大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

その他祝日、記念日、年中行事

我家の世代交代にお祓いを

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お祓い直前の事務所 19日

 6月に接骨院を開業する三男のため、昨日は神職にある御嶽教の先達さんに事務所と、事務所横にある樹木のお祓いをお願いしました。事務所のある1階の3室は全て施術室になるため、私の書庫や机など備品一式を2階に移動させる仕事が必要になり、私が植えて大きくなった木々を低く伐採することも求められています。

 知らない人から見ると「オカルト」のようなイメージですが、正面の壁には「弘法大師」のポスターと、四国霊場会の「先達証」に善通寺管長の「色紙」だけでなく、遍路道具の菅笠や金剛杖があるためで、左は個人的な趣味である「上高地」の暖簾と、「拓道在志」の額は海部元総理に頂いた書です。
 この中では、海部元総理の書のみがそのまま残りますが、この壁には23年間生業とした朝日新聞社のカレンダーとともに、趣味の上高地と四国遍路、政治の一端がそのまま残されてきました。これも、しばらくで終焉を迎えます。

ショーンさん、声震わせラジオで謝罪 経歴問題で休業

 社会面で大きな話題となっているショーン川上氏の経歴詐称事件ですが、人が成功して表舞台に立つと必ず汚点を探す週刊誌の体質にはうんざりするものの、自分の過去の経歴と学歴を偽って長期間にわたってマスコミに登場していたことに驚きが隠せません。

 当初は表現上の記載間違い程度に思っていましたが、「ニューヨーク市でアイルランド-アメリカ系日本人の父と日本人の母の間に生まれ、11歳の時に日本に渡り、高校卒業まで日本で過ごした」という経歴は、生まれてから高校卒業まで日本で生活していたと判り、学歴が全くの嘘で、大学にも入学していなかったとの報道には、休業する前に本人が正確に説明する必要を感じます。

 今回の事件について同情的な論評が多いものの、学歴が無くとも頑張っている人々の存在を考えると、経歴を詐称して語った発言や、嘘の経歴の上に記した著作物などは人をだました詐欺事件でしかありません。

 私自身は学生時代に起業して寝るために通った三流大学の体験があり、東京の有名大学に仕送りを続けた長男と、一年で大学を勝手に退学してしまった次男を回顧し、大学に進学せず接骨院開業で我家を支えていく三男を対比させると、学歴を詐称して売り出した川上氏の人生に寂しさを感じさせられました。

           本日の体重 72、1キロ 徒歩数 6110歩 間食あり
                                      3月20日の一言

尾張津島天王祭が明日に迫り

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 本日の天王川公園です。津島市の天王川公園では明日土曜日の夜(宵祭)と、日曜日の朝(朝祭)に尾張津島天王祭が開催されますが、本日は祭りの主役となる屋形船の飾りつけが行われていました。

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津島市観光協会 http://www.tsushima-kankou.com/

 尾張津島天王祭は、大阪の天満天神祭、厳島神社の管絃祭と並び日本三大川祭の1つに数えられ、室町時代から続いているといわれ、織田信長や豊臣秀吉などの名将にも愛されたといわれています。

イメージ 3 宵祭は、400個余りの提灯をまとった巻藁舟が、津島笛を奏でながらゆうゆうと天王川を漕ぎ渡り、朝祭には津島の5艘に佐屋町市江の「市江車」が先頭に加わり 6艘の車楽船が能人形(能の演目の衣装をまとった人形)を飾り楽を奏でながら漕ぎすすみます   
                ウィキペディア参照

 上に添付した準備中の船が、明日の夜には右上に添付した賢覧豪華な姿に変わり、多くの人々が観覧することになります。一年に一度だけの祭ですが、500年も同じ幻想的な行事が繰り返されてきたことに先人の遺産としての誇りを感じさせられずにはおれません。

 さて、本日は私の上高地好きを知った知人から、「是非とも連れてって欲しい」との連絡が入り、来月に乗鞍スカイラインを走行して、乗鞍岳の朝のご来光を拝んでから上高地入りをする日帰り旅行の日程を決めると、同行する人が複数できたとの電話が夕方に入りました。

 上高地は毎年8月後半に、家族で4日間程度の夏休みとして滞在してきましたが、今年は議会日程が入ったため、我家は8月13日から15日のお盆にお寺の行事があり、16日に京都(五山送り火)に行くことも決めており、お盆前に夏休みとして上高地に行くしかなく、上高地へのピストン移送ともなりそうです。

 私は平成3年から昨年まで、1年だけ行けない年がありましたが、16日は京都五山送り火に出かけており、13日には高野山のロウソク祭があることから、13日から16日を夏休みにしたいものの、13日は旦那寺のご住職と昼食を共にすることが戦後から我家の慣例にされてきたことと、15日はお寺の本堂で「大施餓鬼回向」が行われるため、夏休みの確保ができません。

 こんな過去からの慣例を変えることは簡単なようで難しく、ご住職の引退か私の鬼籍入りなど世代交代しか可能性はありませんが、毎年の行事を500年も継続されてきた津島の人々の苦労を考えると頭が上がりません。

               本日の体重 70、8キロ 徒歩数 8033歩
                                    7月24日の一言

国府宮裸祭のなおいと餅が届いて

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 愛知県稲沢市では、昨日に尾張大国霊(おおくにたま)神社(国府宮)ではだか祭が行われ、裸男約9千人が参道へ繰り出し、参拝者約20万人が見物するなかで、神男(しんおとこ)に触れて厄を落とそうと裸男たちが激しくもみ合ったと報道されています。
 
 祭りの開催日は毎年旧暦正月13日、42歳と25歳の厄年の男を中心に、尾張一円から、サラシのふんどし、白足袋をつけただけの数千の裸男が集まり、神男に触れて自身の厄を落とそうと裸男に集まりますが、なかなか触れることは困難で、毎年多くの人が救急車で運ばれており、天下の奇祭として有名です。
 
「はだか祭」、裸男がもみ合う 愛知・稲沢
 
 本日は家内が昨日行われた稲沢市のはだか祭に奉納された大鏡餅を切り分けた餅と、「なおい」を授かりに訪れ、偶然にも神男と握手をされて帰りましたが、祭り当日だけてなく翌日にも神男に触れるために多くの信者が列をなします。
 
 はだか祭には毎年尾張近郊の地区から約4トンという巨大な「大鏡餅」が本殿に奉納されますが、この餅を祭り本番の翌日(旧暦正月14日)の午前8時から切り分けられて頒布されており、この餅を食べると無病息災の言い伝えがあり、多くの参拝者が買い求めます。
 
 私の家内も本年1月まで稲沢市に勤務していたので、「なおい」と餅を授かりに行く習慣となりましたが、我家全員の車と母親の自転車に「なおい」が付けられ、これが無いと安心できないようになってきました。
 我家は車に付けていますが、多くの人たちは厄除け用のお守りとして、毎年サイフに入れているようです。
 私は裸になって参加した経験がありませんので、下記の動画を見て祭りの臨場感を味わってください。
 
国府宮はだか祭・稲沢市 http://www.city.inazawa.aichi.jp/p_s/hadaka/top.html
国府宮はだか祭・国府宮神社  http://www.konomiya.or.jp/main/hadakamatsuri
 
2月_1日(土)_9:00   儺追神事(はだか祭)標柱建式   旧正月_2日
2月_1日(土)10:00   儺負人(神男)選定式   旧正月_2日
2月_5日(水)_9:00   大鏡餅餅米洗旧正月_6日
2月_6日(木)_5:00   大鏡餅餅搗(おおかがみもちもちつき)  旧正月_7日
2月_9日(日)17:00   儺負人(神男)参籠(なおいにん(しんおとこ)さんろう)   旧正月10日
2月10日(月)_9:00   大鏡餅飾付   旧正月11日
2月11日(火)13:00   大鏡餅奉納(おおかがみもちほうのう)   旧正月12日
2月11日(火)19:00   庁舎神事(ちょうやしんじ)   旧正月12日
2月12日(水)15:00   儺追神事(はだか祭)   旧正月13日
2月13日(木)_3:00   夜儺追神事(よなおいしんじ)   旧正月14日
2月13日(木)_8:00   大鏡餅餅切始(おおかがみもちもちきりはじめ)   旧正月14日
2月16日(日)19:00   的射神事(まといしんじ)   旧正月17日
2月23日(日)_9:30   なおい茶会
 
国府宮裸祭(平成25年2月22日)
 YouTube        http://www.youtube.com/watch?v=ZGYBDH23F-4
 
平成25年 国府宮はだか祭 「神男」 ついに参道へ登場! ノーカット版
  YouTube         http://www.youtube.com/watch?v=hiqV1gBJM7U
 
 さて、年齢を重ねるとともに時間や日時の経過も早く、裸になる年齢も逸してしまい、見物に行く元気もありませんが、3月1日に配布する母校の同窓会報の編集締め切りが迫り、議員活動のアンケート配布も遅れており、昨日から午後は配布に出ているものの、明日は雪の予報が出ていることから、迫る3月にストレスがたまる日々の連続となっていきます。
 
                                     2月13日の一言

祖父江町長岡地区のおびしゃ祭へ

イメージ 1 本日は稲沢市祖父江町の長岡地区で行なわれている「オビシャ」という祭りを見物してきました。家内の在所のある祖父江町神明津の河原地区(神明社)では午前11時に「オビシャ」が行なわれ、午後2時に開かれた神明津の矢田塚(秋葉社)で、家内の家族(家内の姉と孫、家内の兄)が参加するのに同行しました。
 
 聞き慣れない「オビシャ」という祭りで、私の住む津島市では聞いたことのないお祭りですが、長岡地区では神明津だけでなく、鵜之本や拾町野地区でも行なわれており、祖父江町では広範囲で行なわれている祭りです。
 
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 本殿で町内役員や地元選出議員が神主さんとともに神事を行い、神主さんのお祓いが済んだ後の太鼓の音を合図に、本殿裏から一斉に餅や菓子、ミカンなどが投げられます。
 
 小さな村の中の字単位の氏神様ですが、道路は車が数珠ツナギで駐車されており、集まった人々の数を考えると、町内だけのお祭りとは思えません。
 
 「鵜之本に行ったけど誰も居なかった」と、家内らと話していた古老が話し掛けてこられたものの、祭りの事情も何も判らず聞き流していると、遠く離れた祖父江町の上牧から自転車で来られており、昭和4年生まれと言われた事から、私の生まれた在所の伯父(母親の兄)の名前を告げると、同級生であることが判り、私の祖父と古老の親も親しかった昔話を聞くこととなりました。
 
 祖父江町上牧で45年間営業している喫茶店「川」の初代店主で、私の祖父が証券会社に勤めていた事から、古老の父親と株を通じて付き合いがあった事や、伯父が志願して出征した時に、苗字が同じ人物と間違われて配属となり、伯父は無事だったものの、伯父と間違われた人は戦死したなどと、私の知らない親族の昔話も知る機会となりました。
 
 さて、「オビシャ」とは、厄払いのため、餅やお菓子を奉納して、集まった人々に本殿裏から集まった菓子や餅を投げて振舞う祭りのようで、添付した矢田塚のオビシャが終わった後で、鵜之本の神社では更に多くの車が道路に並んでおり、より盛大な「オビシャ」が行なわれていました。
 
オビシャ 定納地区にある白山社 愛知県愛西市二子町松原9(白山社)
 定納地区にある白山社で毎年2月に行われる「オビシャ」は約300年もの歴史をもっています。もともとは満15歳を迎えた若者の元服を祝う祭りであり、神社につくられた高さ約5メートルのぐらぐら揺れる櫓の上から威勢よく餅が投げられ、その下で一斉に餅拾いが行われます。
 度胸試しとお披露目を兼ねたこの日から、一人前の男子として認められます。
 
イメージ 3 「オビシャ」祭りをネット検索したところ、上に添付した愛西市二子町にある白山社の「オビシャ」しか出てきませんでしたが、どうやら同じ形式のお祭りで、定納地区は若者の元服と目的は違うものの、祖父江町の「オビシャ」の方が広範囲で行なわれており、二子町も祖父江町と隣接していることから、旧祖父江町と旧八開村にかけ広範囲に行なわれているお祭りのようです。
 
初午おびしゃ祭  東京都新宿区西早稲田3-5-43水稲荷神社
2つの的に矢を放ち、豊作物の吉凶を占う「おびさ」の祭事
旧暦2月の初午の日に水稲荷神社で開催される、最近の東京では珍しい「おびしゃ」の祭事。福と鬼の文字が書かれた2つの的に矢を放って農作物の豊凶を占い、福を祈る。
 
 添付した花は家内の在所の梅の木ですが、まもなく一斉に花を咲かせそうで、全国各地より爆弾低気圧の降雪が伝わる中で、幸いにも我々の住む愛知県西部では雪に泣かされることなく、春が近いことを予感させられる温かい一日となりました。
 
この一言の満10年までのカウントダウン、あと1日
                                   2月11日の一言

津島市消防出初式が行なわれて

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 本年度の津島市消防出初式が天王川公園で開かれ、津島市の消防本部や市内8分団の分団員など関係者が集まり、開式後に消防殉職者に黙祷の後、分列行進、一斉放水など、例年と同じように厳粛な式典が行なわれました。
 
 その後、日本消防協会表彰など今年度の表彰、訓示、祝辞、謝辞などが行なわれましたが、全国的には厳しい寒波が伝えられる中で、私が議員になって15回の出初式では一番温かい出初式となりました。
 
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 本日は消防出初式の後で、成人式が津島市文化会館で行なわれました。例年の出初式では来賓席かそのテントの周辺にいますが、本日は消防ポンプ車の近くに移動していたことから、多くの知り合いと顔を合わせ、きちっとした写真が無いと話す消防ラッパ隊の写真も写真愛好家に依頼するなど、自分の居場所を再認識するような一日となりました。
 
 一方で、成人式では、議員になってから初めてのことですが、やっと来賓紹介が簡素化され、これまで来賓の個人名を呼び上げ、その都度立ち上がって声を発する「議員の宣伝」と言われそうな慣例が改められました。
 
                                    1月12日の一言
 

敗戦から68年が経過して

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本日の長福寺(浄土宗) 津島市葉苅町
 
 本日は先祖の施餓鬼供養のため我家が檀家となっている浄土宗長福寺を訪れました。訪れたと言っても、イスに座って住職を中心とした7人の僧侶の読経が済むのを待ち、我家の塔婆を墓の前に立ててくるだけで、親不孝の私にはお盆でも仏壇やお墓から何の啓示も感じられません。
 
 日常を楽しみ吉。名所旧跡や宗教的御祈祷で啓示を受けるとの雑誌の占いを数日前に添付しましたが、お寺と縁のあるお盆でも、我家の宗派が浄土宗であるため、非日常とか啓示とは無縁と思われ、明日の京都送り火に期待したいと思います。
 
 京都の五山送り火については、都合で行けなかった平成21年を除いて平成3年から毎年鑑賞に訪れており、平成15年までは観光バスで訪れ、2年間はマイクロバスで訪れたものの、その後は個人か家族単位で訪れるようになりました。
 
 観光バスはどうしても観光になりがちで、多くの参加者の希望に添うため名所や旧跡を訪ねるとともに、夕食場所も確保する必要がありましたが、個人や限られた人々との鑑賞は、嵯峨野渡月橋の近くで日本酒を飲みながら鑑賞したり、京都の知人のビルの屋上から鑑賞するなど、楽しみのバリエーションが増えました。
 
 今年の送り火は、11月に京都でピアノリサイタルを開催するピアニストの佐藤さんの父親と、リサイタルの宣伝をすることも日中の予定に入れていることから、一汗かいた後に涼しく鑑賞したいと思っています。
 涼しく鑑賞する顛末は明日以降の一言に…
 
新藤総務相・古屋拉致問題相、靖国神社を参拝 
 
悼み誓う68年、終戦の日 首相式辞、アジアには触れず
 
戦後68年、遠のく記憶 靖国・千鳥ケ淵の8・15
 
 終戦と言うよりも、敗戦から68年が経過し、本日は各地で追悼式が行なわれましたが、 政府主催の全国戦没者追悼式は東京都千代田区の日本武道館で開かれ、安倍首相をはじめ天皇、皇后両陛下も列席されました。
 
 一方で、安倍首相や主要大臣の参拝はなかったものの、一部閣僚の参拝が中国や韓国の批判も浴びている靖国神社へも、全国から多くの参拝者が訪れており、政治家の多くが戦争とは無縁の年齢層になっていることから、日本軍の犯した戦争の反省が忘れられてはならないと思います。
 
 国のためと信じて戦い、遺骨さえ戦地の土となっている旧日本兵を英霊として慰霊することは重要と思いますが、「1億総玉砕」と提唱し、戦争を長引かせたり、敗戦を予測できる立場にありながら、兵士を出撃させた軍幹部の責任は免れません。
 
 中国や韓国の靖国参拝への反発についても、戦争犯罪人となるA級戦犯が合祀されていることが大きく、私の伯父は2ヶ月早く戦争が終わっておれば死ぬこともなく、戦死した場所も特定できず遺骨もない現状から、国民の最後の一人まで徹底的に戦うと主張していたA級戦犯と一緒に合祀されていることを喜ぶとは思えません。
 
 一度奉られたA級戦犯を分けて奉ることはできないと言う靖国神社については、戦死したことになっていた横井庄一さんについて、戦後から昭和47年まで生きている人間を奉っていたわけですから、ここに神が存在するのかも怪しくなります。
 
 戦争の悲惨さは誰もが十分に判っており、だれもが自分自身や家族を戦争で死なせたいとは思っていないことから、戦争があることも想定する必要はあるものの、戦争を回避することを目標にして、過去の過ちを繰り返さぬ努力と継承が重要と思われます。
 
                                   8月15日の一言

村の野上がりが行なわれて

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 添付した風景は、本日まで三男が住んでいた桑名市の部屋から見える風景(東向き)で、5人家族でも悠々と生活できる広いスペースの部屋を、持ち主のご好意で4月から間借りしていました。
 
 揖斐川に近く、歩いても海に行ける場所にあり、のどかな田園風景がひろがる静かな環境ですが、北を走る名四国道を渡ると生活に必要なお店があり、一度も家を出た経験のない私にとっては、しばらく住んでみたい気持ちにさせられました。三男のおかげで何度も桑名市を訪れることができたことと、桑名市の方々に息子が可愛がってもらえたことに感謝で一杯です。
 
 本日はここから冷蔵庫や本箱を私の車に乗せて引っ越しを完了させましたが、三男はしばらく自転車三昧の生活となり、2年前まで出場していたロード大会に参加できる体力にもどしていきます。
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 本日の夜は町内の「野上がり」が行なわれ、町内の4ヵ所にある観音様やお地蔵様に提灯を張り、酒と肴をふるまって祝います。写真は夜景モードのため明るく見えますが、実際には提灯の灯り以外は真っ暗です。
 
 野上がりとは、 田んぼから野に上がってくる事を言い、水田の田植えが終わった5月末の週末に毎年行なわれる神事で、私の町内では道路に提灯を張って祝っています。
 
 もっとも、農家だけの行事で、近所に子供が存在しないことから寂しさは隠せませんが、字の代表2名が提灯をぶら下げて、町内にある他の3地区の「野上がり」会場を廻り、無事に田植えが済んだことを確認して戻ります。
 
 「久しぶりだなぁ」と、議員でありながら日頃から顔を出していないため、話はつきないものの、提灯のロウソクの火が燃え尽きてしまうため、駆け足で戻りましたが、行く先々で出されるお神酒と肴が気分を良くしてくれます。
 
 昔から村の酒豪は決まっていて、こんな機会には飲みたいだけ飲んでいたようで、私の父親も酒豪のため、飲んでそのまま「お宮」で眠ってしまい、家に帰ってこないため探しに走っていたようです。私にもその血が流れているものの、最近は誰も飲まないため、村の神事も寂しくなりつつあります。
 
                                      6月1日の一言

地元の小学校入学式に出席して

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愛知県では、本日小学校の入学式が行われました
 
 本日は小学校の入学式へ来賓として出席しましたが、完全に年代が世代交代している現実と、まもなく孫の入学式を迎えようとしている現実を実感するとともに、来賓としての議員が軽薄化していないか自問自答する一日ともなりました。
 
 さて、皇室でも秋篠宮家の長男・悠仁さま(6才)が7日、お茶の水女子大学付属小学校(東京都文京区)入学され、次女佳子さま(18才)が8日、東京・目白にある学習院大学の入学式に出席したと報道されています。
 
 皇族が学習院初等科以外の小学校に入学するのは戦後初めてと報じられていますが、秋篠宮家の教育に対する寛容な対応を好意的に見守るとともに、将来の天皇陛下として相応しい人格形成がなされることに期待したいものです。
 
悠仁さま元気に入学式 お茶の水女子大付属小に
佳子さま、学習院大に入学 文学部教育学科に
 
 安倍首相の登場と、春の訪れで浮かれた気分になっていると、台風並みの低気圧の通過により列島各地から被害が報じられており、当面は気候の変わり目の自然災害に注意する必要がありそうです。
 
だんじりにひかれ、中2死亡 兵庫・南あわじ
 
 兵庫県南あわじ市福良の市道で、春季例祭のだんじりを担いでいた近くの市立南淡中学校2年生の男児(13)が転倒し、だんじりに頭をひかれ、約1時間20分後に病院で死亡するという悲しい事故も発信されています。
 
 毎年繰り返される全国の祭り会場から、毎年必ず死者が出る事故が報告され、しばらくは注意されるものの、楽しいはずの祭りの陰で犠牲になる人が存在している現実に歯止めをかけたいものでもあります。
 
 半月前にも火災で燃えた家が近くに存在しますが、本日も隣接するあま市の住宅で火災が発生しており、ぶり返した寒波にしばらくは慎重な対応で、本当に花まつりのような気分になりたいものです。
 
 本日4月8日は「花まつり」の日です。釈迦の生まれた日にあたることから、全国各地のお寺で花祭りが行なわれており、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)など呼び名は様々であるが、キリスト教の生誕を祝うクリスマスとは違い、どんどん忘れ去られようとしている現実を寂しく思う一日ともなりました。
 
                                   4月8日の一言

体調の復調は饒舌にもなります

 やっと先週の旅疲れがとれてきましたが、4月1日から年度が新しくなっていることから、転勤や異動によって新しく着任した人々の訪問を受け、完全休養がとれないために完全復活とは言えないものの、次第に復調していくことが実感させられます。
 
 さて、先週から横井庄一さんの奥さんに、相談したいことがあるから来週早々に来て欲しいと電話があったものの、先週の疲れが取れずに不調のためそのままにしていると、記念館の今後について親族から後継の申し出があったとの電話です。
 
 昨年から夫人が85才になる現実の中で、今後の記念館の存続について相談されていましたが、私自身は大鹿家の長男であり、遠くないとはいえ名古屋市の記念館の維持管理には限界があるためそのままとしていましたが…
 
 横井庄一記念館の土地や建物は、横井さんが跡を継ぐはずだった横井家の遺産ではなく、グアム島から日本に帰国した当時に、全国各地の横井さんを支援する人々から送られてきた善意の基金により購入された土地であります。
 
 子供のいない横井夫人の養子に入って横井姓となって横井家を継ぎたいのであれば異論はありませんが、横井庄一さんの親戚を看板にすれば家業に生きるとか、苗字が変わった人の資産として存続を託すのには疑問です。
 
 横井庄一さんの母親は、後継を申し込んだ家の先人に子連れの再婚者として虐め続けられていた過去もあったことから、悲しい選択を迫られており、私は記念館を個人の所有ではなく、NPO法人化して、夫人や私が死亡してからも30年は存続される事を望んできました。
 
 「NPO法人でも良いけど、大鹿さんが責任をもって仕切ってくれるの」の一言に、「夫人の考えが私と一緒であるならば」と、今週から動くことを約束してしまったので、大きな難題を抱え込んでしまい、家族から「我家の後継も定まっていないのに」と皮肉られる夜を迎えました。
 
長嶋茂雄氏と松井秀喜氏に国民栄誉賞 政府決定
 
 政権の政治利用との批判もありますが、長嶋(元)監督と松井(元)選手の国民栄誉賞の政府発表については、日本のプロ野球人気の礎となったミスターと、大リーグのワールドシリーズで最優秀選手となったゴジラの師弟コンビの受賞に喜びを隠せません。
 
 長嶋監督と松井選手の同時受賞に対して、2人の功績を比較して批判的にコメントを述べている識者も存在しますが、そんな議論をはじめるとサッカーのなでしこジャパンに与えたなら、東京オリンピックの女子バレーにも与える必要があり、女子レスリングの吉田選手の受賞は、同等の記録を持つ伊調選手や水泳の北島選手もとなりますから、受賞者の比較は差し控えるべきではないか。
 
 「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったもの」が国民栄誉賞の基準となっており、比較はできないもののミスターもゴジラも十分な有資格者と思われることから、素直に喜んで祝いたいものでもあります。
 
 もっとも、私自身は、長嶋監督の現役時代からのファンで、松井選手も同様に応援してきたことから公平な議論はできませんが、松井選手が大リーグに去り、桑田、元木、仁志選手が放出された事から、アンチ巨人と言うよりプロ野球そのものまで無関心で生活してきただけに、久しぶりに巨人ファンであった頃の気持ちが甦ってきたようにも感ずる一日ともなりました。
 
                                    4月2日の一言

消防出初式と成人式が行なわれ

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 本日は津島市の消防出初式が天王川公園で開催され、津島市消防本部を始め市内8分団の消防団員が出揃って一斉放水が行なわれました。
 
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 毎年の恒例行事ではありますが、私が議員になったばかりの年は、市長はじめ市幹部が赤いジープの上で敬礼して観閲し、消防本部職員が実際に消火活動をするなど、緊迫感もありました。
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 各地から出初式の様子が報じられる中で、ハシゴを使った昔ながらの伝統的な火消しの技を見せている地域もありますが、時々ハシゴから転落する事故が起こり、今年も福岡市で事故がありました。
 こんなことがあると危険な技が見直され、安全で簡素化した出初式になってしまいがちですが、消防職員や消防団員は火災の際には危険にさらされており、我々議員も来賓席でストーブを用意してもらうのではなく、一緒に整列していたい心境です。
 
出初め式ではしごから転落、けが 福岡市の消防職員
 
 さて、津島市のはしご車はマンションの14階まで届くとの話で、市内のマンションも14階の高さ制限があるため、高層階に住む人々も安心はできるものの、真下にはしご車を停めるスペースがないため、更なる対策が必要になりそうです。
 
イメージ 6 津島市では消防出初式とあわせて成人式が行なわれることから、本日も市長をはじめ我々議員も会場となる文化会館まで大急ぎで移動となりました。
 
 添付した写真は、会場の緞帳が下りた、成人式が始まる前の舞台裏ですが、緞帳が上がるまで会場の様子が判らず、開いた瞬間に金髪ハカマ姿のヤンキーが日本酒のビンを持って舞い上がっていた年もあり、緊張の一瞬でもあります。
 
 幸いなことに、今年の新成人は落ち着いており、開会されるまで騒いでいた新成人も存在したものの、開始後は真面目に座り、暴言もほとんどない静かな成人式となりました。
 
 成人式そのものは、新成人となる実行委員の人たちが企画して運営されていくため、我々の時代とは様変わりしていますが、最近は儀式が簡素化されていく傾向にあり、出初式だけでなく成人式や各種行事へ市民全体で関わっていく関心が必要と思う一日ともなりました。
 
                                    1月13日の一言

67年目となる終戦記念日を迎え

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長福寺(津島市葉苅町)に建つ我家のお墓
 
 戦後67年目となる終戦記念日を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれ、天皇、皇后両陛下が出席される中で全国から遺族約4600人が参列した。
 
 「参列予定者は世代交代が少しずつ進んでおり、今年は戦後生まれが全体の1割を超えた。戦没者の妻は最年長の島倉ふみさん(98)ら24人で、全体の0.5%と過去最少になった。戦没者の子は3162人で全体の3分の2を占める」と朝日新聞は報じている。
 
 一方で、67年前に起きた沖縄の地上戦で負傷した住民や遺族ら40人が、国に総額4億4千万円の損害賠償と謝罪を求め、那覇地裁に15日提訴しており、当時の国や旧日本軍が住居近くに陣地をかまえて島を要塞化する一方、国際法で認められていた非武装地帯の設置を怠り、多大な住民被害をもたらしたと訴えている。
 
 この訴えを受理した司法がどんな判断をするかは不明だが、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が訴えている旧日本軍による従軍慰安婦の問題についても、同じような戦争被害だけに裁判の行方が気になります。
 また、未だに遺骨が戻っていない旧日本兵が113万人も残されており、戦没者の子息も高齢になっていることから、遺骨収集は益々困難となっていきます。我家も沖縄戦で戦死した伯父の遺骨が戻っていませんが、伯父と面識のある親族が高齢となった叔父1人しか存在せず、戦死した場所すら特定できません。
 
終戦67年、なお戻らぬ遺骨113万人 行き詰まる収集
記事の続き…
 地域別では、帰還した遺骨が最も多かったのはフィリピンの約1万6千人。09~10年度だけで約1万4千人に上ったが、10年に現地の住民の遺骨混入疑惑が発覚。収集は中断している。
 フィリピンに残る遺骨は約37万人と全体の3割。厚労省は昨年10月、フィリピン側に収集再開に向けた覚書の締結を打診したが、返答はないという。
 旧ソ連は約1万4千人。1991年以降、シベリア抑留者の名簿や埋葬地に関する書類が日本側に引き渡され、収集が続いている。
 インドネシアでは、国内法で遺骨が文化財とみなされ、持ち出しが禁じられている。このため収集できたのは、特例で認められた2009年度の10人だけだ。日本政府はNPO法人に遺骨の所在調査を委託し、インドネシア政府に収集を認めるよう求めている。
 戦争を経験した世代が高齢化するなか、厚労省は「確たる情報があった場合に収集を実施する」(社会・援護局)との立場で、劇的な進展は望みにくい状況だ。(北沢拓也)
    ◇    
 〈戦没者の遺骨収集〉 厚生労働省によると、沖縄と硫黄島を含む在外戦没者の遺骨は終戦直後、計94万人を日本軍や帰還兵が持ち帰ったり、米軍が送還したりした。
 1952年のサンフランシスコ平和条約発効後、日本政府が調査、収集を開始。大規模収集は75年度で終わったが、その後も遺族会や戦友会、NPOに調査を任せる形で続けている。2006年度からは、帰還率が低いフィリピンなど4地域、10年度からは硫黄島での収集を強化している。03年度には個人の特定にDNA型鑑定も導入した。
 
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 右に添付した植物はバジルで、6月末にタネを蒔いたものがやっとこんな状態となりました。バジルの育て方を調べると、新芽をつまんで食すると、横から次々と新芽が出てくるとあり、挿し木でも簡単に発芽する事から、栽培そのものは難しくありませんが、人間が好むものは虫からも好かれ、一緒に植えられているレモンバームやアップルミントも忘れていると虫に食べられて茎だけにされてしまいます。
 農薬を使えば簡単な事なんでしょうが、食べる目的で栽培しているハーブですから、安易に薬を使いたくありませんが、一日中見張っているわけにもいかず、本日は室内へ一時避難させました。虫が嫌って寄り付かないハーブもあることから、一緒に置いて防虫対策にしたいと思います。
  
7メートルのヒマワリ、大輪咲かす こつこつ育て26年
 
 大阪では、26年前からヒマワリを栽培し、毎夏、その年に最も高くなった花の種を植えるのを繰り返し、7メートルを超える高さになるまで、こつこつ育ててきた人の記事が紹介されていますが、こんな苦労を聞かされると初心者を実感させられました。
 
                                    8月15日の一言

風化していく盆の供養に

 今年もお盆の時期となりましたが、東日本大震災の被災地も2度目の盆を迎え、新聞やテレビを通じて各地から話題が届けられてきますが、深夜から未明にかけて行なわれていたオリンピックによって生活パターンを変える必要に迫られています。
 
被災地に2度目の盆 岩手・大槌に朝市
 
 本日は朝から隣の尼寺から住職が訪れ、午前中に檀家となっているお寺の住職が、僧職にある叔父と共に訪れ、2人で読経後に昼食を共にしてから、住職は檀家廻りに走り、私は叔父を送りました。
 叔父と住職がお盆の13日に我家で昼食をとる習慣は、2人が小僧時代の戦後まもなく始まり、2人で自転車を使って檀家を廻るものの、お寺から距離があることから、叔父の生家である我家で昼食と休憩を取り、再度檀家廻りに出発していた事の続きで、叔父の体調不良で風前の灯火となっているものの、一度も途絶えることなく続いてきました。
 
 食事の準備も大変で、昔のように家にあるものを出すわけにはいかず、相手をしていた父親も亡くなっており、叔父は盆行には出なくなり、住職も私の町内は廻らないことから、こんな習慣は止めたらと思った時期もありましたが…
 
 しかし、こんな習慣は叔父の体調と年齢を考えると長くは続かないし、住職も昼くらいは自宅に戻ってゆっくりとした方が楽な中を、わざわざ叔父を迎えに走ってから来られることから、最近は一年でも長く続くように祈るようになりました。
 
 さて、我家では13日からお盆が始まり、15日にはお寺で施餓鬼法要が行なわれますが、市役所や公務員は平生どおりに仕事をしており、夕方訪れた今年が父親の初盆となる知人(公務員)は、浄土真宗では盆の供養も何も無い事を不思議に語っていました。お盆は先祖供養と思っていましたが、最近は盆休みでしか無いのかもしれません。
 
 さて、先月に徳島市の阿波踊り会館を訪れ、阿波踊りの魅力を体感してきましたが、本日の朝日新聞(アサヒコム)には記事だけでなく映像も添付されていた事から、ここに転載するとともに読み直して阿波踊りを体感したいと思います。
 
                                      8月13日の一言
 
延べ10万人が「踊る阿呆」に 徳島の阿波踊り開幕
  
阿波踊り開幕 84歳「踊る阿呆」の真骨頂 
朝日新聞記事の続き… 
 「うちわを強弱をつけて振る、あの動きができない」。他の踊り手がうらやむのが、四宮さんの独特の手さばきだ。コツを尋ねられると「自分の好きに動かしているだけやけんね」と煙に巻く。
 「あの人が連に入ったころは踊りがごっつい下手で、やめーと言われたと聞いたことがある」
 そう語るのが19歳の時、娯茶平に入り、鳴り物一筋57年の松下宗二郎さん(76)。松下さんによると、四宮さんは自分の店にあった全身を映す鏡を居間に持ち込んで毎晩練習をし、今のようにうまくなったという逸話がある。
 三味線を弾く者にとって、四宮さんの踊りは「弾きがいがある」という。松下さんは、踊りを瞬時に見て、踊り手がどう弾いてほしいかを読み取る。ところが、四宮さんは踊りの最中に、足さばきを変え、踊りを少しずつ崩してくる。松下さんも負けじと弾き方を変える。
 「努力したんよ。努力の中から踊りのセンスがしみ出してきて今の踊りがある。みんなで踊りを合わせることが大事とされる今の時代、あんな踊り手は少なくなった」
■「心磨く」根は一緒
 昨年5月、徳島市の姉妹都市の米国ミシガン州サギノー市。交流会の会場で、訪問団の一員だった四宮生重郎さんが阿波踊りを1曲踊った。すると100人を超える観衆が総立ちになって拍手。曲は米国人におなじみのマイケル・ジャクソンの「スリラー」だった。
 「行った先の音楽で踊ると、踊りの楽しさがより伝わる」。阿波踊りの「表芸」と「裏芸」を使い分ける四宮さんの真骨頂だ。
 四宮さんの言う「表芸」は、鉦(かね)や笛、三味線などが奏でる「ぞめき」で踊る阿波踊り。戦後、高度成長期とともに阿波踊りの人気が高まり、隣県の高知や愛媛、東北の宮城や沖縄からも夏祭りや結婚式、宴会で踊ってほしいと依頼が舞い込み、海外にも出向いた。
 「阿波おどり振興協会」理事長で「天水連」連長の山田実さん(59)は、そんな阿波踊りの人気の理由を「間口の広さ」という。「鎮魂の踊りでありながら、ぞめきの心が浮き立つようなリズム。十人十色の踊りが許され、誰でも参加できる『にわか』なところが受け入れられた」
 一方で、「踊りを突き詰めれば奥が見えない」。
 四宮さんは、有名連「葵連」の創設者小野正巳さんや「写楽踊り」の姓億(せいおく)政明さん=いずれも故人=とともに、踊りの名手として「三羽ガラス」「三人男」などの通り名がある。その3人を先頭に東京・銀座の通りを都内の連員約100人と踊ったこともある。「四宮さんの踊りはぶれない。ある意味で『堅い』。一方で、いろんな音楽で踊る時の型破りなアドリブは迫力があり、見ていて楽しい」と山田さんは言う。
 1967年、四宮さんらは米国・ロサンゼルス市を訪れ、阿波踊りを在住日本人に披露した。その時、観光で行ったディズニーランドで、ミッキーマウスらが楽器を鳴らして、輪になって踊る場面に出合った。
 「気分が乗ってきて、ぴゃあーと、ついね」。その輪に入り、阿波踊りを踊った。すると、周囲の外国人がアロハシャツ姿の四宮さんに手拍子を送った。
 「外国の人にも阿波踊りがわかるんだなって思って」。「ぞめき」以外の曲でも阿波踊りの魅力は伝わる。40歳を目前にして、そんな「裏芸」の阿波踊りの面白さに気づいた。
 帰国後、裏芸を広げていく。民謡で踊ってみた。かっぽれや東京音頭。リズムが自分に合えば踊れる。ジャズやマンボ、最近では「KARA」などのKポップや米国の人気歌手レディー・ガガの曲でも踊る。
 ただ「表芸」も「裏芸」も大事な点は一緒。「阿波踊りは形があって形がない。だから技を磨くより、心を磨かな、ええ踊りにならん。踊りが人生を変えた、心を変えてくれたな」
■「ずっと踊っていたい」
 四宮生重郎さん(84)の朝は腕立て伏せで始まる。30分のストレッチの後、ひざを床につけて150回。10年以上続ける日課だ。
 裸足で近くにある小学校の芝生の上も走っていた。足腰の低い踊りの姿勢を維持するためだが、裸足なのは「足の裏が気持ちいいから」。冬場も走って冷えてしまい「無理は禁物」と昨年から控えたが、ふくらはぎには力こぶができる。
 それでもこぼす。「若いころはなんもしなくても、いくらでも踊れた。今はあかんな」
 1989年、四宮さんは40年近く籍を置き、連長も務めた娯茶平を退いた。60歳を超え、「還暦も迎えたし、もう一度情熱を持って、阿波踊りをしよう」と考えた。
 高く組まれた桟敷席に囲まれた演舞場。昼間のような明るいライトに照らされた舞台で、四宮さんは舞ってきた。「でも、あの中にパッと入っていって踊るなんてことできないでしょ。あー踊りたいなと思って、すっと踊れるのが阿波踊りの良いところ」
 そんな思いで、その年の7月、立ち上げたのが「娯座留(ござる)」連。自宅のある徳島市南新町を踊り歩く。大人たちが三味線や笛を担当し、子どもらが踊りの輪に加わる街角踊りだ。
 阿波踊りでうたう「よしこの」の名手、お鯉(本名・多田小餘綾〈こゆるぎ〉)さん=故人=に三味線を頼み、5年ほど弾いてもらった。四宮さんは見物客の手を引いて、手足の出し方を教え、踊りの輪に入ってもらう。多い時は100人以上が踊りの輪に加わった。途切れた時期もあったが、今年は復活して7回目。四宮さんが先頭に立って踊る。
 「身の程 知る 過去と歩んだ道」
 四宮さんは、10年ほど前から、書に打ち込むようになった。「踊りに入れ込み、仕事をだめにしたり、色に走ったりした踊り手をたくさん見てきた。まずは仕事や勉強をした上で、踊らんとあかん」
 「人生観の絆 踊る阿呆(あほう)でござる 出会・体験・人鏡」
 書の題材は阿波踊りから得た経験や失敗。「踊りが人と出会わせてくれた。踊りを楽しんで、人に喜びを与えて、それが自分に励みとして返ってくる。その人が鏡のように自分の心を見せてくれる」
 書は毎日、毛筆で短冊やうちわに記す。集中して5時間以上、書き続けることも。作品は連員や踊りで呼ばれた先の人に配る。
 「根っから好きなんやろうね。興味が向くのは踊りのことばかり。ずっと踊っていたい」(山下周平)

全国から荒れる成人式も報道され

 全国各地で成人式が行われ、その映像がテレビから流されてくるが、岩手県陸前高田市の成人式では、東日本大震災の津波で亡くなった同級生の遺影を親から託された新成人の姿が報道され、涙腺のもろくなった私だけでなく、全国の人々の涙を誘った事と思いますが、犠牲者のためにも新成人には頑張ってもらたいものです。
 
成人式、亡き友も一緒に 岩手・陸前高田 
 
 一方で、全国各地より「荒れる成人式」の報道も多く、沖縄県では県警が総勢335人の態勢で警戒にあたり逮捕者も出ており、茨城県水戸市でもマナーの悪い成人式が報じられているが、内容を読む限りでは私の住む津島市も同じであり、地元紙には何事もなかったような報道ではあったが、全国的に荒れる成人式は改まっていないようである。
 
沖縄の成人式、今年も荒れる 5人逮捕、警官と衝突も 
水戸市で成人式 祝辞聞かぬ出席者も 
 
 さて、元旦から正月気分を続けてきましたが、成人式が済んだ事から正月気分を一新したいと思いますが、昨日の消防出初式で年齢も顧みず、若い議員と一緒になってテントの外で立っていた事から、寒気で喉と鼻をやられたようです。
 
 本日は生姜を大量に食するとともに、風呂にゆっくりと浸かり、明日から万全の体調で過ごしたいと思いますが、本日の報道では福知山の動物園のサル舎に花火を打ち込んだ若者など、許されない行為が続いており、体調不良の日に耳や目から入る事件は心を暗くするようにも感じます。
 
                                 1月9日の一言 

消防出初式と成人式へ

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 本日は津島市の消防出初式が行われ、会場となる天王川公園に車を走らせましたが、寒気は厳しいものの風のない穏やかな天候だった事が幸いし、来賓のテントには入らず立ったままで参加することができました。
 
 私自身は消防団に一年間だけ在籍しましたが、当時はPTA会長や公職を多く受けていたことから名前だけの団員で、出初式や火事の現場には一度も行った経験もなく、辞めたい一心でしたが、入れてもらえない年齢になって考えると、もっと参加すれば良かったと反省もあり、若い人には「良い経験となるよ」と話していますが…
 
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  本日は成人式も開催され、出初式会場から慌てて文化会館に走りましたが、開会する舞台の緞帳が上がった会場の最前列には、ビールを飲んだハカマ姿のヤンキ-と、サイケなサングラスをかけた新成人が大股を開けて陣取り、国家斉唱の際には舞台に上がって暴れる新成人を職員が大騒動で舞台から降ろし、市長の挨拶には花火のようなクラッカーが発射されるなど、こんな会場で来賓として紹介されて頭を下げる事も嫌になる久々の成人式となりました。もっとも、最前列の一部の新成人だけの話ですが、一部の存在で式典が荒される現場に、何もできない大人として情けない思いにもさせられました。
 
昨年の出初式と成人式 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/44568253.html
 
 もっとも、最近では我家の裏の県道を、連日のように暴走族が爆音をたてて走っており、時には1台だけのこともありますが、この1台の後ろに乗用車が列をなしている事から、何とかしたくとも何ともならない現実があります。
 
 ただし、近所のアパートに存在する暴走族の子供は、自宅からかなり離れた場所からエンジンを切って、奇抜な自動二輪を押して走りますから、こんなところに行動をいさめるヒントがありそうですが…
 
                                1月8日の一言

久々に頼もしい警察官と出会い

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 本日は小学校の入学式が行われ、私は地元で母校となる神守小学校を訪れましたが、入学したばかりの新一年生の手足は細く小さく、こんな可愛い子供たちが交通事故に遭えば大変なことになると実感させられました。
 
 写真は、式終了後に津島ライオンズクラブの役員さんから、新入生に寄付された黄色いカサが披露された場面で、私の子供たちはユズの木をもらっていましたが、防犯ブザーから最近はカサに替わってきました。
 
 来賓で招かれた津島警察署の若い警部補さんから、2つのお願いとして交差点等での安全確認と、知らない人に付いて行かない事の注意がなされ、こういった場面は初めてとの話でしたが、「助けて!!」との大声の見本に会場は一瞬静まりかえり、やさしいばかりでなく厳しい一言から久々に警察官らしさを感じさせられました。
 
 さて、どんな展開だったかは思い出せませんが、昨年10月に転勤してきたばかりの警察官ですが、若くして警部補になっているだけあって見どころを感じ、偶然にもオートバイを趣味にしている事から話が盛り上がり、私のオートバイが復活したら一緒にツーリングに行く話となり、3年前にもオートバイを趣味とする警察官とツーリングの約束がしてあった事から名刺を交換して再会を約束しました。
 
 年々年老いていく我が身において、若い人々と一緒に語れる機会は元気とやる気を甦らせてくれます。
 
 こんなことから、本当は間近に迫ってくる選挙の準備に頑張る必要がありますが、市内の老人施設の事務長さんを訪ねて、市内の現状や世間話に花を咲かせ、「何もしていなかったの」と、事務所の清掃が進んでいない事を家内から非難される夜となりました。ただし、充実した一日でした。
                                  4月6日の一言

国府宮神社に同行して

イメージ 1 本日は昨日の一言に記したように、会員さんの要望で朝から国府宮神社に走る事となり、目的を尋ねると「神社でお札と『なおい』を買い求めたい」との話で、沿道に並ぶ屋台と人で一杯となった参道を国府宮神社の本殿前まで車を乗り入れました。
 
イメージ 4 移送を依頼された会員さんは、自分の厄年から40年近く毎年参拝されており、当初はフンドシ姿で「はだか祭」に繰り出しておられたとの話を聞きながら、買い求めた「なおい」(写真左)を神棚や車にお守りとして置いてあるとの話から、私もついでに「なおい」を買ってきてもらうように依頼しました。
 
 
 神社のまん前まで車を乗りつける人はほとんど無く、参拝客は近くの名鉄国府宮駅から歩いて参拝されていますが、こんな時にタクシーをお抱え運転手にした人は天国のような参拝で、私はタクシー料金でなく「福祉有償運送」で同行していることから、料金はタクシーの半額以下での利用となります。
 
イメージ 2 幸いなことに車の予備のカギを持ち合わせていた事から、私もエンジンをかけたまま車を降りて散策したところ、山門には托鉢の僧侶2人が向き合って立っておられたが、神社の神事当日に托鉢に立つ目的とか、人々が捧げた金銭をどのように利用されるのか聞きたいところです。
 
 不謹慎な気持ちかも知れませんが、顔は菅笠で隠れており、身なりは僧侶と思われるものの、宗派とか寺院名を堂々と示して立たなければ、戦後の乞食と同じであり、修行と言われればそれまでですが、疑ってみれば僧侶の偽者かも知れませんし、金稼ぎのアルバイトかもしれません。
 
 これらの僧侶の托鉢が、後日談でも施設の子どもや恵まれない人々に利用されておれば救われますが、当地方では初詣でも神社前に僧侶の托鉢がたっており、地元の僧侶ではない事から、おかしいと疑われるのは当然で、日頃の修行や活動で人々に感化して欲しいと願います。
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 さて、依頼主の参拝とお守りや「なおい」の授受は15分もかからず、依頼主は目的を果たせて戻られたため、私の散策もこれまでとなりました。
 
 山門と本殿の間に、過去にいただいた「なおい」を返納する場所が作ってあり、早朝にもかかわらず既に多くの人々の「なおい」が戻されており、私の運転席にも昨年家内から貰った「なおい」があったものの、私はお守りを返す習慣がなく、そのまま持ち続けていることから来年は一緒に返しに来て、新しい「なおい」を授かりたいと思い、「来年も一緒に来れると良いですね」と早くも予約の受付となりました。
 
 国府宮はだか祭は、午後になるとフンドシ一枚の裸男が街中に繰り出し、夕方にはこの本殿前は裸男が「神男」に触れようと殺到し、寒風舞うこの季節でも水をかけられないと倒れてしまうほどの人だかりとなります。
 
 依頼主の話では、昔(昭和四十年代)は、裸男にかぶせる水を近くの川から取っており、汚いだけでなく砂が混ざっている事から、最後はかけられた裸男の皮膚が赤くはれて痛かったとの思い出を聞かされました。
 
 とにかく、依頼主が40年近く続けてきた参拝が無事に終わり、あっという間に帰宅となりましたが、朝の参拝客の多くが高齢者である事を考えると、もっとやさしい参拝方法(移送)を考える必要もありそうです。
                               2月15日の一言

久しぶりの雨にポストが…

 最近は天候が安定しており、本日は久しぶりの雨となりましたが、我家のポスト(郵便)係りが私になっている事から、四国遍路に出ている時などはポストが満杯になっている事が多く、本日も溢れた郵便物がポストからはみ出して濡れています。
 
 問題は当然の事として、投函された郵便物を毎日取り出さない我家にあるものとは思いますが、大型のダイレクトメールによってポストの裏ブタが開いたり、乱暴に投函された事によるポスト外に散乱する郵便物は、郵便配達の配達方法に問題があり、中身によっては責任問題になるケースも考えられます。
 
 最近では近所のコミュニケーション不足により、回覧板が手渡しでなくポストに差し入れるケース(私もやります)もあり、はみ出した回覧板から雨が降り注ぎ、ポスト内がびしょ濡れの経験もあります。
 
 本日は、ポストに差し込まれた来年のカレンダーによってポストが水浸しとなっており、郵便物もプールから拾い上げたような状態で、差し入れた業者に連絡して現場を見せたい心境を堪えて開封した次第です。
 
 世の中が便利となり、公共料金をはじめ集金が口座振込みや自動振替になっているケースが多く、カレンダーも手渡しでなくポストにねじ込んだ状態で置かれるケースがあり、せっかくのサービスが無になるどころか、顧客に迷惑となっている事を経営者が知らないとしたら不幸な事でもあります。
 
 第一に、いくら丸めてあるとは言え、大型のカレンダーを普通のポストに入れる事には無理があり、丁寧にビニールに入れてあるものの、はみ出した部分から雨が進入して郵便物を濡らす事まで気が廻らないとしたら配慮が足りません。
 
 もっとも、こんなことはガスや競争に無関係となる業者にとっては無縁の話なんでしょうが、最近ではカレンダーでも経費削減とする世情の中で、台所にでも張り出してもらえれば一年間にわたって自社の名前が見てもらえる訳ですから、もっと大切に配布されるべきとも思われます。
 
 さて、久しぶりの雨によって寒波が余計に身にしみるように感じますが、「えっ、また行くの?」とびっくりされた方もあるものの、明日は奈良に向けて車を走らせます。
 
 11月23日は「朝日旅行友の会」が会員募集を始めた記念すべき日で、今から23年前の昭和63年のスタートから、一年の中で私が一番意識している日でもあります。天候が気になるところです。
                                11月23日の一言

潘基文氏の来日であるべき話題に

 本日も所在不明の高齢者の話題が、全国各地から続々と報道されているが、年齢を下げて戸籍や住所を調べ直すと所在不明者は拡大の一途をたどる事は間違いがなく、若者の所在不明者を考えると家庭の崩壊すら感じさせられます。
 
 一方で、本日の夕刊には、昨年度の国民年金の保険料納付額が過去最低となった事が報じられている。
                      http://www.asahi.com/national/update/0805/TKY201008050446.html
 
 報道では、国民の年金制度への信頼が揺らいだことも、納付率の低下に拍車をかけたと分析し、「未納・未加入の増加で、将来年金を受け取れない人が増えるなどの影響も予想される」と結んでいる。
 
 悲惨な事故や、残酷な事件が続き、日本の歴史上で消す事も忘れる事もできない、太平洋戦争の敗戦記念日が近づいた事も忘れられそうだったが、国連事務総長潘基文(パン・ギムン)氏の来日と、原爆被災地の長崎市を訪問された記事が、戦争の忌まわしい記憶を呼び起こしてくれました。
 
                      http://www.asahi.com/national/update/0805/SEB201008050007.html
 
 国連のトップに座る潘基文氏が来日し、原爆の被災地である長崎市を訪れ、明日開催される広島市の平和記念式典に出席する意義は大きく、「長崎を訪問し、さらに決意が深まった。力を尽くして核兵器のない世界を実現したい」と発言した意義は大きい。
 
 韓流ブームで日本と韓国の関係は、かつての占領や戦いの時代から共に歩く時代となっており、潘氏の来日によってより関係が強化され、国内の沖縄に行くよりも近い距離から、国境の諍いを払拭していきたいものでもある。
  
 
 さて、日本国内の歴史や世界の歴史を見ると、いずれは武器による戦争は無くなっていくと思われるが、平和ボケとなって過去の戦争による多くの犠牲者の存在を忘れてしまってはならない。
 
 侵略戦争の悪者役となる日本であっても、国によって強制的に徴兵され、国や家族のためと信じて命を落とし、未だに遺骨が戻らぬどころか、死んだ場所すら特定されていない旧日本兵まで悪者として忘れてしまう事は許されない。
 
 私の伯父は沖縄戦で亡くなっていますが、遺骨どころか遺品さえ皆無で、絶命した場所すら判らないままですが、私は伯父の魂は靖国神社にはあらず、我家の仏壇にすら戻っていないように思えてなりません。
 
 仏教では50年経過すると「弔い上げ」法要を行い、弔い上げ後では、仏壇から戒名を記した位牌を片づけてしまう事から、太平洋戦争で亡くなった犠牲者の存在も忘れられてしまいます。
 ちなみに、今年10月には昭和36年に亡くなった曾祖母(横井庄一の伯母)の50年法要が行なわれ、にぎやかだった仏壇は父親の位牌のみとなってしまいますが、我家では位牌はそのままにする予定です。
                                     8月5日の一言
追伸
こんな話題とは無縁の世情が嘆かれます。

厳粛な消防出初式から騒々しい成人式へ

 本日は津島市の消防出初式が天王川公園で開催され、天候には恵まれて例年になく暖かい朝ではありましたが、今年は経済建設委員会の委員長ために来賓席に座る必要があり、消防団員が規律正しく整列している中で、マフラーやオーバーは許されぬ事から、暖かいといっても真冬の朝の1時間を壇上に座ったままでいると、身体が自然に震えるのを堪え、最後は足の震えが止まらず、胃も痛くなってきました。

 来賓挨拶の中には、寒さに声が震えて挨拶原稿が途切れて失笑をもらう人もありましたが、壇上は高いために風が吹き込み、一枚多く着ていくとしても、来賓が着膨れしているのも無様な事から、座って動かないままの来賓席は予想以上の寒さが堪えました。

※出初式の様子は下記をご覧下さい。
〇気まぐれ散歩道さんのブログ↓↓(勝手な引用をお許しください)
http://blog.goo.ne.jp/mako_2006/e/891d133ed1493f0c7470516a4985aeb5

 さて、本日は出初式が終わったあとで津島市の成人式も開催される事から、慌てて会場となる文化会館に走りましたが、今年の会場は騒々しく「今年の成人式は荒れる」との声も耳にしましたが、最前列に派手なハカマ姿の男子が足を組んで陣取っており、進行に合わせて出席者をあおります。

 幸いにして騒がしいだけで、かつて持ち込んだ酒を回し飲みし、騒いでヤジを飛ばしたり、会場を勝手に歩き回るような悪質なものではありませんでしたが、最初の開会セレモニーが終わって、我々来賓が退出するために緞帳が下りきる寸前でしたが、舞台にペットボトルが投げ込まれました。

 最近は成人式の内容や進行をすべて新成人が運営しており、若者に受け入れられる身近なイベントと化しているが、成人した責任と祝いの儀式として考えると、厳粛な式典であっても大多数の新成人は納得してくれると思いますが、一部の騒いで暴れたい新成人の存在が娯楽や同窓会の延長のイベントとしていたら残念な事でもあります。

 議員として、新しく成人となった若者の前途を祝うのも仕事かもしれませんが、ペットボトルを投げ入れられる舞台に、現職国会議員や県会議員と我々市議会議員が座っているのは情けなく、新成人に「選挙の宣伝のために出席している」と感ずる人がいれば議員の参加の方法を考え直す事も必要です。

 もっとも、大人でも犯罪人や酔っ払いは存在する事から、わずかな時間を座っているだけと割り切って、無関心で考えなければ問題でもありませんが、両親や周りの人々のお蔭で新成人となった事と、ただ座っているだけの来賓の我々にもそれぞれの貴重な時間という認識は持って欲しいと思います。
                               1月10日の一言

敗戦から64年が経過して

 本日は64回目となる終戦記念日であるが、戦争を知らない私の脳裏には旦那寺で行なわれた施餓鬼法要に行く日であり、高速道路の過去にない大渋滞のニュースに、平成3年より続けてきた京都の大文字送り火の鑑賞を見送る事を考えていた。

 東京の日本武道館では政府主催の全国戦没者追悼式が行なわれ、天皇、皇后両陛下や麻生首相などが参列する中で式典が開催され、6千人の参列者が約310万人の戦没者を追悼し、麻生首相の口から近隣の国々の被害者や損害に対する深い反省も表明されたと報じられている。

 数日前の一言のコメントにも戦争に関する投稿がありましたが、戦争の悲惨さや体験が語られ、それが大きく報道されてくるが、実際に自分の親や家族を失った人々の感想は聞けるものの、本当に戦争の犠牲となった旧日本兵や日本人の声は聞く事ができず、被害にあっても生き残れた人と、命を失った人では全く違います。

 グアム島で28年間敗戦も知らずに生き延びた横井庄一さんと言えども、帰国後は人間らしい生活を送っており、戦争体験者と言えども生き延びた日本兵は近隣の国々の人を虐待したり、殺戮した残酷な経験を持つ人も存在するはずで、殺人事件が起こると死刑を訴える最近の社会とは大きな隔たりがあります。

 こんなに経済的にも恵まれた社会になっても、国外の戦地で亡くなったまま朽ち果てて放置されたままの遺骨が残されている現実を考えると、戦争の反省と諸外国への謝罪が口先だけと言われても弁解すらできないと私は思います。

 古墳時代や縄文時代の遺跡を発掘する力や、太古の化石を発掘する予算の一部でも海外で放置されたままの遺骨収拾にあてれば多くの日本兵の遺骨が戻ってこれると思いますが、戦後から64年の年月の経過は戦死した親族の存在すら知らない家族となっており、国による大々的な施策に期待したいものです。

 さて、本日のお寺には我家から分家となった親戚も参列しており、我家から1キロ程離れた自宅からバスと電車とタクシーを乗り継いで来たとの話から、帰りは私の車で送る事となりましたが、到着した自宅で留守番の奥さん(82歳だが私の曾祖母と従姉妹にあたる)から戦前戦後の苦しかった日々の思いでを聞かされる事となりました。

 ここで共通する事は、家族の大黒柱を戦争で失った家々では戦後の混乱期を残された女性が生計を支えており、女性と子供だけの家々は地域の中でも、当然得るべき利益も後回しにされており、戦争から帰った人々の多くは戦争の反省どころか、戦死した戦友たちの家族への思いやりすら持ち合わせていなかったのでした。

 我家も沖縄で長兄が戦死し、私の父親は戦後しばらく満州から帰ってこれなかった事から、父親の祖母と十代の妹が家を守っており、国の実施した農地解放についても、「女では大変だから」と我家の得るべき土地は全てが町内の人々の手に渡っていました。(親戚も同様だったようです)

 とにかく、戦後の混乱期においては、戦地から帰った旧日本兵の多くは戦争の反省どころか、生きていくためには人を泣かせた人も多く、尊敬する鶴田浩二さんのように、遺骨収集や戦没者の慰霊に力を入れた人は稀な存在だったようです。
 
 我家の伯父も未だに戦死した沖縄から遺骨は還っておらず、戦死した場所すら特定できないばかりか、沖縄県に問い合わせても連絡すらない現実の中で、戦死した伯父を知る家族は皆無となっている現実と、我家の後継者すら特定できない現実から、風化した戦争や家族環境も実感させられます。
                                  8月15日の一言

真面目な卒業式の陰で…

 本日は中学校の卒業式があり、私は地元である母校の卒業式に出席した。我家は末子の三男が高校生になっており、保護者として出席することは今後もないが、平成6年にPTA会長として出席し、平成9年からは同窓会長として本年まで出席してきたが、この中では今年が一番落ち着いた卒業式ではなかったか。

 平成11年に議員になってから荒れた卒業式も目にしたが、落ち着いた中でも学校を不登校の生徒が依然と多く存在し、高校進学後に退学する生徒も増えていると聞こえてくることから、落ち着いて見えるだけかもしれないが、別れから涙を流す女子生徒も多く存在した。

 今年の卒業生は240人(女子118名)で、母校の卒業者数は昭和50年から200人を超え、60年に300人台に入り、62年の352人を最高に、平成1年からは200人台の卒業生で推移しており、我が地域では少子化の波を新たな人の流入がカバーしているものと思われる。

 さて、自分が卒業した昭和44年とは比べ様がないが、この十数年の間にも卒業式は様変わりし、来賓の数は増えたものの、卒業式の簡素化により緊張感も希薄となり、見た目は華やかになっているものの、出席する保護者の姿も様々(目を疑う様相)となっている。

 都市化の影響かどうかは判らないが、他人のことには我関せずなのか、学校の卒業式が卒業する生徒の家庭や保護者だけの問題となり、地域の行事として話題にされることもなく、「えっ、今日が卒業式だったの」とか、ラジオで聞いたとの話は、地域の関心事から学校や子供達の話題が確実に減っている。

 地域の人々と学校の距離は確実に隔てられ、学校長の名前は勿論だが、学校の先生の顔が地域でまったく見られないことも都市化の影響か、時代の流れなのか…
 私は伝わってこない生徒の動向と、卒業した生徒と学校をつなぐ糸が完全に切れ、卒業したら縁切りのような薄情な現状から、横道にそれていく少年の存在に淋しさも実感する。

 病気から非行に走り、退学必死だった私には「絶対に高校を辞めてはいかん」と言い続けてくれた恩師が存在し、高校5年生を経験した事から、地域から乖離した学校に淋しさを感じるだけでなく、静かに進行した卒業式の陰にスポットを(3月議会中にも)当ててみたい…。
                            3月6日の一言

恩師に案内を忘れた同窓会では…

 本日は1年に一度の中学校の同窓会総会が開催されましたが、昨晩から私の心の中に一抹の不安があり、それが早朝より現実となってはじめて、会長としての責任を痛感する事となりました。

 昨晩、戦後になって新制中学が創立されてから十数年勤務された最古参の先生に、出迎える車の配車時間を連絡したところ、毎年楽しみにしてみえる総会について認識されておらず、「理髪店に行く時間もないなァ」とつぶやかれたのであった。
 車を配車する時間を約束はしたものの、昨日開かれた元教育長の葬儀会場で出会った恩師から、総会の時間を確認されたことから、案内となる同窓会報が届いていない可能性も危惧していたのであった。

 それでも90歳に手が届く恩師の話ゆえに、忘れられたものと解釈し、車で二人の恩師を迎えて学校に到着すると、例年であれば早々と到着して校庭を眺めてみえる恩師達の姿はなく、玄関の受付にも記帳された様子もないため、教頭先生に確認すると「どこまで案内して良いか判らず、してありません」との言葉が返ってきたのであった。

 やはり、昨晩の一抹の不安が的中し、案内がなければ出席の可能性もない事から、私の迎えに行った恩師と昨日確認された恩師の3人のみとなったのである。例年であれば10名近い恩師の姿があり、「先生の同窓会」と皮肉まじりに語られた総会に、恩師への案内が忘れてあったのである。

 「今からでも連絡したら」との声もあったが、もう後のまつりである。昨年の総会で、「そろそろ、会長を辞めたい」と発言した私に、「後は大丈夫か」と厳しく言われた恩師の姿もなく、役員会のような総会になってしまったのである。
 ただし、卒業生の物故者法要は真剣である。お寺の住職が卒業生であり、先代住職は中学創立当初からの恩師である事から、二人がかりの読経と、先代の法話は物故者となった教え子を偲んで年々重みを増してくる。

 さて、本来であれば「どうなっているんだッ」とグチも言いたいところだが、引退を意識すれば自分自身にも確認を怠り、学校任せにしていた責任は重大である。昨日の桑田選手への激ではないが、このままでは終われない。引退を前提ではあるが「来年はこうしたらどう?」と適切なアドバイスを頂いたのは、十数年前に私がPTA会長を務めた時の校長先生であった。引退するから責任放棄では済まされない事を実感する一日となった。
                                  8月19日の一言

62年目の終戦記念日に…

 太平洋戦争が終わって、本日で62年の歳月が経過したが、新聞やマスコミの報道スペースも目減りした感は否めない。日本の全国各地で、戦没者の追悼や平和式典が開催されているが、ここでは、日本の身勝手な侵略戦争による近隣諸国の多くの犠牲者に対する哀悼と、人々に与えた苦痛を反省する一日としたい。(関係する映像をゆっくりご覧下さい)

太平洋戦争へ(アメリカ) http://jp.youtube.com/watch?v=fMQTFEMUlTw
太平洋戦争開戦ラジオ放送(日本昭和16年12月6日) 
               http://jp.youtube.com/watch?v=r4xKhHfLB0s
南京大虐殺 http://jp.youtube.com/watch?v=FMKZzZREqh8
        http://jp.youtube.com/watch?v=RdGcvly2B54

学徒出陣(昭和18年) http://jp.youtube.com/watch?v=4eATXw4QxYE
南太平洋戦線 http://jp.youtube.com/watch?v=a32BOVCQGD4

山本五十六連合艦隊指令長官戦死 http://jp.youtube.com/watch?v=BfJw6qlFGbg
沖縄地上戦 http://jp.youtube.com/watch?v=pbo1fyeaZ9s
本土空襲 http://jp.youtube.com/watch?v=BfJw6qlFGbg

神風特別攻撃隊 http://jp.youtube.com/watch?v=07Qq8R3f-94 
         http://jp.youtube.com/watch?v=QsGJ1ZCxpAQ
東京大空襲(昭和20年3月) http://jp.youtube.com/watch?v=5yJLhZescY8
広島物語 http://jp.youtube.com/watch?v=swGpI48F6xU

 人間が一人殺害されても大事件として報道される現代において、過去の事とは言え、多くの人間が虫けらのように殺され、街ぐるみで焼かれた太平洋戦争の歴史を二度と繰り返さないためにも、戦争を体験していない我々が後世に伝える責任を痛感する。

 広島、長崎、東京と、自国の被害については被害者のように訴えて平和が叫ばれるが、日本の侵略戦争によって家族や肉親を殺戮された中国や朝鮮の人々への謝罪が十分とは思われない。膨大な資料の限られた一部分ではあるが、我が身に置き換えて考えてみたい。
                          8月15日の一言

お盆

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 本日はお寺の施餓鬼法要が行われましたが、来客によって予定より一時間遅れの参拝となりました。先祖の逆鱗に触れたのか、我家の墓はフライパンのように熱くなっていました。
                             合掌

それぞれの戦後に…

 本日は長崎に原爆が落ちて62年目となり、現地では犠牲者の慰霊と平和祈念式典が開催された。広島と並ぶ原子爆弾の被災地であるが、久間発言に対する抗議は強いものの、逆に久間発言によってマスコミの扱いが多いのも、皮肉のように思われてくる。

 「久間さんの発言は許せないが、あれで原爆の脅威がもう一度、国民に思い出された意味は大きい」との発言は、長崎県被爆者手帳友愛会の会長を務める松本七郎さん(75才)の言葉である。原爆の悲惨さは言うまでもないが、あまりヒステリックに叫ばれると、「空襲で焼け死んだ人々の悲惨さも同じ」との反発を感ずるが、松本会長の発言は当事者だけに説得力があり、「戦後生まれの議員が増えた。核武装や憲法改正と簡単に言うが、原爆や戦争についてどれだけ認識しているのか」の言葉に、戦後生まれの一人として真摯に耳を傾けたい。

 私が戦争そのものを意識したのは、昭和47年1月にグアム島から横井庄一が発見された時にさかのぼる。当時は不良の部類に入る高校生だったが、横井庄一の親族だった事から、関係して発行される本や雑誌から、戦争を見る事になった。ただし、当時の横井庄一は時の人であり、その後においても生き残って発見された事から、戦争の悲惨さは感じてはいなかった。

 しばらくして、私の生涯において信奉する「鶴田浩二」の唄のファンから、世の中にビデオが普及しはじめたことにより、鶴田浩二の映画を見るようになり、彼が海軍の生き残りで、機会がある度に戦争の悲惨さを訴え、映画で演じるとともに自前で遺骨収集をしている事を知る事となった。しかし、これも悲惨さよりも鶴田浩二の魅力に酔いしれていただけであった。

 平成5年7月2日、私の父親が65才の生涯を閉じた。父は戦争中に中国の満州鉄道に勤務しており、その関係から満鉄の吉林会(ちいりんかい)に入っており、亡くなった後にも仲間から連絡が届き、中国で世話になっていた現地人と手紙を交換し、ラジオ等を送っていた事も知る事となった。中国残留孤児の住所が自分のいた場所に近いことから、厚生省に連絡し、中国語で彼らと話したり、退職後は中国の現地にも渡っていた。

 親が亡くなって初めて親の過去を調べ、その関係から戦死した親の兄の存在と、戦死した伯父が戦地から我家に送ってきた20通の手紙を見る事となった。横井庄一が我家に送った2通と併せて読み直すと、戦死したことになっている伯父は死ぬつもりもなく、生きて還るつもりで手紙を出している。又、満鉄職員から少年兵へ志願したい私の父に、「絶対に志願するな」と手紙を出した事や、自分の弟となる私の叔父や叔母の心配まで綴られている。

 私にとって仏壇に飾られた遺影として、声も聞いた事がない伯父の存在であったが、父親の志願を止まらせた事が我家の現在につながっている事を実感した。前にも記した事があるが、伯父は昭和19年6月21日時刻不明沖縄本島小渡で戦死している。しかし、沖縄県に問い合わせても地名すら特定できず、連絡すら皆無である。

 グアム島から横井庄一が発見された時、「うちの兄貴も何所かで生きている」と私の父は話していたが、本当に生きていると信じていた様子でもあり、それまでは私を戦死した兄の生まれ変わりと思っていたフシもあり、そう考えると横井庄一記念館で留守番をする度に、伯父の戦死した場所に立ちたいと思うようになってきた。ただ、私の自己満足だけでは伯父もうかばれない。戦後生まれの私に何ができるのだろうか…。
                               8月9日の一言

そういや、あんたも痩せたなァ

 「あっ、今日は川ざらえ(町内の農業用水の清掃)だった」の声が枕元で聞こえてきたが、まさか自分が行くとは思ってもおらず寝ていると、「お父さん!」とご指名である。時計を見ると7時50分で、8時からの行事に起こされたのである。(〇△×…×〇)まさに神業の出動でもあつた。

 眠気眼で用水を歩いていると、農業用水が生活排水(廃水)と化し、捨てられたゴミはまさに家庭ゴミや空き缶、コンビニから出たゴミに溢れている。「本来は農業関係者ばかりではなく、全住民参加で実施すべき現状」と思いながらも、世間話をしながらの2時間半の行事だから、一年に一度くらいはこのままでも良いかと納得して終了となった。

 最近では、農家より新しく転居された人々の方が多いが、先祖代々住み続ける人々にとっては、仲間意識と村の良き伝統を伝える貴重な機会ともなっている。

 「おい、痩せたんじゃないか?」、「うん、糖尿病だッ」、「そうか、オレも痩せたけど大丈夫かな」、「そういや、あんたも痩せたなァ」と、終了後に同級生と二人での会話である。自分では痩せた事が嬉しく、「大鹿さん痩せた?」と問われると、「そう、ガンでね」と冗談で答えているが、同級生の一言は同年だけに深刻に聞こえてきた。

 さて、選挙も済んで一段落し、過去から継続する仕事やスケジュールをこなしているが、私と共に議会活動を希望する議員も出現し、自分勝手の『一匹狼』を続けてきたが、先輩議員としての責任を痛感するとともに、先々でストレスとならないように考えていきたいものでもある。
                              4月29日の一言

金婚夫婦の人々にあやかりたい

 本日は市政施行60周年記念津島市表彰式が開かれ、特別表彰2名、永年勤続表彰22名(市職員以外)、一般表彰7名の表彰が行なわれた。
 毎年の例年行事ではあるが、市民の中にはこの表彰に批判的な声も存在し、「大鹿さんは絶対に辞退してよ」との意見を聞かされた事もある。議員としては、「公選による同一の公職に10年以上在職した者」の項目が永年勤続表彰の条件となり、20年以上在職すると特別表彰の対象者となる。

 さて、「辞退してよ」の声は、そんな事に惑わされずに頑張れのエールとも思われるが、市政に批判的な市民の声には、市政のすべてに批判的で否定的な雑言も存在する。その場になってみないと判らないが、人にアレコレ言われて頭を下げてまでもらいたいとは思ってはいない。

 実は、私個人ではないが、平成4年に小学校の同窓会を代表して一般表彰を受けた事があった。この時の対応が面白く、滑稽であり未だに印象に残っているが、同窓会で石の記念碑を寄贈した事による表彰であったが、行政の担当者から寄贈した記念碑の費用が100万円を超えたかどうかをしつこく聞かれたのであった。つまり、「公益のため100万円以上の私財を寄附した者」との項目が一般表彰の条件にあり、「どうせなら100万円以上の寄附が良いですよ」との声があったのであった。表彰のために寄附をしたのではないが、この規定を意識した寄附があるとすれば滑稽でもある。

 本日は、表彰式の後に市内在住で結婚から50年が経過した「金婚夫婦を祝う記念式」も開催され、52組のご夫婦が出席された。今年は昭和32年に結婚されたご夫婦が対象との事であり、私はあと20年先の話となる。もっとも夫婦とも健在であっての話であり、むしろこの時に二人とも元気で「そんなものは辞退する」と言ってみたいものである。
 ちなみに私の両親は、父が65才で他界しており、「私だって行きたかった」と母親が話していた。現実は難しく、本日の人々にあやかりたいのが本音でもある。
                                    3月1日の一言

息子の婚約者と初対面となり

 早朝3時から会報を配布しており、最近は8時から10時頃まで仮眠の時間にあてて(新聞販売店の従業員の生活パターン)いるが、本日は早朝より電話が鳴りつづけ、10時から開催された『図書館協議会』に出席し、市役所で所用を済ませ、県庁との地域セミナーの情報交換の後に帰宅すると、ボランティアのWさんが私のために汗をかいていたのである。
 「ちょっと、昼寝をしたいから」と非情に送り出したものの、深刻な相談事から来客があり、市役所と連絡していると次の来客で、結局眠れないままに夕方を迎えたのであった。ボランティアのWさんが帰宅して一人で事務所に居ると、入れ替わりに長男の車が入ってきた。緊張の一瞬であった。

 息子の帰宅に緊張とは可笑しい話と思われるであろう。しかし、車のドア-は閉まったままで、息子は入ってはこず、益々そわそわと緊張が重なってくるのであった。実は長男が婚約者を連れてきていたのである。ただし、婚約者は日本人ではなくアメリカ人で、息子が空港まで出迎えに行っていたのである。

 交際は息子の大学時代から数年に及ぶものの、本日が初めての対面でもあった。息子から「ワガママ」とか「キツイ」と聞いており、どの程度言葉が話せるかも判らずアレコレ考えていると「こんにちわ」と握手を求めてくるではないか。こんな恥ずかしい瞬間は久し振りで、息子の顔も見られぬような照れ笑いで顔がゆがんでいる。
 「とにかく座って」と対面していると、息子が私の母親を呼びに行ったのである。緊張する当方をしり目に母親が「〇×ちゃんと呼べば良いの?」、「ハイそうです」なんて会話が始ったのである。そうか、名前も知らないのは自分だけなのである。
 やっと帰宅してきた家内に「おい、コーヒーでも入れろ」と言うと、コーヒーよりコーラが好みと言う。「おい、コーラを買って来い」と息子に言うと、手回し良く既に冷蔵庫に入れてあった。ここでも一人だけ空回りである。

 昨晩にロサンゼルスを発って、今日の夜に帰ると言う。「ご飯くらい一緒したかったのに」と言い、「何が好きなの?」と問うと、「ヤキニク」との返事が返ってきた。我家はむかえが焼肉屋なのである。一緒に会食する事となり、両親の事や趣味などの話をするが、一人娘でお父さんは手放したくないとの話である。「本当に大丈夫」と父親に同情だが、「ハイ、大丈夫」と笑顔が返ってきた。予定では4月中旬には我家の一員となりそうだが、とても「お父さん」のイメージではなく「変なオジサン」のままの別れとなったのでもあった。
                                    2月21日の一言
 

天候不順が続き…

 今年の冬は暖冬とか言われていたが、当地方でも年末には初雪が降り、冬らしい寒さが到来し、本日も早朝より雪の舞う一日となった。
 本日は消防の出初式があり、道路こそ凍結していなかったものの、開式時には横殴りの雪が吹き込み、参加する消防関係者はもちろんだが、来賓席も鎔けた雪でズブヌレ状態となり、表彰式で手渡された賞状は濡れ、初めて表彰される消防団員の表彰は中止されるなど散々の天候となった。
 ただし、火災や自然災害は、天候に関係なく起きる事から、たとえ出初式とか訓練であっても、参加する来賓に配慮するような事があってはならない。出初式については先進地事例が届けられ、慣例に流されず精進する重要性も実感する。
 明日は成人式が予定されているが、早朝より着付けや美容院が予約してある新成人にとっては、気になる空模様でもある。
 さて、我々にとって寒気や降雪は、通勤や通学に影響し、風邪など体調維持にも関係してくるが、スキー場など雪が必要な地域にとっては、雪による観光収入が貴重とされているが、一方で雪国で生活する住民にとっては除雪など多大な経費も必要となる。
 名古屋市から長野県白馬村に引っ越した人の話では、雪の多かった昨年は1ヶ月30万円程度の除雪費がかかったと聞いた。これは、個人が1軒の家を維持するための経費で、道路の除雪など行政が負担する経費を含めると、一晩で数千万の経費が飛んでいくのである。
 最近では高齢化により、屋根の雪下ろしをする人材がなく、雪下ろしや除雪が大きな問題にもなっている。我々からすれば、放かっておけば良いようにも思えるが、雪国の屋根に積もる重量は我々の想像を越え、数日で何百トンにもなるそうで、家の周りに積もった雪の圧力は、四方から家を壊してしまうそうである。
 津島市にも、東北地方の農家から多くの出稼ぎがあり、冬場の貴重な戦力になっているが、雪国では高齢者が残されて苦労している現状も気にかかる。
                                 1月7日の一言
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