大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

その他文化活動

元名古屋市長の色紙 「吟月弄風」


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吟月弄風(ぎんげつろうふう)

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友月交風

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杉戸 清(すぎと きよし)さん1901年10月10日- 平成14年(2002年)4月24日百歳で没 
  元名古屋市長。名古屋市長を3期務め、1973年に勲二等瑞宝章を受章されている 

 2日前に日本画家浅見香城先生の画帳がゴミと一緒になっていたため、その付近を整理していると、古い色紙が多数山積みされており、この中に元名古屋市長の杉戸清さんの色紙が含まれていました。

 添付した「吟月弄風」(ぎんげつろうふう)については、吟風弄月と同意語と思われ、吟風弄月とは、自然の風景を題材にして詩や歌を作ることで、風に吹かれながら詩を吟じて、名月を眺めながら楽しむとあることかせら、名月を見ながら、風に吹かれながら詩を楽しんだと記されているように思います。

 真ん中の「友月交風」は、月を友とし、風と交わる。月と友し(仲良くし)、風と交わることで、自然と親しみ、自然と一体になりながら暮らしておられた様子がうかがえますが、市長を引退する前の市長在職中の書であることから、最近の市長とは違って日本画や書をたしなむ文人としての姿がうかがえます。


 添付した一言は、学生時代に起業した私にいただいた色紙が記してありますが、杉戸さんの「朱竹」の色紙を見た記憶があり、年内に探し出して添付したいと思います。

 本日は午前中に委員会が終わり、いったんは帰宅したものの、今では数少なくなった職員(65歳)から食事を誘われ、再度市役所に出向くことになりました。

                                    12月13日の一言


立田文芸クラブの三保松原吟行に同行して


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三保の松原「羽衣の松」  静岡市清水区

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お茶をラッピングしたタクシー

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三保の松原入り口

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三保の松原と御穂(みほ)神社をつなぐ神の道木道

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御穂神社の入り口

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御穂神社本殿

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日本平ロープウェーに乗ります

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88歳とは思えない先生の健脚

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久能山東照宮の参道

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東照宮の本殿

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徳川家康を祀る霊所 神廟

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清水河岸の市

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東名浜名湖SAから見える湖畔

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本日最後の休憩浜名湖SA

 本日は愛西市の立田文芸クラブ(俳句)のメンバー8人と、静岡県旧清水市の三保の松原と日本平・久能山東照宮に同行しました。

 依頼された三和町安泉寺住職ご夫婦以外は知らない人ばかりと思っていると、文芸クラブの代表者である堀田竹重先生は、私の中学時代の恩師長谷川丈夫先生の仲間で、かつてお会いしたことがあり、私宛に手紙をいただいたことがあったものの、30年近く前の話でどんな状況でお会いしていたのか思い出せません。

 そして、メンバーの坂本先生は、教えていただいたことは無かったものの、私の高校時代の体育教師であられたことが判り、懐かしい恩師たちの昔話にも花が咲くことになりました。

 それにしても、恩師たちの顔は思い出しても名前が出てきません。私自身が還暦を過ぎてから、明らかに物忘れが多くなり、恩師や知人の名前を思い出そうにも出てきません。

 「大鹿さん、平成31年も頼みますよ」の一言は、別れ際に堀田先生が私に言われた言葉で、88歳になられても健脚でメンバーの先頭を歩かれる姿と、来年まで思い描かれている姿に、私の恩師長谷川先生は10年前に他界されていることと、長谷川先生の後継者として我々の書を指導される後藤毅先生も、最近では長い距離を歩けず、旅行にも行けない現実を考えると寂しい現実と同時に、まだまだ頑張れるとの想いにもかられました。


 そして、恩師が亡くなった日も定かではなく、幸いにも過去の一言に葬儀当日の記載が残っており、平成20年3月29日の一言を読み直し、平成9年から務めていた中学校の同窓会長を3年前に辞した頃から、恩師たちとの縁が途絶えていることと、高校時代の恩師たちとも疎遠になっている反省をする一日ともなりました。

 さて、8月のお盆前には、上高地へ10日間テントを張ることを3年前から行っており、今年も公言してきましたが…

 「大鹿さんが被災地交流ツアーに行ってくれたら」の一言は、本日同行された安泉寺住職から発せられた言葉で、8月3日から6日まで仙台の震災被災地へ、地元中学生と訪れる現地のマイクロバスの運転手役を期待されての依頼でした。

 「上高地の予定が入れてあるので」とお断りしましたが、「お金は払えないけど…」の一言によって、この言葉は私にとっては一番弱い言葉で、「お金は払う」と言われれば簡単に断れるものの、「お金が払えない」台所事情を聞くと捨て置けません。

 「愛知県からマイクロバスで行けば、経費をもっと節約できるでしょう」と、お金も貰えないボランティアに、家内と2人で東北まで運転して行く可能性を思い浮かべてしまいました。返事は5月末までにとの話ですが…

           本日の体重 71、9キロ 徒歩数 5580歩 間食あり
                                    5月17日の一言

桂の六地蔵 あま市七宝町

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六地蔵の裏側です

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前方横から見た六地蔵

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横側から見た六地蔵

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立て札

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正面から見た六地蔵

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七宝町安松交差点

 本日は所用で名古屋市中川区の横井庄一記念館を訪れた帰りに、七宝町桂にある「六地蔵」を訪れましたが、駐車場もなく道路も狭いため、車から降りて写真を撮るのが精一杯で、謂れを聞くこともできませんでした。

 この六地蔵は、天正12年(1584年)6月に起こった蟹江城合戦で敗走し,秋竹で切腹した武士の遺骨を引き取った僧が,その冥福を祈って刀剣とともに葬って建立されたという説と,法光寺の開祖が父の死去によって,その墳墓の傍らに六地蔵を安置したという説と2つの説があると伝承されています。

 私自身が蟹江城合戦について詳しくは知りませんが、織田信長が本能寺に倒れた後に豊臣秀吉と徳川家康との間で小牧・長久手の戦い以降に起こっており、蟹江城合戦では秀吉軍と家康・織田信雄(信長の次男)連合軍の闘いです。

 歴史では秀吉が織田信長の後継者のようなイメージがありますが、本能寺の変の後で尾張地方の織田一族は徳川軍と一緒に家康と行動を共にして、蟹江城合戦は織田・徳川連合軍が勝っており、国を統一した秀吉も徳川軍にはてこずっていたことが判ります。

 ちなみに、六地蔵に近い桂城主は当時織田大和守が護っており、我家から千五百メートル離れた宇治町にあった宇治城も、信長の弟である織田源五郎(後の織田有楽斎・茶人)が城主を務めており、今から5百年ほど前には各村々に戦国武将の砦や拠点が点在していたことは興味深いものがあります。

 今から五百年前に、七宝町の秋竹で切腹した武士の遺骨が刀剣とともに葬られ、桂の六地蔵として伝承されてきたと考えると、我々の生活圏で命のやり取りが行われていた臨場感と、戦いの代償に命を差し出す残酷な時代を想像し、景色も白黒のように感ずるとともに、地蔵の頭や身体に被せられた赤い布が鮮血のようにも思えました。

小平奈緒、五輪新で金 スピード500m 日本女子で初

「金メダルは名誉、でも生き方が大事」 小平が会見
小平と李の友情、日韓関係もこうなら…韓国ネット反応
相沢病院の応援団、現地で声援 「奈緒の世話係」感無量
 さて、感動的な発信に、殺伐とした現代社会の中の清涼剤のような小平選手や周りの人々に感謝の一言です。南北朝鮮のきな臭い発信もありましたが、スポーツやオリンピックが平和の祭典であることを小平選手が示してくれました。有難う御座いました。

              本日の体重  徒歩数 2650歩 間食あり
                                      2月19日の一言

美濃市 アート和傘・美濃展へ

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道の駅 美濃にわか茶屋
 
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美濃和紙の里会館
 
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アート和傘・美濃展 展示会場
 
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作家8人の作品が展示されていました
 
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1階で行なわれていた紙すき体験
 
  1ケ月前より開催されていた「アート和傘・美濃展」に、岐阜県美濃市にある美濃和紙の里会館に出かけてきました。

 一年前に「絵付け和傘展」を主宰された梅村茂一さんのご招待ですが、来週月曜日に最終日を迎えるため、仲間を誘って8人のメンバーで訪れましたが、会場が主要道を外れた山の中にあるため、こんな企画展を繰り返さないと入館者は増えないと思われます。
 

 ただし、目的もなく数日間を過すには最適な地域で、定年後に仮の宿を確保して生活するのには最高の環境でした。

 私は、私のこだわりを求めて…

            本日の体重 71、6キロ 徒歩数 3006歩 間食あり
                                      2月25日の一言


四国遍路  3日目最終日

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夕暮れの来島海峡  しまなみ海道

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ほら貝を吹いて歩く僧侶  第51番石手寺

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弘法信仰50年 信念の参拝

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仙遊寺大師堂

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 松山市内の路面電車 

3日間の四国遍路も本日が最終日となりました。

      車イス遍路ですが、第31番竹林寺(高知市)から、
                      第59番国分寺(今治市)まで巡拝できました。

11月4日の一言

小学生の賞状を見せてもらって

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 知人からの朗報です。

 あなたは全国敬老キャンペーン「あいち」において、おじいちゃんおばあちゃんに書かれた手紙は、感謝の気持と命のつながりを大切にするすばらしいものでした。よってここに表彰いたします。
                               平成27年9月21日

 知人の小学生になる息子さんが、小学校で表彰状を受け取って帰宅したとの話に、メールで賞状を送付してもらうとともに、手紙に書いた内容についてもご両親より聞き取りました。

 「僕はおじいちゃんとおばあちゃんがいないので、堀田先生へ手紙を出します。先生は70才近いと聞きました。くれぐれもお体に気をつけてお過ごしください」と言うのが手紙の内容のようですが、宛先とした堀田先生は父親の中学時代の恩師で、親の恩師をおじいさん役とした子供の素朴な気持が評価されたものと思います。

 それよりも、性格のねじ曲がった私なんかは、おじいさんとおばあさんが存在しない子供は教室でどう書き込むのかと思うとともに、来年小学校に入学する孫が、私をおじいさんとして手紙を書いてきたら、涙が出てくるとは思うものの、おじいさんとおばあさんという言葉で書き入れられることと、手紙の内容が他人に評価されることに抵抗があります。

 それでも、子供の考えで、父親の恩師を「おじいさん」として書き込んだ子供の発想に感心するとともに、恩師と教え子の関係が継続し、教え子の子供が親の恩師を知っている生活環境を評価したいですね。

 「それはそうと、モラロジーって知っています?」
 「知っているよ」
 「どんな団体なんですか?」
 「それは、…」

 モラロジーとは、「道徳」を表すモラル(moral)と「学」を表すロジー(logy)からなる学問名で、創立者廣池千九郎(法学博士)博士が大正15年、前半生の学識と体験の集大成として「総合人間学としてのモラロジー」を創建し、昭和10年に「道徳科学専攻塾」を開設して、モラロジーに基づく社会教育と学校教育を共に行う生涯教育をスタートさせ、現在のモラロジー研究所に受け継がれてきました。

公益財団法人モラロジー研究所 http://moralogy.jp/

 私は高校に入学した直後に足の負傷による「右大腿部骨髄炎」で入院し、半年の入院と手術後の退院時には、高校の落第が決まっており、ここから遊び仲間と駅で遊ぶようになり、翌年も病気の再発と非行問題で2回目の落第が決まり、有り余る時間を不良少年として行動するようになりました。

イメージ 2 仲間には暴力団に入っても不思議ではない連中が多く、私もヤクザの先輩にあこがれる不良少年として時間を費やしており、親に心配をかけ続ける生活を見て心配していただいた、近所のモラロジーに熱心な会員さんが存在し、私の「精神修養」のために、モラロジーの2週間の合宿生活による「概要講座」に参加することになりました。

 モラロジー(道徳科学)による行動と結果を学びながら、現実には不良仲間と非行に走る真逆の二重生活が続き、私はこの概要講座を昭和45年12月と、翌年8月にも受講しており、多くの先人たちにご指導を受けながらも、実生活は不良少年から抜け出すことができませんでした。

 ただし、この団体で学んだことにより、真面目にやり直す必要を感じていたことが、後々のチャンスにもつながったと思われ、高校生活をやり直して大学まで進み、自立する職業をつかんで現在に至っており、モラロジーは宗教団体ではありませんが、私が心酔する空海の説いた真言密教や、四国遍路にも通じる団体でもありました。

 偶然にも、本日の電話により、「モラロジー」という懐かしい名前を耳にしましたが、最高道徳(モラロジー)の実行によって品性を向上させることが結果と結びつくという学問は、今にして思うと空海の説く十善戒にも共通することから、当時学んだ本が懐かしく、概要講座の修了証を探し出しました。

       本日の体重 71、6キロ 徒歩数 未測定(携帯をおいたままでした)
                                             10月6日の一言

歩き遍路友の会総会が春日井市で

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 本日は歩き遍路友の会・東海の総会が春日井市のグリーンパレス春日井(旧勤労会館)で開催され、各自の近況報告とお遍路体験に続き、病気療養中の上野会長の後任に、安藤新会長を選出して予定通り午後5時に散会しました。

 歩き遍路体験者の多くは定年退職後に四国を廻った人が多く、平成15年に会が発足してから参加しておられる方々は、80代になっておられる方も多く、本日の総会も60代は3名存在するものの、参加者の最年少が還暦を過ぎた私という現実は若いお遍路の参加がなければ会の存続も危ぶまれ、総会出席者の数も年々減少しています。

 私は四国霊場を歩いて巡拝したいと思っていますが、八十八ヶ所は四国四県にまたがっており、およそ1400キロを歩きとおすのに必要となる40日程度のまとまった時間をつくることは現状では難しく、部分的に歩いているのが現実で、会の先輩たちの体験談を聞けるために入会しており、上野前会長が隣の愛西市に住んでおられることから副会長を引き受け、会員の参加できる遍路企画と、ホームページとして会の公式ブログを管理運営してきました。

歩き遍路友の会・東海 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218_0417

 ただし、私自身は四国を車で廻っているため、私の体験談を書き込みことはできず、ブログの発信も少なくお遍路の魅力も伝えていないのが現状で、今後は会員の遍路体験などを聞き取って紹介していきたいと考えています。

 添付した写真は、総会が終了後に会員の体験談を聞くメンバーですが、過去に13回も歩いて結願されている瀬戸市在住の葛原さん(75才・写真右から2人目)は、来月も高知県から歩かれる予定で、基本的に野宿をするために、リュックサックを背負うだけでなく、テントや寝袋をキャリーで引っ張って歩いておられます。

 四国遍路は、十分な時間が取れることと、歩き遍路の場合には体力と脚力が必要となりますが、何よりも宿泊費は高額となりますから、負担する費用をいかに節約するかも課題となり、最近の葛原さんはテントを張って宿泊費を節約して四国に行く回数を増やそうとしておられます。

 さて。私自身は四国遍路のためではなく、上高地に何度も訪れることと、愛犬も同行させているため、3種類のテントをそろえていますが、家族全員で訪れる場合の荷物が多くなり、荷物を載せるキャリーを用意しているものの、車輪部分がすぐにはがれて破損してしまうため、四国の歩き遍路のキャリーはどうなっているか気になっていました。

 本日の葛原さんのキャリーには、車輪部分にタイヤのチューブを切り取って接着剤を使って巻き付けてあり、テントや寝袋は最低ギリギリの軽量が図られており、歩き遍路にとって装備の軽量化がいかに重要かを実感させられました。

                  本日の体重 70、2キロ 徒歩数 1089歩 
                                     9月27日の一言

三重県いなべ市へ書道展鑑賞に

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 本日は、三重県いなべ市の大安公民館で開催されていた書道展を鑑賞に、相棒リマと共に、家内と一緒に出かけました。

 ただし、相棒は会場に入れないため、車中でストレスを溜めており、気分転換のため施設の隣を流れる清流付近を散策しましたが、我家から1時間程度車を走らせるとこんな自然に恵まれた環境が存在するんですね。

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多度大社の鳥居をくぐります

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 かつての大安町庁舎と思われますが、いなべ市役所大安庁舎の横に会場となる公民館があり、周辺には野球場や体育館などが建ち並び、市民がゆったりと参加できる施設と環境が羨ましく思われました。

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こんな会場が3部屋にわたって展示されていました

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 さて、書道展は三重県東員町の書家「中嶋松翠」さんが代表をされている『清心書道会』が主催する書道展で、24人の書家により65点もの作品が展示されており、それぞれの作家が、指導者の手本もなく書き入れた作品と聞かされると、書道会のレベルの高さに驚かされるとともに、我家の2階で開催されている「神守丈友会」も書道展を予定しているものの、もう1点づつ増やしても足元に及ばないと恐縮して会場を後にしました。

 平成5年の秋に、「せめて、自分の名前くらいは毛筆で書けるようになりたい」と、中学時代の恩師「長谷川丈夫」先生にお願いし、「びた一文もらわないぞ」と言う恩師との条件で、恩師による無料の書道会がスタートしました。神守中学校の「神守」と、丈夫(たけお)先生の「丈」をとって「神守丈友会」と命名しました。

 指導者は長谷川先生から、同じく中学時代の恩師「後藤毅」先生に代わったものの、依頼毎週火曜日の夜に書道会を続け、今年は春には作品も書き終えて、私の事務所の掃除を待って作品展を開催する予定としていますが、掃除と片付けが先決となりますが、作品を増やさないと子供の作品展と言われかねません。

 また、「せめて、自分の名前くらいは毛筆で書けるようになりたい」と指導をお願いに行ったものの、本日の受付で書き入れた記名を見て、初心からやり直さないと書を習っているとも言えない現状に、改めて我が身が恥ずかしく思われる一日ともなりました。

 今晩は同級生の父親の通夜が行われましたが、明日の葬儀は春日井市で歩き遍路友の会東海の総会があるため参列できず、家内の代理参列となるため、喪主と2人で話しこんでいると、時計は深夜12時近くになっており、落ち着いたら我家の2階の冷蔵庫に眠っている大吟醸で酒を酌み交わす約束をして、慌てて帰宅することとなりました。

                  本日の体重 70、8キロ 徒歩数 3015歩
                                     9月26日の一言

本日は愛西市「まんまる工房」へ

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 津島市の西愛宕交差点を100メートル南に位置する愛西市日置町にある「まんまる工房」です。(天然温泉湯楽の南方向)
                   496-0906 愛知県愛西市日置町山の池220
                       葉手那窯 まんまる工房 TEL 0567-22-4330
 
 ここでは陶器の電気窯とガス窯があり、グループで参加できるロクロが置いてある陶芸教室になっており、自らの茶碗づくりや絵付けもできる貴重なスペースになっています。
 
 本日は、今週12日(金)から14日(日)まで、津島市の児童科学館で開催される「茜合同展」の作品を11日の搬入日に議会中で持ち込めないため、合同展を主催する名物マスターの居られる「まんまる工房」まで届けました。
 
名物マスターの画廊喫茶が閉店し… 2013/2/28
 
 茜合同展は、かつて津島市西愛宕町にあった画廊喫茶「茜屋」に出展されていた芸術家が出展する展覧会で、絵画から書、陶芸など幅広い作品が展示されていましたが、地主さんから建物の解体が決まり、2年前にお店は廃業されてしまったものの、参加されていた人々の熱意は衰えず、今年も開催することになりました。
 
茜合同展 27  
        平成27年6月12日(金)~14日(日) 9:00~17:00 (14日は15:00jまで)
        津島市児童科学館・2階ホール 津島東公園内のプラネタリウム併設館
                津島市南新開町2-74  0567-24-8743 (駐車場完備)
 
 私が出展したのは「般若心経」を記した書で、過去に出展した作品より劣る下手な作品ですが、元々が下手を承知でマスターより誘われて出展しており、書の上手下手よりも「般若心経の人」であれば良いと言われての参加となります。

 さて、一週間前の一言に、徳島県の浄土真宗の僧侶が殺人で逮捕された事件を取り上げて書き込みましたが、本日は一年前の「僧侶がテレビで不倫も許されると発言し」へのコメント欄に「内緒」ではありますが意見が記されてきました。
 
僧侶がテレビで不倫も許されると発言し 2014/7/1
 
 その十善戒の中に、不邪淫として「不倫をしない」ことが記されており、真言宗だけでなく曹洞宗の僧侶も「不邪淫戒」として戒めた発言をしていることから、条件つきとは言え、不倫を認める浄土宗僧侶の発言や、「多少は良い」と発言した浄土真宗尼僧の発言の真意が判りません。
 
 「お寺は生きている時に行く所で、死んでから行くのはお墓」との一言について、過去に名言として感心した記憶があるものの、不倫を認めるような僧侶のもとを訪れて相談する気にもなりませんが、他力本願で葬式仏教と言われる浄土宗の限界をみせられたように思います。

 テレビ番組とはいえ、浄土宗と浄土真宗の僧侶が、一年前に「不倫」を良しと認める発言をしており、今回は殺人事件として驚きの結末になったものの、浄土宗や浄土真宗の僧侶は一般の我々と同じ俗人でしかないことが判ります。

 改めて一年前の自分の一言を読み直し、「お寺は生きている時に行く所で、死んでから行くのはお墓」の名言とともに、我ながら見事と自画自賛したい内容が記されていたことから、下記に再掲して残すとともに、自身の戒めにもしたいと思います。

 真言宗では、即身成仏が教義の中心となり、生きている人間がそのままで究極の悟りを開き、仏様になることを目標に、仏と自分とが一体になった状態こそが即身成仏で、そのためには真言行者は身と口と心の修行である三密行(さんみつぎょう)を実践し、日常的には十善戒(じゅうぜんかい)という正しい生活の基本を実践することが求められます。
 
 明日から2日間は津島市議会で一般質問が開催されますが、私が不在時でもボランティアは活動を続けており、週末は茜合同展が行われ、町内の親睦会の役員会など議会中と議会だけに専念できない日程が続きます。

 本日訪れた「まんまる工房」へは、茜屋のマスターを訪ねて訪れたわけですが、偶然に寄られた瀬戸の陶芸家が日展に入選されていることを聞き、上高地で油絵を描いている盟友「ホームレス画伯」と、日展画家の吉田さんを思い出し、上高地にも疎遠になっていることと、四国へも想いをはせる一日ともなりました。

上高地の仙人 ホームレス画伯と小梨平
上高地 ホームレス画伯

              本日の体重 69、9キロ 徒歩数 8033歩
                                    6月10日の一言

本日の新聞記事から心がバラバラになり

 モンゴル帝国のチンギス・ハーン(1162?~1227)中央アジア方面遠征の拠点とした「チンカイ城」跡を、日本とモンゴルの合同調査隊がモンゴル南西部で確認したとの新聞記事から、これまで確認されていなかったことにモンゴル帝国の大きさを実感させられます。800年もさかのぼるロマンに、日本の大学や関係者が関わっていることをうれしく思いました。

チンギス・ハーンの軍事拠点跡を確認 合同調査隊

 その一方で、愛知県豊川市(旧音羽町)で360年以上の歴史を持つ旅館「大橋屋」が3月15日に閉館するとの報に、第三者の私は無責任に継続できないかと思いますが、利用者減少との生活の糧とならない仕事の継続の難しさを実感させられます。
 経営者の体力の限界との理由にもいかんともしがたい現実があります。

芭蕉も広重も泊まった旅籠、360年の歴史に幕 愛知
記事の続き…
 土地約700平方メートルは市が購入。建物は青木さんが市へ寄付する。市は建物を一般公開するための保存整備事業費として約4600万円を新年度予算案に盛り込んだ。公開は来年以降になるとみられている。
 青木さんは「たくさんの人たちに支えられてここまでやってこられた。寂しいがやむを得ない。市が建物を残してくれるのはありがたい」と話している。
 大橋屋の閉館を惜しむ常連客などから宿泊の予約が相次ぎ、来月14日まではほぼいっぱいだという。

 四国遍路の第四十番札所観自在寺の門前にある「山代屋」さんは、愛媛県「愛南町(あいなんちょう)」にあり、大正元年に創業したお遍路の老舗旅館で、夜の夕食に出される「鯛そうめん」や、雰囲気から私の大好きな旅館のひとつですが、同行するメンバーから水洗便所でないため嫌がられ、後継者がないため改修されず、ここでもご主人の体力の続くまでとの話を聞いたことがありました。


「イスラム国」、石像破壊の動画公開 イラクの博物館か

 本日の新聞には、無法ぶりが世界中に発信されてくるイスラム国が、歴史的遺産となる建造物を次々に破壊している様子も報道されており、密売できる美術品は売って資金にしているとの報に、人の命とともに歴史や文明も破壊する横暴に世界中から釘を刺す必要に迫られます。原油の密売も阻止して資金を枯渇させる必要がありそうです。

 こういう破壊行為に、「イスラム教に理解を」と国内のイスラム教関係者が発信していますが、日本においては宗教の押し売りや布教は余計なお世話で、普及するための宣伝や勧誘する宗教は信用しないことで、わざわざイスラム教を理解する気持ちにはなれません。

産廃処理施設で100万円分の1万円札発見 三重・鈴鹿

 さて、最後に添付した記事は、時々報道されるゴミの中から札束が発見された記事ですが、世代交代によって誤って廃棄される「へそくり」は他人事ではなく、我家でも私が家族に内緒で隠している現金と通帳が存在し、このことは死ぬ前に記しておかないと隠してある品物と一緒に破棄されてしまう可能性があります。

 私の父親が死んだ時に、結局は最後に税務署に申告したものの、父親の残した手付かずの退職金を現金で隠しており、その隠し場所は家族も知りませんでしたから、私が死んだら行方不明になった可能性もありました。何故隠すのかと言うと、家内に漏らすと生活資金として使ってしまうことと、一度税金を納めた貯金でも、通帳に残すと相続や再度課税の対象となるためで、こんな気持ちで隠される人も多いと思います。持ち主が現れるか興味津々の記事です。

            本日の体重 70、9キロ 徒歩数 5245歩
                                   2月27日の一言

大平正芳記念館の閉館に、横井庄一記念館を重ねあわせて

 香川県観音寺市出身の大平正芳元首相(1910~80)に関する資料や遺品を所蔵・展示する大平正芳記念館が3月末に閉館すると報道されています。
 私の住む愛知県にも首相経験者は存在しますが、記念館は存在しておらず、先人を尊ぶ四国人の魅力としてお遍路に訪れる際に語っていましたが…

大平正芳元首相の記念館、老朽化で3月末閉館へ
記事の続き…
イメージ 1 国政などに関する重要文書は国立国会図書館への移管を済ませ、蔵書約8千冊は県立図書館、遺品は市などへ寄贈する方向で協議が進んでいる。大平氏の次男で財団理事長の裕氏は「遺品などの展示は継続するよう前向きに対応したい」と話す。

 所蔵品は県立図書館などに寄贈し、建物や土地は当分はそのままにして残されるとの話ですが、寄付を申し出ていた観音寺市に対して、財団は土地・建物・所蔵品について、「永続的な保全と有効活用」を条件にしていたようだが、市は「無条件の寄贈」を前提にして留保したため閉館に至ったようです。

 寄贈を留保した観音寺市の、「無条件を前提に受け入れる」との新聞報道では判りにくいものの、現実には寄贈を受けた記念館の「永続的な保全」が約束されず、将来的には閉鎖はもちろんですが、場合によっては売却の可能性があったのかもしれません。
  日中関係については田中角栄元首相が有名ですが、現実には大平正芳元首相の果たした功績は大きく、歴史に残る政局の中で活躍された歴史を残す記念館が閉鎖されてしまうことに寂しさを隠せません。

 さて、同じようなことが横井庄一記念館にも存在し、平成9年に死去した横井さんの建物と土地を記念館として残すため、京都府出身で当時自民党の幹事長を務められていた野中広務さんを介して、名古屋市長との間で名古屋市に土地と建物の寄贈することが決まっていました。

 しかし、野中さんが政界を引退した直後に、名古屋市から永久的に記念館として保存できないとの話があり、「10年後には更地にして売却もありうる」との厳しい現実が告げられました。「せめて、そうなっても記念碑くらいは残して欲しい」との夫人の希望も約束されず、記念館としての寄贈は白紙に戻りました。

 ただし、記念館として寄贈する前提で、横井さんのグアム島で使用していた道具や、帰国後に残された遺品や自作の陶器等は名古屋市に寄贈してあり、夫人の自力運営で記念館が開館されているものの、横井さんの遺品は名古屋市や博物館に所蔵されたままになりました。

 国の中枢で活躍されていた野中さんが引退されたとたんに約束を反故にした名古屋市と、当時の市長に対して政治の汚さを実感させられましたが、総理大臣まで務められた大平正芳元首相の記念館でさえ閉鎖される現実に、夫人が存在しなくなった横井記念館の存続の厳しさを実感させられずにはおれません。

 本日も事務所の2階に眠る父親の残した絵画や書物を整理しましたが、この中には昭和初期に開催されていた「帝展」関係の書物と一緒に、帝展作家の浅見香城先生の絵画や、日展作家の色紙も多数含まれており、整理とは言え移動させるだけで汚れていく現実と、横井庄一さんの遺品の陶器も大量にあり、これらも売りたいとは思いませんが、いずれは子孫にゴミとして廃棄される可能性も否めません。
 私に残された人生も、そう永くはない現実も寂しいの一言です。

            本日の体重 71、3キロ  徒歩数 9719歩
                                     
                                   2月3日の一言

書道会の忘年会の前にお寺へ

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 名古屋市にある八事山興正寺の「平成大仏」と五重塔です。この五重塔は文化5年(1808年)に建立され、東海三県唯一の木造の五重塔で、高さは30メートルあり、国の重要文化財に指定されています。
 
真言宗 八事山興正寺 http://www.koushoji.or.jp/
 
 本日は書道会「神守丈友会」の忘年会を開く前に、名古屋市昭和区にある興正寺を訪れ、ボランティアのご婦人に奥の院へ案内していただく予定でしたが、不在だったことから私の町内の弘盛寺の副住職に案内をお願いしました。
 
 本堂から虚空蔵菩薩(秘仏)を本尊とする能満堂、大日如来像がご本尊として安置されている大日堂、開山堂(かいざんどう)とも呼ばれ、弘法大師をお祀りする弘法堂、不動明王をお祀りする不動護摩堂まで真言を唱え、奥の院となる阿弥陀如来を本尊とする東山本堂では般若心経を副住職の先導で読み上げました。
 
 副住職には添付した五重塔の前まで案内していただき、我々メンバー8人は喫茶室のある光明殿に入って休憩し、光明殿に立派な書を残された桑山清一さんが設立された桑山美術館に向かいました。
 
 しかし、残念ながら美術館は作品入れ替えで休館となっており、お寺しか眼中にない私は、本日仕事で勤務しているメンバーと待ち合わせる栄に近い、東区の建中寺を訪れることにしました。
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 先に訪れた興正寺は尾張徳川家の祈願所になっていましたが、建中寺は尾張徳川家の菩提寺にあたり、東海地区の浄土宗の中心となっているお寺で、寺の紋は徳川家の三つ葉葵となっています。

徳興山建中寺 http://www.kenchuji.com/
 
 残念なことは、これだけ大きなお寺でありながら、庶民が日常的に参拝するお寺ではなく、本堂の扉こそ開いていたものの、参拝する信者どころか僧侶や関係者の姿は不在で、葬式仏教と化している浄土宗と、庶民に親しまれて信者が集う真言宗との大きな違いを実感させられました。
 
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太閤天然温泉 湯吉郎 http://www.toukichirou.com/index.html
 
 本日の忘年会は、庄内川と新川の間にある清須市の天然温泉を予約してあり、名古屋市の中心栄で仲間を乗せ、太閤天然温泉「湯吉郎」に入りました。温泉と豪華料理を堪能して帰宅となりました。
 
            本日の体重 72、7キロ 徒歩数 1万2325歩
                                   12月23日の一言

書道の腕が下手になったことを自覚する一日に

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添付した掛け軸は、20年と23年に記した般若心経です
 
 我家の2階では毎週火曜日の夜に書道会『神守丈友会』が開かれていますが、この書道会は平成6年秋に私の中学時代の恩師「長谷川丈夫」先生に指導をお願いし、「びた一文もらわんぞ」と無償の指導との条件で始まりました。
 
 数年後から現在の恩師「後藤毅」先生に指導が代わり、市内各地で書道展を開くとともに、バスを使った団体旅行を企画したり、新聞にも紹介された時期もありましたが、長谷川先生は亡くなり、メンバーも減り、昨年には書道展の会場にしていた画廊喫茶が閉店となるなど寂しい話題ばかりです。
 
 しかし、今年で20年が経過しており、来春には書道展を開催するため現在作品を書き込んでいる最中ですが、過去に記した『般若心経』と最近の作品を見比べると、最近記した書のあまりにも落ち着きのない下手な文字にびっくりとさせられます。
 
 元々上手ではありませんが、私の『般若心経』を欲しいという人もあり、娘の家の玄関にも私の書が掲げてあるものの、最近の書には落ち着きがなく、メンバーが一見するだけで違いが判る代物しか書けず、何とか年内に仕上げたいと思っていますが…
 
 さて、写経用紙の表紙裏に、写経の作法が記されており、「写経は書道ではないため、上手下手は関係ない」ことや、難しいルールは無いものの、空腹時に行うことと、「腹式呼吸(臍下丹田)」で行うことが記されています。
 
 ただし、書き写す気持ちにおいて、「御仏の教えを書き写す」という意識が希薄になっており、右から書き出すと記した墨が手でにじむため、般若心経の終わりの左の行から書いていることなど、美しく書き残すことを意識して、写経の目的が忘れられていたことも反省が必要となります。
 そもそも、写経を作品と記していること事体が間違っており、過去の般若心経が掛け軸にして残してあったことから、腕前が低下している現実も判りました。
 
                  本日の体重 72、4キロ 徒歩数 2191歩
                                    12月16日の一言

ライブ会場での演劇を鑑賞に訪れて

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こんな雰囲気の演劇鑑賞会でした
 
 本日の夜は、名古屋市の鶴舞駅の高架下にあるライブハウス「KDハポン」で開催された、「ムーンライトティチャー」番外公演のコント三本立を、娘と孫の3人で鑑賞してきました。
 
 この公演に出演する同級生に誘われ、予定では家内と2人で鑑賞する予定でしたが、土曜日は孫が母親と家に帰ってくることになっていたため、家族や孫を残して2人で出かけると夕食もとれないため、孫と3人で出かけ、夜7時から始まる演劇を鑑賞してから夕食をとって帰ることとしました。
 
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 出演は裏表なし無精隊、OBK3、安藤鮎子、ムーンライトティチャーの4組で、休憩中に次の演者が次の設定の準備をする(左の写真)ありのままの演劇です。会場は狭いながらも2階席まで満席で、ドリンク付きのため会場は熱気満々です。
 
 ちなみに、同級生たちは昭和初期の居酒屋を再現し、酔っ払いが店で給仕する小僧をからかう寸劇となっており、時間と正確さが求められる現代のファーストフード店と違い、ふざけた酔客ともまともに相手するかつての飲み屋が再現されていました。
 
 鑑賞にあたって心配したことは、5歳になったばかりの孫が2時間以上となる演劇鑑賞に耐えられるか心配したものの、短編コントの繰り返しであったことと、子どもでも単純に笑える内容だったことから最後まで安心して鑑賞できました。
 
 演劇が終わったのは午後9時になっており、会場の外は大雨となっていましたが、途中で家内と三男と待ち合わせて久しぶりの外食となり、私自身は節制して注文していたものの、次々とビールを注文する三男に影響され、10月まで飲まないはずのビールを注文し、減量の大敵となる食材を口にしていました。
 
 「乗せて行ってあげる」の娘の好意が、毎日の節制を台無しにするビール摂取となり、アルコールの強さがあだとなりました。
 
広島の被災地、空き巣相次ぐ 7件で130万円被害
広島土砂災害、被災者宅に空き巣 警察かたる電話も
記事の続き…
 一方、安佐南署によると、安佐南区八木地区の民家に21日、警察官を名乗る男女から「避難勧告が出たので避難してください」という電話や訪問があった。窃盗目的で住民をおびき出す手口の可能性もあるとみて注意を呼びかけている。
 
 災害があるとボランティアが駆けつけるのが当たり前の世の中となりましたが、善意で駆けつける人々にまぎれて、被災地には空き巣や泥棒も出没し、ボランティアと言えども素性の判らぬ人々の受け入れに不安の声をもらす被災者も存在します。
 
 私の住む地域では、昭和51年に目比川が決壊し、津島市や佐織町一帯が水没したことがあり、避難所に避難していた叔父から「留守番をしてくれ」と言われ、電気もない真っ暗で無人となった地域の2階で留守番をしたことがありました。
 
 電気もなく真っ暗の被災地は無音状態で、テレビもなく静寂な夜になり、留守番役を引き受けたことを後悔していると、「コン、コン」と窓を叩く音が響き、びっくりして音のする方向の窓から下を見ると、和舟に乗った二人連れの男が「居るぞ、居るぞ」と言って家から離れていきました。
 
 その時は、警察か関係者の確認程度に思っていましたが、翌日になってそれは水没した家々を廻って家財道具を盗んでいた空き巣と判り、学生の私だけでは危険なため、翌日には叔父も避難所から戻って留守番をするようになりました。
 
 昔から火事場泥棒や災害時の空き巣が必ず存在し、厳しい災害にあった被災者が不在の家々をターゲットにしており、被災地に全国からボランティアが駆けつけるようになり、見知らぬ人が存在しても不思議に思われない環境は、空き巣にはこのうえない環境ともなりました。
 
 善意のボランティアを選別はできませんが、これからはボランティアの身元確認か、公的証明書を持参しないと被災者の疑心暗鬼は払拭されず、被災地の空き巣や泥棒を阻止するためのボランティアも必要になりそうですね。
 
                          本日の体重 77、7キロ 
                                   9月6日の一言

放送法に反するNHK新会長の発言に

 NHK新会長の籾井(もみい)勝人氏が、従軍慰安婦について「戦争をしているどこの国にもあった」と述べた上で、日本に補償を求める韓国を疑問視した。
 
 韓国についても「日本だけが強制連行したみたいなことを言っているから話がややこしい。お金をよこせ、補償しろと言っている。しかしすべて日韓条約で解決している。なぜ蒸し返されるんですか。おかしいでしょう」と発言しており、尖閣諸島・竹島など領土問題については、国際放送で「明確に日本の立場を主張するのは当然。政府が右ということを左というわけにはいかない」と話したとあるが、個人的意見は自由だが、「政府が右ということを左というわけにはいかない」との発言は、公共放送であるNHKの会長として、不偏不党の立場とは思えぬ政権与党の犬と化したような発言だけに問題である。
 
NHK籾井新会長「従軍慰安婦、どこの国にもあった」
 
NHK会長の慰安婦発言「まさに正論」 橋下氏が評価
 
 この発言に対して、大阪橋下市長が自分の発言と同じで正論と評し、「似たり寄ったりのことは世界どの国もやっていた。戦争と性の問題はどの国も抱えてきた不幸な歴史だ」と持論を展開。「NHK会長でそれなりの経歴のある人が言われた。日本国民はしっかり考えないといけない」と語ったとある。
 
 私が問題と思うのは、国で定めている放送法の第1条の目的の中に、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること」とあり、第4条の放送事業者は、国内放送及び内外放送の放送番組の編集に当たっては、政治的に公平であることと、意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすることと定められていることから、国民から強制的に受信料を徴収するNHKの会長として相応しい発言とは思えません。
 
第1条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
1.放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
2.放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
3.放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。
第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
1.公安及び善良な風俗を害しないこと。
2.政治的に公平であること。
3.報道は事実をまげないですること。
4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
 
 私は大学時代に朝日新聞の販売店を経営することになりましたが、新聞社に初めて訪れた際に、販売部のデスクより朝日新聞の歴史を勉強するための資料が手渡され、朝日新聞綱領について頭に叩き込むよう求められました。
 
朝日新聞綱領
一、不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す。
一、正義人道に基いて国民の幸福に献身し、一切の不法と暴力を排して腐敗と闘う。
一、真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す。
一、常に寛容の心を忘れず、品位と責任を重んじ、清新にして重厚の風をたっとぶ。
 
 平成11年から津島市議会議員となりましたが、それまで23年間続けた販売店を廃業した理由も、販売店と言えども政治との関わりは許されないため(当時は)で、配達するだけの仕事でも「不偏不党」の立場を求められました。
 
 朝日新聞の報道についても、ネット上で賛否両論の議論があり、新聞関係者の不祥事も存在しますが、少なくとも責任ある立場にある者が、特定の政党や偏った発言を続けることは許されません。
 
 橋下市長の発言についても、世界中から批判されるばかりではなく、それまで高い支持率を続けていた政党維新の人気も急激に低下したことを考えると、こんなバカで性格に問題がありそうなNHKトップに便乗することは、政党トップとしての反省が足りないとしか思えません。そして、安倍首相になってから、右傾化した発言が際立っており、国際協調が図れません。
 
 本日の一言は、昨日の一言に鶴田浩二さんの記載をしたところ、鶴田さんに関するコメントが入っており、鶴田さんと「シャツの店」で共演した、愛知県岡崎市出身の杉浦直樹さんについて書き込もうとおもっていましたが、怒り心頭でこんな一言になってしまいました。
 
この一言の満10年までのカウントダウン、あと16日
                                   1月27日の一言 

千葉県から写真展の案内が届いて

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           石原和子写真展 北アルプス 立山・天空の散歩道
 
開催会場 成田エクセルホテル東急  1F・ロビーギャラリー
          千葉県成田市大山31 Tel 0476-33-0109
開催日時 2013年12月12日~2014年2月初旬予定 
             第1部 立山の秋冬  第2部 立山の春夏 開催中に展示入替
 
 昨年に引き続き千葉県成田市のエクセルホテル東急で、石原さんの写真展が開かれるとの案内が届き、この案内によって今年も元気に山の写真を撮り続けておられたことが判り、師走の忙しさと寒さに凍えていた私の心身が温かく感ずる一日となりました。
 
 「今回も昨年同様、北アルプスの山と自然・命の営みのあるものを表現させていただきました。また、ここ数年来、その地に通い、体感することのできました光や風・動植物達とのふれあいを、ありのままに表現したいと心がけました」と案内にあり、「一枚の写真から、一人でも多くの方々に、そこにある自然や、命の尊さや、少し傷付けられても、二度と元に戻すことのできない、数少ない自然や、命の宝について、再び考えていただくきっかけになったならと願い作品に仕上げました」と記されています。
 
 私は2年前に上高地の小梨平で、ご主人とともに車椅子で写真を撮影する石原さんと出会い、写真経験は短いものの、繊細で優しい写真を撮られていたことから連絡先を交換しておりましたが、本年1月の写真展への案内があり、偶然にも私の友人(大先輩ですが)となった上高地のホームレス画伯も千葉県旭市で本年1月に上高地の絵画展を主催されたため、画伯とともに我が家の家族と石原さんの写真展にも押しかけました。
 
千葉では相棒も出会いの旅に 本年1月の一言です
 
 今年は上高地では天候には恵まれず、四月の開山式は猛吹雪に襲われ、夏も秋も雨や台風に遭遇する日々が続き、上高地で石原さんと再会することはできず、毎年訪れる閉山式には市役所の仕事のため行けませんでした。
 
 さて、本日は私が所属する文教建設委員会が開催され、次は木曜日に総務協働委員会、金曜日に監査委員会が開催されますが、明日と明後日は公的日程ではなく山積した仕事だけと思っていると、自分自身の運転免許証の更新に行く必要に迫られていることを忘れていました。
 
 「明日は免許更新に行かなければ…」
 「すぐに済むでしょう」
 「平針(名古屋市天白区)まで行かないと…」
 「津島警察署でも良いんでしょう」
 
 確かに津島警察署でも免許証の更新はできますが、大型免許や二種免許の免許証の更新には、普通の視力検査だけでなく「深視力」検査をクリアする必要があり、警察署の小さなボックスの検査では高齢者にはピントが合わず、平針の運転免許試験場の正式の検査器でないとクリアできないための平針行きでもあります。
 
 「深視力」検査については、視力とは言っても遠近感の検査であり、高齢者の老眼では警察署の小さな検査器の中ではピントが合わないと思われ、運転免許試験場や、国の関係となる独立行政法人「自動車事故対策機構」の大きな検査器では楽々クリアすることから、抜本的な検証が必要かもしれません。
 
                                 12月9日の一言

演劇鑑賞から名古屋城見物へ

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 本日は名古屋市にある愛知県芸術劇場小ホールで開催された、「アニーとヘレン」を鑑賞してきました。
 ヘレン・ケラーという名前は聞いたことがありましたが、この演劇を通じて、視覚と聴覚も失ったヘレンが、アニ―・サリバンという教育係を得て、言葉を理解するまでの生活が演じられ、最後は涙を堪える人でいっぱいとなりました。
 
 同級生が出演しているのが縁で、毎年鑑賞に訪れていますが、主催する遠山事務所が来年で二十周年を迎えると聞き、パンフレットに添付された過去の演目と写真を見て、懐かしさと後戻りのできない年月の経過も実感させられました。
 
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 左の写真は、終演後にヘレンの教育係の役を演じた小嶋さんとアナグノス役の丹羽さんを囲んだ「神守丈友会」のメンバーで、撮影はしたものの、まさかここに添付されるとは思っていないでしょうから、判ったらびっくりでしょうね。
 
 実は丹羽さんが私の同級生で、神守丈友会のメンバーでもあることから、メンバーで揃って鑑賞に訪れているわけで、劇団の二十周年との記載を見て、来年は我々神守丈友会も二十周年になることを知りました。
 
 「せめて大人として、恥ずかしくない署名ができるように」と、私の中学時代の恩師「長谷川丈夫」先生に指導をお願いし、母校の神守と恩師の丈をとって「神守丈友会」と命名し、平成6年より毎週火曜日に我家の2階で開催してきました。長谷川先生は亡くなり、指導は同じく中学時代の恩師となる後藤毅先生に変わっているものの、来年は二十年を迎えます。
 
 昨年まで毎年書道展を開催しておりましたが、今年から会場としていた画廊喫茶が閉店したことから、今年の書道展は開催できませんでしたが、来年が20年と判ったことから、新たな会場探しとともに、過去とは違うレベルでの作品展を考えていきたいと思います。
 
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 右の写真は名古屋城です。金のシャチホコでテレビにも登場しますが、このブログを愛知県から発信しているものの、私自身は小学校の遠足以来、名古屋城に行ったことがないばかりか、近くを通りながら見たこともないため、本日は演劇終了後に訪れました。
 
 紅葉も見事で多くの観光客が訪れていましたが、我々はお掘をはさんで北側にある「ノル・シャトー」という喫茶店からの鑑賞です。
 
 名古屋城のお堀沿いにあり、100台収容の駐車場を看板としており、世が世であれば大変な場所にコーヒー一杯で休憩できることに感謝の一日となりました。
 
                                 11月23日の一言

慰安旅行が目的の書道会かも…

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白山スーパー林道で愛車とともに
 
 本日は宿にしていたシーサイド松任を午前9時に出発し、JR松任駅前にある松任中川一政記念美術館で開催されていた「中川一政芸術の黎明」に出展された作品を鑑賞しました。
 
イメージ 2 美術館というと高額な観覧料が当たり前になっていますが、この記念館は300円で入場でき、隣接する「千代女の俳句館」と、「白山市立博物館」も共通券として拝観できるとともに、俳句館のとなりの「ふるさと館」には美術館の別館とともに、品の良い珈琲コーナーがあり、その奥には右に添付した見事な日本庭園が存在していました。
 
 書道会の指導をする恩師は、高齢と言うだけでなく、数年前に胃の全摘手術を受けており、長距離の旅行は苦痛を伴い、駐車場から美術館、ふるさと館と歩いて移動することも不機嫌となりますが、元々が美術教師だったことに加え、珈琲コーナーと庭園の存在が「中川一政は良かったな」との一言をもたらしました。
 
 さて、ここからは私の大好きな最後の野球選手となった「松井秀喜ベースボールミュージアム」に走りました。
 
松井秀喜ベースボールミュージアム http://www.hideki.co.jp
 
 長嶋監督が選手として引退した年に生まれ、長嶋監督の手によって巨人軍に1位指名され、長嶋監督の指導によって日本を代表する4番バッターに成長し、大リーグヤンキ―スで活躍する姿が映像で紹介されました。
 この映像は感動もので、緩んだ涙腺から熱いものが流れてきます。
 
イメージ 3 私にとっては2度目となる記念館ですが、中日ファンの恩師も映像に釘付けになり、書道会メンバーも松井選手には違和感が無かったようで、「ついでに、実家の前を通って欲しい」と依頼され、近所を巡回してから帰りました。
 
 甲子園の全打席敬遠策にも一度として怒りを表さず、真剣にバッターボックスに立った姿は、小学校の頃に出場した相撲や柔道においても同じで、ヤンキ―ス時代に手首を骨折した際にも同じようにベンチに戻ってきました。
 
 私の子供たちとあまり年齢も違わないのに見事としか言いようがなく、国民栄誉賞を受賞したことに恥じぬこれまでの野球人生を、指導者として開花して欲しいと思いながらミュージアムを後にしました。
 
イメージ 4 今回は、美濃白鳥から越前へ入り、福井県から石川県まで足を延ばし、白山スーパー林道から帰ることにしたのは、自家用車等を利用して、加賀温泉郷(あわづ、片山津、山代、山中)、辰口温泉、白山温泉郷、金沢温泉郷の協賛宿泊施設に宿泊すると3150円必要となる片道通行料が無料になるキャンペーン中だったからです。
 
 
 我々が宿泊したシーサイド松任もその対象となっており、11月10日までに石川県の温泉宿に宿泊すれば、宿泊前に通過した人は宿でキャッシュバックされ、宿泊後に通行する場合は片道分の利用券が宿でもらえます。
 
イメージ 5 目的地から早く帰りたい人にはお薦めできませんが、途中には落差86メートルのふくべの大滝があり、白山は勿論のこと、北アルプスの山並みまで展望できることから、これから迎える紅葉の時期には国内最高級の景観が鑑賞できそうです。
 
 神守丈友会は、平成6年より毎週火曜日の夜に書道会を開催しており、来年の秋には20年を迎えることから、書道そのもののレベルアップを図るとともに、恩師が健康で来年も遠くまで旅に出たいと思っています。
 
                                       9月22日の一言

贅沢な出会いが続いた一日に

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東海地区都市監査委員会総会 春日井市
 
 本日は春日井市のホテルプラザ勝川で開催された東海地区都市監査委員会総会に、津島市の代表監査委員と市役所の監査事務局長とともに参加してきました。
 
 総会は午後1時半から始まり、平成24年度決算や、25年度予算案について審議後の午後3時より、研修会としてテレビで科学者として熱弁を振るわれている、中部大学の武田邦彦教授による講演が行なわれました。
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 講演のテーマは、「物事の本質とは何か 環境資源からの考察」として、外国と比較した日本人の意識の相違と、石油や資源に対する誤った流言や、学者としての発言と個人の意見の違いなど、我々をうならせる熱弁が続きました。発言が世間を騒がせた時期もありますが、科学者として裏付けられた発言に揺るぎはありません。
 
 さて、津島市の代表監査委員はかつては愛知県の幹部職員として活躍されており、会場にかつての同僚や知り合いが多く、会場となった春日井市の監査委員や、豊田市、岐阜県羽島市の監査委員にも我々を紹介され、氏の人脈と社交力には驚かされます。
 
 圧巻だったのは、武田教授の講演が終わり、拍手に送られて会場を退出される際に、我が津島市の代表監査委員は武田教授の後をついて退出し、初対面でありながら我々との面談を約束して戻ってこられた事でした。
 
 「急いで5階の控え室へ」
 「えっ、会ってもらえるのですか」
 「そうそう、約束してもらったから」
 
イメージ 3 こんな展開で、東海地区から300人以上の監査委員や議員、行政職員が参加しておりながら、我々津島市の3人だけが控え室へ入り、一緒に写真に収まりました。
 
 「ブログに添付しても構いませんか」
 「はい、どうぞ、どうぞ」
 「監査委員もですよ」
 「構いませんよ」
 
 こんなやりとりがあって、本当は4人の写真をここに掲載する予定でしたが、さすがに市役所職員には「勘弁して下さい」と言われて3人の写真となっているものの、「今後とも何かあったらよろしくお願いいたします」と、初対面でありながら3人とも名刺を交換してきました。
 
 津島市やその周辺でも武田教授のお話が聞ける事に期待してしまう出会いでしたが、代表監査委員の行動力に感服するとともに、議員として他力本願になってしまっている反省も感じます。
 
 帰宅は午後6時を廻ってしまいましたが、数日前に連絡のあった津島市内の寺に慌てて走ると、待ち人は連絡先を残して帰られた後で、初対面でしたがご住職の奥様や、先代ご住職と高野山や遍路に花を咲かせていると電話です。
 
 「大鹿さん、明日の予定は?」
 「それより、何ですか?」
 「オバマまで行って欲しいの」
 「オバマって、福井県の小浜ですか」
 
 突然の電話にびっくりですが、帰宅後にお寺ですれ違いとなった人とは連絡がつき、来月に高野山へ1泊で同行する話がまとまり、高額な料金提示には「そんなには貰えません」と固辞し、先輩先達さんに同行させてもらう話となりました。
 
 宿と食事もつき、タクシー料金までもらって、私の大好きな遍路や高野山行きができるのですから、こんな贅沢な話はなく、本日訪れたお寺の先代住職は善通寺に勤めておられた時期があり、つい最近に善通寺の樫原管長が立ち寄られていた話や、私の知人も複数立ち寄られていることから、再度の訪問を約束してきました。
 
 人と人との出会いにびっくりし、感動する一日になりました。
                                    5月31日の一言

私の発行したミニコミ誌が本に収録され

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 本日は津島図書館を訪れたところ、元愛知県の幹部で最近まで日進市の副市長を務めておられた津島市民のTさんが訪問しておられ、図書館長と副館長とで津島市の歴史や、歴史資料や民家に眠る古文書などの保存などをテーマに花を咲かせることとなりました。
 
 津島市は中世に躍進して全国に進出していった織田信長の台所を支える商都として発展を続け、当地方の繊維産業の盛隆とともに愛知県で3番目となる「愛知3中」が創立されるなど、尾張地方有数の中心地であったものが、繊維産業の衰退と、都市間の交通体系から外れていることなどから衰退の一途を辿ってきました。
 
 一方で、市内の旧家には戦国時代から伝承する古文書も多く残されているものの、門外不出になっているケースも多く、その一因には行政が託するに値しないと信頼されていない事も大きいと思われる事から、最近では津島市の歴史を記録する役目も担っている図書館の頑張りに期待したいものでもあります。
 
 さて、本日私が図書館を訪れたのは、このたび図書館が当地方で発刊されていたローカル新聞社から発行された新聞を(B4版)606ページ分に保存して、収録して一冊の郷土資料として発行した中に、私の発行した「ふるさとアサヒ」も収録されていたため、提供していた新聞の返却と贈呈された一冊を頂きにうかがった次第でした。
 
イメージ 2 この資料には、大正8年に発刊した「尾西タイムス」や「尾陽新報」から、昭和28年から35年まで発行された「愛知時事新聞」など9社の新聞が収録され、私が昭和63年から平成5年にかけて発行した「ふるさとアサヒ」も参考のために収録されました。
 
 元々が、朝日新聞のミニコミ誌として発行されたものですが、「発刊の挨拶に、津島の話題や情報を発信することで読者に郷土愛を喚起してゆくと表明しており、紙面には地元で活躍する人物の紹介など、地域に即した特集を充実させている」と紹介されていました。
 
 残念なことは、「現在休刊中」と記されていることで、編集発行人の私が生存していることから、「廃刊」とは記されておりませんが、本来なら継続して発行し、過去に発行されていた新聞と一緒に資料として収録されているべきではなかったと反省です。
 
 「後は安泰だなぁ」の一言は、私が「ふるさとアサヒ」を発行していることに、自身も「日本および津島」を毎月発行されていた、元市長で県会議員を務められた竹内節男さんの言葉で、自分の亡くなった後を託せる存在として評価されていたことに報いてはおらない反省も必要となります。
 
 仕事も年齢も最終章に入りつつありますが、当時訪れた人々の多くが亡くなっておられることや、先人の残された新聞の中にも、現在と比較すると興味深い記事が残されていることから、「休刊中」を再発行に変えてみたい意欲も湧いてきました。
 
 そんな思いも、明日には議会の質問が決まっており、愛知県への報告書や確定申告など日程的に迫られている事案を終わらせてからの話で、「そのうち」とか「できれば」ではなく、実現させて報告する一文を載せて見たいものです。
 
                                  3月3日の一言

千葉では相棒も出会いの旅に

 右に添付した写真は、3日前(土曜日)の朝、アクアライン「海ほたる」から眺めた日の出の様子で、週末の千葉行きのスタートはイメージ通りの出だしとなりました。
 
イメージ 3 今回の千葉行きは、上高地で知りあった千葉県在住の2人が、偶然にも千葉県旭市と成田市において、昨年末から絵画展と写真展を開催されていたことから、私の家族4名と相棒も一緒に訪ねるという「変り者」しか考えないような強行軍でした。
 
津島市(25日夜11時出発)…飛島IC…伊勢湾岸自動車道…東名高速…(浜名湖SA・休憩)…東京湾アクアライン(海ほたる・仮眠)…館山自動車道…(市原SA・休憩)…千葉東金道路…横芝光IC…旭市(26日午前9時到着)
 
 愛知県から千葉県までは、東名高速道から東京都内を経由していくのが走行距離も料金も安く済みますが、家族サービスも考えてアクアラインの海ほたるで仮眠後に、早朝の「日の出」を迎えましたが、とにかく風が強くて立っているのがやっとのため車中からの鑑賞となりました。
 
イメージ 2 左に添付した写真は、成田市のエクセルホテル東急のロビーで開催されている写真展で、主催者の石原和子さんを囲んだ私の家族と、上高地のホームレス画伯こと旭市在住の渡辺さん(右端)です。
 
 石原さんは千葉県八街市在住で、リハビリを兼ねて3年前から長野県の山々をカメラに納め始めたとの話ですが、とても3年の経験とは思えぬ見事な作品が並び、高校時代から写真を趣味にしてきた私の存在感は皆無としか言いようがありません。
 
 私達の到着を待って作品を入れ替え、次のテーマで上高地の写真展は続けられますので、近くの人々には是非立ち寄っていただきたいと思います。
 
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 右に添付した写真は、昨日に銚子市にある地球の丸く見える丘展望館の駐車場で出会った千葉市の御夫婦の連れられた愛犬と、私の相棒リマ(2匹ともポメラニアン雄)のツーショットです。
 
 私の前を相棒にそっくりのポメちゃんを連れた左の御主人が歩いていかれたことから、相棒と散歩中の家内を探しに行くと、私たちの姿を見た奥さんが走りよってこられました。
 
 「一年前に亡くなった子(ポメちゃん)にそっくりだから…」と、歩いて行かれたご主人を携帯電話で呼び戻されての記念撮影ですが、相棒リマとそっくりの愛犬が死んだことから、9ヶ月前に似た犬を探して飼い出したのが左のポメちゃんとの話です。
 
 相棒にそっくりだったという亡き愛犬に似たポメラニアンを全国のペットショップから捜し求めて飼ったというだけあって、大きさも顔つきもそっくりで、ただそれだけの縁で私のように人と挨拶もしないような中年が何枚も記念撮影して語り合うのですから、ペットの存在は大きいものがあります。
 
 この愛犬は三重県生まれのようで、愛知県のペットショップで買ったとの話でしたが、帰宅後の写真を見れば見るほど、愛知県一宮市生まれの相棒と全く無縁とは思えない事から、私から一歩踏み込んで連絡先の交換くらいはしておけばよかったと反省する一日ともなりました。
 
 さて、土曜日から日曜日にかけて愛知県は大雪で大変だったようですが、私たちは風は強かったものの暖かい千葉県に滞在しており、帰宅した翌日になった本日は千葉県が大雪との報道があり、旭市や銚子でも10センチの積雪があったようです。
 
空の玄関、白銀に 首都圏、天候回復の見込み
 
 成田空港の積雪によって閉鎖された滑走路の映像や、道路に積もった積雪を見ると、一日違っていたら帰ってこれなかった事は確実で、日の出からスタートし、人との再会や新たな感動的な出会いなど、昨日の我々の帰宅まで天候に恵まれたことに感謝の一言です。
 
                                 1月28日の一言
 旭市(午後4時30分)…横芝光IC…千葉東金道路…京葉道路…高速小松川線など…東名高速…(海老名SA・休憩)…新東名高速…(駿河湾沼津SA・夕食)…東名高速…(上郷SA・休憩)…名古屋IC…午前1時30分に帰宅

久々に津島図書館を訪れて

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津島市図書館
 
 本日は津島市役所で農政協議会が開催されましたが、私にとっては今年初めて市役所内の公式審議会となり、年末年始の休み気分も完全に払拭し、明日からボランティアや行事がスケジュール表を埋めており、このままでは気がつくと3月議会となってびっくりすることになりそうです。
 
 昨日のことですが、「図書館が休みだった」との一言に、「年中無休の図書館のはずだが、どうなっているんだ」と発すると、津島市の図書館の話ではなく、稲沢市の図書館が休みだったと解ったものの、新しい図書館には魅力もあるんでしょうが、わざわざ津島市から稲沢市まで走って休館は気の毒な半面で、新しいだけではサービスにならないことを実感させられました。
 
 津島市の図書館は、過去には休館日であった月曜日も数年前から開館しており、月に一度の図書整理日は利用ができないものの、年末年始の休館日以外は職員が年中無休状態でサービスを提供しています。年中無休の図書館実現を訴え続けて実現させた事も、私の議員生活の誇りの一つです。
 
イメージ 2 本日図書館を訪れた目的は、昨年末に図書館より連絡が入り、私が昭和末期から平成にかけて編集発行していた「ふるさとアサヒ」を、津島市で発行された郷土紙として保存したいとの話でしたが、私の手元にも一部ずつしか残していないため、データ保存するために持ち込んだ次第でした。
 
 ふるさとアサヒは、B4版4ページの体裁で、昭和63年から平成5年までに23号発行しており、津島市内を対象に1万部ずつ発行していたものの、発行に要する印刷費用をまかなう広告スポンサーの確保に困窮し、次の原稿を用意したまま休刊してしまいました。
 
 もっとも、朝日新聞のミニコミ誌の役割も担っており、販売店の宣伝経費と思えば発行は続けられたと思いますが、当時は数年おきに何度も税務署の職員が訪れ、利益漏れを指摘するだけでなく、私の税務調査から新聞社まで乗り込んだことがあり、「赤字でやるはずがない」の一言に気力をそがれたことも、今にして思えば懐かしい思い出です。
 
 私は大学3年次から朝日新聞の販売店の経営者となりましたが、地元新聞より大きな店舗を建て、店舗2階で2組の卓球台を無料開放し、展覧会やイベントの会場とし、釣り大会や朝日旅行友の会を主宰するなど、若くして店主となった事から、利益は50歳になってからと決め、55歳で引退すると口癖にしていましたが、議員転出が避けられず50歳どころか、45歳で政治との兼業禁止のため廃業してしまいました。
 
 借金こそありませんが、仕事を廃業したことで収入が半減し、家内も仕事に出させ、国会議員の選挙事務所より大きい店舗を事務所にして、さらにボランティアの福祉有償運送をスタートするため、営業もしないタクシー車両まで買い込み、無報酬のNPO法人まで抱えてしまった人生は貧乏の象徴のようになりました。
 
 我家大鹿家の先輩となる「横井庄一」さんは、グアム島から帰還してから「耐乏評論家」と名乗っていたことがありますが、私の人生も横井さんに負けない貧乏実践家となり、銀行も相手にしてくれない年齢層に入りました。
 
 事務所2階には、大正から昭和初期に発行された貴重な書物や、著名人から頂いた絵画が山積みとされ、横井さんの残した大量の陶器や手紙が展示されていますが、このままではゴミと化し、後継者に捨てられてしまうため早期の整理が必要になりました。
 
 ミニコミ誌のデータ保存を機会に、書物や絵画の整理を進めたいと考えていますが、引退を前にもう一度一仕事、利益二の次の人生のため、イベントの再開やミニコミ誌の再発行も頭をよぎる一日となりました。
                                   1月7日の一言

零戦が展示され、戦車を湖底から探査する報に

 明後日の火曜日から12月議会が始まりますが、明日には上程されている議案の説明会があることから、一般質問の質問内容をまとめようと考えていると、「大鹿さん、タイヤ替えましょうか」との電話があり、無償でやってもらえる有り難い話だけに、本日は冬用のスタッドレスタイヤに交換が終わりました。
 
 来てくれた知人は、大型のジャッキを持ち、電動レンチを使ったタイヤ交換のため、私はタイヤを持ってきて、交換した夏用タイヤをしまうだけですみましたが、私の車のタイヤは大きくて重いため、一人で付属の工具で交換していたら大変な作業になったと思われます。
 
 タイヤの交換が終わり、近くの喫茶店で雑談をしていると、自宅から電話で、事務所を訪れた来客があることからあわてて帰りましたが、市民生活と行政サービスに関わる相談のためこのまま夜を迎えてしまいました。
 
 さて、本日の朝日新聞を見ると、偶然にも戦時中に活躍した零戦(零式艦上戦闘機)が所沢で展示される記事と、終戦直後に浜名湖の湖底に隠された戦車の話題が掲載され、60年の時を超えた話題が揃って発信されたことに興味はつきません。
 
 所沢に展示される零戦は、現在はアメリカの博物館が所蔵しているものの、1944年にサイパン島で米軍に無傷の状態で機体が収容され、ほとんどが当時のままの状態で保存され、現在も飛行可能と記されています。
 
 この零戦は、12月1日から所沢市の航空発祥記念館で来年3月31日まで展示され、初日と2日にはエンジン始動イベントも予定されているので、全国の飛行機ファンだけでなく、戦争と関わった人々にも懐かしい再会となりそうです。
 
 愛知県にも小牧市に三菱重工業の関係で零戦が展示されており、一般にも公開されていますが、当時の航空機製造技術は世界一と言われており、エンジン始動だけでなく複数の零戦が飛び交う姿を見せてもらいたいものです。
 
世界で唯一飛べる零戦 埼玉・所沢で12月から展示 
 
 一方で、浜名湖に沈められたという戦車は、旧陸軍の秘密兵器として米軍に渡らないように自走させて湖底に隠されたと報じられていますが、今にして思えば隠す必要もなかったと思われますが、終戦直後には新たに抗戦する気持ちもあったのでしょう。
 
湖底探査、カツーンと金属音 浜松で「幻の戦車」探索中
記事の続き…
 戦車かどうかは分からないため、現場付近を空撮し、詳しい図面を作る。その後、ダイバーに潜ってもらうなどする。
 事務局長の中村健二さん(52)は「戦車が沈んでいる可能性が高まった。まちおこしのためにみんな一生懸命だし楽しんでいる」と話していた。
 
 戦争の体験者がほとんどいなくなり、戦争の記憶も薄れていく中で、零式艦上戦闘機が里帰りし、隠された最新鋭の戦車が、水中考古学や戦車の専門家らも県外から駆けつけて探す報道に、戦争とは無縁となった日本の平和を実感させられる一日ともなりました。
 
                                     11月25日の一言

素朴で感動する書道展を拝見して

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茜屋を会場にして書道展を主催する榊原さん
 
 本日は津島市議会の防災に関する議員研修会が開催され、愛知県防災局災害対策課の丹羽主幹を講師にして、「愛知県の防災体制について」をテーマにした勉強会が行われました。
 
 災害が起こったときに、災害の規模によって愛知県がどのように対応し、地元市町村との連携と支援はどうなっているのかの説明と、最近大きな被害を受けた竜巻についても、気象庁の資料をもとに説明がなされました。
 
 私も愛知県の養成した防災ボランティアコーディネーターや防災カレッジを終了した防災リーダーとして、最近無関心となっていた感がある防災行政について、改めて確認する機会となったとともに、私の無関心についても、愛知県の財源不足によって防災行事が減らされている県職員の本音も聞くこととなりました。
 
イメージ 2 さて、冒頭に添付した写真は、津島市西愛宕町にある喫茶茜屋さんで、今月2日から今週末の7日(土)まで『あるがまま書道展』を開催されている榊原昭治さんで、会場には30点に近い書道作品が展示されています。
 
 中には右の作品のように個性ある書も出展されており、想像していたより見どころがあり(大変失礼な表現ですが)、是非とも皆さんにも鑑賞していただきたく紹介した次第です。
 
 我家の事務所2階でも平成6年より書道会が開催されており、毎週火曜日の夜に書道の練習が行われています。今年も9月に茜屋を会場とした書道展を開催することが決まっていますが、初めての書道展に一人で会場いっぱいの作品を発表された榊原さんには頭が下がります。
 
 普通の書道展では誰もが見せるために見栄えの良い作品を出展するなかで、この書道展では主催者が書を楽しんでいることと、背伸びせずに思いのままに書き込んでいるのが判り、私などは真似もできないものです。近隣の方で、津島市を通るついでがある方は、是非お立ち寄りくだされば幸いです。
 
 「最近お顔を拝見していませんね」と行き着けとしているお店で言われ、四国遍路で家を空けたことや、市議会の行事が連続しているなかで、次男の車が故障したり、孫の子守に出かけていた忙しい現実を実感させられました。
 
 明日からも、しばらくはこんな生活が続いていきます。
                                  7月4日の一言

街角のピアノコンサートで感動が生まれる実感を…

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 本日は津島市西愛宕町にある珈琲茜屋を会場として、「佐藤由美ピアノコンサート」が開催されましたが、今年で9年目となるコンサートは、「動物の謝肉祭」と題して、40曲を超える犬や猫など動物に関係する曲が披露されました。
 
 添付した写真は、開場の2時間前の練習風景で、手前の古武士のような人物は、何よりも「自分が聴きたいから」とコンサートを主催する茜屋のマスターで、この人が存在することから多くの人がピアノコンサートに参加でき、練習とは言え一人で聴く贅沢が許されるわけでもあります。
 
 ピアノを演奏する佐藤由美さんは、東京藝大大学院出身のピアニストで、住まいの一宮市を中心に全国で活躍しており、6月には名古屋公演と大阪公演が続き、7月には東京公演も予定されているので、関心をお持ちの方は、下記ブログをご覧いただければ幸いです。
 
ピアニスト佐藤由美の公式ブログ http://ameblo.jp/yuminosuke97/
佐藤由美のプロフィール http://profile.ameba.jp/yuminosuke97/
 
♪♪♪ ゆみのすけの東日本大震災 復興支援活動♪♪♪

昨年8月23日 震災復興支援のために心を込めて収録したCD
「東日本大震災 復興への祈り」
1枚1,500円以上でお願いしております
収益の全額を被災地へ直接お届けします
また 現地でのボランティア演奏も計画中です
皆さまのご協力をよろしくお願いいたします
上記に関するお問合せ及びチケットのお申込みは
アメブロメッセージ 又は
yuminosuke97@hotmail.co.jp
まで よろしくお願いいたします。

 さて、私自身も佐藤由美さんの父親と親交があることから、ピアノを通じて東日本大震災の被災地を支援する彼女の活動を支援する一員となっており、愛知県の家庭の奥で使われずに眠ってしまっているピアノを復活させ、被災地で美しい音色を上げるための活動を関係者とすすめています。
 
 大切な子供さんのために高価なピアノを入手したものの、子供さんが成長して遠くに嫁いだために使われなくなり、両親が高齢となってピアノの処遇に困っている事例を聞いた経験から、貴重なピアノを復活させて津波でピアノが流されてしまった被災地で復活させたいと考えています。
 
 こんな発想が起きるのも、身近な街角でピアノコンサートが開催される環境があるからで、ピアノや音楽とは無縁の私までが借り出され、被災地で復活したピアノを佐藤由美さんによって演奏して欲しいとの夢になりました。茜屋の古武士のようなマスターに乾杯する一日ともなりました。
 
                                   5月20日の一言
追伸
コンサートの演奏中に、古武士へ男のお孫さんが誕生したようです。

町内の側溝清掃が行なわれて

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 添付した写真は、我家の近所の道路に残された昭和30年頃に設置された簡易水道の消火栓の蛇口ですが、町内の他の蛇口が一斉に取り払われた祭に、当時の担当者に頼み込んで残してもらった町内唯一の蛇口です。
 
 この消火栓は現在の水道の口径より小さいため、現在の消防署のホースはつなげないことから、町内の水道管を新しく更新した祭に、当時の町内会長が全部撤去するように市役所に伝えたものの、取り付けられるホースを確保して、万が一の祭には自分達で消化活動ができるようにするため私が死守した蛇口でもあります。
 
 その後、この蛇口に合ったホースを100メートル分と、ホースの先につけて放水するための「カンソウ」という道具も入手したので、いざと言う時には役にたつと思われますが、未だ一度も使ったことがありません。
 
 本日は町内のドブ掃除が行なわれましたが、この蛇口とホースを使って水を流す事から、側溝のフタを上げる苦労は伴いますが、側溝の中は綺麗に清掃され、「水泥棒」と言われた事もあるものの、「消化訓練」のお墨付きをもらい、チームワークも良くなりました。
 
 ゴールデンウィークに入っていますが、私にとっては田んぼの除草から、昨日の用水路清掃、ドブ掃除と、外出もままならない日々が連続し、連休後には議会日程も予定されている事から、連休中の楽しみは期待できそうもありません。
 
 ただし、今月は四国遍路や上高地に出向いており、昨日の用水路清掃で足を痛めたものの、心地よい疲労が身体に残されています。
 
                                  4月30日の一言

季節の移り変わりを感ずる一日に

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愛知県と三重県を結ぶ木曽川・尾張大橋
 
 本日の早朝は、三男を乗せて三重県の桑名市まで走りましたが、息子の目的地まで20キロ未満である事から、息子にとっては自転車の通学程度の距離で、帰りは車に乗せていった自転車で帰ってきます。
 
 私にとっては久しぶりの桑名市で、元々が三重県そのものに行く事が大嫌いなため、高速道路で通過するか、奈良や高野山の帰りに通過するだけで、三重県を目的地にした走行は久しぶりであると同時に、街並みの変化にびっくりとさせられました。
 
 もっとも、添付した写真は車を運転中のショットで、手前にレーダー探知機とタクシーメーターが写っていますが、これが飛行機の機長なら、操縦中の写真は事件扱いとなり、国土交通省の注意を受ける事となりますが、朝から爽快な気分となりました。
 
 本日は、昼から行われた知人が出演する演劇を鑑賞するために、午前中から仲間と名古屋市を目指しましたが、私の手帳には本日から「上高地」と記されており、何事も無ければ出発していたと思いますが、明日は防災関係の行事があり、月曜日はボランティアの依頼がある事から、15日で閉鎖される上高地行きは微妙な雲行きとなってきました。イメージ 2
 
 昨年は写真撮影のために機会があれば毎週のように上高地を訪れており、過去20年間でシーズン中に一度も上高地へ入らなかった年はなく、今年は4月に総選挙があった事もあって、4月27日の開山式から一度も入っていない事から、最終日の閉山式には是非とも訪れたいと思っているものの…
 
 私が所有しているタクシー車両は、本来は人を運んで利益を目標にされる車ですが、私はマイカー規制された上高地や乗鞍スカイラインに自由に入るために投資した一面もありますから、何とか閉山式には行きたいものです。                                                                                            名古屋・栄テレビ塔
                                
 そうやって窓を見ると、暖かい間の夜には、窓の外に必ずへばりついていた「ヤモリ」の姿が一匹もなく、いよいよ秋から冬に向かっている季節を実感させられ、名古屋市の栄で繰り広げられていたイベントの大音響や、紅葉を始めた都市公園をゆっくり散策すれば良かったものの、車の駐車料金ばかりを考えて一目散に帰宅した一日の反省ばかりとなりそうです。
 
                                 11月12日の一言
追伸 本日の話題
九州では一番乗り、天山スキー場が開業 佐賀・富士町

絵画展の鑑賞に出かけました

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 津島市西愛宕町にある喫茶店茜屋で、地元の風景画家「皆戸正幸」さんの個展『津島今昔ものがたり』が開催されており、知人と一緒に訪れました。
 
 津島市内の見慣れた街並み風景が描かれていますが、一緒に添付されている現在の写真と見比べると、建物が壊されて無くなっていたり、街並みが変わっていることに気付かされ、寂しさを覚えるとともに、見事に記録されたスケッチが街の記録として残されていることを実感させられます。
 
 当り前に地元の見慣れた風景と判っていても、それが何処だったのか思い出せない人間のあいまいな記憶と、その場を通っておりながら変化にも気付いていない無関心な自分にも気付かされます。
 来週いっぱい開催されており、夕方であれば作者と直接会える可能性も高く、素朴な津島市の姿を再認識していただきたいと、近隣の方々にはお勧めの一言です。
 ちなみに、下に添付したブログでも津島市の街並みが拝見できます。
 
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津島今昔ものがたり
 
 日時:10月17日(月)~22日(土)パート1 
     10月24日(月)~29日(土)パート2
 会場:喫茶茜屋(津島市西愛宕町2-66
 
                      右の写真は会場と作者です
 
ブログ・津島街並ミュージアム
 
 さて、2日前に体力回復のため、野球のバッティング場に出かけたところ、久しぶりのため操作方法が判らず、係員のかたに面倒をかけましたが、若い頃にはバッティング場のホームラン王に輝いた事を思い出し、コインを入れれば必死になれる事から今後も続けようと考えましたが…
 本日は腕だけでなく、背中や足腰など身体中が痛みます。
 
 運動不足から、健康管理のためにウォーキングや自転車を勧められ、自転車のタイヤに空気を入れると翌日にはパンクしており、どちらもなかなか続かないことから、これからは簡単に短時間で参加できるバッティング場を利用したいと思います。
 
 明日は隣のお寺の永代経の受付で、朝から座るだけの一日となりますが、来週末には四国遍路で歩き遍路に挑戦する事から、今月が締め切りとなっている健康診断も忘れず受診したいと考えています。
                                10月22日の一言

千五百年前の文字発見の報に

イメージ 1 福岡市の古墳から出土した鉄製太刀から、西暦570年を示す「庚寅」の干支と「正月六日」の日付が刻まれている事が、福岡市埋蔵文化財センターのエックス線撮影によって確認され、21日福岡市教委が発表した。
 
 日本書紀には、暦は554年に朝鮮半島の百済から日本にもたらされたとの記載があり、伝わってから十数年で暦が広まっていたことと、日本書紀の記載の信憑性についても歴史を裏づける発見と思われる。
 
日付入りの大刀出土 暦使用の国内最古例か 福岡    朝日新聞夕刊引用
 
 さて、添付した記事にある太刀の写真を見ると、私たちの少年時代にも似たような物が土中から出た事があり、価値は無いだろうが錆を落として遊んだ記憶もあることから、過去に失われた歴史的遺産も多いのではないだろうか。
 
 私の住む町内にも、かつて「越津古墳」が存在し、六畳敷きの石があったことを識者から聞き、町内の古老に聞いたところ、昭和40年代までは場所も特定でき、石の存在も判っていたが、農地の土地改良によって遺稿場所も不明となり、土地改良前の古い地図を確認しないと判らず、その地図を所有する家で探したものの、地図そのものが見つからず、古墳の存在を知る人も殆ど無い事から消え去る運命となります。
 
台風15号 大雨・暴風・高波に厳戒呼びかけ
 
 台風15号は、本日の午後に静岡県浜松地方に上陸し、今晩から明日にかけて関東、東北地方へと進路を向けており、東日本大震災の被災地へ更なる被害をもたらす可能性も高く、東海地方への被害が大々的に報道されたものの、今後の進路が気になるところでもある。
 
 愛知県や岐阜県にも人的被害を出したものの、台風そのものの被害ではなく、台風が近づく前日の被害であったことから、集中豪雨に対する水路の安全対策や堤防の強化は急務で、災害の再発を防止したいものでもある。
 
 もっとも、海抜ゼロメートル地帯に住む者の感覚からすれば、地下通路に売店や精密機器を置けば、浸水を完全に防止することは不可能で、防災対策についても避難所の場所そのものの改善が必要であり、改めて津島市の検証も必要に思う台風の通過となりました。
                                   9月21日の一言 

書道展作品の搬入と飾り付けです

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神守丈友会書道展  津島西愛宕町茜屋25日~30日
 
 本日は市内西愛宕町にある茜屋にて、来週25日から30日まで開催される書道展の飾り付けのため、会員の作品を搬入しました。
 
 「何時に来てくれるの?」
 「3時に〇〇が来るので、それから出ます」
 「じゃー、3時に待ってるからね」
 
 学校を定年退職し、旧佐織町最後の教育委員長を最後に公職をすべて退き、我々の書の指導のみに生きがいを燃やす恩師は、今回の書道展の画材も独りで名古屋市まで買いに走る意気込みですが、3時に来るはずの〇〇君は時間になってもやってきません。
 
 5分遅れで1人出発した車中に電話が入り、色紙を入れる額(親子4人分)が無いとの話に、恩師の家から1枚を借り、我家に戻って3枚を取り出したものの、我家の額の中には高僧の色紙が入っている事から面倒な貸し出しです。
 
 「今頃になってなんだッ」
 「…」
 「自分が出展する自覚が全くないッ」
 「…」
 
 恩師は現役時代から短気で直情型ですが、大きな病気を体験してから気は長くなっているものの、車中で怒りは最高潮に達し、会場でも世間話に花を咲かせるメンバーを無視して、作品の名札を黙々と書き込みます。イメージ 2
 
 本日まで展示されていた作品が降ろされ、我々の作品が次々と並べられていき、30点を超える全作品が並べられると、恩師からやっと笑みが漏れ、満足感から落ち着いて自席での雑談となりました。
 
 私の作品は「無道人之短 無説巳之長」(書の出典は中国『崔子玉』の座右の銘)と、「般若心経」の写経で、一年前に他の展覧会に出展したのと変わり映えしない作品というよりも、昨年の作品よりも出来栄えが悪いために感激も沸きません。 下記参照↓↓
本当に恥書きとなる筆をうごかし  http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/43480557.html
 
 さて、作品が弘法大師に関係する事から、会場に居合わせた人とも四国遍路や高野山の話題となりますが、私自身は書に自信がないため、修業のために般若心経や崔子玉を引用しており、一年前よりも出来栄えが悪いのは書き込んだ時の心理や環境をそのまま表しています。
 
 私自身は、この神守丈友会の書道展と、会場となっている茜屋で作品展を主催される人々との合同展に出品し、年初めに写真展を開催していますが、神守丈友会は平成6年からスタートしており、そろそろ書も花を咲かせたいものです。
                                  7月23日の一言

津島神社に立ち寄って

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本日の津島神社本殿と楼門(右)
 
 「西の祇園社(八坂神社)、東の津島社」と言われ、牛頭天王信仰の東日本を代表する古社であり、全国に末社が3千社(実際に記録が残っているのは全国に約1千5百社)と言われた津島神社ですが、このブログには一度も紹介した事がありませんでした。
 
 今でこそ近隣の神社と同じように紹介されていますが、その創祀は欽明天皇元年(540年)と伝えられ、戦国武将織田信長の氏神として、豊臣秀吉は社領を寄進し、徳川幕府寄進の神領地として明治維新まで続いた神社です。
 
イメージ 3 本日は神社の近くにある「伝承の館」に出向いた際に、雪の残る津島神社にも立ち寄りましたが、残雪により閑散とした中でも熱心に参拝する地元の方の姿と、中型観光バスが1台駐車していました。
 
 本殿は慶長10年(1605)に、徳川家康の四男松平忠吉の妻が、夫の健康祈願のために寄進したもので、楼門は豊臣秀吉の寄進で桧皮葺きの屋根と朱塗りの柱が残雪の中で鮮やかに映えます。本殿正面の南門は秀吉の病気平癒のため、慶長3年に秀頼が寄進しています。
 
 津島市と言えば、夏7月に開催される日本三大川祭り「尾張津島天王祭」が有名ですが、年の初めの「歳旦祭」から、4日に輪くぐり神事「茅の輪くぐり(蘇民祭)」、2月からは5月にかけて「烏呼神事」、「春縣祭」、「闘鶏転供祭」、「花の撓」など五穀豊穣を祈る祭りが続きます。
 
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 左のポスターは今年3月5日に開催される津島神社開扉祭 「おみと」 の案内ですが、津島神社でも勇壮な「火祭」が毎年行なわれています。
 
 この祭りに使われた燃え盛る大松明の灯りの中から、松明の燃え残りを持ち帰って家に納めると田の虫除け・雷除け・歯痛除けに効き目があると、参拝者は顔を焦がして争って持ち帰ります。
 
 
祭りの様子は下記のブログを参考にして下さい。
 ブログ 鉄火お嬢が行く! 
 
 
  さて、本日訪れた伝承の館は、旧図書館の建物を利用して高齢者のために各種事業を展開しており、ここには津島市老人クラブ連合会の櫻木会長が施設の責任者として務めておられ、2月6日に開催予定の「人にやさしい街づくり地域セミナー」のパネラーを依頼してある事から当日の打ち合わせに訪れました。
 
 ここで語り合った内容は内密ですが、名誉職としてではなく、ご自身が名古屋市職員として勤められた行政経験を踏まえた発言ですから、4月の選挙を勝ち残ったら自分も長寿を目指すために、是非とも協力したいと思う訪問となりました。
                                 1月19日の一言

故人との約束を思い出し

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 本日の朝日新聞に私の住む津島市の旧神守村に残された「郷土研究」をもとに、「神守のむかしばなし」が発行されたとの記事がありました。
  
「生きるヒントある」津島・神守の伝説、創作民話に 朝日新聞10月30日
              http://mytown.asahi.com/areanews/aichi/NGY201010290025.html 
 
 この「郷土研究・神守村」は、昭和14年に発行されたもので、今から20年ほど前の話となりますが、神守町にある「養源寺」の先代住職(故人)が復刻され、当時ミニコミ誌で郷土史を紹介していた私にも「絶対に次に引き継いでもらいたい」と渡された冊子が残されています。
 
 本来はもっと多くの資料が存在し、ガリ版刷りではなく本格的な郷土史を目標にしていたらしいが、何らかの障壁が発生し、せっかく集めた資料を眠らせないために手作りで即興の発行となったようで、旧神守村の中でも神守学区と比較すると、蛭間学区と高台寺学区の資料は尾張名所図会などからの引用も多い。
 
 この冊子は貴重なもので、私の町内の古老が養源寺の住職に所望したところ、貴重な物だからと断られ、私に渡してあるから見せてもらうように言われ、貸し出してあった事もありますが、託された目的は果されておらず反省するばかりです。
 
 今回の「神守のむかしばなし」発行は、これまで旧津島地区(神守村は昭和30年に津島市と合併)の歴史ばかりが脚光を浴びていたことを考えると、合併後も余所者扱いだった旧神守地区の歴史の経過を感じさせられます。
 
 さて、旧神守村の資料については、合併後に散逸し、神守支所(旧村役場)の新築移転によって多くが破棄されたと聞きますが、この「郷土研究」が発行されて70年が経過しており、その後の歴史が記録されておらが、戦争中の米軍機の墜落事故や、伊勢湾台風、塩害を防ぐための「百間堀」など残すべき歴史が欠けています。
 
 私が議員になって12年近くが経過し、昭和48年当時に当地方では歴史の第一人者であった樋田豊先生と一緒に地域を廻った資料や写真を含め、ミニコミ誌のためにランカ堂写真の高橋さんに戴いた写真など、山積みとなった事務所の下敷きとなっています。私もこれからは人生の最終章を迎えており、過去の整理も必要と思う一日となりました。
                                    10月30日の一言

先輩の主催する絵画展を訪問し

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 本日は見事な秋晴れの一日となり、昨晩に「上高地」に行くか行かないか迷った挙句に取りやめた事を後悔する朝となりましたが、午後になって高校時代の大先輩が仲間と開催されている「2人展」(日本画と洋画)な顔を出す事ができました。
 
 この先輩は現役を退いておられますが、一宮市を中心として教員をされていた方で、学生時代から現在に至るまで洋画を続けておられ、今年は年内に数ヶ所の個展や出展が続くとの話でした。
 
 妙香園画廊 名古屋市中区栄2-14-14
 
 あまりにも見事な秋晴れに「大失態」と思った上高地断念でしたが、この先輩は今年1月に私が開催した写真展を新聞紙面を見て津島市まで来ていただいた大恩があり、先輩の開催される個展への訪問を約束していただけに、個展が明日で終わる事から大切な約束を守れたことに安堵する夕方となりました。
 
 さて、どうやら明日の天気は最高とは思えませんが、今後も上高地行きの予定は立ててあるものの、紅葉の微妙な変化を我が庭として記憶するために、今晩にも出発し、明日の午後には予定した約束と夜の書道会があることから、午前中の散歩となりそうです。
 
 「昨晩に上高地に行っていたら来れませんでした」と話し、上高地で70日間もテント生活をおくって油絵を描いていた千葉県の渡辺氏との出会いや、旅先での知人との出会いに花を咲かせました。
 
 「ところで、上高地はそんなに簡単に行けちゃうの?」
 「高山市まで高速がつながったので3時間あれば…」
 「それでも、バスに乗り換えたり大変じゃないの?」
 「直接入っちゃうんですよ」
 「えっ? 車は入れないでしょう?」
 
 先輩には、私が個人でタクシーを所有している事が不思議そうでしたが、そんな説明をしている時間もなく、先輩の絵画に対する真剣な思想と、過去の絵画の流れに真剣に聞き入っていました。
 
 こんな本音を記すと私の写真展が台無しになってしまいますが、学生時代から絵画を一貫して続け、30年前の大きな作品から年代順に残されている話を聞くと、安易には展覧会はできない雰囲気となりますが…
                                  10月11日の一言

忙しくも熱中できる一日に

 本日は睡眠不足のままに午前3時に会報を配布し、しばし仮眠後に市役所から求められた書類を送付後に横井庄一記念館入りとなりましたが、午後からは学校の課題で訪れる子供などへの説明役が続き、久しぶりに閉館時間が過ぎるのを忘れる忙しい一日となりました。
 
 昨日参加した『人にやさしい街づくり連続講座』は、桜花学園大学の森田教授の「社会参加のための交通権補償と交通基本法」についてと、日本福祉大学児玉教授による「地域生活と居住継続」がテーマで講義が続きました。
 
 私は森田教授が主体となった「交通問題勉強会」にも定期的に参加しており、国が成立を目指す交通基本法に対する私案提出や、公共交通の現状や地元のコミュニティバスの問題など、難しくて受け付けないような議論を耳にしていますが、「4人に1人が買い物に行けない」高齢者の現状から、交通権(人々が自由に移動できる権利)が、高齢者や障がい者の社会参加となり、「公共の福祉」となる基本的なスタンスを確認できる機会となりました。
 
 3年前に津島市で開催した地域セミナーにおいては、「病院まで、どうやって行こうか」をテーマに森田先生より講演していただきましたが、来年2月6日開催のセミナーでは「買い物難民」や「外出できない高齢者」を念頭において、地域で移動する足の確保をテーマに森田先生と詰めていきたいと考えています。
 
 一方で、一昨年には「障がい者の自立を支えるバリアフリー」をテーマにして、昨年は「災害弱者に配慮した防災まちづくり」をテーマに津島市で講演していただいた児玉先生の講義を久々に聞き、家庭内での事故により1年間に約1万人以上の高齢者が亡くなっている現実から行政の関係する職員にぜひ聞かせたい話でもありました。
 
 児玉先生の講義もまとめとして、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」憲法25条が話され、「居住の権利」を訴えられた事から、森田先生の「交通権」と共通する主張に事前打ち合わせもなかったと聞き、(偶然との事でしたが)企画したNPOのレベルの高さを実感させられました。
 
 議会開催中であり、私の提出した一般質問の内容に対する市役所の問い合わせが携帯電話を鳴らし続けますが、こんな見事な講座に参加していた事から、留守録の声を聞くのみで、本日までそのままにしてしまいました。
 
 さて、明日も3時起床ですが、夏休みもないままに睡眠もろくに取れない日々を続けた自分自身へのご褒美に、一般質問が終わった週末の土・日曜位は「上高地」行きをプレゼントしても良いのではないでしょうか。
 
 もっとも、家内は三男の自転車ロードの同行で頭が一杯となっているものの、こんな企みが事前に発覚すればご破算になってしまう事から、明日からは議会だけに専念する日々にしたいと思います。
                                   8月29日の一言

芸術の地域格差を実感して

 本日も朝3時から会報配布に(正確には3時30分から)出ましたが、しばらくすると雨に降られて雨宿りとなり、しばらく待つものの雨脚は衰えず、このまま待ち続けてもラチがあかない事からハッとしました。
 
 どうせ既に濡れていた事から、雨宿りならマンションの軒先に走って、雨に濡れないマンションを配布しながら天候の回復を待てば合理的で、せっかく早起きした甲斐があると、何故に今まで気付かなかったのか。つくづく、自分の頭の回転の悪さを実感させられました。
 
イメージ 1  さて、本日は私にとっては全く無縁の世界となる、音楽の会場をハシゴする一日となり、夜には津島市の主催する「宝くじおしゃべり音楽館」が文化会館で開催されましたが、名古屋市の天白文化小劇場でも「オールスターズコンサート」が開催されており、知人の娘さんで東京芸大大学院を卒業したピアニストが出演していることから、午後はこのコンサートを知人に同行して聴きに走り、終了した午後5時過ぎに6時30分開演となる津島文化会館に戻る事となりました。
 
 
イメージ 2 音楽とは全く無縁どころか、何も判らない私が、知人の義理立てで走ったようなものですが、小さいながらも各区に小劇場を持つ名古屋市の企画(民間の主催・名古屋市は後援)は見事で、午後2時から始まった第一部(写真右)と、午後6時30分から始まる第二部からなり、本格的なクラッシックコンサートが無料で開催されて市民に開放されていることには感服です。
 
 一方で、大きな文化会館大ホールと東京ニューシティ管弦楽団まで用意し、テレビで活躍するピアニストや歌手と、タレントの清水ミチコまで出演する津島市の「おしゃべり音楽館」(写真左)ですが、せっかくの管弦楽団の芸術性を引きイメージ 3出せず、コミック的な音楽ショーとなっていた事に、名古屋市と津島市の芸術文化の大きな較差を感じられずにはおられませんでした。
 
 音楽音痴の私ですが、午後と夜とに異なる音楽会を聴けば、比較して良し悪し位は判りますが、2500円を支払いコミックバンドで笑って帰るか、無料ではあるものの、感動で涙がつたって終了時に人々が次々と善意のカンパをカゴに入れるコンサートとどちらを選ぶかに名古屋市と津島市の違いを実感しました。
 
 名古屋市の天白区は、津島市とは名古屋市の中でももっとも遠くに位置する距離にありますが、都市高速を利用すれば30分で移動できる事から、立派なパンフレットを準備して津島市や愛知県が主催で開催するよりは、名古屋市で開催される密度の濃い民間の企画に参加した方が効果的と思う半面で、「芸術性」だけでは人が集まらないとすれば地方都市の切なさも実感です。
 
 ただし、津島市も捨てたものではなく、私の知人のピアニストを気にいった個人店主が、毎年ピアノコンサートを主催しており、限られたスペースですが満席となっていることは、津島市の中にも芸術性を求める人々が存在します。
 
佐藤由美ビアノコンサート
 
 モノの良し悪しを個人的価値観で決め付けるのは良くないとは思いますが、開催する大きな会場が優先して決められ、行政のメンツで満席にするよりも、芸術と会場が一体となり、静まりかえるような緊張感を感じた名古屋のコンサートに学びたいと思う一日となりました。
                                    8月20日の一言

楽しみかが消えた連休ですが…

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 本日より我々「神守丈友会」の作品展が開会し、早朝より恩師・後藤緑風(毅)先生(写真上)と会場を訪れて、芳名録に記帳し、不備のあった名札を貼り付け、メンバーと雑談後に帰宅となりました。
 
 会場は珈琲屋さんのため、午前中はモーニングサービスがついており、お昼はランチサービス、午後は「カッパえびせん」しかありませんが、書を通して知人との会話も久しぶりとなり、貴重なゴールデンウィークですが恩師は満足しておられました。
 
 さて、市内でも藤まつりが開催されており、各種のイベントが目白押しですが、私は午後からNPOのチラシ配布(福祉有償運送の利用者募集)が待っており、本日は2つの団地を500枚程度配布しましたが、行楽には最高の天気も仕事には一汗かき、日頃ナマカワした身体は悲鳴をあげました。
 
 ただし、配布直後に注文が入り、1軒だけではありますが、効果が出ると疲れは取れないものの、明日への活力になったのはまぎれもなく、明日も明後日もチラシ配布は続きます。
 
 明日は晴天で行楽日和となりそうですが、キャンセルしたものの予定では高野山の結縁灌頂授戒に出向く計画を立てており、本来なら今夜は早々に就寝して明日に備えているはずだったのですが…
 
 「大鹿さーん、書道展には何時に会場におられるんですか?」と、明日のスケジュールを電話で問われ、午前中は寝ていますとも言えず、明日の午前中は書道展の会場で、午後はチラシ配布の一日となりそうです。
 
 ともかく、連休が終わると議会の公的日程が続く事から、連休はチラシ配布に専念することとしましたが、今月の15日には乗鞍スカイラインも開通するので、後々の楽しみに期待して汗をながすこととします。
                                 5月3日の一言

書道展の飾り付けへ

イメージ 2 我家の2階で平成6年から続いている書道会、神守丈友会の作品展が来週3日より8日まで開催される事から、本日は夕方にメンバー全員が会場となる津島市西愛宕町にある茜屋に集まり飾り付けです。
 
 茜屋は写真(右)のように、建物全体が緑のツタで覆われた珈琲屋さんで、最近では各地に画廊や展示のできるスペースが登場していますが、津島市では40年近く続いている画廊喫茶の草分け的存在でもあります。
  
イメージ 3 この神守丈友会は平成6年秋に、私の中学時代の恩師で教頭を務めていた長谷川丈夫先生に指導をお願いに伺いました
 
 神守中学校では我々の教頭であった恩師も、各地で校長を歴任し、当地方の校長会長まで務めた大物校長でしたが、私にとっては叱られてばかりの中学時代に唯一信頼して頼れる先生で、在学中から横道に反れた私にとっては、職員室で座らされていることが多く、「おい、今度は何をやったのか」の恩師の一言によって、自由の身になる事も多く、卒業後の不良と化した私の姿を見て見ぬふりをして通り過ぎる教師の多いイメージ 4中で、「おい、おまえは一八じゃないか」と避けて通られる事はありませんでした。
 
 そんな関係が卒業後の高校、大学時代から社会人になっても続き、食堂から居酒屋にも同行する関係となり、一方は大物校長となり、不良だった私がPTA会長となり、恩師の長い教員生活で教え子も多い中で、恩師と言えば大鹿と言われるような関係になっていました。
 
 「先生、書道を教えて下さい」
 「ダメだ。そっちにも書の大家が多くいるだろう」
 「いや、多くても、タダで教えてくれる人はありません」
 「なにーィ、タダー?」
 
 頑なに固辞する恩師は、退職後にかつての勤務地まで、小遣い稼ぎに出向くような考えはなく、商売で看板を出しておられる書家に配慮した断りでしたが、私の全く無償で教えに来いとの話に興味を示され、「じゃー、ビタ一文貰わんぞ」の一言で、恩師の丈夫の「丈」の一字をとって「神守丈友会」がスタートしました。
 
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 書道会よりも終わった後の「ちょいと一杯」が好きだった恩師は、数年後に教員仲間だった現在の恩師・後藤毅先生に指導を託して引退され、数年前に他界されましたが、私にとって恩師では一番因縁の深い教員であり、「白い物も黒」とか「右と言えば左も右」の親分子分の関係でした。
 
 さて、日頃の練習不足をタナに上げて、「見事」ととは言いがたいものの、全作品を展示した会場の雰囲気は過去最高で、30近い作品のレベルはけっして高いものではありませんが、久々に壮観となる作品展に仕上がったと思います。
 
 4日には高野山行きを予定していましたが、「連休中にビラを配布終えたい」と言うボランティアの声に、3日からは「福祉有償運送」のPRチラシを配布する事となり、自身の会報もできていない事から、行楽とは無縁のゴールデンウィークとなりそうです。
                                      5月1日の一言

名古屋開府400年記念特別展へ

 本日は名古屋市博物館で開催されている「名古屋開府400年記念特別展」(3月7日まで開催)の中に展示されている、「横井庄一」コーナーにグアム島から持ち帰った洞穴生活での生活道具を見学するために出かけました。

 本日は横井記念館の館長(夫人)と、我家の分家にあたる2人(共に大鹿さん)と、昨年までボランティアを務めたTさんの5人で出かけたが、横井さん以外の展示品から故郷との縁を探す私たちを待ちきれず、横井さんの生活用品だけが目的の館長は時間ばかりが気になります。

 横井さんがグアム島で使っていた生活用品は、半分をグアム島に残し(記念館があります)、自分で持ち帰った半分(衣類やナベなど)を名古屋市に寄贈したため、横井記念館にはグアム島での生活用品は残されておらず、保存する博物館も常設展示しない事から、親族でもこんな機会しか見ることができません。

 さて、横井記念館にも帰国後に本人が複製した機織り器がありますが、当初複製して博物館に寄贈した機織り器に不満があった横井庄一さんが作り直して交換して持ち帰った物だけに、博物館の機織り器は見事で機織りの原理も説明する必要がなく見るだけで判ります。

 「こんな物を見てしまったら、明日からは説明ができません」の一言が出ましたが、記念館を自分達で開館していく計画があったならば、名古屋市博物館には寄贈はしなかったと思うとともに、一旦寄贈を受けたら夫人にも現物を見せない事から夫人は何度も足を運びます。

 見学が終わり隣接する休憩所で珈琲を飲み、帰りは早く帰りたい事から都市高速を走り、わずか15分で記念館に到着となりましたが、「上がってお茶でも…」の一言が、「大鹿さんの好きなバナナ」から「ヨーグルトも…」となり、津島市に帰った頃には日が落ちていました。

 実は明日も記念館は開館となりますが、議会の開会も近く、市民病院の講演会もある事から、途中退出する予定を立てていたものの、珈琲からバナナ、ヨーグルトとなり、「なんなら、うどんでも…」となった事から明日は記念館にカンヅメの一日となりそうです。
                                2月20日の一言

写真展から新たなスタート台へ

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写真は中沢義直さん(プロカメラマン)

 明日には準備を続けてきた「人にやさしい街づくり」地域セミナーが開催されますが、私の写真展も明日が最終日で最後の土曜日である事から、主催者の不在は心苦しいものがあります。

 本日も横井庄一記念館の館長(横井夫人)が午前10時に訪れるとは聞いていたものの、私の訪れる午後2時か3時まで待たせてはいけないと昼に訪れると、やはり予感どおりに私を待つつもりで近くの親族とともに会場に座っていました。

 上高地の写真については、私の大好きな写真家「中沢義直」さんが、毎年見事なカレンダーを発行されており、私のパソコンの前に張り出されているだけでなく、過去の分も全てが保存(100枚以上)してあり、このカレンダーを頼りに撮影すれば見事な上高地が撮影できそうです。

中沢義直↓↓
http://www.shirakabaso.com/nakazawaprof.html

 しかし、私が写真展の作品に選んだ14点の写真は、そんな絶景とは程遠く、よほどの上高地通の人でないと撮影した場所すら判らない地点から撮影されており、来場者の多くが私と共に上高地を訪れた経験があるものの「これは何処なの?」との質問となります。

 つまり、人に見せるために撮影された写真ではなく、私の上高地のこだわりの行動の中で写った景色で、上高地を代表する「大正池」や「河童橋」とは無縁の森や川で、私の大好きで居座る場所から写った景色ばかりでした。こんな私の上高地のこだわりやクセを知る金久さんは昨年秋に亡くなりました。

 今回の写真展は昭和63年からスタートした朝日旅行友の会の同窓会のようなもので、上高地のこだわりから、最近の四国遍路に飛び火して、新たな旅の話題に発展し、私の新たな目標や心のリフレッシュになりました。
                                  1月29日の一言
追伸
5月3日(月)から8日(土)まで恩師や仲間と書道展開催も決まりました。

■略歴 中沢義直(なかざわ よしなお)
 1992年(大正11年10月1日)、安曇野、梓川村、倭(現:安曇野市梓川)に生まれる。1950年頃から山岳、スキー、風景などのプロカメラマンとして活躍。シャモニ世界スキー選手権、インスブルックおよび札幌冬季オリンピックの取材特派員のほか、ヨーロッパ各地、カナダ、アメリカ、東南アジア、南太平洋などで写真や映画の取材を多く重ねる。 在京40年の写真生活の後、大好きな常念山麓の堀金村において写真と映画制作のかたわら、中沢写真学校を開設、後進の指導、育成をしている。信州映像舎代表。主な著書に、『堀金村生活記』(山と渓谷社)、『安曇野の風』(プラルト)、『長野冬季オリンピック白馬村記録写真集』(白馬村)、『上高地永遠』(信濃毎日新聞社)、『回想 茅葺の家』(プラルト)などがある。 記録映画としては、『わが山常念山脈』が代表作。

写真展の作品を搬入して

 本日は来週月曜日から土曜日まで開催される私の写真展「上高地の十年」の飾り付けに、会場となる西愛宕町にある茜屋(あかねや)さんに作品14点を搬入しました。

 私にとっては仕事の延長で「高校野球写真展」を開催して以来十数年ぶりとなる写真展で、今回の写真展のため久しぶりに前回の写真を取り出そうとすると、額のガラスと写真の表面が引っ付いてしまっており、残念に思いましたが全て破棄することになりました。

 さて、何度も経験した高校野球の写真展と違い、風景など芸術的な写真とは無縁で、今回の作品も発表するために撮りだめた写真ではなく、平成11年から続けている上高地行きで趣味で残した作品で、芸術センスの無い自覚から写真経験豊富な知人に選択してもらいました。

 「茜屋さんに行くにはどうしたら良いのですか?」
 「保健所はご存知ですか?」
 「津島の駅の近くですか?」
 「天然温泉の湯楽はご存知ではないですか?」
 「????」
 「ところで、どちらから来られるのですか?」

 地元紙中日新聞の催しガイドに紹介された事から、一宮市に住む上高地ファンという人から問い合わせがあり、はじめて写真展として来場される人への責任を感じるとともに、黙々と私の写真を展示されていく茜屋のマスターの背中を見て、有る物から選ぶだけでなく、もっと真剣に四季のバランスや、作品の構成を考えるべきだったと思っても、時すでに遅し…

 「おい、何で看板にあんたの名前が書いてないの?」
 「売名行為みたいでしょう」
 「だって、来た人に誰の作品か判らないだろう?」
 「そうだけど…」

 議員が公然と名前を出すのは厳しい制約があるのでマスターに説明していると、「そんな能書きは世間には関係ないの」と、展覧会の看板に私の名刺を貼り付け、お店の前にある作品展の看板に「大鹿一八写真展」とマジックで書き入れられました。

 写真展は来週からですが、写真展を勧められた茜屋のマスターは勿論ですが、本日の作品搬入に至るまで複数の知人に多くの写真からリストアップしてもらい、本当に安い写真屋さん(トリミングした四つ切が540円)へ付き添って紹介してもらって本日に至りました。そして、30年前に仲の良かったライオン写真館の長谷川さんによって、安価に40本もの額を入手していた事も気軽に作品展の決断となった事から、作品としては未熟でお粗末ですが、多くの人々の存在を実感して茜屋の会場を後にしました。

 一方で、写真については高校時代から暗室作業までしていた衆人承知の趣味でありながら、仕事の高校野球写真展以外では初めての写真展となる事から、これからは趣味として旅先や四国遍路の素晴らしさを芸術作品として紹介したいと、新たな楽しみももたらしてくれました。
                                 1月23日の一言
上高地の十年↓
http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage109.htm

短い正月休みが終わり

 今年は3日が日曜日のために、4日から仕事のお店や会社も多く、家内も本日から仕事のために出勤していったが、6日が日曜日であったなら正月気分もひじょうに長く感ずる事ができたのではないでしょうか。

 来年は2日が日曜日となっており、6日が日曜日になるのは3年先の事となりますが、この年の12月28日が土曜日のため、市役所は1月5日の日曜日まで9日間の休みとなる事から、勤める職場の労働環境によって、祭日の曜日は大きな影響を及ぼすように感じます。もっとも、3年後までに議員の任期が切れることから、私の3年後の身分は不確定でもありますが…

今年のカレンダー↓↓
http://www.himekuricalendar.com/calendar.cgi?year=2010&weekstart=0

 さて、本日から市役所の業務がスタートしましたが、本日正午が「議会だより」の原稿締切日となっている事から、原稿は電子メールで送信してあったものの、その基となる会議録は届ける必要があり、本当に私の正月気分も本日で消え去りました。

 今月は議会としての日程は消防出初式や成人式など行事参加程度でほとんどありませんが、私個人にとっては23日から「上高地の十年」と題する写真展が迫っており、30日には午前と午後に愛知県のセミナー事業を2件抱えている事から、議会開催月よりも忙しい1月となりそうです。

 もっとも、写真展にしてもセミナーについても、実施すること自体は難しいものではなく、準備や打ち合わせの忙しさはあっても、その日までに間に合わせれば済む問題であり、一番肝心で難しいことは実施する会場までいかに一人でも多くの人々に来場してもらうかにあります。

 特に地域セミナーについては、テーマが「人にやさしい街づくり」とか「心のバリアフリー推進事業」だけに、興味本位で参加してもらえるテーマではなく、案内する対象すら見極めが難しく、参加人数にこだわると役所関係者の「やらせ」参加者によって席を埋める不本意な運営となってしまいます。

 写真展にしても、過去に「高校野球写真展」は数回開いた経験がありますが、この時は趣味というよりも主催する新聞社の都合で開催しており、趣味としての写真展は初めての経験となり、どんな人に案内するのか見当もつかず、案内しても会場に居れないことから頭を痛めます。

 本日の夜には、定年退職後の第二の人生をスタートした知人の訪問をうけ、特定非営利活動法人「矢作川自給村稲穂の里」事務局長との名刺を渡され、私の憧れのような活動だけに羨ましく思うとともに、私の悪い癖で、自分自身を忙しくしてしまう思いも頭をめぐらせてしまいました。
                              1月4日の一言

知人の新聞記事の記録と全国に発信を

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 恒川一三さん(59)写真上=津島市 2009年03月20日 朝日新聞
「6時間耐久マラソン落語会」を主宰
「演じる人によって落語のおもしろさに違い」
 「尾張津島藤まつり」が、津島市宮川町の天王川公園で4月25日~5月6日に開かれる。まつりを盛り上げるさまざまなイベントも期間中に併せて実施されるが、その中の一つ、津島神社に近い舟戸町にある瑞泉寺の本堂では5月4日に、「6時間耐久マラソン落語会」(入場料千円)が今年も開かれる。
 落語会では、常滑市や半田市など県内各地や三重県や大阪府のアマチュア落語家約10人が午前10時から午後4時まで、1人で1~2話を休憩時間もなく演じ続ける。長時間なので観客は出入り自由だ。おやつや清涼飲料水を自前で持ち込む人もいる。今年で5回目を迎え、「ぶっ通しで演じるので聴衆も大変ですよ。販売する弁当を食べながらビールや酒を飲んで最後まで聴き入る人もいる」という。昨年は13人が演じ、延べ約400人の観客でにぎわった。
 「出囃子(で・ばや・し)」はこれまでCDで流していたが、今回からは太鼓と笛、三味線の生演奏で気分を盛り上げることにしている。「やっぱり、『生』はいいですよ。演じる方も聴衆も独特で軽快なお囃子に乗りますからね」と話す。問い合わせは、恒川さん(090・3256・0438)へ。

写真中・下は落語家「浪漫亭砂九」さん 
〇砂九さんから受け継がれる灯に↓↓4月12日の私の一言
http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/39861992.html

 過去に報じられた朝日新聞の記事を探していたが、日時の経過によって削除されており、いつか紹介しようと考えていただけに残念と思い、今年の地域版を検索していたところ、添付した恒川さんの記事を見つけ、記録しておかないといずれは削除される事と全国への発信のためここに添付しました。

 私と恒川さんがいつ頃に知り合ったのかは定かではないが、私がかつて発行していた朝日新聞のミニコミ誌「ふるさとアサヒ」20号(平成2年12月発行)の人物紹介に登場しており、当時から風貌は変わらぬものの、立派はヒゲは当時は真っ黒だった事から歳はごまかせない(笑)

 当時の記事には印刷屋さんの二代目として紹介していますが、当時から「お祭り好きだし、何でもおもしろい事をやってみたい」と語り、「バカと思われてもいいじゃないか。何かとっぴょうしもない事をやってみたい」と取材時に語っていた。

 恒川さんのお祭り好きとレパートリーの広い交友関係が、最近では地元のケーブルテレビ局でも名物となるコーナーを持ち、真面目なゴミ環境問題から観光ボランティアやイベントにまで重要な人物となり、私もエールを送った事はないが、過去に記事にした人物だけに活躍を誇らしく思っています。

 添付した朝日新聞の記事も、彼と落語家「浪漫亭砂九」の出会いがあって発展したイベントだけに、更なる活躍を祈るとともに、もう還暦を超えておられることから健康で「名物爺さん」になるまでの長寿を願いたい。

 淋しい事は、ミニコミ誌に紹介した当時には、同世代で色々なジャンルで活躍する若者が多く存在していたが、最近では仕事や商売ぬきにイベントを企画する若者が出現していない事でもある。そんな私も当時は大金を投じてミニコミ誌を発行し、釣り大会やイベントを企画していたんですが…
                                12月21日の一言
追伸
明日は議会最終日です。老眼のため委員長報告の原稿が気になります(メガネをかければ済む事ですが、かけない事もこだわりです)
 

砂九さんから受け継がれる灯に

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 今年で12回目となる茜屋寄席が津島市西愛宕町の茜屋(珈琲屋)で本日開催されました。出演は竜宮亭無眠さん、南遊亭栄歌さん、若井家かもめさん、若鯱亭夢輔さんの4名でしたが、開演の1時間前から満席状態で、関係者は立ち見状態での盛況ぶりでした。

 この茜屋寄席(あかね寄席)は、3年前に亡くなった故・浪漫亭砂九さんが茜屋のマスターとの出会いによって始まり、9回目までは砂九さんをリーダーとしていましたが、砂九さんが亡くなったあとは盟友の竜宮亭無眠さんをリーダーとして今年に至っています。

 5月4日(祝)には竜宮亭無眠さんをリーダーとする社会人落語「落語の会」のメンバーを中心として、14人のメンバーが出演する『六時間耐久マラソン落語会』が、津島市舟戸町にある瑞泉寺本堂で開催されますが、これは津島市の「尾張藤まつり」の行事に組み込まれています。

 砂九さんは不在となりましたが、砂九さんがたった一人ではじめた落語の灯が、仲間の参加によって年々盛況になり、幅広い活動や企画が登場しますが、私は砂九さんが亡くなる年に個人的な相談も受けていた事から、未だにその陰を引きづり参加への一歩が踏み出せません。これが私の性格なんですが…

 「おい、これから隣へ行くから」、「えっ、私も?」、「そう、そう」、「次の予定が…」、「何をごちゃゴチャ言っとるの」、「何も手伝っていないのに」、「黙って来れば良いの」と、茜屋のマスターの一言で、私も隣にある津島唯一の天然温泉での打ち上げに参加させていただきました。

 見事な落語会の後だけに私の心の中にある「砂九さん」を封印していましたが、さすがに一緒に落語を競っていた仲間だけに、砂九さんの生前の思い出話となり、砂九さんが目指していた落語の話となった事から、砂九さんの語った言葉が話題になり、私の時間も3年前に引き戻されました。

あかね寄席関係の私の一言
17年3月20日 http://www.clovernet.ne.jp/~oshika18/contents17.htm#17320
18年3月19日 http://www.clovernet.ne.jp/~oshika18/contents19.htm#18319
19年4月8日 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/17657255.html
20年3月16日 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/31293526.html

浪漫亭砂九さんのホームページ・勉強会、周りの人々などに私の足跡も…
http://www.clovernet.ne.jp/~sunamaru/

私と歩いた出前寄席の記録
http://www.clovernet.ne.jp/~oshika18/newpage14.htm

 さて、出演者で紅一点のかもめさんを除く3人と、運営に関わった4人(私はオマケ)を残して、マスターは明日の仕事の準備のため先に退席。そう、今日は今日で、明日からは仕事が待っている。こんな割り切りができない反省と、砂九さんを回顧する一日となりました。
                               4月12日の一言

本日は反省会のハシゴです…

 本日は8日に実施された海部地方総合防災訓練のボランティア支援本部立ち上げ訓練の反省会が、海部総合庁舎(元海部事務所、現在名は県民サービス○○とか、出張所とか名前が変わり続けて正式名称は判りません。勉強不足と言われそうですが、県の都合に振り回された名前を覚えるつもりはありません)で開催され、海部地区9市町村の職員も参加して連携が図られました。

 さて、本日はこれから神守丈友会(書道会)の反省会があり、出掛けるために一言はこのままか、帰宅後の書き込みになります。反省会も様変わりで、かつては会食に飲酒が伴いましたが、恩師も闘病生活中でありますし、我々にも車の運転が必要な事から、お酒の無い真面目な反省会になりそうです。

 個人的には公共交通や移動手段が整備され、車がなくても自由に地域を行き来できる社会の実現を望みたいですが、難しい事から、地元より簡単にバスで行き来できる名古屋の方が身近な社会が続きそうな気配でもあり、名古屋の多種多彩な中から選択した方が魅力もあるのかもしれません。議員の立場では言い辛いですが、名古屋市の延長線にある事を視野に、地元に固執しない街づくりの方が、市民のニーズとなりつつあるのかもしれません。

 さあ、帰ってきましたが、アルコールのない反省会は終わりも早く、恩師を送り届けて帰宅となったが、肝心の書の話は何もなく、私は月末にも作品を出品するものの、世間話のみの食事会となる反省のない反省会となりました。

 私が反省すべきは、やるべき仕事が遅れている事で、会報(議会報告)の発行はもちろんだが、NPOの手続きなど残された仕事が山積しており、議会が終了した後にも遅れた仕事の後始末に追われる日々が月末まで続きそうでもある。
                          6月17日の一言

紙の良し悪しが作品の決め手に…

 本日は午前中から月末に出品する「般若心経」の写経を仕上げていたが、一枚の写経を書き上げる事の大変さを実感する事となった。元々が筆は右から書き込むと乾ききらぬ筆跡がにじむ事から、左から書き込んだ方が自然であるが、この事を「般若心経」に当てはめると、御経の後ろから書き込むこととなり、なぜかしっくりとこないのでもある。

 右から書けば書き込んだ文字が乾くのを待つ必要もあるが、262文字といえども下手なりに真剣に書くとかなりの時間を必要とする。「こんにちはー」と、階下から聞こえる来客の声に中断され、間をおくと次の一字がおかしく、せっかく完成しても用紙がきれいにはがれなかったり、最後の署名に失敗したりと…

 過去にも多くの「般若心経」を書き入れたが、ただ黙々と書き込んだだけで、人に観てもらおうとは思っていないから、一字一句の良し悪しは考えもしなかったが、考えれば完成は至難の業と思われてきた。
 一方、今までの人生で、一番多く書き込んでいる筈の自分の氏名が思うように書き込めず、般若心経は心を込めても名前の書き込みでぶち壊しとなってしまいます。

 「とにかく、下手なんだから、何でも良いわ」と、展示する宿主の言葉を素直に受け止め、2枚の完成品が仕上がったものの、どちらも欠陥が気になり選択ができず、落款を押すことができず、恩師へ連絡して決めてもらう事にしました。

 「こっちが良いわ」と簡単に決まったが、私自身はもう1枚の方が気にいっており、「どこが違うんでしょうか」と訪ねると、「紙が違うわッ」との一言が。つまり、文字の良し悪しよりも、書き込んだ用紙の材質の良し悪しが優先して発表する書が決定したのでした。

 突然の訪問にも関わらず、恩師が表装する店に同行すると言われたために、「予定があります」とも言えず、急遽名古屋まで走る事となったが、仕上げまで2から3週間は欲しいとの店側に、一週間後には出品する予定から、何度も通いなれている恩師の言葉で間に合わせてもらえる事となりました。

 「先に料金を支払っておいてよ」との恩師の言葉に素直に随ったが、これが信用の一歩との事で、仕事を依頼しても完成品を取りにこない客も多いようで、金にならない作品を抱えて店が泣かされる例も多いそうである。
 さて、「帰りはどこかに寄るの?」と恩師の一言。「この後は○×の予定が…」とも言えず、「サービスの良い店をみつけました」と珈琲タイムの後に、弥富市役所まで走る事となりました。

 それにしても、私の書の腕は成長がみられず、4月に発表した書を恩師に見せたところ、「そりゃー、そっちの方が良いわ、そっちにするか」と言われ、「せっかく書いたんだから…」と決まった作品も、用紙の材質が決め手となっており、書道展に発表するレベルには達していない事の証でもあった。
                               6月16日の一言

尾張弁辞典が届きました…

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 昨日の新聞に「尾張弁辞典」が出版されたとの記事が紹介されていた。筆者は隣の愛西市在住の伊藤義文氏で、私とは20年来の知人でもあり、懐かしく記事を読んでいると夜には事務所まで訪問を受けた。

 10年以上も会っていなかったが、旧知の人物が相変わらず頑張っている情報は心強く、発行された本を購入したいと考えていた所に、「大鹿さん、買ってください(笑)」と訪問され、「待ってました」と限られた時間ではあるが、懐かしさから暫しの談笑となったが、尾張弁辞典(写真の一番左の本)は我々尾張人にとっても忘れられている言葉が掲載されており、貴重な価値があるので是非お読みいただきたい。

 ※『精撰・尾張弁辞典』ブックショップマイタウン発行・定価2000円電話(052)453-5023

 20年来の知人と記したが、伊藤さんは平成元年にも「海部津島の方言」(非売品・写真中)を発行されており、その当時に私が発行していた「ふるさとアサヒ」に紹介するとともに、シリーズで方言を借用させてもらっており、平成8年に発行された「ザ尾張弁」(写真右)に続く3冊目の本の発行でもあった。

 ※ふるさとアサヒ・昭和63年9月から平成5年まで朝日新聞読者を対象に23号発行(一応休筆中・休刊)

 そうやって思い出していくと、私の発行していた「ふるさとアサヒ」には、当時活躍された人々の様子が記録されており、今となっては手元に1部ずつしか残されていないが、今は亡きランカ堂写真の高橋さんが所蔵された大正時代の写真から、高橋さんが津島市の人々を訪問されて残された記事や、「野武士」と言われた津島市議会の成瀬昇氏の回想録など、自己満足ではなく歴史の一瞬が散りばめられていた。

 「もうこの本で最後だよ」と言われたが、伊藤さんはまだ63才であり、更なる言葉の記録に励んでいただきたいと思うとともに、私も休刊中の「ふるさとアサヒ」を復刻したいと思えてくるのでもある。今年は、書道展への出品と、夏の高校野球の写真展も視野に入れてあり、「あんた、そんなに大丈夫」と知人に言われる一日となった。
                                5月14日の一言

本日の横井庄一記念館から

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 午後一時半、床の間にかけてある掛け軸『竹』を眺め続けながら携帯電話での一枚。今年はこの掛け軸がかけてあります。

 本日の話題は何と言っても大相撲の千秋楽での優勝がかかった横綱朝青龍と白鵬との一戦ではなかったか。記念館の終了時間が午後4時半だが、来場者を送り出してからボランティアのTさんを自宅に送り、何とか千秋楽の結びの一番に間に合いました。

 2場所連続で横綱どうしが千秋楽に優勝を争う展開だが、絶好調と思われた朝青龍が終盤に連敗し、4場所連続優勝を狙う白鵬の余裕漂う中で、緊張感すら感じさせる朝青龍だったが、すばやい勝負勘から一方的に白鵬を土俵外に投げ捨てて優勝を決めた。

 不祥事による出場停止もあり、しばらく優勝から遠ざかっていたが、逆風の中で足首を痛めながらも見事な優勝を飾り、優勝インタビューでは涙もにじませたが、連敗した2日間を除いた取り組みは、相手に相撲を取らせぬ一方的な内容に、久々の朝青龍の笑顔を見てストレスも吹っ飛んでいった。

 ことあるごとに発言や行動が問題とされるが、私は自分の気持を正直に発言する朝青龍が、いまだに20代の若者である事と、私の子供達と同じ年齢である事を考えると、マスコミや評論家が求める横綱の品格よりも、はみ出しても正直に行動する姿を応援したい心境にある。

 「この相撲でくやしい思いを晴らしたかった」との言葉に、朝青龍の半年間の苦渋の心境を垣間見たが、情けないのは負けても悔しさを感じさせない日本人力士にある。

 それにしても相撲界の外国人力士達は相撲界に順応するだけでなく、来日して間もないものの日本人と変わらぬ言葉使いで応対し、英語や母国語しか話さない野球選手やサッカー選手より、心掛けが立派である事を我々は評価すべきではないだろうか。

 さて、朝青龍の優勝回数は22回となり、一代年寄りとなった貴乃花親方の優勝回数と並んだが、27才の年齢を考えるとまだまだ優勝回数を重ねる可能性も高く、マスコミや評論家にも自分の子供達の親不孝な言動を思い出し、相撲本来の可能性に脚光をあててもらいたい。
                              3月23日の一言

東国原宮崎県知事の発言から…

 宮崎県の東国原知事が地元の若手建設業者との懇談会で、「徴兵制あってしかるべき」と発言し、真意を問われた記者団にも自分の持論として撤回もしなかったと報じられている。(下記参照)

「徴兵制あってしかるべき」 東国原知事が持論展開
2007年11月28日20時53分 朝日新聞 http://www.asahi.com/politics/update/1128/SEB200711280014.html
 宮崎県の東国原英夫知事は28日、宮崎市の知事公舎であった若手建設業者らとの懇談会で「徴兵制があってしかるべきだ。若者は1年か2年くらい自衛隊などに入らなくてはいけないと思っている」と述べた。記者団に真意を問われた知事は発言を撤回せず、「若者が訓練や規則正しいルールにのっとった生活を送る時期があった方がいい」と持論を展開した。
 懇談会には県建設業協会青年部の地域代表ら12人が参加。若手の育成方法などが議論になり、知事が個人的意見として語ったという。
 懇談会の終了後、知事は「道徳や倫理観などの欠損が生じ、社会のモラルハザードなどにつながっている気がする」と言及。「軍隊とは言わないが、ある時期、規律を重んじる機関で教育することは重要だと思っている」と語った。

 あまりにも突発的に思える発言だが、真意は「軍隊とは言わないが、ある時期、規律を重んじる機関で教育する事は重要だと思っている」の部分から、「徴兵制」を差し引いてもそれなりの評価をしたいと思う発言でもある。

 今更、自分の過去を振り返ったわけではないが、私は高校時代に財団法人道徳科学研究所(現モラロジー研究所)が開催した2週間の概要講座(合宿生活)を2回受講している。近所に熱心な関係者があり、再三の勧めによって受講したのだが、当時の受講資格が20歳以上になっていたものを、当時の関係者のはからいで年少のまま参加させてもらっており、最近になって母親から「何としても参加させて欲しいと頼んだ」結果である事が告げられた。

 当時の自分は、毎年繰り返される「右足骨髄炎」の再発で、高校を落第し続けるだけでなく、非行に走り、舞台を高校から社会に求め、日中から遊んでいる友人から暴力団に関係する先輩や、任侠の道にあった大人に憧れており、学校からはみ出し暴力や単車の無免許運転、タバコ、ボンド(シンナーと同じ)と親を困らせ続けていた。

 落第して、有り余る時間があった事からこの講座を受講し、高校2年目が終わり、反省もなく退学が確定的と思われていた時、「大鹿の怒りは何かを訴えたくての行動ではないか。もし、やり直す気持ちがあるのなら、ボクのクラスで一からやり直してみないか」と言ってくれた恩師と出会い、ここから高校5年生が始まったのでもあった。

 この講座を受講し、自身を省みる事がなければ、屈辱の高校1年生からのやり直しはありえず、子供の処遇に困っていた親や、近所の人々の救いが今となっては有難く感じるものであるが、この経験は今の若者にも生かしたい。

 私の父親は満鉄から戦後は名鉄の鉄道員であったが、私には経験がない「同期の桜」と言うか、「同じ釜の飯を喰った」仲間が多く存在した。若い時期に一緒に汗を流した仲間の存在は一生の宝となり、個人の身勝手な行動に走る前に良き相談相手ともなる。

 今回の東国原知事の言葉とは意味も違うが、無秩序に人が殺され、高齢者が騙されて金を奪われる世相にあって、何が善で何が悪かとまでは言わずとも、世の中の規律や秩序を学ぶ場所は重要でもある。現代の学校教育ではこのような機会はなく、罪を犯さないと学ぶ機会もない現状から、発言だけに終らせず宮崎発で是非実現させてもらいたいものである。
                                 11月28日の一言

一抹の淋しさも寒波とともに…

 本日は久し振りの日差しが差し込んだが、午後からは膝が痛くなるような寒さの一日となった。「おい、こんな暖かい日に何をしてるのッ」とボランティアを送り出したが、配布して帰る頃には日差しが消え、寒々とした夕方を迎えていた。

 今晩開かれた書道教室「神守丈友会」には、指導する後藤先生が急遽欠席となり慌てて手本を取りに走ったが、その際に10日前に行った上高地の写真を置いておいたところ、戻った教室から写真が消えていた。
 「先生が目にされたら困るでしょう」と、先生の欠席を知らないメンバーが慌てて隠したのであったが、そもそも恩師に言わずに出かけた事がうしろめたい心境にさせられ、悟られないようにするのは大変でもある。

 もっとも、私はこの一言に写真まで掲載して詳細を記しているので、後日談として語っても差し支えがないし、元々が恩師の体調を気遣って話さなかったのであるから、判ったところで何ら困る事ではないのだが、もっと困るのはメンバーの全員に伝わっていなかったことである。

 毎週の書道会で「何所かに行こうか」と話しながら、今回の上高地行きが決定したのであるが、恩師にも知らさない企画ゆえに、長期欠席のメンバーにも伝えておらず、このことがメンバーからメンバーに伝わっていたとの話に、今となって後悔の念を残すところとなったのである。

 平成6年に始まった書道会であるが、病気で去ったメンバーや家族の介護が必要になったメンバーもあり、はじめに指導を仰いだ長谷川先生は介護施設にあり、現在の後藤先生が昨年ガンの手術を受けられたことから、指導者なき教室の出席は悪くなり、半年後に復帰はされたもの数人の固定メンバーで会が存続している状態にある。

 我家の2階を使っていることから、忙しくても欠席することなく続けられてきたが、そろそろ今後の展開を検討すべき時期になったのかもしれない。もちろん存続を前提にしての話であるが、かつては人を募って観光バス一台で出かけたことを考えると、淋しさばかりではなく、趣味として書を続けるためにも幅広い人への呼びかけが必要でもある。

 せっかく10年以上も続けられた会であるから、より永続性のある書道会として充実させていかないと、書道と一緒にした会の目的である旅行や食事会も淋しい慰め会のように感じられてしまうのである。高齢で病気と隣り合わせの恩師に今以上を期待する事は難しく、恩師が不在でも熱心に続けられる会への変革が求められているのかもしれない。

 ただし、恩師の不在を材料に早々に珈琲屋に移動することも神守丈友会の魅力かもしれず、それよりも出かけた近所の珈琲屋の淋しさの方が気にかかり、何度も経営者が代わっていることから「貸切だなあ」とは言いながらも、寒さも手伝って淋しさばかりを感じる一日となった。
                                    11月20日の一言

砂九さんに聞かせたい演目

 一年ぶりとなる『あかね寄席』が、本日、津島市西愛宕町にある珈琲茜屋で開催された。今年で10回目となる落語会であるが、寄席の源となる『浪漫亭砂九』さんが昨年11月に亡くなっており、一抹の悲しさも感じたものの、仲間の熱演により会場は笑いの渦となった。

 出演は、盟友である『竜宮亭 無眠』、『南遊亭 栄歌』、『道落亭 かね平』、『若鯱亭 夢輔』の4名であったが、演目の「つる」や「代書屋」は、生前の砂九さんから何度も聞いていたため、演者に砂九さんの面影を探してしまうのでもあった。

 しかし、砂九さんが不在となった今年の寄席は、「砂九さんに聞かせたい演目で話してほしい」との注文があったためか、例年以上に気合が入った落語が続き、プロ顔負けの話術の高さを実証する落語会となったのでもある。

 「おい、オレの出番が無いじゃないかぁ」と、天国の砂九さんが呟きそうな見事さに、彼がタネをまき続けてきた落語文化が、確実に地域へ根付いている事も実感させられた。

 さて、「〇△さんに言われて来ました」と、選挙に立候補中と思われる人物が会場を訪れた。ただし、顔が笑えない。本日は投票日だから、選挙運動とはいかないが、落語会は落語を純粋に楽しむ人々が集まっており、目的をはずれた参加には奇妙な違和感が残されたのでもあった。

 一週間後は自分自身が選挙の候補者となり、一般市民の評価を仰ぐ立場となるが、違和感のない自然な選挙に徹したいものでもある。
                                  4月8日の一言

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