横井庄一記念館の一年
朝日新聞社の看板記事「天声人語」
創刊140周年にびっくり
私は新聞配達もしたことがありませんでしたが、大学3年次の昭和52年に朝日新聞販売店の店主として起業しました。両親や親族が全員反対する中で、横井庄一さんだけが「朝日新聞は信用できる」と後押ししてくれ、保証人にも名乗りをあげましたが、新聞社との契約時に横井さんの保証人は無理と言われ、私の推薦人として名を連ねてくれました。
なにゆえに横井さんが朝日新聞を大好きだったかは後日記したいと思います。
その当時に創刊100周年に向けた記念行事が続きましたが、取材時に差し出された名刺に記された創刊140年の書き込みから、年月の経過の早さとともに、自分の年齢と置かれた立場を実感させられました。
その頃、私はまだ幼くて、父と母との間にどういう事情があったのかわかりませんが、母は生れて三ヶ月にしかならない乳のみ児の私をおいて、実家に帰ってしまいました。
洋服屋の父は、私のことなど構わないため、祖母 (父の母) が、近所に貰い乳をして歩いたあげく、たまりかねて母の里へ母の留守をねらって赤ん坊の私を置いて行く、一方母は、再婚に差しつかえると考えたのか、また私を父の方へ返しに行く、そんなことが何度かあった後、とうとう私は、最終的には母の方に引きとられて育てられました。
その当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
その当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
現代では、離婚をしても何もいわれませんが、その頃 (大正の初め) は、「出戻り」などと、人に後ろ指をさされて女性は大層肩身の狭い思いをしたものです。
それで母も実家には居辛くて、ひとり、街へ、女中奉公にでてしまいました。後に残された私は、私のいとこになる、あきゑ、キヌ姉妹が可愛がって育ててくれましたが・・。
私は、小さい時から、親も、兄弟もなく、自分の家とてもないひとりぼっちの寂しい境遇で、よく友だちからも「親なし子」と馬鹿にされ、いじめられました。
自然私は、消極的な、おとなしい、無口な子供になり、みんなから私の名前、大鹿 庄一をもじって、「オシか、ツンボか、庄一か」とはやされるほどでした。
子供心に人知れずどれほど口惜しく思ったことか、そして人並みに、親と一緒に暮せる生活を幾度夢みたことかしれません。
私が十二の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので私も一緒につれられて行きました。
「ああ、やっと母と一緒に暮せる、自分の家もできる」
と、喜んだのも束の間、やはりそこも、私にとって安住の場所ではありませんでした。新しい義父は、とてもよい人で、ひとから「仏の重三さん」といわれるほどでしたが人が好すぎるために押しがきかず、まわりの人たちに、母も、連れ子の私も、ずいぶんひどく扱われました。ことごとに苦労する母を見るにつけ、「こんなに口惜しく、辛い思いをするぐらいなら、母はなぜ、再婚なんかしたんだろう。もうあとわずか二、三年の辛抱で、自分が学校を卒業したら一生懸命働いて親子みずいらずでも幸せに暮せたものを」と心の中で、何度思ったことかわかりません 横井庄一手記「明日への道」
「庄一は生きとる」との母親の一言は、戦後誰一人として味方の居なくなった横井家の親戚から追い払われないための方便であり、終戦時の昭和20年に30歳になっていた横井庄一さんと母親が一緒に暮らしたのは12歳以降の10年弱しかなく、グアム島で生き抜いた原動力は間違っても母親ではありません。
世間常識では理解されない幼少時の極貧生活について、横井さんは第三者には誰にも口にすることはありませんでしたが、時々の出会いの中ではありますが、実家の長男である私には気を許したのか皆さんからは想像もできないと思われる幼少時の話を聞くことがありました。
グアム島で発見されて50年が経過しようとしていますが、当時横井さんを取材した横井番と言われる新聞記者も皆無となり、本当の横井さんの心情や気持ちは伝わらないままに年月が経過している現実を、横井さんと親交のあった博物館の元学芸員さんの話からも確信した一日となりました。
現代社会でも学校のいじめが問題になっていますが、横井さんの幼少時は「死ぬしかない」と思われるような罵詈雑言やいじめを受けており、親に置き去りにされた環境から生き抜いてきた横井さんだけに本音が聞けれれば、随分と現代社会に役立ったのかもしれません。
1月7日の一言
昨年は我家だけでなく、横井庄一記念館の庭にも植木鉢に植えましたが、今年は枯れてしまっており、日頃の小まめな水やりや管理がないと維持して育てることは難しく、今年の経験を来年まで持続させたいと思います。
朝日新聞8日の夕刊に掲載されました
本日の体重 71、3キロ 徒歩数 5175歩
若い時に「無塩生活」を続けた人は、中高年になっても血圧が低い人が多いらしく、帰国後の横井さんの血圧も低く、低血圧だったとの説得力のある話に、名前を記帳して帰られたが、スポンサーとなっている薬品会社の社員が随行していた事から、医学界では名のある医師と推測された。
その他の人々もついでに立ち寄った訪問ではなく、浜松から訪問した若者は平成元年生まれながら、中学時代から各地の記念館や史跡を巡っているとの話に、簡単な説明では済まぬものの、発見された当時の様子を全く知らない世代だけにどこまで理解されたかは解かりません。
帰宅後にも本日の訪問者から電話があり、私が津島市の「大鹿」姓であった事から、記念館で自分の小学校時代の恩師であった津島市の大鹿先生(女性)の話題となり、帰宅後に新たな情報を調べて連絡されてきたが、偶然にも来週にお会いする機会がある事から伝えることとなりました。
不思議に思われるかも知れませんが、私の苗字である「大鹿」は、全国的にも珍しいものの、私の住む地域に限っては多くの大鹿姓が集中しており、私のかつての仕事が新聞販売店であり、その後に議員となっている事から、住まいと名前を聞けば同族の家くらいはほとんどが記憶されています。
大鹿一族の歴史探訪↓
http://red.ap.teacup.com/oshika18/20.html
さて、閉館まで1時間で客足が止まり、館長と雑談していると、私の預かっている愛犬リマちゃんの話題となり、私の切ない心情を館長がまん丸の瞳で聞いてくる事から、リマちゃんのまん丸の瞳が思い起こされ、涙混じりの話となってしまい「50を過ぎた男の涙は重症だ」と言われましたが、80を超えた館長の機転で、記念館の配置代えにより悲しみを忘れた帰宅となりました。
3月28日の一言
追伸…本日も一緒の夜が迎えられました。タイムリミットは3日?