お墓
誰かがお花を供えて下さっていました
高野山奥之院 一の橋
あ、同期の桜
同期の桜の塔
高野山奥の院参道入り口となる一の橋を渡り、左側を見ると白い大きな塔が見えますが、それは昭和18年学徒出陣で出征した第十四期海軍飛行予備学生の慰霊碑「あゝ同期の桜の塔」で、昭和42年に大圓院墓地内へ建立されました。
毎年9月第二日曜日に慰霊祭が開催され、俳優の鶴田浩二さんは亡くなられる(昭和62年)前年まで、自前で演奏するバンドの仲間を引き連れて毎年欠かさず出席しておられました。
お墓の詳細については過去に何度も書き残しているので、下記に添付した私の過去ログをご覧下されは幸いです。
2021-11-26
高野山 あゝ同期の桜之塔と鶴田浩二さんのお墓 | 大鹿一八 『今日の一言』 (ameblo.jp)
2017年04月03日
大鹿一八「本日の一言」 : 高野山 あゝ同期の桜の塔と鶴田浩二さんのお墓 (livedoor.blog)
今年6月に膠原病(関節リュウマチ)の診断を受け、これからは身体と相談しながらの生活となりますが、8年前には歩き遍路の仲間と麓にある九度山町の慈尊院から奥の院まで一日かけて歩いており、リーダーであった上野さんも他界している現実を考えるとこれからの時間は大切にしたいものです。
仲間がお墓とツーショットの写真を残してくれました。
2014年10月21日
大鹿一八「本日の一言」 : 高野山町石道から帰りました (livedoor.blog)
初めて鶴田さんのお墓と出会った時の書き込み
2008年05月29日
大鹿一八「本日の一言」 : 本日は高野山で鶴田浩二さんと出会い (livedoor.blog)
平成13年に四国遍路をスタートし、翌年5月に高野山へ御礼参りに訪れ、ああ同期の桜の塔にもその後毎年訪れるようになりましたが、この塔と鶴田さんの関係を知って訪れていたものの、塔の後ろに建立されていた鶴田さんのお墓には平成20年まで気づかなかったことも今となっては不思議で可笑しな笑い話となりました。
生前の鶴田浩二さんは大スターであり、私なんかは会いたくとも会えないような有名人でしたが、そんな私が突然に訪れて墓前で勝手に手を合わせて、好き勝手なことをつぶやいていますが、ご本人が顕在なら「礼儀も知らない無礼者」と叱られるだろうと思いますが、今では我が物顔で勝手に訪れる親のような存在となっています。
鶴田さんの残した映画と全く同じイメージが一の橋の塔やお墓にはあり、私自身の生活を反省して見直す機会ともなる聖域でもあります。ここだけはお大師様と同行二人ではなく、鶴田さんと同行三人になるように感じ、しいては国のため若き命を散らした多くの戦没者も一緒になったように思えてしまいます。
12月20日の一言
本日の夕暮れです 18:13分
行雲寺 名古屋市中川区千音寺
横井庄一さんのお墓です
法名
昭和30年母親つるが建立
本日はお盆を前にして横井庄一さんのお墓がある中川区の行雲寺と千音寺霊園を訪れお花を供えました。横井さんの母親つるさんが昭和30年に建立したお墓で、戦死したことで陸軍伍長から軍曹に昇格されて記されています。
幼少時から横井さんを実家である我家に預けたまま奉公先に出てしまい、横井さんの存在を隠したまま横井家に嫁いでいたつるさんですが、横井さんが出征して戦死の通知を受け取ってからは誰一人として血縁者のない横井家で孤立し、唯一の心の支えが横井さんの供養となりました。
そんな環境下にあったため、女手ひとつで他所よりも大きく立派なお墓をお寺の一番目立つ場所に建立したと思われます。
生後まもない庄一さんを実家である我家に残し、小学校五年生になるまで親として一緒に生活しなかった罪悪感もあったのかもしれません。
源義朝公のお墓
源義朝の最後
平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた義朝は、随行していた鎌田政清の舅・長田忠致の許に身を寄せるが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿(野間駅の東にある法山寺にあったとされる)で入浴中の義朝を欺し討つ。この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。












































































































