大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

お寺

毎月21日はお寺で阿息観の瞑想体験

阿字観道場

弘盛寺 愛知県津島市越津町

お寺への参道

寺標

六地蔵

福壽門

本堂

睡蓮

写経前

写経後

写経と阿息観後の一服

四国別格椿堂さんから来た椿

本日の写真です。

私にとって毎月21日はお大師様の日で、何事もなければ町内のお寺の本堂で「阿息観」という瞑想法の座禅を組んでいます。もっとも、かつては名古屋市北区で開催されている志賀弘法会の代表を送迎していましたが、現在は家内に任せて阿息観だけの一日となっています。

身体中の空気を細胞を絞り出すような感覚で掃き出し、深く吸い込めるだけ空気を大量に吸い込み、一時息を止めた後に、ゆっくりと時間をかけて吐き出す呼吸サイクルの繰り返すのが阿息観という瞑想法です。

阿息観は今から千二百年前に空海が中国から持ち帰った「阿字観」の一つで、真言密教の僧侶だけに引き継がれてきた真言宗の瞑想法ですが、現在は一般の信者にも広く開放されるようになり、私も最初は高野山まで行って参加していましたが、地元のお寺で開催されていることを知ってから参加するようになりました。

それが今から12年前の話となり、私が四国遍路に行くようになって22年も経過している現実にも驚きしかありません。

 2011年7月21日の一言


数年前には、自己勝手流の瞑想ですが、目をつぶって自分が座っている場所を高野山奥之院の御廟前と、上高地の小梨平で穂高連峰を望む場所に設定し、我が身が現地へ転送されたような錯覚を感じて座っていたこともありますが、体力的に衰えたためか最近は現地と同化することができなくなりました。


前記したように空海によって伝承されてきた真言宗の瞑想法ですが、最近は健康法としてテレビで専門家によって同じような呼吸法が案内されており、医師や学者も科学的に紹介するようになりました。


仏教嫌いの人や、四国遍路や真言密教を邪教と言う新興宗教も存在するため、この阿息観が医学的にも有効な呼吸法として理解してもらうため、アメリカアリゾナ州立大学の先生が提唱する呼吸法を添付します。


 アメリカ・アリゾナ州立大学のアンドルー・ワイル博士が提唱する「4-7-8呼吸法」と呼ばれる瞑想呼吸方法

 息を吐く
息を深く吸うためには、まず息を出し切らなければなりません。姿勢はできれば楽な姿勢で背筋を伸ばして床に座るのが理想的ですが、仰向けでも構いません。

1 息を吸う
口を閉じて、静かに鼻から息を吸います。心の中で数える4秒間のうちに息を吸います。

2 息を止める
7秒間息を止めます。

3 息を吐く
1番のように再び舌の先端を前歯の付け根に触れるようにカールさせ、8秒間で口から息を吐き切ります。シューッという音がすると正しく息を吐いている証拠です。息を吸う2倍の時間でゆっくり息を吐き切ります。

1〜3までが1つのサイクルで、1回と数えます。この呼吸法により酸素が肺一杯に吸入され全身にくまなく酸素が行き渡るので、体がリラックスするのです。1〜3までが1つのサイクルで、1回と数えます。この呼吸法により酸素が肺一杯に吸入され全身にくまなく酸素が行き渡るので、体がリラックスするのです。

仏教も究極の目標は人間の幸福(真言宗の目標は生きている間に仏様になる即身成仏)にあり、幸福の源となる健康は生きていく上での第一歩となり、これからも健康で四国遍路や高野山に行ける体調管理に努めたいと21日になると実感させられます。

2ヵ月ぶりの阿息観で健康を実感し

本日の夕暮れ

午後6時18分

時間が止まった鉛空


本日の写真です。

毎日5千歩をノルマにしていると、月曜日から金曜日まで2万5千歩になりますが、添付したように僅かに足りません。本日の愛知県は強風が吹いているだけでなく、黄砂によって鉛色の空のためか、不足分を歩く気力も湧いてきません。

本日21日は弘法大師の日で、真言宗のお寺では何かしらの行事が行われており、家内は津島市のお寺から名古屋市の会場まで弘法会の代表を移送しており、私は午後から町内のお寺で写経と阿息観に参加していました。

先月は四国を遍路中のため久しぶりの阿息観参加でしたが、3月に戴いた法螺貝の音が出ないため練習していた効果で以前より多くの空気を吸い込むことができ、腹式呼吸が安定して過去とは違う阿息観を実感させられました。

そんな法螺貝の話や、四国遍路の不思議な話に花を咲かせていると、時間の経過を完全に忘れており、電源を切ってあったスマホのスイッチを入れると、午前中に移送してあった福祉有償移送のお迎えの時間をすっかりと廻っていました。

ボランティアと言えども患者さんを移送しているため、お待たせすることは絶対に許されないものの、家内から鬼のように厳しい顔が想像できそうな電話が届き、慌ててお迎えに走って何とか取り繕った次第です。こんな失態は許されず、有償ボランティアではありますが、本日は無償の移送でお許しを得た次第です。

さて、膝が痛くて正座できない人も多く存在しますが、柔道整復師の息子から無理に座ろうとすると悪化すると言われていたものの、お寺の本堂で正座するために自己流ですが、クッションマットを利用して痛むことなく正座できる方法を見つけました。

ホラ貝フキおじさん

最近では何処のお寺でもイスが用意されており、お寺の住職もイスに座って読経されますが、善通寺や高野山では足を痛めている僧侶も正座されている姿と、阿息観に関してはイスでも良いと言われるものの、正座しないと効果を実感できません。

年寄りになっての法螺貝の手習いですが、法螺貝によって肺活量や呼吸が安定したことを実感し、イスではなく正座して本堂に座ることで、本日は昨年膠原病に罹患して以来身体の静養ばかり意識していた生活を見直せそうな気持になれました。

大鹿一八69歳。4年後の総選挙には73歳になりますが、8年ぶりにカムバックとなるような前向きな行動を心掛け、平成11年から掲げてきた「カムバック津島」の看板を今後も挙げ続けていきます。

本日はそんな気持ちになれるお寺行きとなりました。

桑名市の聖天祭 大福田寺へ

大福田寺山門前の団子屋さん 


門前の団子屋さん 過去の一言です


 手水舎

真新しい鐘楼堂 

 本堂

聖天堂 

 聖天堂仏前

本堂の天井 に下がる瓢箪

本堂前の境内

昨日の写真です。

昨日は毎月一日に営まれている桑名聖天祭に訪れました。

大福田寺(だいふくでんじ)では毎月1日に午前10時頃より聖天堂にて護摩法要が行われますが、中村日赤の診察日だったことから11時に到着し、本堂のご本尊である阿弥陀如来と弘法大師に読経後、隣の聖天堂へ渡り廊下から渡ります。

聖天堂には聖天尊が奉られており、堂内の大黒天やお不動様に祈願して、出入り口に置いてある福袋をこれまで持っていた福袋と交換して参拝を終え、納経所前で護摩木に願い事を書き込みます。大福田寺の本堂や、聖天堂の天井は護摩を炊き上げた煤で真っ黒になっており、そのことからも多くの信者が参拝に訪れていることが判ります。

 ここからは大福田寺のフェースブックの写真です。

境内

本堂でのお勤め

聖天堂のお勤め

大福田寺のFacebook

毎月1日に門前へ出店している団子屋「朴乃木屋」さんは愛知県の業者で、9の付く日は名古屋市中村区の中村公園に出展しており、八事の興正寺や笠寺観音にも出店する名店ですが、来月の1日と2日は地元の犬山祭りに出店するためお休みとのことでした。

事務所の入り口にも貼りました


さて、添付したポスターは、来月2日に開催される火渡りまつりの案内ですが、一寺院の行事とは思えない桑名市の一大イベントと化しており、11月に参加した火渡り神事に感激したことから、今度は家内や知人を誘って訪れたいと思っています。

戦国武将蜂須賀子六ゆかりの蜂須賀城(愛知県あま市)へ

蜂須賀城址の石標 愛知県あま市

蜂須賀城址全景

蜂須賀城址

蜂須賀正勝公碑


蜂須賀小六の生誕の城 

木曽川の川並衆であった蜂須賀氏の城で、蜂須賀小六(正勝)の生誕地と云わります。
小六は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、最後は阿波徳島藩の藩祖になっています。




本日は蜂須賀子六の居城だったあま市の蜂須賀の郷を訪れました。3日前の日曜日に娘の家族に誘われてニッポン城めぐりのアプリを入れましたが、近くのお城や城址くらいは訪れてみたいと足を運びました。


本日の映像


菅安社

あま市蜂須賀北本郷1343番地1 祭神は天照大神と菊理姫神


蜂須賀村由来記によると弘法大師が菅安の地で白山大権現に会ったことにより白山社を祀ったのが始まり。昭和29年に現在地に遷り、菅安社と改名され今に至る。村社。


池鈴山蓮華寺 真言宗智山派

愛知県あま市蜂須賀大寺1352


手水舎

境内

観音堂

三十三観音

新たな堂が造営中

蜂須賀家の菩提寺である蓮華寺


弘仁年間(810年 - 824年空海の開山により創建されたと伝えられる[1]。この地から出たとされ、阿波国徳島藩主となった蜂須賀氏の帰依を受け、尾張徳川家からも寺領が安堵されている。蜂須賀小六の菩提寺であり、蜂須賀小六・家政親子の位牌が安置されている[1]。仁王門は家政の寄進と伝わる。南西には、蜂須賀小六の旧宅や1ヘクタールに及ぶ蜂須賀城があったと伝わっている。

地元の伝承では、弘仁9年に弘法大師が熱田神宮の神託により創建したと伝えられているが、弘仁9年(818年)は弘法大師が45歳にあたり、その2年前に高野山開創の勅許が出たばかりで、勅許後始めて高野山に登って翌年に伽藍建立に着手していることから、まったく史実とは違う伝承ではあるものの、弘法大師の弟子となる高僧の影響を受けて建立されたものと思われます。伝承とは言えこんなに古い歴史があることから、実際の高僧の名前や記録が残っていないことは残念です。

ミニ四国八十八ヶ所霊場



奥之院

秋葉堂

蜂須賀山標高10.87m

奥之院から見る霊場

神社と蓮華寺

御嶽神社


お寺の中や隣接して神社が混在する景観が私は大好きです。



蜂須賀城のあった場所の隣に、は菅安社(神社)と規模の大きい蓮華寺が存在するため、訪れた人は蓮華寺や神社を含めて蜂須賀城の跡地と思ってしまいますが、実際には神社とお寺は平安時代に開創されていたことを考えると戦国時代の武将の心理が理解できそうで、ネット時代のアプリから新しい景色が拝めそうです。

豊川市の進雄(すさのお)神社と祇園山徳城寺へ

弘法大師の錫杖井戸 愛知県豊川市


豊川稲荷楼門 豊川閣妙巌寺


↓ 👇 ↓


圓福山薬師如来堂 豊川市門前町7

豊川稲荷楼門から百メートル東

参道の千本のぼり

本堂

そして、豊川いなり表参道へ

表参道 もうすぐ駅という所

ここで…

弘法大師の錫杖井戸の看板を見つけました

百メートル歩くと突き当りです

神社の右隣のお寺です

錫杖井戸の案内

曹洞宗祇園山徳城寺 愛知県豊川市豊川西町151

本堂

本尊は阿弥陀如来、三河准四国八十八ヶ所13番霊場、穂の国三十三観音28番霊場

修行弘法大師像

井戸への入口です

曹洞宗のお寺に弘法大師の幟が延々と続いています

ずいぶんと立派なミニ八十八か所です

そして、その奥に…

錫杖井戸のお堂

堂内に井戸がありました

八十八番の石仏


 日本中に弘法大師の名前を冠した井戸や湧き水が存在しますが、豊川市にも弘法大師のお告げで掘られたと伝承される井戸が存在しました。

 豊川稲荷の表参道の角に立てられた看板を見つけて訪れた物見遊山の参拝でしたが、何よりも曹洞宗の大きな寺院の境内に、真言宗のお寺の境内にあるミニ四国八十八ヶ所よりも大きなミニ霊場が残されていたことに驚かされました。

 境内にはお寺の歴史を示す案内板が存在せず、帰宅後にネット検索したところ弘仁13年(822)年の創立と記す発信があり、空海(弘法大師)の年表を見るとこの年は49歳で、前年に四国の満濃池の改修を陣頭指揮されていました。

 どちらにせよ、曹洞宗は鎌倉時代に中国から伝わった宗派であることから、それ以前からお寺が存在しており、空海ではないものの真言宗の高僧とご縁があり、そんな関係から井戸が残されて伝承されてきたものと思われます。

 そんなことよりも、隣にも広大な敷地を有する神社があり、地形的にはかつて徳城寺と一体ではなかったかと思われ、となりの神社にも足を運びました。

それにしても何と読めばよいものか…

豊川進雄神社

広大な境内

本殿

案内板


 豊川進雄神社(とよかわすさのおじんじゃ)は、愛知県豊川市豊川西町134にある神社。明治期以前は豊川牛頭天王と呼ばれていたが、神仏分離によって進雄神社に改称されたとあります。

 大宝元(701)年の大干ばつの時、旧鎌倉街道沿いの元宮の地に牛頭天王をお祀りして、雨乞いのお祭りを行ったことが始まりと伝えられています。毎年、7月20日に近い金土日曜日には豊川連区内の26町を東と西に分けて行う例大祭が斎行されます。

進雄神社の奉納綱火  出典: フリー百科事典『ウィキペディア』
1968年(昭和43年)指定[2]。例祭2日目の中祭で奉納される[2]。『花火縁起録』によると、万治3年(1660年)に小笠原四郎右衛門が長らく途絶えていた綱火を再興したという[2]明治時代までは境内ではなく本町で奉納されていた。拝殿から鳥居の間に、約120mの2本の麻綱を張り、麻綱に噴出煙火を仕掛けて走らせる[2]。なお、綱火のほかには手筒花火も奉納される[3]

 進雄神社は貞観十一年(869年)に各地で疫病が蔓延していた際、時の清和天皇の詔(みことのり・天皇の命令)により尾州(現在の愛知県西部)津島神社から神様をお招きして今の場所にお祀りしたのが始まりです。

 何も知らずに訪れた神社でしたが、進雄神社はすさのお神社と呼び、私の住む津島市の津島神社から神様をお招きしたと神社のホームページに記されており、明治以前は豊川牛頭天皇と呼ばれていたことから、となりの徳城寺とともに歴史を刻んできたことに間違いはありません。

駅前ロータリーのキツネ像

JR東海の豊川駅

先週土曜日の写真です。

 明治時代の神仏分離によって歴史が歪曲されたり、記録があいまいになってしまったことは残念ですが、豊川稲荷しか眼中になかった外出によって、いにしえの弘法大師や私の住む津島市とも行き来のあった歴史を感ずることができました。

 同じ仏教の中にも、自分の宗派以外は邪教と発する新しい宗派もありますが、私は神仏分離以前からの神様と仏様の境目のない参拝環境が大好きで、境内に大きな鳥居を有する豊川稲荷とともに、進雄神社や徳城寺の存在は久々に新鮮な外出となりました。
 

愛知県豊川市の豊川稲荷 

豊川稲荷楼門

境内の出店

鐘楼堂

山門

天文5年(1536年)今川義元公が寄進した建物で、当山の現存する中で最古の建物

鳥居と本殿

本殿

豊川稲荷は正式名を「妙嚴寺」と称し、山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。鎮守は豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)


香炉台

大提灯

千本幟

本殿から奥の院参道、裏門にかけてぐるりとはためく幟は全国より参拝にみえた御信者方が奉納されたもので、その数の多さから通称千本幟と呼ばれています。

奥の院への参道

景雲門

奥の院参道の中間にあり、安政5年(1858年)の創建で、旧奥の院拝殿を昭和5年の大本殿の御開帳に際し、現在地に移転し、景雲門と名付けられた

納符堂

 奥之院
文化11年(1814年)の建築で、昭和5年の大本殿の新築に伴い、旧本殿の拝殿を奥の院拝殿として移築したものです。

弘法堂

万燈堂(禅堂)

霊狐塚への参道

霊狐塚に置かれた狐像

 もとは納めの狐像を祀る場所でしたが、祈願成就の御礼として御信者の奉納された大小、多くのお狐さんがお祀りされており、その数はおよそ一千体にものぼります。

霊狐塚

昨日の写真です。

 昨日訪れた豊川市の豊川稲荷です。私が主催していた朝日旅行友の会では昭和63年から各地へ観光バスの日帰り旅行を企画し、とりわけ多くが京都のお寺を目的地にしていたため、私自身を昔からお寺好きと言われる人は多くいます。

 しかし、平成13年に四国遍路を始めてから次第に空海の残した真言密教に魅了され、真言宗の寺院を中心に参拝するようになりましたが、自分自身に厳しい曹洞宗のお寺も大好きで、共に共通するのはお寺の中に鳥居や神社が混在していることです。

 つまり、信心には仏教も神教にも境目はなく、真言密教のご本尊は大日如来であり、空海は若い頃四国各地の岩窟や山の厳しい自然環境下で修行されていますが、大日如来は山岳信仰のシンボルともなっており、自然崇拝にはお寺も宗派や神社も関係ありません。

 豊川稲荷については、お寺のホームページにもはっきりと曹洞宗の寺院であることが記されていますが、境内に大きな鳥居が存在し、神社の楼門とお寺の山門が混在しているため、参拝客のなかには拍手を打つ人もあります。

 さて、豊川稲荷は愛知県内にありますが、私自身が唯一電車を利用して参拝するお寺で、年寄りになって本当にお参りに行ってきたような感覚にさせてくれました。そして、豊川稲荷に近い曹洞宗の寺院には、弘法大師のお告げで湧いたと伝わる井戸が存在し、お寺の境内にミニ八十八ヶ所が存在する姿は真言宗のようでした。昨日は感慨深い一日となりました。

お千代保稲荷へ初詣

お千代保稲荷 岐阜県海津市


本日は岐阜県海津市のお千代保稲荷へ初詣に訪れました。

大渋滞からの参拝です

参道

やっと鳥居まで

境内入り口

まだまだ入り口

人、人、人

ろうそくの燈明場

境内も人、人、人

やっと拝殿へ

参拝

足止めに効果抜群?の礼拝所

精霊殿

出口の鳥居


人気店前の行列

お千代保稲荷の東側


弘法大師堂 美濃第31番札所 稲荷の西方にあります

南無大師遍照金剛 真言宗のお堂です


お千代稲荷の北にある社


車に戻ります

岐阜県から愛知県へ

本日の写真です。

子供の頃は父親の車に乗せられてお千代保さんへ参拝し、結婚直後は参道近くの駐車場が家内の伯母さんの嫁ぎ先のため無料で停めてもらい、その後は仲間と参道の居酒屋で飲み歩いて、最近では子供が独立して家内と二人で参拝するようになりましたが、私は神社の西方にある弘法大師堂と併せて参拝に訪れています。

お千代保稲荷は商売繁盛の神様ですが、最近の私は引退して年金生活者となっており、個人的な身体や困りごとは「お大師様」にお願いすることにしているため、「今年はお金に困窮しませんように」と全く地味なお願いをしてきましが…。

暦の中で「一粒万倍日」と「天赦日」に、私の運勢や吉方位占いが共通して縁起の良い日が近々あり、縁起の良い結果が出ることに期待することにします。

令和4年 大晦日



 👆ここに今晩の除夜の鐘の写真を添付予定です。
 今年(令和4年)は、3日前に鐘楼が完成して落慶法要が行われたばかりの桑名市の大福田寺の除夜の鐘を撞いてから、本堂で令和5年の元旦を迎える予定で、夜8時過ぎに自宅を出発し、車中で年越しそば(どん兵衛のカップ麺)を食べてから、お寺を訪れたいと考えています。

本日も普段と同じようにウォーキングに出ました。

 運送会社もお休みです


 大晦日に満開のたんぽぽ

 2日前の同じたんぽぽです


 今年最後のマクドナルド


スタンプ獲得です


3万5千歩を歩きました


15個ゲットです



大晦日にドリンク券獲得です

本日の写真です。

大晦日でも元旦でも何も変わることなく生活していますが、来年は真っ新な気持ちで健康でストレスを感じない一年にしていきたいと思っています。

平成16年から毎日ブログ発信することを前提にして生活してきました。歳を重ねるとともに体調の不調や病に苦しむ発信が増えましたが、今年もご覧いただいて有難うございました。

来年も休むことなく発信していきたいと考えておりますので、飽きる事なく訪問していただき、私自身への苦言も遠慮なくコメントして下さい。皆さんの体験や意見が私自身を鼓舞し励ましにもなりますので、令和5年も宜しくお願い致します。

                             

21日はお寺で写経と阿息観へ

本日の般若心経

参道の幟旗

津島市越津町 高野山真言宗弘盛寺

弘法大師と十三佛

本堂

境内

四国椿堂ゆかりのツバキ

本日の写真です。

毎月21日はお寺の日と決めてあるものの、上高地や四国遍路ばかり考え不在が続き、本日は久々に町内のお寺を訪れることができました。

久々に訪れてお寺の境内を見渡すと、私が四国別格霊場の椿堂さんから頂いて持ち帰った弘法大師ゆかりの椿の木が主を待つかのように迎えてくれました。

改めて案内板を読んで、この椿は弘法大師が地域で流行していた病を封じ込めたと言う伝説の椿で、町内のお寺でも病気平癒の案内が出されていました。

今年7月に膠原病と診断され、四国霊場や真言密教のお寺に病気平癒と手を合わせながら、町内のお寺だけでなく我が家にも一緒に持ち帰った「病気平癒」の椿があることを改めて認識させられました。


 
写経道場


さて、本日は阿息観に参加するためにお寺へ向かいましたが、ちょうど若い女性達が写経を始める時に訪れたため私も写経に参加することになりました。

2010年06月03日

かつては般若心経や座右の銘を書道展に出品しており、複数の知人から作品を所望されていたことを考えると今年になって膠原病を患ったとはいえ随分と書の腕が低下したことを本日の写経で実感させられました。

お寺でリラックス


真言宗のお寺のありがたみは、本堂でもリラックスしてくつろげる環境があることで、月に1回はお寺に座ってゆっくりすると心が落ち着きます。

阿字観掛軸ご本尊
阿字観道場 (本堂)
 阿字観(あじかん)とは、真言密教の瞑想法の一つであり、瞑想により「世界と自分はひとつである」ことを実感することです。 密教の根本経典の一つである「大日経」で説かれ、平安時代に弘法大師空海によって日本に伝えられた瞑想法です。

2011年07月21日

本日開催された阿息観は阿字観の入門編とも言える瞑想法ですが、過去のブログを振り返るともう11年も前からこのお寺に足を運んでいたことにびっくりさせられました。

上高地:日本一美しい自然の聖地 上祐史浩オフィシャルブログ     http://ameblo.jp/joyufumihiro/entry-11915696228.html

上高地の下見:自然の中での体験と陰陽の自然  2011-08-26     http://ameblo.jp/joyufumihiro/entry-10998562440.html


私は上高地で穂高連峰から降りてくる霊風を吸い込む阿字観を理想としていますが、私と同じ感覚で上高地を訪れていた上祐さんによって、上高地と真言密教の聖地高野山や四国遍路の延長線上にあることを確信させられました。

  

 抹茶とお菓子


 我が家は浄土宗の檀家ですが、かつてのお寺では当たり前だった環境が真言宗のお寺には存在し、私が元気で外出できるうちは四国のお寺や高野山だけでなく、各地の真言宗のお寺を訪れていきたいと思っています。

本日は久しぶりにリラックスできる一日となりました。

お寺の晋山式に参加して


法性山 長福寺 津島市葉苅町
門前の寺標(石柱)は叔父が寄進したものです

晋山式 

本堂

僧侶の入場 



 住職の引き継ぎ




 新住職の挨拶



 檀家総代の挨拶

新住職 



 前住職の挨拶

新旧住職 


 本日午前10時30分より長福寺の晋山式が執り行われ、現住職から新しい第32世となる新住職に引き継ぎが終わりました。

 前住職の引退式の挨拶

持帰りのお弁当 

 記念品の輪袈裟
本日の写真です。

 長福寺は500年ほどの歴史しかありませんが、織田信長の父信秀の時代に建立され、織田家が勝幡城から清洲城へ進出する中で10の末寺を建立して行きました。

一説には、織田家の情報収集の拠点として、清洲方面へどんどんと末寺を増やしていったようです。

浄土宗では当地方の拠点となる由緒あるお寺ですが、コロナ禍の中で行われる晋山式のため、稚児行列をせず、昼食は持ち帰り弁当となるなど規模を縮小した晋山式となりました。

住職のいない無住のお寺も目にする社会の中で、お寺が新しい住職に引き継ぎされたことを檀家としてありがたく思います。

京の三弘法 仁和寺


 仁和寺 仁王門

 駐車場

寺標 

山門から見える境内

本坊表門

本堂境内 

御殿 

しん殿 

 勅使門

案内図 

中門までの参道 

 中門

 五重塔

 壮大な五重塔

金堂 

 本殿前

水掛 不動尊

水をかけます 

 御影堂入口

 御影堂

 鐘楼

 大黒堂

 成就山八十八ヶ所


御室八十八ヶ所霊場は、文政10年(1827)当時、四国八十八ヶ所への巡拝が困難であったため、時の仁和寺29世門跡済仁法親王の御本願により四国八十八ヶ所霊場のお砂を持ち帰り、仁和寺の裏山である成就山山道に埋め、その上に諸堂を建て霊場を整備したのが始まりです。成就山(236.0m)



 観音堂

金剛華菩薩像

御室会館 

 仁和寺東門
昨日の写真です。

仁和寺は仁和4年(888)に創建された真言宗御室派の総本山ですが、規模が大きいだけではなく参拝できる環境が整っており、成就山には四国八十八カ所のそれぞれのお堂を建てた本格的な八十八ヶ所が存在します。

全国各地のお寺にミニ八十八ヶ所が存在しますが、境内や裏山に石仏が置かれただけの霊場が多く、仁和寺のような大掛かりな八十八ヶ所は初めて目にしました。

2時間ほどで回れる霊場との案内ですが、それぞれの札所のお堂で真言を上げると半日がかりになるため、今回は後日への先送りとして、改めて巡拝に訪れたいと思います。

参考にしてください。
仁和寺 成就山八十八ヶ所ウォーク 護摩祈祷会
・10月2日(日)・11月6日(日)・12月4日(日)

藤圭子さんの遍路歌


藤圭子さんの歌う四国遍路の歌を見つけました。


平成13年に四国遍路をはじめ、平成19年に四国八十八ヶ所霊場会の公認先達に補認された頃には八十八ヶ所のお寺の名前を全て暗記していました。


ところが最近では物忘れが激しく、お寺の名前が出てこないことも多く、また暗記するのも苦痛だと思っていたところに簡単に暗記できそうな歌を見つけました。


第一番札所から順に、

(1)霊山寺、(2)極楽寺、(3)金泉寺、(4)大日寺、(5)地蔵寺、(6)安楽寺、(7)十楽寺、(8)熊谷寺、(9)法輪寺、(10)切幡寺、(11)藤井寺、(12)焼山寺、(13)大日寺、(14)常楽寺、(15)国分寺、(16)観音寺、(17)井戸寺、(18)恩山寺、(19)立江寺、(20)鶴林寺、(21)太竜寺、(22)平等寺、(23)薬王寺、(24)最御崎寺、(25)津照寺、(26)金剛頂寺、(27)神峰寺、(28)大日寺、(29)国分寺、(30)善楽寺と安楽寺、(31)竹林寺、(32)禅師峰寺、(33)雪蹊寺、(34)種間寺、(35)清滝寺、(36)青竜寺、(37)岩本寺、(38)金剛福寺、(39)延光寺、(40)観自在寺、(41)竜光寺、(42)仏木寺、(43)明石寺、(44)大宝寺、(45)岩屋寺、(46)浄瑠璃寺、(47)八坂寺、(48)西林寺、(49)浄土寺、(50)繁多寺、(51)石手寺、(52)太山寺、(53)円明寺、(54)延命寺、(55)南光坊、(56)泰山寺、(57)栄福寺、(58)仙遊寺、(59)国分寺、(60)横峰寺、(61)香園寺、(62)宝寿寺、(63)吉祥寺、(64)前神寺、(65)三角寺、(66)雲辺寺、(67)大興寺、(68)神恵院、(69)観音寺、(70)本山寺、(71)弥谷寺、(72)曼荼羅寺、(73)出釈迦寺、(74)甲山寺、(75)善通寺、(76)金倉寺、(77)道隆寺、(78)郷照寺、(79)高照院、(80)国分寺、(81)白峰寺、(82)根香寺、(83)一宮寺、(84)屋島寺、(85)八栗寺、(86)志度寺、(87)長尾寺、(88)大窪寺


 藤圭子さんの歌に合わせて一番寺から順に見ていくと簡単に覚えられそうです。

  

ついでに四国遍路に関係する歌も見つけて添付しました。



正座はできないもののお寺の阿息観へ

お寺の新しい案内
本日の写真です。

 本日の愛知県は朝から小雨が降り続ける一日となりましたが、午前中は息子の接骨院で施術を受け、午後は町内のお寺で開催された阿息観に参加しました。

先月参加できなかったので2ヶ月ぶりの阿息観となりましたが、両手と右膝が不調なため椅子に座ったまま瞑想法参加となり、腹式呼吸すらできなかったものの、毎月参加してきた阿息観参加を体調不良を克服する第一歩にしたいと考えています。

さて、6月3日以来車の運転から遠ざかっていましたが、お寺が近所だったことと、一日も早い社会復帰のためハンドルを握りました。

本日の福祉有償運送は家内と仲間たちの頑張りで患者さんの送迎が行われましたが、私自身の現場復帰は当面考えられません。(残念〜)

源義朝暗殺の地 野間大坊に立って

野間大坊大御堂寺の源義朝公御廟に眠る人々のお墓

大御堂寺から300メートル歩くと密蔵院へ

知多四国第52番 鶴林山密蔵院

大師堂

大師堂内

新発見

蜜蔵院の沿革

境内の奥の山

100メートル

200メートル

300メートル

目的の松

はりつけ松の説明

のどかな風景ですが…

先週土曜日の写真です。

 今から900年前の話となりますが、平治2年(1160年)に源義朝(源頼朝の父)は入浴中に随行していた鎌田政家の舅、長田忠致・景致父子に平家からの恩賞目当てで暗殺され、随行していた義朝の乳兄弟と呼ばれた鎌田政家も暗殺前日に影致によって殺害されています。

 鎌田政家の妻は長田忠致の娘と言いますから、忠致は娘の夫を殺害し、政家が仕えていた主君義朝を暗殺し、その首を大御堂寺の横にある池で洗い、平家の恩賞をもらうために首を持って上京したと伝わっています。知多半島から京都まで移動した時間を考えると、持参した首の状態や検分した平家の武士の当時の顔がよみがえってきます。

 下克上と言われる戦国の時代にあって、親子や兄弟が殺しあうのは当り前の世情かもしれませんが、平家のために娘婿を殺した長田親子は暗殺した義朝の息子である源頼朝の下で働き、頼朝のために恩賞もあげますが、この野間の地で頼朝によって磔にされ、その松が枯れてはいるものの蜜蔵院の裏山に残されていることはリアルですね。

 さて、今から400年前には本能寺の変で織田信長が暗殺された後に、後継を争う柴田勝家と豊臣秀吉の間で争いが起こり、柴田勝家側についた信長の三男信孝も、秀吉と次男信雄によって本日添付した蜜蔵院で自刃しています。

 知多半島は知多八十八ヶ所の巡礼の地になっていますが、かつてはそのお寺で暗殺が行われ、その後当事者が裏山で磔の刑に処され、織田信長の三男はその家来だった秀吉と自分の兄弟によって蜜蔵院で自害していた歴史が目を閉じると浮かび上がってきそうです。
 

2018年 2月19日 私の記した一言です。

 お寺で人が殺されたり、人々が普通に生活する場所で切腹する残酷な歴史が数百年前は普通に行われており、私の住む津島市に近い七宝町にある「桂の六地蔵」についても、天正12年(1584年)6月に起こった蟹江城合戦で敗走し,秋竹で切腹した武士の遺骨を引き取った僧が,その冥福を祈って刀剣とともに葬って建立されたと言われています。


 この蟹江合戦についても、織田信長が本能寺で倒れた後に豊臣秀吉と徳川家康との間で小牧・長久手の戦い以降に起こっており、蟹江城合戦では秀吉軍と家康・織田信雄(信長の次男)連合軍の闘いですから、信長や秀吉の出身地である愛知県の尾張地方でも残酷な殺し合いが行われていたことが判り、三男の信孝を秀吉と一緒になって切腹させた次男信雄も、徳川と連合を組んで戦っていることを考えると、小汚い秀吉や家康に対して兄弟が多い織田信長の子供たちが団結して信長の意思を継承して欲しかったと思うのは私だけとは思えません。


 我家の住む土地から4キロしか離れていない場所で生まれた信長や、歩いて2時間の距離に生まれた秀吉の声が聞こえそうな年齢まで歳を重ねたことも実感するようになりました。今から1200年前の空海の声が聞きたいと四国の僻地を訪れているだけに、400年前の信長や秀吉の声が聞こえそうに思えても不思議ではありませんね。

                               1月26日の一言

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