大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

恩師

恩師を回顧する一日に…

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 本日、平成20年3月29日は、私の恩師「長谷川丈夫」先生の顔を見られる最後の日となりました。

 私にとっての恩師は、中学時代の教頭と生徒の関係でしたが、素行も悪く、何度も注意される事が多く、どの教員も信用できずに職員室で座らされる私にとって唯一信用できる先生で、「おい、今度は何をやって叱られとるんだ」との恩師の一言で何度も無罪放免とされてきた。

 この関係は落第して非行に走る高校時代になっても続き、恩師が校長になられ、教育界の重鎮になっても続き、私みたいな若輩者とも無礼講で酒を酌み交わす人柄に惹かれ、恩師と付き合っていくために横道に逸れぬようになり、「長谷川先生の教え子」と地域の人々から認知されだした事から、現在の自分があるように思えてならないのである。

 この関係は平成6年秋より、我家の2階にて書道会「神守丈友会」の指導者として迎え、毎週火曜日に恩師の自宅へ迎えに走り、帰り道には「おいッ、ちよっと寄っていこうか」と居酒屋に立ち寄り、自宅に上がって深夜まで酒をよばれて、先に逝かれた奥さまより一緒に叱られた事もありました。

 先生が舌ガンの手術を控えた国立病院へ見舞いに出かけた際には、私は既に見舞っていた事から知人に「ヘアークリームとブラシ」を見舞品に持たせ、本気で怒られた事もあった。こんな頃まではトンチや冗談も笑って済ませられる豪快さも見られましたが、奥さまを亡くされてからは物忘れが激しくなり、最後の施設での生活は私は見に行かない事に決めていた事から、本日が最後の別れになってしまいました。

 思い出してもキリの無い思い出や、残された写真や書についても、これから整理しようと思っていましたが、出棺前の葬儀会場に展示されてあった恩師の思い出の写真の中に、私が恩師の講演の際に印刷したガリ版刷りで茶色に変色した16ページの冊子があり、何度も読まれた形跡から改めて恩師と教え子、親分と子分の絆を実感して帰宅しました。

 写真上は、書道会2年目の忘年会で会場の和食の辰巳の主人(彼も教え子)と一緒の集合写真。真ん中の写真は、恩師と書道の後を引き継ぎ指導中の「後藤毅」先生と二人の写真で、下の集合写真と同じく、平成9年2月11日に書道展を開催した時の写真です。

 一番下の写真は、私が初めて選挙で当選した平成11年4月の写真で、立候補者に教え子が多くどこにも行かないとの話でしたが、深夜まで私の当選を祝ってダルマに恩師自ら墨を入れた直後の乾杯の写真です。本人が当選人のようだったと言われましたが、喜んでいただけたとの思いと、改めて恩師の恩に感謝したいと思っています。
                                 3月29日の一言

恩師の書

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 祭壇の横にかけてあった恩師の書です。

一番の理解者であった恩師の訃報

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 私の中学時代の教頭で、私にとっては一番の理解者であり、オヤジのような存在であった長谷川丈夫先生が本日亡くなられたとの訃報が届けられた。

 中学時代に担任ではなく教頭であったが、叱られる私を唯一救ってくれた恩師で、高校で落第し不良と化した私に、顔を背けてすれ違う恩師ばかりの中で、駅前にあった「みゆき食堂」で声をかけて下さったのが長谷川先生であった。

 「おい、君は大鹿君じゃないか」、「…はァ、そうです…」、「やっぱり、いっぱちだったか(笑)」、「こいつはよォー、わしの神守中学の時の教え子で…」と、一見して不良と判る私を愛知県の幹部(当時の教育次長ら)に紹介し、懐かしそうに私の思い出話を人々に語られた。

 その後、恩師は校長として各校を転任され、昭和60年に天王中を最後に退職されたが、最後は海部津島小中学校の校長会長を務められ、平成8年には勲五等双光旭日章を受賞されている。

 恩師との関係は高校から大学、社会人と続き、私がPTA連合会の会長を引退した平成6年に恩師のお宅に書道の指導をお願いに伺った。

 「おいッ(笑)、あらたまって何だ、まあー座って、おい、かあさん、おい」
 「40過ぎの大人として、せめて恥ずかしくない書が書けるように教えて下さい」
 「そっちにも多くの書家がおられる中で、小遣い稼ぎみたいな事はしたくない」と頑固に断る恩師に

 「先生、多くの書家があってもタダで教えてくれる人はおりませんよ」
 「何ッ?どういう事だ?」、「だからタダで教えてもらえるのは先生しかないから」
 「なにー?、タダだとッ」、「そうですよ、何も金を払ってとは言ってないでしょ」
 「うーん…」、「そうかッ、それじゃオレは今後一銭の金も受け取れんぞッ」

 こんな顛末で平成6年秋から書道会『神守丈友会』が始まり、後を後輩の後藤先生に引き継がれたものの、現在まで恩師の『丈』の字を旗印にして書道会が続いている。

 長谷川先生は奥様を亡くされた数年前から認知症がすすみ、施設で晩年を過ごされたが、それまでは書道会のために毎週火曜日に迎えに走り、帰りは一緒に居酒屋で一杯を繰り返してきた。

 写りの悪い写真ですが、一番上の写真は我家の玄関にかけられている恩師の書(文字不明横書き)で、事務所にも「意欲にまさる人生の知恵はない」の木片(縦書き)がかけられている。

 私が発行していた『ふるさとアサヒ』にも10回にわたり「身勝手な回想の日々」を連載してもらい、多くの教え子がいる中で、私の初当選となった時には深夜まで待ってダルマに墨を入れ、真中で万歳をしてもらった写真が残されている。想いは尽きないが、明日の通夜と明後日の本葬まで思い出に浸ってみたい。
                            3月27日の一言

一抹の淋しさも寒波とともに…

 本日は久し振りの日差しが差し込んだが、午後からは膝が痛くなるような寒さの一日となった。「おい、こんな暖かい日に何をしてるのッ」とボランティアを送り出したが、配布して帰る頃には日差しが消え、寒々とした夕方を迎えていた。

 今晩開かれた書道教室「神守丈友会」には、指導する後藤先生が急遽欠席となり慌てて手本を取りに走ったが、その際に10日前に行った上高地の写真を置いておいたところ、戻った教室から写真が消えていた。
 「先生が目にされたら困るでしょう」と、先生の欠席を知らないメンバーが慌てて隠したのであったが、そもそも恩師に言わずに出かけた事がうしろめたい心境にさせられ、悟られないようにするのは大変でもある。

 もっとも、私はこの一言に写真まで掲載して詳細を記しているので、後日談として語っても差し支えがないし、元々が恩師の体調を気遣って話さなかったのであるから、判ったところで何ら困る事ではないのだが、もっと困るのはメンバーの全員に伝わっていなかったことである。

 毎週の書道会で「何所かに行こうか」と話しながら、今回の上高地行きが決定したのであるが、恩師にも知らさない企画ゆえに、長期欠席のメンバーにも伝えておらず、このことがメンバーからメンバーに伝わっていたとの話に、今となって後悔の念を残すところとなったのである。

 平成6年に始まった書道会であるが、病気で去ったメンバーや家族の介護が必要になったメンバーもあり、はじめに指導を仰いだ長谷川先生は介護施設にあり、現在の後藤先生が昨年ガンの手術を受けられたことから、指導者なき教室の出席は悪くなり、半年後に復帰はされたもの数人の固定メンバーで会が存続している状態にある。

 我家の2階を使っていることから、忙しくても欠席することなく続けられてきたが、そろそろ今後の展開を検討すべき時期になったのかもしれない。もちろん存続を前提にしての話であるが、かつては人を募って観光バス一台で出かけたことを考えると、淋しさばかりではなく、趣味として書を続けるためにも幅広い人への呼びかけが必要でもある。

 せっかく10年以上も続けられた会であるから、より永続性のある書道会として充実させていかないと、書道と一緒にした会の目的である旅行や食事会も淋しい慰め会のように感じられてしまうのである。高齢で病気と隣り合わせの恩師に今以上を期待する事は難しく、恩師が不在でも熱心に続けられる会への変革が求められているのかもしれない。

 ただし、恩師の不在を材料に早々に珈琲屋に移動することも神守丈友会の魅力かもしれず、それよりも出かけた近所の珈琲屋の淋しさの方が気にかかり、何度も経営者が代わっていることから「貸切だなあ」とは言いながらも、寒さも手伝って淋しさばかりを感じる一日となった。
                                    11月20日の一言

恩師に案内を忘れた同窓会では…

 本日は1年に一度の中学校の同窓会総会が開催されましたが、昨晩から私の心の中に一抹の不安があり、それが早朝より現実となってはじめて、会長としての責任を痛感する事となりました。

 昨晩、戦後になって新制中学が創立されてから十数年勤務された最古参の先生に、出迎える車の配車時間を連絡したところ、毎年楽しみにしてみえる総会について認識されておらず、「理髪店に行く時間もないなァ」とつぶやかれたのであった。
 車を配車する時間を約束はしたものの、昨日開かれた元教育長の葬儀会場で出会った恩師から、総会の時間を確認されたことから、案内となる同窓会報が届いていない可能性も危惧していたのであった。

 それでも90歳に手が届く恩師の話ゆえに、忘れられたものと解釈し、車で二人の恩師を迎えて学校に到着すると、例年であれば早々と到着して校庭を眺めてみえる恩師達の姿はなく、玄関の受付にも記帳された様子もないため、教頭先生に確認すると「どこまで案内して良いか判らず、してありません」との言葉が返ってきたのであった。

 やはり、昨晩の一抹の不安が的中し、案内がなければ出席の可能性もない事から、私の迎えに行った恩師と昨日確認された恩師の3人のみとなったのである。例年であれば10名近い恩師の姿があり、「先生の同窓会」と皮肉まじりに語られた総会に、恩師への案内が忘れてあったのである。

 「今からでも連絡したら」との声もあったが、もう後のまつりである。昨年の総会で、「そろそろ、会長を辞めたい」と発言した私に、「後は大丈夫か」と厳しく言われた恩師の姿もなく、役員会のような総会になってしまったのである。
 ただし、卒業生の物故者法要は真剣である。お寺の住職が卒業生であり、先代住職は中学創立当初からの恩師である事から、二人がかりの読経と、先代の法話は物故者となった教え子を偲んで年々重みを増してくる。

 さて、本来であれば「どうなっているんだッ」とグチも言いたいところだが、引退を意識すれば自分自身にも確認を怠り、学校任せにしていた責任は重大である。昨日の桑田選手への激ではないが、このままでは終われない。引退を前提ではあるが「来年はこうしたらどう?」と適切なアドバイスを頂いたのは、十数年前に私がPTA会長を務めた時の校長先生であった。引退するから責任放棄では済まされない事を実感する一日となった。
                                  8月19日の一言

本日で写経は12枚目

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 平成6年より毎週火曜日に続けてきた書道会『神守丈友会』であるが、昨年より恩師の体調不良により指導者抜きの日々も多くなってきた。

 そのためもあって、最近では般若心経の写経を一日一枚のノルマと課し、本日12枚目に至っている次第であるが、恩師の後藤毅(緑風)先生は先週より入院となり、復帰までは各自の判断で練習し、私は写経に決めたのである。

 大阪から発信された見事な書のブログ『書道家・皇雲の「書道」「フットサル」「グルメ」エトセトラ』http://blogs.yahoo.co.jp/takashi_kounを拝見し、13年間も書道を習う機会をもらいながら、真剣に向かい合ってこなかった反省をしても過ぎ去った日時は取り返しがつかないのである。

 平成6年秋の事であったが、せめて恥ずかしくない記帳ができるようにと、中学時代の恩師で書家でもあった長谷川丈夫(錦波)先生にお願いに伺った。恩師は、「地域に多くの書家があるから…」と頑として固辞され続けた。地域の校長会長も歴任され、おかしな小遣い稼ぎはしたくないとの気持ちと、書を生業としている人々の邪魔はしたくないとの意向でもあった。

 「先生、なんか勘違いされているんじゃないですか」、「何が?」、「私は先生に1円も出しませんよ」、「なんだ-?」、「先生、多くの書家があっても、タダで教えてくれる人は先生しかありませんヨ」、「どういう事だ?」、「だから、先生はタダで教えるんですよ」、「?…△…?!…〇…」、「ヨシッ!、良く判った。じゃー、1銭の金も受け取れんぞ!」と、まったく身勝手で図々しい説得を受けてもらい、恩師の一字をとって『丈友会』がスタートした。

 教え子を中心に集まったメンバーは、謝礼は出さないが会費を集めて恩師とともに旅行や食事会を楽しんできたのである。
 3年後に弟分の後藤先生が引き継いで現在に至っているが、数回の書道展を開催し、新聞に掲載された事も数回あるが、最近では書道よりも旅行や食事会に関心が移っており、5月には一泊旅行を予定していた矢先でもあった。
 現在では、長谷川先生は施設に入所され、後藤先生は病気と闘いながらの指導となり、進歩のない腕前を悔やんでも遅い現実を味わう事となっている。
                                5月16日の一言

肝心な恩師が不在ではなぁ…

 平成6年より毎週火曜日は、我家の事務所2階で趣味で集まった『書道教室』が開催されているが、肝心な指導する恩師より「車に乗れなくなった事と、体調不良のため行けない」との連絡をいただいた。
 恩師は昨年の5月に手術したガンとの闘病中(予防かな?)であるが、通院とはいえ抗がん剤を定期的に投与されているので、時々苦しい日も続き、最近では運転する車を何度もキズつけて走るために、どうやら家族から車も取り上げられた模様(これは私の想像です)である。

「来週からは、自転車で行こうかなァ?」と云われ、
「いや、いや、心配なく。ちゃんと迎えに行きますから」
「本当-ッ?悪いがやァ」
「長谷川先生も迎えに行っていましたから、大丈夫ですよ」
「迷惑なら、この辺りで辞めとこうかナ」
「いえいえ、本当に大丈夫だから。体を治して下さい」と言って電話を切った。

 しかし、永く続いたものである。病気などで辞めた人もあるが、13年目に入っているのである。当初は、私が中学時代に一番世話をかけた恩師が指導者だった。せめて人前で困らないように、何処に行っても毛筆で記帳できるようになりたいと依頼に行った。

 校長会長も歴任し、勲章も受章した恩師だから、
「今さら小遣い稼ぎと云われたくない」と固辞し続けられたのを、
「先生、勘違いしてもらっては困りますよ。小遣いにはなりませんよ」
「なにーッ?」
「先生はタダで教えるんですよ」
「どういう事だッ?」
「ビタ一文払うつもりはありませんよ。だから先生に頼みに来たんじゃないですかッ」
「そッ、そうかッ、そういう事か。じゃーッ、一銭も受け取らんぞッ」
と、信じられないような一言で、中学校の『神守』と、恩師の名前『長谷川丈夫』の丈をとって命名した、書道教室『神守丈友会』がスタートしたのであった。その長谷川先生も奥様に先立たれ、痴呆がすすんで現在は施設の人となっている。

 現在の恩師は2代目となるが、こちらも私の中学時代の恩師である。中学校時代の私の(悪い)素行を知る人々からは信じられない恩師達の入れ込みようであった。実際には、謝礼はないが、会費を積み立てて旅行や食事会を楽しんでおり、13年間の思い出も積み重なっているのである。
 辞めるのは簡単な事である。しかし、闘病中の恩師のためにも続くところまで続けようとの真面目な考えと、「書道旅行会」との安易な考えで続けていけそうでもある。
                                   1月24日の一言
 

 
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