紹介されると現実感もなく、「いや、いや…」と否定的な言動が出てしまいますが、NPO法人化によって、今までとは違う記念館のイベントや、子供たちを対象とするクラフト教室など、夫人が元気なうちに次世代につなげる記念館の姿を発信していきたいと考えています。
 

久々に横井庄一記念館を訪れて

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横井庄一記念館 名古屋市中川区富田町千音寺
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看板は私の恩師の揮毫です
 
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記念館横の雑草の中に見事な一輪が
 
 本日は久々に横井庄一記念館を訪れたところ、西側の空き地は雑草だらけとなっており、その中に見事な一輪の花を見つけて足を踏み入れると、靴とズボンに雑草の種が引っ付き、慌てて退散しましたが、春に開墾した畑も草だらけになっていると思われます。畑は見て見ぬふりとしました。
 
 記念館では89歳の高齢となった夫人が元気なうちに、今後40年ほどを目標にした長期間開館していくためのNPO法人化を予定しており、横井さんの命日となる今月22日に設立総会を開くことになっており、本日は法人の定款や設立趣意書など書類の最終確認に訪れました。
 
 8月の終戦記念日頃に複数のテレビ局や新聞社が夫人に取材してテレビや新聞に紹介されましたが、この時の放映によって記念館が閉鎖されるように受けとった視聴者が存在することから、平成18年の開館時に「50年は存続させる」と言った私の最後の仕事になるのが記念館の法人化でもあります。
 
 もちろん、還暦を過ぎた私が今後40年も記念館を維持させることは不可能で、私の娘と孫に託して記念館を存続させることになりますが、夫人が案内できなくなった記念館を毎週日曜日に開館させていくことは、上高地や四国遍路を第二の人生とする私自身でも苦痛となり、娘たちに託すにも限界があり、法人化によって複数の人々の協力によって維持させていきたいと考えています。
 
 私の事務所にも横井さんの遺品が多く残されており、ミニ記念館として公開していた時期もありましたが、無人にはできないため、最近は我家の倉庫のような状態にしてしまいましたが、名古屋市の記念館と同時に、横井さんが「大鹿庄一」として幼少期に生活した我家も今年中には披露する予定ですが…
 
            本日の体重 71、7キロ 徒歩数 2751歩 間食あり
                                     9月17日の一言
 

横井庄一さんのお墓へ

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尾張西部から見える伊吹山 冬は伊吹おろしの寒風が舞います

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名古屋市中川区

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横井庄一さんのお墓
                     墓標の手前は小動物の慰霊碑

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菩提寺にある「陸軍軍曹横井庄一のお墓」

 寒暖の差が激しいものの、日中は確実に春爛漫の一日となり、冬には当たり前となっている伊吹山の雪も、現在残ってはいるものの、気がついた時には無くなっている可能性が高く、そんな暖かい一日でも夕方の伊吹降しは身を凍らせる寒風が吹いてきました。

 さて、横井庄一記念館について、横井夫人が亡くなった後々にも記念館を存続させていくため、現在NPO法人化を急いでおり、本日も打ち合わせのため訪れると、有難いことに親子連れの来館者があり、夫人が案内しているため久しぶりに横井庄一さんのお墓参りへ訪れました。

 横井さんのお墓については、菩提寺の行雲寺に母親つるが建立した「陸軍軍曹」のお墓があり、「庄一は生きとる」が母親の口癖だったようですが、昭和23年に我家の隣のお寺に永代供養が依頼され、昭和30年には立派なお墓を建てていました。

 平成9年9月に横井庄一さんが亡くなり、2年後に本人の遺言で建てられたお墓には、小動物の慰霊碑が建立され、これはグアム島で生きていくために殺生した魚やエビなど、小動物を慰霊するもので横井さんの遺言でした。

 横井さんの在所の跡取りとは言え、我家のお墓でも忘れた頃しか訪れない横着者ですから、横井さんのお墓を訪れるのも久しぶりで、建立された当時と比較すると住宅が建ち並び、お墓の周りに塀があるため、何度も車で通行しながら墓地が見つからないため探すのに苦労しました。

 ここまで来たのだから、ついでにお寺にも寄っていこう。
 
 「どこに行っていたの」
    「久しぶりにお墓まで」
 「お墓にも行きたいけど…」

 帰宅後の夫人との会話ですが、お彼岸までにお墓に花を供えたいとの話で、本日は記念館を開館しているため、明日か明後日に花を用意して墓地とお寺のお墓へ改めて訪れることになりました。

 横井さんが平成9年に亡くなってから、夫人は独りで生活しており、89歳になった現在も買い物や墓参りも歩いて行動しており、家族の居ない記念館で20年も独居生活をおくっていたことを改めて実感させられました。

 今頃になってからでは遅いものの、少しは孝行しようと思いますが、我家にも口うるさい母親が存在し、横井家に出向いて畑を耕したり、お墓参りをすると我家の家庭不和にもなりますから、しばらくは内緒の行動となります。

            本日の体重 71、5キロ 徒歩数 2937歩 間食あり
                                     3月12日の一言


横井庄一記念館の畑へジャガイモを植えて

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畑にはジャガイモを植え付けました 

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本日はワラ(藁)を持ち込みました

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イチゴはとりあえず植木鉢へ

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これはサンチェ

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ブロッコリーは2本

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記念館の周りはツクシがほころんで春爛漫

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記念館(左端)の西側は造成工事中 将来は住宅街に

 昨日まで市議会の一般質問が3日間続き、明日から常任委員会が開催されるため、本日はゆっくりと休息にしようと思っていると、家内から車にワラを積んだまま2週間も経過することから、横井庄一記念館に置いてくるように言われました。

 ワラを置いてくるだけなら簡単な話ですが、2週間前に草が生え放題となっていた記念館の畑を耕して、イチゴを5本植えると話してあることから、ついでにイチゴを植える必要もあり、名古屋に住む娘と合流して、本日はイチゴを1本だけにして、ジャガイモの種芋を植え、ブロッコリーとサンチェの苗を植えつけました。

 植え付けましたと記しましたが、私は2週間前に作った畝(うね)に適当に植えておけば、何らかの作物はできるだろう程度の感覚でしたが、一緒に同行した家内が草の根が多く混入しているのを見つけ、根を取らないと草だらけになると言い出し、草が生えたら取ればいいだろうという私の意見は却下となり、畝作りからやり直しになりました。

 掘り返して、草を取り、畝の土中にワラを入れて、その上に土を入れなおす作業は重労働で、身体は悲鳴をあげます。何も判らない娘だけにして、家内は置いてこれば良かったと思ったものの、家内しか畑のことは判りません。
 農家の長男としては恥ずかしいかぎりです。

 さて、横井庄一記念館は名古屋市中川区にありますが、幸いなことに500メートルの距離に花や野菜の苗のあるショッピングセンターがあり、買い物は便利なんですが、私の住む地域より店は都会風ですが、苗や肥料の値段が高く、イチゴは2倍程度と高いため、1本だけにして帰宅後に近くのホームセンターへ出向きました。

 名古屋の人たちは、津島市の人たちより高い野菜の苗でも、家庭菜園に植えるためでしょうが、当たり前と思って買っていかれるんですね。

 横井夫人は現在89歳になるものの、一人で歩いて買い物に出かけ、一人で食事の用意もゴミ出しもしており、年齢よりも若くは見えますが、最近は一週間に2度ほどヘルパーさんに掃除を依頼するようになり、薦められるままにデーサービスへも足を運んでいます。

 横井庄一さんの残した土地と建物(記念館)について、私の娘が引き継いで、記念館を今後40年ほどは開館(毎週日曜日だけですが)していくと約束したため、安堵から年老いたようにも感じられ、京都のオイに子供が生まれたと喜んで家内に話す様子を聞くと、元気なうちに記念館に座っておられるだけの環境にしたいと思う一日ともなりました。

            本日の体重 71、7キロ 徒歩数 6047歩 間食あり
                                      3月9日の一言

横井庄一を知る江森陽弘さんの訃報に

イメージ 1 朝日新聞社の元記者で、編集委員や週刊朝日副編集長から、テレビ朝日の朝の看板番組モーニングショーの司会をされていた江森陽弘さんが、肺炎のため12日に亡くなられました。享年83歳であった。

キャスターの江森陽弘さん死去 元朝日新聞編集委員 

システムブレーンの江森陽弘プロフィール


 江森さんは平成9年に亡くなった横井庄一さんの葬儀で、発見当時に取材した「横井番」からのご縁で葬儀委員長を引き受けてもらい、弔辞も読んでいただいており、母親の残した横井さんのお墓(旧日本兵の墓、没後に新しいお墓が建立されています)の前で写真に収まっていただき、初対面の私に対しても謙虚に応対していただきました。

 昭和47年1月にグアム島で発見された旧日本兵横井庄一さんを、当時朝日新聞名古屋本社の記者だった江森陽弘記者はグアム島に飛んで取材しており、当時の横井庄一を知る貴重な存在でしたが、一緒に取材した近田記者は引退されており、私も懇意にしていた大鹿八郎記者も既に鬼籍に入っておられます。


 「誰からでも聞ける」と思っていた横井庄一さんの話題も、取材した記者やジャーナリストの多くは亡くなられており、親族も世代交代し、我家の息子たちも横井さんが我家の先祖として、我家で「大鹿庄一」として小学校5年生まで住んでいたことも知らないと思います。

 現在名古屋市博物館で「横井庄一さんの企画展」が開催されていますが、博物館で唯一横井さんと応対していた学芸員さんも昨年定年で引退されており、慌てて江森さんの横井関係の記載を探したところ、『これからは人権習慣』という本の中に、第11章として「横井庄一さんはペットの人権まで考えていた」との記載を見つけました。

これからは人権習慣 江森陽弘著 税込み価格2,052円 燦葉出版社 2000年6月出版
             第11章 横井庄一さんはペットの“人権”まで考えていた

 発行されてから15年も経過しており、入手できるかどうかは判りませんが、横井さんが亡くなってから横井夫人がお墓を建立し、その前にグアム島で食材とした小動物の慰霊碑もあることから、帰国後の取材から江森さんが感じた内容が記されていると思われ、是非とも探してみたいと思います。

もの書きを目指す人びとへ 岩垂弘
 第90回 横井庄一さん救出取材の教訓


 ネット検索の中で、ジャーナリストの岩垂弘さんがネットに書き込まれて、後に本となって出版されている『もの書きを目指す人びとへ』の中にも、横井庄一発見直後の朝日新聞記者としての体験談が記されており、これも貴重な資料となるため早速入手したいと思います。

 発見当時の昭和47年1月に、私の父親はフジテレビやサンケイ新聞社の関係からグアム島に渡航しており、肉親として初めて横井さんと再会して新聞に報道されましたが、朝日新聞社が横井さんの関係者としてグアム島に連れていった人は、私の近所の横井さんの小学校時代の同級生でした。

 ただし、その同級生は、実家の我家へ出戻った母親の連れ子となる横井さんを、「オーシカ、つんぼか庄一か」とイジメ続けた同級生で、会いたくもない存在だった幼馴染を朝日新聞社は連れていっており、この同級生とは帰国後の交流もありませんでした。今となれば岩垂弘さんの記録は、貴重な歴史資料ともなりました。

 温厚で優しく応対していただいた江森さんのご冥福をお祈りいたします。

           本日の体重 71、0キロ 徒歩数 2758歩 夜間食有
                                    11月14日の一言

横井庄一企画展が開会されており

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 昨日の17日から11月29日(日)まで、名古屋市博物館にて「横井庄一さんのくらしの道具」展が開催されています。

企画展 横井庄一さんのくらしの道具

 午前9時30分~午後5時(入場は午後4時30分まで)
 休刊日 10月19日(月) 26日(月) 27日(火)
                 11月 2日(月)  9日(月)  16日(月)  24日(火)
 拝観料 一般300円 高大生200円 中学生以下無料

 横井庄一さんは大正4年(1915)3月31日、愛知県海部郡佐織村(現愛西市)に生まれましたが、両親の離婚によって、生まれた直後に母親の実家となる私の家に預けられ、小学校5年生の時に母親が再婚して横井家の養子になるまで、大鹿庄一として我家で、私の祖母となる従姉妹2人と伯母となる母親の姉の3人とともに4人で生活していました。後に私の伯父や父親が生まれていますが…


 昭和47年1月に、旧日本兵として、グアム島の密林で28年ぶりに発見された当時、私は高校生で、横井庄一さんの存在も知らず、帰国後の10月に我家の法事に訪れた横井さんと初めて対面した時も、遠い親戚程度に考えており、私の生まれる28年前まで我家の家族として生活していた大鹿家のご先祖様とは思ってもいませんでした。


 私にとっては横井さんは、家族や親族が大反対した家内との学生結婚に唯一の理解者として、私の父親を説得して家内の両親に会いに行き、自ら結婚式の仲人を引き受けてくれた大恩人ともなりました。

 横井さんは平成9年に他界していますが、平成18年に横井庄一記念館が開館しており、夫人である館長とは、没後50年となる平成59年までは記念館を存続させていく約束をしており、高齢となっている夫人が亡くなった後にも記念館を存続させるための後継問題も急務となっています。

 今回の企画展は、横井さんが生まれてから100年になることから企画されており、博物館が保存するグアム島から持ち帰った道具を見られる機会もしばらくはありませんから、是非ともご覧いただきたいと思っています。

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横井庄一記念館公式ホームページ
公式ブログ
横井庄一記念館・明日への道 http://blogs.yahoo.co.jp/oshika59


                  本日の体重 71、3キロ 徒歩数 5175歩

                                    10月18日の一言

横井庄一記念館を久々に訪れて

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麦が収穫期を迎えています。 懐かしい風景は愛西市からです。

 NPO法人の福祉移送ボランティアについては、最近では津島市よりも隣の愛西市からの問い合わせが多く、本日も愛西市役所からの紹介で、車イスを利用されている男性宅を訪れ、来月からの通院を介助する約束をしてきました。

 愛西市は津島市より面積が広大(人口はほぼ同じですが、面積は3倍近い)で、名鉄電車以外に公共交通機関が無く、名鉄バスの路線も無いために、交通の空白地帯と言っても過言ではなく、津島市より多額の予算を組んで対策を講じているものの、タクシーしか利用できない人々には、医療費よりも高額となる通院の交通費が重く圧し掛かってきます。

 我々のボランティアも、愛西市も運輸支局の関係で対象とはしているものの、ボランティアの主力は津島市民で、愛西市での活動は依頼者のお宅との距離があるため、有償といえども依頼者のお宅に行くだけで30分の時間と車のガソリンが必要になります。

 津島市でもボランティアの限界を感じているのに、広大な農村部をボランティアでガソリンを使って走るには限界があり、愛西市も無料の巡回バスだけでなく、タクシー料金の補助や、社会福祉協議会の無償の移送サービスなと、私の住む津島市より格段なる財源をあてていますが、三重県との県境となる土地のハンデは払拭ができません。ボランティアとしても覚悟が必要となります。

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 さて、添付したのは「横井庄一記念館」の庭です。
 本日は、記念館と横井家の今後について夫人と話してきましたが、「あなたしかいないから」と後継者に指名されても、私には津島市の我家があり、引き継いでも私が死んだ後は無しとなっては意味がありませんから、後継者のいない横井家と記念館の今後を真剣に考えることは急務となっています。

 記念館の土地と建物は、横井家から引き継いだ遺産ではなく、横井さんがグアム島で発見された際に、全国の横井さんを支援する人々から寄せられた善意の基金で購入されたものです。
 この遺産を戦争の悲惨さを伝えるだけでなく、28年間も一人でサバイバル生活で生き延びた「命」をテーマとして後世に残したいと考えています。

 「夫人か、私が死んでから30年は記念館を残したい」と公言してきましたが、後継者が存在しないと成り行き任せになってしまいますし、自分の死んだ後の我家すら子供に託せるか判らないだけに厳しい現実を感じています。
 今年は横井庄一さんの生誕100年になり、名古屋市博物館でも10月から企画展が予定されているため、それまでにNPO法人を設立することを約束して記念館を後にしました。

京都の四条通、車線減らし歩道拡張 渋滞招き賛否二分
記事の続き…
 市民の賛否が分かれる事業。市は地元商店街の要望も受け、2006年から歩道拡幅の検討を始めた。従来の交通政策は道路の新設や車道の拡張といった車優先の整備が主流。だが市は逆の発想に立ち、違法駐車の車に占拠されて渋滞しがちだった歩道側の1車線を思い切ってなくし、歩道に変える決断をした。
 市は工事中の「誤算」は認める。バス停を車道に張り出す「テラス型」にした結果、後続車がバスを追い越せず渋滞を招いたのだ。タクシー運転手(68)は「ノロノロ運転で運賃メーターが上がり、お客さんにいつも怒られる」と嘆く。市は車線構造の変更などで解消したい考えだ。
 さらに市の調査では、四条通を通る車の3~5割が他府県ナンバー。分散をはかるため、カーナビゲーション用の地図を作る業界団体「日本デジタル道路地図協会」(東京)に、四条通を検索ルートから外すよう異例の申し入れもした。今秋以降に更新される地図情報から反映されるという。
 マイカーからバスや地下鉄に乗り換え、市街地へ誘導する「パークアンドライド方式」も呼びかける。市歩くまち京都推進室の福田敏男企画課長は「市民の理解と協力を得るには時間がかかる。でもきっと、歩きやすい街の効果は表れると信じている」と話す。
■広がる歩行者優先
 関西の他都市でも、歩行者優先の試みが広がる。
 大阪市は昨秋、中心街を南北に走る御堂筋で側道(車道)を改修し、歩道を広げる社会実験をした。今年度中に難波周辺の約200メートルをモデル整備し、自転車専用道も設ける。市の担当者は「大阪の象徴・御堂筋が変われば大きなインパクト。それぞれの都市が個性を生かして工夫を凝らせば、全体がにぎやかになるはず」と期待する。
 神戸市は昨年11月、JR元町駅近くの大丸神戸店などがある交差点周辺で、3車線道路の1車線を封鎖して渋滞の発生状況を調べた。その結果、時間帯によって一時的に渋滞したものの大きな混乱はなく、地元住民らと歩道の拡幅に向けて協議を続けている。
 奈良公園(奈良市)周辺でも車の渋滞が深刻だ。駐車場を探す車列が景観や快適な歩行空間を損ねるという指摘も。奈良県は運賃100円均一の周遊バスを走らせ、マイカーで巡る動きを減らそうとしている。(小河雅臣)

 《中川大(だい)・京都大大学院工学研究科教授(都市・交通政策)の話》 快適な歩行空間づくりは世界の都市の「常識」だ。今やニューヨーク、北京、上海の目抜き通りは車道をなくして歩行者道路にしている。マイカーよりバスや地下鉄のほうが、はるかに多くの人を街へ誘導できる。公共交通が充実すれば都市のにぎわいは必ず生まれる。世界の観光都市と勝負するには、快適な歩行空間を広げる試みを続けていくべきだろう。

                本日の体重 70、1キロ 徒歩数 7268歩
        朝の血圧 120-70 脈拍 70 夜の血圧 110-62 脈拍 67
                                     5月29日の一言

横井庄一作 初期の抹茶茶碗です

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 添付した焼き物は、グアム島で発見された「横井庄一」さんが作陶した抹茶茶碗で、陶芸を始めた一番初期の作品で、「すごいだろう」と我が家の家族に自慢するために持ち込んだ茶碗です。
 
 横井庄一初期の作品ですが、正確な作陶年月は不明で、グアム島から帰国して2年後の昭和49年7月の参議院選挙に立候補して落選しおり、この直後に陶芸を初めておりますから、昭和50年頃の作品で、初期に指導を受けた長久手の青少年公園の窯で焼かれた作品と思われます。
 
 
 年譜を見ると、『昭和54年の秋に自宅裏へ窯を築き六十路(むそじ)窯)と命名』とありますから、この頃から本格的に作陶生活を続け、昭和55年に東京銀座三越百貨店で個展を開催してから、昭和59年に名古屋三越百貨店で作陶十年を記念する個展を開くまで、全国8ヶ所で個展を開催しています。
 
イメージ 2 名のある陶芸家の多くは、腕が未熟だった頃の初期作品を見るのを嫌がるそうですが、まさに添付した抹茶茶碗は横井庄一が全くの素人として入門当初に焼いた作品で、我が家では普段の来客に使用されており、上部にぶつけて欠けた小さなキズが残ります。
 この茶碗は、ひも状にした粘土を巻いて器にした陶器で、ロクロを回して作られた抹茶茶碗ではありません。
 
 平成18年に横井庄一記念館が開館したのに併せ、我が家の事務所2階にもミニ記念館として陶器や書を展示したため、この抹茶茶碗もケースに入れられて現在は使用されていません。
 
 右上に添付した「ぐい呑」は、帰国15周年を記念して名古屋市中区三の丸会館でパーティーが開かれ、ここへ出席した人々に記念品として配布された物です。
 横井さんは多くの陶芸作品を作っており、販売はしていないものの、多くの焼き物を記念として差し上げており、差し上げた人々の高齢化と世代交代により、最近はオークションに出展されるようになってきました。
 
 我が家に残された横井さんの陶芸作品や書なども、我家のささやかな珍品として、これから時々紹介していきたいと思います。
 
 さて、本日津島市議会では、厚生病院委員会が開催され、明日は文教建設委員会が開催されます。
 個人的には、本日病院で健康診断の予約を済ませ、今月25日に胃がん検診を受けるのを皮切りに、各種がん検診や基本検診を受けることにしています。還暦をひかえ、確実に身体機能が低下しているため、何事もないことを祈るとともに、何事があっても動じない気力で乗り切りたいと念じています。
 
                                   9月11日の一言

久しぶりに充実した横井記念館で

 本日は横井庄一記念館の一日でしたが、本日の訪問者は記憶に残る人々ばかりで、福岡から訪れた方は循環器の医師で、名古屋で医師会の研究発表に出席した機会に立ち寄られたが、横井さんがグアム島のジャングルで「無塩生活」を28年送っていた事から、昭和47年に発見された当時から注目されていたようで、報道された記事から自分の専門である血圧の数値を記憶されており、帰国後の健康管理について館長(横井夫人)に熱心に尋ねられ、「6月に横井さんの発表をすれば、名古屋の連中もびっくりするだろうな」と語って帰られた。

 若い時に「無塩生活」を続けた人は、中高年になっても血圧が低い人が多いらしく、帰国後の横井さんの血圧も低く、低血圧だったとの説得力のある話に、名前を記帳して帰られたが、スポンサーとなっている薬品会社の社員が随行していた事から、医学界では名のある医師と推測された。

 その他の人々もついでに立ち寄った訪問ではなく、浜松から訪問した若者は平成元年生まれながら、中学時代から各地の記念館や史跡を巡っているとの話に、簡単な説明では済まぬものの、発見された当時の様子を全く知らない世代だけにどこまで理解されたかは解かりません。

 帰宅後にも本日の訪問者から電話があり、私が津島市の「大鹿」姓であった事から、記念館で自分の小学校時代の恩師であった津島市の大鹿先生(女性)の話題となり、帰宅後に新たな情報を調べて連絡されてきたが、偶然にも来週にお会いする機会がある事から伝えることとなりました。

 不思議に思われるかも知れませんが、私の苗字である「大鹿」は、全国的にも珍しいものの、私の住む地域に限っては多くの大鹿姓が集中しており、私のかつての仕事が新聞販売店であり、その後に議員となっている事から、住まいと名前を聞けば同族の家くらいはほとんどが記憶されています。

大鹿一族の歴史探訪↓
http://red.ap.teacup.com/oshika18/20.html

 さて、閉館まで1時間で客足が止まり、館長と雑談していると、私の預かっている愛犬リマちゃんの話題となり、私の切ない心情を館長がまん丸の瞳で聞いてくる事から、リマちゃんのまん丸の瞳が思い起こされ、涙混じりの話となってしまい「50を過ぎた男の涙は重症だ」と言われましたが、80を超えた館長の機転で、記念館の配置代えにより悲しみを忘れた帰宅となりました。
                                  3月28日の一言
追伸…本日も一緒の夜が迎えられました。タイムリミットは3日?
ギャラリー
  • ようこそ 大鹿一八の納経所へ
  • ようこそ 大鹿一八の納経所へ
  • 令和6年 上高地開山式の様子です
  • 三重県桑名市大福田寺の聖天祭へ
  • 毎年恒例となった我家のアンズジャム作りへ
  • 毎年恒例となった我家のアンズジャム作りへ
  • 本日もボランティアの一日となって
  • 我家のきゅうりとプランターのイチゴです
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