大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

お墓

我家と家内の在所のお墓掃除へ

家内の里の墓地に建つ観音像

のどかな田舎です

畑へ

名鉄電車

弥富行き(津島方面)普通

勝幡駅には二両の電車が…

吉良吉田行き(名古屋方面)普通

本日の写真です。

本日は我家のお墓と家内の在所のお墓掃除に訪れました。


横井庄一さんの二つのお墓を訪れて

本日は私の住む愛知県西部地方も大雪に見舞われました。動画は我家の駐車場です。

午前5時頃に降りだした雪は道路を真っ白にしましたが、午前中から雪は溶け出し夕方には道路の雪はほとんど無くなったため、お墓掃除とお花を供えに名古屋市にある横井庄一さんのお墓を目指しました。

誰かがお花を供えて下さっていました

正月前に新しく供えました 千音寺霊園

真宗大谷派 行雲寺
名古屋市中川区富田町千音寺上屋敷2484

鐘楼

本堂

大樹と墓地

陸軍軍曹横井庄一のお墓です

母親のつるさんが残したお墓です

誰かが拓本を取った痕のようです

イブキの大木

樹名板

お墓を見守っているように見えます

本日の写真です。

平成9年に亡くなった横井さんにはお墓が2ヶ所あり、死後横井夫人が建立した千音寺霊園のお墓と、横井家の菩提寺となる行雲寺には横井さんの母親が昭和32年に建立した「陸軍軍曹」と刻まれた横井さんのお墓があります。

横井庄一記念館が開館してからお墓の場所を問い合わせてお参りくださる方もできましたが、千音寺霊園のお墓には小動物を慰霊する碑もあり、夫人は横井さんから行雲寺のお墓には入りたくない事と、グアム島で殺生した小動物の慰霊碑を一緒に立てて欲しいとの遺言であったとして建立されました。

夫人が鬼籍に入った今となっては事実を知ることはできませんが、生前の横井さんから「生きとる自分が入るお墓までおふくろが残してくれたから」と私と私の父親の前で笑って語っていたことを考えると、横井さん自身はわざわざ二つ目のお墓を建てて欲しいとは思っていなかったと思います。

私の推測では、行雲寺のお墓は母親の横井家が建立したお墓で、横井さんの死後在所となる横井家から色々言われることを嫌った夫人が、自分の兄と相談して小動物の慰霊碑という理由と話題性を考えて建立したものと思います。

今となっては、子供の無い横井さんのお墓は夫人が他界したことと、夫人が横井さんの在所や横井家の親族と懇意にしていなかったと言うよりも、横井さんは小学校五年生になってから我家の大鹿庄一から母親の再婚によって横井姓になっており、血縁者の居ないお墓に共通した現代社会に共通する社会問題でもあります。

私自身も我家の先輩としての横井さんのお墓掃除には訪れるものの、二ヶ所のお墓掃除を子供たちにまで託すことはてきず、我家のお墓やお寺とは別に、横井さんのお寺とお付き合いしていく気持ちも無いことから、こんな生活がいつまで続くかを考えると苦痛です。

高野山一の橋にある鶴田浩二さんのお墓へ

高野山奥之院 一の橋

奥の院(弘法大師御廟)へ続きます

左を見ると…

白い大きな塔が…

あ、同期の桜

同期の桜の塔


高野山奥の院参道入り口となる一の橋を渡り、左側を見ると白い大きな塔が見えますが、それは昭和18年学徒出陣で出征した第十四期海軍飛行予備学生の慰霊碑「あゝ同期の桜の塔」で、昭和42年に大圓院墓地内へ建立されました。


毎年9月第二日曜日に慰霊祭が開催され、俳優の鶴田浩二さんは亡くなられる(昭和62年)前年まで、自前で演奏するバンドの仲間を引き連れて毎年欠かさず出席しておられました。


その後方右を見ると…

鶴田浩二さんのお墓です

小野家は鶴田さん(母方)の姓

大円院の住職と鶴田さんの夫人が建立されました

鶴田さんのお墓と同期の桜の塔

今年の18日は大雪となりました。

私の誕生日と大雪の高野山参拝は記憶に残る一日となりました。


高野山一の橋にある鶴田浩二さんのお墓ですが、私が高野山を訪れた際には必ず立ち寄っているものの、今年は10月に予定していた弘法会の高野山参拝が中止になったため、半ば諦めていましたが何とか年内に訪れることができました。

さて、昭和62年に亡くなられた鶴田さんには、東京都の港区にある父方「大島家」と練馬区に母方「小野家」のお墓があり、神奈川県の鎌倉霊園には生前の本人の希望から夫人によって建立された本人のお墓があります。

この高野山のお墓は、高野山別格本山大圓院の住職、藤田光幢が鶴田浩二と同期の桜であったことから、生前の昭和47年12月22日に戒名を授かっており、先に逝った戦友と三途の川原でいつでも話し合えることと夢みていたことから、鶴田さんの死後夫人によって建立されました。

お墓の詳細については過去に何度も書き残しているので、下記に添付した私の過去ログをご覧下されは幸いです。

2021-11-26

高野山 あゝ同期の桜之塔と鶴田浩二さんのお墓 | 大鹿一八 『今日の一言』 (ameblo.jp)

2017年04月03日

大鹿一八「本日の一言」 : 高野山 あゝ同期の桜の塔と鶴田浩二さんのお墓 (livedoor.blog)


今年6月に膠原病(関節リュウマチ)の診断を受け、これからは身体と相談しながらの生活となりますが、8年前には歩き遍路の仲間と麓にある九度山町の慈尊院から奥の院まで一日かけて歩いており、リーダーであった上野さんも他界している現実を考えるとこれからの時間は大切にしたいものです。


仲間がお墓とツーショットの写真を残してくれました。

2014年10月21日

大鹿一八「本日の一言」 : 高野山町石道から帰りました (livedoor.blog)


初めて鶴田さんのお墓と出会った時の書き込み

2008年05月29日

大鹿一八「本日の一言」 : 本日は高野山で鶴田浩二さんと出会い (livedoor.blog)


平成13年に四国遍路をスタートし、翌年5月に高野山へ御礼参りに訪れ、ああ同期の桜の塔にもその後毎年訪れるようになりましたが、この塔と鶴田さんの関係を知って訪れていたものの、塔の後ろに建立されていた鶴田さんのお墓には平成20年まで気づかなかったことも今となっては不思議で可笑しな笑い話となりました。


生前の鶴田浩二さんは大スターであり、私なんかは会いたくとも会えないような有名人でしたが、そんな私が突然に訪れて墓前で勝手に手を合わせて、好き勝手なことをつぶやいていますが、ご本人が顕在なら「礼儀も知らない無礼者」と叱られるだろうと思いますが、今では我が物顔で勝手に訪れる親のような存在となっています。


鶴田さんの残した映画と全く同じイメージが一の橋の塔やお墓にはあり、私自身の生活を反省して見直す機会ともなる聖域でもあります。ここだけはお大師様と同行二人ではなく、鶴田さんと同行三人になるように感じ、しいては国のため若き命を散らした多くの戦没者も一緒になったように思えてしまいます。

                        12月20日の一言


雪の金剛峯寺と奥の院 高野山

雪の高野山へ


高野町へ

中門

金剛峯寺の門前

軽自動車で来ました

参道


鐘楼

本堂

奥之院へ移動します

中の橋入口

奥之院への参道



ここからはカメラ禁止です

御廟






奥之院一の橋

ああ同期の桜の碑



鶴田浩二さんのお墓


慈尊院

ゴンの碑

丹生官省符神社への石段

鳥居

本殿

降ります

大師堂
本日の写真です。

本日は朝8時に愛知県を出発して、西名阪自動車道から国道25号、天理市から京奈和自動車道へ入り、かつらぎ西インターから高野山を目指しました。

道路は途中から真っ白となり、高野山が近づくと凍結状態となりました。

高野山の大門から中門の道路はツルツルの状態となり、金剛峯寺、奥の院御廟へ参拝を済ませました。

本日は一の橋にある同期の桜の塔に手を合わせ、私の尊敬する鶴田浩二さんのお墓にお参りしてから高野山を降りました。

本日は九度山町の慈尊院へ参拝を済ませ、これから橿原神宮の近くまで移動します。

お盆のお墓掃除へ

長福寺 津島市葉苅町

 叔父が叔母と残した石柱(門柱)

 本堂

 檀信徒共同墓地

 これも叔父が残したお墓です

 我が家のお墓です

 本日の写真です。

 本日は我が家のお墓掃除とお盆の花を供えてきました。家内の在所のお墓と、名古屋市にある横井庄一さんの2つのお墓を掃除した後で4つ目のお墓掃除が我が家のお墓になります。

春と秋のお彼岸にお盆と正月にお墓掃除へ訪れますが、我が家のお墓はさておき、他のお墓掃除やお供えがどうなるのかを考えても何ともなりません。

一年の経過は早く今年もお盆を迎える8月になってしまいましたが、最近になり平成5年に亡くなった父親が夢枕に立つようになりました。

体の不調による苦痛が多いと夢の内容も悪く、縁起でもありませんが正夢にならないよう願うばかりです。

横井庄一さんのお墓を訪れて

 本日の夕暮れです 18:13分

 行雲寺 名古屋市中川区千音寺

横井庄一さんのお墓です

 花を供えました

 拓本マニアにより黒ずんだ墓

 法名

昭和30年母親つるが建立


 本日はお盆を前にして横井庄一さんのお墓がある中川区の行雲寺と千音寺霊園を訪れお花を供えました。横井さんの母親つるさんが昭和30年に建立したお墓で、戦死したことで陸軍伍長から軍曹に昇格されて記されています。


幼少時から横井さんを実家である我家に預けたまま奉公先に出てしまい、横井さんの存在を隠したまま横井家に嫁いでいたつるさんですが、横井さんが出征して戦死の通知を受け取ってからは誰一人として血縁者のない横井家で孤立し、唯一の心の支えが横井さんの供養となりました。


そんな環境下にあったため、女手ひとつで他所よりも大きく立派なお墓をお寺の一番目立つ場所に建立したと思われます。


生後まもない庄一さんを実家である我家に残し、小学校五年生になるまで親として一緒に生活しなかった罪悪感もあったのかもしれません。


 千音寺霊園のお墓

 小動物のお墓とともに

 今年は夫人も亡くなりました

本日の写真です。

結婚して自分の子供が欲しかった横井さんですが、一緒になった美保子夫人は高齢であったことからか子供を残したいとは全く思っておらず、我家に来ると孫が四人もいる私の父親に、「おまえんとこは良いなぁ」と横井さんは語っていました。

結果として、横井家には一人として後継者となる血縁者がなく、唯一の血縁者の母親つるとは人生で数年間一緒に生活しただけで、最後まで一人ぼっちのまま平成9年に鬼籍へ入っていきました。

幼少期の横井さんを知る我家の家族や血縁者も全員が鬼籍に入っており、さぞや天国はにぎやかになっていると思われる半面で、お盆に帰ってきても誰も居なくなった横井家は結局一人ぼっちと考えると悲しさは否めません。

知多半島 野間大坊の古刹を訪れて

源義朝公のお墓

昨日の写真です

野間大坊 客殿

石庭

四国八十八ヶ所 お砂踏み

悠紀殿

鐘楼堂

大門

大御堂寺 本堂

源義朝公 御廟

入り口

義朝公のお墓

伊藤萬蔵寄進の香炉

織田信孝公のお墓

池禅尼の塚

鎌田政家と妻のお墓

血の池

野間大坊信徒会館


 昨日訪れた知多半島美浜町にある野間大坊の大御堂寺の写真です。

野間大坊(のまだいぼう)は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗豊山派の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は鶴林山。正式には鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、宗教法人としての公称は「大御堂寺」である。寺がある美浜町野間は源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。

 『大御堂寺縁起』には、天武天皇(673~686)の時代に役小角が建立、聖武天皇の時代に行基により中興されたと伝わり、寺伝には「その後空海が一千座の護摩を炊き庶民の幸福を祈った」と愛知県へは来ていない空海の名前も記されているのであくまで言い伝えですが、歴史の古い真言宗の古刹です。

源義朝の最後

平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた義朝は、随行していた鎌田政清の舅・長田忠致の許に身を寄せるが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿(野間駅の東にある法山寺にあったとされる)で入浴中の義朝を欺し討つ。この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。


 この源義朝公の御廟の中に、織田信長の三男信孝のお墓が残されており、信長が本能寺の変で亡くなっているとは言え、織田信長の三男でありながら家臣であった豊臣秀吉と戦って敗れ、大御堂寺の近くにある安養院で自害させられたことに残酷な戦国時代を実感させられます。

 昨日訪れた美浜町に残されたお墓から、数百年前まで何所で殺されるか判らなかった世情と、突然死んでも家族と最後の別れもできないコロナ禍の現代社会にも共通する人間の儚い生命を感じさせられました。
                                 1月23日の一言
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